郵政を「ドンブリ」に戻すな - 情報こそが郵政を変える(磯崎 哲也)
http://agora-web.jp/archives/787445.html
私は磯崎氏についてブログを読んだりTVで見ることでしか知らないが、彼の洞察にはいつも頷かされる。
αブロガーと呼ばれる人たちの中でも彼の主張が異彩を放っているのは、彼がより実務に近い視点から問題提起をしているからだと思う。
学者や評論家のみなさんは主張がマクロ的論点に傾向しがちだが、彼はマクロ視点でみたミクロ的動きに関する洞察が鋭い。
それは、彼の経験に基づくのだろうけれど、接頭語として「実際には」がつく話がうまいのだ。
私は、こういう視点こそが、日本国内で混乱しているマクロvsミクロ論争を乗越える突破点になりうると考えている。
ここからは、ちょっと極端な議論展開になるのを許してほしい。
基本的に学者として評価されるためには「理論」が重要である。
物事を裏側で支配する「理論」を解明することが最も重要で、実証研究はそれを裏付けるためのものだ。
(もちろん理論を確立するための実証研究の重要性もある)
だから、いつも歴史に名を残すのは、理論を構築した方で、理論の正しさを裏付けた方ではない。
(じゃノーベル賞は?みたいな反論がくることはわかったうえでだ。ここでいう歴史は100年単位ぐらいだと思って欲しい。)
「どうしてそうなるのか?」という問いに答えることが学問としての第一義で、「どうしてそれが正しいといえるのか?」という問いに答えることは非常に重要でありながらも、黒子的役割になりがちだ。
(演繹法と帰納法の役割の話だ。)
もちろん、この宇宙を記述している究極理論も解明されていない現在、我々が認識している理論の完全性というのは担保されておらず、演繹法の限界も当然ながらある。
しかし、帰納法的手法による実験結果には必ず誤差や例外がつき物であり、万人を納得させることはできない。
そもそも最近では実験できない理論ばかりだ。
やはり、演繹法と帰納法の両方が必要なのである。
(タレブ著「ブラック・スワン」では我々が立つべき視点は「懐疑的経験主義」であると力説されている。)
以上で述べたことは非常に当たり前の主張なのだが、実はこの当たり前のことが日々の政治からはごっそり抜け落ちている。
マクロ派(全体最適派)は理論が先に立ちがちで、ミクロ派(個別最適派)は結果が先に立ちがちだ。
いつもマクロ派はミクロ派の無知さを攻める。
(気持ちはすごくわかるが)
だが、マクロ派は理論的な正しさを説明できても、情緒的な正しさを説明ができない。
(ここの想像力が足りないのだ)
その説明できない情緒的な正しさがミクロ派の正義である。
一方、ミクロ派は情緒的な正しさを説明するが、理論的な正しさを説明できない。
異なる視点の持ち主である両者は意見が一致することがない。
どちらもお互いの正義を振りかざすだけである。
これは私の勝手な意見だが、マクロ派には"帰納法的な正しさ"を積み上げる努力が足りない。
自分達の主張の正しさを、帰納法的な視点より、説明する姿勢に欠けているのだ。
相手に勉強しろというのは容易いが、それで相手が勉強するならこんな簡単なことはない。
子供に「勉強しろ」というだけで子供が勉強してくれるなら、日本は成績優秀な子供であふれかえってしまう。
人間が不完全である限り、完全な全体最適は有り得ず、政治は個別最適の積み重ねにならざるを得ない。
この個別最適を一つ一つ解いて全体最適に繋げていく作業、これが日本の政治にはない。
マクロ派はミクロ派に向けた物語を創ろう。
その努力が日本を変える。
わざわざイギリスに行って学ぶ時代は終わりだ。
http://agora-web.jp/archives/787445.html
私は磯崎氏についてブログを読んだりTVで見ることでしか知らないが、彼の洞察にはいつも頷かされる。
αブロガーと呼ばれる人たちの中でも彼の主張が異彩を放っているのは、彼がより実務に近い視点から問題提起をしているからだと思う。
学者や評論家のみなさんは主張がマクロ的論点に傾向しがちだが、彼はマクロ視点でみたミクロ的動きに関する洞察が鋭い。
それは、彼の経験に基づくのだろうけれど、接頭語として「実際には」がつく話がうまいのだ。
私は、こういう視点こそが、日本国内で混乱しているマクロvsミクロ論争を乗越える突破点になりうると考えている。
ここからは、ちょっと極端な議論展開になるのを許してほしい。
基本的に学者として評価されるためには「理論」が重要である。
物事を裏側で支配する「理論」を解明することが最も重要で、実証研究はそれを裏付けるためのものだ。
(もちろん理論を確立するための実証研究の重要性もある)
だから、いつも歴史に名を残すのは、理論を構築した方で、理論の正しさを裏付けた方ではない。
(じゃノーベル賞は?みたいな反論がくることはわかったうえでだ。ここでいう歴史は100年単位ぐらいだと思って欲しい。)
「どうしてそうなるのか?」という問いに答えることが学問としての第一義で、「どうしてそれが正しいといえるのか?」という問いに答えることは非常に重要でありながらも、黒子的役割になりがちだ。
(演繹法と帰納法の役割の話だ。)
もちろん、この宇宙を記述している究極理論も解明されていない現在、我々が認識している理論の完全性というのは担保されておらず、演繹法の限界も当然ながらある。
しかし、帰納法的手法による実験結果には必ず誤差や例外がつき物であり、万人を納得させることはできない。
そもそも最近では実験できない理論ばかりだ。
やはり、演繹法と帰納法の両方が必要なのである。
(タレブ著「ブラック・スワン」では我々が立つべき視点は「懐疑的経験主義」であると力説されている。)
以上で述べたことは非常に当たり前の主張なのだが、実はこの当たり前のことが日々の政治からはごっそり抜け落ちている。
マクロ派(全体最適派)は理論が先に立ちがちで、ミクロ派(個別最適派)は結果が先に立ちがちだ。
いつもマクロ派はミクロ派の無知さを攻める。
(気持ちはすごくわかるが)
だが、マクロ派は理論的な正しさを説明できても、情緒的な正しさを説明ができない。
(ここの想像力が足りないのだ)
その説明できない情緒的な正しさがミクロ派の正義である。
一方、ミクロ派は情緒的な正しさを説明するが、理論的な正しさを説明できない。
異なる視点の持ち主である両者は意見が一致することがない。
どちらもお互いの正義を振りかざすだけである。
これは私の勝手な意見だが、マクロ派には"帰納法的な正しさ"を積み上げる努力が足りない。
自分達の主張の正しさを、帰納法的な視点より、説明する姿勢に欠けているのだ。
相手に勉強しろというのは容易いが、それで相手が勉強するならこんな簡単なことはない。
子供に「勉強しろ」というだけで子供が勉強してくれるなら、日本は成績優秀な子供であふれかえってしまう。
人間が不完全である限り、完全な全体最適は有り得ず、政治は個別最適の積み重ねにならざるを得ない。
この個別最適を一つ一つ解いて全体最適に繋げていく作業、これが日本の政治にはない。
マクロ派はミクロ派に向けた物語を創ろう。
その努力が日本を変える。
わざわざイギリスに行って学ぶ時代は終わりだ。