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国家権力に対峙する方法について考える

2010-01-21 16:55:14 | 社会

題名のわりに軽い内容です。


池田信夫氏がプリティなテーマで鋭く日本(京都)体質の本質を切り抜いている。
つい先日、私も少し異なる観点で「小沢バッシングに思うこの国のかたち」で「日本では表象としての絶対的な支配者を排除する力が働く」という主旨のエントリをしたばかりであった。


京のお茶漬け(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51348480.html
(ほとんど全文コピペ,太字による強調は私によるもの)


[前略]

実際の京都人は、排他的で冷たい。ていねいに話すのは、「よそ者」に気を許していないことを示しているのだ。

これには理由がある。京都には1000年以上にわたって国家権力の中心があり、街中が戦乱に巻き込まれる体験を何度もしている。権力が変わると、きのうまでの隣人が敵に回るといった経験が繰り返されてきた結果、「一見さん」を信用しない習性が根強く残っているのだ。魯迅の小説に描かれているように、人間が国家権力と隣り合って生きていると猜疑心の固まりになる。幸い日本は国家に対峙した経験があまりないが、京都だけは例外的に権力を意識し続けた都市である。

「京のお茶漬け」というのは落語のネタだが、それに近い風習は(少なくとも私の子供のころは)あった。「もう遅いさかい泊まっていきなはれ」といわれると、「あしたは朝早いさかい」と辞退して帰る。「泊まっていけ」というのは「早く帰れ」という暗号だが、はっきりいうと相手は気を悪くして敵に回るかもしれないので、あくまでも婉曲にいうのだ。その暗号を理解できるかどうかで敵を識別する意味もあるが、本当のよそ者が誤解して泊まったら大変なので、こういう表現の間合いは非常にむずかしい。

京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。こうして昔からマルクス主義に親しんでいるので、京都人は社会主義にも幻想を持っていない。そういう土地に育った私から見ると、国家が永遠に債務を返済してくれると信じる人や、派遣村で貧しい人々を救えと国家に求める人は、権力に裏切られたことのない幸福な日本人の典型にみえる。そういう人に限って「反権力」を語ったりする。



あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。

しかし、この両者には共通点がある
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。

京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。

桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。

このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。

天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである

君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。

権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。

空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。


そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。

そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。

話が少しそれてしまったので本題に戻る。


この天皇システムの仕組みは、今でも形を変えて官僚組織に受け継がれている。
しかも今度は逆側から天皇システムを利用しているといっていいだろう。



官僚組織を幾世代にわたって複雑に作り上げ、外部の人間には理解できぬようにし、「名目的な支配者」=「政治」に譲り、「実質的な支配者」=「官僚組織」とし、国民の目を政治に向けさせ、人々に政治を見下させることで人々のコンプレックスを発散させる。
マスコミには政治を叩かせ、政治家に自分達の都合のいいように武器を渡して国民に向けて「政治の責任です。」と言わせる。
政治家にとっても政治の責任なら自分を必要としてもらえるので悪いことではない。
(「なんとかしろ。」と国民に言わせる(つまり必要とさせる)のは政治家の仕事の一つである。)
実質的な支配者そのものを否定するものが現れれば、織田信長を消し去るように寝技で排除する。


さて、我々にはどのような対抗手段があるだろうか。
答えはある。


京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。



天皇システムを国民側が逆に利用するのである。
競わせ一つの権力にコミットしないことだ。


本来、官僚機構と競うべき政治が機能しないうえ、さらに官僚機構と政治を抑制すべきマスコミも機能していないという批判はあるだろう。
だが、ここで登場するのが「インターネットによる市民の政治参加」だ。
そもそもマスコミとは市民から権限が委任された存在であるので、それが機能せぬなら、その役割はより直接的に市民に近づくことになる。
専門家個人やその道の有識者がマスコミに変わって統治機構を抑止する力になるであろうし、それは不可避である。
(なぜ不可避かについてはまた後日)

もう一つは、外敵を呼び込むことだ
そして、そこに新しい旗を打ちたてる。
そうすれば人々は新しい権力にコミットする
権力の乗換えだね。


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2 コメント

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インターネットによる市民の政治参加 (WWW)
2010-01-23 20:05:11
天皇というシステムは、世界の政治システムの中でも最も優れたものと評価されています。
平家と源氏で競合する様に現在2大政党が8年程度の間隔で交互に政権交代させるシステムを小沢氏は構築していると国民は認知しています。
明治以来百数十年間の官僚政治を本当の政党政治にする戦いを今しているのだと国民は知る必要があります。
ここにインターネットが集合智として最強の武器となります。
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インターネットは権威を無効化する (advanced_future)
2010-01-25 10:49:53
>WWWさん
非常に前向きで理解のあるコメントありがとうございます。

なかなか日本の政治家もマスコミも「大局観を持って政治を見る」ということができていないような気がしています。
日本では「政治」そのものの定義についての議論が歴史的にも欠けているのです。
国家というスケールで物事を考えるのは市民の役割ではないというコンセンサスです。

環境がそれを許してくれるなら、それでもよい。
しかし、我々が時代の流れに乗るのではなく、時代を自分達の手で作り出そうとするのなら、我々は自分達の認識を変えなければならない。
一部の小さな利権者のためだけの政治から、より多くの人々のための政治へと変革しなければならないのです。
(多くの人々のための政治が大きな政府を意味するわけではない。)

幸いにして民主主義制度下では、より多くの人が問題意識を共有すれば変化を起こせます。
国民一人ひとりが政治に参加意識を持つために必要なこととは、「第3の道」の本家イギリスのブレア政権で唱えられた「Active Citizenship(積極的な市民参加)」です。
このための小沢の考えは単純です。
「国民一人ひとりが政治に責任を持つために、日本に民主主義を実現する。」
「国民が選択する。ゆえに政治の間違いは国民の間違いである。」
「そこに初めて国民と、そして国家の成長があるのだ。」

思考停止を促し、「利権」を増長するものに「権威」があります。
「権威」とは「情報を握る者」が帯びるものです。
その情報格差を飛躍的に埋めるものがインターネットです。
インターネットは権威を無効化し、利権構造を破壊します。
インターネットは人々に権威がハリボテであることを知らしめ、そして民主主義への壁を一つ取り払うのです。

ありがとうございました。
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