進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

マクロ重視派が変われば日本の政治は変わる

2009-10-31 17:04:47 | 政治
郵政を「ドンブリ」に戻すな - 情報こそが郵政を変える(磯崎 哲也)
http://agora-web.jp/archives/787445.html

私は磯崎氏についてブログを読んだりTVで見ることでしか知らないが、彼の洞察にはいつも頷かされる。
αブロガーと呼ばれる人たちの中でも彼の主張が異彩を放っているのは、彼がより実務に近い視点から問題提起をしているからだと思う。
学者や評論家のみなさんは主張がマクロ的論点に傾向しがちだが、彼はマクロ視点でみたミクロ的動きに関する洞察が鋭い
それは、彼の経験に基づくのだろうけれど、接頭語として「実際には」がつく話がうまいのだ。
私は、こういう視点こそが、日本国内で混乱しているマクロvsミクロ論争を乗越える突破点になりうると考えている。

ここからは、ちょっと極端な議論展開になるのを許してほしい。

基本的に学者として評価されるためには「理論」が重要である。
物事を裏側で支配する「理論」を解明することが最も重要で、実証研究はそれを裏付けるためのものだ。
(もちろん理論を確立するための実証研究の重要性もある)
だから、いつも歴史に名を残すのは、理論を構築した方で、理論の正しさを裏付けた方ではない。
(じゃノーベル賞は?みたいな反論がくることはわかったうえでだ。ここでいう歴史は100年単位ぐらいだと思って欲しい。)
どうしてそうなるのか?」という問いに答えることが学問としての第一義で、「どうしてそれが正しいといえるのか?」という問いに答えることは非常に重要でありながらも、黒子的役割になりがちだ。
(演繹法と帰納法の役割の話だ。)

もちろん、この宇宙を記述している究極理論も解明されていない現在、我々が認識している理論の完全性というのは担保されておらず、演繹法の限界も当然ながらある。
しかし、帰納法的手法による実験結果には必ず誤差や例外がつき物であり、万人を納得させることはできない。
そもそも最近では実験できない理論ばかりだ。
やはり、演繹法と帰納法の両方が必要なのである。
(タレブ著「ブラック・スワン」では我々が立つべき視点は「懐疑的経験主義」であると力説されている。)

以上で述べたことは非常に当たり前の主張なのだが、実はこの当たり前のことが日々の政治からはごっそり抜け落ちている。
マクロ派(全体最適派)は理論が先に立ちがちで、ミクロ派(個別最適派)は結果が先に立ちがちだ

いつもマクロ派はミクロ派の無知さを攻める
(気持ちはすごくわかるが)
だが、マクロ派は理論的な正しさを説明できても、情緒的な正しさを説明ができない
(ここの想像力が足りないのだ)
その説明できない情緒的な正しさがミクロ派の正義である。
一方、ミクロ派は情緒的な正しさを説明するが、理論的な正しさを説明できない
異なる視点の持ち主である両者は意見が一致することがない。
どちらもお互いの正義を振りかざすだけである。

これは私の勝手な意見だが、マクロ派には"帰納法的な正しさ"を積み上げる努力が足りない
自分達の主張の正しさを、帰納法的な視点より、説明する姿勢に欠けているのだ。
相手に勉強しろというのは容易いが、それで相手が勉強するならこんな簡単なことはない。
子供に「勉強しろ」というだけで子供が勉強してくれるなら、日本は成績優秀な子供であふれかえってしまう

人間が不完全である限り、完全な全体最適は有り得ず、政治は個別最適の積み重ねにならざるを得ない。
この個別最適を一つ一つ解いて全体最適に繋げていく作業、これが日本の政治にはない

マクロ派はミクロ派に向けた物語を創ろう。
その努力が日本を変える。
わざわざイギリスに行って学ぶ時代は終わりだ。

インプリが駄目でもコンセプトが駄目とは限らない

2009-10-29 23:26:49 | 経済
書きたいことが山ほどあるのですが時間と能力が足りず追いつきません。
今日のエントリは途中で終わっています。。
そんな私でも「勝間本」というやつを読むと改善されるのでしょうか・・?

「大きすぎて潰せない」の愚? (ウォールストリート日記)
http://wallstny.exblog.jp/11465813/

今更蒸し返す話題でもないかもしれないが、日本が歩むであろう行く末を考えるとき、使い古された議論を今一度登場させなければならなくなる。
リーマンショックが火をつけた資本主義論争であるが、ここで述べられているJohn Kay氏の認識が真っ当だと思う。


> 金融危機が、規制当局の手落ちで発生したと言う人がいるが、それは、犯罪自体の発生の原因を、警察の怠惰の責任に帰しているに等しい。

> 金融危機を防ぐために、規制当局が国内外で協調して対処することが必要だと言うが、その考えはおかしい。金融危機発生の責任は、一重に、自らの行動のリスクを理解していなかった、金融機関の貪欲で無能な経営者にある。

> 資本主義(市場経済)のアイデアの根本には、強者が生き残り、弱者が敗れるというものがある。そう考えると、Lehman Brothersの破綻は資本主義の敗北ではなく、むしろ勝利であった。同社の経営はお粗末で、従業員は給料をもらいすぎており、事業の社会貢献も極めて限定的であった。

> 「大きすぎて潰せない」という考え方は、金融機関の間でモラルハザードを引き起こし、リスク拡大を助長するばかりでなく、各社のリスクモニタリングへの関心自体を薄めてしまう。その結果、納税者は、コントロール不能で際限のないリスクに、さらされることになる。


日本では評論家や政治家、エコノミストの一部までもが揃いもそろって「新自由主義の終焉」や「市場原理主義の敗北」などを声高に主張しているが、そのように主張するのは彼らが「資本主義/市場原理」について理解していないことを示しており、ゆえにその主張が180度間違っているのは言うまでもない。
太字で引用した部分「Lehman Brothersの破綻は資本主義の敗北ではなく、むしろ勝利であった。」が正しい認識である。
持続不能なビジネスモデルが終焉したのは"市場原理が正しく機能したから"である。
敗北したのは資本主義ではなく、劣悪なビジネスモデルの方である。
(説明するのが面倒なので本エントリでは資本主義=市場原理とする)

細かい話なのだが、資本主義というのは概念であって制度そのものではない
規制当局が資本主義的な制度を構築することはできても、資本主義そのものを構築できるわけではない。
規制当局が行うのはもっぱら資本主義が成立するためのシステム構築である。
わかりやすくいえば、資本主義はコンセプトのことで、プラットフォームではない。(設計仕様書でもない)

規制当局が行うのはプラットフォーム開発の一つなのである。
今回、システミックリスクの問題として言われているのは、このプラットフォームの能力(不具合)の話である。
プラットフォームの不具合を、コンセプトに求めるのはわかりやすい議論だが、コンセプト自体に不具合があるという話をするためには超えなければならない一線がある。
ひょっとしたらコンセプトではなく、仕様書の問題かもしれない。
コンセプトを仕様書に落とし込む段階で入り込んだ不具合である可能性もある。
これは資本主義の理解・解釈の誤りである。
専門家の間で行われている議論がもっぱらプラットフォームもしくは仕様書を問題視しているのに対して、素人はいきなりコンセプトの話をしているのである。
(そのコンセプトの誤解が甚だしいのがもっと問題か)

いや、もちろんコンセプト議論が悪いのではない。
テクニカルな内容にならずとも議論はできるはずだ。
「資本主義が悪い」とされたらよろしい。
だが、リーマンショックを原因にしているのに、プラットフォーム・仕様書の問題をすっ飛ばして「資本主義が悪い」という議論をするのは無理というものである。
「リーマンショックで金転がして金を生み出すビジネスモデルは終わった!強欲資本主義は敗北したのだ!」という意見を聞くたびに、恥ずかしい気持ちになる。敗北したのは我々が築き上げたビジネスモデルでありプラットフォームであり、我々の知性だ。
足りぬのは我々の知恵である。

しかし、「不具合のないプラットフォームを構築しよう!」と言う人がいたらビックリするのは私だけではあるまい。
いつもいうように人間の知性が完全でない限り、我々が完全なプラットフォームを構築することは不可能だ。
だから、プラットフォームを構築する場合、不具合の発生を前提とするのが普通である。
問題は、起きる不具合をできる限り小さくおさめることと、影響範囲を小さくおさめることである。
その問題について、どのような方策がとれるかを専門家のみなさんは一生懸命考えているのである。

と、いうようなことを下記ように主張されているわけだ。


> 金融機関には、テクニカルな問題に対するリスク管理システムが存在するが、組織的な破綻に対応するシステムは存在しないのが問題でさる。その対策としては、社内と業界内で、業務間にファイアウォールを設置し、また巨大金融機関を小さく解体することで、一部分の破綻がシステム全体を危機にさらさないようにする必要がある。


他の部分で述べられている「大きくて潰せない」を「小さくして潰せる」ようにするというアイディアは、実装方法は別にして非常に有用であると思われる。
これについて個人的に連想するのは、スパコンからグリッドコンピューティングに移行するイメージだ。
コンセプトを実現するための知恵である。

すると、システム構築に関する根源的な問題に対してある程度の対応もできそうだ。
根源的な問題とは「システムそのものは、そのシステム自体が破綻することに気づけない」ことである。
説明すると、破綻することを理解できるシステムは破綻を逃れることができるので、破綻するということは破綻に気づけないということを意味している。
(「自分がいつ死ぬかは自分ではわからない」という問題だ。)
コンピュータシステムの話であれば、この問題についてはダブリングして対応するのが一般的だ。
スパコンや飛行機、宇宙ロケットなどに使われていて、複数の同様のシステムを同時に走らせて互いを確認する方法だ。
演算結果の誤りを防ぐため結果について多数決をとったり、他のシステムが死んでいないか確かめたりという形だ。
同様なことが、小さく潰せるようにすると同時に影響範囲を市場の狭い範囲に閉じ込めることができれば、複数の市場が並列することで可能かもしれない。


しかし同氏もまた、銀行を解体したとしても、レバレッジ(借り入れ)を使った投資を止めなければ、金融危機を本当に防ぐことは出来ないであろうし、借り入れ自体を禁止するということは、現実的でもなければ国民が欲するところでもないだろう、と言った内容でコラムをまとめています。経済活動が人間が行う行動である以上、完璧なシステムの構築は困難でしょうから、システミックリスク対策の議論は、まだまだ続くのだろうと想像します。


むむむ・・・。
私の知恵が足りないらしい(汗)

いや、ここでよく考えてみよう。
実はここまでが"まえおき"だ。(長い・・)

そもそも、「大きくて潰せない」のはなぜなのか
影響が大きいからだといわれているが、これは現実なのだろうか。
リーマンショック由来の金融危機に対する公的サポートは世界的にモラルハザードを引き起こしたわけだが、政治家も市民も、潰れることによる社会的損失が大きいとき、あらゆるロビー活動を総動員して潰すことを許さない。
しかし、我々は「潰さない」ことが「潰れる」ことを引き起こす可能性についてもっと真剣に議論すべきなのかもしれない。
これは適切な報酬のあり方議論にも繋がる話なのだが、潰れる可能性があるからこそ、我々は慎重になりリスク回避行動をとる。
リスク回避行動へのインセンティブが働くように環境が整えられていなければ、我々はリスク回避行動をとらない可能性があるのだ。

我々はどうなるかわからない未来を不安に思い、恐れ、逃げる
自分のやることの結果があらかじめ見えていたら恐れることはない。
自分のやることの結果がある程度想定できて、そしてそれが許容できることなのだとしたら、我々はリスクを選好するかもしれない。
借金を踏み倒せることがわかっているなら、我々はカジノで借金を使ってわずかな可能性に賭けるだろう。
周囲の人々がみなそうやっている中で、自分だけ我慢することができるのだろうか。
私は泡銭はいらないと言う人もいるかもしれないが、得する人が大勢いるような環境では、周りが豊かになるのではなく、自分が相対的に貧乏になるということだから、そう単純に我慢できる問題ではない。
追加的利益がなくなるのではなく、ゲームに参加しなければ損失を受けることになるからだ。

今日はここでしゅうりょう・・続きはいつかまた・・

公正報道が生み出す社会不平等、大局報道を指向せよ

2009-10-28 22:53:01 | 社会
ちょっと強引な理屈ですが、言いたいことは伝わるのかなと・・

“郵政改革の大転換”に見る日本の宿痾
~なぜ、焼け野原にならなければ改革できないのか (辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10088/

これにはシビれた
是非、ダイヤモンド・オンラインのようなマイナーメディアだけでなく、マスメディアで彼の意見を取り扱って欲しい。
彼の意見を知らねばならないのはビジネス・インテリ層ではなく地方の中高年層なのだから、アプローチしなければならないメディアは、日経以外の全国区の新聞と報道ステーションなどの報道番組、とりわけNHKである。

映像コンテンツが当たり前の時代なので気づきにくいが、メディアに文字だけでなく映像が加わったことは、人類史上で非常に大きな意味がある。(哲学なんかをやっていた人には極当たり前の認識なのだが)
映像ベースのメディアが人の心象に与える影響は、文字ベースのメディアとは比べ物にならないほど大きい。
第4権力といわれるマスコミのうち、TV局の果たす役割は、普段我々が意識しているよりも遥かに大きい。

NHKは報道において公平性を保たねばならないため政治的に中立であろうとする。
しかし、完全に中立を指向してしまうとストレートニュースのようになり、何のメッセージ性もないチャンネルになってしまう。
(もちろん、ストレートニュースでいいではないか、という意見も多々ある。)
政治的中立を見せ掛け上保ちつつ、これを避けるためには、どうしても弱者にスポットを当てるしかない。
弱者側の立場に立てば、どのような立場においても正論を主張できるからだ。
弱者救済を是とする限りにおいて。

おかげで国民には弱者バイアスが植え付けられる。
<私は弱者報道の価値が小さいという主張をしているのではない。
社会には数多の問題があり、我々はこの問題をより冷静かつ平等に評価すべきなのであるが、弱者バイアスは平等な評価を著しく阻害し、偏向させる
弱者は様々なところに存在するのに、一部の弱者のみにスポットがあたり、その弱者のみが救済され、そしてその救済によって他の弱者をより酷い環境に置き、また他の弱者を生み出すのだとすれば、それは「弱者救済」と呼ぶことができるのか。
その意味での問題提起である。

みな可能性的には「未来の弱者」なのであり、みなそれを恐れている。
本来、政策立案者は、社会の構成員はみな潜在的な弱者であることを前提にしなければならない

もちろん、全ての弱者にスポットを当てることも、あらゆる状況を想定して政策を立案することも不可能であるので、政策立案においてある程度の妥協を受け入れることは仕方が無い。
我々は自分達自身に不安を抱きながら悩みながらも手探りで政策を進めるしかない。
が、いかに我々が不完全な知性体であろうとも、我々自身の最善を指向して物事を考えることは、より多くの弱者を救済する意味で有用であると、私は信じる。

不完全な我々は失敗する。
10人より20人を救おうとして100人を陥れることもあるだろう。
だが、10人を救うことしか考えないで100人陥れるよりもずっとマシだ。
なぜなら100人を陥れた反省より、次は20人の救い方を変えることができるからだ。
そうすることでいつか100人を救うことができる。
(何も手を加えないことこそが最適だという意見もある。なんにせよ、より多くの人を救うためには何が最善かという話だ。)

私は、それこそが進化できることの素晴らしさだと考えている。
進化可能性(変容)」こそこの宇宙が相対的であることの重要な意味である。

だから、私が報道機関に求めるものは、公正さよりも、大局さである。
なぜなら、それこそが将来的な公正さを担保する最大限の努力の形だからである。

ブログ近況情報(2009/10/28)

2009-10-27 23:56:20 | ブログ情報(News Release)
不定期でお届けしているブログ近況報告です。

10/19にお届けした(ソニーは普通の会社になったのか ~前編~)にてついに一日500アクセスを記録しました。
(続編が遅れており、大変申し訳ございません。自分に課した宿題が溜まりすぎて処理できておりません・・)
池田信夫blogにトラックバックを貼らせていただいたことが主要因と思われます。
その後は池田信夫blogがgooブログからlivedoorブログに移行したことも手伝い、順調に下降トレンドです・・(笑)

現在、だいたい一日100アクセスほどで推移しております。
今のところ目標に掲げた一日1,000アクセスは夢のようでありますが、細々と地道でも継続して運営してまいりたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

個人的な能力の限界で、エントリ作成にあまり時間を避けず、内容について質よりも量をとっている感もございます。
見苦しい点あると思いますが、ご了承ください。

>ttosiさん、はんてふさん、snowbeesさん
コメントいただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

>みなさま
当Blogではコメント/トラックバックはエントリに関係のあるものである限りフリーで運営しております。
どなたでも遠慮なくどうぞ。
今のところ辛らつなコメントもなく、みなさまの善意に感謝しておるところであります。

PS.
前回、今後はスピリチュアルに力を入れていくとご報告させていただいたのですが、どうもスピリチュアルネタは受けが悪く、アクセス数が伸びません。
同じgooブログでも(伊勢ー白山 道)は大変人気なのに残念です。
思うに、スピリチュアル業界は格差が激しいような気がします。
個人的な感覚としては全くひけをとらない自信があるのですが・・時間がかかりそうです。
しかも、スピリチュアル方向にひた走るとアクセスが伸びない上に、政治・経済系の方がおろそかになり余計にアクセスが伸びないというジレンマに陥ってしまうと。
長期的視野が必要のようです・・。
その前に、そもそも何が目的でブログをはじめたのかというところが重要なのですが・・

以上です。

国民は政治家を育てるコストを負担すべきである

2009-10-27 23:23:19 | 政治
当ブログでは小泉進次郎氏を今後が期待される政治家として応援しています。

小泉進次郎氏、自民党のヤジに苦言…所信表明演説(スポーチ報知)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091027-00000049-sph-soci


小泉進次郎衆院議員(28)は、鳩山首相の所信表明演説中、ヤジを飛ばし続けた自民党の先輩議員たちに苦言を呈した。「今の自民党がやらなくてはいけないことは民主党を批判することではなくて、民主党を検証すること。そのための臨時国会だと思います」と話した。

鳩山首相の言葉に黙って耳を傾けていた進次郎氏は「言葉遣いは平易で分かりやすかったが、言葉の先にあるビジョンが分からなかった」と厳しく採点。遊説局長代理らしく、あくまでヤジらずに理路整然と指摘した。

 惨敗した参院補選を終えて、この日19日ぶりに再開した自身のブログには「民主党が進めようとしている政策が国益に沿うなら協力すべき」と記した。非難中傷合戦は28歳の新人議員の望むところではないようだ。


率直に見て現時点で彼が他の政治家に比して何らかの能力に秀でているとは思わないが、私は彼の資質に大きな可能性をみている。
保守的な日本人が実績を重んじるのはよくわかる。
(保守については日を改めて議論する)
役割に適した人材が必要なのは確かであろう。
しかし、役割が人を育てるという一面もまたある。
我々は未来への投資として、将来性のある若者に役割を任せるコストを受け入れるべきだと考えている。
(できる人を配するのは容易いが、できるよう人を配するのは難しい。)

このことは、内田樹のいう「教育=贈与論」ともつながってくる。

教育=贈与論(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/22_1155.php


教育の目的はただひとつである。
それは人を成熟に導くことである。
誰も人間を他動的に成熟させることはできない。
人間を成熟させるのは自分自身である。
そのためには主体の側に「成熟しなければならない」という強い決意が必要である。
ひとが「私は成熟しなければならない」と思う理由はひとつしかない、それは「成熟しなければ、理解できないことがある」からである。それが理解したいからである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。
もし、その贈与が対価とつりあうものであれば、それはすこしも「謎」ではない。
なるほど、私がこれだけのものを支払ったのだから、これが手渡されたのだなということに納得がいけば、それは「謎」ではない。
それはただの等価交換である。
等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。
「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」について知りたいと思うことはない。
私たちは、「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたときにのみ、その意味を解明するためには「成熟しなければならない」と思い始める。
教育はだから「教える側がまず贈り物をする」ところからしか始まらない。
教育を市場の言葉で語ることが虚しいのは、凡庸なビジネスマンたちはまず「ニーズ」が存在し、それに対して「サプライ」があるという継時的なかたちでしか需給関係を構想できないからである。
真に優れたビジネスマンは、経済活動においてさえ、その本質は「贈与」にあることを知っている。
「最初の一撃」はつねに「なんだかよくわからないものの贈与」としてしか始まらない。
あるいは、「なんだかよくわからないものを贈与された」という自覚(または勘違い)からしか始まらない。
そこから交換が始まる。
反対給付を動機づけるのは、「贈与された」という事実ではない。「なんだかわからないものを贈与された」という事実なのである。


当ブログのいつも主張の繰り返しなのだが、この宇宙に存在する限りトレードオフから逃れることはできない
当然、教育にもコストがかかる。
そのコストを誰かが負担しなければならない。
政治家を育てるコストは、政治家が社会的存在であるという性質上、社会的な存在として位置づけられた国民が負担すべきものだと私は考える
(本来的な意味で政治家が必要か?みたいな話までいけばまた異なる意見にはなるが)

隣の小泉進次郎(山本一太)
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-10-27-1


隣の席には小泉進次郎衆院議員。 少し会話を交わしただけで、スグに分かる。 この若手政治家はただものではない、と! ブランドも、能力(中身)も、容姿も、若さも、オーラも持っている。 14年間も政治家をやっているが、ちょっと見たことない、な。 こんな20代の政治家!!(ワクワク)


小泉純一郎氏を嫌いな人たちは進次郎氏のことをよく見ていないだろうが、山本一太氏の表現は彼について誰もが思う率直な意見だと思う。
(山本一太氏の表現はいつも大げさだけど)
確かに今は物足りないかもしれないが、可能性を感じるのだ。

亀井入閣サプライズと郵政人事を結ぶ点と線

2009-10-27 04:51:54 | 政治
本エントリはSF(スコシ・フシギ)な物語である。

日本郵政の社長人事が暗示する財政の「Xデー」(池田信夫, Newsweek)
http://newsweekjapan.jp/column/ikeda/2009/10/post-73.php

元大蔵事務次官斎藤次郎・日本郵政社長(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/10/post-eb12.html

これらのエントリに触発されてなんらかの意見を述べたくなりました。

郵政の社長に元大蔵次官が天下ったということで大騒ぎが起こっている。
理由は大きく2つ。
一つは民主党が掲げた「脱官僚」「天下り・渡りの完全撤廃」に明らかに反すること。
もう一つは民主党が大増発するであろう国債の引き受けてとして郵貯を復活(財投復活)する懸念があること。
ここに少し補足すると、今回の人事に小沢一郎氏の関与が疑われること。
であるが、私は今回の人事についての騒ぎ方を間違っているように思う。

なぜか?

「人事」と言うのは世間が騒いでいるほど簡単なものではない
「人事」は組織の内部統制だけでなく組織の外部への意見表明としても大きな意味を持つため、簡単に決めれるほど単純なものではなく、特に大組織の社長人事のようなものは幾重にも要因が絡んで決定される。
「今回の人事は○○によって決めました。」というような一つの軸を期待して質問するのはナンセンスだ。
なぜなら回答は人によって異なることが想定されるからだ。
(取締役会の指名委員会がみな同じ考えであると想定すること自体がナンセンス)
思惑まで含めて全会一致で決まる人事なんていう事例がどれだけあるか知らないが、郵政のようにステークホルダーが多種多様な場合、まず無理だろう。
誰かは妥協し、誰かは意のままのつもりで、誰かは爆弾を仕込み、誰かは裏の人事を操るものだ
完全な解が欲しいならステークホルダー全員分のことを考えなければならない。

亀井氏的に今回の人事を見れば「(民間に)他になり手がいなかったから」だ。
財投うんぬんは副次的要因であって主要因ではない。
だが、他のステークホルダーにも理由がないわけではない。

-<>-<>-<>-<>-<>-

どのような組織においても(立場の違いが権限の違いである組織において)、「人事」というのは内部統制上最大の影響力を持つ武器である。
どのように経営システムを構築しようとも、経営の内部的表現は「人事」において示される。
どれだけ立派なスローガンだけ掲げても、人事を変えないで組織を変えようというのは無駄である。
なぜなら、組織は「人」によって構築されるものであり、「人」なくして成り立たないものだからである。
「バーチャル組織」「メタ組織」なるものが存在するとしても、構成員なくして存在せぬのである。
人が変わらねば組織は変われぬのである。
しかし、人を変えるために必要なものは、人に対する役割(枠組み)を変えることである。
わかりやすくいえば「あなたの仕事はこういう役割ですよ」と与える必要がある。
人に与える役割を変えずして、行う仕事を変えるのは無理である。
(日本では役割変えずに仕事を変えるよう求めることを「精神論」という。)
人は自由だというのは自由だが、その一方で人は与えられた枠組みの中で振舞おうとする習性がある。
(ここの説明は大変なのでかなり簡略するが)
役割が与えられなければ人は何者にもなれず、役割が与えられて人は初めて何者かになれる。
(結婚せねば夫になれないし、付き合わねば恋人にもなれない。学校に通わねば生徒にもなれない。etc...)
そして人は何者かになることで、何者かであることから学ぶ。
(G.H.ミードの社会的自我とユングのペルソナとをミラー・ニューロンで結びつけるのだ)
つまり、リーダーによって組織が変わるのは、与える役割の定義が上手/下手があるからだ。
もちろん、リーダーを変えずしてリーダーの役割を変えることも可能だろう。
しかし、その場合、長期的に維持されてきた長期的関係の破棄が同じ構成員で行えるのかという問題がある。
裏切り的要素のある行為を同じ構成員で正当化できる局面もあるだろうが、多くの場合かなり難しい。

-<>-<>-<>-<>-<>-

年功序列組織において次の課長を決めるのは簡単だが、そうでない組織において社長人事のような重大な人事を決めるのは容易ではない。
通常、一つの項目だけで社長を決定するようなことはせず、多くの項目において評価されて総合的に一人が選ばれる
(例えば、実績あるか、将来性あるか、専門性が生かせるか、部下との信頼関係築けるか、その他リスク、etc...)

日銀総裁人事の時の民主党のあり方をみれば、退官後何年経とうとも元官僚による天下りが許容できぬことぐらい誰でもわかる。
「財源」項目に最高点がついても、「民主党に対する信頼」項目に最低点がつくのである。
そのことが頭にあれば、民主党が立てた「脱官僚」の旗印を無視して「財投復活」的な選択をするのはリスクが高すぎて容易ではないことがすぐわかるはずだ。
そんなことをしてしまったら内閣が倒れてしまう可能性すらある。
相当頭がいかれていない限り、"民主党"にそんなリスクをとることはできない。
(世間は民主党の頭がおかしいと思っているようだが、そんな単純な話ではない。)
いや、正確にいえば"民主党"には無理だ.(ここ強調)

なぜか(トンデモと取られるのを恐れてか)誰も言わないが、亀井静香氏が重宝されている理由は実は簡単だ。
連立に対する世間の批判がわかっていながら亀井氏を重宝し続ける理由だが、「参院の議席が足りないから」だけではない。(理由は幾重にも絡んでいる)
汚い仕事は亀井の頑固じいちゃんにやってもらいたいからだ。
亀井氏が社会主義者であろうと革命家であろうとどうでもいいのだ
(これはむしろなめているのではなく、かっているのである)
いや、むしろその方がよいのである。
民主党にできないことを国民新党の亀井さんにやってもらって、次の参院選で責任をとらせておさらばするだけだ。
つまり、亀井氏が内閣の統制から逸脱しているように見えるのも、見せているだけである。
民主党の枠内で仕事してもらったら民主党の責任が追求されてしまうから、国民新党の唯我独尊で仕事してもらう必要があるのである。

だから民主とにしてみれば、今回の人事も鳩山首相や平野官房長官、原口総務相が直前まで知らず、亀井氏が独断先行で決めたところが重要なのである。
事前に民主党としての協議があって決められた人事では困るのだ。
(気づかないところでお膳立てがなされているはずだ。)
これは「公約破り」を民主党の「内部統制(ガバナンス)の問題」に振り向けるためには重要なシナリオなのである。
正直にいって一般的な日本人は内部統制の問題には疎いから、何が本質的な問題かを理解できないまま問題を理解してしまう。
(構造的な問題よりも表面的な事象に目がいってしまう。)

このシナリオの出来のよいところは、それだけではない。
何か問題があれば亀井氏を切ればいいだけの話である。
任命責任は問われるが、「連立のため仕方がなかった」という言い訳があるので痛みはやわらげられる。
少なくても自民党の低迷が続いているので、民主党にとって壊滅的な一撃になる可能性は低い。
民主党の「代わり」がいないから、国民は仕方なしに民主党を許容せざるを得ないだろう。
どちらに転んでも民主党のプラスになる可能性が高い。

現に経営者側に立たない労働者の味方であるマスコミは人事問題の表層をなでるだけで、本質を掴もうとしてない。
シナリオの物証はないから証明のしようもないから、トンデモ報道はできない。
実によく考えられているが、最も重要な最後のワンピースまでシナリオができているのか、私の興味はそこだ。
このシナリオが傑作か凡作かは、その時に評価されるであろう。

さて、話を最初に戻そう。
今回の郵政人事の理由。
それは、亀井氏と首相、民主党では違うのだ
単一の理由を求めても本質的なところには辿り着けない。
どれもが間違いであり、どれもが正しいのである。
こういうのをわかりきった上で企画する優れ者がいるのであるから、油断ならない。

彼らとて私利私欲のために動いているのではないだろうが。
いつの時代も「正義」と「正義」の戦いが一方を「正義」にし一方を「悪」にするのだ。
そのどちらも正しく、そのどちらも正しくないのだから。

直接民主制について

2009-10-25 00:10:51 | 政治
久しぶりに大作を作成中だったのですが、途中手違いで内容を消してしまいました。
非常にショックでエントリするのをやめようと思ったのですが、かけた時間(サンクコスト)を諦められず、中途半端な内容ではありますがエントリすることにしました。
文章を校正する気力もないので読みにくいと思いますがお許しください。

「ネットがあれば政治家いらない」東浩紀「SNS直接民主制」提案(J-CAST)
http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html

朝まで生テレビでの東氏の発言が面白いというので取り上げられている。
私なんかは以前から(といっても世間一般に発表しているわけではないが・・)ITを利用して「全法案国民投票制度」の創設を訴えっている人間なので特に新しい提案には思えないが、こういう意見が世間一般に認知されることはいいことだと思う。

ただ私は「「政治家なんていらない」とは思わない
というのも政治家の役割は「意見代行」と「意見委任」だと考えるからだ。

政治家が存在するのは、有権者全員の意見を集約する管理コストが高すぎるためだから、IT技術が進歩すればこの管理コストが低下して国民投票が簡単になるというのは理屈的にわかりやすい。
また立法能力についても、コミュニティ内に自然発生的に出てくるアイディアを基にコーディングすればよいというのもまぁまぁ納得できる。(もともと議員立法って少ないしね)

だが、しかし、有権者は天才でもなければ暇でもないという最大の障壁が存在する。
専門的な法案を理解できるかどうかという問題もあれば、全ての法案の詳細に目を通すことも現実的ではない。

わからない問題について、我々は一票をどのように行使すべきなのだろうか。
自分にも適用される可能性のある法案だとすれば簡単に放棄する選択はできないだろう。
裁判員制度のように、一部の法案についてのみ国民投票にするというのも一つの手だが、国民投票にするしないの判断をどうやて民主的に行うのかという問題もある。

おそらく、問題をよく理解する人に委任することになるのではないだろうか。
この問題はあの人、あの問題はこの人、この問題については自分で、といった具合に選択肢がある方がよい。
さらにいえば、選挙区ではなく他の基準で選ぶでもよい。
披選択者を政治家と呼ぶのかどうかという問題もあるが、要はエージェントである。
有権者は問題に応じてエージェントを選ぶ。(自分でも可)
だからより信任を集めるエージェントは優れた政治家として認知される。
政治家の特徴も出てくるだろう。
(タレント・エージェントなんかは民度の成熟度に応じて信任を集めるかもだが)
派閥とか党なんかのしがらみのない形で政治家が出世できるのだから、本当に有用な政治家が育まれてよいだろう。
4年とか6年とかでなくて、毎回の投票毎に委任するエージェントを選べるとなると、政治にダイナミクスが出てくるはずだ。

でもエージェント・プリンシパル問題は委任する以上残るのだけれども。
ダイナミクスがこの問題を補えるかどうかなのだが・・

民主党は「事業仕分け」ではなく「構造改革」を断行すべきだ

2009-10-20 22:38:39 | 政治
昨日のエントリ(ソニーは普通の会社になったのか ~前編~)に大変な反響を頂いたので、続編を書かねばならないと思ってはいるのだが、その前に自らのエントリ(試される国家戦略局 ~がんばれ菅直人~)について補足が必要になったのでそちらを先にUpする。

当Blogでも述べた内容について元主計官で前衆議院議員の片山さつき氏がブログで述べている。
(かなりのアクセスを集めたらしい。知名度の差というのも激しいな)

無駄を削ることと、その政策や事業自体を止めることの差(片山さつき)
http://skatayama.hamazo.tv/e2061155.html

当Blogのエントリを書いた後に気づいたのだが、どうも民主党は概算要求の精査を菅直人担当相の国家戦略局を中心として進めるのではなく、仙石由人担当相の行政刷新会議を中心に「事業仕分け」として行うようだ。
(先週のサンプロが仙石氏に密着してその件について報道していたのを見て気づいた・・。)

私は目の前で報道されている事実をなかなか解釈できずにいた。
ここでいう「事業仕分け」というのは、あくまでも予算の枠組み変更の中で行うプロセスに過ぎない(つまり予算枠組み変更の政治判断を行うための事業仕分け)と考えていたので、「事業仕分け=歳出削減」のように胡散臭い情報を垂れ流す報道に不快感を持っていた。
みな民主党のこと馬鹿にしすぎだろうと思っていた。
しかし、その後の閣僚の言葉を聞いていると、事業仕分けで歳出を92兆円に押さえ込むあれこれという話らしいことに気づく。

民主党の予算に関する認識というのは国の形を変えるというレベルのものではなく、「事業仕分け」程度のことでしかなかったのか
「事業仕分け」というのは世に言う「リストラ」のことだが、どうリストラするかがなかったら、それは単なる「無駄削減」にしかならない
だが、当Blogのエントリでも述べたように予算に名目としての無駄は存在し得ない。
無駄削減で削減できる量は各名目に余分についている些細なもので、民主党が考えているような数値にはなりようがない
(もちろんやらないよりはやった方がよいが)
民主党に求められているのは予算の枠組みを変える「構造改革」なのであって、Re-Structureである。
それが既得権益にまみれる自民党にはできないので政権交代が必要と訴えていたのだろう
前原国交相よろしく思い切った方針転換をするのではなかったのか。
どこで狂ったのか。

民主党は一度初心に立ち返って再考すべきだ。
少なくても行政刷新会議ではなく、国家戦略局を中心に予算の枠組みを決め直すべきだ。

国に限らず企業でも家計でも同じなのだが、削減というのは容易ならざることなのだ。

歳出を92兆円まで削ることは可能か(岩本康志)
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/31015484.html

ソニーは普通の会社になったのか ~前編~

2009-10-19 23:25:59 | ビジネス
ソニーよ”普通の会社”にまで堕ちてどうする!(池田信夫blog)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/0d5611a694129a39b34d60aa7a6f78b6

ソニーの株主でもある池田信夫氏がネットに出回っている怪文書の内容を肯定しつつ、今のソニーを憂いている。
彼は出井伸之氏が社長に就任したことがソニーの転落のはじまりだと分析している。


株主として20年近くソニーを見てきた私も、ほぼ同感だ。ソニーの最大の失敗は出井氏を社長に選んだことなので、彼が次期経営陣を決めるのは、失敗を拡大再生産する結果になろう。「ものづくり」を脱却するというのはハードウェアを捨てることではなく、メーカーが「コンテンツ」のような水商売を手がけても成功しない。最大の問題は、社内に経営陣への求心力がなくなり、厭戦気分が広がっていることだ。


(実は私も長年のソニーウォッチャーで)
私もソニーについて似たような分析をしているのだが、しかし出井氏が社長にならなかった場合の問題もまた考えなければならない。
私が特にソニーについて酷いなと思ったのは、大賀氏が社長だった時代に経営企画に在籍していたインサイダーによる暴露本を見たときだ。
これは、あくまでもソニーの一側面を書き表したに過ぎないが、大賀社長時代の放漫経営と過大な有利子負債、何よりも大賀独裁によるワンマン経営の実情は、劣悪なものだった
ソニーがいかに企業(経営)設計のないままにカリスマによって支えられてきた会社かがわかる。
ソニーは大賀社長時代に一度窮地に陥っている。

ソニー本社6階(竹内 慎司)

そんな大賀経営の尻拭いをさせられたのが出井氏であり、彼の最初の仕事の大半はそのことに当たられた。
ワンマン放漫経営によるソニーの失速を見てきた出井氏が、経営改革に乗り出すのは自然な流れだった。
米国流の経営手法を取り入れて経営のワンマン化を防ぐブレーキを構築し、どんぶり勘定だった会計を見えるようにした。
彼は大賀氏とのミーティングの度に「君は何を(事業を)つくるのだ?」と聞かれ困り、いつからか「私は商品ではなく経営をつくった。」と言うようになったそうだ。
おそらく、それはソニーの中で出井氏にかかる"事業を創出できていない無実績社長"というプレッシャーに対するアンチテーゼだったのだろう。
そのコンプレックスがより一層、彼を経営改革への道へ走らせた。
自己顕示欲の強い出井氏は、劣悪な経営をしてきた無能経営者に無能と呼ばれることが許せなかったのだ。と私は思う。

私個人の勝手な意見を言えば、出井氏は5年で経営から手を引くべきだったと思う。
出井政権の10年間のうち会長に退くまでの5年間の彼の仕事は評価すべきところも多い。
大賀時代からの脱却、それこそが彼に科せられた使命だったように思うが、彼は後継に(ソニー歴代社長の中でも最も影の薄い)安藤氏を選び会長に退いた後も実権を握ってしまった
私はここが(もし事後的な批判が許されるなら)ソニーにとっての最大の失敗だったように思う。

大賀時代を将来への先行投資として捉えれば、その後始末として出井時代は必要だった。
組織を立て直すために果たした出井氏の役割はある程度認められてよいと思う。
ただ、その後の成長戦略に関する部分は事業を引っ張れる後進に譲るべきだったのだ。
しかし、彼は事業を創出する基盤を創ろうとして失敗した。
本社機能を投資銀行に見立てて各事業ユニットにイノベーションを求めたが、イノベーションなどというものは事前には予測不可能なもので、リスクをとる必要のあるものだ
独立採算制を取り入れた各事業ユニットにリスクなどとりようもなく、この試みは失敗する
彼はイノベーションを管理しようとしたのだ。
自分がイノベーションを起こせなかったアンチテーゼとして誰かにイノベーションを起こさせようとして失敗した。
その意味で、彼に足りていなかったのは、まさに彼のコンプレックスのまま、イノベーションとは何かを知らなかった点につきる

出井氏はクレイトン・クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」に強い影響を受けたという。
成功体験を拭い去ろうと新たなイノベーションにこだわった結果、イノベーションの芽を摘んでしまったのだ
それがまさにイノベーションのジレンマそのものである。

後編へつづく。。。

このエントリの内容はかなり情緒的なもので、エントリ内で行われている各主張の根拠は何も示されておりません。
論理的な説明を必要とされる方には不満が多いと思いますが、一つの物語として読んでいただければ幸いです。

試される国家戦略局 ~がんばれ菅直人~

2009-10-16 23:19:14 | 政治
概算要求でよみがえる「美濃部都政」の悪夢(池田信夫)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/666c1515ce8a199bb5271550a1e028a0

概算要求の混乱にみる「国家戦略」なき鳩山政権(池田信夫,ニューズウィーク)
http://newsweekjapan.jp/column/ikeda/2009/10/post-71.php

(今更いうまでもないが)
池田信夫氏が民主党の戦略の無さを指摘している。
民主党に国家戦略などないのは以前から周知の事実であるが、それでも私は個別の戦闘能力に期待する面があった
(私は民主党の長期政権に期待をもっていない。あくまでも日本の政治の進化のために必要な一つのステップとして捉えている。)
ところが、個別の戦闘ですら既に敗走し始めているというではないか

補正凍結、閣議決定へ 「査定大臣」戦績は?(NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20091016AT3S1502J15102009.html

これは一面的な情報でしかないが、こういうのを見るにつけ民主党の勘違い議員にがっかりする
いまのところ鳩山内閣の大臣でまともなのは前原国交相と岡田外務相くらいじゃないか。
批判もあるが、前原氏は就任早々から民主党の公約通り、投資効果の低い事業をぶった切っている。
こうなったら後は藤井財務相と菅国家戦略局担当相に期待するほかないようだ。
彼らに予算要求を蹴ってもらう他あるまい。
何を勘違いしてんだいお前ら!」と。
(時間がないと言い訳するに決まっているのだが。)

藤井財務相、概算要求「このままじゃまずい」(NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091016AT3L1607616102009.html


これは極めて当たり前のことだけれども、
誰にも損失を出さないまま削れる予算なんて皆無に決まっている。

予算を通すには財務省のチェックも通るし、
ただでさえ財政赤字を垂れ流しているから、明らかに無駄な予算は存在しえない。
どんなに投資効果の低い予算にも、かならずもっともらしい名目がついている。
その名目の文脈作成技術は官僚の得意分野である。


ゆえに「査定大臣」の意味は「無駄を削れ」ということでは有り得ない。
民主党の重点政策に税金を振り分けるために、
全体最適の観点から投資効果の低いものについては優先度を下げて切り捨てろという意味だ。


どの予算も誰かにとって必要なのは初めからわかりきっていることだ。
その誰かに損失をもたらす可能性があるから、切れないというのなら、査定大臣失格である。
鳩山首相はそのような大臣を早々に辞めさせたらいい。
いや、このような状況に対抗するための国家戦略局だったかな。
予算の枠組みを決める役割だったな。
さてさて、菅直人に期待してみよう

自民党のために自民党は補選に負けた方がよい

2009-10-16 00:10:16 | 政治
小沢・鳩山民主党に勝てる自民党の再生はこれしかない(天木直人)
http://www.amakiblog.com/archives/2009/10/15/#001506

当Blogでも主張してきたように、短期的には自民党が今の延長線上で民主党に勝てる見込みはない。
(当Blogでは河野太郎と小泉進次郎を推している。)
民主党が来年の参院選までに大失点をする以外の方法は、自民党が解党的出直しをすることぐらいしか思いつかない。


 自民党の再生は国民の8割が望んでいる事だ。それができる政治家として今誰がいるというのか。
 親ばか小泉純一郎が、次男進次郎の下に有能な人材を結集させ、小沢・鳩山民主党に参院選で挑戦することしかないだろう。
 それを成功させる鍵は、小沢・鳩山民主党を上回る政策を鮮明に打ち出すことだ。
 昨日の公開質問状と同様に、このメッセージが小泉親子に届く事を期待して書いている。
 小沢・鳩山民主党を上回る政策とは何か。 
 それはズバリ本物の「小さな政府」と本物の「日米同盟」を掲げることだ。


この意見にも当Blogは同意する。


 その二つを正面から批判して、その対極の政策を掲げるのだ。
 それに賛同する優秀な人材を小泉進次郎のまわりに結集させるのだ。
 それこそが来る参院選挙で、民主党・社民党・国民新党連立政権を選ぶのか、新生自民党による保守政権の再生を選ぶのかの、国民による究極の選択になる。
 本物の「小さな政府」とは何か。本物の「日米同盟」とは何か。


自民党総裁選挙で河野太郎の議員票が伸びなかったのは、前回の衆院選だけでは、まだ自民党が負け切っていないからだ。
その後の自民党議員が地方で地方への利益誘導の話ばかりをして選挙に勝とうとしている姿を見て、絶望した。
彼らに国家ビジョンを語る力はない。
その意味で民主党とどんぐりの背比べレベルなので、引き分けでは民主党には勝てない。
自民党の人達は、まだ旧来型の選挙で勝てると思っちゃっている
彼らは小沢のどぶ板選挙の意味も理解できていないらしい。
一度、小沢先生になぜどぶ板選挙をするべきなのか、教えを請うた方がよいのではないか。

参院選の補選で2敗してもらって、自分達の考えが時代遅れだということをわかってもらわないといけない。
自民党の再生はそれからだ。

NHKスペシャル・セーフティーネット・クライシス 雑感

2009-10-15 23:50:01 | 社会
今更であるが10/4に放映されたNHKスペシャル「セーフティーネット・クライシス Vol.3」を見た。

日本では最近になって「子供の貧困」にフォーカスが当たるようになってきたが、この手の話は特段新しい議論ではない。
貧困について問題意識を持つ識者はもう何年も訴え続けているが、政治の世界には声が届かなかっただけだ。
いや、届いてはいたが、優先順位が低いままで、ほとんど手をつけられずにいた
しかし、民主党が政権与党になり、流れが大きく変わろうとしている。
重要なことは問題が解決に向けて動くのか、動かないかということである。
ここが注視されなければならない。(この点、湯浅氏はよく理解していると感じた)

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国家政府による貧困対策などの社会政策は、国家が国民生活に介入するということを同時に意味し、バランスの問題はあっても、どうしても社会主義的にならざるを得ず、ゆえにアメリカでは毛嫌いされ、ヨーロッパの社会民主主義国家で進んでいる。
そもそもアメリカ合衆国は国家権力からの脱却を目指した人達による国家であるから、国家政府を信用していない人が多く、社会主義的な性質を帯びた政策を嫌う傾向がある。
リーマンショックのような出来事があった後も、オバマ大統領の社会政策が苦境に立たされている様子を見ることができるのは、それでもアメリカという国が成長し、夢と希望に溢れる国家だからだ。
(優秀な人材も民間に流れるから、民間部門のイノベーションに期待しているという側面もあるだろう)
一方、ヨーロッパの古い先進諸国は日本よりも早く低成長時代が到来したため、問題の根本的解決策が求められた。
アメリカや新興国のように高成長を前提とした政策では、問題を解決できないことを早々に理解することができたのだ。
(それで同じく低成長時代に入った日本は先進国の先輩ヨーロッパに答えを求めているのである)

アメリカ型とヨーロッパ型のどちらがよいのかは、何をクローズアップするかに依存する問題で、単純には決められない。
どちらにも光と影がある。
もちろん、スウェーデンやデンマーク、フィンランドなどの北欧諸国の国民の幸福度の高さを見るにつけ、羨望の眼差しを持つが、それが日本においても適用可能かどうか、そしてそれが持続可能かどうかは議論がわかれるところであろう。
(そのあたりはこのページが参考になるhttp://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20091012/p1)

あと、ことさら主張されるのがサイズの問題である。
サイズの問題を想像するのは容易い。
あなたがある会社、スポーツサークル、なんでもよいがチームのリーダーだとしよう。
あなたが管理可能な人数は何人だろうか。
スーパーマンでも100人が限度であろう。
日本の学校の40人学級ですら先生一人では無理だと言われるくらいだ。
並みの人間ならせいぜい20人程度が限度である。
だから最低限のルールだけを厳密に守らせて後は自由にやらせる方が楽だ。
そうすると、中には天才的な才能を開花させる人もいるかもしれないが、中には没落する人もいるだろう。
没落する人が増えてきたら、みんなでがんばろう方針に切換えることもいい。
しかし、ここで問題になるのがサイズだ。
10人教室なら先生も一人ひとりをケアできるが、40人となると無茶だ。
一人ひとりに個別の生活や個性があるため、全てを網羅することは能力的に不可能だ。
全てを管理しようとして一人も管理できなくなり、破綻するパターンが目に見える。
あらゆるシステムは限界数までは効用を発揮できるが、それを越えると徐々に効用を失うのではなく、一気に破綻する。

(台風による鉄道網混乱をネタにトレードオフについて考えるを参照)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0632d0bf67159250eba46909d346fa96

北欧モデルを日本に適用することは可能だろうか。
ここで登場するのが日本を道州制で北欧諸国並みのサイズに分割統治するというアイディアだが、問題も多い。
地方分権が進むと中央集権型国家に比べて、(日本に国家戦略なんてないかもしれないが)国家戦略の画を描きにくい。
全体最適が、半全体最適になってしまう(今の日本に全体最適なんて言葉自体が馴染まないけれど)。
何をするにも必ずトレードオフがあることを忘れてはいけない。

-<>-<>-<>-<>-<>-

戦後、日本は貧しかった。
親のいなかった人、学校に通うことができない人、住むところのない人、食うのも難しかった人もいた、みなそうやって生きてきた。
「私もがんばったんだからお前らもがんばれ」と言う高齢者の声が聞こえてきそうである。
(確かに今でいう「貧困」は数十年前まで「普通」だった。)

だが、それが可能だったのは、その人達が特段優れていたからではない(苦労は認めるけれど)。
経済がもの凄い勢いで成長していたからだ
彼らの成功を否定するつもりは全くないが、彼の成功は彼らの努力だけによるものではなく、そのほとんどは環境によるものだ
(彼らは認めないかもしれないがね。修羅場をくぐってきたなどといってね。)
(しかし環境がなければ成功することもできない。我々はお釈迦様の手のひらで騒ぐ孫悟空のようなものだ。)

しかし、今、日本経済は停滞している。
加速による力でバランスを保ってきたシステムが、加速が落ちることでバランスを崩しはじめている

ここで一度立ち止まって考えよう。
バランスが崩れていく中、セーフティネットの必要性を訴えるのはよくわかるが、セーフティネットを満足に張る事は可能なのだろうか。
「世界第2位の経済大国の日本が」なんて話をよく聞くが、GDPが第2位なんてものは単に相対的順位に過ぎず、2位だから十分な国力があるというわけではない。
そもそも日本には十分なセーフティネットを張る力があるのか
我々が今置かれている環境はどんな環境なのか。
誰かそれを検証してくれまいか。

どんなにがんばったって100%以上の力は出せないのだから、我々が目指すべきなのは、100%の力を発揮することと、限界値を引き上げることである
100%の力を発揮するためには「全体最適」がキーワードになるし、限界値を引き上げるためには「潜在成長力」がキーワードになる。
そのあたりは↓を読んでもらいたい。

『鏡の国のアリス』の「赤の女王」が言い当てた日本経済低迷の真相(辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10086/

やばいくらいにグタグタなエントリになってしまった。
NHKスペシャルを見た雑感ということで許してくれまいか・・。

安心社会と信頼社会

2009-10-13 23:19:40 | 社会
本エントリは誤解に基づく表現をしている可能性があるため、後日修正する可能性があります。

「武士道」より「商人道」に学べ(アゴラ、池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/770161.html


一時、日本社会の「道徳の崩壊」を嘆き、武士道の復活を求める議論が流行したことがあった。著者はこうした通俗的な「道徳教育」を批判し、むしろ市場のルールを守る「商人道」こそ重要だと説く。武士道の依拠しているのは、集団に忠誠をつくす安心社会の原理だが、商人道は不特定多数の相手と取引するための信頼社会のルールだ。日本人は互いを信頼しているなどというのは神話で、その実態は特定の集団の中での長期的関係に依存する安心社会だ。


人間によって構成されるシステムについて語る時「評判メカニズム」を避けては通れない。
特に緊密性の高いコミュニティでなくても、評判メカニズムは機能する。
オンラインショッピングやネットオークションなどがその典型だ。
いや、むしろネットのように情報過多かつアクセス・コストが低い世界では評判メカニズムは先鋭化し、アクセスは一部に集中する。
人気サイトとその他大勢といった具合だ。

ビジネスのグローバル化によって安心社会から信頼社会への移行が起きる一方で、ネット上のコンテンツの部分では評判メカニズムが先鋭化しているのである。
オープン・プラットフォームは信頼社会型へ、そしてその上に乗るユニーク・アプリケーションは安心社会型へ、という流れだろう。

結局のところ「安心社会」にせよ「信頼社会」にせよ、要は何によって「信頼」を得るのかという話なのである。
評判によって信頼を得るのか、組織的、制度的なものによって信頼を得るのかという違いだ。

人間の趣味趣向のように人によったり時代によったりで変わるものは、つまり定義の難しいものは評判メカニズムの方が信頼を得やすいし、権利管理や課金システム、裁定処理などの比較的定義の容易なものはルールの明文化がなされた方が信頼を得やすいだろう。

民主党による雇用(派遣による雇用)政策

2009-10-13 22:48:39 | 政治
民主党は派遣使っちゃダメでしょう(城繁幸)
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/57a33b3771f20181fb1f0123458f1ca4

年金全8.5億件、4年で照合 厚労相方針 6万人投入 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/1012/TKY200910110301.html

これはちょっと面白い。


朝日新聞によると、長妻さんが年金問題調査で派遣を使うらしい。
登録型派遣を廃止しようとしている政権が使っちゃダメでしょ。
「ダメなのは製造業だ、一般事務はいいのだ」というロジックも無理がある。
連立相手の社民党にいたっては、マニフェストで「有期雇用の規制」自体を掲げてもいる。


誰だって作業上必要性が出てくれば、正規社員以外の一時雇用(例えば派遣)を使いたくなるのが普通だ。
この場合、4年間の年金記録の照合のためだけに正社員を雇うのはコストが高いから、のべ6万人もの派遣やアルバイトを雇おうという話になる。
一時的な作業だから一時的な雇用を用いる
これは、実に合理的だし当たり前だ
製造業派遣だって企業側からすれば永続的に生産が必要かどうかもわからない作業(いわば一時的作業のため)に当てる人員を、正社員として雇おうとするインセンティブが働かないのが当たり前なのである。

企業経営者は、経営はオセロゲーム(つまり一瞬で引っくり返る)のようだと言う。
今期最高の利益を上げたかと思えば、来期に最大の赤字に転落する可能性があるからだ。
(実際に2008年度に起きた。日本の名だたる大企業が最高益から大赤字へと転落した)
今、自分の会社が利益を上げていても、それが永続的に維持できるなどと考えている経営者はまずいない
そういう意味で、経営者からすれば、自社の強みであっても一時的なものにしか見えないから、常に利益や業界動向に関してセンシティブにならざるをえない。
この点が社民や共産党、一部の見識者と呼ばれる人達には見えていない

彼らはすぐ内部留保の話を取上げ企業を糾弾するが、であるならば1400兆円あるといわれる日本の個人金融資産も批判してみるべきだ

あなた達が金を使わずに貯蓄するから内需が盛り上がらないじゃないか」と。

家計にしてみても、今の利益では将来に不安があるから貯蓄するのだ。
企業も同じで、将来に不安があるから備えるのである
(対投資効果の高い案件がないからという言い方もできる。一方では成長率の低さが問題なのである)

つまり、何が言いたいかというと、派遣などの非正規雇用が生まれるのは、そこに一時的雇用の需要があるからに他ならず、それが合理的であるからであって、企業を責めても仕方が無いのである。

その需要を不適切として禁止するのも一つの趣向としては面白い。
(いわば売春宿を禁止するのと論理的には同じだな)
が、それで問題が解決するかどうかは別問題である。
なぜなら(売春宿もそうだが)問題となる行為を禁止したところで需要がなくなるわけではないからだ。

抑え付けてもその需要は必ず違った形で表面化する。(活火山の噴火と同じ)
(禁酒法なんて法律も似たような理由で無茶だ。)

それで、需要を適切な形で誘導する仕組みが重要なのである。
非正規雇用問題でいえば、需要を正規/非正規の制度が歪めているので、非正規にしわ寄せがいくのだ。
だから、守られている正規雇用に風穴をあければ非正規問題は大きく改善するという城氏らの雇用流動化提案は真っ当な意見なのである。

もちろん、既得権益者である正規雇用側の人間は反対するであろうが。


まあ仮に登録型派遣自体は規制せずに残すとして、パートで集めきれない分を派遣会社
に頼むとしても、3年経ったら公務員にしないといけませんから。
3年直前に雇い止めなんてことは、やめてくださいね。


[スピリチュアル対話シリーズ][02] こびとさん

2009-10-10 23:07:31 | スピリチュアル
[スピリチュアル対話シリーズ][01]事前ネタふり
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/902d99898c8f96d893ae1ce8cf6fe885

今回はスピリチュアル対話シリーズ第2回をお送りします。
対話を行うのは前回と同じく硬派ブロガーY氏自称スピリチュアリストS氏です。

今回のテーマは事前ネタふりで取り上げた「こびとさん」についてです。
ではどうぞ。


よろしく。
前回は私が少し細かいところにこだわりすぎて、話が平行線になってしまった。
今回は理解を得るというよりも話を聞くことに少し力点を置いて議論を進めようと思う。



わかりました。
どうぞお手柔らかに。




今回は我々にインスピレーションを与えている「何か」についてお聞きしたい。
ここでは「こびとさん」と呼ぶことにしたい。



「こびとさん」ですか(笑)。



早速だが「こびとさん」とは何だろうか。



あなたは何だと思いますか。



それを知らないから質問したのだが。



あなたは、あなたが知らないことを私に聞いたのですか。



う~ん、いきなり「とんち」でもはじめようということなのか。
質問返しの意図をはかりかねるのだが。



「あなた」が知らないことを「わたし」が知っていると思うのはなぜでしょうか。



・・・。
あなたが知っているかどうかは知らないが、あなたが知っているようだったから質問をしただけだ。
あなたは知っているのか。



突然びっくりする質問をしてしまい申し訳ありません。
ですが、「この問い」こそがあなたの質問の答えに繋がっております。



どのように繋がっているのか説明してくれないか。



その前に、まずあなたに質問させてください。
あなたは「こびとさん」を知っているのではないですか。



知らない。知らないから質問をしている。



なぜ知らないと思うのですか。



「なぜ」と聞かれても答えようがないのだが・・・。
全く見当もつかないのが正直なところだ。



では質問を変えましょう。
あなたは、あなたが何らかのインスピレーションを感じるとき、それはどこから与えられるものだと思いますか。
率直に思うままお聞かせください。



どのようなものを「インスピレーション」と呼ぶのかは定義が曖昧だし、人それぞれなのだと思うが、私自身の経験からすると、たまに自分ではない何かからの力が働いているような気がする時はある。
自分だけではどうしようもない問題が運が良く解決された時や、何らかの因果を感じる偶発的な出来事、何かの作業中に感じる閃きなど、少なくても自分が意図していないけれど自分にとって意味のあることは起きる。
ただ、「そう感じる」というだけであって、それが何かの勘違いかもしれないし、偏見かもしれないと思う。
意味のない単なる偶然を「後付バイアス」と呼ばれる人間の習性で意味づけている可能性は否定できない。
私はそう考えている。



非常に率直にお話いただきました。ありがとうございます。
あなたはとても冷静にご自身のことを分析されているようです。
「自分の力だけでは物事を成し得ない」という謙虚さもお持ちです。
ですが、あなたは「あなた自身」のことをよく知らないようです。



なんだか騙されている気もするが、話の流れはわかった。
だが、「あなた」自身とは何のことをいっているのか。
意図をつかめていない。



あなたにとっての「私」のことです。



・・・あなたにとっての私?



そうです。
あなたは「私」のことをどの程度知っていますか。



まだ意味がわからないのだが、私は私のことを十分には知っていないのかもしれないが、私のことは私が一番よく知っていると思う。



そういう意味ではありません。
あなたのいう「私」というのは何ですか。



・・・。



あなたが「私」と考える時、「私」というものをどのように定義していますか。
という意味の質問です。



なるほど。つまり「自我とは何か」という問いか。



そうです。



そんな哲学的、いや形而上学的なことを言われてもね。
それがわかれば今頃私は大哲学者になっているよ。



私は別に哲学的な話がしたいわけではありません。
あなたの質問に答えようとしているだけです。



なぜそんな回りくどい言い方なのかわからないが、自我論のような話をすることと「こびとさん」のことと何の関係があるのか。



あなたが「こびとさん」とは何かと質問されたので、その答えを述べているだけです。



ちょっと待ってくれ。
あなたのその論理に従うと「自我」と「こびとさん」とに関係があるということになるが、そういうことをあなたは言いたいのか。



さすがです。素晴らしい理解力ですね。



どういう関係があるというのか。



「こびとさん」は「あなた」です。



予想にも期待にも反する。その答えは。
「後付バイアス」のことを言っているのではないだろうな。



もちろん。違います。



あなた自称でもスピリチュアリストだろう。
そこは守護霊とか神とか言うべきではないのか。



お気を使っていただけるのはありがたいのですが、それではないとも言ってません。



あぁ・・相変わらず話が読めない。
単刀直入に言ってくれ。
「こびとさん」は何なのだ。



だから「あなた」です。



私は私自身にインスピレーションを与えている。
そういうことか。



そこは表現の難しいところですが、間違ってはいないと思います。



私にそのつもりはないのだが。



でも、インスピレーションを与えてもらった感じがしたことありますか。



言われてみると、誰かから与えてもらった感じはしないが、しかし自分ではない何かの力が働いている気もする。
単なる偶然のような気もするのだが・・・。



スポーツ選手が体調を整えるために、心身ともに充実することを目指すのはなぜでしょう。



心と体が関係しているからでは。



インスピレーションが誰かから与えられるなら、自分を磨く必要はないのでは。



それは違う。
インスピレーションだけで仕事するわけではない。
あくまでも自分自身の力を向上させて、基本的にはそこで勝負するのだと思う。
追加的なところでインスピレーションを期待しているのではないか。
それに、スピリチュアル的には「インスピレーションを受けやすいように器を磨くため」とか言ったほうがよいのではないか。



またまたお気を使っていただきありがとうございます。
しかし、あなたはさきほど無意識のうちに答えを口にしています。
「心と体が関係しているから」と。
インスピレーションを得るには関係をよくしておかないとですね。



なるほど。
あなたが「心」がインスピレーションの源だといいたいわけか。



それもまた表現として難しいところですが、間違っていないと思います。



近年、心身二元論は否定される勢いだが。



私が主張しているのは、心身二元論ではありません。



ついさっき、間違っていないと言っていたじゃないか。



「表現の難しいところ」とまえおきをしておきましたし、それにまだ心が何かについて何も言及していません。



では心とは何なんだろうか。
私は「心」に神秘的な構造があるとは思っていない。



その問いを解くには「自我」について考えなければなりません。


(...第3回へつづく)