進化する魂

フリートーク
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気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

ソニーは普通の会社になったのか ~番外編~

2009-11-28 13:37:01 | ビジネス
こちらのエントリ(ソニーは普通の会社になったのか~前編~)のコメント欄で非常に有意義な議論がなされたので、整理したものを新しいエントリとしてUpします。
(Snowbeesさん、いつも鋭いコメントありがとうございます!)

Sonyが力点を置くべきはCCC(Cash Conversion Cycle)である

パンソニック・中村会長が在米時に、起用した米人・経営コンサルのコメント。
http://www.ondisruption.com/my_weblog/2007/05/qa_with_francis.html


May 2007 ... My advice to Howard Stringer is simple: set the inputs of cash conversion -- days in inventory, receivables, ... At Apple's current growth rate it will be as large as Sony in only eight quarters or so and with a product/service portfolio a fraction as large. ... or not you can scale up profitably Wal-Mart style, your cash conversion cycle is your critical management tool. ...


要約すると、経営者はオペレーション速度を向上させなければならないというもので、経営速度を「早く」「軽く」するという意味合いでよいと思います。
ただ、言葉でいうのは簡単ですが、グローバルな大企業でこれを実現するのは容易ではありません
例えば、在庫回転日数をグローバルで機会損失を防ぎながら適切な値に保つためには、強力なサプライチェーン・マネジメントシステムが必要です。
世界中の国々の販売状況やその予測、資材調達状況やその予測、輸送状況やその予測、設計開発状況やその計画、etc...などの情報をリアルタイムに集約して、リアルタイムに総合的な計画を立てるというのは、かなり有能なCIO(Chief Information Officer)と理解力と説得力のあるCEOの下でなければ実現できません。
世界中に分散する各現場から有意な情報をリアルタイムに取得するのからしてまず大変です。
世界中の末端の社員まで隅々まで経営の意思が行き渡り、それを理解できる社員がいて、それを実現できる仕組みがなければとてもできないのです

以上を踏まえた上で、ソニーという会社とサプライチェーン・マネジメントの関係性についての私見を述べます。
(まくまで私個人の調査に基づく私見です。誤解が含まれる可能性は多いにあります。)

もともとソニーは創業者の一人である盛田氏がグローバル・ローカライゼーションを掲げて以来、分権統治を経営スタイルとする企業でした
この思想は出井政権でも継承されまして、彼は「複雑系経営」のような言葉を使って経営スタイルを進化させようとしました。
ソニーがこのような経営スタイルを採用した理由は、大きく二つあると考えています。
一つは、盛田氏の時代には、ビジネス領域が急拡大するにあたって(特にアメリカの)人材が不足したこと(日本人スタッフだけでは対応できなかったこと)。
もう一つは、出井氏の時代には、個性や創造性を尊重することで成長してきたソニーという会社をカリスマ性なしに統制することができなかった(創業者以外の人物が権威を持つことができなかった)ことです。

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ソニーという会社は日本の企業の中でも先んじてグローバル企業を目指したパイオニアだったのですが、その経営実態は世間的な「グローバル企業」の華々しいイメージとは異なり、日本的経営とアメリカ式経営が中途半端に混合して出来た「擬似グローバル企業」だったのです。
大賀社長時代にはソニー・アメリカという子会社のコントロールすらままならぬほどでした。
ただし、完璧な経営スタイルというのは現代においてまだ発見されていません。
完全な政治制度がその姿を現していないように、我々は完全な経営スタイルを求めて今も手探り状態なのです。
その意味では、私はソニーの経営スタイルが他と比べて劣っているというような評価はしていません。
ソニーはソニーの経営スタイルを追い求めている、そう考えております。

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このため、ソニーという会社はハワード・ストリンガー氏が出井氏の後を継いで会長に就任して「Sony United」というスローガンを掲げるまで、グループだけでなくソニー本体ですら全くバラバラな企業体でした
外部には、ソニーグループの多様な事業ポートフォリオの利点を主張しておきながら、その実態は「(ストリンガー氏曰く)サイロの壁」だらけだったようです。

このあと、ストリンガー・中鉢体制下で行われた構造改革にて、この分権体制はかなり見直されたようですが、如何せんぽっと出のストリンガーにシニア・マネージャー達の暗黙的な抵抗があったようで、その改革は中途半端に終わったようです。
(正確にいえば、世界的好況で問題点がボケたというべきでしょうか。)

その後、リーマンショック以来の世界的需要縮小で業績が悪化すると、ストリンガー氏は、このシニア・マネージャー達を切って経営陣を刷新します。
(次期社長候補まで切ってしまったので社長をやれる人材がおらず、ストリンガー氏自身が会長と社長を兼務する形になってしまったが・・。)
これでようやくストリンガー氏は中央集権的権力を手にして、グループ全体かつグローバルでの改革に乗り出したようですが、この結果を注視しなければならないようです。
この改革には、Cash Conversion Cycleも入っているはずです。
(でなければ私はソニーという会社に失望する)
私が聞いた話では、とにかくスピードを重視しているようです。

サムスンが躍進したのは中央集権的な経営が当たったからだと言われますが、果たしてソニーにはそのような経営が可能なのかどうか、ここが正念場でしょうか。
ただ、サムスンのビジネスモデルは成長が期待できる既存ビジネス領域への資本の集中投下ですので中央集権的な経営スタイルでよかったのですが、今後自らイノベーションを起こして新しいビジネス領域を開拓していく道を模索していくのであれば、ソニーと同じ経営の悩みにぶち当たるはずです。

一つだけ、補足です。
私はソニーという会社が中央集権的企業になることが良い事なのか悪い事なのかわかっていません。
(もちろん、サムスンのような独裁企業にはならないと思いますが)
しかし、私はソニーという会社がどういった経営スタイルをとるのかについて非常に興味を持っています。
これは戦後60年経った今、日本企業の行く末を占う意味で一つのベンチマークとなると考えるからです。

Sonyの新しいブランド・イメージ「make.believe」をどう考えるか

SONYの新しいブランド・メッセージをご存じですか?(大西宏)
http://news.livedoor.com/article/detail/4468812/


SONYのイノベーションと言えば、なんと言ってもウォークマンが象徴的ですが、ウォークマンのイノベーションは、スピーカーを省いて小型化したということではなく、人びとが移動中に気に入った音楽に浸って楽しめる世界を生み出したことであったはずです。それが中核価値のイノベーションです。

そんなことを考えると、あの"make.believe”(メイク ドット ビリーブ"はちょっと、的確な方向を示していないのではないかという気もします。


私は「make.believe」について、ソニーが対外的に発表している内容しか知りませんので(特に誰かにインタビューしているわけではありませんので)、ソニーの本意を掴め切れているのかは自信がありませんが、思うところを述べさせていただきます。

まず、ソニーは「make.believe」を新しい「ブランド・メッセージ」だと主張されているわけです。
昔、ブランド研究の専門家の方に「ブランドとは象徴(キャラクター)である」と教えて頂いたのですが、私が思うにその意味するところは結局のところ「ブランドとはある種の"信仰"である。」ということになるかと思います
「信仰」というのは、悪い言葉でいえば「思考停止」ですが、良い意味でいえば「信頼」です

その意味で考えると、ブランド・メッセージが「make.believe」というのは、全くその通りで、むしろそれがブランドというものなのだから、"ビジネス的な意図"がなければ、あえて言うことでもないと思います。

ということですので、ここでの主題は「ビジネス的な意図」が何かというお話になるかと思います。
大西宏氏は「中核価値」と「make.believe」との繋がりが見えないという指摘をされておりますが、ここはもう少し考えて欲しいところです。

というのも、ソニーが近年主張している「ユーザ体験(User Experience)」という価値基準は「中核価値」そのもののことです。
ソニーは「make.believe」を提唱するにあたって「ユーザ体験」を引き下げたわけではないのですから、一般的な受け方として正しい解釈は「make.believeはユーザ体験という価値基準を包含している」となるのだと思います。
つまり、中核価値を一次元メタ的に見ると「make.believe」になるのだとソニーは主張している、と私は考えます。

何やらわかりにくい話になりそうなので、簡単に私見を説明させていただくと「「make」と「believe」が「.」で結ばれることで、そこにユーザ体験価値(中核価値)が生まれる。」とソニーは主張しているのだと思います。
「believe」が中核価値のメタファー(1次元抽象的な概念)なので、それを「make」という「行動」で1次元具体化する、その役割を担うのが「.(Sony)」のようなイメージでしょうか。

日本人はメタ認識が苦手と言われておりますので(宗教的背景の差異もあるかもしれませんが)、そのあたりで真意が伝わらないのかもしれません。

いや、これは私の勝手な解釈なので、正確にはソニーに聞いて見ないとわかりません(笑)

事業仕分けに思う日本政治の民主化:もっと多くの利権者が声を張り上げろ!

2009-11-26 23:34:13 | 政治
「事業仕分け」に対する逆襲が始まっているようだ。
言いたいことは山ほどあるがとりあえず自分のスタンスだけ明確にしておく。

科学技術関係予算を巡る攻防だが、私の感想は下記2名の意見に近い。

ノーベル賞受賞者等の緊急声明もお門違い(能澤 徹 )
http://japan.cnet.com/blog/petaflops/2009/11/26/entry_27035531/


2009年11月25日、日本のノーベル賞受賞者4人と数学のフィールズ賞受賞者1名による「事業仕分けに対する緊急声明」なるものが発表された。

 この声明も、基本的に、前回述べた例のコンソーシアムの声明と同種のもので、事業仕分けの実態とはかけ離れた観念論で、毎年予算編成時期恒例の「金よこせ運動」の一変種に過ぎないものである。農業団体、漁業団体、林業団体、あるいは、経団連、日本医師会、等々各種団体が、補助金を求め、あるいは診療報酬の引き上げを求め、省庁に日参した陳情騒動の変形に過ぎない。

 声明文の骨子は、我が国は「科学技術創造立国」「知的存在感ある国」を目指さねばならず、財政難であっても、将来に禍根を残さないためには、学術、科学技術には優先的に予算を配分しろ、という強要であり、長期的視点で考えねばならない学術や科学技術に対し事業仕分けなどで評価するのは「けしからん」といった内容である。

 端的に言うと、この声明も、前回同様、各個別事業の実態を無視した観念的「総論」で、抽象的で一方的な「金よこせ」運動で、ある意味では、「江戸の敵を長崎で」式の超論理の「後出しじゃんけん」のようなものである。

 つまり、ある特定の政策の実施評価で落第点を突き付けられると、突然切れて、横丁のご隠居連などの助っ人を集めてきて、日本国の進むべき道はこれこれだ、だから長期的視点で、個別で無く総体として考えるべきで、仕分けには馴染まない、などと事業仕分けを逃げ回る超論理を展開し、マスメディアを扇動しているのである。実に巧妙な政治的駆け引きで、裏で元法学部教授が仕組んでいたわけで、受賞者達は、バラエティ番組に出演したタレントということである。


まだ、次世代スパコンなるものの、仕分けとやらで揉めているのか。あほらしい。(堀江貴文)
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10396418644.html


政治家はスパコンの歴史とか世界の趨勢を良くわかっていない割りに、ノーベル賞科学者が言ったことを無批判に信じてしまっている様子である。彼はいまや理化学研究所の理事長職であり、科学技術利権を代表する側であり、予算を取ることが彼の至上命題なのだ。カネを貰いたい側は当然自分達に都合の良い主張をするに決まっている。問題はそれを批判する側の政治家に知識が乏しく、塚田一郎氏のように妄信してしまっていることである。


私は、大学の学長だとか、お偉い学者のみなさんが出てきて「科学技術予算の重要性」について熱弁を奮うことは、利益団体が自らの利益を主張するのと何ら変わらないものだと考えている。
彼らは利権者なのだ。
今現時点で事業仕分けとは関係のない人達も多いが、今起きている騒ぎは、事業仕分けによる予算削減の波が他の予算に拡大しないようにするために防波堤を築こうとしているのである。
明日は我が身という思いなので、一致団結して難局を乗り切ろうという活動なのである

でも私はそれでいいと思っている。
彼らがノーベル賞受賞者だからといって論理的である必要は必ずしもない。
(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091126/plc0911262253029-n1.htm)
(教育再生会議の時に彼の論理が破綻しているのはよくわかっていた)

(「貧困を巡る攻防」と「民主主義の懐の深さ」民主主義の凄み)などで書いてきたように、自由民主主義の効用というのは、それぞれの利権者がそれぞれの利益を主張することによって得られるものであると考えている。
だから、利権者は思う存分、自分の利権を主張すればよいのである。
むしろ問題は、全ての利権者が声を上げれていない状況にあるのだ。
今まで日本の政治と言うのは一部の強い利権者の声のみが強調されてきた。
日本の政治の問題点は、利権者にあったのではなく、一部がバイアスされてきたところにあったのである。
この不均衡を解きほぐして、自然均衡点を目指すようにすることが日本の政治がまっとうになれる道である。
あらゆる団体、あらゆる国民がもっと声を上げるべきなのである。

そういう意味で、今回の事業仕分けには非常に大きな意味があったと思う。
情報が公開されるキッカケとなり、ゲーム参加者が増えるからだ。
この流れは不可逆的なもので、談合ゲームへの後戻りは許されぬであろう。
一部のパワープレーヤによる都合のよいゲーム展開が許されなくなるのだ。

それと、民間仕分け人が事業仕分けやること批判する人がいるけど(特に未だに与党ボケしている自民党系の人達が)これはかなりの勘違い。
だったら国会議員だったら勝手に決めていいわけ?
国民から選ばれていないのに主計官だったらいいわけ?
違うでしょ。
問題は、最も合理的な選択がなされたかどうかであって、誰が決めるかではない。
こういう権威主義的発想が日本の政治を腐敗させるのだ。


蛇足だが、
科学技術関係予算が無駄に使われまくっている現場を見たことのある人間としては、今回の事業仕分け結果は当然だと思っている。
もっと科学技術者と呼ばれる予算ゲッター達に覚醒を促した方がよい。
機会があったら説明したいが、なぜこのような無駄が生まれるかというと、結局のところ日本の科学技術界の発展性が低いからで、事業に繋がらず、投資効果が出ないので国家に頼るしかないのだ。
こんなレベルじゃいくら政府が金かけたって産業振興にはならない。
そこがアメリカと違うんだろうな。
ほとんどの政策について言えるのだが、出口戦略がないのだ。
それはつまり、「目的がない」ってことと同意なのである。

かなりの駄文でした。

大河ドラマが面白い?

2009-11-23 22:39:05 | TV・書籍

『天地人』総評 (妄想大河ドラマ)
http://mousoutaiga.blog35.fc2.com/blog-entry-239.html

超ウケた(笑)
思わず当Blogに「TV・書籍」カテゴリーができてしまいました。

私は大河ドラマは見るほうで、天地人は1/3くらい見た。
もともと大河ドラマには史実性なるものが期待できないのは周知の事実だし、確かに大河ドラマは主人公寄りに話が作られすぎていて、歴史好きには許せない部分も多々あるとは思う。
もう少し骨太なものを見たい気持ちは良くわかるが・・・。
NHKに受信料払う者として文句を一つ言いたくなるのは、株主の立場と同じかもしれないな。
個人的には「巧妙が辻」はよかったと思うし「風林火山」はひどかったと思うが、彼は逆らしい。

ほんとは政治ネタをエントリしようと思ったのだが変わってしまった。

ブログ近況情報(2009/11/17)

2009-11-18 01:08:48 | ブログ情報(News Release)
不定期にお届けしているブログ近況報告です。

アクセス状況ですが、エントリ更新によって1日200アクセスいくようになりました。
(それでもかなり弱小ブログですが・・)

池田信夫Blogの方にトラックバックやコメントでリンクを張らせて頂いた効果が出てきています。
今後もアクセス数の多いページからアクセスを横流しして頂こうと画策しています。

最近時間的余裕がないので、どうしても安易な政治ネタに流れ気味ですが、なんとか挽回したいところです。
当Blogにとって骨太なネタを構築できるかどうか、ここが本格派Blogになれるかどうかの分水嶺でしょうか。

・・というより、そもそもこのBlogは何を目指しているBlogなのか、それが未だに不明ではあります。
それが一番のボトルネックかもしれませんね。。

「罪(構造)を憎んで人を憎まず」の精神が日本を変える

2009-11-18 00:40:37 | 政治
民主党の「事業仕分け」第一ラウンドが終了した。

予算には名目上の無駄は存在し得ない。
予算がつくには必ずもっともらしい理由があり、その効果は0では有り得ない。
予算による便益を受けている人達はいて、その人達からすれば無駄ではないのだ。
事業仕分けで投資効果が低いとして廃止された事業も、削減された事業も、必ず誰かの役には立っている。

にも関わらず国民が国家予算に対して疑いの目を向けるのは、過剰な便益が計上されたり、便益が一部に集中していたりといったことが、当たり前のように行われているのではないかと考えられているからだ。
国民は族議員や官僚、利益団体らがこれに加担していると疑っている。

これらについて説明された情報は書籍にもネット上にも数え切れないほどあるので、ここでは詳しくは述べない。

ここでは、いつもと違った視点でこの問題を考えてみようと思う。
しかし時間がないので超短縮版だ。

官僚の仕事を民間企業に置き換えて考えてみる。
官僚が案件を企画して予算化して施行する一連の流れを、民間企業のビジネスとして捉えてみると、官僚にとっての予算とはビジネスモデルに相当する。
ある問題があって、その問題を解決するための仕組みを企画し、その企画を具体化するための予算化を行い、そして施行し問題を解決する。

ここでよく考えて欲しい。
よいビジネスモデルとはなんだろうか。
いや、「成功するビジネスモデルとは何か」と言った方がより正しいかもしれない。

(かなり省略していきなり結論へ・・)

成功するビジネスモデルの条件は、利害関係者とWin-Winの関係を構築できるかどうかにある。
では、官僚にとってのWin-Winの関係とは何か。

それは問題を解決するための仕組みの中に自分達の利益を潜り込ませることだ。
これがいわゆる「天下り」や「渡り」のための手段として使われたのだ。

私には、この仕組みを否定するつもりはない。
なぜなら、彼らにとってそれがWin-Winだからだ。

このことが提起している問題は、官僚にとってのWinを誰がどのように定義すべきなのかということだ。

それは官僚の責任なのか、それとも政治の責任なのか、はたまた国民の責任なのか。

我々は「罪(構造)を憎んで人を憎まず」の本意を理解し、根本的な解決策を探る姿勢をもつべきなのだ。

投資効果の低いものが国家を頼るのは当たり前だ

2009-11-15 01:33:56 | 政治
本エントリは駄文ですが「国家の役割」を再定義しようという問題提起です。

前回に引き続き、民主党の「事業仕分け」について、もう一つ重要なことを書くことにしよう。
というのもホリエモンのブログを見て一つ語りたくなった。
個人的に「政府に頼るのをやめよう」というのには以前から賛同するのであるが、でもそうも言ってられない人も一方に存在しているのも事実である。
(突き詰めると国会の意義がどこにあるのかというお話だ)

政府に頼るのをそろそろやめないか。(六本木で働いていた元社長のアメブロ)
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10388307626.html

事業仕分けについての解説は池田信夫氏のブログで読んでいただくとして。

事業仕分けという人民裁判(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51310943.html


仕分けの対象になったのは概算要求に出ている約3000の国の事業のうち15%足らずの447事業にすぎないということだ。残りの85%は仕分けの対象にならないので、勝負はこの段階でついている。これを選んだのは、実質的には財務省の主計局である


多くの識者が指摘するように、今回の事業仕分けの対象となった事業は、財務省がもともと削れると踏んでる事業なので、初めから削減ありきで勝負がついているのである。
言わば「出来レース」なのだが、事業仕分けという名のセレモニーの体裁を整えることは必要だ。
初めから結果はほとんど決まっているのだが、その場で決定されるているという演出がなければ、このセレモニーは完成しない。
そこで、その場で決定するための物差しとして使われるのが「投資効果」である。

説明するまでもないが投資効果というのは、「投資した金額に対してどの程度のリターンが期待できるか」ということである。
(本来「投資効果」と「対投資効果」は別のモノだが、ここでは「対投資効果」の意味で用いる)

一般的な国民のみなさんは、この「投資効果」という極当たり前のように受け止めていると思うが、これが今回の事業仕分けを語る上でのキーワードである。

なぜか?

「投資効果」があるなら国がやらずとも民間で行われるはずだからだ
逆の言い方をすると「投資効果がないから国がやっている」のだから、国のやっている事業の投資効果が低いのは当たり前なのだ

例えば、社会インフラが行き渡った先進国における公共事業等の財政政策の乗数効果は1を切る(つまり投資効果が小さい)といわれている。
日本ではいまだに財政政策の有効性が信じられているが、それは「均衡ある国土の発展」という結果の平等を指向した思想であり、必ずしも投資効果があるわけではない。

投資効果があるなら、そこにビジネスチャンスがあるわけなので、グローバル金融ビジネスが進化した昨今、閉鎖的経済をとっていない限り世界中のどこの国でも民間資本が入り込む
そういうチャンスを狙って世界に根を張る金融ネットワークの進化は絶え間なく進化している。

JR東海もがんばってリニア作ろうとしているし、鳩山首相の演説ではないが昔は橋だって民間で作ったわけだ。

投資効果があっても民間で行うにはあまりにも大きな投資が必要な場合や、民間で背負うには高すぎるリスクがある場合、超長期的には投資効果が得られるが短期的には得られない場合などには、国家財政の出番もあるだろう。

しかしながら、実際には民間では相手にされない投資効果が低いものが国家を頼ってくる。

だから、私は、むしろそれに自覚的になって頼ったらいいと思う
我々の行おうとしていることは投資効果が低い、だけれども我々にとって非常に重要な意味を持つと。
やり方によっては投資効果を高めることができるものは「官から民へ」で進めればよく、やり方を工夫しても高い投資効果が期待できないものは「官」でやりましょうと

国民の代表ではなく地域の代表者が国会を構成する意味というのも、そこにあるように思う。
全体最適は政府がやって、個別最適を国会がやる。その調整が司法。
というのがその性質上妥当な理解なのではないかという気がする。
もちろん原理原則を振りかざすつもりは全くない。
あくまでも、現状の三権分立のあり方を突き詰めるとそうなるよという話だ。

民主党の事業仕分けは「リストラ」だけれども、小泉内閣の構造改革は「Re-Structure」で、まさにその意であった

単純に、投資効果の高いものを官がやり、投資効果の低いものを切る、というのではなく、やりようによっては投資効果を高められるものは民へ、やりようがないが必要な投資効果の低いものは官へ。
という発想も必要なのではないか。
(それが全てというつもりはない)

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[雑談]

投資効果を否定する彼らの言い分はこうだ。
「世の中には投資効果がはかれないけれど、重要なものがある。」というものだ。
例えば教育がそうだという。
(ヨーロッパでは積極的社会政策の投資効果を計算していたりするが)
確かに、教育の影響範囲はあまりに広いため、厳密に投資効果を計算することはできないと思われる。
(そもそもパラメータが多すぎる問題の投資効果を求めようとすること自体、傲慢さなのかもしれない)
また、彼らは投資効果を金額で表そうとすること自体が「金の全能イデオロギー」であり、教育の目的と相反すると。
それもまたそうなのかもしれない。

でも何か勘違いしてやいないか。
投資効果を金額で表すのは便宜上の理由であって本質的なところではない。
我々の目の前には数多の問題があるが、全てを解決するだけの能力を我々は持ち合わせてはいない。
我々はトレードオフの前に無力だ。
だから優先順位をつけて、やることと、やらないことを判断しなければならない。
だが、我々はその判断を何をもって正当化できるのだろうか。
万人が認める合理的判断であるとする論拠を、我々はどうやって示すべきなのだろうか。
一つの方法が経済的合理性、つまり金(カネであって貨幣ではない)という人工的かつメタ的ツールである。
我々は、我々のために金を作り出した。
それはコミュニケーション・ツールに過ぎないが、だが我々人類にとっての偉大な発明品だ。
金の優れた機能は、価値を固定していないことだ。
何により価値があるのかを決めるのは常に人間である。
そこから導き出されることは、モノの価値を決めているのは金ではなく人間であるということだ。
彼らの非難すべきは「金の全能イデオロギー」ではなく「人間の全能イデオロギー」であろう。

民主党は自分自身の矛盾にどう向き合うのか

2009-11-13 01:38:03 | 政治
事業仕分けという人民裁判(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51310943.html

大方の見方はそうなんだと思う。

さらにいえば、個人的には事業仕分けメンバーの編成について興味深くみている。

民主党の言う「事業仕分け」は、構造改革(Re-Structure)ではなく、いわゆる経費削減という意味での「リストラ」なので、これについて成果を出したければ、情とか配慮とか関係なく投資効果の低い事業を容赦なく切れる人が評価者にならなきゃいけない。
実施者(構想日本の加藤氏)は成果を求められるから、民間の仕分けメンバーに民主党・国民新党・社民党とは相容れない「新自由主義者」や「市場原理主義者」と呼ばれる人達を入れることになる。
(その分類の仕方はおかしいけれど)

事業仕分け人選任に国民新が抗議 24日から副幹事長が参加(NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091112AT3S1201F12112009.html

これは鳩山民主党の「大きな政府」と「無駄撲滅」の二律背反の問題が如実に表れている。
今回の事業仕分けは、かなり限られた事業(ステークホルダーの少ない予算)だけが対象なのだが、今後はもっと大きな事業についての判断が求められる。
民主党が二律背反の問題にどのように向き合っていくのか、民主党の動向から目が離せない。

鳩山首相の頭にあるイメージははたして・・

首相、「事業仕分け」今年限りを示唆 (NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091112AT3S1203O12112009.html

NHKスペシャル「秘録 日朝交渉~知られざる"核"の攻防~」 雑感

2009-11-10 00:19:43 | 政治
NHKスペシャル「秘録 日朝交渉~知られざる"核"の攻防~」を見た。

非常に興味深い内容だった・・。
しかし、小泉純一郎氏(当時首相)とキム・ジョンイル総書記の本気の緊迫したやりとりは、これまでに聞いてきたどの情報とも違っていた。
国交のない国家のトップ同士の突っ込んだやりとりはそれだけで十分に面白いものだ。
この番組から読み取れる金正日の北朝鮮の国家元首としての姿、そして人間・金正日の姿からして、彼は決してならずものなんかではない。

もう一つ驚いたのは、ブッシュ-小泉-金正日ラインが確固としてそこに存在していたことがテレビ局の一番組みで明らかになったことだ。
(ここはさすがNHKというべきなのか?)
小泉首相が6カ国協議を可能にした(もちろんお膳立てはあるだろうけども)し、金正日が小泉首相に仲介を頼んだこともわかった。
あくまでも一面的な情報に過ぎないけれど、北朝鮮の核問題について日本が主導的役割を担うチャンスがあったということだ。
それは小泉-ブッシュラインがあったからこそ可能であったということは、世界の外交関係者には皮肉なことだろう。
歴史に「たられば」はないけれど日本政府が拉致問題に対してもう少しソフトランディングな対応を行えていたら、ひょっとしたら北朝鮮の非核化はかなり進んでいたかもしれない。
小泉外交の対米追従については批判が多いけれど、ゆえに解決できる問題もまたあるということだ。
全てはトレードオフか・・。

そう考えると、(いきなり飛躍するが)北朝鮮に関わる問題は金正日が生きている間に解決することが望ましく、またアメリカとの関係に溝が出来つつある鳩山政権による外交では心もとない可能性がある。

いや、まだわからない。
問題はステークホルダーが多くなるほど複雑化する。
私なんかが分かる問題ではあるまい。
ただ、何か惜しい気持ちになった。

国民的議論で「役割の再定義」を

2009-11-07 15:10:39 | 政治
時間があったので昨日のエントリについて補足しておきます。
(「貧困を巡る攻防」と「民主主義の懐の深さ」)

昨日は「マクロvs.ミクロ」という単純な二項対立で語りましたが、実際には「どこからがマクロで、どこからがミクロか」というのは非常に難しい問題です。
(「どこからリビングでどこからダイニングか」みたいな・・)
いや、実は「マクロ」か「ミクロ」かというのは、マクロかミクロというのも結局は相対基準でありますので、物事を考える際の指針(バランス)としては重要でも、区別すること自体は重要ではありません
「あなたはマクロ派」、「あなたはミクロ派」などといって区別するのは何の意味もありません。
(そもそも相対基準である以上、万人に共有可能な形で厳密に区別すること自体不可能です。)

では、もう少し現実的な話をしましょう。
我々の思考や行動をマクロ方面もしくはミクロ方面へシフトするのに大きな影響を及ぼすのが「立場(役割)」という存在です。
何に対して責任を持たねばならないかという認識に差異が生じるからです。
構造」といってもよいと思います。

例えを使うと理解が容易です。
ある企業における「社長」「事業部長」「社員」の3者を考えてみましょう。
(あくまでも一般的な話です)

「社長」の役割は「会社の存続」や「会社の価値向上」です。
「事業部長」の役割は「事業の成功」です。
「社員」の役割は「担当業務の遂行」です。

社員は居酒屋で経営者に対する愚痴をこぼし、社長は自分の思うとおりいかない組織に対して苛立ちを覚えることでしょう。

社員にとっては事業の成功よりも担当業務の遂行に重点が置かれますが、事業部長にとっては会社全体の経営よりも事業の成功に重点が置かれます。
社長は特定の事業だけでなく会社全体の経営に重点が置かれます。
社員よりも事業部長、事業部長よりも社長の方がよりマクロ的観点が必要になりますが、社員より社長がマクロ派なのは、彼個人がマクロ派だからなのではなく、彼の置かれている立場がそうさせるのです。
何に対して責任を負うのか」、「そのために何について問題意識を持たねばならないか」が異なるからです。

これはあらゆる業界で同じです。
次に、政治に目を向けましょう。

「小泉・竹中改革」への批判がよく聞かれます。
事実を反映しているかどうかは別にして次のような批判をする人たちがいます。
「地方が疲弊した」「格差が拡大した」「日本的ムラ社会が壊れた」
実は、これも立場の違いによる意見の相違です。

「日本の総理大臣として何に責任を持たねばならないかという認識」と「地方自治体の長として何に責任を持たねばならないかという認識」、「地方に住む者として何に責任を持たねばならないかという認識」、これは異なって当たり前です。

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※注意
実際には「立場」からもたらされる「認識」の違いが思考の違いを生みます。
同じ総理大臣でも認識が異なれば「何に対して責任を持たねばならないか」は変わります。
「なってみてわかったこと」というのは多々あることでしょう。
裏を返せば「立場が人を育てる」という側面もまたあります。

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以上の意味からすれば、地方の人が日本全体のことを俯瞰して物事を言わないからといってそれを責めたてるのも、ある意味でナンセンスといえるでしょう。
また、逆に政府が地方に対するフォローに重点を置かないとして、それを責めたてるのもまたナンセンスだといえるのです。
(これが「罪(構造)を憎んで人を憎まず」の本意です)

さて、そろそろこの会話の結論を述べることにします。

では、どうすればよいのでしょうか。
答えは先に説明しました。

我々に「マクロvs.ミクロ」対立が生まれるのは、「立場(役割)」の違いが源泉なのです。
ということは、この対立を乗越えるために必要なこと。
それは「立場(役割)の再定義」なのです。


「政治の役割」、「国民の役割」、「国家の役割」、「社会の役割」、「家族の役割」、「企業の役割」、「人間の役割」、etc...
これらを再定義し、我々の認識を新たにすることです。

(結局のところ、政治に理念をというのはこういうことでしょう。)

もちろん、(当Blogのいつもの主張通り)進化はスパイラルにしか進みません。
完全なる定義など不可能だということも肝に命じておく必要もあります。
(かといってニヒリズムに陥る必要もないでしょう。)

さてさて、果たして答えになっているでありましょうか。

ブログ近況報告(2009/11/06)

2009-11-07 01:17:57 | ブログ情報(News Release)
不定期でお届けしているブログ近況報告です。

今週は全くUpdateできなかったのですが、金曜日になってようやくそれなりのものが仕上がりました。
(ちなみに池田信夫blogの方にトラックバックを貼らせていただきました。)

ところで、木曜日のアクセス数が急に伸びたのですが、どなたかのBlogなどで引用などされたのでしょうか・・?
批判的な引用などされていたりするのでしょうか・・アクセス解析できないので非常に気になるところであります。
しかし200円払う気になれません。

個人的には当Blogについて引用されるだけの価値を見出して頂けるだけでありがたいと思っておりますので、是非トラックバックなど貼っていただけると嬉しいです。
当Blogでは、コメント・トラックバッグはエントリに関係するものであれば、原則フリー運用させていただいております。(承認制ではありません)

さて、現在(ソニーは普通の会社になったのか ~前編~)の続編を鋭意検討中です。
最初は軽い気持ちで書こうと思っていたのですが、だんだん深みにはまってきまして、久しぶりにソニーについての個人的研究をはじめました。
一時期私は書店に並んでいる主要なソニー研究本をほとんど買い込んで読んだことがあるので相当詳しい方だと思うのではありますが、ここ数年間まったくフォローしておりませんでしたので、ちょっとついていけていない部分があるようです。
しかも、世界的にみて、ここ数年で企業の組織のあり方(ガバナンス)もかなり変わってきておりまして、その部分の勉強も必要になります。

ただ、企業研究本というのは一般的に内容の薄いものが多くて、あまりためにならないものがほとんどです。
経営というものをどの視点から見るのか次第ではあるのですが、組織論などについて理論的に分析している書籍というのは稀で、ほとんどは成功事例を並べ立てるだけです。
これは啓蒙書になっても研究対象や実用書にはなりえません。
著者が研究者ではなく、ジャーナリストであることが理由だとは思いますが。
ただ、成功要因について全く論理的ではありません。
(歴史分析にもなっていないというか・・)

そんな中、最近読んだ本でよく書けていたのが、韓国人の経営学の専門家が書いた「ソニーVS.サムスン 」です。
これは今まで読んだソニー本の中で最も有用だと思います。
カリスマ去った後ソニーが模索して失敗した理想的経営の形についてや、史上最強と謳われるサムスンの未熟な部分についても鋭い洞察が光っています。

この本の内容について、私はほぼ同じ考えを持っているので、正直なところ私がBlogでがんばって表現するよりも、この本1冊で事足りるのじゃないかと思ったりもします。

できれば知人のソニー社員の方なんかにヒアリングなどしてがんばってみたいと思っておりますので、期待されてる方もほとんどいないと思いますが、少し時間がかかることをお許しください。

「貧困を巡る攻防」と「民主主義の懐の深さ」

2009-11-06 23:52:37 | 政治

つい数年前まで大多数の日本国民にとって「貧困」というワードは縁遠いものであったが、少子高齢化や企業収益悪化、長期経済停滞の予想などといった環境により、各個人の生活安全保障への意識が強まりはじまり、急激に注目度が上がってきている。
要するに「明日はわが身」と感じる人達が増えてきているのだ。
そんな中、政府から相対的貧困率が公表された。
その数字にマスコミが食いついたのだが・・


「貧困率」についての誤解(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51305601.html

池田信夫氏のこのエントリに対する批判が多いらしい。(同様に賛同者も多いが)
個人的には、当たり前過ぎる主張だと思うで、賛同するも反対するもないように思うのだが、何ゆえに彼はそれほど的外れな批判にさらされるのか、解説してみよう。
まず彼の問題意識はこうだ。


けさの朝日新聞に「15.7%の衝撃―貧困率が映す日本の危機」という社説が出ていて、朝日新聞の論説委員のレベルの低さに衝撃を受けた。日本の貧困率がOECD諸国で第4位だということは、当ブログでも紹介したとおり5年前から周知の事実で、政府が「それに目を背けてきた」わけではない。大した意味がないから、特に問題にしなかっただけだ。

鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントしたそうだが、彼はその意味がわかっているのだろうか。OECDの発表しているのは相対的貧困率で、これは国内の家計所得の中央値(メディアン)の半分に満たない世帯の比率を示す指標にすぎない。絶対的貧困率でみると、次の図のように、日本の下位20%の人々の所得(紫色の面積)は最大である。

この図の説明にも書かれているように、「日本の貧困層は世界でもっとも豊かである。日本の下位20%の人々の所得は、他の地域の最貧層の7倍以上である」。相対的貧困率が高いのは、高齢化によって無収入の老人が増える一方、若年層で非正社員や独身世帯が増えているからだ。日本は所得保障を企業の長期雇用や福利厚生で行なってきたので、こうした「企業依存型福祉システム」から排除される人々が増えたことが問題を深刻にしている


これに対して批判者の主張はこうだ。


日本の貧困層がソマリアよりマシだとしても、貧困の実態は変わらないのだから、他国とダメ比べして、それよりも日本はマシなのだから問題ないとするような主張はナンセンスだ。


こういう議論を見るにつけ日本の政治的混乱、特に経済的問題に関する混乱の原因が"問題の高度化"にあるのではなく"論理的思考能力の欠如"の方にあるのだなと思わされる。
(社会的教育力、社会的共通資本の弱体化というのだろうか)

まず、読んでわかることだが、池田氏の問題提起は「貧困の定義」にある
基本的な認識として持っておかなければならないのは、相対的貧困率の高低が示すものはある種の「格差」であって「貧困」ではない
日本の中流階級に比して貧しい層がどの程度存在するのかを示しているだけであるが、日本の中流階級がどの程度の裕福さを有する層なのか定義がなければ、中流階級に比して貧しいことが「貧困」なのか答えることはできない
貧困とはどのような状態をいうのか」という定義がない限り、何を解決すればよいのか問題設定を行うことができず、貧困問題の解決には繋がらない。
これは極当たり前のことである。
「貧困」の定義がないのに「貧困」を解決できるわけがない
(将軍様!早く屏風から虎を出してください!ってなもんだ。)
「相対的貧困率」は「貧困」とほとんど関係がないから、「相対的貧困率」を基準にすることは誤りだ
すると、


鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントした


上記の首相の認識が実におかしいのかは明らかであろう。
誤った情報に基づいた判断は誤った結果を招く可能性が高い
泥の上にどのように頑強なビルディングを建ても、残念ながら満足した結果は得られないのだ。

一方、批判者達の問題意識は「貧困撲滅」にある
彼らは、「(彼らの考える)貧困状態に置かれた人々を放置する考え方」、また「格差」を批判しているのだ。
が、残念ながら池田氏は「格差」を肯定しても「貧困を放置してよい」などと一言もいっていない
むしろ池田氏などのリバタリアンが述べるのは、目先の救済ではなく、長期的に最大限の救済だ
(批判者達の本質的な問題意識は格差ではなく貧困にあるわけだから、貧困に対するお互いの立場が明確になると、この問題はわかりやすくなる。)

これがマクロ派vsミクロ派の違いである。

池田氏などのマクロ(全体最適)派は情緒的問題よりも論理的問題を重視するのに対し、ミクロ派は論理的問題よりも情緒的問題を重視する
また、マクロ派はトレードオフを前提に全体最適解の導出を主張するのに対し、ミクロ派は個別的完全解を求め、一つでも例外が存在するとマクロ派の論理が破綻していると主張する
マクロ派はミクロ派をトレードオフを理解できない人々と見なすし、ミクロ派はマクロ派を現場を知らない偏った原理に従う原理主義者と見なす
視点が異なれば、当然そこから見える世界は異なってくるのだ。
私は、どちらがより正しいかを判断するつもりはない
状況によっては、どちらも正しくなるからだ
(目の前の人が苦しんでいればマクロよりもミクロを重視するし、日本経済を俯瞰すればミクロよりもマクロを重視する。人間としてバイアスを持つのは当然のことだ。)

実は、池田氏はこの点に関する問題意識を持っており、彼はよく「フレーム」という概念を用いて「経済的に正しくても政治的に正しくない問題」に対応すべきだと述べている
つまるところ、マクロ派はミクロ派の情緒的問題に対して「物語」を用いて説明せよというのである。
お互いにお互いの無知さを責めるだけでは建設的な議論に至ることはない。
私は、この姿勢を支持したい。

※当Blogの下記エントリを参照

亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/67d8a60006790b69fa7762872c8aaf29

マクロ重視派が変われば日本の政治は変わる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c85e179c4d1799d58790f0c78f295103

このような「マクロvsミクロ」の問題に終止符を打つために、我々は何ができるだろう。
マクロ派は先に述べたように様々な「フレーム」を作り出すことが有用だろう。
ミクロ派はどうだろうか。
私が思うに自分の意見に賛同する人々を募るとともに、その意見を社会的に表現することだ。
実はこれ(議会制)民主政治のあり方そのものである

そう、これは三権分立の基本思想と合致する。(あくまでも個人的解釈)
全体最適を指向するマクロ派である「官僚(行政機関)」と、個別最適を指向するミクロ派である「政治家(立法機関)」、そしてその調整役である「裁判官(司法機関)」の3つの役割分担そのものである

「マクロvsミクロ」の構図を2項対立的に炙り出したが、実はこの両者は矛盾していないのである。
民主政治とは、まさにこの2つが止揚されたものであり、民主政治にとって「マクロvsミクロ」は不可分にして不可欠なのである
よって、どちらかだけを否定することは民主政治の否定であり、民主政治を肯定したいのなら、どちらも必要なのである

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と、カッコよく言い切ったものの、結局どうすればいいのか曖昧なままなので、最後に貧困論争に対する個人的な意見を述べて締めとしよう。

よく考えて欲しい。
我々は相対的貧困率の割合を減少させることを政策目標にすべきなのだろうか
相対的貧困率の低い社会というのは、一体どのような社会なのだろうか。
例えば、いわゆる一億総中流(平準)社会を目指すということか。
だとしても、そもそも一億層中流社会を目指すことは我々の幸福とどれだけの相関があるのだろうか。
またそれは近い将来において可能なのだろうか。
確かに、一見、全員が今日、明日を生きるのに苦労しないことを目標にするのは理念的には正しいように思えるが、しかし問題設定として正しいかどうかは別問題だ。
というのは、我々は未来に生きているのではなく、現在に生きている存在なので、我々が向き合うべき問題は目の前の現実にならざるを得ない。
もちろん、長期的な視点を持って、将来的な問題について取り組むことも重要だ。
しかし、我々には全てを予見する力もなければ、全てを解決する力も無い。
どうしても「できること」と「できないこと」があり、また「できること」のために他の「できること」を犠牲にしなければならない場面に出くわす。
この宇宙に存在する限り「トレードオフ」から逃れることはできない。
我々は一歩一歩踏みしめながら進むことしかできないのだ。(進化はスパイラルに進む)

だから、自分が総理大臣になった気持ちで考えよう。
何事も責任感を持って考えることは重要だ。
(なぜなら人は自分の問題として責任を感じて初めて問題に真剣に向き合えるから。)

あなたの力は強大だが有限だ。
「できること」も「できないこと」もある。
あなたは、まず何をするだろう。

私なら、第一に「貧困」の定義を明確にし、社会として許容する貧困率を決定する
これには非常に勇気が必要だろう
人を勝手に貧困と位置づけ自尊心を奪う可能性があるし、貧困と決めたからには放置することはできなくなるから、政治的責任が生じる。
「貧困層」という枠組みを社会に導入する重みについて、我々に準備があるのかも疑わしい。
(ある種の社会的自己否定を伴うからである。)
しかし、「貧困」を定義しなければ、何を解決すべきなのか明らかにはならないし、また「貧困」を定義する過程で、我々が目指すべき社会像も明らかにする必要性に迫られるだろう

池田氏の主張である「相対的貧困率にはたいした意味が無い」は正論だ
それよりも、政治は勇気を持って「貧困」を定義し、「貧困撲滅」に向けて政策目標を掲げるべきではないのか

ブログ近況報告(2009/11/04)

2009-11-05 00:01:00 | ブログ情報(News Release)
久しぶりに更新しようと思い編集画面で熱い思いを書き綴っていたら、操作を誤まって1つ前のページに戻ってしまった。
全部チャラ・・オーノー。
今日はもうやる気無し。

アクセスは一日200アクセス強までいったのですが、最近更新していなかったらひどいことに・・。
やはり頻繁な更新がないとアクセス向上は難しいのでしょうか。

閑話休題

とりあえず最近は衆院予算委員会に注目しています。
自民党にはもっとがんばって欲しいものです。
党としての中心的理念がないので、個人の戦闘能力があっても全体として整合性がとれているのか疑問というか、とにかく党としてもう少しまとめてくださいよ。
方向性を合わせれればもう少し突破力がありそうなもんですが、まぁそこでまとまれるようなら自民党ではないのかもしれません。
やっぱり一度自民党の中で、誰が自民なのかを決めて、反自民派は離党して新党を立ち上げるなり、民主党と合体するなりした方がよいと思う。
今の自民党は幕の内弁当みたいだ。
平時にはそれでいいのだけれど、今の日本は戦時に近い。

(どうでもいい話なのだけど)
それと最近、行政刷新会議担当相の仙石由人氏に好感を持っています。
自民党時代の大臣と違って民主党の大臣はがんばってる姿が印象的ですね。(能力はどうあれ・・)
大臣としては努力の姿勢よりも結果が大事ですから、それだけで評価できるわけではありませんが、(野党時代の彼には何の期待もしていなかったのですが)最近は影ながら応援したくなりました。
(言われた事やるだけの役割だから余計に好印象なのでしょう。)

総じて思うのは、もう少し検証可能な形で議論してほしいなと思う。
理念の話もいいけれど、たまには具体的政策の話をしてほしい。
反証可能性のない話ばかりしても、決して議論は建設的なものにならないから。
話が堂々巡りして、同じ話を何度も何度もするのは時間の無駄かなと。

今後に期待かな。