進化する魂

フリートーク
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気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

夏の終わりの風物詩、24時間テレビ批判に反論する

2012-08-30 16:53:55 | 社会
さて、今年も夏の終わりの風物詩がやってまいりました。

ちょっと過ぎちゃいましたけど。

日テレ『24時間テレビ 愛は地球を救う』の登場です。

(単なる過去エントリ引用の手抜きネタです)


伊集院光、24時間テレビの在り方を語る
http://kyousoku.net/archives/15662053.html


伊集院光さんは24時間テレビを擁護しておりますが、擁護の仕方が変ですね。

そもそも擁護などする必要がありません。

24時間テレビには、実に真っ当な大義名分があるからです。


◆◆◆◆◆◆


まず、初めに言っておきますが、これはポジショントークです。

私の家族にはいわゆる「障害者」がいます。

見た目にはわからないし、普段は何もないように生活しているのですが、内容としては命に関わるレベルの重症度です。

秋ごろには、何度目かの手術が待っています。


だから言っておきますが、これは家族に障害者がいる人間のポジショントークです。

ですが、そのポジションを取る人をどれだけ増やせるかが、この問題の本質であるという点を理解して頂きたく思います。


◆◆◆◆◆◆


実は2年前に、当Blogで24時間テレビ批判の批判をやりました。

当時はいろんなサイトにトラックバック貼ったりコメントしたりを結構頻繁にしていたのですが、一部でお騒がせしてしまったことが恥ずかしい思い出です。

今見返すと、言葉に品がなくて非常に辛いものがあるので、このエントリをリメイクすることにします。


[24時間テレビ] くだらない批判が多すぎるからこそ、やる意味がある
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1e509e78202552254b7dd05dc3520538


浅い理解にしか繋がらない表面的な番組編成に対して不満はあるものの、番組内で嵐の桜井くんが言及したことがこの番組の主旨をうまく表していると思います。


この番組を見ただけでは、一つ一つの問題について深い理解を得られないとしても、

自分達にできることは何か。

まずは知るところからはじめるしかないんじゃないか。


教科書どおりの発言ですが、しかし、その通りだと思います。

一つの障害や病気について深堀しようとすれば、それだけで簡単に24時間かかってしまいます。

そして何よりも、その障害や病気に関わらない人は、そんな24時間テレビを見ようとしないでしょう。

誰にも見てもらえない困難を取上げた番組を作成しても、そんなものは製作者の自己満足にしかならないし何の意味もありません。

私は、昔(もう10年以上前に)聞いた日本テレビのある番組制作者の言葉を今も忘れられません。


テレビ局にとっての最大の資産は何か?
それは、決してコンテンツ(番組)ではない。
人にその番組を見たいと思わせる力、「編成力」だ。


砂漠のオアシスにロバを連れて行っても、オアシスの水を飲むかどうかを決めるのはロバなのです。

視聴者側のコンテキストを発火できるかどうかが重要です。

24時間テレビも、これと同じです。

どれだけ内容の素晴らしい番組を作成しても、最終的に消費者が動きを変えなければ何の意味もありません。

見てもらって、そして何かを感じ取ってもらえなければ、番組として何の価値もないのです。

私は日本にこのようなテレビ番組があることを誇りに思います。


◆◆◆◆◆◆


では、2年前のエントリのリメイクを進めます。


日テレ24時間番組に対してYahoo!のコメント欄が大荒れ「数億円のCM収入料とタレントのギャラを、全額募金しろ」([2ch]ニュー速VIPブログ)
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52363584.html


毎年この季節に恒例の番組と言えば日本テレビの
『24時間テレビ33 愛は地球を救う(以下、24時間テレビ)』だ。
2010年8月28日、29日に放送され今年のマラソンのランナーは、はるな愛。

無事完走することもでき母と抱き合う場面もあった。
チャリティー番組『24時間テレビ』のゴール時点での募金額は
2億7992万6839円という集計が発表されている。尚、この数字は番組終了間際の仮集計で、
最終的にはこの番組を通し例年9億円~10億円の募金が集まっているようだ。

そんな『24時間テレビ』に対しYahoo!ニュースのコメント欄では
約1200件もの投稿がされており批判が相次いでいる。そんな批判の一部を紹介したいと思う。


これらの批判に反論してみます。


・三億円弱の募金集めるのに、15億円かける馬鹿な番組。


批判者は、費用対効果について批判したいようですが、これは単純に24時間テレビの目的や効用が「募金」にしかないとする狭い認識に基づく誤解です。

24時間テレビの目的は募金だけではありません。

番組の目的は、その視聴者に対する影響力(気づきの機会になること)であるので、この指摘は意味を成しません。

テレビ番組の効用を無視するというのは、落ち目とはいえ広告料によって成り立っている日本におけるテレビビジネスを否定することになります。

意味がないなら、誰も広告を出稿しないでしょう。

少なくても、24時間テレビの費用対効果の効果を募金額で算出するということが誤解であることは言うまでもありません。


・日本テレビは、数億円のCM収入料とタレントのギャラを、全額募金するべき


心情的には理解できる批判であるものの、これも誤解に基づく意見になります。

24時間テレビの目的が募金の金額であるなら、この指摘にも意味がありますが、24時間テレビの目的は募金額の多寡ではありません。

24時間テレビの目的は、番組を1人でも多くの視聴者に届けることと、1人でも多くの視聴者に番組の主旨に沿った気づきを得てもらうことです。

タレントへ支払う出演料や、演出費用、もろもろの製作費などは、その目的を達成するための必要経費になります。

つまるところ、これも番組意図を誤解した間違った批判ということになります。


・なぜ午後8時45分にゴールなんだ? 完璧に計算されてる。


24時間テレビにおけるマラソンの要件は、無理のないペースで、番組のクライマックスにゴールすることです。

この要件を実現するために、製作者側は計算して番組を制作しています。

このマラソンの目的は、競技大会とは違い計測時間を競うものではありません。

必ずしも運動の得意でないランナーが苦難を乗越えてゴールする姿を見てもらって、

それによって視聴者に何かを感じてもらうことに意味があるのです。

そのために終盤にゴールした方が視聴者に感じてもらうものが多いのであれば、そうなるように計算してペース配分を組み立てる方がよいでしょう。

ペース配分を意図しているからといって楽しているわけでも、苦しくないわけでもありません。

その条件で24時間走り続けることは過酷なマラソンであることには間違いないのです。

24時間テレビのマラソンとは、そういうマラソンなのです。

これは決して騙しているわけではありませんので、茶番批判は適切ではないと思います。

計算すること自体を批判するのであれば、批判者は計算してはならない理由を述べなければなりません。


・そろそろこの企画止めない? わざとお涙頂戴誘ってるようで、わざとらしい。


こういう社会的な想像力の欠如が、まさに24時間テレビが問題として扱うものなのです。

どんな世界でも、当事者にとっては涙だけでは語れない物語があるものです。

当事者にならなければわからないことは、この世の中に山ほどあります。

それを第3者に伝えるためにはどうすればよいのか。という問題です。

自分は絶対に当事者にならないと考えるならば、批判すればよいのですが、このような想像力が欠如する者に限って、自分が追い詰められた時に自暴自棄になるものです。

準備がないからです。

社会的な準備(気づきと行動)を支える番組と理解してみてはいかがでしょうか。


・不謹慎かもしれないけどこの番組は障害者を”見世物”にしてるとしか思えないんだよね。


では、障害者をどう扱うべきなのか、考えなければなりません。

扱うべきではないということなら、それはそれで意見として成立するでしょう。

回答としては、1つ前の質問と同じものになります。


・感動の押し売りはやめてほしいですね。


感動するかどうかは視聴者の判断ではありますが、そうすることで最も伝わると製作者側で考えるからでしょう。

製作者は材料を提供するのみですが、最高の状態で材料を提供したいと思うのが人情というものです。

それと、プッシュ型の情報配信は全て押し売りなので、この件についてだけ押し売り批判するのは適切ではないと思います。


・AKBの前田って奴は感情が現れないのがよくわかりました。


どうしてそんなことがいえるのか、よくよく考えた方がよいと思います。

かわいそうな子供たち

2011-11-30 00:12:57 | 社会
橋下知事が高校生をフルボッコwwwwwww
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51677746.html

この高校生たちは、まともに議論なんかしたことないんだろうなぁ・・。
この子達は自分たちのこと不遇と思っているかもしれないけれど、
ある種、恵まれていることの裏返しだよなと。
だって全然考えを深堀せずに、ここまで来れてるんだから。

考えずに生きてこれているという点をもってして、幸せといえるのかもしれない。
そして、知的好奇心を刺激されないまま生きてきた不幸を同時に抱えている。

かわいそうだと思うのは、
この高校生たちは、知事と議論することはあっても、自分の親とは議論していないんだよねきっと。
友達とか先生とか、先輩とかバイト先の店長とか、自分の考えを見つめ直す機会がないんだと思う。
それこそが不遇ではないかと。

「橋本知事しか叩いてくれる人がいなかった」という不幸ですよ。
一番の問題は、大人がいないってことなんだよなぁ・・。

「価値基準の共有」と「ゆとり」は関係があるのか

2011-10-25 23:43:13 | 社会

ゆとりの大罪
http://anond.hatelabo.jp/20111024123904

私は、このリンク先の文章を読んで、「ゆとり」の何が悪いのかさっぱりわからない。

この文章の中で語られている要点を整理してみる。

・当人は「お菓子を買って来て」という言葉通りに要求を受け取った。
・ロールケーキはお菓子だから要求通りのはずである。
・しかし、要求を出した側は、お菓子にロールケーキが含まれるとは考えていない。

つまり、要求者と被要求者は「お菓子」という定義を共有していない。
片方はお菓子にロールケーキは含まれないと考えていて、もう片方はお菓子に関する制限はないと思っている。
お互いに共有している定義が異なるのだから、問題が起きてもおかしくない。

この話の問題点はこうだ。

(1) 「大事なお客さんへ持っていくお土産用のお菓子」に関する暗黙の了解を共有していない。
(2) わからなければ要求者かもしくは第3者に質問するなり相談するなりして確認すればよいが、当人はその必要性に気づけなかった。
(3) なぜなら「お菓子を買って来て」のメッセージに含意があるとは思わなかったから。
(4) (1)に戻る。

被要求者からすれば、「"適切なお菓子"というものがあれば、先に言ってくれればよいのに」という気持ちだろう。
要求事項に含めてくれれば問題は起きなかったかもしれない。
「○○を買いなさい」かもしくは「△△を買ってはいけません」かだ。

被要求者の立場からすると「言ってくれればできた。」と言いたいかもしれない。
事実、言わなければわからないことも数多くある。
しかし、要求者の立場からすると、いちいち全てのことを言わなければならなかったら、それは自分でやることと変わらないのだ。

そもそも分業とは、お互いに役割を分担することである。
相手の役割の全てについて自分が管理していたら分業の意味が無い。
自分の分身として育てるという目的以外で、自分と同じように相手を管理するのはコストの面からいって意味が無い。
相手に任せる部分がないと分業が成立しないのだ。

だが、分業をするにあたってお互いに安心して任せることのできる関係でないと、分業もままならない。
どうやって分業を実現するかといったところで、水平分業やら垂直統合やらという話が出てくるのだが、面倒なので説明を省略する。
要は、日本的組織によくあるのが価値基準を濃密に共有することで、コミュニケーション・コストを低減させ、意思疎通を図り分業を可能とするのだ。
すり合わせアーキテクチャと呼んだりする。

だから、この場合の根本的問題は、価値基準を共有していない、これに尽きるのだ。

では、なぜ価値基準を共有していないのか。
もしくは、価値基準を共有しなければいけないと思っていないのか。
(価値基準を共有していなくても、価値基準を共有しなければと思っていれば、何か理解すべきことがあるかもしれないと思える)
その理由が「ゆとり」ならば、「ゆとり」が原因だろうが、おそらく違う。

すみませんが、疲れて眠いのでまた今度にします。

若者の非活動性は、IT技術の進化による必然的な変化であり、彼らは文化的に進んでいる人たちである。

2011-10-19 22:47:52 | 社会
格差と若者の非活動性について(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php

大変恐縮ですけれども、内田先生、それは全然違います。
相変わらずイデオロギー史観という古いフレームに基づいた議論のように思います。

若者の非活動性をイデオロギーの埋め込みの失敗として語るのは、「社会」を弱者と対置して悪として描く物語としては面白いですが、まったくもって現実をいい当てていないです。

若者の非活動性は、社会的な取り組みの結果ではなく、技術(とりわけIT技術)の進化による必然的な社会的変化なのです。
それは、ビックピクチャーのような大きな情報ピースしか手に入らなかった時代は終わって、情報の断片化と、その情報へのアクセスコストが急激に下がったため、情報の編集や整理により自分だけの物語を創るという、より幸福度の高い内面的作業にかけれる時間が増えたわけです。
また、個人の裁量が増えたため、それだけ自分だけの幸福を追求できるようになったのです。

ソーシャルネットワークを見れば、この流れが一目瞭然ではないですか。
利用できるメディアの性質が変化してきていて、それが人間の精神的な消費行動にプラスに働いているということです。
Twitterの140文字制限によって、発言者はもはや文脈すら自分で持っている必要がなくなりました。
この変化の歴史的意味を感じましょうよ。

むしろ、非活動的な若者はあなたがたよりも文化的にはずっと進んだ存在なのですよ。
(自分たち大人は正常だと思うから、その正常性から逸脱した若者文化を理解できない。)
歴史認識を新たにする機会なのだと思います。

それを、今の若者は非活動的だといって「連帯せよ」などといって煽ることは、イデオロギーによる社会的失敗を、イデオロギーによって取り返そうとしているわけですね。
実に皮肉なことです。

ソーシャル・ネットワークによって引き出されるリアリティの無さ

2011-10-17 00:02:10 | 社会
FBやらTwitterやらを見ていると、すごく違和感を感じることがある。

「リアリティの無さ」に。

ブログでも他のメディアでも、活字でも言葉でもよいのだが、

自分の主張をある程度の長さで、

つまり起承転結なり論拠なりを持って語ることをしている人の場合は、

ソーシャル・ネットワークでの発言にも違和感がない。

ここでいう違和感は「リアリティの無さ」だから、

主張していることの正誤などは問題ではない。

とにかく違和感があるかないかだ。

しかし、FBやらTwitterやらで短い系の文章発信をしている人の言葉は何かうそ臭い。

で少し考えてみたが、おそらくリアリティがないのは、文脈がないからだ。

その人が、どのような文脈でその発言をしているのか、これがわからない。

これについては幾つか考えることができると思う。

1つは、その人の考えを把握していないので、その人の発言に突然感がある。

本人にとっては突然でもない発言が、他の人には突然なものに思えてしまう場合。

これは結構あるように思えて、実際は少数派ではないかと思ったりする。

むしろ、大多数は次のようなことなのではないか。

もう1つは、その人が周りの空気や流れ、いわゆる文脈に合わせて発言している。

自分の文脈を持っておらず、周囲でおきるイベントをキッカケにその時感じたものを発言している。

文脈がないので、発言の一貫性に欠けており、まるで統合失調症のように感じてしまう。

それが駄目だという話ではなく、実は、人間がネット空間で拡張されているという話なのだ。

情報の断片化と、文脈の共有、これがソーシャルネックワークによって引き出されているわけだ。

という話を機会があったら考えてみたい。

大人が学べる社会

2011-09-06 08:47:41 | 社会
お~、カッコいいね!

商社Aさん(42)「最近の若者は覇気も根性もない」 竹原「エラそうに言うなや」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1661353.html


最近の若者は、覇気も根性もない。竹原さん、一喝してやってください。 商社 Aさん(42歳)
ここ最近、入社してくる若手社員の覇気や根性のなさには呆れるばかりです。社会を知らない人間に、仕事社会での常識や教養、礼節を厳しく叩き込んでいるのですが、みんなやる気を持ちません。私が若手社員だった頃は、仕事を早く覚えたいの一心でした。

呼ばれれば大声で返事をし、先輩からの下働き仕事は喜んで引き受け、怒鳴られれば
必死に頭を下げ、接待や親睦会などの酒席となれば、積極的にパシリとなり、
先方がその気なら朝までお供したものです。その結果、たくさんのことを成し遂げて
こられたと考えています。

今の若手は、呼んでも返事が曖昧、下働きはイヤイヤ、怒鳴ればふてくされる、
酒席は「勤務外は自分の時間」と、断る始末(つきあいも仕事のうち言い、
無理やり連れて行くことも)。仕事も覚えようとしない。それらを厳しく指導すれば、
欠勤したりあげくは辞めたりです。

他の部や支店の同期も、そういう若者ばかり抱えてみんな悩んでいるようです。
竹原さん、大切に育てられすぎて打たれ弱い若者たちを、一喝してやって下さい。
このまま骨抜きの人間ばかりになっては、日本の国力は弱くなるばかりです。



エラそうに言うなや。

お前が若かった時代と今とでは、状況が違い過ぎるじゃろ。景気が良かった時代を
肌で感じてない世代の奴らに「希望や目標を持て」なんて、そら通じんわ。
お前の言い分も分からなくはないが、上の人間として指導するやり方っちゅうもんが
あるじゃろう。こんな先行きが分からない時代に、頭ごなしに言い聞かせようとしたって
無理があるわ。
仮に部下がお前の言うとおりに従ったとしても、幸せになれるかどうか分からんじゃろう。
下にいる若いモンは上の人間をよく見とる。「あの人のようになりたい」と思えば、
本来は従うもんじゃ。お前の会社の若い衆がそうならないんなら、お前が魅力的に
見えないんじゃねぇのか?


ちょっと社会主義的な考え方に近いせいか、あまり共感してくれる人がいないのですが、今の社会の欠陥は、社会人を教育する機会が公的に存在しないということだと思います。
よく「学生の仕事は勉強すること」なんて言う大人がいますが、こういう大人がいる限り社会の健全性は保てないのだろうな~と漠然として思います。
人は生きている限り一生学ぶ存在ですので、一生学生なはずです。
しかも、学ぶ力だけではなく、学ぶ意義といったものを知るのは、大人になってからで、つまるところ、大人こそ学びに適した存在であるはずです。

そもそも、学ぶべき大人(不適格社会人)の多さも、問題です。
(他国に比べてかなりマシだと思いますが)

社会人になってから「勉強したい」という人は数多くおりますが、そのハードルは非常に高いとしかいいようがありません。
社会人になってからがっつり学べる場が必要です。
また、そうすることで、幅広い年代の知見の継承も可能になると思います。
日本のエリートは受験馬鹿が多いので、こういう意見に反対な人が多いのですが、社会のために「ゆりかごから墓場まで」学ぶ場をどう確保するかが、今後の課題でしょう。

5分で書いた適当コメントですが。
ちなみに、私わ私自身をもっと学ばなければならない者だと思っています。


「国が!国が!」症候群 日本の国民病ふたたび

2011-08-20 08:43:03 | 社会
3月15日に福島第一原子力発電所から大量の放射性物質が放出された当初は放射性ヨウ素と高い放射線量に注目が集まっていましたが、事故から5ヶ月が経ち、半減期の短いヨウ素による放射線量が落ち着くと、今度は半減期の長いセシウムさんに注目が集まってまいりました。
当Blogでも、事故当初から、事故後はあらゆる箇所で放射線量の測定が行われ混乱を招く状況は予想しておりましたが、事故から半年経っても収束する兆しがなかなか見えません。
混乱が収束しない主な理由としては、政府のもぐら叩き的な遅い対応もありますが、個人的には拡声器たるマスコミの影響も大きいと思います。
というより、日本のマスコミはその性質上、事態を収束させようという意思すら持っていないと感じられます。
本来、マスコミの社会貢献を考えると、マスコミは良識によって不見識やデマを駆逐することが重要な役割と私などは考えるのですが、マスコミは「今起きていることを如何に伝えるか」に執心しており、現状を伝えることが結果としての不見識を拡散することになっているとしか思えません。
「悪貨は良貨を駆逐する」ではないですが、人間社会を全体としてみると良識もまた不見識に駆逐されやすい性質を持っていると思います。
実に残念なことです。

★★★★★★

さて、マスコミ論は横に置くとして、そのマスコミによる報道(特にTV)を見ていて非常に気になる点があります。
以前からある問題なのですが、震災後また目立ってきていることです。
「送り火」で陸前高田市の松を使う使わない議論の中で、評論家や論説委員、大学教授に至るまでもが安易に口にする、あの言葉です。
(松に関わらず食品その他でも同様ですが)

(放射線量について)
「国が早く基準値を定めるべきです。」

こういう発言をする人々を信用することはできません。
なぜか?

科学的結論が得られていない中で、公的な基準値を定めることがどれだけ難しいことか、ある程度の知識がある人なら誰もが知っていることにも関わらず、あたかも答えがあることを前提に「国が決めるべき」と安易に発言するということは、何も考えていないということを明らかにする無責任発言だからです。
「国が決めるべき」という言葉は、自分には全く関係がないことだと思っているから出る言葉です。

結論の出ることではないからです。
結論がないのに「国が決めるべき」という発言をする意味は、「諸説が入り乱れており早急には結論は出ないので国にはコンセンサスを得る旗振り役を果たして欲しい。」という発想においてのみ説得力を持つと考えます。

答えがないのに決めろというのです。
単純に国家への丸投げ以外の何者でもありません。
自分には何も言えないので問題そのものを投げているだけです。
であれば、評論家なりコメンテーターなりの立場で「自分にはわかりません」と宣言した上で、どう考えるべきかをその場で議論して欲しいと思います。
そうすれば視聴者にも考える機会を提供できるでしょう。

成田山新勝寺の付近のある店主がこう言っていました。
(放射性物質が検出されたとしても送り火を断行すべきとする意見として)
「被災地の松からセシウムが多少出るとかの問題ではなく、これは自分たちの心の問題としてやるべき。」

この方はよくわかっていらっしゃる。
問題あるとか無いとかではなく、自分たちの責任においてやるべきだと言っているのです。
多少被害があっても自分たちの責任においてやるべきだと。
(被害があってもタバコや酒の被害以下だというのは周知の事実なのですが)
これぞ民主主義国家の国民の発言です。
民主主義国家にいは信仰の自由があるのです。

(参考:『科学と宗教と迷信が織り成すタペストリー 綺麗に織ったもの勝ち』)

そもそも基準値を決めるのが国であるべき必要性もありません。
民間企業の認定機関があってもよいと思います。
(それすら出てこないくらい基準を定めるのが難しいということですね)
当事者が専門家に依頼して独自基準を定めてもいい。
独自基準の乱立で国が標準化を行うという流れは自然ですが、日本国民は問題を先回りして国に標準化を依頼しているのでしょうか。

嘘ですねそれは。
単純に誰も信じていないからです。
でも国も信じてはいないのです。
誰も信じていないから実態のない「国」に投げるのです。

そもそも「誰も信じられない」という発想が間違いです。
「信頼」というのは自然発生的に生まれるものではなく、創るものだからです。
「信頼」を構築するというのは、「責任」をどう定義して、どう実現するかという話と同意なのです。
「責任」から逃げるから「信頼」も生まれず、誰も信じることができず最終的に国に投げるのです。
「お上」意識云々の前に無責任なだけです。

90年代のバブル崩壊による不況時も「国が」発言はよく見られました。
2000年代に入ってからの格差社会論の中でも「国が」発言はよく見られました。
2011年の今、震災後も相変わらず「国が」発言がよく見られます。

日本国民の無責任体質は少しも変わっていないようです。

科学と宗教と迷信が織り成すタペストリー 綺麗に織ったもの勝ち

2011-08-19 02:37:43 | 社会
五山送り日が「可哀想な結論」に終わった理由(城 武晋)
http://agora-web.jp/archives/1371653.html

同感です。
ことの経緯を詳しく知らなかったし、調べる気にもなれなかったので何も語りませんでしたが、全く同じ考えです。

★★★★★★

似たような話で「結婚式」と「葬式」は文化崩壊の集中砲火の前に総崩れ寸前ですな。

両者とも宗教的というより文化的な背景がビジネスを考える上では重要で、その文化が崩壊してるのだから、単純に考えて既存のビジネスは維持不能と思います。
ブライダルは以前から創意工夫をこらしていますが、やはり中間集団の崩壊でお披露目する対象がよりプライベートに寄って来ているので、流れは止められないなと思います。
日本では学校や家庭、地域での初等教育にかなりのコストを払って文化を熟成してきたわけですが、そのコストを誰も負担しなくなったわけで(負担するだけの価値を見出せないというのが本当のところなのかもしれませんが)、そうなれば必然的に文化を背景としてもつビジネスは崩壊してしまうのは仕方のないことです。
葬式もお経読むだけで何万円も取られることが馬鹿ばかしく思えてくるのは致し方ないですし。

ただね、経験してみればわかるのですが、結婚式(披露宴含む)や葬式、法事なんかもそうなんですが、これらの意味、効用っていうのは社会性なのですよ。
SNSのツールなんかで表現されているソーシャルグラフを一歩外に出る機会のようなもので、要は、社会人になるための通過儀礼みたいなものだったのですね。
仲も良くない親戚を招待しなきゃならないとか、上司にちょっと一言もらうとか、面倒な社会的マナーを覚えるとか、いろいろと頭の下がる想いして気づくこともあるわけです。
見えていなかった関係性とか。
精神的なコストは高いのですが、でもやってから気づく効用も実は結構あるものだったりもします。

面倒なことは避けたい。
でも避けたらその分得るものも減るよと。
そういったものをどう補完していけるか。
補完していく必要はあるのか。
そういったものを考えていく必要はあって、ソーシャル化っていう流れの中で、ソーシャルっていう言葉が人間関係を限定するツールとして使われなければいいなと思う今日この頃です。

私のようにもう深く考えることを放棄してしまった怠け者なんかは、もう科学と宗教の違いなんて気にしていなくて、どちらも素材なのかなと思っています。
(アカデミックな議論はもう・・)
素材をうまく使って人生なり社会なりについて、うまく織ったもの勝ちなのかなって。

釜石の奇跡 情報待たず避難 地震直後、ほぼ全員

2011-08-12 14:06:35 | 社会
今お試しでアクセス解析結果が見れるのですが、どのページが人気あるかわかるだけでも面白い。
(livedoorなら無料で見れるのにね。)

アクセス解析結果を見て驚いたことがある。
検索キーワードの上位に必ず「釜石の奇跡」がランクインしているということだ。
8/11の当Blogの検索キーワード第1位が「釜石の奇跡」なのは、8月11日に群馬大の片田敏孝教授(災害社会工学)が、手県釜石市の9つの小中学校で全児童生徒を対象に東日本大震災のあった3月11日当日の避難行動を調査した結果が発表されたことが大きく影響しているのはわかる。
(検索ワードだけでなく、昨日はPVも第1位だ。)

しかし、8月11日以前からずっと「釜石の奇跡」が検索キーワードおよびPVで上位にランクインしているのだ。
確かに『釜石の奇跡 信頼が生み出す希望』は、当Blogにおける震災後の人気エントリであったのだが、それにしても未だにアクセスを集めているとは・・・息の長いエントリである。

いや、息が長くなければならない教訓でもある。
本当にこの「釜石の奇跡」は多くのことを教えてくれた。
最近稀に見る組織論の成功例である。
この事例にピンとこないビジネスマンは今すぐ廃業した方がよい。


ちなみに「釜石の奇跡」でGoogle検索すると当Blogが3番目(ニュースサイトを除けばTop)に出てくる。
お時間に余裕のある方は是非ご一読くださるといいです。(当Blogのエントリではなくリンク先の元記事を)
私は感動しました。

釜石の奇跡 情報待たず避難 地震直後、ほぼ全員(産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110811/trd11081114380015-n1.htm

岩手県釜石市の沿岸部にある9つの小中学校で、全児童生徒を対象に、東日本大震災のあった3月11日当日の避難行動を調査したところ、回答者1512人(回答率94・9%)のほぼ全員が、気象庁や行政の災害情報を待たずに地震直後に避難を開始していたことが11日、群馬大の片田敏孝教授(災害社会工学)らの分析で分かった。

避難をしようと決断した理由については、「防災無線や気象庁の大津波警報など公的な災害情報」とした記述は数件にとどまり、ほぼ全員が、自分の判断や教師の指示などにより「地震の揺れがおさまった直後、すぐに避難を開始した」と回答している。

さらに、地震直後に避難を開始したことで時間的余裕が生じたことから、「避難をしぶる祖父母や父母を説得し避難させた」「体の不自由な同級生をおぶって逃げた」「低学年の児童や幼稚園児の手を引いて逃げた」など、周囲の人の避難を誘導している様子も随所にみられる。

呆れた話

2011-07-28 21:49:06 | 社会
呆れてものが言えない。
経緯に関する情報がないので詳しいことはわかりませんが、呆れた。

高岡蒼甫がフジの韓流推し批判で事務所が解雇へ
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52480506.html

古い業界だな。
空気を読んだ結果、こうなるか。
Twitterの感情ダダ漏れ問題もさることながら、空気による過剰コンプライアンスの方がもっと大きな問題。

本来なら、TV局間で競争原理が働けば、フジテレビが駄目でも、他局で仕事がとれるはず。
韓流批判に賛同するTV局もあってしかるべきだ。
しかし、日本のマスコミは皆横並びで競争なんてあってないようなもの。
さらにいえば、TV局と芸能プロダクションの癒着構造がそれを許さない。
流動性のない固定的な社会や組織にありがちな話ではある。

しきたりや空気を守る限りにおいて、ムラ社会の論理で利益は守られる。

政治や企業を批判するマスコミが、最も批判されるべき対象の一つという皮肉が、この国の病を一番よく表している。

◆◆◆◆◆

彼は、彼自身がいつも語っている内容をつぶやいただけなのだろう。
飲み会や、その辺でする談笑する場で、ふつうに語っている内容に違いない。
ひょっとすると関係者もいる場でも言っている可能性はある。
でも、たとえ、その場に関係者がいても特に問題になることはない。
関係者は「その気持ちはわかるよ。」と思っているかもしれないし、「ちょっと問題発言だねそれは。」と思っても、問題にすることはない。
「まぁそういうふうに考える人もいても仕方がない。」と思うのだ普通は。
仲間内で語っている分には問題にならないのだ。

しかし、今回何が違ったのか?
Twitterでつぶやいたことで、不特定多数の人に知れ渡ることになった。
いわゆるエライ人に知れてしまうと不都合が生じかねない状況だ。


エライ人が怒ってしまうと考えて、先回りして問題をなかったことにしようとしてしまう風習があることが問題なのだが、もし仮に、その程度の批判で怒ってしまうエライ人がいるとすれば、相当の暇人なんだろうな。
他にやることがないから、そんな小さなことが気になって仕方がない人だから。
そんな人が経営陣なんかにいると会社に損失を与えるだけだから、辞めさせた方がいいよ。

Twitterでいつも通りつぶやいたら、問題になった。
政治家がオフレコだといって失言するのと同じ構図。

中国の高速鉄道事故に関する報道について

2011-07-24 14:00:15 | 社会
イエモンのJAMを引用して「乗客に日本人は いませんでした」を指摘する人がいるが、おかしい。
JAMには「嬉しそうに」がつく。
日本人がいるかどうかは中国に家族や知人がいる視聴者に求められている情報の一つだ。

価値基準について考えてみる。
日本と中国では人命の値段が違う。
費用対効果で考えたら安全性のコストが相対的に高まる。
資本主義が浸透していないと、費用対効果の発想も薄く、社会に埋め込まれた文化や倫理観の重要度が増す。
中国といえば文化が破壊されたのだったな。

共産党の一党独裁が続く限り、こういった事故は続く。
いくら中央政府が管理しようとして口うるさく指導したとしても、末端の一人ひとりの考え方まで統率できないからだ。
それが簡単にできるなら、どの組織も苦労しない。
今の体制下で「規律」を創生・維持したいのであれば、民衆みんなに共産党の理念を心のそこから理解してもらう必要があるが、難しいだろう。

日本にも当てはまる部分が多いにあるのだが、この状況を変えたければ、国民一人ひとりが自分で社会的安定性を向上・維持するためには何が重要なのか、考える必要がある。
それが一番得意なのは民主主義だ。
共産党中央政府にしてみれば、難しい二律背反の問題だろう。
事故や不正が続けば、中央政府への不満が高まる。
しかし、事故や不正を減らそうとすれば、自己否定をして共産党から距離を置かねばならない。

さて、時代はどう流れていくのか。

ノルウェー爆発・乱射事件

2011-07-23 23:58:55 | 社会
ノルウェー首都郊外の乱射事件、死者少なくとも80人に(ロイター)
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-22338720110723

ノルウェー爆発・乱射事件、その動機は:識者こうみる
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-22339320110723

犯人については、極右組織とのつながり、アルカイダとの関連性、そしてTwitterでのつぶやきから思想の偏りなどが指摘されているか、まだ全容ははっきりしていない。

ノルウェーで一体何が起きたのか。
それが伝わってこない。

いや、逆かもしれない。
視点を間違えると、モノの見え方も不確かなものになる。

殺戮能力だけを考えれば、単独犯でも武器さえあれば大量殺戮は可能だ。
実際、戦争のように戦略目的を達成するために敵を殺すことが評価される状況では、一人で何十人も、多ければ数百人も殺すことだってある。
(その一方で全く戦闘行為で銃の引き金を全く引かない兵士も多くの割合いるが)

にも関わらず、大量殺戮行為が稀にしか起きないのは、人、家族、友人、学校や会社、地域といった社会を構成するものの中に、それを抑止する社会規範や文化、宗教、そして愛といったものが内包されているからなのではないか。
つまり、人間社会は、社会構造として大量殺戮が発生しにくくなるメカニズムを持っている。

人は大量殺戮が可能となる能力を有しているが、それを抑止するメカニズムのある社会に生きているので、大量殺戮を行わないのだ。
よって、今回の件で考えるべきは、「何が起きたのか」ではなく、「何が起きなかったのか」なのではないか。

ノルウェーで一体何が起きなかったのか、何が起きなくなっていたのか。
この観点での考察が重要だ。

単純な原理主義的なテロと結びつけるのは問題を簡単化してくれるが、それが真実を語ることになるのかは疑わしい。
この事件の背景にある時代の流れとは何か、我々はそれを捉えることができるか。

なでしこ旋風批判がまったく的外れな件について

2011-07-19 21:08:07 | 社会
ふぅ、またしても釣りタイトルで書かねばならないようだ。

「なでしこ」旋風に対する肯定意見と否定意見が百花繚乱という感じだ。

サッカー語れとか、ナショナリズム煽るなとか、願望を託すなとか、自分の功績じゃないだろとか、知ったかぶりするなとか、せっかくの功績を消費するなとか、タダのりすんなとか、騒ぎすぎとか、etc...

しかし、どれも的を外している。
(もちろん、批判の全てを見たわけではないので、あくまで私が知っている範囲内という前提だが。)


勘違いして欲しくないのは、私は「どれも間違っている」と言いたいわけではない。
そういう側面もあるが、それが全てではないし、またそれが本質的な問題でもないと言いたい。
的を外しているということだ。

どう的を外しているのか。

「なでしこ旋風批判」は、AKB48総選挙を批判するくらいに的を外している。
実は、構図が非常に似ている。

過去のエントリを参照いただきたい。

AKB48総選挙 これは祭りです。


当Blogでは過去にも説明したことがある話題なのだが、日本社会には古来より地域的なコミュニティに「祭り」というイベントがビルトインされていた。
細かいことは面倒なので説明しないが、祭りの元は五穀豊穣を祈る神事で、特別な意味合いを持っていた。
祭りの日は日常とは異なり特別なのである。
人々は日常から離れ、人が変わった様に祭りにのめり込むのだ。

それが戦後の近代化の中で、職業の工業化と、何よりも都市化により人の移動が促進されると、祭りはその姿を変えていった。
若者が労働力として都市部に移動することによって「故郷=祭り」を持たない世代が生まれたが、高度成長期の会社社会では「飲み会」という祭りが生まれた。
(今も少し残っている)

故郷から移動してきた人たちによって構築された町には祭りが存在しなかった。
これを憂う人々によって町内会や自治体によっては急ごしらえながら祭りがつくられたが、神事を元にする伝統を持たないがために形骸化することが多く、世代間で受け継がれる祭りはそう多くはない。

現代社会の若者世代は、祭りを知らない世代といえる。
そんな若者たちがどこへ向かったか。

それが「サッカーワールドカップ」や「ワールドベースボールクラシックス」、「オリンピック」、「ロックフェスタ」や「クラブ」むかしは「ディスコ」だった。
ワールドカップになると人が変わったように熱中する若者は、高齢者の目には異様に映ったかもしれない。
その時だけ妙にナショナリズムに煽られる若者の姿は。
しかし、それは若者にとっての「祭り」だからである。
彼ら「伝統的な祭り」を知らない世代が、「新しい祭り」を見出したのだ。

ここで一つの提案がある。
次の問いについて考察して欲しい。

「祭りとは現実か?」

祭りの場において「お前、大人なんだから現実に戻れ!」という言葉を言い放つことが、どれだけ無意味か、よくわかるだろう。

「大人だから祭る」のである。
子供よりも大人だから祭りの必要性は増すのである。

「祭り」の時に「現実」か「仮想」かなどどうでもよいことである。
重要なことは、それが日常とは違う「祭り」であるということだ。


祭りは日常と違わねばならない。
この「なでしこ旋風」は現代人にとっての祭りなのである。
祭りで騒いでいたら「お前ら頭大丈夫か?」と言われたと。

「は?何言ってんの?だって祭りじゃん。」

と言って話はおしまいである。

えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々

男性にも「出産適齢期」がある

2011-06-27 21:45:52 | 社会
男性にもある「出産適齢期」 - 高齢の父親と子どもの障害の相関性(WSJ)
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_254698

先天性疾患を持つ子供の親として言っておきますが、こと出産に関して言うと、早い方がよいです。
男も女もです。

あくまでも確率的問題ではありますが、高齢になればなるほど確率は高まります。
もちろん、平均的人間などおらぬため、健康を考える上では個体差、誤差を考慮に入れるのは当たり前であり、高齢だから即NGというわけではありません。

しかし、確かな理由がわからなくても、統計を取ると有意な結果が得られるわけです。
年齢というパラメータは放射線被曝よりもずっと先天性の奇形に影響を与えると考えられます。

そもそも、出産期が高齢化したのは、ここ数十年のことであり、以前は今よりずっと若い時期に出産していました。
現代のように、高齢出産が一般化した状況は、人類未踏の領域であり、非常にリスキーな可能性が大です。
現代社会における経済的合理性は高齢出産に傾いているでしょうが、生物学的な合理性は高齢出産を歓迎するとは限りません。
今後、もっと違った形で、高齢出産の影響が出てくる可能性もあります。

私の子供は中核病院に通っておりますが、似たような状況の子供の多くは高齢出産です。
しかし主治医の論文も読んでみましたが、やはり親の年齢で有意な差が見て取れます。
原因が完全に解明しているわけではないので、バイアスもあるでしょうけれど。

あくまで総体としてのお話で、例外があるのは常識です。
何の提言にもなっていませんが、こと出産に関しては、放射線よりもずっと年齢を気にした方がよいようです。
放射線を気にするなってことではなくて、もっと全体として年齢を考えた方がよいということです。
だからといって早く生む方法があるわけでもないので、どうすることもできないわけですが、要点は、医療技術を過信して事後の対応に頼るのではなく、あくまで生活スタイルの範囲内になってしまいますが、事前の対応で未然に防げるものは防いだ方がよいということです。

健康に関しては言えば、時代は「治療」から「予防」へ移っていく、これは避けられないのであります。