進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図

2009-09-30 22:24:01 | 政治
亀井静香が金融相に抜擢されたことが鳩山内閣最大のサプライズ人事であると当Blog(鳩山政権のサプライズ人事)で述べたが、就任当初から彼の言動に世間が振り回されているようだ。

亀井金融相は、現代における徳政令「モラトリアム制度」を実施すると強硬な姿勢を貫いているのだ。
下記Blogを読めば今回の騒ぎの理由についてだいたい理解できるだろう。

迷走するモラトリアム議論(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/761526.html

亀井金融相にレッドカード!(Gucci Post)
http://guccipost.jp/cgi-bin/WebObjects/12336a3d498.woa/wa/read/sq_123fce2c05d/

金融音痴を露呈した民主党(JBPress)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1824

みんな亀井静香を甘く見ない方がいい(金融日記)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51590683.html

まず、モラトリアム制度が実施された場合に起きると思われていることを簡単に説明しよう。

資金繰りに詰った中小企業の元本および利子の支払いを猶予
-> 金融機関は収益悪化が予想されるので「貸し剥がし」「貸し渋り」を行う
-> 資金繰りに困る中小企業が増え、雇用問題などの深刻化
-> 政府はこの事態を回避するために金融機関の不良債権を補填する
-> 政府が公的に不良債権を補填するために財源が必要になるので国債を増発する
-> 国民新党は200兆円国債発行することを主張している
-> (ハイパー?)インフレ

これが皮肉にも「亀井金融相によるリフレ政策」と言われる所以である。

これとも別に次のようなシナリオも囁かれている。

資金繰りに詰った中小企業の元本および利子の支払いを猶予
-> 金融機関は収益悪化が予想されるので「貸し剥がし」「貸し渋り」を行う
-> 資金繰りに困る中小企業が増え、雇用問題などの深刻化
-> 政府はこの事態を回避するために金融機関の不良債権を補填する
-> ゆうちょ銀行を国営化し、ゆうちょ銀行に債権を一本化させる
-> 国民新党が常々主張している「国民の資産」を使って中小企業を延命

ゆうちょ銀行に預けられている国民の資産を使ってハイリスクな取引はできませんというなら、国民の税金を使ってハイリスクな取引もできないはずなので、彼らの思想に基づいて考えると、国債を発行してやれることならゆうちょ銀行を使ってやれるはずだ
(ゆうちょ銀行にそんなことはさせないと思うが。税金のことを自分の金だとは思っていないから200兆円も国債発行などといえるのだ。)

-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-

そんな中、少し引き気味の視点で本件を見ているのが公認会計士の磯崎氏だ。

亀井大臣の「モラトリアム」は実はあんまり使われないんじゃないか?
http://www.tez.com/blog/archives/001463.html

先のBlogではマクロの議論ばかりだったのだが、モラトリアム制度を利用する企業側の視点に立って考えてみることも重要だ。
モラトリアム制度の利用普及度が低いと、企業側にとってモラトリアム制度を利用することは「経営不振のシグナル」を世間に周知するに等しく企業の信用を著しく毀損してしまう。
短期的な延命のために長期的な存在可能性を削ることになってしまうのだ。
(もちろん、今日・明日を生存するために躍起になっている経営者の心にこの言葉が届くことはないだろうが)


この「モラトリアム制度の適用を申請をした」という事実は、明らかに「ダメな企業」のサインです。

また、金融機関にとっても、このモラトリアム制度利用企業への貸付けがどのくらいあるかというのは、金融機関経営の不良度を図る指標になってしまいかねません。

普及の可能性があるとすれば、多くの人が使っている事実が広く知れ渡って「みんなで渡れば怖くない」ということになるケースです。しかし、中小企業は制度を使った事実を必死で隠そうとするはずですし、金融機関も、どの程度の企業がこれを利用したかは個別には開示できないはずです。

つまり、この制度を普及するにあたっては、「他の人がどう行動するか」というのが重要になり、利用が少なければますます利用したくない度合いが高まるので、しきい値(キャズム)を超えるのが非常に大変で、ことは「線形」には進まないのではないかと思います。


そもそも、モラトリアム制度を利用することになるであろう企業とは、経営改善計画など建てても見込みのない企業に限定される。
もう先が無い企業」ということになる。


銀行員は、相談に来た中小企業に対して以下のように行動するはずです。

A.モラトリアム制度を適用するほどでない優良な企業に対しては、「この制度を使ったら、後々ろくなことにならないかも知れませんよ」という趣旨のことを、あうんの呼吸で伝える。

B.見込みはまだあるが、確かに今までの返済スケジュールではキツいという企業に対しては、モラトリアム制度を利用するのではなく、合理的な経営改善計画を建てた上で、金融機関・中小企業双方の合意によって、返済スケジュールを変更する。

C. 「もう先が無い」と思われる企業についてはモラトリアム制度を使わせる。
(法律では、経営改善については求められないんでしょうか??「返済を猶予する代わりに雇用をカット」なんて法案が通るとも思えませんので、求められないのかも知れません。)


初めに挙げたBlogの方々はマクロに与える影響を憂慮しているのに対し、磯崎氏は少しミクロの部分に光を当てている。
これが今回のテーマだ。
私は、政治的紛争を解決するためには、皆がもう少し「マクロvsミクロ」という構図に着目すべきだと思っている。
今回の案件についてもいえることだが、いわゆるマクロ重視派は合理的な全体最適を指向しているが、ミクロ重視派は全体最適よりも個別最適を指向しており、両者の意見は一致することがほとんどない
政策が個別的案件に深化すればするほど全体最適から遠のく可能性が高いからだ。
両者の違いの理由は簡単で、前者は何らかの特定の物事に利害関係を持たないので全体最適指向を持つことができるが、後者は利害関係を持っているので個別最適指向になりがちだ。
前者は学者に多く、後者には政治家や弁護士、活動家などに多い。
これは、それぞれの立場(役割)から必然的に導かれる特徴であり、単純には正誤をつけられる問題ではない
完璧な政策を立案できない以上、両方のバランスをとるのが最適解だろうと個人的には考える。

そこで、亀井金融相の立場からの考察も必要ではないかと考え、続ける。

-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-<>-

亀井金融相がモラトリアム制度の導入を推進しようとする背景には、「義理人情がなくなったら日本は終わり」という彼の政治哲学がある。
今、目の前にいる生活の困窮する(企業中99%を占める)中小企業事業者を救うためで、そのことが日本の古き良き文化を荒廃から守り、それが日本国民の幸せに寄与するという考えだ。
直近数年を耐えれば、いずれ景気が回復し、中小企業は復活すると。
(景気が回復したとしても中小企業が利益を上げられる保証はどこにもないが)
今は100年に1度の経済危機であり、しかもそれは市場原理主義者達によって引き起こされた人災で、中小企業は被害者なのであるから、国家はこの善良なる中小企業を救うべきなのだ。
という考えである。

私は、苦難の最中を必死に生きる人々を救おうとする気持ちを肯定したいと思う。
その気持ちこそが人間の素晴らしさであり、非常にサバサバとした自然の中に置かれた我々にとって唯一の救いであると思う。
だが、ここで我々が注意を払わなければならないことがある

「救おう」とする気持ちは尊いが、「救う」とはどのようなことなのか、それは明確にしておく必要があるだろう。

まず、なぜ亀井金融相がモラトリアムを用いて人を救おうとしているかといえば、零細企業のオーナーは倒産を前にして自殺を図るケースが多々あるからで、これをモラトリアムによって短期的とはいえ回避することができるからだ。
この背景には、日本では個人資産を担保にとられたり、厳しい取り立てが行われたり、連帯保証人を犠牲にしたり、また経営と個人的付き合いが結び付けられているので築き上げた人的ネットワークが破壊されるなどし、倒産コストが非常に高いことがある。
さらにいえば、倒産=壊滅的破産を避けるため、無理な資金繰りに手を出すケース(家族が風俗で働くや闇金に手を出すなど)があるため、零細企業オーナーは劣悪な環境に身を置くことになり、これが生きる自身を喪失させる。
ここに倒産が畳みかけると決定打となる。

見方によっては様々な意見があるだろうが、このような凄惨な状況を目の前にしたら、たとえマクロ経済に対するネガティブな影響をわかっていたとしても、誰もが(自分が政治家ならなおさら)政治的介入による解決策を模索するだろう。
だから私は亀井金融相の人を救おうとする気持ちは肯定したいと思う。

だが、今述べたように、ここで重要なことは人を救うことであり、モラトリアムではない
モラトリアムは数ある政治的介入方法の中の一つでしかない。
政治家としての彼の役割は人を救うために最善の方法を模索することであるはずだ。
しかし、ここに亀井金融相がサプライズ人事たる最大の理由がある。
それは、モラトリアムが彼にとって模索した結果だという点だ。
我々にとってまだまだ改善の余地のある最善から程遠い劣悪な政策が彼にとっての最善であり、また彼がそのことに気付こうとしないことに我々は失望し、そして怒るのである。
私は、公権力をふるう立場にある政治家にとって最も重要な資質は無知の知を理解することだと思っている。
それは何度も当blogで述べてるように、政治というものは誤った結論を出してしまうことが多いからだ。
日本の政治を硬直化させた主な要因は無謬性にあると考えている。
過ちて改めざる、これを過ちという」である。

話が少しそれたので元に戻す。


全体最適の方が効果は高い。
だが個別最適を無視した形で政策を進めることもまた難しい。
この両方のバランスをとることが、政治そのものなのである。


変なまとめ方な上、結論がぼけてしまったが、長くなったのでこれで終わりにする。
(いや、書いてるうちに疲れたので・・)

民主主義の凄み

2009-09-30 01:37:06 | 政治
当Blogの記事(河野太郎の夏)についてttosiさんから実に核心をえぐる鋭いコメントをいただきました。


本日、電車の中で老夫婦が総裁選の結果について以下のような話しているのを耳にしました。

「谷垣さんは誰だったか前の首相(“麻生さんでしょ”と奥様)とは違って礼儀正しいし好感が持てるよ。河野は先輩を“腐ったリンゴ”と例えたり、あんなのはダメだ。谷垣さんになって自民党は良くなるよ。」

もちろん人格も判断の一つですが、自民党が負けた意味を考えれば、古いものを切り捨てなければ国民には受け入れられないはずです。ただ、こうした心に訴える手法(?)でまた昔のままの自民党が復活してしまうのかもしれないと思うと、少し残念です。


そうなのです。
一言で言ってしまえば価値観ということになるのですが、物事の価値判断の基準というのは人それぞれなのです。
このことは当Blog記事(費用負担のない便益など存在しない)でも少し触れました。

例えば「何が正しくて、何が悪いのか」といった判断は、相対的価値に基づくもので、絶対的価値に基づくものではありません。
人によって異なるのです。

多様な人が存在するのが人間社会です。
世代、性別、宗派、学派、文化、etc...などによって異なる相対的価値基準を持つ人々が同じ場、同じ国の中で共存しているのです。
あるコミュニティでは正しいことが、他のコミュニティで正しくない場合などは多々あることでしょう。
民主主義制度を導入する国では、そのような多様性の中で多数決というシステムをとるのです。
混乱しないはずがありません。
デモクラシーのコスト」です。

日本政治の部分についていえば、「人柄」による投票行動をとる高齢者は多いと思います。
(具体的な統計データを持っているわけではないです)
「人物本位で選ぶ」なんていわれたら、有効な反論なんてできなそうです。

この背景には、戦後日本政治の中で「人柄」で選ぶことに問題がなかったことがあります。
政治理念や政策構想よりも、人柄重視で問題のない時代があったのです。
そんな時代の価値観を持っている彼らに言わせれば「自民党・政府がどうあるべきか」よりも「政治家がどうあるべきか」ということの方が重要なのです。
だから麻生太郎の漢字の読み間違い失言ブレばかりに注目が集まるのです。

極論を言ってしまえば、私なんかは政治家の人柄なんかよりも政策的有用性の方を重要視します。
政策的に有能であればひらがなしか読めなくても問題ないと思います。
女性問題があろうが借金問題があろうがスキャンダルがあろうが、結果として国家・国民にとってプラスならそれでよいではありませんか。
また、ブレること自体は問題ないことです。
孔子の言葉が実に本質的です。

過ちて改めざる、是を過ちという (論語)

君子豹変することは政治家には必要なことだ。

真に、ひとかどの人物であれば、変化、変革を恐れない。
必要であれば、あるいは過ちとわかれば、
がらりとやり方、態度を変えたりもする。

ところが小人は、表面上、それを受け入れる素振りをしつつも、
旧来のやり方やメンツにとらわれ、古いやり方や、
いったん口にした自説にこだわってしまう。
(『易経』革・上六 (先奏))


政治家に対して聖人君主たらんことを求める理由はどこにあるのでしょうか?
私には、聖人君主とかけ離れた国民が政治家にそれを求めるのは奇妙にしかうつりません。

少しは話が脱線しましたが、重要なことは、我々はそのような多様な考えが共存する社会に生きており、その社会は多数決というシステムを採用しているということです。
民主主義は全く不完全なシステムで誤まることの方が多いのにも関わらず、我々は民主主義を採用しています。
なぜなら、民主主義では多数派が入れ替われることによって、結論を変えることができるからです。
君子豹変できなかったら、民衆豹変することで実質的に君子豹変を可能にすることができるのです。

我々は、確かな結論を提供するシステムではなく、確からしい結論を出し、さらにその結論を変えることができるシステムを選んでいる。
こう考えると「民主主義はくそったれだが、でも他に比べればマシ」という言葉に妙に納得するのです。

変われない自民党と変わる政治

2009-09-28 23:36:23 | 政治
自民党新総裁に谷垣氏(NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090928AT3S2800O28092009.html

谷垣候補300、河野候補144、西村候補54(山本一太)
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-09-28-7

期待に反して予想通り谷垣氏が新たな自民党総裁に選出されました。

河野氏が派閥領袖などの退場を求めたのに対し、谷垣氏は「全員野球」を訴えた。
衆院選でベテランばかりが残った自民党でどちらが勝つかはあらかじめ予想はできる
過半数というシステムを取り入れている以上、多数派が勝利するのは必定なのである。

だが、多数派が必ずしも主流ではないことは有り得る
なぜなら、数というのは変化し、変化の方向があるからだ。
人間は未来を予測しようとする。
すると、変化の方向に敏感にならざるを得ない
勢いの衰えている方と、勢いの盛んな方とでは、現状の数とは他に実態としての違いがある。
いかにタイタニック号が巨大で揺るがない存在だとしても、流氷に衝突し沈み行く中では、小さなボートにも勝てない
みな、タイタニック号を捨てて小さなボートに移ろうとするだろう。

だが、タイタニック号の威信を求める者は、どうしようもない現実を突きつけられるまで船に残ろうとするかもしれない。
タイタニック号は実績がなかったが、実績のある船であればなおさらだ。
我々人間は未来を見通すことができない。
確たる信念の無い場合、未来において成功を手にするために、最も合理的な選択は何か
それは、経路依存性に身をゆだねることだ。
過去にうまくいったことは、今後もうまくいく可能性が他よりも高い。
ロシアンルーレットよりはマシである。

しかし、これはあくまで見かけの可能性の話であって、現実の話ではない。
環境が変化すれば当然、可能性は変化している
だが、それに気づくためには環境の変化の本質を理解する必要がある。
オッズが劇的に変化していることに気づかず、これまでと同じようにゲームを進行してしまえば、ロシアンルーレットよりも最低な結果を招くこととなるだろう。
経路依存性は諸刃の剣なのでもある。

さて、私には、谷垣氏を選出した自民党は変化しない道を選んだように見える。
もちろん、そんなことを考えて谷垣氏を支持した者はいないだろう。
谷垣氏を支持した人達も変化を求めて谷垣氏に投票したのだ。
しかし、彼らにとっての変化は、我々が考える変化とは異なるのかもしれない。
それは、彼らと我々とは問題意識が異なるからだ。

私は、河野太郎が主張していた「今、自民党の(新たな)存在意義が問われている」という問題意識が正しいと思う。
自民党は谷垣氏を選び、新たな道を進む覚悟を捨て、ある意味で自民党を再定義し直したのだ
それはそれで自民党のあり方なのだと思う。

であるならば、河野氏と河野氏を支持した議員は自民党を離党し、みんなの党と合流するべきだと思う。
これ以上、彼らが自民党にこだわる必要があるとは思えない。
私は、そのことによって政党間に新たな対立軸を構築されることを望む。
民主党と自民党と似たような政党による二大政党よりも、新しい軸による対極を期待したい。

[スピリチュアル対話シリーズ][01] 人生に真剣に向き合う

2009-09-28 23:31:53 | スピリチュアル

 当Blog初のスピリチュアルネタは、自称スピリチュアリストであるS氏と、硬派BlogerであるY氏との対話シリーズでお送りする「スピリチュアル対話シリーズ」と冠ってお送りしたいと思います。
 相当脱線しておりますので、これは物語としてお読みください。

 さて、復帰後第一発目ですが、当Blogのコメンテーターとしてご活躍のttosiさんのBlogをヒントにします。

Overcome past (ttosi's English Journal)
 http://ttosi.blog.so-net.ne.jp/2009-09-25

人間の不自由さについて、坂口安吾の「堕落論」にこういう一説があります。

我々はあらゆる自由を許されたが、
人はあらゆる自由を許された時、
みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。
人間は永遠に自由ではありえない。
なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。

実に本質を突いた表現であると同時に、妙に納得させられます。が、しかし、不自由であることこそが人生の最大の意義なのです。 (このことの意味については後日) そうすると「真面目一辺倒よりも少しふざけて生きた方が気楽でよい」ということになるのでしょうか。いわゆる「人生楽しんだもの勝ち」というやつです。それも一つの有意義な人生哲学でしょう。しかし、私はそうは考えていません

私は「人生の中で起きる出来る限り多くの物事について、真剣に解答を出していくこと」には、大きな意味があると考えています。欲をいえば、その一つひとつの取り組みについて楽しめる方がよいのですが、「楽しめるかどうか」というのは第一義的な意味ではありません。人生の中で起きることには楽しめないことの方が多いのが普通ですし、それを無理に楽しむ必要もないのです。楽しめないことを楽しむ処世術というのは有意義な技術ですが、それが真剣さをぼかす技術なのだとしたら不要なものです。病巣を手術することを恐れ、痛み止めで一時期に忘れることができても、いつか病気そのものと向き合わねばならない現実から逃げることはできないのです。最も重要なことは「一つひとつの出来事に真剣に向き合えるか」どうかです。

ここから先は、私の語彙と文才では表現しにくいので、問答形式で説明します。登場人物は2人です。先に説明した自称スピリチュアリストであるS氏硬派BlogerであるY氏です。

(なぜ問答形式かって?それは後日)

真剣に向き合うことが重要なのは、なぜか。

それは、そのことが最も人生を有意義に過ごすために重要なことだからです。

なぜ、それが有意義だといえるのか。

それは、それが人生から求められていることだからです。

求められることに的確に解答すること、つまりそれがあなたの役割(生きるということ)だからであり、そこに目的を果たすという意味での生き甲斐があるのです。生き甲斐とはそういうことで、他に道はありません。

人生から求められている役割とはどういうことか。

自分自身が自分自身に与えたカルマを果たすということです。

急に論理が飛躍しているが、人生というのは自分自身に与えたカルマなのか。

そうです。

確証は?何らかの根拠があって言っているのか?

ありません。ありませんが、その気になれば理解することは可能です。

理解するためには、何らかの根拠が必要だろう。

それがあるのならば、人類は今日までの道を迷ってはいないでしょう。それに、理解することがあなたの目的ではなく、役割を果たすことこそあなたの目的です。

理解することが、重要なのではないのか。

真剣に向き合うことが最重要だと述べたのであって、理解することが最重要だと述べたのではありません。もちろん、理解度を深めることも重要ではあります。

根拠がない話を信じろというのは無理な話だ。

信じろと言った覚えはありません。信じるも信じないもあなたの勝手であり、好きになさったらよろしい。ただ、私は私の考えることを述べただけです。

・・・。理解を求めないのなら、主張をする意味も怪しくなるのではないか。

理解するかどうかはあなた方の自由です。ただ、私の述べたことが誰かの心に届くなら、私のやることにも意味があるというものです。

もう少し学際的な議論をすべきではないのかな。哲学ですら、あなたの議論より理論的だと思う。

あなたは根拠がある方が、それもより多く深い根拠がある方が信じるに値するというが、その根拠の根拠、またその根拠の根拠といって追求していけば、どこまでいっても際限がありません。あなたのいう根拠というのは、結局のところ、どこで妥協して納得するのか、という類の異なった表現でしかないと思います。

いや、あなたの話に反証可能性があるのかないのか、という問題提起だ。あなたの話は正しいのかもしれないが、正しくない可能性を十分にはらんでいる。そこを判断するためには反証可能性を基に議論をする必要がある。でなければ、いつまで立っても話が平行線だな。神学論争で終始するだけだ。

私には神学論争をするつもりはありません。私は、時がくればあなたにも理解できることを、ただ説明しているだけで、この話を聞けば理解できるとは述べておりません。ただ、理解するときがくれば、あなたは根拠など必要なく理解するはずです。この説明が正しいことは、あなたの人生経験が直感的に教えてくれるはずです。

そういう説明は詐欺に近いと思う。後付バイアスともいう。

あなたが今、信じていることが詐欺ではないという保証はありますでしょうか。あなたがたはよく信じることを間違える。それはあなたの人生も、人類の歴史も証明してくれているではありませんか。

ニヒリズムに立脚した、哲学のフリをした詐欺である可能性がある。

私の主張が詐欺ならば、あなた方のみる夢というものも自分自身に対する詐欺になりますね。あなたは希望を抱かないのですか。詐欺と詐欺でないものの違いは何なのでしょうか。

騙す意図があるかないかというのも一つの指標だろう。

騙す意図がなくても、結果として騙すことがあることはあなたもよく知っているでしょう。あなたはあなた自身を騙していないとはいえないのではありませんか。私はあなたを騙すつもりはありません。

では言葉を返そう。あなたに嘘をつくつもりはなくても、あなたの勘違いである可能性はあるのではないか。

そうですね。それはあります。私の主張は勘違いであるかもしれません。

支離滅裂だ。だったらそこまで主張することないではないか。

あなたは自分が理解しているつもりのことを人に教えたりしませんか。あなたは理解しているつもりでも、本当は間違っているかもしれない。だが、あなたはその可能性を無視して説明する時があります。自分に間違っている可能性がある時、何も主張してはいけないのなら、誰も何もいえなくなります。

やはり平行線になってしまう。そんなことを言い出したら何もいえなくなるではないか。議論する際には、共有可能な知識を基にしたある程度のバランス感覚が必要だと思う。

見えている世界が違うのだから話が平行線になるのは仕方が無いが、お互いが真剣に向き合う中で少しずつでも相互理解を構築できると思います。

相互理解は今後の課題として、話を戻そう。人生の中で起きる一つひとつの出来事に真剣に向き合うことが、生き甲斐になるという話しであった。また、それが自分自身に与えたカルマを果たすことになると。そうすると、人の一生というのは、生前にある程度決まっていることにならないか。

そうです。決まっております。

身も蓋もない意見だな。その時点でもう議論にならない。

さきほどと同じことです。

では、また話を戻そう。カルマを果たすことが生き甲斐になるから、真剣に向き合うことに意味がある。そういうことか。

そうです。

だが、それは直感に反する。なぜなら、私はやり甲斐を感じるときにカルマなどというものを全く意識していないし、偶発的な出来事にやり甲斐を感じるときもあるし、何よりも私は些細なことに喜びを感じるときがある。人生の中では、カルマ以外に生き甲斐はないのか。

厳密な意味をお伝えすることは非常に難しいのですが、回答するとなると、ありません。という他ありません。全て人生の中で役割を果たすかどうかにかかっています。小さな役割もあれば、大きな役割もあります。それに、あなた自身の役割をあなた自身が自覚しているとは限りません。

それは、役割の定義次第で、なんとでもいえると思う。私が聞きたいのは、私が喜びを感じる瞬間は、必ずしも良いものとは限らないということだ。何らかの背徳的な行為や、非社会的な行為、貧欲的な行為に喜びを感じるときもあるだろう。それらも全て役割というのか。

非常によい質問をなされます。全てあなたがあなたに与えた役割です。あなたはカルマについて勘違いをしています。カルマというのは慈善事業のことをいうのではありません。あなたが学ばなければならないことです。あなたは一つの問題を解く度に喜びを感じることでしょう。

いや、人間の感情というのはそんなに単純なものとは思えない。私は、背徳的な行為をするとき、罪悪感を感じながら喜びを感じている。この相反する矛盾した感情は、人間の脳機能の進化過程に依存する問題であると理解している。「これをすれば、こう喜びを感じる」という単純なお題目設定に人間の感情が支配されているとは思えない。

それも非常によい質問です。あなたがおっしゃることは、脳機能を使った解釈の問題で、喜びそのものの説明ではありません。喜びを感じるための条件を述べたのであって、喜びをどう感じるかは、人それぞれ固有なのです。人間が顕在意識として喜びを認識するために脳機能を活用しているという点においては、おっしゃるとおりです。

喜びを感じるのは脳の機能ではないということか。

そうです。解釈をしているのが脳です。それは人間以外の生物においても同様です。

よくわからない。では解釈の元となる感情はどこからやってくるのだ。魂とでもいうつもりか。

なんと呼ぶかはあなた方の自由ですが、そういう呼ばれ方をするときもあります。

結局、これも神学論争ということか。

私は神学論争をするつもりはありません。

・・・。

・・・。

結局、何も明らかになっていないではないか。

初めから明らかなのですが、あなたが理解するかどうかの問題です。

本当は理解させる気がないのではないか。反証不可能な立場で議論すれば、議論に負けることがない。いくらか支持してくれる人がいれば、ある程度の満足感は得られるだろうね。どこかの宗教団体みたいに。

それは相当の偏見というものです。そんなことをいえば、科学史に燦燦と輝く科学者達はみな現在において詐欺師になるのでしょうか。そもそも、自分を理解させろ、理解させれなければそちらが悪いというのは実に都合のよい主張にも思えます。

今日はこの程度にしておこう。次回はまた違う視点で議論する。


費用負担のない便益など存在しない

2009-09-23 10:44:34 | 哲学・思想
今日も内田樹ネタです。
(私は彼と考え方が似ているのです)

デモクラシーのコスト(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/09/17_1112.php

人類が誕生して数百万年、有史と言われる時代が1万年近くあるわけですが、紆余差局しつつ我々は「民主主義」という政治形態を採用しています。
(民主主義の定義は何かという小難しい話はここでは省きます)
共産主義でも社会主義でも、まして専制国家でも封建制度でもなく、なぜ「民主主義」なのでしょうか。

歴史にあまり興味のない人は、共産主義=旧ソ連的な暗い社会や、専制国家=中世の貴族社会などをイメージするかもしれません。
一部の富める権力者と多くの奴隷のような労働者というピラミッド構造に終わりを告げた制度が民主主義なのだと。
参政権や投票権を国民全員に与えられ、国民一人ひとりが主役の制度であると。
実際、私は学校で「いかに民主主義が素晴らしいか」ということを無根拠に教わりました。
正確にいえば無根拠ではなく、実態的には「いかに共産主義や専制国家がひどいか」という話の相対として「民主主義の素晴らしさ」を説かれたのです。
私が小さい頃は、熟年の先生は戦後の影響を色濃く受けており、そしてまだ冷戦下でありましたので「大きな物語」が通用する時代でした。
先生は民主主義の素晴らしさを生徒に教えるのに苦労する時代ではなかったのです。

しかし、このは教え方はフェアではありません

我々が本当の意味で民主主義の素晴らしさに気づくためには、民主主義の利点と共産主義の欠点に光を当てるとともに、民主主義の欠点と共産主義の利点にも光を当てなければなりません。
民主主義への信任が国民の思考停止によって維持されているものだとしたら、その上に成立している民主主義・政治というものもまた思考停止によって維持されているものだからです。
国民が民主主義をよりよく理解することによって、より政治が洗練されていくものだということを知ることが重要です。

では、民主主義がどのようなものなのかを内田樹の言葉を用いて考えていきましょう。


デモクラシーというのは「そういうもの」だからである。
トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で、デモクラシーはアリストクラシーに比べて不完全な制度であるが、それでも美点があると書いている。
「アメリカのデモクラシーにおいて、民衆はしばしば権力を託する人物の選択を誤る。」
しかし、そのような「間違って選ばれた統治者」たちの手で現にアメリカは繁栄している。
なぜか。
それは「デモクラシーにおいて、公務員が他より権力を悪用するとしても、権力をもつ期間は一般に長くはない」からである。(アレクシス・ド・トクヴィル、 「アメリカにおけるデモクラシーについて」、岩永健吉郎訳、『中央公論世界の名著33』、中央公論社、1970年、456頁)
デモクラシーが前提にする人間観は、人間はたいていの場合、権力を長くもつと「悪いこと」をするという経験則である。
だから、統治者を定期的に交替させるルールが必要である。
統治者が非常に有能であった場合、彼に交替を要求することは心理的にも、制度的にも困難になる。だから、できれば、統治者は最初からそれほど有能でない人間を選んだ方がいい。
統治者はただ民意の代表者でありさえすればよい。
それがアメリカのデモクラシーの本質だとトクヴィルは看破するのである。
「疑いもなく、支配者に徳と才とが備わっていることは、国民の福祉にとって重要である。しかし、それにもまして重要なのは、被支配者大衆に反する利害をもたぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。」(457頁)
トクヴィルがこの文章を書いたのはアメリカが建国して60年ほどのことである。
その時点でトクヴィルはよくデモクラシーの本質を見抜いたと思う。
有能で有徳だが、「民衆の利害と相反する」政策を行う統治者よりは、さして有能でも有徳でもないが、「民衆と利害を共にする」統治者の方が好ましい。「賢い統治者」よりは「身の丈にあった統治者」の方が好ましい。
それがデモクラシーの公理である。
私は「官僚主導」から「政治主導」へというのは、その意味でデモクラシーの「本道」だと思う。
日本の官僚たちは、必ずしも有徳ではないが、多くの場合政治家たちよりも有能である。
そして、自分たちが構想した国家ヴィジョンが「民意」に従うよりも国益の増大に資すると判断した場合には、「民意」に抵抗することを厭わない。
何が悲しくて「有能な官僚」が「無能な政治家」や「愚鈍な選挙民」の風下に立たなければならぬのか、と官僚たちは不満げに言うであろう。たしかに理屈に合わない。
だが、それがデモクラシーなのだ。
「ただしい官僚」の意見よりも「間違った民衆」の意見を優先する。
それはその方が「ただしい」からではない(「ただしい」のは官僚の方なのだから、民衆の意見は間違っているに決まっている)。
けれども、短期的にはそれで失敗があっても、長期的に見た場合にはその方が利得が大きいのである。
というのは「官僚」たちは自説に固執するが、「民衆」はころころ意見を変えるからである。
官僚の判断が仮に99%ただしくても、1%の誤りを犯すことがある。だが、そのとき彼らは「勝率99%」を理由にして、その1%の誤りを決して認めない。
民衆の判断は多くの場合誤るが、彼らは「何だかこの政策はうまく行っていない」と感じたら、100%の確率で意見を変える。
ビューロクラシーとデモクラシーの差はこの1%の差にしかない。そして、その1%が国家存亡の分岐点になることがあるという経験知が私たちをデモクラシーに導いたのである。


そうです。
民主主義というのは、全く完璧ではない考え、いや制度なのです。
他に比べてよさそうだ。というに過ぎないものです。

民主主義を表す言葉として、イギリスの元首相W・チャーチルのものがよく引用されます。
民主主義はくそったれだが、他のどれよりもマシだ。」
(かなり意訳)

彼が首相であった時は、まだ共産主義国家隆盛の時代でした。
皆が「私の考える○○主義が最も優れている!」と皆が本気で訴えていた時代です。
その中にあって彼の洞察は優れていると現代において認識されています。
(言葉だけ独り歩きしているのかもしれませんが)

確かに共産主義に欠点は多いのですが、それと同時に民主主義にも同じ数だけ欠点があるのです。
我々が民主主義を採用するのは、他と比較して優位性があると認めたからであって、絶対的優位性が確認されているからではないのです

このことは、万事にあてはまる原理ともいえるものです。
宇宙に絶対的基準なるものが存在せず全てが相対的なものであるなら、全ての問題の解はトレードオフ的なものにならざるを得ないのです。
少し哲学的な(つまり理解しにくくいい加減な)表現を使うと、何にでもなる可能性を一つの結果に確定するという行為は、何にでもなれた可能性を限定するという行為といえるわけです。
(決断という行為が常に諦めるという行為と同義語であるということと同じです)
何らかの利得(結果を確定)を得ようとすれば、必ず何らかの損失(可能性の限定)を得ることになります。
つまり、メリットの裏には必ずデメリットがあるのです。
(もし、あなたが絶対神を認める宗派等に属しているのなら無理はいいませんが・・)
内田樹がいうように、民主主義のメリットを享受するためのデメリットも同時に存在していることを理解しなければなりません。

このあたりは世界屈指の自由民主主義国家アメリカ合衆国でも大衆レベルでは十分に認識されておらず、オバマを社会主義者だと言って批判する人々が多々いるようです。
「社会主義だから駄目」とか「自由主義に反するから駄目」とか、無根拠にそういう論理を使ってはいけません。
現在の日本でも無根拠な「小泉・竹中構造改革」批判と、その批判者に対して「社会主義者」のレッテルを貼って無根拠な批判が目立ちます。
(もちろん中には骨のある有意な批判も多々ありますが。)
しっかりとお互いの利点・欠点を知った上でなければ両者の相互理解を構築することはできないでしょう。

なんだか話の途中で終わってしまった感もありますが、物事に向き合う際の基本的な姿勢についての持論を展開させていただきました。

河野太郎の夏

2009-09-23 01:08:54 | 政治
シルバーウィーク中は多忙のため更新できていません。
休み前にようやくアクセス数が伸びはじめていたところでしたので、もったいない限りです。
ネットワークアクセス・コストが高い環境にいるということの他に、まとまった時間をとることができないことが主な要因です。
ほんの空いた2,3分単位で起動&スタンバイが瞬時で行え持ち運びコストの低いポケッタブルPCのようなものが欲しくなります。
分断された時間を仮想的にデ・フラグメンテーションすると大そうな時間になるはずなのですが。
(一日のうちほとんどが暇な時間のような気がします)

書きたいことは多々ありますが、時間がないのでいつもの焼き直しです。
当Blog発足当初からの主張である「河野太郎を自民党総裁に」について少し流れが出てきた気がします。

自民党が参院選に勝つ唯一の道(池田信夫)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d5a3a2bcc1ede917c0a77ccbf76959ed

↓熱い!

河野太郎の自民党総裁選挙(YouTube)
http://www.youtube.com/watch?v=2xpD65P7kTE&feature=player_embedded

この認識がいたってまともだと思うのだが、自民党の中にいてはそうではないらしい。

自民党は総裁選で負けてよかった
新しい政党に生まれ変わることができるチャンスを手にしたのだから。
自民党の夏はこれからだ。

河野太郎か小泉進次郎をニューリーダーに

2009-09-19 00:50:53 | 政治
【正論】民主党政権発足に寄せて 永世棋聖・米長邦雄(産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090918/stt0909180303004-n1.htm

実は、私と全く同意見なのです。
以前、当Blogでも述べましたが、私は自民党が解党的出直しをするためには河野太郎小泉進次郎しかいないと思っております。
自民党の政治家一人ひとりに直接会って話を聞いたわけではないので、本当にいないのかわかりませんが、感覚的にそう思います。

昔の成功体験を引きずっている自民党のベテラン議員を見ていると、昔の自民党に戻れば昔と同じように国民から支持を受けることができると勘違いしている節がある気がします。
少なくても彼らが「保守本流」という時の「保守本流」の定義が何なのか、国民はその言葉の意味を問い直さなければならないと思います。

自民党が解党的出直しを本当に目指すのであれば、これまでとは違った形でリーダーを選ぶべきなのだが、残念ながら今回の衆院選で生き残ったベテラン議員達だけでは無理のようです。
いつもと同じことを繰り返しているようです。

ある閣僚経験者の恐るべき証言(山本一太)
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/


さて、永世棋聖の言葉に戻りましょう。
彼は、次のように述べた上で持論を展開する。

私は政治に関しては全くの素人だが、勝ち負けの世界にあって先を読むことだけが取り柄の人間である。勝負と近未来の予測を語ってみたい

彼が述べているのは、緻密な分析に基づいた予測ではない。
勝負師としての勘である。
根拠があるわけではないが、なぜかそう確信するということだ。
私が私に対して答えを指し示す、そういった感覚なのだ。


これから先をどう読めばよいのだろうか。私は、国民の大多数が少なくとも過半数は、次は自民党に勝ってもらいたいと願っているのではないかと思う。ただし、条件が二つそろわないと実現しない。一つは民主党が失政することと、もうひとつは自民が立ち直ることである。

 私は民主党の失政など願いたくもないので、自民が勝つための方策のみ書きたい。16日の首相指名はなんとか一致して第一関門を突破したが、次は誰を党首(総裁)に選ぶかにある。粛々と手順を踏んで、組織として間違いないアプローチで選んでもらいたい。最も大事なのは誰を選ぶかである。


私は政治家が勘違いをする原因は「選挙に勝ったこと」にあると思う。
「選挙に勝つ=自分が肯定された」と勘違いしてしまうのだ。
だから、選挙に勝つベテラン議員は自分が偉いのだと勘違いし、強い姿勢を持ってしまう。
だが、選挙結果というものが政治家本人に対する信任かどうかは明確ではない。
(この件に関しては後日まとめたいと思う。)

とにかく、リーダーを選ぶ際は、自民党もしくは国家にとって何がよいことかを基準にして考えるべきで、選挙に勝った偉い自分が判断基準であってはいけないのだ。
しかし、政治家というのは本当に自分は正しいと思う人の集まりで、困ったものなのだ。
「無知の知」から最も遠い職業なのである。


こんなことを書いてよいものかどうか、私は1人しか思い浮かばない。小泉進次郎氏(28)である。あっと驚く名前であろう。自民議員の中で、麻生太郎氏か小泉純一郎氏(進次郎氏の父親)か、どちらの方がより嫌われているのかは知らぬ。然れども今回、小泉進次郎氏さえ選出しておけば、次回は必ず自民は勝てると断言する。

 なぜか。まず古い体質、しがらみを抜け出せない体質を一挙に払拭(ふっしょく)できる。次に、政治家として全くの新人である点だ。明治維新の立役者はほとんどが20代であり、その情熱が新しい国を作った。シンボリックな選択ではないか。3つ目は、小選挙区で民主候補に勝利した新人であることだ。これは重要であり、おろそかにしてはならない。4つ目は、その顔、ルックスである。コワモテ幹部の多い民主党から女性層を奪い返そう。

 5点目も重要だが、小泉氏の複数の番記者情報によれば、今回の選挙中に日に日に成長して、今や父親と比肩するほどになってきた感があるという。まだまだ伸びしろがあることだろう。純一郎氏が本当に壊してしまった自民党を息子が再生するというドラマ性も楽しいではないか。イチかバチか、進次郎氏に賭けませんか。

 そのくらいの覚悟を決めなければ自民党は立て直せないだろう。若さと謙虚さのあとに「笑い」はついてくるはずだ。


ほんとにね。
選挙前の彼と、選挙後の彼は別人です。
オヤジを超える逸材というオーラを出してますよ。
過去には違ったかもしれないけれど、人は成長する生き物です。
今は違うのです。

実は、特に自民党にこだわる必要はなくて、有志はの方々で自民党を離党して新党を立ち上げるくらいで丁度いいのかもしれないけれど・・。

レビュー能力の低さを露呈した民主党

2009-09-19 00:07:27 | 政治
昨日当Blogでも取上げた民主党の記者会見のオープン化後退について、既得権益者の記者クラブ会員である既存大手マスコミはほぼこの問題について無視だが、やはりネット上では大きな議論を呼んでいるようだ。

「第四権力」の政権交代 (池田信夫)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a6467b5a671c912aa9821365a9f3d125

記者会見クローズの主犯と鳩山さんとリバイアサンの関係(神保哲生)
http://www.jimbo.tv/commentary/000585.php

新聞が書かない民主党の「公約破り」(山口一臣)
http://www.the-journal.jp/contents/yamaguchi/2009/09/post_90.html

鳩山内閣早くも公約違反? 隠れた官僚支配の温床壊せず(日経ビジネスオンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090916/204933/

首相官邸に入った直後に官邸についての感想を聞かれた鳩山首相は、官邸を外部から遮断された息のつまる場所とした上で、「情報過疎になる。現場に出て直接に国民の想いを聞きたい。できるだけ外に出るようにしたい。」と言っていた。
あの言葉は、大手マスコミに対して、そしてそのマスコミの情報しか知らない一部の国民に対してだったのか。
既に現場感覚を失ってしまったらしい。

この問題の原因については情報が錯綜しているようだ。
今のところ最も有力なシナリオは、民主党側は記者会見オープンのつもりでいたのだが、官邸側が拒んだというものだ。
官邸側の主犯格は、鳩山首相の女房役である平野官房長官だといわれている。

この話だけを聞くと、鳩山首相はこの問題を知らず、官邸側が独自判断に基づいて行動したという推測ができる。
鳩山首相のスキャンダルを封じるために、平野官房長官が汚れ役を買って出たのだとした説だ。
そして、鳩山首相本人はこの問題を知らなかったと。

しかし、私は、この説について懐疑的だ。
なぜなら、仮に鳩山氏が知らなかったとしても、(浮かれていたとはいえ)記者会見に参加している面子を見て、何かおかしいと思うことができたはずだ
自分が記者会見を行うにあたってその形式について注文をつけることは為政者として当然として、その後どうであったのか官房長官に聞いたり内閣広報室に確認をすることだって可能なはずだ。
にも関わらず何ら動きが聞こえてこないということは、鳩山首相が容認したか、黙殺したかのどちらかだ

鳩山首相擁護者達に言おう。
もし仮に、鳩山首相が今もその事実を知らないとしたら、もはや鳩山首相に期待することはできないことを理解した方がよい。

今まで自民党政権下で嫌というほど知ったと思うが、レビューのない命令などというものは存在しないに等しい
言ったっきりの発言に実行性などまるでない。
命令される側は、レビューされないのがわかれば、隙をついては好き勝手やるだろう。
これはガバナンスの前段にあるレビュー能力の問題だ。

民主党は行政をレビューできない無能な自民党を批判してきたのではなかったのか?!

この程度の問題をレビューできずに、どうして霞ヶ関官僚機構をレビューできようか。
今後民主党が闘わなければならないのは、もっと高度で難しい問題ばかりだ。

この問題は小さく見えても、実に大きな火種を内包している核爆弾級の問題である。
なぜなら、民主党という政党の本質を写しているからである。

しっかりしろ!鳩山!!
ここでガツンと真相を明らかにし処分を発表すれば、君の前に多くの人々が平伏すだろう
この人の前では好き勝手にはできないと。
これはチャンスなのだ!

と、記事を書いていたら、岡田外相が率先して記者会見を開放する宣言を行ったという情報が入った。

岡田外相 全メディアに記者会見を原則開放(スポニチ)
http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090918119.html

やるな~と思うと同時に、内閣内で足並みが揃っていないことに危惧を感じる。
岡田外相がこの問題の重要性に気づいてセンシティブに反応する一方、政府官邸が動いていないところが微妙な関係性をあぶりだしている。
これは岡田外相からのメッセージだろう。
鳩山首相はこのボールをどう投げ返すか。
より一層、鳩山首相の動きに注目が集まる形になってきた。

民主党の小さいけれど大きな裏切り

2009-09-18 00:45:25 | 政治
非記者クラブメディアを排除した鳩山首相初会見への落胆(上杉隆)
http://diamond.jp/series/uesugi/10094/

当日、一部の記者にしか開放されなかったという第一報を聞いた時、記者クラブ側の勝手な行動かと思った。
記者クラブもまた民主党が闘わなければならない既得権益者、利権団体なのである。
彼らも彼らの利益を守るために必死に抵抗してくるだろう。
しかし、その程度のことも気が回らないようでは脱官僚などできるわけがない。
抜け道、逃げ道、ズル、これらにはそういう名前がついているわけではないのだ。
「消えた年金」だって発覚されなければ、消えていなかったのである。

野党の時は気づいたことだけに集中すればよかったが、政権与党になると全てにおいて気づかなければならないと突っ込まれることになる。

竹中平蔵氏は大臣在任中にこういった。
戦略は細部に宿る」と。
私は真にそう思う。

↓このようなことを言われぬよう、細部、末端にいたるまで気を回せるかどうかだ。


 記者会見のオープン化は確かに小さな約束だったかもしれない。

 だが、足元のそうした小さな公約すら果たせないような政権に、官僚政治の打破などという壮大な改革など、到底成し遂げることはできないのではないか。


といわれても仕方がないことなのである。

少子化問題の本質

2009-09-16 22:50:34 | 社会
時間がないので簡単に。

増子化対策(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php


一見すると、それぞれの人の自由意思の結果のようであるけれど、親族形成が類的宿命である以上、それに逆らう行動をとることには、個人の意思を超えた強い規制力が働いていると考えなければならない。
人口の増減はその社会の「キャリング・キャパシティ」によって決定される(これは人口社会学の古田隆彦さんに教えてもらった)。
carrying capacity というのは一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ棲息できるか、その上限数のことである。「環境収容力」とも「環境許容量」ともいう。
グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)
人間もこの法則から自由ではない。
列島の環境収容力は1億3000万人で上限に達した。
だから、これから安定的な個体数になるまで減り続けるであろう。


私は上記の考えに同意するのであるが、しかし彼は一つ見落としている。
彼の主張が正しければ、我々は個人の意思を超えた環境条件に制約されているのだ。
であるならば、ある条件下では日本の環境収容力は1億3000万人かもしれないが、条件が変われば数値も変わるはずだ

日本の人口が減ることが環境収容力に制約された事象であるならば、逆に環境収容力が増せば日本の人口が減るのではなく増える可能性がある。
いわゆる少子化問題への適切な取り組みとしての政治の役割は、環境収容力を制限しているボトルネックを発見し、取り除くことだ
もし、生物学的限界により環境収容力が頭打ちなのだとしたら、それはそれで我々が成すべきは華麗なる撤退戦であり、少子化対策でも増子化対策でもない。
少なくても「グローバル資本主義」などというイデオロギーが本質的問題なのではない。
(でも何度も読み返しているうちにやっぱり彼と私は表現は違えど似たようなことを言いたいと思っている気がしてきました。)
彼が最初に主張しているように、個人の意思を超えた環境条件に制約されていることの結果なのだ。

本質的には、やる必要を感じなければやらないし、やらなければならないと思えばやる。
環境に適用しようとした結果なのだ。
ただ、それだけの話だ。


この話は単純そうに見えて、実はあらゆる問題について共通する本質的なことなのです。
問題の本質を、イデオロギーや個々人の資質的なものに求めると必ず誤まった道を歩むことになります。
これについては後日まとめます。

鳩山政権のサプライズ人事

2009-09-16 21:30:51 | 政治
本記事はバイアスのかかった無責任ネタです。

鳩山内閣で亀井静香氏が郵政担当相だけでなく金融担当相を兼務するという驚愕の人事が行われました。
郵政民営化のあり方については推進派から反対派まで様々な議論があり、一言ではまとめられませんのでここでは触れませんが、郵政民営化見直しを主張していた民主党が政権与党になった以上、同じ路線の国民新党の党首が担当相になることは仕方のない面があると思います。
(野党第一党の洗練化に期待する他ありません。)

しかし、金融担当相も兼務という選択は一体どういった意図による判断なのでしょうか。
おそらく、多くの人が鳩山氏の頭の中がどうなっているのかと疑問に思っているはずです。
(「サプライズはなかった」というTVコメンテーターの見識とは一体・・)

個人的には民主党議員の中で選ぶなら大塚耕平氏が適任かと思いますし、金融業界は時代とともに新しい知見が求められますので、政治家でなくても民間人ならよりよかったとも思います。
(大塚氏は国家戦略局もしくは政調にということなのでしょうか?)
そこで、当Blogでは鳩山新首相の判断を独自の偏見を基にトレースしてみたいと思います。
(人間の得意技である思考実験です。)

まず、本件がなぜ騒がれる人事なのか。というあたりから見て行きます。
早速というか当然というべきか、一部の方々から「国民新党の主張からして相当リスクのある人事だ」と懸念の声が上がっています。

まず、国民新党が主張する政策を確認してみましょう。
国民新党 2009政権政策
http://www.kokumin.or.jp/seiken-seisaku/index.shtml

詳しくは上記のリンクを辿っていただきたいのですが、経済に対する考え方は、大企業や高額所得者に増税するとともに無利子国債等を増発し、積極的財政政策を実施することで年6%成長、5年後に税収80兆円増を目指すとしています。
全政策における基本方針としては、弱者への給付を厚くし、強者に対して規制を強くする。
社会内の小規模コミュニティを重視し、分断された個人のネットワーク化を推進する。
私には「みんなで弱気を助け、強気をくじく」を目指す政党というように思えます。

個別的にみていきますと、金融関係の政策としては、下記のようなものが挙げられています。
緊急金融安定化対策について
http://www.kokumin.or.jp/seisaku/20081017.shtml
- 時価会計の無期限停止
- 自己資本比率の撤廃
- ペイオフ制度の適用停止
- 公的資金による資本注入
- など

なるほど。
ここまで短い説明をしてきましたが、これだけでだいたい国民新党がどういう政党かわかると思います。

そうです。
旧来あったと思われる(でも頭の中にしか存在しない)「三丁目の夕日」的、日本社会を目指す「社会民主主義」に根ざした政党です。
それも、北欧型の社会民主主義ではなく、国民に(見せ掛け上)重い負担を求めない都合のよい社会民主主義です
「社会民主主義」を略すと「社民党」で既存政党と重複してしまうので、公には社民党とは言えず、「国民新党」になっておりますが。
(連立が組めるのもよくわかります。)

彼らのように、古き良き日本に対するノスタルジーを捨てることができずにいる人々は数え切れないほど多いと思いますし、私には個人の情緒的感傷を否定する気は全くありませんが、人間が正確に過去を振り返ることができないことだけは忘れてはならないと思います。
我々が覚えている「過去」は、本当に「あの時の過去」なのでしょうか?
このあたりは後日、日を改めてまとめたいと思います。(宿題ばっかりたまっていく・・)

連立政権そして担当相だからといっても、民主党との数の力学からすれば、亀井氏の思ったとおりに事が進むとは到底思えませんが、このような政党の党首が金融担当相を兼務するのです。
市場関係者が騒がないはずがないわけです。

考えてみてください。
「かんぽの宿」の問題すら理解できない彼が、つまり市場のことを理解しようともしない彼が金融担当相に就くのです
市場の混乱は火を見るより明らかではないでしょうか。

時価会計の無期限停止」というのは市場の存在意義でもある重要な機能の一つの「価格決定メカニズム」を破壊する行為であります。
自己資本比率の撤廃」の具体的意味を私は理解することができていません。
党の目指す方向と間逆だと思うのですが、誰か教えてください。
ペイオフ制度の適用停止」については気持ちはわかりますが、これも目指す方向と間逆のナンセンスな政策です。
リーマンショックの複数あるうちの一つの原因は、自己責任が徹底されていなかったことによる過度な投機だと思います。
自分の行いが社会を破壊し連鎖的に自分をも破壊する可能性がある場合、投機は抑制されるでしょう。
ペイオフ制度がなぜ必要かといえば、(諸説ありますが)意識を変えるためにあると私は考えます。
公的資金による資本注入」はよくゾンビ繁殖事業などと言われるわけですが、よく考えてみてください。
老齢で自由に動くこともできないが命だけは長らえている状況を考えてみましょう。
そのまま200歳まで生きろといわれるのが嬉しいのですか。
生まれ変わって新しい命を生きようと思うのではないでしょうか。
人間にとって何が幸せかということを問い直してみて、それを企業にも当てはめてみる想像力が欠如しているのです。
進む道がなく苦しくてどうしようもなくなっている人を、どうして解放してあげるだけの優しさがないのでしょうか。
もう進む道がないのなら、新しい道があることをさとしてあげる必要があるのに、その勇気がないのです。
がんばってる人に「がんばれ」といっても無駄であり、これは指導者としての責任放棄です。
「まだがんばれ」、「やればできる」といって無根拠にがんばらせるのは根性論以外の何者でもありません。
その人を助けたつもりが、結果としてその人を苦しめることになることは多々あることです。

(少し脱線しました・・)

言葉足らずではありますが、日本経済が生きるか死ぬかのこの時に、亀井氏の金融担当相への起用は有り得ない!!
ということがなんとなくわかっていただけると助かります。

しかし!
しかし!
しかしだ!

前置きが長かったのですが、ここからが当記事の本題です。

では、なぜ鳩山氏は亀井氏を金融担当相を兼務させたかのかという疑問が残ります。

最適化理論を論ずるオペレーションズ・リサーチ(昨日知ったところによると鳩山氏は今も学会員のようです)を専門領域とするPh.D Hatoyamaが、そんな単純なこともわからず亀井氏を金融担当相にアサインするはずがありません!
私が当記事で述べたことは、もちろん全て計算に入っているはずです。
彼が座わることになる内閣総理大臣の椅子に座った気持ちで最適とは何かを考えてみる必要があります。

結論から述べましょう。

鳩山由起夫氏は、日本から「経済大国」という名の亡霊を引きずりおろし、友愛という名のもとに新しい国家を構築しようとしているのです!!

民主党のマニフェストに成長戦略がなかったことが話題になりましたが、それもそのはずです。
彼には成長戦略の必要性なんて見えていないのだから!!
彼が追い求めるものは、国民の生活が豊かになることであって、経済的相対地位なんてものには興味がないのです。
国民の全員が「3丁目の夕日」的幸せを享受できる政治を目指しているのです。
目指す世界が異なるのだから、友愛反対派のみなさんから批判を受けるのは仕方がありません

しかしながら、ここに日本ではあまり議論されることがないけれども、非常に重要な問題があります
前述したことは、社民、国民とも共通することなのですが、これは「人々の幸せ」を規定せんとする典型的な社会主義の姿なのです。
(○○主義なんてラベルが重要だとは全く思っていませんが)

精神的自由を尊重するという姿勢が見えればリベラルになるし、経済的自由を尊重すればコンサバになるといったところでしょうが、どちらでもないのでこれは典型的な「社会主義」です。
(ちなみに精神も経済も自由を尊重するのはリバタリアニズムといわれています。)
そんな社会主義政党が、大きな政府&規制強化路線を直走るのも特段変わったことではありません。

今、日本はグローバル自由主義経済の大波にのまれようとしております。
このままでは日本は強制的に激しい競争に引きずり込まれ、結果の不平等が生まれ、国民の間に不信感が渦巻くようになってしまう、だから民主党は友愛の旗印の下に防波堤にならねばならない!
そういうことなのだと思います。

だから彼らは自由主義に反旗を翻したのです。

是非ここに自由主義防衛軍として自民党が登場してくると、面白い闘いが繰り広げられそうです。
その先頭は河野太郎氏がよいと思います。
彼の割り切った性格は自民党内で攻撃力最高だと思います。
間違っても谷垣氏が選ばれないことを願います。
余計なものを捨て去ることができなければ、自民党は再生できない。

交通革命構想の必要性について

2009-09-15 22:52:37 | 社会
Commute in Tokyo (ttosi's English Journal)
http://ttosi.blog.so-net.ne.jp/2009-09-15

ありがたいことに当Blogのコメンテーターとしてご活躍のttosiさんがBlogを始められたということで、早速トラックバックを打ってみたいと思います。
自分の書いたものに反応があるということは非常に嬉しいことです。
(是非、これをご覧の皆様も気軽にコメントしてくださると嬉しいです)
私は英語が得意ではないのですが、私もがんばって彼のBlogにコメントしていきたいと思います。

さて、本文についてですが、私はttosiさんの問題提起に非常に共感しています。
それでも一昔前に比べるとマシになったといわれますが、通勤ラッシュの解決策を示さぬ鉄道会社に腹が立って仕方がありません。
首都圏以外でお仕事されている方にはご理解いただけないかもしれませんが、通勤ラッシュの現状は本当に酷いのです。
通勤ラッシュがなければ痴漢問題や暴力事件も大きく減少させることができると思いますが、日本人が物言わぬ消費者であるためか、鉄道会社は有効な手立てを何もとってくれません。
(株主は何をやってるんだ!物言う株主はどこへ逝った?!)

痴漢は、今年1月から7月の間に870件も検挙されているんですよ!
ハインリッヒの法則がこれにも適用できるのかは謎ですが、1件の裏には30倍の潜在的問題があるとすると、870*30=25,100件!ですよ!
え~そんなに~?と思ったあなた。
ちょい読みしたオペレーションズ・リサーチ学会の資料によると、首都圏で毎朝通勤通学に利用する人は約 800 万人いるそうです。
つまり想定痴漢被害者が2万5千件でも、25,100/8,000,000 = 0.3%、1000人に3人です。
これを年換算し、適当に女性比率を2/5、その内に占める若い女性が1/3程度だとすると、若い女性の痴漢遭遇率は約200人に1人になります。
体験談なんかを考慮すると、感覚的にはもっと多そうですが、電車通勤の若い女性全員に占める割合として考えればまぁまぁ妥当かと思います。
(本当は路線や時間帯なんかも考慮しなきゃいけないので、ターゲットを絞れば遭遇確立は飛躍的に上がると思います。多分遭遇率50%はかたい)
まだまだ犯人が捕まっていない痴漢犯罪は多いのです!
あなたの愛する娘が痴漢被害に合っていることを考えてみてください!

あんな環境を放置しておきながら痴漢撲滅といわれても説得力がないんですよ。
昨日の記事とも関連するのですが、電車乗る人全員に高い倫理感を求める方が無理というもので、どうしても目先の欲求のためにリスク無視して手のばす(より正確にいえば手を置いておけばよい)奴がいるんですよ。
通勤ラッシュの惨状とはまさに人間に過度な忍耐を求める修行の場なのです。
考えてもみてください。
若い女性が電車に乗る際は、常に痴漢リスクを恐れなければならないのです。
こんな世の中でいいのですか。
(それ言うなら地方の生きるか死ぬかの人達の叫びも聞け!みたいな声も聞こえてきそうですが、その話題はまた今度します)
この問題は痴漢する人を罰するだけでは解決しません。
制度的な問題をクリアにするべきなのです。

(そもそも痴漢がなぜ犯罪かという哲学的問題についてはいつか語ります)

通勤ラッシュが嫌なら、電車乗らなくてもよい地方か、もしくは都心部に住めばよいのではないかというごもっともな意見があることも存じておりますが、そこは便益と費用のトレードオフでして、私のような費用負担に耐えられない一小市民には、どうしても通勤ラッシュ環境に身を置く以外に現実的な方法はありません。
長距離チャリ通勤すればとか、転職すれば、とか「そもそも論」を持ち出されると私には有効な反論を述べることはできないのですが、あえてここでは「劣悪な環境を少し改善することで社会全体を明るくすることができる。さすれば社会全体が活性化され、生産性が向上し、社会全体に寄与することができる。」という無茶を申し上げておきます。
また、裕福でない学生が一生懸命勉強して遠くても希望した通りの学校に通うことの意味も考えてあげてください。
彼・彼女らの希望を摘むことは社会全体のためにはならないことご理解いただきたい。

そこでなのですが、一筋の希望をご紹介します。

今となっては「こんなこともあったよね」的なネタになってしまいましたが、先の衆院選でボロ負けした幸福実現党のマニフェストは大変素晴らしく、その中でも「交通革命を起こす」というところには激しく共感したものです。
(といっても票は入れませんでしたが。)
リニアモーターカー構想などもありますが、部分的に抜粋するとだいたい次のような説明がなされていました。
都市部の交通網を整備し交通渋滞をなくし、電車は2階建て車両を導入してラッシュの緩和を図る。」と。
非常に魅力的です。
なにせ通勤は毎日のことですので、交通革命政策はそのありがたみを直接的かつ深く享受することができます。
首都圏周辺人口3000万人のうち、どれだけの人が通勤ラッシュに悩まされているかわかりませんが、かなりの人のストレスを軽減できます。
(2階建てなどの輸送能力の向上が通勤ラッシュの本質的な解決になるのかという問題はまた別途ありますが)

こんなことを言うと激しい非難にさらされそうではありますが、宮崎に高速道路作るくらいなら都市部の交通整備をしっかりした方がはるかに経済効果は高く、国全体のためになると思います。
(もちろん羽田拡張とか成田-羽田間アクセス高速化とかリニア構想とか、そういった国家的交通戦略を踏まえた上で)

東京というところは素晴らしいところのようです。
(私は神奈川県在住ですが・・)
東京と言う街の魅力(金融日記)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51583681.html

あくまで、全体最適の立場に立てばの話です。
しかし、政治の世界が個別最適の塊であることを私は認識しておりますので、私は安易に全体最適路線に立てとは言いません。
せめて、都市部と地方部とのバランスを少し見直して欲しい、そう思うだけなのです。

このような議論をすると、私はよく地方の人に「地方を重視しない」ことについてお叱りをうけるのですが、私はただ公平な負担とは、最適な分配とは何かについて話し合いたいだけです。
なんとなく、都市部の人間に地方の苦労を理解させることは、通勤ラッシュに悩まされる都市部の人間の悩みを地方の人間に理解してもらうことと似ている、そんな気がいたしました。

このあたりの「国家と都市部、地方部との関係」については後日持論を述べたいと思いますが、とにかく都市部も地方部もお互いに偏見なしで語り合いたいものです。

この件に関して地方の方のコメントを歓迎いたします。


当Blogでは所属、職業、住所、性別、年齢、信条、宗派、学派に関係なく、どなたでもコメントできる環境を目指していきます。
現在、コメントは承認不要になっております。
ただし、荒らし等の行為に関しては禁止させていただいます。


リスクばっかり気にしていたら生きていけない

2009-09-14 23:07:04 | 経済
相関のファンダメンタルズ(投資の消費性)
http://d.hatena.ne.jp/equilibrista/20090911/p1

私はこのBlogのファンだ。
彼の主張には実務家特有のリアリズムの匂いが漂っている。

いわゆるリーマンショック以降、ありとあらゆるところから投資銀行を筆頭とする金融業界へ批判がなされた。
世間は、彼らが汗もかかず金を転がすだけで多額の利益を上げていると思い込んだ。
また、数学を応用した金融工学というツールを使ってリスクを覆い隠し消費者を騙したと。
確かに、一部では現実なのだろう。
麻生太郎が「株屋は信用ならない」という失言で世を騒がせたが、そういう一面もある。
金融業界に限った話ではないが、詐欺的なビジネスは何時の時代にも横行している。

ナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラックスワン」を持ち出して、金融業界批判をする人もいる。
格付け会社が「AAA」を連発したことが問題だと。
だが、格付け会社の意見を聞けば、彼らは過去に起こったことからしかリスクを判断できないので、これまで通りなら安全(AAA)だと言うことしかできない。
予測できないブラック・スワンまで考慮にいれろというならば、「AAA」は存在できないことになる
いや、そもそも「AAA」=「最上級の安全で優良な格付けを意味」という言葉に前提をつければよかった。
予想外のことが起きない限りは最上級の安全で優良な格付けを意味します」と。
生命保険だってこういう場合は保証しませんとか書いてるじゃないか。
戦争による死亡は保証しないとか、自殺はだめとか。

まず社会の構成員全員が認識すべきことがある。
我々はリスクを完全に理解することはできない

リスクというのは考えれば考えるほど無限にあり、数えればキリがないものだ。
全てのリスクが見えていたら、我々は恐ろしくて街中を歩けないだろう。
それでも我々人間が普段の生活を前向きに過ごすことができるのは「どこまでをリスクとして捉えるか」という難しい判断を、無意識的に行っているからだ。
考えなくていいリスク」と「考えるべきリスク」の判断基準は人によって異なるだろうが、その判断を生活が成り立つ程度の合理性に基づいて行っていることが重要だ
(仕事ができるマネージャっていうとこの辺りのリスク感度が高かったり逆に自覚的に低めたりできる人ではないだろうか)

タレブは、人間が目先の利益を重視しがちな(長期的なリスクや頻度の低いリスクを軽視する)理由を、人類がそのほとんどの時間を費やした野生的生活の中で身につけた性格だからだと説明する。
極端なことをいえば、我々には、リスクを完璧に判断することはできない。
全ての情報を知ることはできないので限定合理性の中でしか判断することしかできないからだ。
人間というのは、無限の可能性の宝庫である宇宙を、鉄格子ごしにしか見ることのできない存在だ

そんな人間がリスクを過小評価したからって大騒ぎする方がどうかしている。
前述したことを前提とするならば、我々は間違えるということを前提として制度設計するのがセオリーではないか。
間違えたことを責めるのは心情的には理解できるが、論理的な解決策を導いてくれるとは到底思えない。

最も、わかりやすい例が、米国の運輸安全委員会のとる方法だ。
犯人探しが最優先なのではなく、問題の原因を解明し、次なる問題発生を防ぐことが最優先なのだ。
現実を明らかにするために関係者を罪に問わず、本音を聞きだす。

さて、前置きが長くなってしまったのだが、当記事の最初に貼ったリンク先を見ていただきたい。


システムおぢさんにコメントいただいた中で、気になった部分がここでした。
皆が一斉に資金を引き上げるとき、当然のことだが、どのリスク資産も一様に価格は下落するのだと。
それらの相関は高まるのだと。
そもそも相関を一定だと仮定するのが阿呆で、それらは常に変化するのだということを、我々は肌で理解する必要があるいう指摘は、金融危機後によく見られました。
他方で、なぜ相関は変化するのか、どのように変化するのか、その背景は何か、それらをどのように用いるべきか、といった問題について、具体的に言及されたものをあまり見たことがありません。
今日は、そのあたりに光を当ててみようかと。



例えば、トヨタ株と日産株を同時に買うとき、どちらか片方のみを買う場合と比べて、たしかに分散効果を期待できるはずです。
どちらかの経営陣にスキャンダルがあっても、もう片方には普通なら変化はありません。
もちろん分散効果をあまり期待できないような局面もあるはずです。
例えば自動車需要そのものが減退すると予想されるとき、どちらも下落を避けられません。



ポートフォリオの内容によって、意図しているリスクの内容によって、投資している個別のリスク資産の相関が高まることの影響は異なります。
まず、このことを頭に入れておく必要があります。


具体的な説明は本文を見ていただくとして、本質的な問題をあっさりと述べるあたりが彼がプロであることを示している。


あらゆるリスク資産を見渡して、そのすべてに共通するもの、一部に共通するもの、ほとんど共通しないもの。
世の中に動くあらゆる要素を、そのように捉えることができるはずです。
そんなふうに、あらゆる「共通項」を探し出して、大きいものから順に頭の中で階層に積み上げてみる。
それらを、それぞれに揺らしてみる。
相関にかかるリスク管理とは、本来そのようなものであるはずです。


最後は、全部コピペ。


大切なことは、「共通項」の認識に正解など存在しないということです。
今朝の乾いた風が、どのビジネスに影響して、どのビジネスにあまり影響しないのか、その見方は投資家の数だけ存在します。
あらゆるリスク要素にかかる異なる見方は市場で交換され、世界中の投資家の総意として収束するはずで、バーゼルの連中だけがリスクを定義できるだなんて、どうかしてる。
だって今は21世紀だぜ?
銀行ビジネスを見るときも、自分のポートフォリオを見るときも、リスク管理とは、結局のところそうして世界のすべてを見ることで、より具体的には、あらゆるリスク要素を、それが誰と誰の「共通項」なのかイメージしつつ、上下左右にゆさゆさと揺らしてみる。
すべての投資家がそうやってリスクを眺めるとき、世界はより安定するはずです。
少なくとも、僕はそう信じてる。

保守的なリスク管理をしたければ、そのとき悪影響を与えそうなものを探し出す。
ロングのポートフォリオなら、皆を一斉に揺らすリスクを念頭に置くこと、結果として各資産間の相関を高めに見積もることだし、ヘッジファンドなら、あまり共通項を持たない個別のリスクに着目すること、結果として各資産間の相関を低めに割り引いて考えること。



あらゆる相関には理由があるはずで、それらを探し出すことは実は投資の出発点なのだけれども、なぜなら、それらをすべて考慮して構成したポートフォリオのリスクに対して、投資家はプレミアムを要求するわけです。
それに値段をつける。
つまりすべてに。
ああ、またしてもCAPMに戻ってきた。
逆襲シリーズとして書いてもよかったのかもしれない。


彼は最近まで投資銀行でヘッジファンド運用をしていたらしいが、実際の現場の感覚っていうのは、世間で言われているよりずっとリアリズム指向だと思うんだ。

彼らは彼らにできることと、できないことがわかっていて、それでリスク管理している。
リスク管理に絶対があるかのような勘違いを流布しているのは逆の立場の人達なんじゃないか?


なんて記事を書いていたら極東ブログに似たような記事が。

[書評]脳の中にいる天才(茂木健一郎編・竹内薫訳)(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/09/post-cdde.html

う~ん、言わんとしているところはわかるけどむずい・・。

河野太郎が出る?!

2009-09-13 22:47:16 | 政治
初めに書いておきますが、この記事はいつにも増してかなり適当です。

河野太郎が自民党総裁選挙に意欲とな?!

そういうことであれば是非応援したい。
自民党で大きな可能性を感じる政治家は彼と小泉進次郎ぐらいだ。
今回の衆院選で小泉進次郎が意外にまともなのにビックリした
ってかみんなそう思ったんでないの?
私は彼について何も知らないが、でも見たらわかる。
やるやつは見たらわかるんだよ。
個別的能力において優秀かどうかの問題じゃないんだ。
資質の問題だよ。
企業の人事面接官だって長年やってると部屋に入ってきた瞬間で90%わかるっていうでしょ。
(多分、経験したことある人なら理解していただけるだろう)
問題は常にオヤジの影を見てしまう有権者からのプレッシャーに彼自身が勝てるかどうかだ。
選挙演説だって聴いたらすぐわかるでしょ。
この政治家には何か可能性を感じるだとか。
オバマがその代表例だよ。
(彼は今苦しい立場みたいだけど)

ベテランでまともなのは石破氏だけ。
私は常々政治に必要なのは「弱点と不知を認める勇気」だと思っているから、自分が賢いと思っているような政治家は嫌いなんだね。
無知の知」って2500年前の言葉なんだが、未だに理解されていないようだ。
自民党若手とかいってさも自分達が正しいこと主張しているかのような動きとか醜いしね。
残念だけど。

谷垣氏がいの一番で声を上げたが・・彼が総裁なら自民はあと数年這い上がれないだろうね。
彼には問題しか見えていない。
いや、本音をいえば「つまらない」の一言。
消費税の話すれば誠実だと思ってもらえるとでも思っている節もある。
政治の責任って、おいおいそんなことで責任をとれると思ったら勘違いだぜ。
散々無責任なことしておいて、そこだけ非連続的な解説は許されない。
今日というのは昨日から続いているんだ。
諸先輩方の所業を総括せずに先に進もうたってそうは問屋が下ろさんぜよ。
それに彼に改革ができるとは思えない。
無茶できなさそうだし国民に対して思考停止を促せるカリスマ性を感じない。
私が鳩山だったら谷垣が野党第一党の党首だったら嬉しいもの。
小さな政府になったら任せてもいいんじゃないか。

根拠もなく自民党と彼を批判するのはよくないことだが、床屋談義程度の愚痴とでも思ってもらいたい。
ちょっと程度が低い記事になってしまったかな。

「あるべき論」と「するべき論」を分けて考えてみる重要性

2009-09-13 15:20:50 | 政治
少し前に池田信夫氏が発起人のアゴラにて↓のような記事があったのでコメントをしてみた。
(livedoor IDはadvanced_futureです)

あとだしジャンケンでも良いと思います ―中川信博―

政治や経済ネタなんかについてはネット上の議論が最も(好き勝手言えるという意味でも)先鋭的なのだが、どうしても原理的なものになる傾向があると思う。
同じくアゴラ管理人である池田信夫氏は元NHKディレクターというだけあって、政策実現の裏にある政治的障害をよくご存知のようで政治的実現の難しさを前提にして(かつそれでも先進的な)提案をしている。
一部には彼の都合のよい解釈・引用について批判もあるが、私は彼の少し強引でもそういう切れ味の良さを高く評価している。(私が評価するかどうかは彼にとって関係ないだろうが・・)

いきなり話が少しずれたので元に戻そう。
そうだ。今回のテーマはついつい原理的になりがちな「あるべき論」とリアル指向の「するべき論」だ。

結論から述べれば、ネット上の議論はついつい「あるべき論」になりがちだ。
初めに勘違いされないように注釈しておくが、「あるべき論」が駄目だというつもりはない。
全ての始まりに「あるべき論」はあるべきだ。
問題は、「あるべき論」に終始してしまうことだ。

とにかく、そういうことは、特に自分は頭がいいと勘違いしているインテリ層に多い。
このことに右も左も関係なく、どの分野の人間にでもあてはまる。
だが、それではTVでお馴染みの評論家と同じことだということを良く知った方がいいだろう。
なぜなら、「あるべき論」は具体化されないからこそ「あるべき論」なのである。
無自覚的に責任の所在を曖昧にする論法だということを理解した方がよい。
換言すれば、「あるべき論」しか語らないやつは具体的解決方法をなんら持っていないと白状しているに等しい。
「あるべき」姿を具現化するために必死な人は「するべき論」をするはずなのだ。
そういう意味でオバマは今後窮地に立たされるであろうし、Doctor.鳩山は友愛の意味を問い直されることになるだろう。
(だが、私はオバマを応援している。)
(愛が宇宙で一番曖昧な言葉なのは前にも述べた)

国家戦略局の担当相に菅直人氏をアサインする人事について批判が多いが、それ以外の選択肢があったのなら教えて欲しい。
大きな政治的変換機にあって予想される最も大きな波は「既得権益者との闘い」である。
小泉政権下で改革を推進した竹中平蔵氏は改革が中途半端に終わった原因を、利権団体や圧力団体の抵抗と説明する。
そして、既得権益者と政治的に戦える唯一の職業は「国民の代表という印籠」を持つ政治家だけである。(竹中氏も途中で参議院議員になった。)
民主党にあって最も戦える政治家といえば、菅氏以外に思い当たらない。

もう一つ、民主党の程度の低そうに見える政策に対して修正を求める意見を表明するのはよくわかるが、そのリスクがあまりにも過小評価されている。
私も民主党にはブレて欲しい、だが、それは誰にとっても同じだ。
政策に介入の余地があることを認めることは、ある特定の利権団体に隙を与えるリスクをはらんでいる。
「マニフェストをより最善のものにするが、介入リスクを大きくする」ことと「マニフェストを愚直に遂行して、介入リスクを小さくする」こととの間にはトレードオフがある。
例えば、↓こんな動きが山ほどある。

政策実現のチャンス=民主党政権で-全トヨタ労連

我々はどうしても全人格的で完璧な政治を求めてしまいがちだが、そんなものは人間が政治を行う以上存在しえない。
人間が完璧では在り得ないからだ。
どれだけ洗練された人間も過ちを犯す。(しかも過ちは過去にしか存在しない)
魑魅魍魎渦巻く中にあって、我々が民主党に望むべきものは何か。
よく考えてみる事だ。

最後に一つ。
民主党が向かう先についての不満を述べる気持ちはよくわかる。
政権を奪取するためとはいえ、国民をバカにしたような政策も多い。
(選挙期間中、鳩山氏の演説を聴いたがバカバカしくてよく一生懸命聴いていられるなと聴衆に感嘆としてしまった)
しかし、民主党は民主党以上でもなければ以下でもなく、民主党でしかない。
100% Theoryではないが、民主党の枠内でしか政策を行えないのは当然だ。

遠くない将来、今回の政権交代で最も多くを学んだのは国民だったということになるだろう。
政治も国民もお洗練される必要があることを学ぶからである。

コロンビア大のジェラルド・カーチス教授がしっかりとした政党基盤のない日本には小選挙区は似合わず、中選挙区がよいと世迷言を繰り返しているようだが、そういう発想が日本を駄目にすることにきづくべきだ。
村上龍がNYTに寄稿したとされる文章が正しい。
日本人は今回の選挙で一歩を踏み出す覚悟を決めたのである。

時間がなく話しにまとまりがないが、リンク先のコメント等を読んでもらえば少しは理解してもらえるのではないかと思う。

※ちなみに記事自体の内容に不満があるわけではありません。