進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

小沢は辞める必要ない、選挙で国民に責任をとらせよ

2010-04-28 10:22:05 | 政治
これはいつも思いながら、それでも書くことを躊躇していたのだが、今日は書かせてもらおう。
品性のない人間と思われても仕方がない。

日本にはマス"ゴミ"しかいないのか。と。

マスゴミが検察審査会が「起訴相当」と判断したことを大きく取上げている。
小沢一郎が幹事長を辞任すべきとか、鳩山首相が小沢を解任すべきとか。
当初からマスゴミ連中が狙っていた浅はかなストーリーとはいえ、いい加減に腹が立ってくる。

なぜ私が怒っているのか?
それは、このことが日本の政治をよりダメにするだろうと思うからだ。
マスゴミ連中のマスターベーションに付き合わされて日本はどんどん傾いていく。
小沢が幹事長を辞めれば、民主党は崩壊するだろう。
今の民主党に組織を維持するための仕組みもなければリーダーもいない。
中途半端な半人前連中の集まりで、プロの政治家がほとんどいない。
民主党に政権構想を持っているような政治家が小沢以外にいるのか。
民主党政権に崩壊してもらいたい人々には嬉しいニュースなのだろう。

確かに、民主党は幼稚な政党かもしれないが、しかし長期的にプラスなこともある。
それは、日本に民主主義を根付かせるチャンスだ。
国民自身が国家に責任を持つという民主主義の根幹を理解するチャンスがある。
お上でも政治家でも官僚でもなく、国民が政治に参加しなければならないと気づくチャンスだ。
それこそが小沢一郎が政権交代に託した夢だ。
もしここで旧来型の政治に戻ってしまったら短期的にはいいこともあるかもしれないが、日本の夜明けは遠のく。
このまま戦国時代に突入していかざるを得ないのか・・
大局を理解して欲しい。


そもそも、当Blogでも取上げたように、逮捕された石川議員以下3名は無罪である。

「政治とカネ」に関する公認会計士の見識
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/8ea9ba7415cb02c397ad591e8688c2df

その無罪の人達との共犯って一体どういうことだ。
どういう根拠があるのだ。
そっちが気になって仕方がない。

この事件はより一層国家の威信を貶め、国民の気持ちはどんどん国家から離れていくだろう。

自らを守るために自らの首を絞める。
子供だな。

国民のみなさんも、鳩山首相や民主党に自浄作用を求めるのは辞めましょう。
自分達が判断すべきでしょう。
選挙で。
自分達の選択に自分達で責任を持ちましょう。
自分達だけリスクを負わないなんてことは許されませんよ。
いつまでたっても国民は学習できませんから。

・参考

小沢議員に起訴相当決議(政治とカネ211)(弁護士阪口徳雄の自由発言 )
http://blogs.yahoo.co.jp/abc5def6/61493553.html
小沢氏の事件に対する起訴相当決議について(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/04/post-993b.html

利他とは自己利益のことなり

2010-04-27 20:05:23 | スピリチュアル

こころの保険「ゆるす言葉」(わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2010/04/post-45b4.html


 怒りについて、考えなおしているいま、ダライ・ラマ14世の「ゆるす言葉」を読み直す。

[中略]

 いちばん響いたのは、次のことば。


     ゆるしの気持ちを身につければ、
     その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。

     ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
     「自分を自由にする手段」です。


あぁ、その通りなんだ。


    ほんとうの意味の思いやりは、
    まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。

    まず自分自身に思いやりを持ち、
    それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。

    つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、
    他者を思いやることなど不可能なことだからです


この説明では言葉足らずだけれども、私がこのブログで訴えてきていることは、つまりそれなんだ。
利他とは自己利益の追求なのだよ。

これについてはいずれ述べるつもりだ。

「仕事」も「家族」も価値観として大差ない 補足

2010-04-27 19:10:19 | 社会
前回のエントリがわかりにくかったので、ちょっと補足説明する。

「仕事」も「家族」も価値観として大差ない

私が問題提起したかったのは、「仕事」で多くの人の幸せに関与している場合、それが「仕事優先によって人生を犠牲にしている」かのように言えるのか、また「家族」不和によって苦労している人にとって「家族優先によって人生を豊かに生きている」かのように言えるのか、などなど、考えたらキリがないが、そうは言えないケースも多々あるだろうと言いたかったのだ。

つまりは、人生を豊かにより豊かに生きるために「仕事」か「家族」かなんて問いは何ら有意でないし、(前回のエントリでリンクを張った)池田信夫氏が指摘するように、日本人にとって長らく「会社」が「中間集団」として機能したというだけで、「家族」が正しい「中間集団」というわけではない。

これは極端な例だが、例えばマザーテレサに仕事はほどほどにとか言えるのか?
何ゆえ会社に滅私奉公するのはよくなくて、家族に滅私奉公するのはよいのか。
会社は裏切るからか?
では家族は裏切らないのか?

無理に何らかの価値観にロックインすることはない。
「家族」に多くを求めてはいけない。
日本では「家族」に力がないことが証明されているといってもいい。
「家族」に頼ることはできないのだ。

そんな小さな共同体にロックインしてしまうことはない。

「仕事」も「家族」も価値観として大差ない

2010-04-27 15:31:32 | 社会
このエントリは苦しい・・途中で書く気力を失ったので後半が・・

日本人を苦しめる「仕事は家族より優先」という異常な発想 (Rails で行こう!)
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20100426/1272289840

これもまた一側面ということですが、私なんかからするとちょっと違和感を感じます。

日本の経済成長が鈍化し、そして将来的にも向上する見込みがなくなると、日本のビジネス界には閉塞感が蔓延するようになりました。
そんな中、日本人の意識もずいぶんと変わってきているようです。
従来、生活水準の向上が人間に幸福をもたらしてくれるものだと思われていましたが、実はそうではないと今では多くの人が疑問を持ち、そして幸福をもたらしてくれる何かを模索し続けています。
その代表的テーマが「仕事より家族が大切なのか、家族より仕事が大切なのか」です。
しかし、私には、この命題が有意なものになるとは到底思えません。
「家族が自分に幸福をもたらしてくれる」という発想すら疑わしいと思うからです。

※ここでは「家族」を血縁的構造ということにしておきます。

これは実に不思議なのですが(考えれば不思議でもないけれど皮肉として)、なぜか人間が幸せになるための構成単位(あたかも必要十分条件)として「家族」を挙げる方が多いようです。
特に、人間の幸福について自説をお持ちの方に多い気がします。
が、私のような悲観的家族観を持つ人間は、この考えに非常に違和感を感じます。
というのも、私は「家族」というものそれ自体が幸福をもたらしてくれることは、まず有り得ないと考えるからです。
(これは普段から自分の家族と話し合う内容でもあるのですけれどね)

私がそう思うようになったキッカケは、自分の人生経験に由来しています。
私は物心ついてから、自分が自立するまでの間に、家族的幸福を感じたことがほとんどありません。
「幸福」というものは相対価値ですので、当然ながら、比較する生活なしに、その生活が幸せか不幸かを評価できるわけがないからです。
私にとっての家族的幸福とは、いつも後付け的なものでした。
「子を持って知る親の恩」という言葉は、後付けの説明として非常にわかりやすいと思います。
それに私は、親元で生活している間、自分の人生に不満しか持っていませんでした。
親兄弟に満足したこともありませんし、自分の利益になる場合にだけ、家族に対する感謝を感じていました。

思いつきかつ私事で申し訳ありませんが、自分の経験談を踏まえて自説を述べたいと思います。

私は父親の実家に祖父母と生活を供にしていました。
旧来の日本的家族にはよく見られた嫁姑問題もありましたし、私が中学生になると祖母が脳梗塞で倒れた後に痴呆症になったため、介護問題も経験しました。
父の兄弟には勘当された人もおりましたし、また異母兄弟的な問題も親世代にありまして、何かと問題の多い家族であった(旧日本的家族にはよく見られた光景)ではありました。
家計はその地域の平均よりも少し低い程度だったのではないかと思います。
また、私は誕生日やクリスマスにプレゼントをもらった記憶も、お年玉ももらった記憶もほとんどありませんし、服はいつもお下がりでした。
兄弟も多かったので、自分の部屋なんてものもありませんでしたので、家の中にプライベート空間など存在しませんでした。
当時、日本にはそういう家族も多く存在したろうから、私は、それが特別だとは全く思いませんでしたが、自分が幸せだとも思っていませんでした。
「貧しかったけれど心は豊かだったあの時代」的なことを大先輩達はおっしゃるのですが、私は大人になり親になった今でもそんなことは少しも思いません。
私には「心の貧しかった時代」としか思われません。

それにしても、痴呆の介護はかなり家族にとって精神的に苦痛を担うものでした。
毎日、家の中には怒号が響きます。
これがかなりストレスフルなのです。
受験勉強に勤しんでいる時もです。
私は自分がノイローゼになるかと思いました。
人間同士として理解し合えない人が家の中にいるわけですから、頭が固くなってしまった大人達からすれば、一方通行のコミュニケーションしか許されない痴呆老人は怒りを増幅してしまう存在です。
どんどん家族内不和が広がっていきました。
タダでさえ私の両親と祖父母とはうまくいっていなかったのに、それが更に悪化し、その上、私の親にも離婚の危機が訪れます。
もうだめだなと思いました。
ただでさえ、好きでなかった家族が大嫌いになりました。
今の生活ですら破綻しているのに、若い自分には明るい未来を考えることができませんでした。

当時の私には夢も希望もありません。(だから今でも若者に「夢を持て」などという人を疑いの目をもってみてしまう)
そんなものを持つのは贅沢だったのです。
未来なんてどうでもいいのです。
だって、自分にとっての人生とは、生まれてから"そんなもの"なのだから。
人生に価値があるなんて思っていないのです。
子供が自然状態で自分の可能性に覚醒するなんてことは有り得ません。
後天的な社会的教育効果なくして、社会的な将来像など思い浮かべるはずもないのです。
なぜなら、社会が人工のものだからです。
そうです。私にとっては、自分の人生すらどうでもよかったのです。
別に失うものもありませんでしたから、死んでも構わないと思っていましたし、どうせ死ぬならこのくだらない世の中を変えてやろうという危険思想に傾倒していきます。
間違っているのは自分ではなく社会の方だと真剣に考えていました。

当時、新興宗教団体の問題がクローズアップされていました。
社会的に閉塞感が立ち込め始め、多くの人が幸せを求めてさまよっていた時期です。
私は閃きました。
私が人生をかけるべきはまず精神革命だと。(なにやら昔よく聞いた話ですね)
高校生の時に私は家出をしました。
いわゆるグレですね。(私は賢いグレだと考えていますが)
将来的に有望そうな若者をスカウトして、自前で怪しい団体を組織しました。
チームみたいなものです。
代表は私と共同代表のもう1人です。

いつものことですが、ちょっと脱線してしまったので話を少し戻します。
(ついつい語りたくなってくるのは歳のせいでしょうきっと)
私にとって血縁による「家族」なんてものは単なる貧しかった時代の生活を構成する単位でしかなく、そこに思い入れはあれど、自然状態での絶対価値など認められないものです。
血のつながりが人間関係や幸福とに根本的な相関関係があるなら、人間社会で最も殺人事件が起きる現場が家庭であるはずがありません。
私には、「家族」に幸せを求めることは、「会社」に幸せを求めることとなんら大差ないように見えます。
たとえ生物学的に、遺伝子の優位性を支持する学説があったとしても、そんなものが与える影響は社会的影響に比べて誤差みたいなものだと私は考えたいです。
「生みの親より、育ての親」という言葉を支持したいと思います。

絆とは、血によって結ばれるものでは決してありません。
「人間」という言葉が「人と人の間」と書くが如く、人は人との関係性の中に意味を見出す生き物です。
「家族」も「血縁」も一つの関係性に過ぎず、人生の意味を規定できるほど強いものではありません。
現に社会によっては子育てを家族で行う必然性はなく、人生になければならないものではないのです。
「家族」の喪失は「心のふるさと」の喪失を意味しません。
何度もいいますが、家族なんてものは幸福の必須要件ではありません。
我々は「家族」や「血縁」よりももっと強い関係性を見出すことは可能です。
いや、可能でなければなりません。
もし不可能なら人類は絶望する他ありません。
もしそうなら、人類が存在する時点で「家族」という不幸が宿命付けられているからです。
社会の構成単位が家族しかありえないのだとしたら、その時点で社会的不幸が埋め込まれてしまいます。
そんな自ら死地に赴くような馬鹿みたいなことをしてはなりません。

と、何か観念的というか希望的というか、単なる意見的なものになってしまったのですが、きっと今とても体調が悪いことに起因して全く筆が進まないことと関係があると思います。
ただ、ここでの要点は「家族」なるワードや構造にこだわる必要はない。
それは絶対的価値観などではなく、単なる人類の長い歴史の中の一幕に過ぎないと言いたいのです。

などと考えいていたら、池田信夫氏が非常によいエントリを書かれていたので紹介します。

新たな「アゴラ」は見出せるか - 『〈私〉時代のデモクラシー』(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/991626.html


古代ギリシャでは、ポリスの公的領域であるエクレシアと家庭の私的領域であるオイコスの間に、公的でも私的でもない「広場」としてアゴラがあった。これは現代風にいえば中間集団だが、現在の「後期近代」とよばれる時代の特徴は、こうした中間集団が崩壊し、社会が国家と<私>の二極に分解しつつあることだ。

トクヴィルは、アメリカでは孤独な<私>を結びつける教会や結社などの人工的な中間集団をつくる努力が意識的に行なわれていることを見出した。

[中略]

1980年代に社会主義が崩壊する一方、福祉国家が財政的に破綻し、「小さな政府」に向かう後期近代に入った。これにともなう社会の<私>への分解を批判したのがコミュニタリアニズムである。他方、日本では、伝統的な共同体が会社に横滑りする形で近代化が進行したため、公的な福祉支出は小さく、会社が個人を守り、彼らの人生に意味を与える役割を果たしていた。

この擬似近代化は経済的には成功したが、そこには<私たち>のデモクラシーがないため、90年代以降の長期不況で会社共同体が崩壊すると、人々は所得だけではなく人生の意味を見失い、自殺が激増した。

[中略]

自民党政権の崩壊は、この意味では歴史の必然というより遅すぎたのだが、それに代わって登場した民主党政権は、こうした変化をまったく理解せず、前期近代の遺物にすぎない社民的イデオロギーや労働組合に依拠して所得移転を行なおうとして政策が破綻してしまった。この閉塞状況を脱却するには、会社への幻想を捨て、<私>が新たに集まるアゴラを創造するしかない。

しかし、もともと人工的な中間集団の伝統がない日本では、NPOなどの「新しい公共」はお遊びにしかならない。ネット上の言論が出発点になるかもしれないが、新たなアゴラの形成は、はるかな未来の希望にとどまる。本書もこうした問題を指摘しているだけで、新たなアゴラを示しているわけではないが、それを批判するのは酷だろう。そんな答を見出した人は、まだ世界のどこにもいないのだから。

[つぶやき] 血は出会いを求める

2010-04-25 00:50:53 | スピリチュアル
生物は高度化するほど、外部に出会いを求めさまようものなのです。
そこにいつづけることは許されないからです。
変容こそが宇宙の本質なのです。

免疫耐性あれこれというのは一側面でしかないのです。

ついに解明されたハプスブルク家滅亡の原因(YUCASEE MEDIA)
http://media.yucasee.jp/posts/index/2953?la=0008

離婚式ビジネス

2010-04-23 18:38:00 | ビジネス
これはすごい!!

「離婚式」で新たな門出 親類らに別れを披露 (神戸新聞)
http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0002899036.shtml

離婚式ビジネスですか。
葬式ビジネスとはまた違うテイストで、その視点はなかったです。

離婚したことはしばしば人生の汚点になりがちではありますが、その主な原因は、解決しきれなかった問題が残り続けるからなのではないかと思うのです。
つまり、離婚式なるものの登場で、それらの問題が解決されれば、いわゆる「明るい離婚」「前向き離婚」が増加するかもしれませんね。

結婚ビジネスほど市場規模は大きくはならないだろうと思われますが、結婚と同じくらい人の幸せに関わるお仕事のような気がします。

匿名指向から実名指向へと変わるのか

2010-04-23 14:35:57 | ビジネス
IBMが社員個人のブログに実名と所属を明記することを奨励することにしたという。

「実名・勤務先明記」へ(経済学101)
http://rionaoki.net/2010/04/3942

これは非常にいいことだと思う。
日本ではサラリーマンが実名でブログを書くことは難しいのではないかと思う。
ましてや勤務先を明記することなど恐ろしくてできない。
いや、書けるのだけれども、何かあったらまずいというリスクを過大評価する傾向にはあると思う。
別にインサイダー情報を書くわけでもないのに、会社の方針がわからぬので過剰に神経質になる傾向はあるし、勤務先を記さずに個人名でブログをやっていても、何か問題が起きればその人が所属する企業が叩かれるのが日本的風土というものであって、それゆえ、個人も会社も実名をさらすことに躊躇せざるをえない。
アメリカでは個人名を売ることが自己利益となるので実名指向なのだろうけれど、日本の場合、雇用が硬直化しているので、特に大企業に勤務する人ほど実名をさらすインセンティブがない。
会社を辞めても個人で食っていけるような人物ならそれでも実名をさらすだろうけれど、多くの人にとってメリットがないのだ。

しかし、最近流れが変ってきてもいる。
最近ではTwitter営業なるものまで持てはやされているが、単純化してしまえば「社員の見える化」であろう。
会社そのものに人格があるわけではないので、実際に仕事をする担当者の顔や考え方がわかるというのは、ノミニケーションでしか得ることのできなかった情報を手に入れることができるということで、非常にいいことだ。
どこの人がどういうことを考えているかがわかれば、コーディネーションがこれまでよりうまく成立し、そこにビジネスチャンスも多く生まれるであろう。
むしろ、そういう流れは旧来型のビジネスをしている人にとっては嫌なものになるだろう。
なぜなら、ラベルではなく実態勝負になってしまうと、これまで肩書きで仕事をしてきた人々にとっては嬉しくない。

私は古いタイプの人間かもしれないが、私は上場企業の役員くらいになったらブログの一つでも実名でやるべしと考えている。
社会貢献やらリーディングカンパニーやらを主張するのであれば、実際に権限を持っている役員がそれを個人名で堂々と主張したらいい。
主張するビジョンがないのなら、会社として主張するのも馬鹿げている。
そんな会社の言うことなんて誰も信じたりしない。

しかしながら、そうなってくるとより一層息つく間もない世の中になってくるなとも思う。
「見えないところを残してよ」という意見が聞こえてきそうだ。
しかし、そうはいってもその裏では誰かが損している事実もあるわけだ。
労働環境が柔軟化しない限り、どこにいても競争にさらされる恐怖は増幅し続けるのだろう。

今の日本に社会的問題を解決できるはずがない

2010-04-22 19:45:42 | 社会
近頃問題視される案件に「世代間格差」がある。
確かに日本の富は高齢者に偏っている。
若者は所得も低く資産もない、その上、将来的に所得が向上する見通しはない。
今、最もマネーを必要としている人々にマネーが回らず、消費性向の低い高齢者がマネーを滞留させている。
このアンバランスを是正するための案として、資産に対する課税、相続・贈与税の低減などが提案されている。

ご指摘ごもっともであるが、しかし、そのような施策で、このアンバランスが解決するとは私には到底思えない。
そもそも、この世代間格差問題をアンバランスとして考えること自体が、少なくても当事者(高齢者)にとっては「椅子取りゲーム」にしか思えず、不信を生み出すだけだからだ。
説明は後述するが、この問題を解決するにあたって最も重要なことは「信頼」である。
マネーが市場を通じて循環するために基本的に必要なものが「信頼」であるからだ。
不信が生まれては、解決から遠のくだけだ。

「世代間格差」問題を「富のアンバランス」の問題として捉えてはならない。
この問題は、国家が真なる意味で市民を国民として統合できるか否かという、国家の基本的問題なのである。
日本で国家間が語られることは少ない(一部の過激系の人達は語っているけれど)が、「国家」が今、その存在意義を問われているのだ。

まず、基本的なところに立ち返ってこの問題を考えてみよう。
高齢者は、なぜ日本の富のほとんどを所有していながら、それを消費しようとしないのか。

答えは簡単である。
今持っている富では、自分が安心して暮らしていくには不十分だと考えているからだ。

日本人が、どの程度の生活水準をどの程度の期間だけ維持していかなければならないか、そのためにどの程度の富を必要とするのか、という問いに明確に答えられるわけではない。
だが、生活水準をさほど落とすことなく人生を全うするためには、相当の富が必要である、という認識だけは共有されている。
その生活水準や額について、明確な指針があるわけではないし、その生活水準を維持したからといって幸福が約束されているわけでもない。
ただ、いざという時に誰かが自分を助けてくれるという保証はないし、誰かに迷惑をかけて生きていくのも自尊心が許さないし、最後まで自立して生きていくことを人間の生き様として善しとするなら、そのためにはやはり先立つものが必要だと思うのは自然のことである。

ここで「あなた達が富を独占しているから若者達は飢えている」と言われても、自分はモノもなかった若い時から、それなりに努力をして、時にはそれこそ社会保障なんてない時代から砂を噛む想いもしながら得た労働の対価として、今の富を手に入れたつもりだから、それを無償で分け与えろというのは都合のいい話だと思うだろう。
自分達は前の世代を世話してきたし、モノも何もない時代からここまで日本が発展できたことの一因として自分達の貢献があるのだから、それなりの境遇は用意されるべきだとも思うだろう。
リバタリアニズムの見地から言っても、労働の対価を搾取するのは奴隷制に等しい。
どうして自分達が、働かない若者の奴隷として搾取されなければならないのかとも思うだろう。
そりゃ、誰かの役には立ちたいし、社会的貢献もしたい。
ある程度の自己犠牲があっても自分がこれまでの人生で得た知識や技術を社会に還元したい気持ちもあるだろう。
だけれども、自分だけが貧乏くじを引くことを恐れているのも確かだ。

高齢者は自分達が社会的に弱者だと考えているし、若者は自分達が社会的弱者だと考えている。
何が問題なのだろうか。

私はこう考えている。

我々、日本人は「社会的弱者が何か」という問題にすら答えられない、いや、答えようとしてこなかったのだ。
絶対的、相対的に関わらず貧困率を調査するしないなどという話のその前に、我々は貧困と社会的弱者の区別ですらわかっていない。
我々は、社会に関する価値観について、何ら共有していない。
社会なんてものを知らなかったからだ。
社会的弱者という場合に、まず社会がわかっていないのだから、弱者もわかるはずがない。

国家が何らかの役割を果たすべきであろうという議論の中で出てくる社会的弱者のイメージも全く共有されていない。
各々が好き勝手にそれぞれのイメージを述べているに終始し、それを主義思想の違いなどといって自ら迷宮に入り込むのだ。

日本人は「国家」というもの自ら作り上げたつもりもないし、それがどういうものかもわかっていない。
いや、わかっていなければならないわけではない。
自生的に発生する国家もある。
しかし、自分達が国家というものについて「わかっていない」ということを、日本人はわかっていない。
社会についても同様だ。


・・・いいところなのだが、時間がないので続きはまた今度。

法人税ゼロの衝撃

2010-04-22 19:08:18 | 経済
【スクープ】政府「法人税ゼロ」検討(日経ビジネスオンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100421/214113/?P=1


政府が今回、法人税減免の対象と想定しているのは、国境を越えて活動する多国籍企業が、アジア域内の拠点を日本に新設するケースだ。「日本のアジア拠点化」を旗印に、海外、特にアジアの新興市場の活力を取り込むことで、日本経済の新たな競争力の核となりうる企業を積極的に誘致する考えだ。

[中略]

目玉となる法人課税の減免は、最大で100%免除とする。企業との個別協議で法人税率を0~10%に減免しているシンガポールなどとの対抗上、大幅な減免が必要と見ている。

[中略]

また、有能な人材を確保するために、所得課税の減免や、親族や家事使用人を含めた入国手続きの簡素化なども検討する。配偶者の就労が制限されている現状も見直す。


本当か。
ここまで踏み込むのか。
逆に日本の企業から自分達に旨味がないと反対意見が出そうだ。
一度やれば全体に広げるしかなくなる。
これは画期的だ。

討論に負けない方法

2010-04-20 11:05:54 | 哲学・思想
前回のエントリで「ハーバード白熱教室」中の「リバタリアン・チームのレベルが低い」ことを取上げたが、どうレベルが低いのかについて説明していなかったので、少し書くことにする。

サンデル教授は、第3回のリバタリアニズムの議論を展開する前に、リバタリアニズムが依拠している考え方として「自己所有権※」について触れている。
ノージックらが提唱するリバタリアニズムがロック的な自己所有権に依拠しているというのだ。(私が知る限りジョン・ロックの所有権論は一様ではなく、グーグルで検索すると多くの解釈が存在することがわかる。なので、ここでは独断と偏見で私的解釈に基づくものを採用する。)

自己所有権というのは「自分の所有者は自分」という権利だ。
すべての人が自分自身の身体に対して所有権を持っており、所有権は労働によって獲得され、保持される。
自然状態から労働により生み出されたものは、その労働主の所有物である。
リバタリアニズムでは、労働によって生み出された利益は労働主の所有物であり、それを税金などで徴収するのは強制労働に等しく、つまり徴税国家とは国家による奴隷制に等しいというのだ。
ゆえに、個人の裁量では達成できない警察や消防、国防などの最小限の公共財に国家の役割を限定すべきであり、これが「小さな政府」への流れとなる。

サンデル教授は、このリバタリアニズムへの賛同者と反対者に分けてディベートをさせるわけだが、ある程度この手の議論に慣れ親しんだことのある人なら、この時点でサンデル教授のトラップに気づくはずだ。

「あ~、サンデル教授め、最初からリバタリアン・チームを崩壊させるつもりだな」と。

どうしてか。
それは、サンデル教授が「リバタリアンとは・・"自己所有権"に依拠している・・」と話を展開しているため、その議論の中で生まれるリバタリアン・チームは必然的に「自己所有権」に依拠した議論を展開することになる。
そして、あろうことかリバタリアン・チームは、そのままサンデル教授の術中にはまり、「自己所有権」を前提として議論を展開してしまう。

馬鹿である。
私が反対陣営なら真っ先に「自己所有権」を攻撃するからである。
これはディベートの基本中の基本だが、相手が依拠している前提を崩しにかかって、それに成功すれば相手を総崩れさせることができる。
現実に、講義の最後の方で、ある学生から「自己所有権に対する疑念」が投げかけられ、サンデル教授が待ってましたと言わんばかりに取上げていた。
初めから彼のレールの上に乗っかっていたのだ。

「反証可能性のないものは科学ではない」という言葉があるように、どんな科学的理論も、必ず反証可能性を含んでいる。
反証可能性というのは「前提」のことだ。
どんな理論にも「この理論が成立するのは、その前提に○○条件が成立する場合にのみ限る。」という前提が必ずある。
「反証可能性」という言葉からもわかるように、前提が崩れれば反証成立である。
その時点で、どれだけ輝かしい理論も崩壊するのだ。

だから、例えばプレゼンする時には、手馴れている人は必ず議論の初めに「前提」を明確にしておく。
自分の責任範囲を明確にする上でも、発信者には必須の要件である。
つまり、「この前提が成立すれば、この考えは真である。」というのが普通。
前提が共有されていれば、考え方について正しいかの議論となるし、前提が怪しければ、前提が正しいかの議論になるだろう。

もし、ディベートで相手に勝ちたいのなら、相手の「前提」を掴み、攻撃することだ。
逆に負けたくないなら自分の「前提」を掴まれないことである。

もう一つ、ディベート・テクニック(寝技)を披露しておこう。
討論などをしていて、負けそうになった時、よく使われるテクニックだ。

それは、「前提」を「反証不能領域」に持っていくことだ。
「反証可能性がなければ科学ではない。」ということは、つまり「科学的理論は全て反証されるもの」なのである。
つまり、どのような科学的理論も負ける可能性を含んでいる。
そこでだ。
負けたくない場合、非科学的理論を打上げればいいのだ。
「前提をひっくり返される=負け」なのだから「ひっくり返されない前提=負けない」を使うのである。
それが、正しいか正しくないのか、説明付けられない前提に依拠すれば、絶対に負けない。
「神の存在証明」と同じく、物事は否定しきることができないからだ。
「神の存在証明=神が存在しないということは証明できない。」
神がいることを説明できなくても、神がいないことも説明することはできない。
神を存在することを説得するのは難しいが、神が存在しないと言い切ることはできない。
つまり、負けないのだ。

前提を反証不能領域に持っていくと、あとは神学論争になる。
そうなると、論理の正しさよりも、「物語としての説得力」が勝敗の分かれ目となる。
より多くの人を納得させられた方が勝ちだ。

この論法を多用する組織は地球上に多い。
宗教組織がその典型だ。

(私は勝つことを目的に議論しているわけではないが)
私は、これまで数多くの宗教関係者と議論してきたが、まず勝てない(負けもしないが)。
最初にお互いの知識をけん制しあったあとは、物語比べ(知恵比べ)になる。
どちらが想像力と創造力を発揮できるかの勝負だ。

もしあなたが「宗教団体に入る人なんか頭悪い」と考えているなら、それは相当な勘違いである。
そういうあなたこそ、そういう団体に入る可能性がある。
彼らはかなり頭がいい。
ある有名宗教団体の幹部などは、非常に頭がよかった。
その辺のボンクラ心理学者程度やビジネスマンなら負けると思う。
哲学者としては当然この手の話は既知なので神学論争になるだろう。
(妄想族の端くれたる私ですら妄想負けを覚悟したほどであったが、長期間の往復書簡の末、最後は理解し合えないということで途絶した。)
彼らは、ここに書いてあるディベート・テクニックを熟知しているのだ。
なんとも恐ろしいことだ。

問題は、議論の「前提」に気づく能力があるかどうかなのだが・・。

ハーバード白熱教室が面白い

2010-04-19 14:17:56 | TV・書籍
毎週日曜日の午後6時、NHK教育が熱い。
マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」がめちゃくちゃ面白い。
面白いというより、悔しさに似た羨ましさを感じざるを得ない。
私も、あそこでディベートに参加したい。体がうずうずしてくる。

番組説明はNHKのホームページから抜粋する


創立1636年、アメリカ建国よりも古いハーバード大学の歴史上、履修学生の数が最高記録を更新した授業がある。政治哲学のマイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」である。大学の劇場でもある大教室は、毎回1000人を超える学生がぎっしり埋まる。あまりの人気ぶりにハーバード大学では、授業非公開という原則を覆し、この授業の公開に踏み切った。ハーバード大学の授業が一般の目に触れるのは、史上初めてのことである。


4/18の放送は「富は誰のもの?」というテーマでリバタリアニズムについて議論していた。
その前回まえ、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルの功利主義を説明し、その流れでジョン・ロック -> ロバート・ノージック -> フリードマン とリバタリアニズムを説明、その後に学生からなるリバタリアン・チームと他の学生達をディベートさせるのだ。

リバタリアン・チームの学生のレベルがちょっと低くて(といっても学部ならさすがハーバードというレベルだが)不満な内容もあったが、総じて面白い。
サンデル教授の存在が、議論を高次元で融合させていくのだ。
変な討論番組を組むよりも、ハーバードの講義を見た方がずっと面白いと思う。

ただ、サンデル教授が使っていたのがOHPというあたりに歴史と伝統を感じた・・
そういえば昔、プレゼンするのにOHPを作っていたのを思い出した。
気づいたらパワーポイントになっていたが、同時に無駄にグラフィカルになったものだ。
真に面白い講義ならOHPで十分なのかもしれない。

それにしても、会場を見渡すとアジア系の学生が目立つ。
中華系に韓国系の学生が多いということか。

[家族] 「虐待」から日本を考えるシリーズ 初め

2010-04-15 20:14:28 | 社会
何を観察するとしても、「視点」が非常に重要だ。
我々人間は限られた情報の中で評価をするなり判断をするなりしているが、得られる情報は「視点」によって大きく変るからである。
人間界に見られる「意見の違い」は、「視点の違い」からくることがほとんどかもしれない。
それほどまでに「視点」は重要なのである。

もう一歩話を進めると、その「視点」は「信念」によってつくられる。
「信念」の違いが「視点」に与える影響は大きい。
「信仰」の違いは地球上にある大きな問題の一つだ。

見ているもの、聞いているもの、考えているもの、そして信じているもの、これは宇宙の全てではない。
あくまでも、ある「視点」からみえる限られた情報の下での評価なのである。
人間の五感という入力器官を絶対視している人もいるかもしれないが、人間が五感から得られる情報はあまりに少なく小さい。
この宇宙にある情報の、ほんの、極めてわずかなものしか、我々は入力として認識することしかできない。
この宇宙には、あなたが見ていないもの、聞いていないもの、考えていないもの、信じていないもの、これらの方が圧倒的に多いのだ。

何かをみるときや考えるときには、決して、このことを忘れてはならない。


さて、当Blogでは、様々な物事を考えるにあたって「視点」を重要視している。
当Blogのコアコンピタンスは「スピリチュアル」であろう。(登場回数は少ないが)
それに続くものとして「恋愛」「結婚」などを提案してきた。(これも登場回数が少ない)
人間がつくる社会を語るにあたって、人生を大きく左右する「恋愛」は外せないと考えるからだ。

そして、今日ここにまた新たな「視点」を用意することにする。
「家族」そして「虐待」である。

社会や世相を表す指標は数多く提唱されている。
特に最近の日本では「自殺」や「無縁」などがそれにあたるであろう。
それも重要な視点である。
だが、私は「虐待」というワードに一際注目している。

現在、日本では年間4万件の児童虐待と、50件程度の虐待が理由による死亡が報告されているという。
これまでは表に出てこなかったこともあるだろうが、少子化にも関わらず増加傾向だ。
私が思うに、報告されていない件や準虐待なども含めれるとこの30倍のスケールはあると考えている。
(根拠はないが、自分の経験則とハインリッヒの法則「1つの大事件の裏には30の小事件がある」を参考にしている)
つまり、年間120万件程度の虐待が起きていると考える。
そして、これが社会に与える影響は計り知れないほど大きい。

なぜそう考えるのかを説明する。
虐待が子供に与える影響は、大人が考える以上に、根深くて大きい。
虐待を経た人間の精神はある意味で病む。
劣悪な環境が、幸福への精神構造を複雑化するのだ。
人間は、自分の裁量が極めて限られた環境下で虐げられると、自己アイデンティティを保つために、様々な試行錯誤を行う。
重度な場合には、多重人格や精神分裂症などもこの流れの中で起きるが、そこに至らぬ場合においても、何がしかの重大な影響を精神に受ける。
結果として、短絡的、悲観的、他者への負の連鎖(他者の幸福の拒絶)、これらを生むのである。
人類の歴史的に見ても、虐げられている民族の中には救世主願望が生まれたり、排他主義的な思想が蔓延したりする。
そして、この問題の最も深刻な点は、本人にその自覚がないことである。

精神を病むことの最大の問題は、その症状に本人が気づかないところである。

「信念」の段階で刷り込まれた「視点」と、その視点から見える「世界」を事後的に変更するためには、信念を変えることによってしか変えることはできない。
これは、並大抵の努力では成し遂げることができないことである。

児童虐待は、その人の人格形成に社会的に見て大きな負の影響を与える。
そして、その負は連鎖する。
そして、その影響を取り除くのは至難の業なのである。

「虐待」を新たなテーマに据えるといっても、虐待を無くすことがそのまま社会の構造を変革することに繋がるかというとそうは考えていない。
そうではなくて、社会の軋みは、社会の最も弱いところに表れると考えるからこそ、虐待というテーマに意味がある。
この我々が置かれている社会の軋みが、末端の家族の、さらにその末端の個人の、その子供のところに表れる。
日本社会は、これまで「家族」や「子供」に向き合ってくることをしてこなかった。
それは、日本という社会が、「あるべき個人」を規定せぬまま来たからだ。
宗教原理が働くような社会では「善良なる個人」が定義されている。
「個人」のない世界には「社会」もまた存在しない。
この宇宙では、全ての価値観は相対性によって生まれるからであり、対立するものがない価値観は存在することはできない。
日本にあったのは「和」であり、個人はそこに溶け込んでいた。
境界は曖昧で、自己アイデンティティと組織的アイデンティティの区別もつけることが難しいほどであった。

だが、日本を取巻く環境は変った。
日本には「社会」と「個人」が輸入され、そして極当り前のような顔をして我々とともにある。
我々は、この日本的な異常さに自覚的ではない。

自殺、無縁、少子化、虐待といった社会現象ともいえる問題は、全てこの日本的な異常さから来ているのだ。
資本主義による経済的発展は、これを後押ししたものの、根本的要因ではない。

今、日本人の前には2つの道がある。
「社会」と「個人」を自覚的に受け止め、そして適応することで、新しい日本人として生きる道。
そして、「社会」と「個人」を廃絶し、日本人たる由縁を取り戻す道。
どちらを選ぶかだ。

当Blogでは、答えを用意するつもりはない。
答えなど存在しないからだ。
答えは望む数だけ、無限にある。(無限=ないと同じ)
日本人が何を目的に生きようとするか、それ次第だ。

ただ、ある視点を用いて、日本社会を側面から観察することによって、様々な答えを見出すことの一助となる覚悟はある。
(のかもしれない・・)