進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

ソニー無念の情報漏えい ピンチをチャンスに変えれるか

2011-04-28 17:20:08 | ビジネス
ソニー、ハッカーとの暗闘
http://s.nikkei.com/k9dXqq

ソニーの個人情報流出、繰り返される日本企業の稚拙な情報開示 | Reuters
http://t.co/fbx6Yhn

これまでハワード・ストリンガーが無内容に「ネットワーク」と叫び続けても許されたのは、Sonyのネットワーク戦略の中核にあるのがPSN(PlayStation Network)だったからである。PSNは、日本でこそたいしたユーザ数を確保できていないが、世界に目を向ければ世界有数の"成功している"ネットワークサービスである。なんといってもPSNのアドバンテージは、PS(PlayStation)であろう。世界的に普及しているPSをインストール・ベースに持つPSNは、大規模なプロモーションなしに、それだけで潜在顧客を持つことができるのだ。また、PSプラットフォームはAppleのiOsやGoogleのAndroidに対抗し得る数少ないSonyの武器でもある。原因が何であれ、そのPSNが情報漏えいしてしまったとあっては、Sonyのネットワーク戦略が大きく躓いたことを意味する。

今こそリスクマネジメントだ。このピンチを生かして明日の信頼を構築するチャンスだ。原発は現在進行形で失敗中だし、最近ではトヨタもリコール問題で大きな痛手を負った。果たしてSonyは成功するかどうか。

危機管理の教材として使われるのが米国ジョンソン&ジョンソン社の「タイレノール事件」(http://p.tl/M3np)。適切な対応によってJ&Jは逆に事故後に信頼を得た。当時、J&Jにマニュアルは存在していなかったが、やり遂げた。危機管理とは何たるものかを教えてくれる事件だ。

理不尽と感じるかもしれない。J&JだってトヨタだってSonyだって、当事者であると同時に被害者なのだ。福島第一原発だって東電は当事者でもあり同時に被害者の一部だ。

しかし、理性と感情は違う。論理がいくら正しくても、科学的に正しいと証明しても、感情を完全に制御できるとは限らない。だから、危機管理というのは感情に訴えることでもある。理不尽であるが、危機管理とはそういう理不尽を管理することでもあるのだ。その代わり、このピンチはチャンスに変えることが可能だ。理不尽極まりない感情的な問題だが、この対応に成功すれば、感情的に支持を得ることができる。人間がとても感情的な生き物であるからこそ起きるピンチであり、その一方でチャンスでもある。

さて、どう出る。

大人になるということ

2011-04-27 21:39:56 | スピリチュアル
心は目に見えない。

だから人は表面的なものを繕ってしまう。

誤魔化せると思うからだ。

そして一度隠せると思ってしまえば、どこまでも表面的になってしまう。

たいてい大人になる過程でこの嘘を覚える。

しかし、人は心に嘘をつけない。

よって表面と内面との矛盾は避けられない。

大人になると悩みは増える。

時に純真さを失うという。

心が見えないということが、葛藤を生み出のだ。

ただ、人は葛藤のうちにしか成熟することができない。

大人になるということだ。

釜石の奇跡 信頼が生み出す希望

2011-04-26 20:07:44 | 社会
震災被害が大きかった岩手県釜石市。
その釜石市で震災当日にある奇跡が起きていた。


■釜石市の情報

(2010年時)
人口:39,578人
世帯数:16,095人

(震災被害:4/25現在)
死者数:714人
行方不明者数:978人
合計:1,692人

建物被害(全壊数+半壊数):3,723件

■小中学生の死者・行方不明者数
合計:5人


病気で学校を休んでいた子を含めて、5人を除いてほとんどの小中学生が生き残ったのだ。
小学生1927人、中学生999人、生存率は99.8%。
釜石市街の港近くにある釜石小学校では、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいたが、ここでも児童全員が津波から生き残った。

一体、釜石で何が起こったのか。


小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない
「想定外」を生き抜く力 (片田敏孝)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312

今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップでは津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭った。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とはいえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。

 だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これが、私のやってきた防災教育だ。


日本最大、世界一の堤防を作るといったハードの力によってではなく、不測の事態にどう対応するかというソフト「社会対応力」の強化によって生存率99.8%という奇跡を起こしたのだ。

想定される全てに対応することはできないし、全てを想定し切る事もできない。
しかし、非常時には不測の事態は起こる。
どう対応するべきか。

答えはない。
強いて言うなら、健全な「多様性」と臨機応変な「柔軟性」だろう。
1つの答えに固執したり過信したりしないことだ。

それを担保するために、基礎的な部分についてはハードの力を存分に使い対応し、それ以上のところはソフトの力で対応する。
そういった姿勢が重要だ。


科学技術の発展は、便利とともに過信を生み出した。
それを、知恵(ソフト)の力でどう克服するか、そういったことを次の部分で述べている。


[中略]

2003年に、私は三陸地方の住民の防災意識を調査した。全国的に見ればこのエリアの住民の津波に対する防災意識は高いとはいえ、私は危うさを感じた。それは、行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、人間の意識が減退するという矛盾をはらんでいたからだった。

 住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それでも、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていた。

[中略]

こうして津波防災教育が始まったのは06年。最初に行ったのは、子どもへのアンケートだ。

 「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか?」と質問した。ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来るまで家で待つ」というものだった。

 私はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起きた時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示した。

 大人たちは、行政や防災インフラに頼ることで、前述したように油断していた。親の意識が変わらなければ、いくら学校で子どもに教えても効果は半減する。だから、「わが子のためなら」という親心に訴えようと考えた。

 この試みは奏功した。その後、親子で参加する防災マップ作りや、避難訓練の実施に繋がったからだ。完全に集計しきれてはいないが、今回の津波で、釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人(4月5日現在)と、釜石市全体で亡くなった人の割合と比較しても少ない数が報告されている。親の意識改革は、子どもへの教育浸透を助けるだけでなく、親自身への一定の波及効果もあったのではないか。


この話のクライマックスは最終章にある。
これこそが、我々に足りないものではないか。


ハザードマップを信じるな

 知識と実践を組み合わせたのは、災害文化の醸成が目的だったからだ。どれだけ知識を植えつけても、時間がたてば人間はその記憶を失ってしまう。いざというときに無意識に行動できるようになるには、実践によって知識を定着させることが必要だ。釜石市の小中学校では年間5時間から十数時間を、津波防災教育に費やした。

 防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えたことは、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオにすぎない。最後は、自分で状況を判断し、行動することの大切さを伝えたかった。そうは言っても、子どもたちには不安が残る。だから、どんな津波が来ても助かる方法があると伝えた。それが逃げることだ。

 もう一つは、自分の命に責任を持つことだ。三陸地方には、「津波てんでんこ」という昔話が伝えられている。地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでばらばらに、自分の命を守るために1人ですぐ避難し、一家全滅・共倒れを防げという教訓である。私はそこから一歩踏み込み、子どもに対しては「これだけ訓練・準備をしたので、自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」と話した。親に対しては子どもの心配をするなと言っても無理なので、むしろ、「子どもを信頼して、まずは逃げてほしい」と伝えた。

 どれだけハードを整備しても、その想定を超える災害は起きうる。最後に頼れるのは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる。
私は、今回の震災で命を落とした少女たちの声に耳を傾け、防災教育の広がりに微力を尽くしていきたいと、あらためて思いを強くしている。


不測の事態において、生死を分けるもの。
それは「信頼」なのかもしれない。
そして、その「信頼」は「個の自律」から生まれる。
1人ひとりが自分の命に責任を持つことによって、非常時にお互いを信頼して逃げることができる。

昔、武士の時代。
家族は、武士である夫や父が戦場で生き残るために自分たちに何ができるかを考えた。
その結論は、武士の家族たるものは、武士が後顧の憂いを持たぬように努めねばならないということだった。
戦場での迷いは一瞬であっても生死を分けるからだ。
家族は、夫や父が戦で思う存分に戦えるよう日ごろから準備をした。

現代においても、何か大業を成すために後顧の憂いをなくすという話がよくあるだろう。
「後顧の憂いをなくす」というのは、日常の話である。

3.11当日、多くの同僚たちが会社に留まらずに帰宅した。
テレビでは「翌日が休日だからみんな帰りたかった。」などと言っていたが、少なくても私の周りの者は、家族の安否を心配して帰宅していった。
一方で私は家が遠いこともあったが、当初家族と連絡が取れないタイミングで会社に留まる決断をした。
震災時に帰宅難民が混乱を大きくすると、以前から警告されていたことを知っていたし、TVもネットも通じる会社に留まった方がより多くの情報が得られ、冷静な対応ができると思ったからだった。
そして、私は普段から家族にいざという時の「覚悟」を求めていたこともある。

痩せ我慢かもしれない。
結果として問題がなかったから言えることかもしれない。
私ひとり痩せ我慢したところで何も変わらないかもしれない。

しかし、私は、当日「家族は必ず無事でいる」と信じていたし、家族も私が無事でいると信じていると考えた。
このことによって、私は気持ちを強く持てたのだ。

非常事態に「信頼」を保ち得るものは、ハードではなくソフトの力なのではないか。
それは一日にして成るものではなく、日ごろの訓練の賜物である。

未来が予知不能でよかった

2011-04-19 12:05:11 | 哲学・思想
AKBのCMに感化されて、今朝は「WONDA 金の微糖GOLD」を飲む。缶コーヒーを1本飲むたびに寿命を少し減らしているような気もするが「時間非整合性」はそんなことを忘れさせてくれる。いわゆる「確率的影響」というのは便利だ。未来予見可能性を著しく低下させる。

影響がわからないことが混乱の原因と言う人がいるが、全ての事象について健康被害がわかってしまったら恐ろしくて何もできず生きていけないだろう。缶コーヒーに「これを飲むと癌の発生確率がX%上がります。」と書いてあることがよいことだろうか。少なくても私はそうは思わない。

例えば、23andMeの遺伝子解析サービスを利用すると「腰痛になりやすい」だとか「前立腺癌になる確率が何%」だとかがわかる(ただし最も人々を悩ます生活習慣病の発生確率は遺伝子からの情報だけではわかりようが無い)。

しかし、「あなたは今後10年間で○○癌になる確率が50%です。」と言われて何か嬉しい事があるのだろうか。その情報をどう使えというのだ。「あなたはこのまま1日1本ビールを飲むと5年後に死ぬ確率が30%上がります。」という情報を得たらあなたはビールを飲むのをやめるかもしれない。しかしビールをやめたせいでストレスで10年後に死ぬ確率が40%上がる可能性は排除できない。もしくは実は3年後に交通事故で死ぬかもしれない。このように考えたらキリがない。

なのだとしたら、あるところで割り切って考えることにした方がよいのかもしれない。例えば「人間であれば誰でもいつかは死ぬ。今日かもしれないし30年後かもしれない。だとしたら今日をどう生きるべきか。」と考えた方がよっぽど生産的だと私は思う。

つまるところ、何が重要かを考え、そのためにどのような情報が必要かを考える。逆に情報を提供する側であれば、自分がどのような情報を提供できて、そしてどのような情報が求められているかを考える。
何も考えずに情報だけ入力したら、出力したら、混乱するに決まっている。

人間は見たいものを見、聞きたいものを聞き、考えたいものを考え、そして信じたいものを信じたいだけだ。足元に転がっている石ころひとつに気づけやしない。

生きるということが善なら、完璧な答えなんてあるわけない

2011-04-18 16:32:53 | スピリチュアル
つぶやきもしたがブログでも語る。

池田信夫氏は、もともと批判されることが多い人だが、今回の原発でも相変わらずだ(笑)
ただ、批判者は最初から彼に対して偏見を持っているようで、内容を見ると感情的な批判が多い。

例えば、この記事を読んで欲しい。
この記事の本質的な内容は、当Blogでも何度も繰り返した人間の持つバイアスの話である。
念押ししておくが、著者が語りたいのは人間は全てのリスクを公平に評価していないというバイアスの話である。

世界は史上最も安全である - 『リスクにあなたは騙される』(池田信夫)
(http://p.tl/-zdT)

[前略]

このようなバイアスには明らかな法則性があり、その原因は進化心理学でよくわかっている。人間の脳は旧石器時代から進化しておらず、人々は感情で動くからだ。

あなたの脳の中には、旧石器時代から変わらない反射的な感情(古い脳)と、新しい知識を学習して論理的に思考する理性(新しい脳)が同居しており、まず行動を決めるのは感情である。特に強い感情は、恐怖である。これは命を守るためのメカニズムなので、理性を超えて強く作動する。だから「放射能がくる」などとわずかな恐怖に訴えることが、メディアが売るための常套手段である。

古い脳のもう一つの特徴は、変化率に反応することだ。これは進化の戦略としては合理的である。外界から入ってくる情報は膨大なので、それをすべて処理することはできない。画像圧縮と同じように計算を省略し、変化する部分だけを認識して動く相手から逃げるのだ。このため人々は、ありふれた大きなリスクより新しい小さなリスクに強く反応する。

しかし統計的にみると、人類は歴史上もっとも安全な世界に住んでいる。1900年にアメリカで生まれた子供の20%が5歳までに死んだが、その比率は今では0.8%である。日本の平均寿命は1900年には44歳だったが、今は82歳である。「癌の死亡率が上がった」と騒ぐ人がいるが、それは他の病気で死ぬことが減ったからだ。客観的リスクを評価するには、変化する「事件」に過剰反応するバイアスを自覚し、新しい脳を使って数字を見ることが大切である。


しかし、多くの批判者は池田氏が原発事故の被害を過小評価していると批判する。
これは本質的に批判する内容を間違っている。

原発事故の被害を正確に捕捉することはもちろん非常に重要だ。
それはそれで事実ベースで議論すればいい。

ただ、彼がここで問題にしているのは「原発事故の正当な評価」ではなくて「原発と他のものとの間での正当な評価」である。
「原発の被害は大きいか」ではなくて「原発の被害が他と比べてどの程度大きいか」「被害全体を減らすためにどういった政策が望ましいか」という話である。

なぜこのようなバイアスの話をする必要があるかは、冒頭に書いてある。(私も震災後に取り上げたネタだ)


9・11のあと飛行機に乗る人が激減し、人々は自動車など他の交通手段を利用した。その結果、死者は減っただろうか? 残念ながら2001年の9月以降の1年間に、アメリカで飛行機の代わりに自動車を使った人は1595人死亡した。同じ距離を移動する交通手段としては、飛行機がもっとも安全であり、自動車がもっとも危険だが、人は一挙に多くの人が死ぬ事故でリスクを評価する。

このようなバイアスが、もっとも愚かな政策を生んだのが、本書のテーマである「テロのとの戦い」である。イラク戦争では民間人を含めて数万人の死者が出たが、テロの犠牲者は全世界で年間300人前後で変わらない。これは1年間にプールで溺死するアメリカ人の数より少ない。平均的なアメリカ人がテロで死ぬ確率は1/10000以下だが、これは落雷で死ぬのと同じぐらいの確率である。


この意見に対する反論として「だからといってテロを警戒しなくてよいということにはならない。」というものがあり、それはその通り。
テロを警戒しないと、より大きなテロが起きる可能性もあるからだ。
だが、テロを警戒することが同時にテロよりも多くの被害者を生んでいるという事実にも目を向ける必要があるということだ。
(テロの怖さはここにある。戦争で勝つ必要がない。人々の心を実効支配できればよいのだ。)

「なんだ?結局お前も答えのない話じゃないか。」と思った人がいれば、少し思考の訓練が足らないようだ。
この世に、完璧な答えなんてない。
例えば、生きるということを善として考える。
しかし、人は100%死ぬ。死亡率でいえば100%。
だから放射能や交通事故や排ガスや癌で死ななくても、必ず何かで死ぬ。
今日、あなたが脱線事故で死ななかったら、明日交通事故で死ぬ確率は上がる。
かりに20年間は交通事故で死ななかったとしたら、癌で死ぬ確率は上がる。
人は必ず何かで死ぬ。
生きるということにこだわる以上、死に関わる全ては襲いかかってくる恐怖になる。
そして、それから逃れることはできない。

生きるということが善なら、完璧な答えなんてあるわけない。
だから人々は宗教に頼る。
よりよい生とは何かを考える。
人生の意味を考える。
そうやって生きていくしかない。

我々にできることは、何によって死にたいかってことと、そのために何ができるかってことを冷静に議論することだけだよ。

もともとリスクに関する議論は迷走しがちだ。
人間の予知能力はたいしたことがないし、知性も理性も完璧からは程遠いレベルだ。
我々が限定合理性の中でしか判断できないことは、議論の前提中の前提。
だから、どんな人も議論する際には少し謙虚になった方がよい。
できれば、原発に関しても、もう少し冷静な議論を心がけたい。
もちろん私もだ。

「新しい空気をつくろう」間違いを正すのが大人の役目

2011-04-15 12:34:18 | 社会
「放射能怖い」福島からの避難児童に偏見(毎日JP)
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110414k0000m040137000c.html

私は、この記事を読んで強い憤りを感じる。
日本を覆う空気が悪くなっているようだ。
震災から1ヶ月が経ち、計画停電も終了したため日本人の心の中から規律が失われつつある。

これは大問題だ。
方々の懸命な努力により問題を抑え込めている(もしくは隠れている)というだけで、まだ何も解決されていない。
日本の国力がためされるのはこれからだというのに、臭いものに蓋をする雰囲気が熟成されつつある。

「君たちの考え方は間違っている」と言わねばならない。

これは「風説」や「風評」ではない。
「誤認」、「誤解」、「間違い」である。

子供の間違いを指導し正すのは大人の役目である。
間違いは正さねばならない。
人々の心の中にある潜在的心性に訴えかけ、良いことと悪いことの区別をはっきりさせるべきだ。
それが独善的と言われようが何と言われようが、規律なくして国の健全性は保てない。

どうやら、この国には子供が多いようだ。
今一度繰り返すが、大人というのは「なる」ものではなく「する」ものだ。
大人でも大人できないやつは子供だ。

「ひとつになろう日本」とか言ってる場合じゃない。
「大人をしよう日本」だ。

空気を作ろう。
新しい空気を作るんだ。


↓これはいい。全く同感だ。

悪いのは東京電力ではなく東京都民(小幡績)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51704754.html

農産品の被害のほとんどは風評被害だ。福島県のナンバーのトラックを受け入れ拒否したり、福島から来た小学生から千葉の小学生がみんなで逃げ出したり、救援物資を福島まで届けずに東京で置いてかえる運送会社があったり。

お前らが悪い。

風評とは何か。我々が勝手に作っているものだ。

我々に全責任がある。

政府が信用できない?

情報を集めて自分で判断しろ。

この原発被害は、本当に申し訳ないくらいローカルにしか被害は広がらない。福島の事件だ。福島にとっては耐えられない致命的な事件だ。東京なんて何の被害も受けない。

逃げたやつも買いだめしたやつも野菜の産地を確認したやつも全員あほか罪人かどちらかだ。

日本がひとつに?

ふざけるな。

現実はまったく逆だ。

日本は分断されてしまった。以前よりも深く。

菅さんは決して無能ではない。組織の長として無能なだけだ。

2011-04-14 19:44:27 | 政治
またしてもつぶやきから転載

菅さんについて。
「△△会議」「○○本部」ばかり作るとか「参与」が多すぎるとか批判が多いようです。「何も決められない」というのは確かにその通りなのですが、でも皆さんの菅さん批判を聞いていると、少し違うなと思うところがあります。ちょっとだけ語ります。(いつも通り「誰に?」って感じですが)

菅さんは決して無能ではありません。組織の長として無能なだけです。

菅さんが目指すのは「独善的な政治」ではなく「みんなで知恵を出し合えばよりよい答えが出せる」といったところです。これは一つの政治信念として決して間違ったものではないです。皆さんも平時にはそちらを求めているのではないですか。今は非常事態ですが。

ただ、想像して欲しいのですが、各分野の専門家の意見を集約して何か起こりますかね。起こらないのですねこれが。起こせると思うような人は、組織をマネジメントしたことが無い人なのでしょう。おそらく。

そもそも組織が何のためにあるか考えましょう。簡単に言ってしまうと、ある目的を達成するためですね。目的を達成するための仕組みを作るのがビジネス。そして、その仕組みを利用して組織に成果を上げさせるものがマネジメント。(多分にドラッカー的な話ですが、私はこの事をドラッカーから学んだわけではありません。)

菅さんは「答えを出すこと」が自分の役割だと思っているのかもしれませんね。だから会議や参与が多く必要になるのです。残念ですがこれは勘違いです。今求められているのは「答え」"だけ"ではありません。「組織に成果を上げさせること」"も"求められているのです。

前者は「リーダー」の役割、後者は「マネジメント」の役割です。この違い、この認識が、菅さんに致命的に欠けているものです。ただ菅さんだけを責めるのは酷ですね。多くの人がこれを理解しているとは思えません。

組織に成果を上げさせるためには意見を「集約」するだけではなく「統合」する必要があります。この統合力がマネジメントに求められる能力ですね。でも菅さんは「みんなの意見を引き出す」ことがリーダーの役割だと思い過ぎている。それ自体は間違っていないし重要、しかしそれだけでは足りないのです。

ですから、私は震災直後に、もともと菅さんのマネジメント能力は高くないと思っていたので、災害担当相にマネジメント能力の高い人をアサインし、全権大臣にするべきだと書きました。菅さんはリーダーとして「答え」を求めればよく、組織に成果を上げさせるマネジメントを急ぎ構築すべきだと。

さて、そろそろ結論にしましょう。現在の管政権の迷走ぶりは、決して菅さんの無能さからくるのではありません。菅さんの頭の中でマネジメントについての認識が希薄であるところから来るのです。しかし、それは組織の長として致命的な欠陥です。私は彼の政治信念が間違っているとは思いませんが、ただ野党向きの政治家といえるのではないかと思います。

「語るとか言いながら、結局みんなと同じ意見じゃないか?!」と思ったあなた。まだマネジメントを理解できていません。私は、菅さんが「リーダー」として不向きかどうかなんて話はしていません。私は「組織の長」として向いていないと言ったのです。この違いがわからない人は組織の長をやってはいけません。

組織の長に向いていない人が組織の長をやると、混乱を招いて社会的損失をもたらす可能性が高いです。あらゆる組織が社会的機関だからです。あらゆる組織は社会内存在なのです。

「復興」についての考え方

2011-04-14 17:22:46 | 社会

手抜きでつぶやきから転載。そしていつも通り抽象論に終始します。
私が言いたいのは具体的な方策ではなく、「コンセプト」です。

非情な選択迫られる被災地職員 WSJ (http://on.wsj.com/fa0x5M)

失ったものの重さ、あの時の決断の正誤、自分の内にある弱さ、一生続くかもしれない葛藤、そして背負わされた希望。被災者になるということ。


両親死亡・不明の子ども82人に…厚労省集計 (http://bit.ly/fIbjUe)

調査が難航しており、全容把握まで至っていないようだが、私は彼らが明日の日本を背負って立つと信じてやまない。


何らかの政策、戦略、作戦などには、経過や結果を評価する基準が必要だ。経済であればGDPやCPI、鉄鋼生産量などがあるし、ビジネスであれば売上げや利益、ROIなどがある。では、今回の震災における復興が成功したか否かを判断するための基準とは何であろうか?

いきなり結論から述べる。私は今回の復興が成功したか/しているか否かを判断するメルクマールとして、次のものを考える。「親を失った子供たちが、その後どうなっているか。」「20年後の彼らがどうなっているか。」だ。

経済学者に任せれば、雇用や生産量に関するものなど様々な有用な意見が出てくるだろう。しかし、私は経済的復興が非常に重要という認識を持ちながら、一方で第一義的に重要なメルクマールが他にあると考えている。

そもそも「復興」について考える時「復興とは何か?」という問いから始まらなければならない。どのように復興するかではなく、何を復興と呼ぶべきかという問いだ。3.11以前と同じ水準の生活を送れる(生活再建)、または以前よりも高い水準の生活を送れることが復興であろうか。私はそうは思わない

なぜなら、被災者の方々は既に多くの、それも取り戻すことのできないものを失っており、以前と同じ生活など望んでも手に入れることはできないからだ。失ったもの、背負っていくべきものが大き過ぎて、完全なる生活再建など不可能だ。

いや、そのような復興を望んではならない。望ませてもならない。望んだ先に何があるというのか。

これまで当Blogでは、「恋愛」「結婚」「家庭」「児童虐待」を主要なテーマとして捉えてきた(言ってるだけだけど・・)。それは「社会の実態が一番表れてくるものは何か」という問題意識からきたものだ。GDPや雇用情勢、利益、収入などでは決して理解することのできない社会の実態を炙り出すのに、どのようなテーマがより適切かを考えた結果である。

そのような観点で「復興」について考えたとき、私は「親を失った子供たちが、その後どうなっているか。」を見れば、復興がどのような形で行われているか、人々がどのように息づいているのかを見ることができるし、「20年後の彼らがどうなっているか。」を考えることで、復興のあるべき方向性を見出すことができると考えている。

彼・彼女らが人生に何らかの目的意識を持って社会と関わっていけるのであれば、それは、おそらく他の人々も同様に可能であることを示している。

ただひとつ注意を促したいことがある。

私は、弱者を助けるべきだ優先すべきだなどと言っているわけではない。「社会の軋みや歪みといったものの影響は、まずはじめに最も弱いところに表れる。」ということから弱者救済を訴えているわけではなく、であるからして弱者を見ればその社会の構造を理解出来ると言っている。弱者を輩出しない社会がよいと言っているわけではない。病気をしない人間がいないように、弱者の存在しない社会も有り得ない。そうではなく、どのような社会でも弱者は存在するということを前提に、社会について考えなければならないと問うているのだ。そうすることで、ありもしない社会の理想論を振りかざすのではなく、あるべき社会の姿が見えてくる。

続きはまたいつか語る。

桜の「はかなさ」について

2011-04-12 17:02:31 | スピリチュアル
桜の「はかなさ」について。

日曜日は花見日和であった。桜のあるところに人々がにぎやかしく集まり、酒を飲み交わし、一時を楽しむ。満開の桜の美しさが人々を引き寄せるのだろう。また、人はよく「桜のはかなさ」を人生のいろんなものと重ねて感傷に浸る。満開の桜で現在を分かち合い、散りゆく桜を見て行き交う時を感じ入る。時にそれは日本の美学とも言われる。

しかし、「桜のはかなさ」とは何であろうか。「はかなさ」とは、桜の花が散る様を見て語られるものだが、果たして、桜の花が散る様は「はかないもの」なのだろうか?

桜は1年を通して「休眠(秋)」「休眠打破(冬)」「生成(早春)」「開花」というプロセスを辿る。桜が美しく咲くために、冬の寒さと春の暖かさが重要な役割を果たす。つまり桜の美しさと四季の移ろいには深い関係がある。日本人が桜、四季、そして人生を重ねたとしても不思議ではない。

だが、桜のプロセスを理解すれば、桜の違った側面が見えてくる。桜の花が咲くのは昨年の夏につけた花芽の成長の結果であるが、桜の花が散るのは、次の花を咲かせるための準備である。桜の花が散るのは1つのプロセスの終わりであると同時に新しいプロセスの始まりでもあるのだ。そしてそれはより大きなプロセスの一部でしかない。

桜の花が咲くのは1年を通してわずか数日間ほどのことでしかないが、そのために1年間準備をしてきたことに想いを馳せると、私には桜吹雪が、まるで桜が皆のために新しい季節のはじまりを祝っているように思えてならない。卒業生が謝恩会で先生や在校生に催し物をするのを見て「はかなさ」を感じないように、私も桜の花が散るのをみて「はかなさ」を感じることはない。

「長期被曝」と「退避」についての考え方

2011-04-12 13:16:08 | 政治
20km圏外でも場所によっては避難エリアに指定される件について、議論が混乱しないように、話を整理しておく必要がある。

まず、今回の避難は「長期被爆」を懸念してのことだ。
今、飯舘村に行ったとしても、放射線量は既に短期的な被曝を気にする必要がない程度に落ちている。
では「長期被曝」とは何か。

原発事故後の長期被曝とは、長寿命放射性核種で汚染された地域に人々が継続して生活している状況での被爆のことで、この被爆は、適切な防護措置を実施することで線量を低減できる被爆である。

原子力緊急事態時の長期被ばく状況における放射線防護の実施と課題(日本原子力研究開発機構 安全研究センター 原子力エネルギー関連施設安全評価研究ユニット)
http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/pdfdata/JAEA-Review-2010-022.pdf

まず、基本的な考え方としては下記がある。


長期被ばく状況での防護措置の導入においては、放射線による健康影響だけではなく社会的・経済的な補償に関する判断を含む多様な観点が混在しているため、状況の正確な記述と適切な対応が困難な状況である。このような状況での判断は、必ずしも科学的及び数量的な根拠だけで正当化することができない。これを正当化する一つの方法として、多様な利害関係者の合意に基づく手続き的な方法が考えられる。


「必ずしも科学的及び数量的な根拠だけで正当化することができない。」
「これを正当化する一つの方法として、多様な利害関係者の合意に基づく手続き的な方法が考えられる。」

このあたりの考え方については、当ブログの『相変わらず人の心を掴む事ができない民主党政府』あたりも参照して欲しい。

次に、あえて語るまでもないが「放射線防護の目的」については下記がある。


3. 長期的な放射線防護措置とその判断基準

3.1. 放射線防護措置の目的

原子力及び放射線緊急事態における防護措置の基本的な目的は、短時間で高線量に達するような厳しい線量率に曝されている個人の確定的影響の防止と、より低い線量率で生ずる確率的影響を可能な限り低くすることである。また、被ばくが長期にわたって継続する場合には社会活動や経済活動の常態への復帰も防護措置の目的の一部である(Hedemann, 2002)...


では、放射線を防護するとして、どのような方法があるだろうか。


3.2. 長期的な放射線防護措置の種類

原子力事故後の時間区分は、事故の発生から放射性物質の放出までの期間、放射性物質の放出から数日程度の期間、及び数週間後以降の期間に分けられる。長期被ばく状況とはこのうち事故から数週間以降の期間のことである。この段階での被ばく経路は、主に、地表面沈着核種による外部被ばく、汚染食物の経口摂取による内部被ばくに加え、地表面から大気中への再浮遊核種の吸入による内部被ばくも含まれている。これらの被ばく経路に対する防護措置には、個人に対して介入することで被ばくを防ぐもの(移転、立入制限)と線源や被ばく経路への措置により被ばくを防ぐもの(除染、飲食物摂取制限)がある。...

(1) 移転
移転とは、地表面に沈着した放射性物質による被ばくを回避するために、汚染地域の住民を非汚染地域へ移動させることである。移転と避難は同様の措置であるが、事故後の導入時期及び退避期間が異なるので、基本的に両者は異なる防護措置である。避難の場合、住民は宿泊施設や学校等の公共施設に一時的に数日間滞在するのみであるが、移転の場合、汚染地域への復帰まで数ヶ月から数年を要する。また、生涯に予想される線量によっては永年的な移転も選択肢の一つとして考えられる。移転には高い放射線回避効果を期待できるが、個人の日常生活や共同体での活動が断絶してしまうため社会的・経済的な混乱や心的なストレスを引き起こす可能性もある。

(2) 汚染地域の除染
汚染地域の除染は、一般的に浄化作業が終了すれば徐々に活動を再開できるため、地域を長期間閉鎖する立入制限や移転よりも混乱の少ない措置である。除染の目的は、汚染された土壌からの被ばくの低減、人や動物への放射性物質の移行の低減、放射性物質の再浮遊や汚染が拡大する可能性の低減である。特に、特定の社会基盤を利用する人々や汚染地域の作業者に関して比較的大きな被ばく低減効果を期待できる。

(3) 飲食物摂取制限・農業対策
事故で環境中に放出された放射性物質が飲食物に移行し、これを摂取することで内部被ばくをもたらす可能性がある。この被ばく経路に対する措置としては、汚染された飲食物の摂取を直接制限する飲食物摂取制限と、汚染された空気、土壌および飲料水から放射性物質が食物連鎖を通して移行することを制限する農業対策などがある。飲食物摂取制限は各食品に対する介入レベルを設けて汚染食品の流通や消費を禁止することで達成できるが、代替食品の供給、加工品や原材料のモニタリング、汚染食品の処分、食品生産者に対する補償等、費用を要する措置である。...


「移転」「汚染地域の除染」「飲食物摂取制限・農業対策」を組み合わせて対応していく必要があるが、先述したように「多様な利害関係者の合意に基づく手続き的な方法」を模索しなければならない。一人ひとりの都合を聞くまでする必要はないが、少なくても一人ひとりに経済的損失のない形での選択肢が与えられなければならない。

そして、政府が介入する程度の話は下記。


3.3. 放射線防護対策の計画と実施

...

3.3.3. 個々の防護措置に関する介入レベル

... ICRP は、Publication 63 の中で約 1 Sv という平均回避線量が移転に対してほとんどいつでも正当とされるレベルとして利用可能であろうと述べている(ICRP, 1991b)。この考え方の根拠については特に述べていないものの、Publication 60(ICRP, 1991a)による職業人の線量限度が 5 年で 100mSv であることを考慮すれば、生涯約 1 Sv の回避線量は生涯を 50 年とした場合の職業人の線量限度に相当し、リスクの観点から移転をほとんど常に正当とするレベルであることは理解できる。しかし、もっと低いレベルでも正当とされる場合もあるだろうし、非常に重大な事故の場合にはこのレベルよりさらに高くなるかもしれないとして、明確な指針は示されていない。移転を含む長期の対策を必要とする状況はきわめて多様であり、事故後の状況を評価できるようになった段階で利用可能な選択肢の中から最良のものを選ぶことが望ましい。しかし、公衆への情報提供と助言が遅れると不安の原因となるので、事前に指針の要綱を作成しておく必要がある。...


「移転を含む長期の対策を必要とする状況はきわめて多様であり、事故後の状況を評価できるようになった段階で利用可能な選択肢の中から最良のものを選ぶことが望ましい。」
「しかし、公衆への情報提供と助言が遅れると不安の原因となるので、事前に指針の要綱を作成しておく必要がある。」

対応が後手に回ってしまい、不安を増大させてしまったことが今回の最大の問題であろう。

相変わらず人の心を掴む事ができない民主党政府

2011-04-12 12:46:10 | 政治
飯舘村をはじめとした福島第一原発から半径20km圏外の自治体も避難の対象になった。
他の場面でも感じるのだが、ここに来て政府の対応のあり方が変わってきている気がする。
当初は組織内部の責任論や縦割り構造の硬直性などが前面に出ていたのだが、ここに来て現実を直視するようになり、本当の意味で組織全体で解決に向けて動き始めている、1ヶ月経ってこなれて来たのではないだろうか。
しかし、相変わらず政府の対応はガサツだ。

4月5日のTweetより。

(理科もよくわからないという人向け)
放射線量に関する摂取制限量についての考え方。こう考えればきっとわかりやすい。 このページから転載します。

http://bit.ly/heDjqX

食塩(塩化ナトリウム)というのは、実は危険な物質です。そのLD50(半数致死量)は、体重60kgの人だと180~210gです。もし200gの食塩をいっぺんに摂取したら、50%ぐらいの確率で死に至るでしょう。

厚生労働省は、日本人の食塩摂取量の目安を、成人で1日10g未満と定めています。1日に10gぐらいまでなら、食塩を摂取しても害はないというわけです。

塩だろうと砂糖だろうと水だろうと酸素だろうと光だろうと、多すぎれば人間に害を及ぼします。その点では放射線も同じです。「すべての物質は毒であり、毒でないものは存在しない。毒と薬の違いはその用量による」by パラケルスス(錬金術師)


放射線量率についても塩と同じ考え方をしてみませんか。気が楽になると思いますよ。

飯舘村について。

相変わらず議論が迷走しているので昨日の塩と放射線の話の補足する。基本的に行政機関の行動指針は「基準」である(その場の気分で判断されても嫌でしょ?)。ゆえに「基準」が誤っていない限り、放射線量に基づく判断に恣意性が入っているのではと疑うのは誤り。問題はそこではない。

食塩の1日の摂取量10gが安全基準としても、だからといって全員に10gまでは「摂取しろ」とは言えない。健康状態によって摂取を控えたい人もいれば、嗜好の問題で塩分が嫌いな人もいる。または、ここ数日塩分と取り過ぎたので今日は控えたい人もいるだろう。それが健康上影響のないレベルかどうかに関わらずだ。

人それぞれの考え方によって決めればよいが、こう考えたらいいと思う。あなたが誰かに料理を振舞う時「どういう料理を作ってあげたいか」という気持ちになってみることだ。健康被害がないから避難する必要がある/ないという観点ではなく、飯舘村の人たちにどうしてあげたいかで決めればいい

行政府は基準で動くべきだが、このような弾力的運用ができるのが政治だろう。なんのための政治主導なのだ。人間の心とは、そういう気持ちで動くものだ。人をマネジメントしたことのない人たちが行政府(官邸)の幹部なので理解できないのかもしれない。

こんな政府に人の心がつかめるわけがない。少し不謹慎な言い方かもしれないが、民主党政府はせっかくのチャンスを逃した。

ちなみに、織田信長は武士ゆえに塩分の濃い料理が好きだった。貴族向けの塩分の薄い京料理を不味いと罵り、田舎料理を好んだとされる。信長に憧れる人は塩分濃い料理を食べてみるのもいいだろう。

原発事故の背景にあった責任の空白化

2011-04-11 15:01:23 | 社会
原発事故の件で、ある工学者の無念に目がとまった。

「今回の事故で本当に悔しいのは、技術的難易度が高くコストがかかる部分では問題を乗り越えたのに、比して低コストで対処できる部分で躓いたことだ。ある些細な要素に気が止まらなかったためにシステム全体の信頼が再起不能なほどに著しく傷ついた。悔しくてならない。」

原子力関係者の本音かもしれない。

原子力工学の専門家が当初から楽観論を支持した背景には、原子力を擁護したかったのではなく"信じたくなかった"ことがある。自分の半生をかけてきた専門的な難問に比して、今回の事故があまりに簡単な要因によって左右されていて、それが自分の過去全てを無にするような状況を認めたくなかった。自己否定から逃げたかったのだ。

しかし、人生や世の中には他の全てがうまくいっていても、たった一つのボタンの掛け違いで崩れていくものが多々ある。クリティカル・ポイントだ。これはどんなシステムでも人間関係でも同じ。そしてクリティカル・ポイントを原因として崩れたものを、他の要素による努力で取り戻すことは難しい。 あがくだけアリ地獄のように深みにはまるだけだ。かくして原発も私も堕ちるところまで堕ちていく。

念のため書いておく。システム論的に捉えれば、今回問題として考えるべきことは「原子炉の安全性」ではなく「原発システムの安全性」である。原発全体に責任を持つ者は後者の観点で安全性を担保すべきであった。そうすればリスク要因の違った姿が見えていたはずだ。だが、実際はそうならなかった。

なぜなら、原発は政治的リスクと深く関わっていたからだ。一担当者が最終的な責任を負うことができる問題ではなかった。この権限と責任とのアンバランスさが最終責任者の不在を招き、結果的に原発システムの安全性への無責任という形で今回の事故と繋がった。

責任と責任との間から零れ落ちる部分で問題は発生する。日本人は、責任の空白化を生み出した原因を考えなければならない。私が思うに、前から述べるようにエネルギー政策に関する問題は安全保障に見られる構図と同じであり、それは大東亜戦争時に見られた構図とも同じである。

政府は震災復興に対する哲学を示せ!!

2011-04-08 18:55:34 | 政治
実に本質的な問い。
この記事が本当の話かどうかは関係がない。
ここに書かれていることは、我々に致命的に欠けているものを表している。
今こそ、日本人は本来のビジネスを理解する時だ。
この意味を理解できなければ、本当の意味での復興は有り得ない。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。
http://anond.hatelabo.jp/20110407001402

 知らないやつに、馬鹿みたいに「頑張って」とか「大丈夫」とか言われると、

 今は正直、消えてほしくなるよ。

 募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、

 町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。

 正直、ボランティアに「ありがとう」とか言うのも苦痛。」


被災者を本当に助けたいと思っているなら、被災者と支援者との間にWin-Winの関係を!
そして彼らに生き甲斐を!

声を大にして何度でも言う。

ビジネスとは、社会のニーズを事業上の機会に変換することであり、
またマネジメントとは、人の強みを生産的なものとすることである。

(ドラッカー)


政府は震災復興に対する哲学を示せ!!

人命と犬の命

2011-04-07 14:44:32 | 社会
捨てる勇気(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51695544.html

佐賀県武雄市の「被災犬受け入れ計画」について孫正義氏のつぶやきに私が「行方不明がまだ1万人以上いるのに、犬の心配してる場合じゃないでしょ」とコメントしたら、驚くほど多くの反発がきた。これは市が公共施設に犬を収容するのではなくNPOの支援を斡旋するという話らしいので、私のコメントにも誤解があったが、考えさせられたのは反論の多くが「人命も犬の命も同じだ」と怒っていたことだ。

その通りである。犬の命も猫の命も、牛の命も豚の命も同じだ。ではなぜ「牛を殺すのはかわいそうだ」という話にならないのだろうか。いうまでもなく、牛は殺すために飼われているからだ。デリダも指摘するように、犬をかわいがって牛を殺すのは、西洋の自民族中心主義にすぎない。インドでは許されない。

まだ行方不明が15000人以上いるということは、救援・捜索活動の手が足りていないということだ。被災地でもペットを施設に収容する話が美談として伝えられているが、ペットを救う余裕があるなら一人でも多くの人間を救うのが先であり、野犬化する犬は処分すべきだ。行政がその優先順位を混乱させるような指示を出してはいけない。


ある自治体が被災地のペットを受け入れる(NPOへの斡旋)計画を表明したことを発端とした「人とペット」の議論が混乱しているようなので、交通整理をしておきましょう。この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。

私は、総論として「犬よりも人命が大事」「優先順位が間違っている」という批判は正しいと思います。しかし、総論として正しくても各論として正しいとは限りません。どういうことか説明します。

まず、今回の震災対応に関する全体方針として「人命救助を最優先にする」これはブレていません。時期によっても変わってきますが、短期的には「救助」→「支援」→「復興」でしょう。これと同時並行して中長期の戦略を練ることも重要です。

では、短期的に「人命救助を最優先」したとして、我々のやるべき行動とは何でしょうか?これは人によって変わります。たとえば、自衛隊、警察、消防、中央官庁、東電、自治体(被災地)、自治体(非被災地)、被災地の人々、etc...いろいろあるでしょうが、皆やれることが異なります。

つまり、人命救助が最優先だったとしても、皆が救助作業に携わるわけではありません。それぞれの分野でやれることを最大限やるべきなのです。その観点からして、被災地ではない地方自治体にできることは何かを考えましょう。

「物資・経済的支援」や「被災者の受け入れ」がそれに相当するでしょう。しかし、被災者の受け入れ1つ取ってみても、1地方自治体が受け入れ可能な数は限られています。ただ、人を受け入れること意外にも可能なことがあるかもしれません。たとえば移住環境の向上、仕事の斡旋、ペットの受け入れなどです。

「ペットを受け入れる余力があればその資源を人に回せ」という意見もわかります。日本全体でも全ての被災者の受け入れ先を確保することができていないのであれば、全くもってその通りです。ですが、おそらくそうはならず、受け入れ先の確保は可能と思います。

であれば、衣食住の確保とともに、精神的苦痛を和らげる対策を練るのが必然的な流れでしょう。もちろんその原資が税金ということになれば税負担者の理解が必要です。

そして、私が考える最大のメリットを説明します。それは、被災者の精神的ケアにかかるコストを削減できるというメリットもあります。精神的衰弱を防ぎ、医療的資源や医療費を削減するとともに、行政と被災者の信頼の構築に役立ちます。非常事態には規律が何よりも重要です。

今生きている命を救うことも人命救助のひとつ。

生きているかもしれない可能性の低い命よりも、今生きている命は救える可能性が高いし、これからの命も救える可能性があります。どちらが全体最適なのかはよく考えてみる必要があります。

「この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。」 冷徹なほど合理的に考えた結果がペット保護なら私は支持したいと思います。

どうも、ペット保護を訴える側は感情論が多いような印象がありますが。


参考:
改めて思ったが、この国には「命」についての議論が致命的に欠けている。

政府は一刻も早い体制の立て直しを

2011-04-06 20:27:57 | ブログ情報(News Release)
ロバート・ゲイル博士の説明をこれまで幾つか読んだが、どれも非常にわかりやすい。
やはり経験は重要だと思う。
座学だけでは説得力のある説明をすることができない。

放射能汚染を巡る日本人の誤解と政府の説明責任
――チェルノブイリの惨状を知る被曝治療の権威
ロバート・ゲイル博士に聞く(Diamond Online)
http://diamond.jp/articles/-/11772

分野に関わらず、よく「答えは現場にある。」というが、これは現場の情報量が圧倒的だからだ。
生の情報は文章や映像などに加工されると、その時点で情報量が相当落ちる。
現場にいたら身に染みてわかることが、Dataという形になると存在自体も消えうせてしまうのだ。、
IT技術の進化でTV会議やE-mailによるコミュニケーションが増えたが、逆に直接話すことによって理解し合えることの方が圧倒的に多いことに多くの人が気づいた。

よって、政策を練り上げる立場の人々は、生の情報を得る努力をしなければならない。
直接的に現場を確認することができないのであれば、報告を待つだけではなく現場を確認する要員の確保をしなければならない。
そして、その情報を数々の現場を見てきた人々で精査するのだ。

先の大戦では、現場と参謀本部/軍令部とのズレが大きな作戦ミスにつながった。
震災後の政府の動きを見ていると、どうも歴史を繰り返しているように思えてならない。
同じ失敗を繰り返してはならない。

一刻も早い体制の立て直しが必要だ。