進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

浅田真央の涙

2010-02-26 19:35:10 | TV・書籍
神の配剤の続き。

浅田選手の演技直後のインタビューは言葉を絶するものがあった。

スポーツのショービジネス化によって見えなくなっていた競技者の生の姿。

一瞬目を背けたくなった。

私は彼女の背負ってきたものも、向き合ってきたものも、彼女の背景を知らない。

だけど、言葉で表現できない、なにかすごいもの伝わってきた。

こんなインパクトの強い涙をいまだかつて見たことがあっただろうか。

メディアがこれまで向き合ってこなかった本物がTV画面から伝わってきた気がする。

私にとって間違いなくバンクーバーオリンピックのハイライトである。

たぶん、バンクーバーオリンピックは残らないが、浅田のあの姿をずっと忘れないだろう。

スポーツと国家 Part2

2010-02-26 15:25:35 | 社会
なんだか今日は数を稼ぐために質を無視しているような感じだ・・
前回のエントリ(スポーツと国家)で、私が「スポーツを擁護している」と誤解されている方がいるようなので補足する。
どうやら「税金によるスポーツに対する投資」に批判的な人が結構いるようだ。
費用対効果の観点からみて、ナンセンスかもしれないと。
そう考える人は「投資」について視野を広げると、私の言うことも理解できるだろう。

私にはエンターテイメントを楽しみたい欲求はあるが、「子供達に夢を。」なんて文化論を振りかざすつもりは毛頭ないし、「国威発揚」なんてものを考えるのも馬鹿げていると思っている。
ただ、単純にスポーツを「投資」として見たときの社会的価値を考えれば「スポーツにもっと投資すべきだ。ただし額は要検討。」ということを言っている。

スポーツにどのような投資効果があるか考える。
他に思いつくものあったらどんどん教えてください。

スポーツ用品ビジネス
スポーツ観戦ビジネス
スポーツ施設ビジネス
スポーツ育成ビジネス
スポーツ観光ビジネス
広告キャラクター効果による他ビジネス支援効果
体力の健全的消費による犯罪率の低下
社会性の教育効果
職の多様性の宣伝効果
家族親交効果
地域コミュニティ親交効果
組織親交効果
健康促進効果による医療費削減効果と消費活発化効果
通信・映像機器への消費活発化効果
etc...

1人スーパースターが生まれれば、その周りに大きな経済圏ができるし、スポーツ振興による経済の活発化もあるだろう。
全部合わせれば、投入している税金を遥かに超える効果が得られるのではないか。

日本には「投資」という発想が根本的に欠けているし、「投資対効果」の「効果」の部分が狭すぎる。
なぜかといえば、武士道が「合理」を嫌うからである。
日本の美徳は利益を嫌う。
「投資」は「効果」を期待する野暮なものなのだ。
だが、その「効果」をどう定義するかによって、日本人はこの壁を乗越えることができるだろう。
「効果」=「利益」が金銭的なものだけとは限らない。
(結果的に金銭的なものになるかもしれないが)

神の配剤

2010-02-26 15:07:50 | スピリチュアル
にしても、残念なのは結果よりも、浅田選手が満足する演技ができなかったことだ。
悔しさが滲み出ていた。
キムヨナ、ロシェットの2人が明るい笑顔だったのに対し、浅田だけが暗かった。

彼女はその1点に向かって人生の全てをかけてきた。
オリンピックで金メダルがとれるのは4年に1人しかいないから、皆が目指したとしても限られた人しか目的を達することができない。
それでも彼女は金メダルを目指した。
金メダルをとれる位置にいたからだ。
しかし、獲得できるはずだった、そう思った金メダルを手に入れることはできなかった。
相手は自分よりも前にいた。
本当は自分が前にいるはずだったのに。
何が間違っていたのか、どこでボタンを付け間違ったのか。
それが自分の実力なのか、それとも何かが悪かったのか。
その答えは彼女にはわからない。
彼女はやれることをやってきたからだ。
彼女は何も悪くない。
相手が自分よりも早く走っただけだ。
しかし、彼女は自分を責めるだろう。

オリンピックは終わったが、人生はこれからも続く。
我々は今を生きることしかできないが、だが人生には今しかないわけではない。
今は過去になり、未来は今になる。
このプロセスの中で今だった過去は、過去になっても今を支えてくれる。
これから今になる未来は、我々に新しい今をもたらしてくれる。
我々がいるのは常に今だが、我々とともに過去もあり、また未来もあるのだ。
人生は常に過去・現在・未来とともにある。
時間によって人生のある側面を切り出せば、ある瞬間の出来事は結果になるが、過去・現在・未来とともにあれば、因果は人生に溶け込む。

我々には、いつでも新しい今を生きるチャンスがある。
どういう時間軸で人生を考えるかだけだ。

私は少しも悲観していない。

組織論的に考えれば、案外納得いく話

2010-02-26 11:38:10 | ビジネス
トヨタ自動車がはまった本当の罠(宋文洲)
http://www.soubunshu.com/article/141926469.html

いつも宋文洲氏はいいこというな~。
いい意味で視点がジャパナイズされていないというかなんというか。
("中国人的な"というと語弊があるので言い方を変えて)
非日本人的な空気読まない感が、いい味を出していて、いつも傾聴に値する意見が多い。

日本的な「空気を読む」というのは、ちょっと意地悪な言い方をすると「推測で結論を先回りする」ということだ。
メリットとしては、議論を要せず場の雰囲気で結論が出せる。
無駄な抵抗に合わずに済むし、無駄な決まり事も定める必要がないので、キャッチアップが必要なスピードが求められる場面では強い。

その代わり、結論が正しいかどうかは、たいして検証されないため、誤った方向へ進む可能性がある。
議論しなくても答えがわかるような問題への対応は得意だが、答えのない問題への対処には向かない。
太平洋戦争に見られたように、トンデモな方向へ進んでも、それを止めることは難しい。

非日本的な人は、日本的な人がいちいち取り合わない点について問題視することが多い。
「場違い」や「空気が読めない」と批難されることもあるが、実は日本的な人にとって非常に有用である。
ろくな議論もせずに「既に答えが出ている」ものと思って思考停止している部分について、はっと気づかされるからである。
その代わり、既存のうまく回っている仕組みにまで、いちいち指摘される煩わしさがついて回る。

ありきたりで、かつ言うだけなら簡単だが、日本的組織は、ある一定の割合の非日本的なものを取り入れることが重要である。
組織論的にいえば、組織は環境へ適応し切ってしまうと、環境変化への適応能力を失うと同意なので、一定の割合の非適応領域を作っておくことが大変に重要なのである。

今回のリコールの件で、コーポレートガバナンスの観点から、トヨタは取締役会に社外取締役や非日本的人を入れろと注文を付けられているが、組織論的な文脈で読めば、案外トヨタのためにも納得のいく話なのである。

専門家Blogが熱くなってきた

2010-02-26 10:06:10 | 経済
最近「インフレ目標」議論が盛り上がっていたが、東大の岩本康志氏が熱い。
菅直人氏の動きに危機感を感じたのか、連日Blogが更新されている。
ここ1年間ぐらいで日本でも専門家のBlogが注目されるようになってきた。
これは市民にとって非常に有益な傾向だ。

「インフレ目標」をめぐるネット議論の陥穽
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32325439.html

【感想】『日本経済復活 一番かんたんな方法』
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32335301.html

「将来のインフレにコミットできるか」についての学界の見方
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32344744.html

「インフレ目標」は中央銀行のコミュニケーション手段
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32366843.html

私の印象としても、高橋洋一氏はもっと論理的に突っ込んでくると思ったのに、案外さらっとしていて驚いた。
あれほどバーナンキ(現FRB議長)仕込の世界標準のインフレ目標を声高に叫んでおいて、ちょっと引き気味なのが謎だが、何事も否定はしやすいが肯定はし難いということなのだろう。

(全然話が変わるが)
そういう意味では、今の政治と官僚の住み分けのままで、官僚に結果責任を求めたらやってられなくなるんじゃないのか。
政策の実行結果の評価はすべきだが、その結果責任を官僚側でとれとするから、官僚組織に無謬性を確保するための無責任体制が構築されるのだ。

インテリジェンスは官僚機構にあるべきだが、意思決定は政治の世界でやるようにして、責任分担を明確にしないとリスクをとる政策は実行されない。
これはいつもいう小沢改革の一つなのであるが、この理念は今もって理解されていないようだ。

若い世代のコミュニケーションの変化

2010-02-25 13:01:15 | 社会
昨日「宗教的大変革の時代」というエントリを書いたが、これまた社会学者による素晴らしいエントリを見つけた。
社会学というと知的教養にしかならなかったけど、今後は制度設計に関して積極的に関わるようになるのかもしれない。
「経済」からの要請で「社会」を規定するのか、「社会」からの要請で「経済」を規定するのか、この攻防は面白いのではなかろうか。
オープン・サイエンスの時代、学際的に考えれば「社会経済」なるジャンルが出来ようものだが、統合されるのはまだまだ先なのかもしれない。

ブログのエントリとしては少し長いですが、若年世代の変化について網羅的に述べられており、勉強になるので一読することをおススメする。
(本を買って読んだ方が早いのかな・・まぁ無料だから)
単純にまとめてみよう。(途中息切れ・・)
基本認識として当Blogのものとほとんど違いがないと思われる。
(もちろん程度はLink先がいくつも上)

若い世代のコミュニケーション ―その変化の背景そして処方箋― (宮台真司 )
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=844


社会学の問題設定は、心理学との違いで言うと分かりやすいでしょう。心理学のようにミクロな問題をミクロな要因ので説明するのではなく、社会学はミクロな要因をマクロな要因から説き起こして説明する

1 動機不可解な少年犯罪の激増


まず現実として、少年犯罪はピークの1/3~1/5に減少している。
ただ、動機としてよく理解できない事件が増加していると認知されている。
しかし、「精神障害」と「人格障害」とは分けて考える必要がある。
前者は「心の病気」で、後者は「病気ではないけれど、感情の働きが普通でない人たち」。
つまり、「病気が悪いのか、性格が悪いのか」という区別があって、性格が悪い場合には、普通に罰せられ、「感情の働きが普通でない」「感情プログラムのインストールに失敗した」と表現される。
しかし、最近は何が標準的な「感情プログラム」なのか分からなくなっている。
社会成員が互いの感情を見通しにくくなり、勢い犯罪の多くは動機不可解になり、社会成員に不安が広がっている。

感情の働きは習得的で、何が標準的な感情プログラムなのかを先験的には言えない。
感情の働きの正しさや適切さを判断する基準は社会的なものだからである。
感情プログラムはどういうふうにインストールされるのか。
普通の人は教育だと考える。
親や教員が何を教えるかが、子どもにインストールされる感情プログラムを決めるのだと考えがち。
その証拠に、道徳教育や、感情教育などの必要性が、声高に叫ばれている。
しかし、社会学者の大半は、そうした考えかたについて懐疑的。
なぜなら、「教育意図の失敗による社会化の成功」があるから。

社会学では、教育意図の失敗は、社会化つまり「社会がまともな感情をインストールする働き」の障害にならないと考える。
むしろ「教育意図の成功を以て教育の成功だと見做す」ような甘えを警めるのが、社会学的思考。
家庭も学校も通過点で、学校や家庭で「いい子」であることが、社会をちゃんと生きられることを保障するわけがない。

社会が複雑になると、いろんな人がいるので、共通の前提を当てにしにくくなる。
すると、社会成員たちは、共通の価値観を内蔵していることよりも、監視と処罰をちゃんと施すことを、頼りにするようになる。
社会学では「価値コミットメントからアーキテクチャ(しくみ)へ」といい、そういう方向に社会が進むほど、「ちゃんとした価値観を持った人から社会を構成しなければならない」という考え方が廃れる。

背景には、社会的流動性の増大がある。
グローバル化すなわち資本移動自由化が進み、金も人も国境を越えて移動するのが当たり前になれば、かつてのように共通前提をベースにして社会を回すのは難しくなる。
だから、放っておけば、この流れは不可避的である。

動機不可解な犯罪が増えてきたのは、単に性格異常や人格障害が増えたという話でなく、社会的流動性の増大で、何が標準的な感情プログラムなのかが自明でなくなって、互いの動機が見通しがたくなった結果だ。


2 解離化・鬱化する若者の激増


解離化とは、一人の人間の中に複数の人格が存在して、記憶の共有がない状態で、「キレる」はこれに近い。
 「キレる」とは、感情の継続性の中で喜怒哀楽の起伏があるというより、ばちっとキレた瞬間の前と後でリアリティーが違ってしまうので、キレた状態から回復すると「何で俺はあんなことをやってしまったのか」となるケースである。
解離化は過剰流動的な社会への適応で、この社会は解離を奨励する社会である。

かつては「自己実現する」がキーワードだったが、最近は「KYを回避する」つまり「場に応じて適切な振る舞いをする」ことが推奨される。
過剰流動的環境は、人格システムに巨大な情報処理負荷をかけます。この負荷を、単一のCPUで処理するより、複数のCPUに処理を分散して緩やかに結合するほうが、情報処理能力があがる。

「古典的な鬱」は自罰傾向が強いのに対し、「軽症鬱病」は他罰傾向が強かったり、他罰傾向と自罰傾向を頻繁に交替します。自分を責めたと思うと他人を攻撃する人たちが増えている。
「古典的な鬱」の場合、従来「自分について理想が高いから、理想の自分から自分が離れるのが怖くて、人とコミュニケーションできなくなったり表に出られくなるのだ」というふうに言われてきたが、「軽症鬱病」にそうした傾向はなく、非社交的どころか、むしろ社交的な若い人たちが「軽症鬱病」にかかりやすい。
非常に社交的な人間が、ある時点を境に突然人前に出てこられなくなる。

一般的に過剰流動的社会では、関係性の正当性を弁証し難くなります。「私でなければいけない理由」がどんどん希薄化する。
それゆえに、社交的な人ほど、逆説的な状況に引き裂かれて、退却傾向に陥りやすくなると考えられる。
過剰流動的な社会は、関係性をつまみ食いするようになるので、人格の「まともさ」を要求しなくなる。
むしろ、場面に応じて最も合理的な振る舞いをすればそれでOK。
自分や相手が何者なのかは問われない。
「まともに生きよう」よりも「うまく生きよう」に傾くのが合理的。


3 関係性が脱落した若者
 (1)「ケータイ小説的なもの」の拡がり


自己同一的な主体として完成されるという「自己形成」の観念は廃れた。
「それってある」「気持ちはわかる」みたいなものだけで、モザイク的に世界が構成されていく方向。


 (2)「彼女がいても非モテ」の拡がり


疑心暗鬼が生じて自分も二股三股の保険をかけることになりがちで、「たこ足化の悪循環」が回る。
悪循環の中で、些細なトラブルがあるたびにホッピングし、交際した相手の数が増えても、関係の履歴が積み重ならない。


 (3)「援交第一世代」から「第二・第三世代」へ


携帯代を稼ぐ必要で援助交際をするケースが増えた。
それまで常習援交が多かったのが、臨時援交が増えた。
昔のように貧乏な家の子がやっているのとは、全くイメージが違う。
彼氏や親に迷惑をかけたくないというコミュニケーション的な理由。


 (4)「プロフサイト」がもたらす疑心暗鬼


ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)やプロフサイトを含めて、日記を不特定多数に公開するような「疑似プライベート空間」が拡がったことが、昔は親しくあり得た人間関係に、疑心暗鬼を持ち込んでいる。
オンラインでダダ漏れになることが恐くて、オフラインで喋りたいことが喋れなくなってしまう。
これが「プロフサイトがもたらす疑心暗鬼」の典型面。

全体が示すのは、関係性を築くための前提が空洞化している現実。
日本人は、相手と前提を共有していると思えないとコミュニケーションを始められない。
関係性の空洞化の背後にあるのは、共通前提の消滅です。共通前提が消滅したので、関係性を深められない。
代わりに表層的なプロトコル、つまりコミュニケーション手順の形式ばかりが発達。


背景
1 理論編:〈システム〉全域化による〈生活世界〉空洞化


マックス・ウェーバーの言葉を使えば、物事を計算可能にする手続が一般化した領域が〈システム〉で、例えば役割&マニュアルが支配的になった領域。
それに対し、残余の領域が〈生活世界〉で、役割&マニュアルではなく、善意&自発性が支配的であるような行動領域。
〈システム〉と〈生活世界〉の決定的違いは、簡単に言えば、〈システム〉は匿名的で、入替可能で、過剰流動的であるのに対し、〈生活世界〉は記名的で、入替不可能で、流動性が低い。
役割をマニュアルどおり演じられれば誰でもかまわないのが〈システム〉で、グローバル化に適しているので一挙に全世界化した。

ウェーバーは〈生活世界〉が〈システム〉に置き換えられていく動きのことを「近代化」ないし「合理化」と呼んだ。。
この意味での「近代化」が進むと、いずれは必ず「モダンからポストモダンへの変化」という逆説が起こる。

どんな逆説か。
〈生活世界〉が〈システム〉に置き換わっていくプロセスの当初においては、〈生活世界〉を生きる「我々」がより便利で豊かになるための適宜(手段)として〈システム〉を使うのだと、自己理解できる。
ところが、〈システム〉がある程度以上に広がって〈生活世界〉が空洞化すると、もはや「我々」が〈システム〉を使っているとは言えなくなり、「我々」や〈生活世界〉というイメージすら〈システム〉の構築物だと理解する他なくなります。
そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が壊れる。

従来、共同体の自立的な相互扶助によってまかなわれていた便益が、市場サービスや行政サービスから調達されるようになる。
公共性の観念が一変してしまうことがポイント。
「自分たちでできることは自分たちでやる(社会でできることは社会でやる)、それができない場合に国家を呼び出す」という図式が消える。

プライベート(私的・個人的)な領域がガチンコで国家に向き合うようになる。
心細くなった個人は、相互扶助を頼らず、直ちに国家の呼出線を使うようになる。

従来は「知らない人でも信頼できる」という前提だったのが、「知らない人は信頼できない」という前提に変わる。
その結果、市場ではセキュリティ産業が隆盛になり、行政は監視カメラ化や警察官増員の方向に動くようになる。
「不安のマーケティング」と「不安のポリティクス」が社会を覆い、社会のどこのかしこも、不安をベースにしたポピュリズム(人気主義)が支配するようになる。

また、〈生活世界〉が空洞化して〈システム〉が全域化することは、従来の人間関係の距離空間が変わることを意味する。
ひとつ屋根の下の家族よりも、出会い系でやりとりしている知らないおじさんの方が、よほど親しいという現象が起きる。

理論的には〈生活世界〉が空洞化して、それを〈システム〉が置き換える動きが生じ、それゆえに社会イメージが変わり、結果として、社会の中で我々がなすべきことのイメージや、国家がなすべきことについてのイメージが変わった。


2 歴史編:二段階の郊外化による〈生活世界〉空洞化


第一次郊外化=団地化=[地域空洞化×家族内閉化]と、第二次郊外化=ニュータウン化=[家族空洞化×市場化&行政化(第四空間化)]の、二段階のステップで、1985年に、それまであり得なかった振舞いが可能になる空間が突如出現した。

社会がそういう変化をしてきたことを主題的に議論したことがあったか。
そういう変化がどういう良いことと悪いことをもたらしたのか。
利害得失表をきちんと議論していない。
それが処方箋に絡む重要な問題。


処方箋


日本は欧州的方向と米国的方向のどちらを選ぶのか。実際のところ、米国的な処方箋に思考停止的に追随した結果、米国社会とは文脈が全く違うがゆえに、米国では起こらなかったような混乱が日本で起こるようになった。


1 欧州的処方箋
2 アメリカ的処方箋

スポーツと国家

2010-02-24 17:11:49 | 社会
題名のわりにテキトーです。

浅田真央はよかったが、キムヨナがもっとよかった。
オンタイムで見ていたが、素人目にもはキムヨナの方が完成度が高い気がした。
解説者によれば出来栄えの差が出たということだそうだ。(本当のところは知らないが)
両者ともこれまでない選手なのだと思うが、Jr.の後に浅田の方が上手だったことを考えると、その後逆転されたことになる。
コーチやスタッフの差が指摘されている。

よく、諸外国が国策として選手強化に乗り出しているのに、日本は取り組みが足りないと言われるが、これは結論を急ぎすぎなのではないか。
金メダルを取ることにこだわって国家の介入を無批判に求めるのは危険ではないだろうか。
スポーツ予算は事業仕分けで削減対象になりやすそうなものだが、政治家は陳情されれば受けざるを得ない雰囲気がある。
スポーツで国威発揚を促すのはなんとも全体主義的な気がする。
国民のエンターテイメントとしてスポーツ予算つけるのも・・という気もする。

ただ、職の多様性があった方が日本社会の多様性も出ていいと思う。
個性を開花する場面も増えて、そこから派生的に生まれる経済も文化も元気もあり、日本を活性化させるためにはいいだろう。
そのためのコストとベネフィットのバランスがどうなのか、というのはさっぱりわからない。
どの程度の多様性があればいいのかもわからないし、どの程度のコストが適切なのかもわからない。

とにかくフリーが楽しみだ。

話が急激に変わるが、浅田真央選手の姉の浅田舞さんってあんなにキレイだったっけ?
(フジテレビ見てた人じゃないとわからないだろうけど)

[追記]
「スポーツ後進国」の元ネタは↓のようです。
私も流行に乗ろうと噂話に飛びつくのはマスコミ体質と変わらぬようです(笑)

スポーツ後進国 日本(清水宏保)
http://www.asahi.com/olympics/columns/from_vancouver/TKY201002230298.html

宗教的大変革の時代

2010-02-24 12:14:54 | 社会
これは素晴らしい内容だ。
当Blogで繰り返している日本に輸入された「個人」と「社会」についての話がもっと賢くまとめられている。
是非リンクを辿って原文をお読み頂きたい。

システム間移行と宗教戦争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51381858.html
(強調は私によるもの)


いま日本の直面している変化は、人々が自覚している以上に大きなものである。それは伝統的な共同体から日本人が継承した長期的関係によるガバナンスから、近代西欧に特有の契約社会への移行だ。

...11世紀にカトリック教会によって西欧文化圏が統合されて普遍的な教会法の支配が成立したことが、近代社会の決定的な要因だった...

...宗教改革によって自律的な個人の契約(covenant)による組織としての株式会社ができたことが、西欧の成功の原因だったと結論している。他方、ファーガソンもいうように、株式によってリスクを分散する契約としての株式会社も重要なイノベーションだった。

近世の欧州で続いた宗教戦争の原因は、経済システムが契約ベースに変わったのに対して、カトリック圏の伝統的文化が適応できず、それが宗派間の争いとして表面化したことにあった。著者が強調するのは、経済的な土台が法的な上部構造を規定するというマルクス以来の図式を逆転し、宗教的文化が法的な規範の基礎となり、それが経済システムの構造を決めるということだ。

ゲーム理論的に見ると、商圏が拡大するにつれてグライフの描いたマグレブ商人(長期的関係)からジェノヴァ商人(契約)への覇権の移行が起こったわけだが、「下部構造」としての宗教が変わらないまま「上部構造」としての経済だけが変化すると社会全体にひずみが生じ、それがイデオロギー対立を生み出す

契約ベースの社会は、生まれたときから快適なものではなかった。それは人々を不断の競争にさらし、貧富の格差を広げ、伝統的な社会を破壊する。それを神の秩序に反するものとして攻撃したカトリック教会のイデオロギーは、今日「市場原理主義」を攻撃して貧しい人々に施しを与えようとする民主党に似ている

しかし経済圏がグローバルに広がるときは、両者の効率の圧倒的な差によって、このシステム間移行は避けられない。それはかつては100年以上にわたる宗教戦争を引き起こしたぐらい大きな変化であり、平和裡に進むとは限らない。おそらく日本でも、もっとも大きな変化はこれから来るだろう。


勝手に当Blog流に翻訳する。

法的な規範の基礎は、「それが正しいのか、悪いのか」という道徳や倫理といった宗教的な文化によって決まる。
(何を取り締まるべきか、何を禁止すべきか、何を推奨すべきかといったことは宗教的な要素によって決まる。)

経済は、その基本的にその法体系の枠組みの中で行われるため、「宗教的文化が法的な規範の基礎となり、それが経済システムの構造を決める」といっていい。

しかし、知性というのは飽くことを許さないし、知的向上を目指さずにはいられない。
「こうすればよりうまくいく。」という改善努力が積み重なると、ある時、既存の枠組みをはみ出るイノベーションが生まれる。
上部構造である経済が、その下部構造である法体系をはみ出る現象が起きるが、しかし実利として経済が勝れば、経済は下部構造である法体系にのみ規定されない道を歩む。

こうなると「下部構造の宗教的文化が変わらないまま、上部構造の経済だけが変化すると社会全体にひずみが生じ、それがイデオロギー対立を生み出す」という状況が生まれる。
これまで「正しい」とされてきた枠組みを守ろうとする人々と、枠組みをはみ出して実利を得ようとする人々の間で思想闘争が起きるのである。
それは、既存の「正しさ」と新しい「正しさ」との闘いなのであるから、最終的に下部構造の法体系の基となっている宗教的文化に対する攻防なのである。
これは宗教的戦争の基礎となる。

当Blogで繰返し述べてきたように、明治維新後、特に戦後に日本に入ってきた「個人」と「社会」をベースとした経済は、今まさに日本の宗教的文化に対して闘いを挑んでいる状態ともいえる。
「契約(個人)ベースの社会は快適なものではない。人々を不断の競争にさらし、貧富の差を広げ、伝統的なコミュニティを破壊する」

この闘いの行く末は自明ではないが「しかし、契約(個人)ベースの効率性が圧倒的に高いために、この流れは避けられない。」のだけは確かである。
鎖国でもしない限り、否応なしに、変革を迫られるのだけは間違いない。

当Blog流にいえば、混血による融合は現在進行形の構造変化なのである。

「これは、過去に西欧においては宗教戦争を引き起こしたぐらいの大きな変化であり、日本でも同様の変化が起きるであろう」ということだ。

「福祉経済」は虚像か?

2010-02-23 12:35:24 | 経済
この知見は前提として持っておきたい。
メモ的にエントリ化。

民主党の「福祉経済」は効果が期待できるか? (鈴木亘)
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/31374353.html

現在、民主党政権は、多額の財政赤字を出してまで実施している社会保障費拡大を、景気回復策や中長期的な「成長戦略」とまで位置づけており、最近は「福祉経済」なる造語まで登場している。

「大きな財政赤字をどうやって正当化するのか」という問いに対する政権与党の説明はだいたい↑な感じである。

経済学的に見た場合、これは単なる需要の先食いであり、成長戦略などでは到底ないし、ここまで政府債務が拡大すると、景気回復効果も基本的には怪しい。

↑経済学的にみると有り得ない説明なのだという。

こうした中、社会保障費膨張の効果を正当化する経済学的根拠がもしあるとすれば、その有力な候補の一つは、「安心回復によって、日本の高齢者が抱える多額の過剰貯蓄が消費に回る」ということである。実際、このロジックは、民主党の成長戦略ペーパーにも登場しているし、民主党の各閣僚の最近の発言にも現れ始めている。

↑この意見は、いろんなところで出ている。
が、実はこれ、このままでは妄想で終わってしまいそうなのだ。

日本では2004年時点で、1429.1兆円の家計金融資産があったが、その過半である785.2兆円を60歳以上の高齢者が保有している。家計の純金融資産ベース(456.9兆円)では、その約8割(359.1兆円)が60歳以上の高齢者の保有である。

↑日本の個人金融資産のほとんどを高齢者が保有しているのは周知の通りだ。

政府は、高齢者が金融資産を多く蓄えている原因を、公的年金を中心とした社会保障制度への不安があるためと分析しており、社会保障費充実や政策的な誘導によって過剰貯蓄が取り崩され、消費主導による景気回復や中長期的成長が起きることを期待しているのである。

↑「その高齢者のお金を市場に出すことができればいいのでは?」というほど問題は簡単ではない。

このアイディアと経済効果の試算は、2008年11月に政府系のシンクタンクであるNIRA(総合研究開発機構)が実施した『家計に眠る「過剰貯蓄」― 国民生活の質の向上には「貯蓄から消費へ」』(http://www.nira.or.jp/pdf/0804report.pdf)という報告書にまとめられており・・・

[中略]

報告書では、総じて100兆円程度の過剰貯蓄があり、それを高齢者が消費に回すような政策誘導を行なうべきとしている。

ただ、この100兆円なり179兆円なりという金額は、社会保障に対する不安だけではなく、遺産や様々な貯蓄動機を全て含んだ金額であるから、社会保障費充実によって取り崩される分はその一部である。

[中略]

社会保障に対する不安で高齢者がどれほど資産を蓄えているのか、実はまだ全く不明なのである。

↑つまるところ、高齢者が保有する個人金融資産には100兆円程度の余剰があると思われるが、社会保障の充実で、その中からどの程度市場に出てくるかは誰にもわかっていない状況ということ。

また、民主党政権が期待するように、社会保障費の拡大や制度改革によって、果たして高齢者の予備的貯蓄が取り崩され、消費が拡大するかどうかは全く別の問題である

↑その通り。理念と現実を分けて考えようということだな。

日本の高齢者の危険回避度は非常に高いため、多少の社会保障制度改革程度では消費・貯蓄行動はあまり変化しない可能性がある。

↑少なくてもこれまでそうだった。今後どうかはわからないが、楽観はできない。

社会保障費拡大に伴う増税や赤字国債増発で、将来の所得変動に対するリスクが返って高まり、予備的貯蓄が減らない可能性もある。

↑これは多いに有り得る。

日本の場合、年金を初めとする社会保障制度は全て賦課方式で運営されているため、現在の社会保障費拡大は、若者世代のより大きな負担増を意味する。このため、高齢者の予備的貯蓄が仮に減少したとしても、若者世代の合理的貯蓄、予備的貯蓄は確実に増し、一定程度の相殺が起こるであろう。

↑若者世代はもはや年金などに期待しておらぬであろうが、とりあえず国民年金の未納率が高いために、強制徴収されている厚生年金に負担を負わせようとしているのに個人的に腹が立つ。

↓それよりも、次の内容が重要。

高齢者が仮に予備的貯蓄を取り崩して消費を拡大させたとしても、投資や政府支出などの他の需要項目がクラウドアウトされない保障はない。特に現在、日本政府の債務残高は900兆円程度に迫り、GDPの2倍近くとなっているが、政府が発行する国債の大半は、国内の家計金融資産として国内で消化され、非常な低金利が保たれている。しかしながら、予備的貯蓄取り崩しにより、家計金融資産が減少すると、国債市場の受給が変化して長期金利が高まり、金利上昇が設備投資、住宅投資に影響してクラウドアウトが起きる可能性もある。

さらに、そうなると政府の国債の利払い費が大きく増加し、財政規律を意識せざるを得ないために、さらなる政府支出の抑制や、税負担を高めるといった政策反応が起きて、景気の足を引っ張るであろう。

↑膨大な債務残高が許されるのは、個人金融資産があるからなわけで、個人金融資産が取り崩されたら国債の信用が揺るぎかねないわけで、すると金利が上昇する。
ゆえに、個人金融資産をあてにした成長戦略というのはナンセンスだと。
人生にフリーランチはないように国家にもフリーランチはない。ということか。
トレードオフから逃れることはできない・・

こうして考えてみると、わが国の高齢者の予備的貯蓄が例えある程度存在したとしても、民主党政権がその取り崩しに安易な期待を掛けることは禁物であるといえる。つまり、「福祉経済」の理論的根拠は意外に希薄なのである

それ以外の「福祉経済」の理論的背景は、再分配による低所得者の消費刺激や、政策的に抑制されている介護・保育分野の潜在的需要開放であるが、それがあまり効果が大きくないことや、あまり期待できない

たぶん、経済議論をするときの「安心」というのは、アカロフ=シラーのアニマルスピリッツに出てくる「安心乗数」の方に近い。
それは、ストックを活用するという意味ではなくて、縮こまって活動しなくなったものを活発化するということだ。

最近、聞くところによるとスウェーデンなどの北欧諸国の高福祉国家が行き詰まりを見せているらしい。
支出に見合うだけの収入を確保する難しさとともに、「私」から「公」へのアウトソースによる「私」コミュニティの破壊のような話を聞く。
北欧諸国の制度の持続可能性があるや否やについて興味があるが、なんにせよ未だ理想郷は地球に存在せぬことは自覚しておきたい。
「こうすれば全てがうまくいく」かのような話題にだけは乗るまいと心しよう。と自分に言い聞かせる。

がんばれトヨタ!

2010-02-19 16:22:13 | 経済
おちゃらけならぬテキトーです。

トヨタの社長が米国議会の公聴会に出席することになったようだ。
最初、米国トヨタの社長が出席するということで批判されたが、それを受けてのことなのか。

アメリカ側からみれば、なぜ社長が出てこないのか不思議であったであろう。
経営責任者として説明責任を果たすのがCEOの役割だからだ。

だが、しかし。

残念ながら日本企業でその常識は通じない。
豊田社長が出てこないのは、社長を守るためというのは2次的要因で、1次には社長が説明できないからだろう。
とにかくトヨタの場合、今の社長はリストラをするための名目社長だけに危うい。
社長を公聴会に呼ぶことにどれだけ意味があるのかさえ疑わしい。


ガバナンス(Chikirin)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100218

営業のことは米国社長に、技術的なことは技術担当役員に聞くしかあるまい。
ただ、彼では経営としてどうすべきかという話ができない。
当然、経営の最終意志決定者であるCEOを呼べという話になる。
だが、江戸時代から合議制を尊重する日本的経営において、意志決定者は定かではない。
会議の空気で決まってしまう案件もあるのだ。

では、どうするべきか。

アメリカ経営的発想では、答えがない。
実質的な意志決定者がいないのだから。
この話は江戸末期の黒船の時も同じ。
アメリカ側は国の意志決定者との会談を望むが、日本にはそれがない。
だから話ができない。
経営の透明性などというものは初めからない。
透明性がないことが強みであったのだから、当然だ。

グローバル化の波に乗るために、アメリカン・スタンダードに乗らなければならないかはよくわからない。
それでうまくいくなら経営の透明性なんて必要ない。
ただ、やはり難しいのかもしれないが。

とにかく、個人的に望むのは、豊田社長に謝罪にだけ行くのだけはやめて欲しいと思っている。
まさか有り得ないだろうが、謝罪して誤魔化すのだけはやめてほしい。
日本だとまず謝罪会見が求められるが、今回の場合、相手が求めているのは「説明」である。
謝罪したところでプラスにもマイナスにもならないだろう。
しっかりと、状況説明をガツンっとやってきてほしい。
媚びる必要は全くない。

いかんせん、トヨタは米国内でリストラを行っているのが痛い。
生産拠点のある州知事などはトヨタ擁護を訴えているが、票目当てのポピュリスト政治家に辛らつな言葉を投げ捨てられる可能性もある。
米国内において経済的制裁を避けるためには、多少高くついても融和政策しかないように思うが、どうだろう。
鳩山政権の存在が余計に足かせになっていて、2重に苦しい。
日本代表として叩かれていると思えば、トヨタの存在の大きさもわかるというものだが・・。

「国母問題」の本質 私的日本論の側からの考察

2010-02-18 16:38:48 | 社会
ttosiさんはじめ、皆様からのコメントに期待しています。

スノーボードの国母選手の問題で書きたいことは山ほどあったのだが、既に見識ある(?)人々のブログで取上げられていたので、あえて静観していた。
ところが、当Blogのベテラン・コメンテーターことttosiさんに意見を求められたので黙っているわけにはいかない。
できるだけ他のブログで取上げられた内容には触れずに、違った視点から個人的見解を述べることにする。

基本的に下記Blogsの内容に同意しているので、参考にしてほしい。

国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)
(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/02/post-c213.html

一億総ヤクザ(深町秋生)
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100215

「品格」は他人叩き大好き無能者の最後のよりどころ(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266252634

ルールと価値観(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-716.php

さて、個人的見解を述べることにしよう。

私は、今回の問題を、最近の当Blogの流行でもある「日本論ネタ」として語りたいと思う。
(ということで、相変わらず抽象論に終始します。)

まず、「なぜ国母選手は批判されるのか?」という疑問にお答えしたい。

それは、「和を乱す人物」と判断されたからである。
「品格」というのは方便で、実際は和を乱すやつが嫌いなのである。
なぜ和を乱すやつが嫌いなのか?
それは日本人が長らく「和を尊ぶことで生きてこれた」という厳然たる現実を経験的に理解しているからである。

(いつもの繰返しで申し訳ないが)
日本人は、古来より生き残るために和を尊んできた。
しかし、和を尊ぶということは、「個人」よりも「場」を重要視するということである。
「個人」と「個人」との境界線を曖昧にし、「場」に溶け込ませるのだ。
そこに「個人」は独立して存在するわけではなく、「場」との関係性の中でのみ存在できる。
それは、時として「個人」としての人間性を否定することにも繋がる。
西欧諸国にみられる「神の前で平等で自由な個人」という発想が日本にはない。
「個人」が存在しないのだ。
だから「個人」を前提とした仕組みや風習が日本にはなかった。
あるのは、「場」を存続させるためのものだけであった。

しかし、日本人が「和を尊ぶ」のは、それが最善と信じたからではない。
そうしなければ生き残れなかったという、限られた選択肢の中での苦渋の決断の積み重ねであった。
それが人間性を開花させるわけでも、生まれながらの幸福を意味するわけでもなかった。
だから、日本には「はかなさの美学」や「死の美学」、「滅びの美学」が存在する。
長い間、そういった環境に耐え忍ばなければならなかった日本人が生み出した知恵だ。
この意識は、「御恩と奉公」、「エコノミック・アニマル」、「村八分」、「一億層中流」、「出る杭は打たれる」などの日本的文化の底辺にある。
「場」の親密性を共有することが最大の喜びである必要があったから、それが素晴らしいと礼賛する伝統と、そうではないものを排斥する生活習慣が生まれたのである。

日本人が和を尊び、そこから逸脱するのを許さない理由は以上である。
その概念を共有することを求めるのは、品格原理主義者だからではない。
それが日本人であるという彼らなりの信念が埋め込まれているからだ。
彼らは、日本人に対してどこまでいっても「日本人的であれ」と主張しているのである。
バンクーバー・オリンピックに行っても「日本人であれ」、モンゴル人が相撲をやるにも「日本人であれ」、ビジネスやるにも「日本人であれ」だ。

オリンピックでのメダルや結果や、競技が選手に与える影響うんぬんよりも、まず「日本人であれ」だ。
税金やら礼儀やら品格なんてものは建前に過ぎない。


今後説明するのが面倒なので「聖徳太子の呪い」とでも言おうかな。
別に聖徳太子のせいじゃないけれど。。

では、次に「なぜ国母問題で意見が対立しているのか?」について説明しよう。
(当Blogを長らくご覧頂いている読者様には、結論が見えているだろうが・・)

国母選手が批判される理由は「日本人的ではなかったから」だということがわかったが、主にネット上(有名ブログ等)では、国母擁護論(というより国母批判派への批判)が多い。
これはおかしい。
国母選手は「日本人的ではない」から批判されているのに、同じ日本人が「そういう批判はおかしい。」と主張し意見対立が起きているのだ。

「そりゃ、あなたの「日本論」が日本人を一般化していることに無理があるってだけの話しだろ?現代では、あなたのいう「日本人的」の例外は腐るほどあるってだけさ。」などといって、この問題を単純化してはいけない。
違うのだ、そんな簡単な話ではない。

私が説明した「日本人的なるもの」は現代でも変わってはいない。
大きく変わったのは「個人」と「社会」なる概念が日本に輸入された点である。
つまり、「個人」と「社会」とが存在しなかった世界に、その2つがしれっと入り込んできたのだ。
西欧的仕組みが「個人」と「社会」を前提としているため、西欧化するということは、自然と「個人」と「社会」を受け入れるということに他ならない。

しかしだ。
ここからが当Blogの問題意識だ。
「個人」と「社会」が存在しないことを前提とした「日本人的なるもの」に、「個人」と「社会」が入り込んだのだ、衝突しないわけがない。
ボタンの掛け違い程度ならよいが、これは仕様の異なる歯車を組込んだようなものだ。
ギシギシと音をたてて、日本のあちらこちらで不協和音が上がっている。

よく考えて欲しい。
「場」を当り前だと思っている人と、「個人」を当り前だと思っている人とが話し合うのである。
社会観どころか、人生観からいってすれ違うこと間違いなしである。

国母問題でいえば、「個人」の自由を尊重する側からみれば、「個人の自由を侵害するようで申し訳ありませんが、制服を支給するので要所で着用いただいてよいでしょうか。」くらいの発想だってできるのだ。
「なに?服装を強要?しかも服装の乱れは許さんだと?!ここは北朝鮮か!?」と、かなり極端な例だが言われても仕方がない。

だらだらと話が長くなる前に、結論を出しておこう。
「では、我々はどう考えるべきなのか?」についてだ。

まず絶対的な答えはない。
これは理解していただく必要はある。

それを前提とした上だが、この場合「両論並立」しかない。
なぜなら、どちらが正しいのか答えはないからである。
例えば、「個人」を尊重するのが近代的な考えのように思えるが、しかし「個人」を尊重した結果の「孤独」に現代人は苦しめられているし、「個人」の利益追求による経済的損失も被る可能性もある。
「個人」を尊重することで100年うまくいったが101年目にとんでもない事態を招く必要だってある(ブラック・スワン)。
たいして利益を上げられないが、生き残れるのは「個人」を認めない方かもしれないのだ。

しかし、両者が相互理解をしながら、より優れた落しどころを模索していく作業は必要だ。
私は「何が正しいかわからないから、何もしない。」というニヒリズムは採用しない。
「何が正しいかわからないから、何が正しいかよりも、何がより自分達にとって有用か。を考えていこう。」これが私の立ち位置だ。
だから、当Blogでいつも主張するように、日本は「個人」と「社会」についての議論を深める必要があると主張している。

答えになったであろうか。

「政治とカネ」に関する公認会計士の見識

2010-02-18 10:45:28 | 政治
ホリエモンのブログで知ったのだが、公認会計士の細野祐二氏が小沢一郎を巡る「政治とカネ」問題について鋭く突っ込んでいる。
私は会計超素人なのでコメントしない方がいいのかもしれないが、このレポートを信じると、今回の事件は単に「会計知識のない者による勘違い事件」にしか過ぎないと思わされる。
(少なくても元秘書3人の逮捕は異常)

もともと、東京地検特捜部というところは経済関連の知識が乏しく、経済犯罪に関しては空振りが多いと言われている。
「法律家は経済に関して疎い。」ということはよく言われている。
「法」と「経済」は、異なる専門分野であるし、利益を追求する資本主義はしばしば「日本国民の社会正義」に悖ると批判される。
しかし、そんな勘違いな空振りが堂々と許されているのは「国民が求める社会正義」の後押しがあるからだろう。

さて、細野氏によれば、鳩山首相の脱税は「真っ黒」だが、小沢の方は「限りなく白に近い。」ということだ。


一応、中立性のために、細野氏の背景を説明しておこう。
彼は検察と全く利害関係がないわけではない。
彼は粉飾決算に関わったとして特捜に逮捕され有罪判決を受けた。
現在、彼は最高裁に上告中であり、『公認会計士VS特捜検察』という書籍も出している。
『公認会計士VS特捜検察』で細野氏が主張する内容について、他の公認会計士による評価は極めて良く、会計としては全く違法ではないことに皆さん同意しているようです。
しかし、彼は検察をよく思っていないのは間違いない。

彼はまた日興コーディアルグループの粉飾決算を暴いた人であり、非常に実力のある会計士として知られている。
Amazonの著者紹介文にはこうある。


2007年2月、みすず監査法人(旧中央青山監査法人)の解散が発表された。日興コーディアルグループが、粉飾決算に関連して証券取引等監視委員会から史上最大の5億円の課徴金処分を勧告され、特別調査委員会が監査を担当した旧中央青山監査法人が事件に組織的に加担していたと報告書で明らかにしたことがきっかけとなった。

日興コーディアルグループの「粉飾」を最初に暴いたのは誰か。それは、本書の著者、細野祐二氏である。氏は前著『公認会計士vs特捜検察』で詳述したように、キャッツ事件に絡み、粉飾容疑の共犯として逮捕、拘留され、一、二審敗訴後、最高裁に上告中の身である。


では、レポートを見ていこう。

新月島経済レポート2010年3月号 「政治資金収支報告書」(細野祐二)
http://www.comp-c.co.jp/pdf/report20103.pdf

まず冒頭にこうある。(強調は私によるもの)


新聞だけを見ていると、たちの悪いゼネコンからの贈収賄事件かと見紛うばかりであるが、ここでよくよく冷静に起訴事実を見てみれば、容疑は政治資金規正法違反(虚偽記入)となっている。事件では、単に政治資金収支報告書に対する虚偽記載が問題とされているに過ぎないのである。

ところで、政治資金収支報告書とは政治団体の収支に関する会計報告なのであるから、本来であれば、政治団体の収支の事実に基づく会計処理こそがここで問題とされなくてはならない。ところが、これだけ膨大なマスコミ論評の中で、会計処理の是非を論じたものなどただの一つも見たことがない。会計を論じることなく、よってたかってその会計報告書の是非だけを騒ぎ立てているのである。見るに見かねて已む無く、小沢一郎民主党幹事長の政治資金規正法違反疑惑の会計的分析を行なう


つづけて、何が問題なのかについてこう述べる。


政治資金収支報告書の虚偽記載というのであるから、本来であれば、この資金移動の事実をどのように政治資金収支報告書に記載しなければならないかという会計上の正解がなくてはならないが、実はこれがない。信じがたいかもしれないが、検察官も正解を持っていない。なぜなら、現行の政治資金収支報告書では、単式簿記を前提とした部分的な会計報告書の作成が義務付けられているに過ぎないからである。

部分単式簿記においては、その記載範囲は自立的に決定できない。完全複式簿記であればここでの資金移動に対する会計処理は単一となるが、部分単式簿記では複数の会計処理が可能なのである。現行の政治資金規正法は部分単式簿記による複数会計処理の並存を認め、報告書における作成者の裁量余地を大きく残している。基準上裁量権の認められた会計処理に対して虚偽記載を主張するのは、一方の見解を強要することにより裁量権を否定するに等しく、これを無理して立件するのを国策捜査という


細かいところは、レポートを読んでいただくとして、細野氏は個人的見解としてこう述べる。


この報告書を見ると、小沢氏からの借入金4億円は平成16年の資金収支報告書の収入の部に見事に計上され、また、同年の特定資産・借入明細書には「借入金-小沢一郎」として記載されている。一方、世田谷区の宅地は、平成17年の特定資産・借入明細書に342百万円として記載されるとともに、同年の資金収支報告書中の事務所費415百万円の一部を構成している。

ここで不思議なことがある。例の小沢氏からの4億円の仮受金は陸山会の組んだ同額の定期預金で決済されたことになるにもかかわらず、そのあるはずのない定期預金が陸山会の特定資産・借入金明細書に計上されてしまっているのである。陸山会の平成16年の特定資産・借入金明細には、この年度の定期預金残高として4億7150万円が計上されている。

これが複式簿記を知らない(中途半端に)まじめな人の悲しいところで、石川議員は例の小沢氏からの仮受金をせっかく定期預金で返済して簿外化したにもかかわらず、年が代わって平成16年の政治資金収支報告書を作成する段になり、定期預金が陸山会のままで名義変更されていないことにハタと気がつき、これはマズイとばかりに、政治資金収支報告書に定期預金を計上してしまったのである

小沢氏の個人資産を政治団体の資産として計上するというのであるから、当然のことながら政治団体の資産は4億円分だけ過大計上されて貸借が合わない。そこで、たまたま問題の世田谷の宅地の登記が12月末に間に合わなかったことを思い出し、ならばこちらも4億円近いので、定期預金をこの年度に計上する代わりに不動産を翌年回しにしておけばちょうど辻褄が合うと考えたのではないか?見よ。石川議員の経理処理は翌平成17年以降に見事に辻褄が合い、平成17年に4億円の事務所費が計上されるや、平成17年と平成18年にかけて4億円の定期預金は消滅している


会計処理をどうすべきだったのかについてこう述べる。


ここで石川議員に会計上の正解をお教えしておくと、小沢氏からの仮受金4億円が陸山会の定期預金により決済されているのであれば、定期預金の名義にかかわらず、この定期預金は実質的に小沢氏のものなのであり、実質的他人所有の資産は政治資金収支報告書に記載する必要はない。4億円の仮受金が簿外となった以上、この定期預金も簿外にしておけばよかったのである。そうしておけば、定期預金が満期になる都度、銀行が自動的に借入金と相殺してくれるので、石川議員もややこしい事務所費との遣り繰りなどしなくて済んだ。何よりも、こんなどうでもいいことを問い詰められ、その答えに窮するあまりまさか逮捕されることもなかった


と、いうことで、今回の事件についてはこう述べる。


さて、石川議員の政治資金収支報告書作成をめぐる舞台裏が理解できたが、このことから我々は、二つの決定的な事実を知ることができる。石川議員は会計の基礎理解が決定的に欠けており、従って、石川議員に政治資金収支報告書虚偽記載の犯意を認定する事はできない。刑法上、罪を犯す意思がない行為はこれを罰することができない。(刑法第38条第1項)


検察官の主張をこうたしなめる。


平成16年の資金収支報告書には、小沢氏からの4億円が借入金としてしっかり計上されているのだから、検察官は、この4億円とは別の、例の4億円の仮受金を問題としている。
仮受金ではなく借入金だと言うのである。そんなことをすれば、この年の小沢氏からの借入金は8億円になってしまう。あの時は、同じ4億円が陸山会の周りをグルグル回っていたに過ぎないのであり、金が回転したからといって4億円の借入金が8億円に化けることなどあり得ない。既に論証したごとく、10月上旬の小沢氏からの4億円の現金受領は会計上の仮受金であり、仮受金は、現行の政治資金収支報告書上簿外とせざるをえない。これが法律上認められた部分単式簿記の限界なのであり、なく子も黙る東京地検特捜部といえども、ここに完全複式簿記の正義を押し付ける事はできない

そこで検察官は、“4億円の現金があって不動産の購入資金が賄えるのに、なぜ利息を払ってまでわざわざ4億円の銀行借入をするのか”と疑問を呈する。

「それは、この現金が人には言えないいかがわしいものだからに違いなく、きっとそこにはゼネコンからの裏献金が含まれているに違いない。宅地の登記を遅らせたのも、4億円の裏金が表に出せないからで、平成16年の4億円の入金が表に出せない以上、同じ年の3億5千万円の出金も表に出せるはずがない。」

これを邪推に基づく妄想という。検察庁特捜部の妄想は、5千万円の裏献金という供述を水谷建設から引き出したが、裏づけとなる客観証拠がついてこず、これでは公判維持可能な証拠にはならない。仮釈放に足摺りする服役中の水谷建設幹部をシバキ上げてとった苦心の供述なのであろうが、特捜検察も、莫大な国費を使って無意味なことはやめたほうがいい。

もとより、不動産の購入資金があったからといって、それを使ってしまえば運転資金が枯渇するのであれば、どんな人でも借入れをしたいと思う。ここで支払われる利息など運資金枯渇の恐怖に比べればものの数には入らない。運転資金確保のために利息を払って借入をするというのは、きわめてまともな事業の常識なのであり、小沢氏は事業家としの常識をもって政治活動を行なっていたに過ぎない。そんな常識的借入に対して、「利息を損してまで借入をするのはおかしい」などと言いがかりをつけているのは、手厚い身分保障に生きる検察官には運転資金枯渇の恐怖が理解できないからで、ただそれだけのことであろう

この事件の資金移動を会計的に分析する限り、石川議員以下の3名の被告人は証拠構造上圧倒的に有利であり、それどころか、政治資金規正法が部分単式簿記を前提としている以上、ここには犯罪事実そのものが存在しない
検察庁特捜部は、
「この手の事件では捜査はどうしても供述中心にならざるを得ない。」
などと意味不明の訳の分からないことを言っては、現職国会議員を国会会期直前に逮捕した。外部との接触を一切遮断した密室に21日間も監禁して朝から晩まで攻め立てれば、事実にかかわらず人は自白調書に署名する。足利事件で明らかとなったように、日本の捜査機関による取調べ技術をもってすれば、人を殺してなくとも、
「殺したのは実は私です」
などと、立派な自白調書が出来上がるのである。

当然のことのように石川議員以下3名は政治資金収支報告書の虚偽記載を認め、本件は自白事件として処理されることになった。石川議員たちが犯罪事実の存在しない自白調書に署名したのは、そうしなければ何時までたっても保釈が認められないからで、従って、公判が始まれば自白を翻すに決まっている


ただし、彼はこう締めくくる。


ただし、残念ながら、今後の石川議員の裁判において無罪判決が出る可能性は悲しいほど少ないと考えなくてはならない。部分単式簿記による会計数値という客観証拠と矛盾していても、現行司法では検察官面前調書による自白には、なぜかほぼ絶対的な信用力を認められることになっているからである。石川議員はあの密室で取られた自白調書の嘘を自ら公判で立証するという、まさに前人未到とも言うべき難行に挑まなくてはならない。


三権分立の一つ、「司法」。
この「司法」の判断が狂っているのでは、我々は何を信用すればいいのか。

そう、答えはわかっている。
初めから国家権力を信用してはならない。
(アメリカ的発想と批判するなら、理由を述べてください。)

元検察庁検事の高井康行氏があるTV番組でこう主張していた。
(検察が小沢を狙い撃ちしたことについて)
検察が強いものを狙う当り前だ(だったら誰が権力を制止できる?)。権力は必ず腐敗するからだ。

その通り。
検察と言う国家権力も腐敗するだろう。
検察(行政)を制止できる権力が必要だ。
立法府は何をやっているのだ。

では、最後にまとめ

今回の事件の本丸は小沢の贈収賄だったのだろうが、特捜は証拠を上げることはできずに、こんな無実の人を逮捕するに至ってしまった。
疑わしいものを捜査する。
これは間違いではないし、小沢を狙い撃ちしようが、それは構わない。
「一罰百戒」と批判されようが、それが社会正義を乱すのであれば、社会的組織が社会として制裁を加えるのは当り前である。
人間の体がウィルスを除去するのと同じ。
それは人間の体観点からみれば正しいことだろう。(しかし、人間ではない観点から見たときに正しいかはわからない。)
しかし、無実の人を逮捕してしまうこと、マスコミの偏重報道、これはよくなかった。

我々は今一度、「社会」や「社会正義」について議論する必要がある。

[追記]
政治家のみなさんに向けた会計の初歩の初歩(磯崎哲也)
http://www.tez.com/blog/archives/001580.html


そもそも政治家というのは普通の会計に触れた事がある人がほとんどいないんでしょうね。
3日ほど前のジャーナリストの神保氏のツイッター上での発言を見て「えっ」と思ったのですが、政治団体というのは複式簿記じゃないようなんですね。

私も、先日の小沢氏の件でも、なぜあのような記載漏れが起こるのか全く理解不能で、「弥生」とか「勘定奉行」とかで普通に帳簿を付けていれば、あんなことは起こるわけもないと思っていたのですが、複式簿記でないというなら非常に腑に落ちる。

政治団体も、お金の流れや資産の管理が一体で行える複式簿記にすべきです。

ついでに言えば、政府も貸借対照表をちゃんと複式簿記的に作成すべきです。「ご参考:国は「ストック」も考えた総合的なリストラ策を策定するべきだ」
ストックとフローを統合的に考える思考体系(複式簿記)を持たないから、財政支出の話と国債発行の限界の話がごっちゃになってるんではないかと思います。

上村愛子氏の「自分に勝つ」は正しい

2010-02-17 13:45:22 | 哲学・思想
アスリートネタを継続。

一つの在り方を突き詰めている人の考えは深い。

(上村愛子)
http://blog.excite.co.jp/aikouemura/10772280/


私の友人が言ってくれました

難題のない人生は『無難な人生』
難題のある人生は『有り難い人生』

私はその後者を歩いてると。

オリンピックを夢見て
オリンピックでのメダルを夢見て
ずっと戦い続けてきました。

毎年、毎日、新しい考え方や新しい行動
いろんな自分を発見してきました。

自分のこうありたいと思うとおりの自分
自分の嫌いな自分

成功したときの喜び
失敗したときの悔しさ悲しさ
心が折れるとき
また立ち向かうとき

いろんな自分自身と向き合い
スキーの技術の成長と同じように
自分自身を成長させることができました。

ありがたい事だなぁと思います。


人間の身体的特徴を理由にスポーツ選手は早熟だ。
競技にもよるが、彼らのスポーツ人生のピークは10代後半から30代前半にもってくる必要がある。
(中学受験生はピークが12歳って話題も最近あったけれど・・)
若いときから周囲の期待や思惑を一身に背負う辛さと向き合ってきたのだ。

その中で鍛えられる精神力は、並みの人間の比ではないだろう。



(これは自分のことを棚に上げていうのだが)
それはそうと、最近こういう短絡的視点で物事を評価する人が増えた。
当Blogで繰り返しているように、日本の強さというのは、答えを先送りして物事に取り組む愚直さにあったと考える。
この考えは全体的合理性とのトレードオフであって、デメリットもある。
しかし、デメリットばかりを強調して、日本人のある種の奥ゆかしさを批判するのは早計で、トレードオフを無視することがあってはならない。
即座に答えを求められている場面と、そうではない場面をしっかりと認識して判断をくだすべきだが、ろくに考えもせず一つの考え方に一様に染まってしまうのは危険だと私は思う。
まぁ、そこが日本人らしいといえばらしいのだが・・。

上村愛子はなぜ勝てなかったのか?(岩崎夏海)
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20100216/1266289037

↓上のエントリに対する反論は、このエントリを呼んでもらえば十分だろう。

こういう勘違いしている奴がマスゴミに多いような(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266330774

「他社に先んじる」ということではなく、「自分に勝つ」という努力こそが彼女を鍛えたのであって、それを批判するのは勘違い野郎と言われても仕方ないだろう。
一つのことを突き詰めて考えた経験がない人なのだろう。


またしても辺境論ネタだが、「自分に勝つ」というのは意味的にはおかしい。
「自分」が「自分」に勝つことなどできないからだ。
「勝つ」というのは相対的価値だから、「自分」が勝てるのは「他者」以外に有り得ない。
では、ここでいう「自分」とは何か。
それは自分が想定する自分。
つまり、「こうでありたい自分」=「理想(仮想)の自分」といいうことだ。

だから、本来的な意味では「自分に勝つ」というのは「自分ではない自分に勝つ」=「他者に勝つ」という意味なのである。
そして「最高の競技者」=「理想の自分」なのであれば、「自分に勝つ」=「金メダル」でもあるわけだ。
(「最高の競技者」でなくても「最高到達点の自分」でもいい。その場合は金メダルとは限らない)
だから上村愛子氏の言説は全く正しいのである。

アスリートを育てるには安心という環境が必要

2010-02-17 10:15:30 | 社会
やばい、最近の金融日記が面白すぎる。

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html

天才小学生たちはどこに消えた?
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51655722.html

なぜ理系の秀才はみな医学部に行くのか? ―標準的ファイナンス理論からの考察―
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51657517.html


なぜそれほど秀才は医学部に進学するのだろうか?
受験勉強に熱心に取り組んでいる間に、受験勉強自体が自己目的化してしまい、少しでも偏差値の高い学部に入学することにより自己顕示欲を満たそうとする圧力が働き、その結果、偏差値の高い医学部が、偏差値の高さゆえに偏差値の高い学生を集めてしまうという、偏差値の自己増幅作用が働く可能性がある。
これは自分がいかに激烈な競争を勝ち残ったかを証明しようとするシグナリングの一種

医学部卒業生は平均年収の高さもさることながら、そのバラツキの少なさは注目に値する。
悪くても1000万円ぐらいは稼げるのである。
つまり、医学部の方がリスクも少ないのである。
ファイナンスの標準理論に従えば、リスクが小さくリターンも大きいなら、それを選ばない人はいないことになる。
このようの考えれば「なぜ田舎の国公立医学部は東大より難しいのか?」という問いは馬鹿げているように思える。
むしろ「なぜ東大理1程度が、田舎の国公立医学部と同じぐらい難しいのか?」と問うことの方がより自然だ。
おそらくその答えは、18才から24歳という人生の青春時代をど田舎ですごさなければいけないというディスカウントがかなり効いているということであろう。
もし他の条件が同じなら、田舎の国公立医学部の偏差値は東大よりはるかに高くなるはずだが、この青春ディスカウントの分だけ割り引かれ、結果としてそれほど差がつかずにいるのである。


私の知っている例からすると、医者の子供は小さい頃から医者になるように仕込まれてるね。
開業医の息子は後を継ぐために医者になる。
ならねばならぬという洗脳に小さい頃からかかっている。
彼らの人生の選択肢はとても狭まっているから、何浪してもがんばる。
医者になるという選択肢しかないから、ある意味かわいそうでもある。

あとは受験アスリートの諸君。
彼らは競争に勝つということが目的だな。
受験勉強の自己目的化。


もちろん高尚な目的をお持ちの方々もいらっしゃると思いますよ。

リターンの話は安心材料なんだと思う。
たぶん、それを大目的にする人は少数なんじゃないのかな~。
2次的要因で1次的要因ではないと個人的には思う。
あなたがアスリートで、プロになっても生活に困るんじゃ目指さないよね。
プロになれれば豊かといえなくても、最低限の生活が保証されていれば、安心して目指せる。

実は、億万長者を目指してアスリート目指す人はあまりいない。
ブラジルのスラム街でサッカー選手を目指す人も、貧しい生活から脱却したいという思いはあるだろうけど、億万長者になることが目的とする人なんかほとんどいないのではないかと推察する。
両親や兄弟に豊かな暮らしをさせてあげたいとか、そういう気持ちはあるだろうけれど。

なぜかっていうと、アスリートとして存在するための決定要因ではないものを目的とすると、結果がついてこないからだ。
他のいろんなものを心配しながらアスリートの道を目指したんでは効率が悪い。
その道の先を不安視したんでは、やることに集中できない。
重要なことは、決定要因以外のものに注意をとられることなく、アスリートの道を邁進できること。
そのための条件として、リターンの話が出てくる。

受験アスリート達も同じで、受験勉強を自己目的化するためには、受験勉強だけに集中できる環境が必要だ。
がんばったって何も得られないんじゃやり続けることはできない。
この闘いに買ったところで、、と思うだけ。
それでは相手に先に行かれてしまう。
本当は考えなきゃいけないことがいろいろあるかもしれないけれど、この道をゆけば、とにかく食いっぱぐれることはないという安心感、これが大事。

そんな生き方や社会の在り方が良いとか悪いとかという話をしているのではなくて、効率性を求めるとそうなるという話をしているだけだ。

21世紀は帝国の時代か

2010-02-17 09:42:38 | 経済
う~ん、、やっぱ中華帝国は違うな。
トヨタはこれから訴訟でアメリカに苛め抜かれるだろうしな。

米国債保有、日本が中国抜き首位=1年4カ月ぶり(時事ドットコム)
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010021700002


【ワシントン時事】米財務省が16日発表した国際資本収支統計によると、昨年12月末時点の各国別の米国債保有高は、日本が7688億ドル(11月末は7573億ドル)となり、2008年8月以来、1年4カ月ぶりに首位となった。中国は7554億ドル(同7896億ドル)で2位。最大保有国の地位逆転は、貿易などで摩擦が強まっている米中関係にも影響を及ぼしそうだ。
 日本は2カ月連続で米国債保有高を増やした一方で、中国は保有高を削減してきており、首位が逆転した。中国による保有高削減は、外貨準備の運用先多様化の一環とみられる。ただ、対中ダンピング(不当廉売)調査など通商政策をめぐり米側の厳しい対応が目立ち始めた昨秋以降、米国債の保有高削減が一段と加速している。


中国にインド、ロシア、etc...21世紀は帝国の復活だな。
そもそもなぜその地域に帝国ができたかといえば、地政学的に優位であったからに他ならない。
20世紀は未開発地域の資源を、先進国が発達した機動力でむしりとることに成功したが、21世紀に入ってそれが難しくなると、地政学的な優位性が相対的に増すだろう。
それは中世の帝国が復活することを意味する。

ただ歴史はスパイラルしながらも変化し続けていくので、単純な中世の復活にはならない。
新しい形での帝国が復活するはずだ。

↓このエントリを呼んでいてふとそう思った。

「21世紀は陸と海のたたかい」~400年ぶりの歴史的大転換の始まり~(藤井まり子)
http://agora-web.jp/archives/924708.html

水野和夫氏お得意のやりすぎ歴史哲学だ。
人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか (水野和夫著)」は、哲学、歴史、経済と広範に跨って分析がされており、内容は面白いので興味のある方は読まれるといいと思う。
ただし、彼に文才がないのか超読みにくいけど・・。