平野綾の恋バナで発狂してる人は『カラフル』を観ると良いよ!(俺の邪悪なメモ)
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100908/p1
死んでしまった主人公<ぼく>の魂が、自殺した少年<マコト>の肉体にホームステイする
という、ちょっと不思議なお話。
この主人公<ぼく>には前世の記憶がなく、自分がなぜ死んだのかも知りません。もちろんホームステイ先である<マコト>のことも知らないので、奇妙な二重の記憶喪失状態で他人の人生を生きることになるのです。
やがて<ぼく>は、この<マコト>が、なぜ自殺したのかを知ることになります。
<マコト>は、元々うだつの上がらない鬱々とした少年だったのですが、
ある日、好きな女の子が援助交際してるのと、母親が不倫してるのを、偶然同時に知ってしまい、
そのことが引き金となり、自殺を図ったのでした。
好きな子の援交と、母親の不倫。
いってしまえば、どちらもセックス・スキャンダルなんですね。
原作では他にも自殺の引き金となったエピソードがあるのですが、映画ではこの2つのセックス・スキャンダルに絞られているのです。
この事実を知った時、<ぼく>は<マコト>と同じように、その汚らわしさ、気持ち悪さ、ままならなさに、さいなまれます。
しかし、そういった受け入れがたい汚らわしさと共にある人や世界の豊かさを知り、乗り越えてゆくのです。
つまり、この映画は思春期の童貞がセックス・スキャンダルを乗り越えてゆく物語なんですよ!
例えば「好きな子の援交と、母親の不倫。」を考える。
実体験として持っていないので、全ては想像の域を出ないが、
しかし思春期に経験するとなれば、その影響は甚大なものがあると思われる。
『カラフル』はあくまで仮想の話だが、
自殺したマコトが生きる意味のほとんどを失ったことは想像に難しくない。
しかし、私は単に「背徳的な行為」が人に与える「裏切り感」だけを言いたいのではない。
「背徳」というのは道徳的規範があって初めて成立する概念で、
確固たる道徳的規範があればこそ「背徳」の影響力は大きい。
思春期の少年少女にそのような確固たる道徳規範があるのであろうか。
あるわけがない。
「いやいや、少年少女は妥協を受け入れる素養が育っていないのではないか?」
という声が聞こえてきそうであるが、それとこれとは全く次元の異なる話である。
そもそも「道徳」というのは「何かを守るため」にある。
何ゆえ「道徳」が何らかの「価値基準」を提供するかといえば、
物事の順序、物事の優劣、物事の正誤に対する基準が曖昧だと困ることがあるからだ。
「守るべきもの」の認識が少ない者に、
確固たる道徳的規範が影響力を行使するなんてことは有り得ないことだ。
自分の「守るべきもの」に抵触しない限り、人は寛容(つまり、どうでもいい)なのだ。
ネット上で匿名者が無責任発言を繰返すのは当り前のことだし、
社会の事象がどのように自分に関係しているか分からない問題意識の無い人が、
いろんなものに関心を持たないのも当り前なのである。
じゃぁ、なぜマコトは自殺したのか?
それはコミュニティへの信頼が失望に変ったからだ。
マコトが自己アイデンティティを確立するために、
マコトは、自分が何者であるかという認識について
マコトが属する同級生や学校というコミュニティ、
家族というコミュニティに依存している。
そのコミュニティの支柱である「好きな子」や「母親」が、
コミュニティに対する背信行為を行ったことが、
マコトのコミュニティに対する信頼を裏切る行為なのである。
マコトにとって学校や家族というコミュニティの存在があまりに大きかったために、
そのコミュニティへの信頼を失ってしまうと、
自己アイデンティティの喪失に繋がってしまうのである。
マコトがもっと活動的かもしくは不真面目で、
学校や家族以外にも依存するコミュニティがあれば、結果は異なったであろう。
ただ、私はリスクヘッジとして複数のコミュニティに属した方がいいたいのではない。
人生をポートフォリオ化するかしないかは個人の自由だ。
もちろんトレードオフはあるのだから。