進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

組織の意思決定を分析するための「視点」

2013-07-16 16:45:51 | AKB48_経営戦略・組織論系
組織の意思決定を分析するための「視点」についてのお話。


外交政策の専門家グレアム・アリソンは、キューバ危機を分析した『決定の本質』で、政府の意思決定を分析するための3つの「概念レンズ」を提唱した。

合理的行為者モデル:

このモデルは、政府の行動を合理的に統一された行為として見る。
政府は、明確な目標の下に選択は行い、行動を起こす。
この視点に立つと、政府が何をしたか、これから何をするかについて、特定の目的に照らし合わせて予測可能である。


組織過程モデル:

このモデルでは、政府の行動を、政府内部のシステム(組織構造、プロセス、ルーチン)に基づいた組織的な出力として見る。
組織には、その組織としての強みがあり、得意な行動パターン(勝利の方程式のようなもの)がある。
この視点に立つと、意思決定は意識的なものというより、行動様式の結果として見ることができる。


政府内政治モデル:

このモデルでは、政府が何をしたか、これから何をするかは、政府内にいるプレーヤの交渉ゲームの結果として見る。
政府内にいるプレーヤは、それぞれの立場に基づいた利害関係を持っており、意思決定は、それらのプレーヤの相対的力関係と能力に基づいて理解される。
この視点に立つと、一般に「政局」によって意思決定は行われると見ることができる。


上記3つのモデルは異なる次元の分析をもたらすが、相互補完的なものである。

つまるところ、組織の意思決定というのは「戦略」、「組織構造」、「組織文化」という3つの次元の統合された結果として見ることができるのである。

何の意図もなく、参考までに。




「戦略」の意味するところが「合理的」とは限らないのだが、本エントリの文脈としては、組織の意思決定を合理的な意図として見るという立場からすれば、組織の「合理的行為者モデル」は「戦略」なのである。

「戦略」には「意図的戦略」と「創発的戦略」があることは、当Blogでも何度か触れていることである。

調査研究によれば、意図的戦略のまま成功を収めることはほとんどない。

ほとんどの場合において、当初立案した「戦略」には、「修正」「無視」「破棄」が必要となる。

BSプレミアム『密着!秋元康2160時間』を観てAKB48の組織能力の高さに感じ入る ~ジャスト・イン・タイム~

2013-02-12 00:57:05 | AKB48_経営戦略・組織論系




BSプレミアム『密着!秋元康2160時間 ~エンターテイメントは眠らない~』を観た。

AKB48の「表の競争力」は、「裏の競争力」に裏付けられているのだと改めて感じ入った。

「表の競争力」とは、顧客の評価に基づくもので、価格・知覚された品質・ブランドなどであり、

「裏の競争力」は、顧客に(見えないゆえに)直接評価されない「生産性」「リードタイム」「歩留まり」「不良率」といったものである。

※藤本隆宏氏による「競争力」に関する洞察に基づく



「裏の競争力」の中でも最大のキーワードであったのが「ジャスト・イン・タイム」である。

「ジャスト・イン・タイム」と言えば「TPS(トヨタ生産方式)」が有名ではあるが、今ではTPSを基にMITで作られた「リーン生産方式」として様々な分野に応用されている。



「ジャスト・イン・タイム」のポイントは「From Concept To Cache」「時間」である。

コンセプトからキャッシュに変換されるまでの価値の流れに注目し、ここから一切の「ムダ」を排し、かかる時間を短縮化する。

ここでいう「ムダ」とは、付加価値(顧客価値)を生まない作業全てのことである。

(逆に言うと、付加価値に繋がる無駄ならそれはムダではない。適度な「遊び」とかね。)

そのためには余計なバッファ(在庫)を持たず、あらゆることをリアルタイムに処理する能力が必要だ。

組織の能力を磨き上げなければならない。



誤解されがちなのだが「時間の短縮化(ムダを省く)」は、狭義の意味での「生産性の向上」が目的ではない。

コンセプトからキャッシュまでの道のりが短縮化されることで「結果がすぐわかる」ことが重要だ。

早期に顧客価値の高低に気づくことができれば、商品やサービスの修正や戦略転換などが可能になるからだ。

コンセプトを創造してからフィードバックを得るまでの時間が長ければ長いほど、軌道修正をするのに手遅れになる可能性が高くなる。

(それゆえ『リーンスタートアップ』では、「小さく生み大きく育てる」式の開発の有効性が主張されているわけだ。)



フィードバックを得るのに時間がかからなければ「仮説検証式」の開発がやりやすくなる。

様々な顧客価値に関する仮説を立てては、それを試すことができるのだ。

「PDCA(Plan-Do-Check-Action)」サイクルも回しやすい。

(『リーンスタートアップ』では、より学習に重点を置いて「BML(Build-Measure-Learn)」の「構築・測定・学習」が提起されている。)



まとめると、まずクリエイターの頭の中でコンセプトが創造されてから、商品なりサービスが最終形になるまでの時間が短くなれば、1単位当たりの生産性が向上するし、打ち手を増やすことができるので、その意味でも生産性は向上する。

そして、その間にどれだけ修正サイクルを回すことができるかによって、その分だけ完成度は高くなる。

また、フィードバックを早い段階で得られることで軌道修正がしやすくなり、大量の工数をつぎ込んだ挙句に失敗するリスクを軽減することができるというメリットもある。



今回の『密着!秋元康2160時間 ~エンターテイメントは眠らない~』を見て、スタッフやプロセスの問題点を指摘するのは容易ではあるが、上記の視点をもって、組織がどういう能力を持っていて、どういうことを学習しようとしているかを考えると、ちょっと違うものが見えてくるかもしれない。

少なくても、ウォーターフォール型のプロセスをかっちり決めてやるのでは、AKB48のようなエンターテイメントグループは成り立たないであろうなという気がしてならない。



ただ、これをチームに展開するのは容易ではないな~。

リソースが足りなそうだよなぁ。

握手会の意義を再考する

2013-01-24 01:08:17 | AKB48_経営戦略・組織論系
握手会に行くのをやめたヲタはいる?(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51862026.html


そういえば最近は握手会に関連する問題で盛り上がることが少なくなったなと感じる。

一昔前と違って「AKB48の握手会」は良くも悪くも市民権を得たということだろう。

当たり前のことを、あえて語る人は少数派だ。

だが、当たり前のことを語り直すことで、見えてくるものがあったりもする。



まず、決して外してはならないのは、「握手会にはCDを売る以上の目的がある。」ということだ。

だから握手会を辞めることはできない。

いや、より厳密にいえば、「未来のCDを売るために握手会は存在する。」ということになろうか。

これについては後述する。

それゆえ、握手会そのものを否定するのはナンセンスなのであり、握手会の「量」について考えるべきなのだ。

この問題は、資源配分に関する戦略をどう練り上げるかに尽きる。



で、今回は「CDを売る以上の目的」とは何か、について簡単に整理することにしよう。

まず、「顧客視点の獲得」である。

メンバーが直接顧客とのコミュニケーションを持つ意味は、非常に大きい。

大企業が衰退する一つの大きな理由は、分業化によって顧客視点が失われ、組織内から価値統合機能が喪失することにある。

(組織内の価値観を統合する理念を持っていれば、それで代替は可能。)


『従業員』の誕生 ~時代遅れになった経営管理思想~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/3b47570c6eaf0e12ed74bac960e3f2d8


握手会は、電波の向こう側にいる見えない相手にではなく、目の前にいる顧客に触れ合う絶好の機会である。

何かのメーカー企業の社員なら、自分たちの開発した製品に対する聞きたくない意見に直面することになるわけだが、

顧客の意見を肯定するにせよ、否定するにせよ、その意見から逃げるようでは、おそらくそのメーカーに未来はない。

中には辛らつな意見もあるだろう。

接したくない顧客も存在する、それは事実だ。

しかし、だとしても、問題を消すことを考えるのはナンセンスだ。


握手会問題 松井玲奈の主張に共感したので、全く役に立たないアドバイスをしてみる。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d1aedba76e9f278c737b3edcc362744a


伝える技術のない顧客を支援する仕組みが必要なのだと思う。




次に、「メンバーの淘汰プロセス」である。

握手会でメンバーと顧客の接点を作ることで、メンバーにAKB48メンバーとしての自覚を促しながら、主力メンバーの選抜プロセスを兼ねることができる。

この握手会を通して這い上がれるメンバーでなければ、主力メンバーになれる可能性はほとんどない。

この先のAKB48としての活動の中に待ち構えているであろう、様々な苦難を乗り越えることができる忍耐や創意工夫の能力を試されていると思ったほうがいい。

自覚の芽生えないメンバーや、向上心のないメンバーを、握手会を通して離脱を促す効果が期待できる。

いわば、ふるいだ。

握手会は適性のないメンバーを淘汰させる機能を持っている。

(当Blogではこれまで繰り返し述べているが、これは能力がないという意味ではなく、より適性のある場所を目指すべきだという意見。)


自然は命をムダにする
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e98d828c318cbd4d9677b82f653b26c8



他にも「人材育成」「プロモーション」「組織力強化」がある。

組織力強化についてだけ、簡単に触れておく。

(これまで何度も書いてきたことだが)

AKB48は1年のうちにいつ何をするかというタイムラインが非常にしっかりしている。

このタイムラインを基礎として、その上に様々な創意工夫でデコレーションをするのが、AKB48の基本戦略の一つとしてある。

タイムラインの安定性が高いからこそ、創意工夫をする余裕ができるのだ。

組織としては、タイムラインの堅牢性を高く保つために、オペレーションに関する能力を常に磨かなければならない。

そのため、オペレーションをうまく回す基礎体力をつけておくために、組織に不断の努力を強いるのである。

だから、組織としての能力を高めていくためにも、CDのリリースタイミングと握手会には大きな意味がある。



個人的には、CDリリースと握手会の間隔をもっと縮める努力がAKB48運営にもっと必要だ。

仕込から収穫までの時間が長すぎる。

半年では在庫回転率が悪過ぎる。

「ジャスト・イン・タイム」に取り掛かって欲しい。



ということで、如何にして、限りある資源を有効に使って握手会の意義を最大化できるように、握手会を設計できるか。

これが握手会を運営する側の問題意識だ。

まず、以上を踏まえて議論をするといいのではないか、と思う。

↓この意味もきっとわかることだろう。










あと、本当は新劇場があったら出来る事がいっぱいあるのだが、この手が禁じられているために、

(おそらく財務的な理由よりも理念的な理由で)

そうすると、握手会イベントをうまく設計して、劇場公演を代替させることを考えるしかない。

という側面もあるのだろう。

握手会イベントを単なる「握手会」ではなくて、

もっとライブやお祭り的な要素を組み込んだ総合的なイベントへと変化させるのだ。

ゴリ推しの基本は「相乗効果」である

2012-11-13 20:22:06 | AKB48_経営戦略・組織論系
言うまでもないことだが、「ゴリ推し=エース候補」というわけではない。

以前から当Blogでは述べているように、AKB48は連邦制のようなものである。

組織形態としては帝国のようであり、「AKB48×メンバー」「メンバー×ファン」の関係性でみると封建制に似ていると思う。


マス時代の終わりとアイドル戦国時代、そしてAKB48ネットワーク
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/46ac6f1a1c4f937a34a0d1ed5d2e64ae


「戦国時代」の意味が質的変化を遂げたと思うのだ。

マス・アイドル時代が終焉を迎えて、ドラッカーが言うように機能に焦点を絞ったニッチなアイドルが多く現れた。
アイドル多元主義の時代だ。

その意味では、「戦国時代」とは言うものの、各アイドルの関係性は競合関係というより、住み分けられた別個のものと考えた方がいいかもしれない。
そういう意味では「戦国時代」という表現は不適切である可能性が高い。
「アイドル戦国時代」というより「アイドル多元主義時代」の方が意味的にはしっくりくるだろう。


その上で、注目すべきは、完全に死んだはずの封建主義が姿を変えて生き返ってきたように見えることだ。

この流れの主役は、もちろんAKB48だ。
AKB48を起点とするSKE48/NMB48/HKT48/JKT48/TPE48/SNH48といった地域に根差した「地域性」を持ち、ある一定の限界はありながらも「顧客参加型(しかし、決して民主主義ではない)」という側面を持つアイドルの誕生である。

ヲタと呼ばれるファン達は、それぞれのグループにおいて自分たちの領土(意見や関与)が認められることを求め、または自分たちの存在感を示さんとして日々闘う。
その結果として、ファンはゆるく組織化されることになる。
これを見て、新しい時代の封建主義を連想せずにはいられなかった。
多元主義時代の多元主義によって雲集霧散するのではなく、多元主義時代の封建主義によって一体性を確保するのだ。
自己組織化を誘引するメカニズムとしての封建主義なのだ。

AKB48とファンとの関係性は、形は違えど「信用創造が多極化する分散型信用主義経済」を利用した「領主と家臣の関係性」のアナロジーで説明づけられはしないだろうか。
昔の封建制度が「土地」を媒体とした主従関係であったのは、土地が信用を表す第一のものであったからだが、AKB48における土地は「推しメン」に関連するあらゆるコトであろうか。
(そういう意味ではメンバー1人ひとりが領主様なのだ・・)

あえていえば、「封建主義的な要素を持つアイドルによる多元主義時代」だろう。

これを単純にソーシャル・ネットワークの広がりと言うにはもったいない。
私には、信用創造の担保を地域性や物理的緊密性、顧客参加型という「リアル」に置きながら、そこを起点にネットワーク効果で何倍ものレバレッジをかけるようにバーチャルにとてつもなく大きな世界(ここでは「AKB48ネットワーク」と呼ぶことにしよう)を構築しているように見える。
信用創造の担保としての拠点がジャカルタ、台北、上海...と次々に増えていくことによって、このAKB48ネットワークはそれらを乗算するように大きくなる。
驚異的なスピードとネットワーク的な拡がりを見せているこの経済を何と呼ぶべきなのだろうか。
それこそ、以前から当ブログで主張している「東アジア・アイドル経済圏」の先鋭的な形が見えてきた気がするのだ。

またAKB48グループそのものが、異なる事業体の緩やかな連合体となるであろう。
それらを全てひっくるめて『AKB48』というブランドをグループ全体での一体性の確保のために使うのだ。


『AKB48』とは何か?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/af87f1dafba669f391cb2f4b218cfd2b



上記は、かなり適当かつ観念的な話なのだが、この立場に立つと、単純には「個々のメンバーの強さ」が全体の強さに強く影響するわけだ。

個々のメンバーを売り出す理由はそこにある。

だが、だからといって個々のメンバーを売り出せばそれでよいかというと、違う。

封建制がまさにそうなのだが、AKB48とメンバーの関係は「関係的契約」的であるべきなのだ。

関係的契約理論(Wikipedia)


関係的契約は、各事業(メンバー)の利益と、共同事業(AKB48)の利益とを一致させることに重点を置いている。

そこでは、共同事業で最大の利益を上げることに集中すれば、各メンバーの利益も最大になるという点が明確になることが重要なのである。

ドラッカーは、関係的契約によって協力的な関係を構築できれば、共同事業にかかるコストを25~30%抑制することができると計算した。

(言い換えれば25~30%の付加価値を上乗せすることが可能ともいえる)

参加する人々の経験やスキルを組み合わせて、各自が別々に問題解決に取り組みうよりも効果的に、知識を生み出すことができるからである。

「相乗効果」がためである。


ここには「組織×個人」の相乗効果も期待できるわけで、両者が相まって自己強化型フィードバックループが回るのである。

個人や組織の強みが、相乗効果で互いの強みに変換されるわけで、これを「自己触媒作用」ともいう。

個々のメンバーの強みを組織の強みに変え、組織の強みを個々のメンバーに変えるのだ。


この基本はずしたらアカン。

なぜ自覚もプロ意識もあるのに問題を起こすのか ~現実否認~

2012-09-28 10:17:12 | AKB48_経営戦略・組織論系

Q:
不祥事を起こすメンバーに自覚はなかったのか?



A:
いいえ。
自覚はあります。



Q:
問題と知りながら、自制しなかったということか?



A:
はい。
そういうことになります。



Q:
しかし、バレたらまずいと思わなかったのか?



A:
まずいと思っていたでしょう。
でも、やってしまいます。



Q:
バレた時のことは考えないのか?



A:
考えますが、それしか考えないわけではありません。
当然ながら、バレない時のことも考えます。



Q:
バレる/バレないのリスクとベネフィットを天秤にかけたら、リスクを恐れないのか?



A:
人間がいつでも合理的とお思いですか?
リスクがあるから行動しないとなれば、恋も結婚も、ましてAKB48に入ることもありません。



Q:
リスクを過小評価しているのではないか?



A:
人間には、その時々において、リスクを過小評価および過大評価する性向があります。
モラル上の関係で実証実験の例は少ないのですが、
人には、性的に興奮状態にある時、リスクを過小評価する傾向にあるというデータもあります。



Q:
不祥事を起こすメンバーにプロ意識はあるのか?



A:
はい。
相対的な問題ですが、プロ意識はあります。
日々、苦悩と葛藤の中、よくがんばっていると思います。



Q:
自覚はあって、プロ意識もあるのに、なぜメンバーは不祥事を起こすのか?



A:
人間が、「現実否認」をする生き物だからです。
是非、↓こちらをご覧ください。



現実否認と夢 そして愛
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/20573f10f72f22c159495a6aee7bffdd


Q:
では、どうすればよいのか?



A:
1つの方法は、構造として権限をはく奪し、裁量を減らすことです。
つまり、手足を縛って身動き取れなくするということです。



Q:
そんな非人道的なことできるとは思えないが?



A:
はい。
非人道的の前に、何もできなくなるので、何も成立しなくなります。



Q:
もう一度聞くが、どうすればよいのか?



A:
ウソを付く技術を身に着けることが有効だと思います。



少年少女よ嘘をつけ!!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1a4534769840e97713e977324b0abc3e


Q:
そもそも、このようなことを悪いと思うことが間違いである可能性は?



A:
しかしながら、「悪い」から問題なのではありません。
悪いというのは、ある基準に対して満足していないという評価です。
基準を設定しないか、もしくは変更するとしましょう。
それで問題が解決するのであれば、その提案にも価値がありますが、
間違った問題認識のもとに解決策を考えても仕方がありません。



Q:
では、どういう問題なのか?



A:
このブログに書いてあることを、読み砕いてください。



進化する魂
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future

率直に真実を語る重要性 ~コカコーラの失敗:カンザス計画~

2012-09-07 22:02:32 | AKB48_経営戦略・組織論系
[追記]

書き切った後、校正せずに今読み直したら、肝心なところが抜けていることに気づきました。
題名と中身の繋がりがイマイチ不明という・・面倒だから後で書こうと思っていたらそのまま忘れてしまっていました。
が、もう気力がないので、このまま抜けたままです(笑)

要約すると、リーダーをはじめとした組織が集団浅慮に陥っていることが、荒唐無稽なストーリーを立てるようなことに繋がるのであるからして、現実を否認するのではなく、対峙することが大切だということです。
その時、率直に真実を語る姿勢を持つことが重要だということですな。

あれ、三行でまとまっちゃいますね・・


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現実否認と夢 そして愛
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/20573f10f72f22c159495a6aee7bffdd

の続き


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1985年4月。

冷静時代には「資本主義の象徴」とまで呼ばれた世界で最もブランド力が高いと言われる企業「コカ・コーラ・カンパニー」は、1986年の創立100周年を前にして「カンザス計画」と呼ばれる計画を実行した。

コカ・コーラの味を根本的に変えて、「ニュー・コーク」を発売したのだ。

作家トーマス・オリバーがコカ・コーラ社の広報マンに「オールド・コーク」が復活する可能性について尋ねたところ、「未来永劫あり得ない」と回答された。

ところが、その未来永劫はわずか79日で終わった。

「ニュー・コーク」は消費者の不評を買い、コカ・コーラ社には抗議の手紙や電話が殺到する事態になったのだ。

1985年7月11日、コカ・コーラ社は味を元に戻し、少しだけ名前を変えて再投入するはめになった。

「コカ・コーラ・クラシック」だ。

(2009年1月30日、「コカ・コーラ・クラシック」の「クラシック」の文字を取った。)

「ニュー・コーク」は名前を「コークⅡ」に変えて再投入されたが、2002年に廃止されるまで不人気なままだった。

(正確にいうと、主戦場であるアメリカ・カナダでは人気がなかったが、第3国ではそれなりに人気が出たようだ。)

いまコカ・コーラ社に「ニュー・コーク」が復活する可能性を聞いたなら、こう答えるだろう。


「未来永劫あり得ない」




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当時「カンザス計画」を推進したのは、コカ・コーラ社のCEOであったロベルト・C・ゴイズエタと、ドナルド・R・キーオだった。

ロベルト・ゴイズエタは20世紀のアメリカ産業界を代表するCEOの1人である。

ゴイズエタは、コカ・コーラ社の社長となった1980年から1997年に本人の死去により経営者の座を降りまでの間に、時価総額を45億ドルから1800億ドルに押し上げた。

炭酸飲料というローテクの極みのような分野での業績にゆえに、その偉大さは一層輝いている。

その20世紀のアメリカを代表する偉大な経営者が、何故このような大失敗をしてしまったのか、興味深い問題だ。


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コカ・コーラ社の看板商品は、当然「コカ・コーラ」である。

その「コカ・コーラ」の味を変更して、「ニュー・コーク」を発売することになった背景を簡単に説明する。

当時、「コカ・コーラ」は1970年代半ばから「ペプシコーラ」にシェアを奪われ続けていた。

若者を中心に、「コカ・コーラ」よりも甘いペプシを好む消費者は増えていたのだ。

1975年には全世界の売上高は過去最高を記録していたが、国内売上高は前年を下回っていた。

さらに問題だったのは、「ペプシコーラ」のアメリカ国内市場でのシェアが伸びていたことだった。

挑戦者たるペプシコーラはありとあらゆることを積極的に試みた。

そして、事業のあらゆる面に遊び心があった。

たとえばペプシコーラのダイエット版は、「ダイエット・ペプシ」と名付けられた。

一方、その2年後に発売されたコカ・コーラ社のダイエット版コーラの名前は「タブ」である。

コカ・コーラ者では、コカ・コーラの全てが神聖化されており、神聖なる商品名を、他の商品に流用するなど許されなかったのだ。


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ペプシの勢いを決定づけたのが「ペプシチャレンジ」だ。

「コカ・コーラ」と「ペプシコーラ」でブラインドテスト(目隠しテスト)を実施しようというのだ。

当時ペプシ社内にはこんなジョークがあった。


「コカ・コーラ」を「ペプシ」のボトルに入れたら全く売れないだろうが、「ペプシ」を「コカ・コーラ」のボトルに入れたら大儲けできるだろう。



ペプシ側には、消費者が「コカ・コーラ」をブランド名で選んでいる確信があった。

ペプシは何度かブラインドテストを実施したが、勝ったのはペプシだった。


「あなた自身の味覚で決めてください。」



というキャンペーンを張った。

コカ・コーラ社の上層部は大層驚いたそうだ。

コカ・コーラ社では、主力製品の味をライバル製品と比較したことが一度もなかったという。

さらに追い打ちをかけたのは、コカ・コーラ社内部で実施されたブラインドテストでも、ペプシが勝ったことだった。

「ペプシチャレンジ」は、スーパーマーケットで買い物をする普通の消費者のロイヤルティを揺るがすだけではなく、マクドナルドのような大口契約を危険にさらすという意味でも、脅威であった。

この状況に危機感を抱き、コカ・コーラ社で、ペプシをライバルとして認め社内的議論をする許可を与えたのが、ゴイズエタだった。

1981年、ゴイズエタは幹部を集めて行われた会議にて「聖域のない改革」を訴えた。

その結果、「チェリー・コーク」という大ヒット、「ダイエット・コーク」、さらにこの間コロンビア・ピクチャーズ(現ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント)の買収といった成果が生まれた。

そして1985年、問題の「ニュー・コーク事件」は起きる。


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1985年4月23日、ニューヨークのリンカーン・センターで「ニュー・コーク」の発売イベントが派手に開かれた。

先述したように、コカ・コーラ社が「ニュー・コーク」を発売することになった理由は「ペプシ」の躍進なのは、誰の目にも明らかだった。

だが、ゴイズエタは、このシンプルな真実だけは口にできないと思い込んでいた。

実は、ゴイズエタとキーオは、イベントのリハーサル時に、自分たちが語ろうとしているストーリーがあまりに信憑性に欠けると気づいていたが、そのまま押し切ろうという判断をした。

仰々しく「これぞアメリカ!」という演出がなされたイベント会場でゴイズエタは説明をした。


最高の製品が、さらに美味しくなりました。

消費財の世界で、史上最も大胆な試みとお考えになる方もいらっしゃるでしょう。

私どもとしては、単に絶対確実な試みと申し上げておきましょう。

なぜなら、このコーラの新たな味わいは、消費者の皆様の嗜好に基づいて作られたのですから。


それからゴイズエタは、新たなコカ・コーラの製法がどのように生まれたかを語った。

1982年に発売され大ヒットとなった「ダイエット・コーラ」の開発過程で、社内のフレーバー調合担当者が「ニュー・コーク」の新製法を偶然発見したというのだ。

調査の結果、消費者が新製法の味を従来の「コカ・コーラ」よりも好むことが分かったため、何のためらいもなく製法変更に踏み切ったという、いかにも荒唐無稽な話だった。

実際、このストーリーには真実の欠片もなかった。

しかし、ゴイズエタの抱えていた問題の核心はそのことではない。

ゴイズエタとキーオの2人が報道陣に信じ込ませようとしていたストーリーが、偽りだっただけではなく、どうにも信じがたいものであったのだ。

この荒唐無稽な作り話には面白いところが一つもなく、報道陣が乗ってくる要素も一切なかった。


世界で最も価値のあるブランドを保有する企業が、偶然今より優れた製法を発見し、変更を決断したって?

そんな馬鹿なことが有り得るのか・・。


企業がこのような極めて重要な局面に差し掛かると、メディア(受け手)は味方に付くか、敵に回るかをすばやく決める。

この後に行われた質疑応答からは、メディアがどちらに決めたかは明らかだった。


報道陣:
これが大失敗に終わらないと、100%確信があるのですか?


ゴイズエタ:
さきほども申し上げました通り、これは消費者が決めたことですから。
絶対確実な選択です。

キーオ:
大ヒット間違いなしですよ。


報道陣:
「ニュー・コーク」と「オールド・コーク」の違いは何ですか?


ゴイズエタ:
味を説明するなら、詩人かコピーライターか、報道陣の皆さんにお任せした方がいいでしょうね。
飲んでみて、ご自身で判断してもらえませんか。


報道陣:
ご自分の言葉で説明してください。


ゴイズエタ:
そうですね、より滑らかで、えーと、まろやかで、えーとそれでいて、そう、骨太でもいいましょうか。
これまでより調和のとれた味ですよ。


報道陣:
(失笑)


キーオ:
飲む人を包み込むような味だと、私は思いますよ。


報道陣:
この製品は「ペプシ・チャレンジ」への対抗策なのでしょうか?


ゴイズエタ:
おやおや、何を言っているんですか。
えーと、ペプシチャレンジですか?
そんなことがいつあったんです?


報道陣:
要するに、この新製品にとって「ペプシコーラ」の存在は、ハインツの煮豆缶やハーシーズのキスチョコと同じくらい無関係だとおっしゃるのですね?


ゴイズエタ:
さぁ、どうでしょうなぁ。
あなたの方が間違いなく私より英語がお得意のようだから、あなたと言い争う気はありませんよ。
私が言いたいのは、新製品が念頭においているのは、消費者だけだということです。


会見は大失敗に終わった。
そして、ゴイズエタの言葉は許されざる嘘の典型だった。
誰にでもわかる現実を否認したのだ。


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ペプシコーラのCEOロジャー・エンリコは「ニュー・コーク」の情報を掴むと、歓喜してこう言った。


あいつら、本当にやりやがるんだ!
新製品を出すんじゃなくて、「コカ・コーラ」を市場から引っ込めるのか!!


エンリコはすぐ全従業員に向けてこう文章を打った。


ペプシコーラのボトラーと社員の皆さんへ

皆さんに心からお祝いを申し上げます。
87年間もじっと睨み合ってきた相手が、ついにマバタキをしました。

コカコーラは製品を市場から引き揚げ、コーラを「ペプシに似た味」に変えようとしています。
リプリーが世を去ったのが非常に残念です。
きっと大喜びしたでしょうから。

市場におけるペプシの長年の成功が、今回の動きの原因となったのは間違いありません。
正しいものを変える必要がないことは、誰でも分かります。
彼らもようやく、我々にはずっと前から分かっていたことに気づいたのかもしれません。
ペプシの方がコカコーラよりも美味しいと。

トラブルに陥った人間というのは、とんでもないことをしでかすものですから、彼らから目を離してはいけません。

しかし、今だけは、勝利とは甘美なものであり、我々にはそれを祝う資格があると申し上げましょう。
金曜日は祝日とします。
どうぞ楽しんでください!
では!

ペプシコーラUSA 社長兼CEO ロジャー・エンリコ


エンリコはこの好機を逃さなかった。

アメリカ中の新聞の広告枠を押さえたのだ。

それだけではない。

リンカーン・センターの目と鼻の先にあるコロンバス・サークルでパーティを開こうと提案した。

コカ・コーラ陣営とやりあった報道陣たちに「本当の本物の味」であるペプシを飲ませようというのだ。

1985年4月はペプシにとって大勝利の日となり、コカ・コーラにとっては惨敗となった。

この時、瞬間的にペプシのシェアがコカ・コーラを上回った。

先にも後にも、この時だけだ。


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『コカ・コーラ帝国の興亡』の著者、マーク・ベンダグラストは「ニュー・コーク」の失敗を以下のようにまとめている。


ニュー・コークの大失敗の結果、元のコークは400万ドル以上にも相当する宣伝効果に浴し、その効果と比べればコカ・コーラ社の下手な広告は役立たずも同然だった。

今や由緒あるコーラは復活し、再びアメリカ一の清涼飲料の地位を取り戻した。

ゴイズエタとキーオは図らずも、このマーケティングの失敗を見事なビジネス上の手柄に変えたのだった。



なんとまぁ、幾重にも皮肉な話である。

AKB48戦略転換

2012-08-14 19:02:05 | AKB48_経営戦略・組織論系
本日も、妄想にお付き合いいただき、ありがとうございます。

誤解されたくないのですが、私は「AKB48限界説」などを主張するつもりは全くありません
「限界」ではなく「戦略的失敗」をしないかを心配しているだけです。
単に私が心配性だからです。







アンドリュー・グローブ『インテル戦略転換』

後の世に語り継がれる華麗なる転進はいろいろあると思うが、その中でも米Intel社は有名だろう。

MicrosoftのWindowsとの戦略的互恵関係Win-telで圧倒的競争優位を作り出し、IT業界、PCの世界で覇者となった会社だ。


彼は時代の潮流を読み、ルールの変化に気づくことが大事だと主張する。

内容としては、毎度おなじみクレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』が伝えているものと同じだ。

パラダイムシフト、モデル創新といったことが起きるとルールが変わる。

これまで武器であったものが、まるで役に立たないばかりか、重荷となってしまうことすらあるのだ。



AKB48の場合、少し種類が違うかもしれないが、似たような状況に置かれているのではないかと危惧する。

どういうことか?

AKB48は表面的には成長しているように見えるが、水面下ではコア部分の弱体化がはじまっているのではないか?


ということだ。

前から述べているように、AKB48はずっと戦線を拡大している。

AKB48単独だけではなく、各メンバー、関連事業含めればどんどん成長しているのだと思うし、これからも成長するだろう。


だが、それに持続性があるのかどうかはわからない。

事業規模を拡大すれば、一見して成長しているように見えるが、それが本当に単なる「量的な成長」なのか「質的な成長」なのかは、わからない。

(これが簡単にわかるなら、誰も失敗しない。)

ひょっとしたらと思うのだ。


今、フェーズが変わっているのではないか?

「質的な成長」を犠牲にして「量的な成長」を得ている可能性は?

それが中長期的に及ぼす影響は?


と。

だとしたら、考えなければならないことがあるのではないかと。


チーム4を組閣でいじるべきでもないし、JPN48もいらないということを、今一度説明してみる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/32bcca4fef220cd7ac0819eb84bf620c


今更言うことでもないが、各メンバーを別々の芸能事務所に所属させることは、非常にうまい手だったと思う。

メンバーを各種メディアに進出させる際のノウハウやチャネルを補完できるのはもちろん、将来性を含めたメンバーの責任をAKB48本体から切り離すリスクヘッジにもなったし、事務所を通じて各メンバーに自助努力のインセンティブを与えるという点においても有効だと思う。

戦略的提携であり、「芸能界予備校」というAKB48のコンセプトの一つとも合致する実に素晴らしい戦略だ。


しかし、これが今足枷になっているのではないかとも思う。

つまり、こういうことだ。

発展期に求められた戦略と、成熟期に求められる戦略が違うのではないか?


フェーズが変わった可能性があるのだとすれば、「戦略転換(Pivot)」が必要だ。


3.11が一つの契機になると思ったが、メンバーの意識に変化を及ぼしたものの、ビジネスモデルの転換までには影響がなかったようだ。

3.11によってAKB48は社会的存在に変身したのだと思ったのだが、思ったより浅かった。

(つまり、芸能界予備校をやめて、AKB48として(一つの永続する組織として)社会的使命を果たしていくということ。)

その重要性に気づいた人が少なかったのか。だとすれば残念だ。


映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on』 私たちはそれでも夢を見る
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/9a35eb8489365152db81d031affb51f5




もちろん、簡単には変換できないことは容易に想像できる。


AKB48劇場を聖地に
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/409b97c0571987f1f87e4b0b8a843bdb


それに、誰も「面倒な戦略転換が必要だ」なんてことを認めたがる人はいない。

確定的な情報ではないからだ。

「何を根拠に?」と言われるのがオチだ。


私にも自分から率先して嫌われるようなことを言うインセンティブもない。

(だから、書かないことの方が多い。書いてないことは山ほどある。)

しかし、首元にナイフを突きつけられるまで、現実を否認したがるのが人間というものだ。


AKB48運営は失敗を認められるか ~危機管理の模範的教材:タイレノール事件~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0a80eca62b4d07869cc1780d4e713a0c



きっと私が心配性なのだろう。

ただ、アンドリュー・グローブはこう言っている。

「Only the Paranoid Survive」
(病的なほど心配性だけが生き残る)


京セラ創業者の稲盛さんも似たことを仰られていましたね。

楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する。


悲観的に楽観的であれ。


妄想族より 愛をこめて

なぜ「チーム」を活動の基本単位とするべきなのか。 ~チーム学習のススメ~

2012-08-11 15:50:36 | AKB48_経営戦略・組織論系

今回はgooブログの文字数制限いっぱいで難しい・・1文字単位で削ってます(汗

当Blogはプロトタイプ段階でもエントリをリリースして後にデバッグしながら精度を上げていくのを基本としていますので内容は少しずつ変化していきます。


◆◆◆◆◆◆


チーム4を応援していると、こう言われる。


なぜ「チーム」にこだわるのか?


今のAKB48で「チーム」にこだわる必要はあるのか?


「チーム」に意味がないのだから組閣の意味がない。



もちろん主張するのだから理由はあるし、意味がないから組閣しないのではなく、チーム4の意味があるから今は組閣してはならないのだ。


◆◆◆◆◆◆


■なぜ「チーム」を重要視するか


個人としても組織としても、成長するのに「チーム」ほど優れた媒体はない。

チームが学習する時、チームとして驚くべき結果を生み出すだけではなく、個々のメンバーも、チーム学習が無かったら起こり得ないような急激な成長を見せる。


また、チームが学習できなければ、組織は学習し得ない。

個人の学習は、あるレベルでは、組織の学習と関連がない。

個人が常に学習したところで、まったく組織の学習にならないからだ。

しかし、チームが学習すれば、組織全体の学習の縮図になる。

チームが得た洞察は行動に移される。

チームで開発されたスキルは、他の個人に、他のチームに展開することが可能だ。

チームが成果を上げることで、より大きな組織のために協力して学ぶための方向付けと基準が確立される。

それゆえ、現代組織における学習の基本単位は「個人」ではなく「チーム」であり、「チーム学習」が極めて重要となる。


チームの重要性について語るにあたって参考図書として、下記2冊を使いながら私見を述べたいと思う。

ピーター・M・センゲ『学習する組織』藤本隆宏『ものづくり経営学』だ。

   




■チーム


チームの定義は「ある結果を生み出すためにお互いを必要とする人たち」のことである。

ピーター・ドラッカーは「個人が組織に忠誠を尽くすのは、組織の繁栄が個人の繁栄につながる」という互酬性の概念でチームを説明したが、私はより本能的な部分で人間は協調し合う存在だと考える。

激しい生存競争に生き残るために、人は協調することを本態的なものとして身に着けたのだ。


如何にして顧客の日常となり得るか ~ 「ゼロの力」とググタスの未来 ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4c9821ec2aceb2416ab5aa3af807c062


人は生まれながらにして、チームを受け入れる下地を持っていると、私は考える。


チームの最適人数については、以前にも述べたように、グリーンベレー(アメリカ陸軍特殊部隊)の研究により、生産性が最も高くなるのは8人前後と言われている。

(なのでどの世界でもチームは6~12人組むことが多い。そういう意味でAKB48の16人は少し多い。本当は10人くらいにしたいところだ。)

協調し合える上限としてはダンバー数(150人程度)という説もあるし、それをSNSが拡張しているという論説もある。


チームの最適人員数
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4c08df9971d936900bc3c69a6b0958af




■チーム学習


チーム学習とは、メンバーが心から望む結果を出せるようにチームの能力を揃え、伸ばしていくプロセスである。

チーム学習においては、共有されたビジョンがあって有能な個人の集まりというだけでは不十分だ。

有能な個人の集まったチームが、しばらくビジョンを共有することはできるが、学ぶことはうまくいかない、という例は世の中にいくらでもある。

優れたアンサンブルは、才能があり、ビジョンを持っているが、本当に大切なのは「ミュージシャンが心を一つにして演奏する術を知っている」ことなのだ。

チーム学習には、個人のスキルや個人が理解しなければならない領域も必要であるが、本質的には集団的なモノ(理論と技術の体系)が最も必要だ。

したがって、

私は個人としてチーム学習を習得している


などということは有り得ない。

それは

私は個人として優れたジャズ・アンサンブルの実践を習得している


というのと同じくらい奇妙な主張である。

優れたアンサンブルは、個人だけでは実現も習得もできない。

集団的なものなのだ。

ジャズ・ミュージシャンはこれをよく理解している。

ジャズには「グルーブしている」という表現があり、アンサンブルが「一体になって演奏している」状態を指す。

しかし、この体験は言葉で表現するのは難しい。

だが、言葉にしにくい割には、ハッキリと実感できるものでもある。



そして、チーム学習には練習が必要だ。

しかし、この「練習」こそが、現代の組織におけるチームに欠けている。

稽古もせずに素晴らしい劇団や交響楽団をつくるなど有り得るだろうか?

練習せずに優勝できるスポーツ・チームなどあるだろうか?

現実には、チームが学習するプロセスは、練習と本番の絶え間ない繰り返しであり、練習、本番、また練習、また本番と続く。

(独立系研究機関としては世界最高峰)米SRI社長のカーティス・R・カールソンはこれをイノベーションを生み出す「叩き上げのプロセス」と呼んでいる。


しかし、その重要性にも関わらず、「チーム学習」はまだあまり理解されていない。

これと同じような練習の機会を、どう経営や組織に組み込むのかを、我々は学習し始めたばかりだからである。

チーム学習による効果がもっとわかりやすく説明できるようにならない限り、チーム学習は「よくわからないもの」の域を出ないだろうし、チームが学習すると何がおきるかについて何らかの理論を持たない限り、個人が集団の圧力に屈して順応する「集団順応思考(グループシンク:集団浅慮)」と「集団の知性」との違いも区別できないだろう。

これは大きな課題だ。



■組織に根付くチーム学習を阻害する防御本能


実は、組織にはチーム学習を妨害する強い力が内在している。

どんな組織にも、その組織を守るための防御システムが深く根付いており、これがチーム学習(つまりは新しい何かを学ぼうとする思考および行動)を阻害する。

詳細を説明しないが、この妨害する強い力の最たるものは「習慣的な防御行動」と呼ぶものだ。

これは一種の習慣的な反応で、効率よく恐れや困惑から自分や他者を守るものの、学習も妨げてしまう。

(組織や個人を守るために必要なものであるから厄介なのだ。)


たとえば、意見が衝突した時によくやるのは、相違点を「丸く収める」か、無制限の「勝者総取り」的な自由討論の中で「遠慮なく意見を言う」かのどちらかである。

これは「抽象化論争」に繋がりやすく、結局何も生み出されないことがある。


この力に気づかないでいると、どんなに努力しても効果は出ない。

むしろ、どんどん効果が裏目に出て、学習がより一層阻害される。

チーム学習には、学習を阻害するチーム内の相互作用のパターン(防御パターン)に気づく方法や、これに創造的に対処する方法を学ぶことも含まれる。


先述したように、チーム学習に関して何らかの理論を持たない限り、個人が集団の圧力に屈して順応する「集団順応思考」と「集団の知性」との違いを区別できないだろう。


チーム学習を困難にしているものとして、以前述べた学習の難しさもある。


高橋みなみの努力、原みづきの努力、やすす先生の努力 ~努力と競争戦略と学習のトリレンマ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/955b300923bbc4c6a1a256fab4a5c0df



■ダイアログとディスカッション


チーム学習はダイアログ(dialogue)ではじある。

それは、チームのメンバーが、前提を保留して本当の意味で「共に考える」能力のことである。

「ダイアログ」の語源は「対話:ディアロゴス」であるが、ギリシャ人にとって「ディアロゴス(dia-logos)」は、

個人では得ることのできない洞察をグループとして発見することを可能とするような、グループ全体に自由に広がる意味の流れ


を意味した。

興味深いことに、ダイアログという習慣は、アメリカ・インディアンの文化のような、多くの「原始的な」文化の中で守られてきたが、現代社会ではほぼ完全に失われている。

今日、ダイアログの原則と習慣が再発見され、現代の状況に適用されはじめている。


「ダイアログ」は「ディスカッション」とは異なる。

ディスカッションは「叩打(パーカッション)」や「衝撃(コンカッション)」を語源としていて、文字通り、勝者が全てを得る競争の中で考えを互いにぶつけ合うことである。

ダイアログでは、複雑で微妙な問題を自由かつ創造的に探究し、互いの話にじっくり「耳を傾け」、自分の考えを保留する。

対照的に、ディスカッションでは、様々な考えを発言したり、弁護したりして、その時に下さなければならない決定の裏付けとなる最善の考えを追求する。

ダイアログとディスカッションは、潜在的には補完し合う関係にあるが、ほとんどのチームには、両者の違いを見分け、意識して使い分ける能力が欠けている。



■ダイアログを巡る知の潮流


現代物理学の有名な「不確定性原理」を定式化したヴェルナー・ハイゼンベルク『部分と全体 -私の生涯の偉大な出会いと対話』の中で、こう語っている。

科学は対話に根差している。様々な人々の協力が最も重要な科学的結果に至ることがある。


ハイゼンベルクは、協力して学ぶことの驚くほど大きな可能性、集団になれば個人的にできる以上の洞察力が深まり、知性が高まること、を示している。


チーム学習に大きく貢献したのは、現代物理学者のデヴィッド・ボームだと思われる。

ボームは量子論者で、集団が「より大きな知性の流れを受け入れるようになる」ための「ダイアログ」の理論と方法を発展させるのに尽力した。

ボーアは2つの大きな知的な潮流の統合を試みた。

「システム的あるいは全体論的な自然観」と、もう1つは「認識と行動の間の相互作用」である。

ボームはこう語っている。


量子論に示唆されるのは、この宇宙は基本的に不可分の全体だということだ。

たとえマクロなレベルで見れば個々の部分に分割できるように見えるとしても。

とりわけ量子論レベルの精度ともなれば、観測機器と観測対象はそれ以上縮小できない方法で互いに関係し合うということになる。

したがって、このレベルで考えれば、認識と行動は切り離せないものである。


わかりやすくいえば、今起きていることが、どれほど自らの認識に左右された自らの行動の結果であるかに目を向けるということだ。

ボームは、科学の目的は「知識の集積」ではなく、私たちの認識と行動を導き、形作り、恒常的な「自然と意識の間の相互作用」をもたらす「メンタルマップ」の創造だと主張した。



■劇場というパラダイム


劇場(theater)」と「理論(theory)」の語源は同じ「見ること(theoria)」だという。

現実が変化しても、劇場は依然として変わらない。

私たちは、この劇場の中で活動している。

問題を定義し、行動を起こし、問題を解決する。

この劇場を生み出した、もっと大きな現実との接触を失いながら。

誤解して欲しくないのは、それが必要だから我々は劇場を使う。

いろんなものを諦めながら我々は決める。


揺れ動く恋心 ~「選択の自由」と「報酬の不規則さ」の曖昧な関係~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/be92949e9750b92b79177e0a876afe2a


ほとんどの思考はそもそも集団的なものである。

たとえば、「言語」は完全に集団的なものである。

そして言語がなければ、知ってのとおり、思考はそこに存在し得なかった。

私たちがもっている前提の大半は、文化的に容認されている前提の集積から得たものだ。

本当の意味で「自分で考える」ことを身に着ける人はほとんどいない

(そういう人は必ず「誤解」される。常識を逸脱する「天才」か「変人」のどちからとして)


それゆえ、先に紹介したボームの言葉の意味が重要になってくる。

取り組むべき重要な課題は「メンタルマップを創造すること」だ。

普段、当Blogで物語と呼んでいるものだ。


※ここをもうちょ深堀したい・・が文字が足りない



■チーム学習における知識移転


チーム内で起きる「知識移転」について「ティーチング」の観点から少しだけ触れておきたい。

人が人に教えることによって発生する効果についてだ。

「ティーチング(教える)」には3つの便益があるという。


・相手に対するティーチングの貢献

もちろん、ティーチングのやり方次第なのは言うまでもない。

下手なティーチングはラーニングを阻害さえしかねない。

かたや上手なティーチングは、暗黙知の形式知化につながり、複雑性を低下させて、因果関係を明確化し、ラーニングを促進させる。


・ティーチングが自らのラーニングに直接的に貢献する

相手を効果的にティーチングしようとすれば、ティーチャー(教え手)はラーナー(学び手)を理解する必要がある。

理解を通じて相手の能力などについて、様々な知識を得る。

この知識こそ、まさに「ラーニング」である。

「教えることは学ぶこと」なのである。


・自らの内なる能力の構築を促進する

ティーチャーは、自らの能力そのものの内容を、分析、認識していなければならない。

それは、自らの能力をより明確化することに他ならない。

能力を明確化する分析や取り組みのプロセスは、相手に対するティーチングを駆動させると同時に、ティーチングする自身の能力に関わる深い知の獲得を促す。

この知識は、自らのそれと異なる環境を持つ相手に対峙する時に、発生する可能性が高まる。

異なる環境下で、自らの能力が機能すべくティーチングすることは、より高度なラーニングの引き金になり得る。


なぜAKB48は予定調和を壊し続けることをモットーとするのか? ~多様性とイノベーション~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a6c037c1f0413c59b507b4c0357c8227


・ティーチングには3つの条件が必要

モチベーションと能力が必要。

組織として学習する能力がなければならない。

相手を正確に評価できなければならない。


ストーリーの文脈(物語)の中における自分の役割を理解し、自らの能力をたえず開拓し、それらが相互に切磋琢磨することによるダイナミズムが、知識移転と組織学習を可能とするのだ。



■チームの中核的な学習能力を伸ばすアプローチ


文字数制限にひっかかるので、最後に簡単にチーム学習において重要となる3つのキーと5つの方法論を『学習する組織』から抜粋しておく。

ピーター・M・センゲは、チームの中核的な学習能力を伸ばすアプローチとして3つを主張している。

・志の育成

・内省的な会話の展開

・複雑性の理解


また、その方法論として5つ説明しています。

(本当は「ディシプリン」という言葉なのだが、説明しずらいので言葉を変えています。)

・システム思考(複雑性を理解するための思考法)

・自己マスタリー(熟達、わかりやすくいうと「匠」とか「極み」みたいな話)

・共有ビジョン(ビジョンの共有だと思って)

・メンタルモデル(先述した劇場とパラダイムの項を好意的に読んで欲しい)

・チーム学習(本エントリのまんま)


伝えるのが難しいのだけど、簡単に説明する。

まず、何事においても「志」は重要。

志がなければ何もはじめられない。

だが、志の育成を考えるにあたって、複雑性の理解が大事。

なぜなら、世界と言うのは複雑なもので、先述したように個々人と全体は不可分なものだから。

個々人の目指すところや理想などを追求するにあたっては、全体に対する理解、全体と個々人の相互作用の関係性などへの理解が必要。

その理解を深めるためには、内省的な会話の展開が不可欠。

また、それが志を育て、それが志がそれらを推進する。

この3者が好循環していくことで、その3つともに育まれていくものなのだ。


で、その方法論として挙げられているのが上の5つだがここでは述べない。



■そしてチーム4に話を戻す


文字数が足りない・・

本エントリの内容を総合して(笑)

AKB48運営は失敗を認められるか ~危機管理の模範的教材:タイレノール事件~

2012-07-28 09:56:16 | AKB48_経営戦略・組織論系
調子が悪くて・・体調も悪くて余裕もないという状況です。

それでつい・・帰りのコンビニで買った「ストロングゼロ」をプシュッとしたところです。
ここずっと家では飲まないようにしてたのになー。


気分がネガティブだからというわけではないのですが、今日は少し趣向を変えて、リスク管理について語ろうと思います。

指原の件で、運営の対応はANNの時は最高だったが、その後の対応は最悪だと思ったから。

一貫性の無さに、スピード感の欠如。

みんなにいい顔をしようと形式にこだわりズルズルと引きずったがために、望ましくない結果を呼び込んだと個人的には思う。

(指原本人にではなく、AKB48全体に)

念のために言っておくが、私には誰かを責める意思はない。

(みんながんばっているのだろうし。)



さて、本題に入ろう。

リスク管理の教材として燦然と輝くジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)のタイレノール事件について。

今回の参考図書は、リチャード・S・テドロー『なぜリーダーは「失敗」を認められないのか』






長いし、とりわけ強く主張したいわけでもないので、単なる読み物として読んでもらえればこれ幸いです。


◆◆◆◆◆◆


■ある日、突如として事件は起きた


1982年9月29日。

イリノイ州シカゴ郊外のエルクグローブ村で事件は起きた。

12歳の少女が突如として原因不明の不慮の死を遂げたのだ。

さらに同じ日、エルクグローブ村のすぐ近くアーリントンハイツで、27歳の郵便局員が同じように、理由も分からないまま死亡した。

兄と義姉が見舞いに行ったところ、兄は突然死し、義姉はこん睡状態となり10月1日に死亡した。

さらにさらに、9月30日にはエルクグローブ村の近くに住む3人が亡くなった。

みな突然死だった。

原因が全く不明であったため、保健当局は事件が発覚した地域を隔離することも検討しはじめた。

そんな中、救急隊員が事件に共通する要因を発見した。

死亡もしくは危篤状態にある全員が、その直前に『タイレノール・エクストラ・ストレングス』というカプセルの鎮痛剤を服用していたのだ。

タイレノールはアメリカで最もよく知られる鎮痛剤で、当時1億人のアメリカ人が服用していた。

しかし、タイレノールを服用したつもりだった7人の被害者が口にしたのは、極めて毒性の強いシアン化合物だった。


■どうなった?


死亡事故の知らせがタイレノールの製造元マクニール・コンシューマー・プロダクツの親会社であるジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)の本社に届いたのは、9月30日のことだった。

多くの人が危険にさらされていることは、誰の目にも明らかだった。

J&Jの経営陣にとってこの問題は、多くの一般の人々が危険にさらされている重大な事件であると同時に、7万5千人もの従業員とその家族を守らなければならない問題でもあり、また何十万人もの株主に対する責任も負っていた。

しかも、情報も無ければ、参考となる前例も一切ない中で、迅速に重大な決断をしなければならなかった。


先に結果を述べておこう。

ご存知の人も多いが、『タイレノール』というブランドは生き残った。

今日、このときにJ&Jがとった行動は、危機管理の模範例として語り継がれている。


■J&Jは何をしたか?


「製品として、ブランドとして、タイレノールは終わった」


当時CEOだったジェームズ・E・バークは、有識者やアナリスト、専門からの主張に屈せず、事実が何かを判断するために必要なデータを集め、徹底的に調べた。

事実ではないことを無批判に受け入れるのは、事実を拒絶するのと同じだと理解していた。

バーグは、被害者や遺族の苦しみを軽んじたり、覆い隠そうとすることは一切しなかった。

たとえ無実だとしてもJ&Jがこの事件に関わったことに対し、バークはこの危機の核心に、「人間性」という要素があることを理解していた。

危機が発生して最初の混乱に満ちた数時間の間に、J&Jが最初に出した指示は、「何がどのように起きたのかを正確に尽き止めよ」というものだった。

9月30日、バーグはタイレノールに責任を持つ部門であるマクニール・コンシューマー・プロダクツの会長ウェイン・K・ネルソンに連絡を取った。

ネルソンはオーストラリア出張中だったが、こう言った。

「工場の管理体制から考えて、毒物混入が発生したのは工場ではない。今年の給料を全て賭けてもいい。」

9月30日、事態は急展開を見せる。

当局が記者会見を開き、死因がシアン化合物であり、シアン化合物入りのカプセルがはいった瓶は、すべて製造ロットが同じものだった。

そのロットでは、合計470万個のカプセル、9万7千本の瓶が製造され、31の州に出荷されていたため、被害が広範囲に起きる可能性があった。

マスコミは大騒ぎだ。

ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件以来の大騒動となった。

9月30日の午後、J&Jは殺到する消費者からの問い合わせに対応するため、フリーダイヤルを開設した。

問い合わせの電話を受けるための人員を確保するのも容易ではなく、社内でボランティアを募ったほか、従業員の家族も応援に駆けつけた。


■正直に事実を受け入れる


最初の数日間で、メディアからの問い合わせは2500件あったが、J&Jにも情報が無く、マスコミに対して、信頼できる情報があったら何でも知らせて欲しいと逆に頼んでいた状況だった。

最初に突き止めようとしたのは、工場の敷地内にシアン化合物があるか否かだ。

工場にいた全員がそれを否定したため、J&J本社に伝え、それはそのままメディアに伝えられた。

しかし、残念ながらそれは事実ではなかった。

工場には食品医薬品局のルールに基づいた品質検査で、タイレノールの原材料の純度を確認するために使用される少量のシアン化合物があったのだ。

その事実がわかると、工場からJ&J本社に伝えられ、またそれはそのままメディアに伝えられた。

当時、この事件はJ&Jの社内的な原因によって引き起こされた可能性が有力視されていたため、J&Jが工場にシアン化合物は存在しないと発表した後に、やはり工場内にシアン化合物があったと認めたことは非常に重要な意味があった。

シアン化合物の存在を認めたこと、しかもその迅速さによって、同社への信頼は一気に高まったのだ。

こんな事実を躊躇無く公表する会社であれば、間違いなく事実を明らかにすると感じたのだ。


■迅速な対応


9月30日の時点でタイレノールの宣伝は中止され、夕方には問題の起きたロットで製造された全ての瓶についての回収がはじまった。

小売店の棚から商品は姿を消したのだ。

さらに、同じ9月30日に、J&Jは医師、病院、小売業者に向けて詳細が明らかになるまでタイレノールの使用を中止するよう45万通のファックスを送った。

その上、問題のロットを製造していた2つの工場を閉鎖した。

事件の本質部分を特定し、限定しないままでは、どんな対策も効果を生まない可能性があったし、タイレノールがリコールになれば、犯人は意を強くし、他の製品に対しても犯行を企てるかもしれなかった。

何をすべきかは誰にもわからなかったが、バークは、この事件は「国家的危機」であるという結論に達した。

J&Jはロットに関係なくタイレノール全てについての全国的なリコールを決めた。

しかし、FBIはタイレノールを市場にとどめておく方が望ましいと主張した。

治安当局としては、変わり者達が増長する可能性があるための反対だった。

食品医薬品局の長官はそれ以上にリコールに反対した。

通常は行政機関が市場からの製品回収を要求するというのに、このときは反対だったのだ。

タイレノールの売れ行きは目覚しく、その年の業績は素晴らしいものになる予定であったが、J&Jはリコールを決めた。

さらに、FBIと食品医薬品局と協力し、800万錠のカプセルを調査した。

調査、回収、廃棄のコストは全てJ&Jが負担し、費用は総額は約1億ドルにもなった。


一番問題だったのは、犯人が逮捕されなかったことだ。

今日に至るまでタイレノール事件の犯人はわかっていない。

当時、タイレノール使用者のほぼ半数は2度とタイレノールは使わないと回答していた。

一方、ライバルたちは、タイレノールの回収によって生じた市場の隙間をうめようと画策していた。

10月7日、J&Jは問題がタイレノールというブランドにあるのではなく、「製品形態」にあるという認識に基づき、タイレノールをカプセルからタブレット錠にする計画を発表する。

(タブレットなら毒が混入できない)

10月11日、J&Jはタイレノール・ブランドの存続を決定した。

10月15日、食品医薬品局は毒物混入を巡ってJ&Jには一切の過失や不正が無かったと正式に発表した。

競合他社はタイレノールの災難に乗じることはできなかった。

事件発生から3週間あまりが過ぎた10月22日、タイレノールの新しいテレビCMが放映された。

CMは地味で単刀直入な内容だった。

「私たちを信じてください。」

というものだった。

151語の台詞の中で、「信頼」という言葉を5回も使った。


■問題の本質へ


バークは、「時間」がブランドの命運を握っていると感じていた。

市場からタイレノールを回収してしまった以上、できるだけ早急に再投入しなければ、顧客がライバルに乗り換えてしまう。

11月4日、食品医薬品局は医薬品の包装に関する新たな規制を発表した。

カプセル剤のような異物を混入されやすい形態の製品は、混入しにくく、また万一何かが混入された場合には、それが一目でわかるように容器に封入しなければならない、というものだ。

アメリカ政府も事件に対するJ&Jの解釈を追認したということだ。

毒物混入は特定のブランドの問題ではなく、むしろ異物が混入されやすい製品全体の問題なのだ。

11月11日、J&Jは業界の先陣を切って、当局が義務付ける予防策の3倍にあたる、3重の密封構造をしたタイレノールを数週間以内に再び市場に投入すると発表した。

しかも、新たなパッケージのコストは販売価格には転嫁せず、J&Jが負担するとした。


■そして結果は


11月末には、タイレノールの市場シェアは事件発生前の55%に回復した。

ウォール・ストリート・ジャーナル紙は「マーケティングの奇跡」と称した。

奇跡はそれで終わらず、翌年の1983年には市場シェアは事件前の85%までに回復し、1984年には事件前の水準を超えた。

バークはこう言う。

「これまでJ&Jをつくってきた過去の経営陣は、”会社そのものに対する信頼”という最強の武器を我々に継承してくれた。たとえどれほど深刻な問題であろうと、100年にわたって築かれた信頼があれば、解決は不可能ではない。」



■なんとまた事件が・・


1986年2月7日、またタイレノールで事件は起きた。

しかし、ここでもバークはうまく乗り切るのだ。

(省略する)



■教訓


(省略してる部分があるので、伝わっていないかもしれないが)

『タイレノール事件』が教えてくれるのは、自らが向き合うべきものは官僚的な形式主義ではなく、人間の感情であるということだ。

結果うんぬんよりも、その瞬間が「決定的瞬間」であること、「事実を語るべき瞬間」であるということに気づくことだ。

現実否認を拒み、事実と正面から向かうことで、バークはブランドを守っただけではなく、アメリカの人々の日常に、忘れられない瞬間を刻んだのである。


■恋愛禁止条例という内輪の論理とAKB48ブランド


(指原の博多での活動が多くなり、ひと段落したところで個人的な見解を述べようと思う。)

『恋愛禁止条例』などというのは所詮、AKB48の内輪の論理である。

AKB48に興味がない人にとってはどうでもいい話題だ。

しかし、だからといって恋愛禁止条例にまつわるスキャンダルを内輪の論理で片付けていいかというと、それは別問題だ。

表面上の問題は「恋愛禁止条例が破られたこと」だが、本質的な問題は「AKB48への信頼が傷つけられる可能性があること」だからである。

以前より問題が起きる度に「恋愛禁止条例の是非」が論じられてきたが、それと運営が問題に対して取るべき対応策は別の話だ。

運営が考えるべきものは「どうやってAKB48ブランドへの信頼を守るか?」であった。

(AKB48ブランドは内輪の論理だけで語れるものではない。)

私は、今回の件で運営がそのような観点で迅速に行動をとったとは残念ながら思うことはできなかった。

一貫性およびスピード感に欠ける対応で、最後までメンバー個別の問題として、内輪の論理で処理してしまったと思う。

運営は顧客にどのようなメッセージを送ったのだろう?

タイレノール事件におけるJ&Jのようにメッセージを送れただろうか?


私自身27時間テレビでがんばる指原を応援していたし、これまでも指原を擁護する立場を表明してきた。

ただ、指原自身の問題と、AKB48の問題は関連はしていても同一のものではない。

指原は与えられた立場でがんばるしかできないし、彼女はよくやっているし、彼女のがんばりは評価されてもいいと思う。

だが、ANNでやすす先生が「AKB48のために」即日博多への引越しを命じたのにも関わらず、諸般の事情を優先し、命じられたものが後回しになってしまった。

短期的にはそれでいいだろうが、AKB48がそれによって失ったものは大きいと私は思う。

(感覚的な話だが、今回の件はボディーブローのように徐々に効いてくる可能性すらあると私は思う。)

一度傷つけられた信頼を取り戻すためには、何倍もの努力が必要だ。

「信頼など傷つけられていない」と主張する人もいるだろうし、私には自分の意見をより詳細に説明する気力も能力もないので、私の誤解ならそれ以上この話はしない。


さて、今回の件を「失敗」だと思っているのは私だけかもしれないが、果たして今後この失敗を生かすことができるのだろうか。

「永尾まりやに足りないもの」ではなく、戦略立案のやり方について ~変革ストーリーの作成~

2012-07-14 23:39:24 | AKB48_経営戦略・組織論系
(図の内容を修正しました。)

時間がとれないので、簡単に。

今週末は3連休なんですね・・最近いつ休みとか全く・・


◆◆◆◆◆◆


NGOだから食いついたわけではな・・・うそです m(_ _)m


永尾まりやに足りないものわかった(GIOGIOの奇妙な速報)
http://blog.livedoor.jp/gio_gio_345/archives/11543645.html


■ありがちな話題


「足りないものはなにか?」「何があればよいのか?」という疑問を発すること、受けることが多いのではないでしょうか?

違和感のない疑問です。

一般的には。

しかし、実は落とし穴にはまりやすい考え方でもあります。

今日はそのことについて、ごく簡単に話をしたいと思います。


■問題解決のアプローチ


いろんなレベルでいろんな方法論があるのですが、今回話をするのはその中の一つです。

問題を発見するための方法論には、大きく2つあります。

「ギャップ・アプローチ」「ポジティブ・アプローチ」の2つです。


ギャップ・アプローチ(deficit based approach)

理想と現状のギャップ(解離)に注目する問題解決アプローチです。
問題に注目します。


ポジティブ・アプローチ(strength based approach)

強みに注目します。



公教育が受動的教育を主とするため、その影響と言われているのだが、私たちは問題解決のアプローチとして「ギャップ・アプローチ」を採用しがちです。

物事を構成する要素を山ほど挙げて、その中で水準を満足するものと欠けているものとをチェックし、「欠けている問題」を解決しなければと、考えがちなのです。

多くの場合には有効な方法論ですが、重要な要素を全て挙げることができるか?という問題もありますし、何よりも物事は刻々と動的に変化していくものですので、静的解析では物事のほんの一瞬を切り取ることしかできないという限界があります。

(つまり、重要なことは状況や場合によって刻々と変わるものであるし、根本的に物事は全体の系で動く複雑なものですから、要素還元論では語り切れないことが多いということです。)


■適切な課題設定=変革ストーリー


かなり省略するのですが、通常「足りないものを、問題として設定し、それを解決する」という方法論は取りません。

いろんな方法論やフレームワークがあるのですが、ここでは基本的な考え方を述べたいと思います。

伊丹敬之さんの『経営の論理 第3版』から戦略策定の考え方を拝借します。





ちょっと私の方で言葉などを変えたものを貼りつけます。

(え?そんなの作る時間あるのかって? そりゃ~・・今作ったものじゃないからですよ・・)





単純に「問題は何か?」を明らかにするのではなく、「現実」から「理想」に到達するための「変革ストーリー」を作成することが重要です。

「ギャップ・アプローチ」「ポジティブ・アプローチ」の両方を使って課題解決の方法を「変革ストーリー」に統合するということです。

また、ストーリーが特徴的であるのは、「動き」があるということです。

(ドラマのストーリーを考える時は、時間経過を前提にしますよね。)

発想を「静的」から「動的」に切り替えるということです。



■継続は力なり


初めから完璧な答えが得られることは、現実的にはまず有り得ません。

そして、私たちが人生の中で直面する問題の多くは、あらかじめ答えが用意されている問題ではありません。

いや、むしろ「何が問題なのか?」すらハッキリしない問題がほとんどです。

前例が役に立つことも多いですが、同じ時、同じ状況は2度と繰り返されることはないのです。

あらゆるものがオリジナルです。

つまり、全ての問題はオリジナルです。

しかも、状況は刻々と動的に変化し、関係するものが多くなればなるほど複雑性は飛躍的に増します。

最適解を求めていては、いつになっても何も始めることができません。

再帰的に適応解を探求していくことが、私は答えのない問題に対する最も有効な方法論だと思います。


簡単に言ってしまえば、先に述べた「変革ストーリー」の作成と実行、そして検証をそれをひたすら繰り返すことが大事です。

(ちょっとおかしな図だったので修正しました)





先行指標を設定することも大事ですが、ここではそれは省略します。

理想を明らかにすることは大変な作業ですが、「何を理想とするのか?」といったことを議論(いろんな人からアドバイスをもらうなり)することによって、現状認識の精度も高まりますし、課題も明確になっていきますので、やってみてください。

ストーリーを作るためには「仮説」が必要になりますので、必然的に「仮説検証型」のプロセスをふむことになります。


■なにをやればよいのか


「変革ストーリー」を作ってみよう!

「ストーリー」「シナリオ」であることが重要です。

メンバー間で説明しあって面白い内容でなければなりません。

自分が納得して面白いと思っているストーリーは、誰が聞いても面白いものです。

このあたりは楠木建さんの『ストーリーとしての競争戦略』に詳しいですので、そのあたりは機会があれば別途語りたいと思い案す。

「強み」と「逃げの正当化」の違い ~やすす先生が作詞をアウトソースしない理由~

2012-07-10 12:36:22 | AKB48_経営戦略・組織論系
広く読まれることに当Blogの価値があると思うので、前提知識なくても読めるVersionの文章も付け加えました。

チーム4について語りたいのだが・・今は我慢してこの話題を。
先に語るのにも、それなりに意味があると思う。



アンチに悩む人へ ~記憶に残る「幕の内弁当」はない~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/618ed3aee1b857694cbeb5370df658b3


↑の補足の


ググタスはコーヒーだ!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c42cdcc973803e5025345771e9de7bb6


↑の補足。

コアコンピタンス」という話題が出てきたので、関連でさらに補足したいと思います。
コアコンピタンスそのものの説明ではなく、関連する話です。


◆◆◆◆◆◆


戦略を考える上で「コアコンピタンス(競争優位の源泉となる中核的な能力)」は非常に使いやすい概念です。
(軍事の方の戦略論ではストロング・ポイントと言ったりするそうです。)
組織の「強み」を表現するのに適した言葉だからです。


コアコンピタンスの概念を広めたのは↓でも紹介したゲイリー・ハメルの『コアコンピタンス経営』です。


経営の未来 ~未来を変えるための話をしよう~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/328d1744aabb082fb4f42d8b04296071


しかし、使いやすい言葉なだけに、様々な使われ方をすることになり、誤解を生みやすい言葉にもなりました。
もともとは、企業の中核的な能力を構成する有形/無形あわせた経営資源全体を指す概念だったのですが、単純に「強み」の意味で使われることが多くなったのです。

(細かい話だが、SWOT分析だけ使うと嵌りやすいとは思う。)


このことについて、クレイトン・クリステンセン『イノベーションへの解』の中で警鐘を鳴らしています。
(不朽の名作『イノベーションのジレンマ』の次作が『イノベーションへの解』です)






日本の製造業メーカーと台湾EMSを思い浮かべながら、次の話題を読んでみてください。



■コア・コンピタンスとROA最大化のデス・スパイラル (コア・コンピタンス経営の罠)


 コモディティ化の餌食となる企業は、すぐ下の階層のサブシステムまたは隣接するプロセスで、コモディティ化と同時に起こる、脱コモディティ化という補完的プロセスを見落とすことが多い。そのため彼らは、これから金が向かう場所に移動する機会を逸し、他社が脱コモディティ化の生み出した成長を捉えるうちに押しつぶされ、時には破滅に追い込まれることすらある。実際、総資産収益率(ROA:Retum on Asset)の改善を迫る投資家からの強く執拗な圧力は、組立て業者にとって、これから金が向かう場所から遠ざかる強い動機になる。そして、モジュール方式によるコモディティ化という状況を認識し損なった彼らは、属性に基づくコア・コンピタンス理論に救いを求め、のちに後悔することになる決定を下すのだ。

企業の株主はROA(どのくらい効率的に利益を上げることができているかを示す指標の一つ)を使って「もっと効率よく利益を上げろ!」と圧力をかけてくる。利益をうまく上げることができず悩む企業は「コアコンピタンス理論」に救いを求めるが、これが失敗の原因になることが多い。


 モジュール型製品の組立企業は、総資産収益率(ROA)や使用総資本利益率(ROCE)の改善を求める投資家の要求に、どうすれば応えられるのだろうか。ROAの分子を改善することはできない。製品を差別化したり競争相手よりも低いコストで生産したりすることは、ほとんど不可能だからだ。唯一の選択肢は、資産を処分してROAの分母を圧縮することだ。これは統合が求められる相互依存的な世界では困難だが、製品アーキテクチャがモジュール型であるような状況では、実際、非統合化が促される。そこで、これから架空の部品供給業者とモジュール型パソコン組立企業とのやりとりを通して、これがどのように起こるかを説明してみよう。この2つの企業を、それぞれ、コンポーネンツ社とテキサス・コンピュータ社(TCC)と呼ぶ。

「ROA = (利益/総資産) 」なので、ROAを上げるためには「利益を上げる」か「総資産を減らす」かどちらかだ。競争の激しい状態で「利益を上げる」ことは難しいので、企業は「総資産を減らす」方を選択しがちである。では、総資産の減らし方について例を使って説明する。


 コンポーネンツは手始めに、TCCに単純なサーキットボードを供給する。TCCがROA改善を迫る投資家からの圧力に苦しんでいると、コンポーネンツが興味深い提案を持ってやって来る。

「御社にはこれまでサーキットボードを提供させていただいてきましたが、コンピュータのマザーボード全体を納入させていただけませんか?社内で製造されるよりずっとお安いですよ?」

「おお、それは素晴らしいアイディアだ」とTCCの経営者は答える。

「サーキットボード製造業務はいずれにしてもうちのコア・コンピタンスではないし、きわめて資産集約的だからね。君たちに頼めれば、うちにとってはコスト削減になる上、バランスシートからあれだけの資産を取り除ける」

 そこでコンポーネンツは、新たな付加価値活動を請け負う。同社の売り上げは急増し、製造試算の稼働率が高まったことから収益性も向上する。株価もそれに合わせて上昇する。一方、TCCがこれらの資産を処分しても、収入線は影響を受けないが、純利益と資産収益率は改善し、株価もそれ相応に上昇する。

製品のすべて(部品から最終製品まで)を自前で開発すると、どこかに非効率的な部分が入り込んでしまう。たいてい企業には得意な分野と、不得意な分野があるからだ。不得意な分野は他に任せて、自分は得意な分野に集中するのが合理的である。そうすることで、収益性(利益率)が改善し、株価も上がり、ROAは上昇する。



------ [ 余談 ] ----------------------------------

たいていこんな計算を頭の中でしているからだ。

(営業利益:企業の取り分の総数)

= G

= (売り上げ) - (コスト)

= P・Q - C

= P・Q - V・Q - F

= ( P - V )・Q - F

= CM・Q - F

P:価格、Q:販売数量、C:総コスト
V:変動費、F:固定費、
CM:販売1単位当たりの貢献利益
G = 0:損益分岐点 (BEP:Break Even Point)


 営業利益を上げるための単純な方法は、売り上げを上げることだが、販売数量(Q)が伸びずに価格(P)が小さくなっているので、コスト(C)を下げないといけない。コストは変動費(V)と固定費(F)からなるので、基本的戦略は変動費を下げて貢献利益(CM:P-V)を大きくしつつ、固定費を下げることを考えることにになる。

しかし、この式で考えると、人の頭は次のように自然と脳内変換してしまう。

「"利益"を上げるには"売り上げ"を上げるか、"コスト"を下げるしかない。」
「"売り上げ"を上げる(下げない)ために、"価格"を上げるか、"数量"を伸ばすか、しかない。」

これはちょっと古い考え方で、今は「顧客価値」という観点で「WTP(Willingness to Pay)」を使う(べきだ)。

(顧客との取引によって創造される価値)

= Value

= ( 顧客価値:顧客の取り分 ) + ( 利益:企業の取り分 )

= ( 顧客の支払い意欲 - 価格 ) + ( 価格 - コスト )

= ( WTP - Price ) + ( Price -Cost )

= WTP - Cost

※Value >= 0

「Value」がマイナスになるということは、その取引に価値がないということなので、その取引自体が存在できない。
よって、Value がマイナスになる場合は、Valueが"0"に近づくよう力が働く。

式を見たら一目瞭然だが、「利益を上げたければ、WTPを上げるか、Costを下げるか、またはどちらも」の3択しかない
注目すべきは、上げなければならないのは「WTP」であって「価格」ではない。
価格を上げるためには、WTPを上げないといけない。でないと左辺(WTP-Price)がマイナスになってしまうからだ。


参考:川上 昌直『ビジネスモデルのグランドデザイン―顧客価値と利益の共創』




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 ほどなくしてコンポーネンツは、TCCの経営者に再び話を持ちかける。

「ご承知のように、マザーボードは実際、コンピュータの心臓部なんです。御社のためにコンピュータ全体を組み立てさせてください。製品組立業務はどのみち御社のコア・コンピタンスではないのですし、社内で組み立てられるよりずっとお安いですよ」

「ふむ、それは素晴らしいアイディアだ」とTCCの経営者は答える。

「どっちみち組立業務はわが社のコア・コンピタンスではないのだし、君たちが製品組立をやってくれれば、あれだけの製造資産をバランスシートから取り除ける」

 コンポーネンツがまたもや新たな付加価値活動を請け負うと、売り上げは急増し、製造資産の稼働率が高まるために収益性も改善する。株価もそれ相応に上昇する。TCCは製造資産を排除しても、収入線は影響を被らない。だが、純利益と資産収益率は改善し、株価もそれに応じて上昇する。


 しばらくしてコンポーネンツは、TCCの経営者に再び申し入れる。

「あのですね、わたしどもが御社のコンピュータを組立させていただいている以上、どうして御社が厄介な物流のインバウンド、アウトバウンド業務を処理される必要があるのでしょう?業者との交渉やお客様への完成品のお届けは、お任せください。サプライ・チェーンの管理はどのみち御社の本当のコア・コンピタンスではないんですから。それに御社が管理されるよりずっとお安くできますよ」

「うーむ、それはいい考えだ」TCCの経営者は答える。

「そうすればあれだけの流動資産をバランスシートから除ける」

 コンポーネンツは新たな付加価値活動を請け負い、売り上げは急増する。また、ビジネスモデルに高付加価値活動を引き入れたために、収益性も改善する。一方、TCCは流動資産を処分しても収入線に影響を受けない。だが、収益性は改善し、株価ももうひと跳ねする。



 しばらくするとコンポーネンツがTCCの経営者にまた話を持ってくる。

「えーとですね、御社のサプライヤーと取引させていただいていることですし、今度は御社のためにコンピュータの設計をやらせていただけませんか?モジュール化された製品の設計は、実際には業者の選定に毛の生えたようなものですし、わたしどもの方が御社よりも業者と密な関係がありますので、設計サイクルの最初から彼らと手を組めば、価格と納期についてよい条件を引き出せますよ」

「いやは、それはいい考えだ」とTCCの経営者は答える。

「そうすれば固定費と変動費まで削減できる。それにうちの本当の強みはブランドと顧客管理にあるのであって、製品設計ではないからね」

 コンポーネンツがさらなる付加価値活動を請け負うと、売り上げはさらに増え、高付加価値活動をビジネスモデルに引き入れるために、収益性も改善する。株価もそれに応じて上昇する。一方TCCがコストを削減しても収入線は影響されない。だが収益性は改善し、そして株価もまたポンと跳ね上がる~

株主からの圧力に従ってROA(効率的に利益を上げる)を最大化しようとし、自社に「強み」の部分だけを残して「弱み」の部分を外に出すようにすることは合理的な行動であり、やればやるほど効果が出る。しかし・・


しかしそれも、アナリストがゲームが終わったことに気づくまでのことだ。



 皮肉にもこの悲劇の中で、コンポーネンツは最終的に、悪循環が始まる前のTCCよりも高度に統合されたバリューチェーンを持つことになる。だが、バリューチェーンの各構成要素が再構成されているため、コンポーネンツは新しい競争基盤にうまく対処できる。この場合の競争基盤とは、製品化のスピードと、はるかに小さな市場分野の顧客向けに製品を機敏に構成する能力である。TCCは資産やプロセスをコンポーネンツに押し付けるたびに、その決定を彼らの「コア・コンピタンス」という観点から正当化した。問題となっている業務が、コンポーネンツにとってもコア・コンピタンスではない、ということは、彼らの思いもよらないことだった。ある業務がコア・コンピタンスか否かといことは、これから金が向かう場所に滑走していく能力の決定要因ではないのである。

他社の「弱み」を引き受ける企業は、引き受ける際に、応用できる形で引き受けるために、他社の「弱み」を自社の「強み」に変換する形になる。一方は、コアコンピタンス理論に従って「強み」ではないものを外に出したわけだが、もう一方の引き受ける側にとっても、それは「強み」ではない。だが、引き受けた側は「弱み」を引き受けていき続ける中で、「弱み」を「強み」に変換することができる。「強み」「弱み」という基準だけで、判断すると、利益を上げる能力を掴み損ねる可能性が高い。


 この話は、非対称的なモチベーションをよく表す例でもある。モジュール組立企業が手を引きたがっていた、まさにその付加価値活動を、部品供給業者は前方統合する意欲を持っていたのだ。これは無能力を表す話ではない。収益最大化のための、完璧に合理的な決定に関する話なのだ。だからこそ、モジュール製品を「十分に良い」世界で組み立てる企業の多くが、ROA最大化のデス・スパイラルという罠にかかるのである。

「弱み」を吐き出す企業は「弱み」に対してモチベーションが低いが、「弱み」を引き受ける企業は「弱み」を引き受ける活動に対してモチベーションが高い。どちらかの能力が低いということではなく、お互いに合理的に行動した結果、こうなるという話だ。競争が激しく、製品そのものの差異化が難しい状況下でROAを最大化しようと合理的に行動すると、このような問題に遭遇しやすいのだ。


■デススパイラルにはまらないために


ROA最大化のデス・スパイラルはわかった。
では、我々はどう考えるべきなのか。クリステンセンはこう言う。

「コア・コンピタンスは、多くの経営者が用いる用法において、危険なまでに内向き思考の概念だ。競争力とは、単に得意だと自負する業務を行うことではなく、むしろ顧客が高く評価する業務を行うことから生まれる。」


そう、さきほども出てきた「顧客価値」である。
自分が得意かどうかではなく、顧客価値の高いかどうかで判断することから競争力は生まれるという意味である。
(クリステンセン自身は「顧客価値」という言葉ではなく「用事」という言葉を使っているが、ここでは気にしないことにする。)


田野しいやつらが引き起こす創造的摩擦 ~イノベーションのジレンマを超えるバリュープロポジション~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/cfdd89f383a05dfda9d5ac8a934d4b7c


クレイトン・クリステンセンは、既存の枠組みの中でWTPを上げることは不可能に近く、ゆえにコストを下げるしかないが、その時、コアコンピタンスの名の下に「ROA最大化のデススパイラル」に嵌ることに注意すべきだと述べている。


■やすす先生が作詞をアウトソースしない理由


(前にも書いたことがある話題&一部メンバーに投げているのは知っています。)

なぜ忙しいのに、やすす先生は作詞活動を他の人に任せないのか?

第一義的には「作詞家」だからだと思う。

しかし、それとは別に「ROA最大化のデススパイラル」に嵌ったしまうことのリスクに感づいているからだ。

作詞は楽曲全体のコンセプトを決める作業でもあるため、作詞だけをモジュール化して水平分離することはできない。

まさにそれこそが「コアコンピタンス」だからだ。

経営の未来 ~未来を変えるための話をしよう~

2012-07-01 23:27:07 | AKB48_経営戦略・組織論系
『従業員』の誕生 ~時代遅れになった経営管理思想~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/3b47570c6eaf0e12ed74bac960e3f2d8

の続き。
今回も参考図書はゲイリー・ハメル『経営の未来』だ。




長いです。
(gooブログの制限ギリ)


◆◆◆◆◆◆



1968年のクリスマス・イブ、アポロ8号の司令船が人工物としては初めて月の軌道を周回した。

地球に向けての帰還飛行中に、地上管制官の幼い息子が父親に尋ねた。

「誰があの宇宙船を動かしているの?」と。

この質問が帰還中のクルーに中継で伝えられると、ビル・アンダース飛行士はこう答えた。

「今はアイザック・ニュートン卿がほとんど動かしていると思うよ。」




実に示唆深い言葉だ。

「誰があなたの会社(組織)を動かしているのですか?」と問われたらなんと答えるだろうか。「CEO」「幹部チーム」「中間管理層の全員」といった答えが思い浮かぶかもしれない。それらの答えは正しいのではあるが、真実のすべてではない。20世紀初頭に「近代」経営管理のルールや慣行を生み出した人びと、当の昔に亡くなった少数の思想家や実務家によって、今現在もほとんど動かされているのだ。

 これらの開祖たちの影響は極めて広く行き渡っているので、経営管理の技術は会社が違ってもごくわずかしか違わない。ほとんどの企業が、ほぼ同じような経営管理の階層を築いているし、似通った管理システムや人事慣行、計画策定プロセスを持ち、似通った報告体系や評価制度に支えられている。CEOが別の会社に移るのがきわめて簡単なのはそのためだ。

 だが、物理学の法則と違って、経営管理の法則は規定のモノでも永遠のモノでもない。そして、それは悪いことでもない。なぜなら、経営管理の仕組みは、今、背負うことを意図されていなかった重荷を背負わされて苦痛にあえいでいるからだ。変化のペースの速さ、束の間で消える優位、既存の技術を駆逐する画期的技術、従来の秩序を破壊する競争相手、細分化された市場、絶大な力を持つ顧客、反逆する株主・・・これら21世紀の挑戦が、世界中の組織の構造上の限界を揺さぶっており、時代についていけないでいる経営管理モデルの限界を顕にしているのである。


■近代経営管理


 経営管理の活気に満ちた革新的な青年期は100年近く前に終わっている。実際、近代経営管理の重要なツールや技法のほとんどは、19世紀の、南北戦争が終わって間もないころに生まれた人々によって発明されたのだ。それらの大胆不敵なパイオニアたちは、規格化された職務マニュアルや作業方法を開発した。生産計画や生産スケジュールの作成手順を生み出した。原価計算や損益分析の複雑な手法をマスターした。例外ベースの報告システムを設け、細かい財務管理の手法を開発した。インセンティブに支えられた報酬体系を編み出し、人事部を創設した。資本予算配分の精巧なツールを生み出し、1930年ごろには事業部制組織の基本構造を築くとともに、ブランド管理の原理を突き止めていた。

 近代経営管理は、その発展の過程で多くの難しい問題をねじ伏せてきた。複雑な作業を小さな反復可能なステップに分解すること、標準的な業務手順に従わせること、コストや利益を1セントに至るまで細かく計算すること、何万人もの社員の活動を調整すること、さらにはグローバル規模で業務をシンクロさせることなどに成功してきた。だが、これらの成功には高い代償が伴った。


■近代経営管理の副作用


 近代経営管理の仕組みは、気ままで独断的で、自由な精神を持つ人間を標準やルールに従わせはするが、それによって莫大な量の想像力と自主性を無駄にする。業務に規律をもたらしはするが、組織の適応力を低下させる。世界中の消費者の購買力は増大させはするが、同時に何百万人もの人々を封建的ともいえる上位下達の組織に隷属させる。おまけに、企業の効率を劇的に高めてきたものの、企業の倫理性を高めてきたという証拠はほとんどないのである。

 近代経営管理は多くのモノをもたらしてきたが、それと引き換えに多くのモノを奪ってきた。そろそろこの取引について考え直してもよいころだろう。


■マネジメント2.0


  「世界で最も高名な経営のエキスパート」「当代随一の戦略の大家」「世界屈指の事業戦略家」そう評されるのがゲイリー・ハメル。彼の名前を知らなくても彼の言葉を知っている人は多いだろう。「コア・コンピタンス経営(Competing for the Future)」がそれだ。2009年には、19世紀の南北戦争の終結からまもない時代に生まれた人々(代表格はフレデリック・テイラーやマックス・ウェーバー)の手によって考案された現代経営手法(マネジメント1.0)と別れを告げるべく「マネジメント2.0」を提唱している。

 彼が『経営の未来 マネジメントをイノベーションせよ』(The Future of Management)で主張するのは、まずイノベーションにはいくつかの種類があるというのだ。「経営管理イノベーション」「戦略イノベーション」「製品/サービス・イノベーション」「業務イノベーション」の4つだ。その中でも、彼は究極の優位を創り出す「経営管理イノベーション」の重要性を力説する。競争優位の劇的かつ長期的な変化を生み出す力が、他のイノベーションよりはるかに大きいというのだ。


■軍事力における持続的優位


 この主張は大げさに聞こえるかもしれないが、軍事力における持続的優位の原因を探求してきた軍事評論家たちの研究結果に支えられている。軍事力の場合にも、マネジメント・イノベーションがカギになるようだ。戦争では、ビジネスの場合と同様、ほとんどの勝利が短期間の一時的なものだ。だが、歴史の血塗られたページには、往々にして兵員や物資の面で不利な状態にあるにも関わらず、常に敵を打ち負かしてきた軍事体制が散見される。容易に想像できるように、これらの事例は、ビジネススクールの教授同様、競争優位の根本原因を明らかにすることに関心がある軍事学者にとって、大いに関心をそそるものだ。一部の軍隊が長期にわたって軍事的優位を保持しているのはなぜなのかと、彼らは考える。

 この問いを前にした時、一般の人は優れた兵器のおかげだと考えるのではないだろうか。主な論拠としては、次のような事実が挙げられるかもしれない。
 
・飛距離が長く、恐れられたイチイの木の長弓。14世紀にエドワード3世の軍隊が、この弓でイングランドの敵に何度も手ひどい打撃を加えた。

・15世紀にイベリア人が生み出した操舵性が高くスピーディなキャラベル船(3本マストの小舟帆船)。ポルトガルとスペインに、世界に跨る帝国を築く上で大きな優位を与えた。

・19世紀中ごろに完成された後装式ニードル銃。プロイセンの歩兵に敵国に対する大きな兵的優位を与えた。

・レーザー誘導方式や衛星誘導方式のミサイル。湾岸戦争とイラク戦争で、連合軍がサダム・フセインの軍事施設を正確に破壊することを可能にした。


 だが、マクレガー・ノックスとウィリアムソン・マーレイが『軍事革命とRMAの戦略史』にまとめているような軍事戦略の歴史を詳しく読んでみると、技術的優位はたいてい短期間で失われていたことがわかる。戦争では、一方が他方の武器を奪ったり、さらにはそれらの武器を製造した人間を捕えたりする。大金を積まれて職人が寝返ることもある。外国のスパイが設計図を手に入れることもあれば、同盟国に武器を売却したところ、その国が後に敵になるということもある。優れた戦時指導者が生み出す戦術的・戦略的優位は、技術的優位よりいくらか長持ちするものの、その差はごくわずかである。成功した作戦や新しい陣形は、たいていすぐに模倣されて効力がなくなってしまう。一度の勝利は、優れた技術や戦術の才や他のいくつもの要因のいずれかで説明できるかもしれないが、何度も繰り返される軍事的成功、戦争の大混乱の中から何度も勝利者として立ち現れる能力は、それらの要因では説明できないのである。

 高度な兵器や優れた指揮官ではないとしたら、では、長期的な軍事的優位を生み出すものは何なのか。ノックスとマーレイは、長期的な優位はたいてい軍事ドクトリンや軍事組織の重要な進歩によるもものだと主張している。歴史上の長らく勝ち続けた軍隊のほとんどが、過去に別れを告げて、兵士を鼓舞し、配属し、訓練し、配備する新しい方法を思い描くことのできた軍隊だった。これらの軍隊は、マネジメントのイノベーターだったのである。
 
 次に挙げる3つの事例は、この重要な点を理解する助けになるだろう。
 (かなり省略版)


(1)イギリス軍がインドで、18世紀半ばから200年後に撤退するまで成功し続けたのは、決して高度な兵器のおかげではなかった。インドの兵器はイギリスの兵器と少なくとも同等の性能を持っていた。現にウェリントン公爵は、1800年にインドに駐留していたとき、現地で製造された大砲の質の高さにいたく感心して、それを自分の砲兵隊で使うことにした。イギリスの東南アジア占領は、主として「連隊制の相対的優位」、組織イノベーションのおかげだったのである。
 
連隊制:
 近世以降の陸軍の部隊編制単位のひとつ。連隊は管理・行政用の単位で、そのまま一つの駐屯地・兵営に相当することが多い。

 王や女王は何千マイルも離れたところにいるのだから、連隊は兵士の忠誠心の身近な対象だった。そのうえ、半永続的な組織である連隊は、厳しい戦闘を通じて得た知識、以前は戦争が終わって軍隊が解散した時点でえてして失われていた知識を、次の軍事作戦に活かす理想的なメカニズムだった。


(2)ナポレオンの軍事作戦は世界中の士官学校で今なお分析されているが、彼の成功は主として軍事ドクトリンのイノベーションのおかげだった。フランス革命以前は、フランス軍は君主、はるか遠くにいる、たいていは士気を鼓舞してはくれない人物のために戦っていた。しかし、ナポレオンは革命後のフランスで、ナショナリズムの熱い残り火を煽って戦闘意欲の猛火に変えることに成功したのである。「フランスの栄光のために」は、封建制度では決して引き出せない勇猛さで市民を戦わせることができたようだ。結果は、プロイセンの軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツが「国民全体の力に支えられた無敵の存在」と呼んだ協力な軍隊だった。


(3)プロイセン軍は、1806年にナポレオン軍に敗れたのち、やがて世界の大規模軍がこぞって模倣することになる一連の組織イノベーションを行った。一つは、何百年もの伝統に悲壮な決意で別れを告げて、将官の任命を厳密に能力主義による方式に変えたことだ。貴族の出だから昇進できるということは、もうなくなったのである。もう一つの重要なイノベーションは、参謀システムの構築だった。プロイセン軍の改革者ゲハルト・フォン・シャルンホルストは、軍隊が一人か二人の将軍の能力に頼りすぎるのは危険だと考えていた。必要なのは、指揮官に独立した立場からアドバイスを提供できる、専門的訓練を受けた、並はずれて優秀な将校の集団だった。こうして、事実上すべての近代企業で実施されてきた組織原理、「現場」と「本部」の概念が生まれたのである。



■余談:トヨタの優位を理解するのに20年もかかったアメリカ自動車産業


 アメリカの自動車メーカーは、20年も努力してきたのに、トヨタの超効率的な製造システムを真似することに、なぜいまだに成功しないのだろうか。とあるメーカーの上級幹部グループの発言からそれを探ってみる。

 財務部門のトップが「わが社はトヨタに関する20回目のベンチマーキング調査を終えたところだ」と言った。そこでこう問うてみた。「19年目にも18年目にも17年目にも、その前にもずっと学ばなかったけれど、20年目には学べるということがあるのですか?」と。気まずい沈黙の後、一人の幹部が口を開いてこう説明した。

 20年前、わが社はトヨタについて研究するために若手社員を日本に派遣するようになった。帰国した彼らはトヨタがどれほど素晴らしいかを説明したが、我々はそれを信じなかった。彼らはゼロを一つどこかに置き忘れてきたんだろうと思った。1台あたりの欠陥がそんなにすくないなんて、あるいはそんなに少ない作業時間しかかからないなんて、それで車が作れるはずがないと、決めつけていたわけだ。トヨタが多くの重要分野で本当にわが社より優れているのだと認めるまでに5年かかった。

 次の5年は、トヨタの優位はすべて文化によるものだと思い込もうとした。「和」や「根回し」など、トヨタが社員との間に築いている日本独自の協力と協議の精神によるものだとね。アメリカの労働者はこうした家族主義的な慣行は決して受け入れないはずだと、我々は思っていた。
 
 その後、周知の通りトヨタはアメリカに工場を作り始め、アメリカでも日本と同じ結果を出した。そのため、文化云々という我々の言い訳は通用しなくなった。次の5年間は、我々はトヨタの製造プロセスに注目した。ファクトリー・オートメーション、サプライヤーとの関係、ジャストインタイム・システム、とにかく、あらゆるものを研究した。だが、徹底的なベンチマーキングを行ったにも関わらず、わが社の工場では同じ結果は得られそうになかった。トヨタの成功は社員の能力とリーダーの責任についての全く別の原理に支えられているのだということを、我々がようやく自分自身に認めたのは、ここ5年間のことなのだ。

 驚いたことに、アメリカの自動車メーカーがトヨタの優位を理解するには、20年近い歳月がかかったのだ。欧米の自動車メーカーとは異なり、トヨタは現場の社員が、魂のない製造マシンの歯車以上になれることを信じていた。適切なツールと訓練を与えられれば、問題解決者やイノベーターや変革推進者になれることを信じていた。トヨタは労働者の中に、終わりのないハイペースの業務改善に必要な英知を見て取っていたのである。それに対しアメリカの自動車メーカーは、現場の社員がなしうる貢献を見くびるきらいがあり、品質や効率の向上は本社の専門家の仕事としていた。ヘンリー・フォードはかつて「手を貸せと言ったら、どうしていつも頭もついてくるんだ」と、不満げに言ったとされるが、現場労働者の知性を侮る姿勢はそれほどひどかったのだ。

※トヨタは1年間に50万件を超える社員からの改善案を受け取っている


■未来を変えるための話をはじめよう


 まず、変革とか、イノベーションとか、社員参加といった大きな問題を一つ選び、それから10人ないし20人の同僚を集める。集まった同僚に自分が選んだ問題を示し、各人にその問題に関する正しい考えだと思うものを10個、書き出してもらうことにする。ポストイットを使って、1枚に1つずつ書き記してもらう。それから、集めたポストイットを壁に貼って、似通った考えをグループにまとめていく。どのグループにも入らないと思われる考えは、当面、脇に置いておく。最も深く吟味する必要があるのは、多くの人が正しいと思っている考えだ。これらの考えは異論の余地がないように見えるので、検証されることはめったいないからだ。

 あなたが選んだ問題が適応力だと仮定してみよう。あなたは同僚たちに、大企業における変革について、正しいと思う考えを10個、書き出してくれと頼んだ。集めたポストイットをグループ分けしてみると、多くの人が正しいと思っている考えのトップ3は次のモノだ。

1.根本的な変革を起こすためには危機が必要だ
2.変革を推進するためには強力なリーダーが必要である
3.変革はトップから始まる

 あなたはこれらの考えにどのように疑問を投げかけるか。悩ましい問題は、それらが経験的に正しいように思われることだ。大企業を変革するためには通常は確かに危機が必要だし、成功する変革プログラムはたいていトップから、通常は新任のCEOによって推進される。これらが正しいということは誰もが知っている。これらは事実であって、思い込みではない。だから、あなたが同僚たちにこれらの金言は本当に正しいのかと尋ねたら、彼らはずいぶんと戸惑うだろう。重力は本当にあるのか、それともあるとされているだけなのか考えてくれと言われた気分になるだろう。

 従来の思考の束縛から逃れるためには、世界は現在こうであるという考えと、世界は現在こうであり、永遠にこうであるはずだという考えを区別できなければならない。1900年に人間は空を飛べないというのは正しかったが、人間が空を飛ぶことはないと言ったとしたら、それは間違いだったということになる。人類をあれほど長い間、地上に縛り付けていたのは、重力の法則ではなく、才能の才の不足だった。経営管理についても同じことが言えるのだ。

 経営管理慣行で自然の法則に根差しているものはほとんどない。管理職は人間が本来持っているあらゆる行動本能と闘わなければならないが、これは多くの人が思うほど大きな束縛ではない。近代産業が農民や物売りや家事奉公人などをどのようにして従業員に変えたかを思い起こしてみよう。変革のペースと範囲を制限しているのは、人間の本来の性質ではなく、我々の未検証の考えなのだ。これらのことを説明したら、次に進んでもよいだろう。


■さて話はクライマックスへ


「では、根本的な変革を起こすには、なぜ危機が必要なのか。タイムリーな適応を阻む障害は何なのか」と、尋ねよう。

一人が思い切って口を開いて「たいてい現実否認が元凶だ」と言う。

この発言に何人かが「その通りだ」とうなずく。

別のメンバーが割って入って「現実否認は人間の本性だ。我々の誰もがときに現実逃避をすることがある」と言う。

これに対しても同意の声があがる。「それで決まりだ」と。5,6人がほっとしたように椅子の背にもたれかかる。

「そう、それが原因だよ。人間は破壊的な変化に怖気づく。それだけのことだよ」と。



だが、そうではない。

大きな視野でみると、決してそれだけのことではない。正統派理論を解体する作業が本当にはじまるのはここからだ。


次の質問は、多くの人々にとって意外なものになる。

「少量の汚染されたホウレン草から大腸菌が爆発的に広がるように、現実否認は伝染するのだろうか。自己欺瞞のウィルスは社内のすべての人間にとりつくのだろうか。それとも通常は、感染せずにすむ人間、現状しがみつくことの危険性を熟知している人間が何人かいるのだろうか」

これを聞いた人は考え始め、しばらくすると誰かが突然声を上げる。

「そうだよ。通常は危機の前兆に気づく人間がいるんだ。たいてい何人もね。だけど、誰も彼らの言うことに耳を傾けないんだ。」

まもなく、耳を傾けられなかった預言者について、また避けられていたはずなのに避けられなかった惨事について、口々に語りだす。


議論が熱を帯びてくるにつれて、参加者が主導権を握り、彼ら自身の問いを投げかけるようになる。

「預言者がたいてい殉教者になるのはなぜなのか」「未来への改革の志を持つ者たちが、経営陣が行動を起こすのをただ待っていなければいけないのはなぜなのか」「将来ビジョンを持つ人間が、新しいビジネス・モデルを生み出すために行動していなければいけない時に、まだ提案書やブログを書いているのはなぜなのか」というような問いである。



みんなに「なぜ」と問い続けたら、彼らはやがて、大きな変革のためには危機が必要である本当の理由に辿り着くだろう。



(ここから先の答えは自分で出すのだ。さて、あなたの答えは?)

『従業員』の誕生 ~時代遅れになった経営管理思想~

2012-07-01 22:59:16 | AKB48_経営戦略・組織論系
まったく時間をつくれず・・
今ようやく落ち着いたところ。

ふぅ・・いろんなものが手に余る。
はたしてどうしたものか。
急に疲れた。

・・などと考えていると時間だけが過ぎる。
もし人生をシミュレーションすることができたなら、自分の都合のよい道だけを選ぶのだろうか。

もし私が望むものが結果なのだとすればそうだろう。
だが、人が心の奥底で望んでいるものが、結果などではないということは、ほとんど立証されている。

だから、もし私が遠い未来のことまで見通す能力を持っていたら、未来に目を閉ざす道を選ぶだろう。

まぁ・・こんな話はおいおいするとして、


AKB48宮澤佐江がチーム4に苦言(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51829537.html


当Blogでも何回かチーム4について語ってきたけれども、今一度語り直そうかなという気持ちになっています。
この件は語り甲斐のある話題であることに間違いありません。

ただ、その前に準備も必要かなと思います。
やはり議論するにも、ある程度に認識なり言葉を合わせておくとスムーズになります。

そこで事前知識として、数回にわけて「次世代の組織論」についての導入をやりたいと思います。

参考図書はゲイリー・ハメル『経営の未来』です。
「当代随一の事業戦略家」と名高いゲイリー・ハメルの言葉をお届けしたいと思います。




この件は、私の中でも旬なトピックでありまして、いろんな人に説いて回っては様々な壁にぶち当たっています。
その内容が、多くの人の頭の中に刷り込まれた常識に挑戦するものだからです。
実に多くの人たちのね。

こびりついた常識を疑うところからはじめたいと思います。
(何度か語ってきている内容ではありますが、今回は違う視点から述べます。)


◆◆◆◆◆◆


「自己管理するする社員についての知識を誰に対して説くのだろう。管理職に対してか?」

参りましたというしかない。

(ゲイリー・ハメル)



■顧客との分離


工業化以前は、農民や職人は顧客と密接なつながりを持っていた。常連客から日々与えられるフィードバックは、タイムリーで間に人を介さないものだった。だが、産業組織の規模が拡大していく中で、何百万人もの従業員が最終顧客とのつながりを失っていった。直接的なフィードバックを奪われた彼らは、顧客により近いところにいる人々に、自分の努力の有効性を測定してもらい、どのようにすれば顧客をより満足させるかを教えてもらわなければなくなったのである。


■最終商品との分離


企業が部門や職能グループに分かれていく中で、従業員は最終製品からも切り離されていった。仕事がより狭くなり、より専門化されたため、最終製品との感情的つながりを失ったのである。その結果、製品の品質や効能に対する責任感は低下した。労働者は誇りある職人ではなくなり、自分たちの力ではほとんど制御できない産業マシンの歯車と化した。


■仲間との分離


規模の拡大は従業員を仲間の労働者からも切り離した。それぞれが半ば孤立した部門で働いているため、彼らはもはや生産プロセス全体を見渡すこともできなくなった。そのシステムが最適ではなくても、それを知る術も、是正する術もなくなったのである。


■事業主と労働者との分離


工業化は労働者と事業主の隔たりも拡大した。19世紀の見習い工は自分の考えを事業主に聞いてもらえただろうが、20世紀のほとんどの従業員は低レベルの監督者に報告するだけとなった。組織の規模が拡大したことで、何十年もそこで働いているのに、重要な方針決定を行う権限を持つ誰かと1対1で話したことは一度もないという下っ端社員も見受けられるようになった。


■情報との分離


その上、業務の複雑さが増したことで、従業員が入手できる情報は細切れになった。小さな事業所では、財務記録は単純かつリアルタイムで、会社の業績についてわからないことはほとんどなかった。工業化時代の大企業では、従業員に与えられるデータは部分的なものになった。そこからは自分自身の業績は把握できるが、会社全体の業績はほとんど読み取れない。会社の財務モデルを節穴から除くことしかできなくなり、結果に対して負わされる責任が極めて小さくなったことから、従業員が会社の業績について心から責任を感じるのは難しくなった。


■創造性との分離


最後の、そして最悪の点として、工業化は従業員をおのれの創造力から切り離した。工業化された世界では、作業の方法や手順は専門家が決めるようになり、いったん決められたら簡単には変えられなくなった。従業員がどれほど創造力豊かだろうと、その能力を発揮する範囲は厳しく制限されたのである。


■意欲の喪失


簡単に言うと、規模や効率の追求は、労働者を工業化以前には彼らがほぼ自己管理できていた基本的な情報から切り離し、そうすることで管理職クラスの拡大を不可避にしたのである。従業員に管理職が必要なのは、13歳の子供に親が必要なのとほぼ同じ理由からだ。つまり、自己管理できないからなのだ。成長ホルモンの為に頭が混乱し、おまけに限られた人生経験しかない少年期の子供は、一貫して賢明な選択を行うだけの認識力に欠けている。だから賢明な父母は彼らの自由を制限するわけだ。それに対し従業員は、知恵や経験は不足していないが、えてして顧客や同僚、最終製品や事業主や財務の全体図から切り離されているので、情報と背景知識は間違いなく不足している。自ら管理する力を奪われているがゆえに、上からの管理を受け入れなければならないのである。その結果は、意欲の喪失である。


■ついには


そしてついには、13歳の、あるいはそれ以下の子供のように扱われることを喜ぶようになるのである。


■歴史を変える、これまで行われてきたように


意欲のない社員。抑圧されているイノベーション。柔軟性のない組織。新しい世紀になったにも関わらず、我々は依然として、ほぼ100年前に生み出された経営管理モデルの副作用に悩まされている。だが、歴史は代えられない定めである必要はない。過去に遡って、他の多くの人が今なお何の疑いも持っていない遠い昔の選択を評価し直す気があるなら、間違いなく変えられるのだ。

AKB48が革新的である理由。経営論の常識を覆すやすす先生のAKB48経営論

2012-06-18 11:10:59 | AKB48_経営戦略・組織論系
やすす先生が、経営論的には極めて重要なことを言っている。

当Blogで取り上げてきた、やすす先生とAKB48の関係を裏付ける形になった。


秋元康 「研究生の公演のギャラは五千円くらい」



最高権力者が経営責任を持っていない。

運営会社はAKSおよび京楽だから資本的に考えれば、やすす先生に経営責任がないのは自明である。
しかし、経営責任を持っていないからこそ下記が可能になるのだ。


経営に関与していないから、いろいろな制約を受けずに好き勝手言える。
ビジネスをする人は費用対効果を考えるから、出来上がるモノがその程度のモノになる。



しかし、ホンダ(本田宗一郎)にせよソニー(井深大)にせよ、名だたるイノベーション企業の創業者時代もそうだった。
スティーブ・ジョブズ率いるアップルも同様だったろう。

AKB48が、CEO(最高経営責任者)を頂点とする昨今の経営論の常識を覆す体制であることが、改めてわかったわけである。



院政とは違うよね。
だってやすす先生は表に出てきてるから。
現役バリバリの最高指揮官にも関わらず、経営責任を持っていない。
こういう関係性は人間関係の賜物であってルールでは作れない。と思う。

「大人の事情」という大いなる勘違いと「ミエナイチカラ」

2012-05-15 02:35:18 | AKB48_経営戦略・組織論系

困ったことに全然更新できないません。
まいったなー。
余裕がなくて・・軽いネタで。。

いつもこの夜中の静まり返ったこの一息つける時間が、この僅かな余裕が、なんとも言えず幸せなのさ。
これで酒でもあれば最高なのだが・・

それにしても夜中に聴くミスチルは最高だ・・しみじみ。
micro & macro ね。
どうしてこんなに心の奥深いところに突き刺さるのか。
忘れていた何か、いや自分の中にあるまだ発見できていない何かを、
思い出させてくれる気がするんだ。

そして捻り出した答えは~♪


憧れになろうだなんて大それた気持ちはない・・
ただヒーローになりたい君にとっての~

・・十分だいそれてるぜっ



◆◆◆◆◆◆



こんな意見があるかもしれない。

アイドルは夢を見せてなんぼなのだから、現実的なところは見せてはいけない。


既存のアイドルに関してはそういうところはあったのかもしれない。
「品質管理」と「情報管理」を徹底して行い、コンテンツビジネスとしての完成度を高めていく方法だ。
現在、その最先端を行くのは「K-POP」なのかもしれない。

だが、AKB48はそういうアイドルなのだろうか。

私は違うと思いたい。
(それはこれまで何度も述べてきたので説明しない。単に余裕がないだけ・・)

しかし、多くの人たちが言うように、素人さを売りにするものの、運営が素人であっていいはずはない。
もちろん、初めからプロはいないし、まして新しいことをやる場合には誰もが素人だから、失敗はある。
だが、失敗はあるだろうけれど学習はしていかなければならない。

「とりあえずやってみて試す」という戦略をとる場合、重要なのは「実行」ではなく、実行による「学習」だ。
学習することができなければ、もっとも恐れるべきこと、信頼の喪失を引き寄せるだろう。
結果として、興ざめするのは最悪だ。


◆◆◆◆◆◆


ただ、供給者、顧客ともに十分な準備ができておらず誤解に生み出しやすい状況にあるのなら、それを緩和する必要もあるだろう。
たとえば「大人の事情」がそれだ。
Wikipediaによれば

大人の事情(おとなのじじょう)とは、主に利害関係上の都合、タブー、その他の公にしづらい事柄が発生した場合に、それを簡潔に説明するために利用される隠語(スラング)である。


多くの人々が、「大人の事情」を嫌う。
だが、大人の事情はそんなに忌み嫌うものなのだろうか。
私は自分が半人前過ぎると思っているが、社会的な定義としては、これでも大人だから正直に言うよ。

「大人の事情」がなかったら、世の中成立しない。
「大人の事情」が絡まない話があるなら教えて欲しい。

誤解されたくないのだけど、空想を語らずに現実的な話をしようぜっなんて大人びたことを言っているつもりはない。
私はそんなに大人じゃないから。


「大人の事情」は何ゆえに「大人の事情」なのか、考えたことがあるかい?


これは自分の子供にも、とても説明しづらいことなのだけれども、あえて言うよ。
「大人の事情」と言うのはね、説明できないから「大人の事情」なんだ。
口ごもるのはね、まだ正直な人なんだよ。
たいていは、「察しろよ」とか「感じろよ」とか、「わかれよ」なんて言うんだろう。
少し強い口調で、「話のわからないやつだ」なんてけなしながらね。


でもそれはね、大人たちはね、理由を説明できないんだ。
一体何が、それを、その周りのものを、自分を、自分達を、自分達の周りにあるものを、動かしているのか。
わからないんだ。
少なくても、説明できない。


自分はこれが正しいと思っているんだけど、なぜかそうできない自分がいる。
理由がわからないんだ。
でも、確かに自分を動かしている何かの力がそこにあるんだ。


かっこ悪いじゃないか。
自分が正しいと思うものじゃないものに、自分が動かされているなんて。
自分が否定されているみたいだから。
自分じゃない何かが自分を動かしているなんて、誰が認めてやるかって思っているんだよ。


「そんな馬鹿な?」と思っている君は、まだ大人じゃないのかもしれないね。
大人の定義なんて適当だけどさ。
自分じゃない力が自分を突き動かす、そんなとてつもなく抗えない大きな力を感じたことがないのだとしたら、
それは少し不幸なのかもしれないよ。
一流のプロスポーツ選手なんかに聞いてごらんよ。
アイドルでもいいんだ。
自分だけの力で成果を上げることができるなんて思ってる人はいないよ。
卓越した結果を生み出すとき、自分に何が起こったのか明確に説明できる人がいるのかな。
そこには、自分だけの力ではどうしようもない、とてつもない何かがいるんだ。


前にも書いたようにね。

ミエナイチカラよ輝け
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2bbf4831b68d8a0ac37ec285e4199518

MITのピーター・M・センゲは著書『学習する組織』の中で、物事の全体像を掴む重要性を次の小話で説明している。


 数年前の春、メイン州でカヌー旅行をしているとき、悲惨な事故を目撃した。小さなダムに近づいたため、迂回して陸上を進もうと岸にカヌーを寄せた。後から来た別のグループの、酒を飲んでいた一人の若い男性が、ゴムボートでダムを越えていくことにした。ボートはダムを越えた後に転覆し、男性は凍りつくような水の中に投げ出された。遠くて助けの手も届けられず、私たちは彼がダムの底で、激流に逆らい渦から逃れようと必死にもがいているのを、恐怖のうちに見つめていた。彼がもがき続けていたのはわずか数分だった。低体温症でなくなったのである。

 彼の身体は渦巻く水の中に吸い込まれていった。その数秒後、彼の身体は、ダムの底の大渦巻きから自由になって、10メートルほど下流に浮かび上がった。彼が人生の最後の瞬間にやろうとしてできなかったことを、彼が死んだ数秒後に川の水流が成し遂げたのである。皮肉なことに、彼の命を奪ったのは、ダムの底で流れに逆らってもがいたことそのものだった。
 唯一の脱出方法は「直感に反する」ものであることを彼は知らなかったのだ。顔を水面上に出そうとせずに、水流に身を任せていれば、彼は助かっていただろう。


この話は、物事を線形的な思考で捉えるのではなく、システム全体で捉えるべきだという本質を物語っている。
私たちの気づかない構造が私たちを虜にするのだ。

[中略]

私たちは、ボトムアップ・アプローチによって、私たちの世界や社会や組織に働くミエナイチカラ(見えない構造)から自分自身を解放し、最終的にそのチカラと連動したり、そのチカラを変えたりする能力を身につけることができるのだろうか。
それこそ今私たちが直面している問題を超えていくために、真っ先に答えなければならない課題なのではないだろうか。



賛同できないかもしれないけれど、このエントリを読んだら、
今後は「大人の事情」を使うのは談笑するときだけにして、
代わりに「ミエナイチカラ」を使うことをおススメするよ。

そうしたら、見えてくるものが変わると思うんだ。



◆◆◆◆◆◆



たぶん、ミスチル聴きながら書いたからこんな口調になるんだと思う・・
語り口調は嫌われるのかな・・


Any Mr.Children