引用したスレ主さんからコメント頂けたので、前回のエントリの意図をもう少し補足したいと思います。
AKB48第2章は三銃士とチーム4が天下を取るまでの物語 ではないと思う。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/907d662829da04a37b1482bd74810365
チーム4でAKB的な成功を収めても仕方がないと思うのですよ。
まずもってそんなこと出来ないと思う。
誰が喜ぶのそんなことして?
チーム4のファン?
それって発展性があるのかね。
そうではなくて、当Blogが主張してきたのは、チーム4というアイドルでブレイクすることが大事。
↑この部分についてです。
「物語性」が重要なのは今更説明するものでもないのですが、その「物語」をどの立場で語るかによって、持っておくべき前提が変わってくると思います。
単純にAKB48ファンとして「AKB48第1章」や「AKB48第2章」といったものについて語るときには、「AKB48第2章は三銃士とチーム4が天下を取るまでの物語」と言っても特に問題があるとは思っていないです。
私は、そういう物語を語ることを否定しているわけではありません。(たぶんご理解頂けていると思いますが)
ですが、もし「AKB48という組織がどこに向かうべきか」などについて議論したいと思うのであれば、持たなければならない前提があります。
それは、当Blogで何度も繰り返している組織としての「理念」や「ビジョン」のお話です。
話をわかりやすくするために、次のようなケースを考えるとします。
----------------------------
AKB48関係者を集めて複数のグループを作ってブレストをするとします。
テーマは「大島優子が去った後にしかける新しい取り組み」としましょう。
アイディアが出揃ったら、次に何らかの手法で整理して提案としてまとめ、簡単に発表する段取りにします。
ここで、事務局が幾つかの条件を課します。
その条件の一つが、おそらくこれです。
そのアイディアの「AKB48らしさ」「AKB48がやる意味」「AKB48のどういう強みが活かされるか」を発表の内容に入れてください。
----------------------------
断言したいところです。
この手の取り組みは、ほとんど成果を上げることなく終わってしまうだろう、と。
ここに持続的に利益を上げ続けることができるビジョナリー・カンパニーと、そうでないカンパニーの違いがあるのです。
注目して欲しいのは、このやり方だと「AKB48らしさ」だとか「AKB48がやる意味」が後付けになってしまう、とういことです。
多くの人々が、新しいアイディアが組織に意味があると主張するために、無理やり理由をつけるのです。
後から。
そうすると、新しいアイディアを説明することが苦しくなるわけです。
むしろ組織が枷になってしまいアイディアをダメにします。
そして、たいていこう言い出すわけです。
「組織の中にいては好きなことはできない」などと。
こういう構造をわからないままに「組織は新しいアイディアを潰してしまう」という安直な結論に至ってはいけません。
そうではないのです。
あらかじめ組織の向かう先、ミッションやビジョンといった理念的なものが参加者に共有されていれば、「新しいアイディアが思いつく=説明するのは簡単」となるわけです。
これ当たり前ですよね。
ミッション・ステートメントというのは「この組織の存在意義は何か?」を述べるものです。
そのミッション・ステートメントの下に人々が集い組織を構築しているのなら、ミッション・ステートメントによって組織と個人の方向性が合わさっているので、新しいアイディアが今組織が持っていない強みに基づくものだったとしても、それが新しい強みになると簡単に説明できるし、それが組織にとってどれだけ意味があるか、という説明も簡単にできるのです。
これが、ミッション・ステートメントによる組織と個人の「相乗効果」コンセプトの最も単純な説明ですね。
「いい物語」というのは、組織と個人の方向性が合わさっているものです。
それは、相互干渉関係では決してなく、相互補完/相互依存関係という意味です。
個人の成長が組織の成長に繋がり、組織の成長が個人の成長に繋がるものです。
上記の認識をもって「AKB48第1章」を見ると、これまでと違った姿が見えてきます。
AKB48が認められて社会的に拡散していく(社会的な物語になっていく)過程と、AKB48コミュニティでAKB48物語が深まる過程がリンクしていたのです。
「外部に向かっていく力」と「内部に向かってく力」が矛盾せずに統合することができた。
たまたまです。
それは偶然の産物でしたが、両者の相乗効果で大きなムーブメントを生み出すことができたのです。
この構造を理解せずに、片方だけの力で「第2章」を語っても虚しい結果が得られるだけです。
「チーム4が天下を取る」という話は、「内部に向かっていく力」の話です。
あくまで「AKB48内部の物語」であって、それだけでは外部から浮いた存在になってしまうでしょう。
いま、社会的な物語になっていく「外部に向かっていく力」が求められているのです。
そのワンピースを手に入れることによって、はじめて「AKB48第2章」がはじまるのだと、私は思います。
残念ながら、今のAKB48コミュニティの中でこのトンデモ話に気づいている人は、あまりいないようです。
それが、当Blogで「理念」について語っている反主流派な人々(私含む)だけだというのが、皮肉なものです。
AKB48第2章は三銃士とチーム4が天下を取るまでの物語 ではないと思う。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/907d662829da04a37b1482bd74810365
チーム4でAKB的な成功を収めても仕方がないと思うのですよ。
まずもってそんなこと出来ないと思う。
誰が喜ぶのそんなことして?
チーム4のファン?
それって発展性があるのかね。
そうではなくて、当Blogが主張してきたのは、チーム4というアイドルでブレイクすることが大事。
↑この部分についてです。
「物語性」が重要なのは今更説明するものでもないのですが、その「物語」をどの立場で語るかによって、持っておくべき前提が変わってくると思います。
単純にAKB48ファンとして「AKB48第1章」や「AKB48第2章」といったものについて語るときには、「AKB48第2章は三銃士とチーム4が天下を取るまでの物語」と言っても特に問題があるとは思っていないです。
私は、そういう物語を語ることを否定しているわけではありません。(たぶんご理解頂けていると思いますが)
ですが、もし「AKB48という組織がどこに向かうべきか」などについて議論したいと思うのであれば、持たなければならない前提があります。
それは、当Blogで何度も繰り返している組織としての「理念」や「ビジョン」のお話です。
話をわかりやすくするために、次のようなケースを考えるとします。
----------------------------
AKB48関係者を集めて複数のグループを作ってブレストをするとします。
テーマは「大島優子が去った後にしかける新しい取り組み」としましょう。
アイディアが出揃ったら、次に何らかの手法で整理して提案としてまとめ、簡単に発表する段取りにします。
ここで、事務局が幾つかの条件を課します。
その条件の一つが、おそらくこれです。
そのアイディアの「AKB48らしさ」「AKB48がやる意味」「AKB48のどういう強みが活かされるか」を発表の内容に入れてください。
----------------------------
断言したいところです。
この手の取り組みは、ほとんど成果を上げることなく終わってしまうだろう、と。
ここに持続的に利益を上げ続けることができるビジョナリー・カンパニーと、そうでないカンパニーの違いがあるのです。
注目して欲しいのは、このやり方だと「AKB48らしさ」だとか「AKB48がやる意味」が後付けになってしまう、とういことです。
多くの人々が、新しいアイディアが組織に意味があると主張するために、無理やり理由をつけるのです。
後から。
そうすると、新しいアイディアを説明することが苦しくなるわけです。
むしろ組織が枷になってしまいアイディアをダメにします。
そして、たいていこう言い出すわけです。
「組織の中にいては好きなことはできない」などと。
こういう構造をわからないままに「組織は新しいアイディアを潰してしまう」という安直な結論に至ってはいけません。
そうではないのです。
あらかじめ組織の向かう先、ミッションやビジョンといった理念的なものが参加者に共有されていれば、「新しいアイディアが思いつく=説明するのは簡単」となるわけです。
これ当たり前ですよね。
ミッション・ステートメントというのは「この組織の存在意義は何か?」を述べるものです。
そのミッション・ステートメントの下に人々が集い組織を構築しているのなら、ミッション・ステートメントによって組織と個人の方向性が合わさっているので、新しいアイディアが今組織が持っていない強みに基づくものだったとしても、それが新しい強みになると簡単に説明できるし、それが組織にとってどれだけ意味があるか、という説明も簡単にできるのです。
これが、ミッション・ステートメントによる組織と個人の「相乗効果」コンセプトの最も単純な説明ですね。
「いい物語」というのは、組織と個人の方向性が合わさっているものです。
それは、相互干渉関係では決してなく、相互補完/相互依存関係という意味です。
個人の成長が組織の成長に繋がり、組織の成長が個人の成長に繋がるものです。
上記の認識をもって「AKB48第1章」を見ると、これまでと違った姿が見えてきます。
AKB48が認められて社会的に拡散していく(社会的な物語になっていく)過程と、AKB48コミュニティでAKB48物語が深まる過程がリンクしていたのです。
「外部に向かっていく力」と「内部に向かってく力」が矛盾せずに統合することができた。
たまたまです。
それは偶然の産物でしたが、両者の相乗効果で大きなムーブメントを生み出すことができたのです。
この構造を理解せずに、片方だけの力で「第2章」を語っても虚しい結果が得られるだけです。
「チーム4が天下を取る」という話は、「内部に向かっていく力」の話です。
あくまで「AKB48内部の物語」であって、それだけでは外部から浮いた存在になってしまうでしょう。
いま、社会的な物語になっていく「外部に向かっていく力」が求められているのです。
そのワンピースを手に入れることによって、はじめて「AKB48第2章」がはじまるのだと、私は思います。
残念ながら、今のAKB48コミュニティの中でこのトンデモ話に気づいている人は、あまりいないようです。
それが、当Blogで「理念」について語っている反主流派な人々(私含む)だけだというのが、皮肉なものです。
ただ、そもそもAKB自体の社会的価値や物語が創造され、
拡がり、盛り上がらなければ、(それはAKBファンだけでなく、AKBファン以外の感心、
内野の盛り上がりだけでなく、外野の盛り上がりも含みます)、
いくら各チームが盛り上がっても、それはそのチームメンバーと
一部ファンの間のみの拡がりしかなく、内輪受け・楽屋落ち物語の範囲に留まり、
さらにチームが盛り上がらなければ、個人の物語は非常に狭いファンと本人の間の、
自己満足の世界の範囲に留まってしまいます。
甲子園や箱根駅伝(オリンピックやサッカーW杯もそうですが)が、
なぜ「内側の熱狂的ファン・マニア」+「外側の社会的注目」の相乗効果で盛り上がるかというと、
「甲子園の物語(ブランド価値) ⇔ 各チームの物語 ⇔ 各個人の物語」が、
相互創造物語作用で結びついているからでしょう。
高校野球より技術も意識も高い選手が集まっているはずの大学野球、
大学野球よりさらに技術も意識も高い選手が集まっているはずの社会人野球、
それらが高校野球ほど盛り上がらないのは、高校野球のように
「甲子園の物語(ブランド価値) ⇔ 各チームの物語 ⇔ 各個人の物語」のような、
相互創造作用の結びつきが希薄であり、認識されないからでしょう。
極端に言えば、スポーツや野球やチームや選手に酔っているのではなく、
「甲子園というブランドによる物語」に酔っているのです。
だから甲子園ブランドのない秋季大会などは、同じチーム、同じ選手が、
同じレベルの野球の試合をしても、ほとんど話題にならない。
相互創造物語作用が働いていないからです。
箱根駅伝で話題になった「山の神」は、国内の大学レベルでは高い走力ですが、
社会人選手と比較したら並みの走力ですし、決して世界レベルではありません。
ただ、「箱根駅伝の物語(ブランド価値) ⇔ 各チームの物語 ⇔ 各個人の物語」の
相互創造物語作用によって、「箱根駅伝の“山の神”」という物語に、
内側のファンも、外側の普段無関心な層も、酔っているのでしょう。
「山の神」は箱根駅伝の物語やチームの物語との相互作用によって生まれたのであり、
箱根駅伝自体が注目されなければ、大学生にしては走力の高い選手という、
その業界の一部の人にしか知られない程度でしょう。
AKBも同様に、「AKBの物語(ブランド価値) ⇔ 各チームの物語 ⇔ 各メンバーの物語」が、
一時期までは相互創造物語作用の絶妙なバランスによって、空前の成功を収めました。
この相互創造物語作用の前提がなければ、むしろ「第二章」「ポスト〇〇」というキーワードで
語られれば語られるほど、創造性のない二番煎じの予定調和に終わり、
拡がり、盛り上がりは期待できないでしょう。
個人とそのファンは頑張って盛り上がっていても、相互創造物語作用が働かなければ、
物語に共感できるごく一部の内輪以外は逆に冷めてしまい、チームに対して、
あるいはAKBに対して、拡張性の高い外向きの大きな世界ほど、
相互リンクされない断片の散らばりが、むしろ逆効果になってしまいます。
甲子園も箱根駅伝も、スポーツ競技という視点で見た場合、かなり特殊、というか無謀です。
誰が、真夏の炎天下という「これ以下はない」最悪の条件でスポーツをやりますか、
誰が、正月休み早々にとんでもない高低差を上り下りして走りますか、
と考えると、おおよそスポーツ競技の常識から外れています。
だから相互価値がなければ、ある意味スポーツ大会自体としての価値は欠陥だらけだといえます。
それでも、甲子園も箱根駅伝の相互創造物語が働いている以上は、
参加するチーム、選手、ファンは、そこに価値を見出し、物語に酔い合える。
AKB総選挙にしても、前田敦子・大島優子の二大理念がぶつかり合うことで、
総選挙自体が異様な盛り上がりとなり、ブランド価値を創造しました。
だから総選挙で上位に入ることは、非常に名誉で価値があるという認識になったわけですが、
そもそも総選挙自体のブランド価値がなくなれば、誰が上位にこようが、もう選挙の価値もないし、
八百長みたいなもんだし、どうでもいいや、となってしまうわけです。
既にじゅんけん大会は、そんな空気が支配しつつある気がします。
だから、AKB自体の相互創造物語が機能しなくなれば、三銃士やチーム4が今後躍進したとしても、
「そもそもAKBで活躍することの価値自体が見いだせない」となってしまいます。
もちろん、個がチームを創造し、チームがAKBを創造する面もあるので一概には言えませんが、
「AKBの物語(ブランド価値) ⇔ 各チームの物語 ⇔ 各メンバーの物語」を創造するためには、
やはり「甲子園」のような内外に訴えかけ価値観を共有できる「理念・ブランド・方向性」を創造することの重要性は、古今東西あらゆるジャンルに共通でしょう。
「外部に向かっていく力」と「内部に向かってく力」をキーワードに、私なりに改めて第二章という物を考えてみました。
まずチーム4の事ですが、私はあくまで内向きの成功を目指す意味合いの強いチームと見ています。
組閣により旧来のチームが解体されて以降、AKBファンはこの手の物語性に非常に飢えています。
ブレイクの過程で失ってしまたAKBの魅力を取り戻し、離れてしまったファンを呼び戻す役割をチーム4は担っているかと思います。
ターゲットはあくまで姉妹グループや乃木坂等の他のアイドルに流れてしまったアイドルファンとなります。
初期のAKBや姉妹グループに受け継がれていたAKB魂や物語性を持っている事がチーム4の魅力です。
所詮は旧来のAKBのシステムに則って生まれた存在であり、今までのAKBに興味を持たなかった人を新たに引き入れるような目新しさはありませんので、外部に向かっていく力により多数の新規ファンを獲得する役割は担えないかもしれません。
ですが、第二章においては内部に向かってく力が最重要と考えておりますので、物語性と個々の資質と地の利を兼ね備えたチーム4が第二章の主役になりうるという認識です。
私が考える第二章というのは漠然と言えば48文化の定着です。
人気スポーツがブーム無関係に常時数万人の観客を動員できるように、世間のブームやメディアの力関係なく組織を長期間安定して持続できるだけの地盤の獲得と、仕組み作りが至上命題になるのではないかと考えております。
第一章でAKBという存在が広く世間に知れ渡った以上、第二章では外部へのプロモーションよりも内なる魅力を高める段階と考えます。
これからは新規獲得は、元々のファンに連れてきてもらったり、アイドル好きの素養がある人に自主的に来てもらうスタンスで良いと思うのです。
飽きられれば終わりの他のアイドルと違って、48グループはその世界の広さ、奥深さにより、長い期間ファンを掴んでいられる特徴があります。
ですので飽きさせずにより長く48ファンを続けてもらう為に、内輪受けでもいいので48グループ内だけでいかに面白い世界を作っていくか、内部に向かっていく力をいかに高める事ができるかが第二章成功への鍵と考えます。
総選挙も外部から見れば内輪で盛り上がってる茶番にしか過ぎないのでしょうが、ファン目線では非常にリアルで面白いものです。
こういった筋書きのない真剣勝負の場を個人だけでなく、チーム間、グループ間にも広げ、常に興味を惹きつける仕組みを構築すべきというのが私の考えです。
その為に必要となるのがAKBと姉妹グループの横並び体制によるグループ間の競争原理の導入であり、手っ取り早い方法がAKB単独でのCD販売への移行です。
私が述べた三銃士が天下を取る物語というのは確かにAKB目線の可能性のひとつに過ぎないと思います。
結果は重要ではありません。過程の透明性を高め、濃密にし、面白くリアルなストーリーを提供できればそれで良い事になります。
ですので48G全体スケールで述べると、AKBによる一極支配体制の終焉と、乃木坂を含めた姉妹グループ群雄割拠によるアイドル戦国時代の物語となります。
以上が私の考える第二章ですが、「外部に向かっていく力」と「内部に向かってく力」というのは今後のビジョンを考える上で非常に重要な要素のように思えます。
内向きに比重を置くか、2つの両立を目指すか、はたまた第二章を迎えることも無くこれまで築いた物を食いつぶして行くのか。
今後の運営の采配が気になります。
>>この手の取り組みは、ほとんど成果を上げることなく終わってしまうだろう
この部分は、これまでのAKB人気の本質にような気がします。
ある意味、「予期される期待」を「(良い意味でも)裏切ること」によって、「逆説的に期待に応えてきた」のが「AKBらしさの本質」である故、「“AKBらしさ”と後付された既存のAKB観に囚われず、新しい概念を創造してきたことこそ、AKBらしさ」であることから、「AKBらしさ」という価値観に囚われて、「AKBらしさ」を演じるようになったとしたら、それ自体が、「既存のAKB観に囚われずに新しい概念を創造する」という「AKBらしさの本質」とは逆の概念であり、本質的に「AKBらしくない」「AKBの強みが生かされない」、というロジックに陥ってしまします。
1960年代のビートルズが正にそんな感じで、「ファンが予期する期待(予測)を常に“裏切り続けること”でファンを驚かし続け、逆説的にそれによってファンの期待に応えてきた」、それによって現代音楽史上最大のムーブメントを巻き起こしたわけですが、最期のアルバム「ABBEY ROAD」だけは、ある部分、期待通りに予定調和的に「ファンの期待する通りに期待に応えて」、メンバーが「後付されたビートルズらしさを最期の覚悟として意図的に演じてみせた大団円的な傑作アルバム」になった。
(それはそれで期待を“裏切らない”美しい最期ではあるのですが、同時に「期待を裏切り続けることで期待に応えてきた」というビートルズらしさの死=解散でもあったわけです。)
AKBでいうならば、「後付されたAKB48らしさ」を演じざるを得なくなったときが、「AKBの創造性の行き詰まり」、つまり事実上の「AKBらしさの死」になると思います。
AKBブランド価値の創造と定着⇔AKBらしさへの期待を壊し続けることで本質的なAKBらしさを保ち、期待に応え続ける自由な創造性、この二つが相互機能し続けければ、多少の波があってもAKBは本質的には死なないのですが。