進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

IT革命と視覚と社会と

2012-08-26 09:27:40 | 哲学・思想
映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている(DESIGN IT! w/LOVE)
http://gitanez.seesaa.net/article/288075882.html


--------------------------


重要な視点だと思う。

人間が持つ入力器官は5つある。

触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の五感だ。
(第六感についてはここでは触れません・・)

この入力器官から入力される情報の8割を占めるのが「視覚」だと言われている。

8割もの情報を視覚に頼っていれば、我々の認知行動に「視覚」が多大なる影響を及ぼすことは想像するのに難しくない。

やや逆説的になるが、それゆえ、古今東西の宗教家や思想家は、「目に見えないもの」の重要性を訴えてきたのだ。

人間が生存競争を生き抜くのに視覚からの情報が非常に重要だったし、昨今その視覚を利用した情報入力を補完する技術やサービスは急激な普及をみせているが、だからといって、それ以外の情報の重要性が減るということではない。

(米Apple社は、この視覚を起点としたディスプレイ・サービス事業で利益を上げているというのが、私の持論だ。)



ただ、リンク先の内容について一つだけ言っておきたいのだが、我々は「視覚に頼ると傍観者になる」ということではない。

視覚に偏重することが思考のバランスを崩すことに繋がるのはその通りだが、それと傍観者になるかどうかは直接的な関係がない。

我々は、目の前で起きていることにさえ傍観者になりがちだ。

傍観者になるかどうかは、事象を自らの問題として認識するかどうかにかかっている。

(これを「責任」という。)

「傍観者」となるか「観察者」たりえるか。

この件に関しては、ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』をおススメしたい。

また、傍観者にならないためには、ネットワーク思考が鍵となるだろう。



関連したことを過去に幾つか述べているので、その中から2つ転載したい。


--------------------------


IT革命による社会的イノベーションの本質  ~新文化人と旧文化人~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d1130a80a9b4ae5f165b423fee27075d


違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。


分業は資本主義の基本的メカニズムと言われているが、この分業を可能にするのは交換だ。
交換できなければ、生きるための全てを賄わねばならず、特定の仕事に特化することができない。

交換を可能とする技術は時代とともに進化してきた。
池田信夫氏が言うように原始の時代に物々交換が存在したかどうかはわからないが、ドルや円の前にも、古くは絹や米などが貨幣として交換手段になっていたし、今では電子マネーやら電子決済という形態など様々な形での交換も可能となっている。

そして、今、IT技術の進化が、この交換にまつわる状況を急激に変化させ、社会的構造を大きく揺るがしている。
モバイル技術やクラウド技術の進化が不偏的な情報アクセスを可能にし、Webが、映像、音声、テキストなど電子化できるあらゆる情報へのアクセスコストを限りなく0に近づけているのだ。
さらに、BlogやSNS、とりわけTwitterなどのサービスは情報を細分化・断片化し、その断片化された情報を収集し、編集し、整理し、再構成することも技術の力で容易にした。

端的に言おう。
あらゆる情報が断片化され、交換可能になっているのだ。
これがどのような社会的変化をもたらすだろうか。
本エントリの初めの文章に戻ればわかるだろう。

違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。


あらゆる情報が交換可能となれば、違いが恵みとなり分業が進む。
つまり、このような社会においては、「違い」が先鋭化するということだ。
これは現在進行形で起きている変化だ。

そして、もう1つ見逃せない変化がある。

情報へのアクセスコストが限りなく0に近づくと、情報が自分のところにある必要がなくなる。
外部に整理された情報があり、その情報にいつでもアクセスできるのであれば、自分のところで解釈し整理する必要がなくなるのだ。
自分が整理したいと思う情報のみに専念し、他は外部から調達するのがよい。
交換技術の進化によって、ここでも分業が進むのだ。

この分業は非常に興味深い社会的変化をもたらす。
比較的に大きな物語や文脈といったものを練り上げるためには、ある程度の総合的な知見が必要であり、"専業化したい人々"には苦しい作業になる。
こうした専業化したい人々が、外部から大きな物語なり文脈を調達するようになるのだ。
そして、自分たちは自分たちの専念したいことに取り組む。
これがソーシャル・ネットワークにおいて、数多くの文脈のない言葉たちが生まれるメカニズムである。

発信者の意思(情報)はネットワーク上に偏在しており、発信者の意図を読み取るには、ネットワーク上に偏在している情報を統合する"Key"が必要である。
外側にいる人は、それらの情報を統合する"Key"を持っていないため、文脈のない情報に見えるのだ。
それはまるで暗号のように。

しかし、ソーシャル・ネットワークの世界では情報は都市化され城壁に囲まれているため、Keyは外側には見えない。
この問題は、これから、いや既にはじまっている新しい時代の要点となるであろう。
城壁を超え都市と都市をまたぐKey、今は、その可能性を探る長い旅の始まりだ。


★★★★★★


これまでの時代は、どちらかといえば大きな物語を皆で共有する時代であった。
人々は情報の交換手段として、マス・メディアのような大きな情報しか扱えないメディアに依存していたからだ。
また、マスメディアには双方向性や直接的なアクセス手段がなかったため、人々が手にすることのできる情報は限られていた。
これがIT技術の進化、インターネットの普及によってEnd to End、そして小さな情報を扱えるようになると、様相は大きく変わる。

人は、内面的作業の充実に飢えている。
その機会をより多く得るために、情報の交換手段の進化は福音だ。
人々は、この交換手段に飛び乗った。
自分だけの物語を紡ぐのに、現在ほど恵まれている時代は無い。

この進化した情報の交換手段を獲得した人と、そうでない人の間には、深い文化的な溝ができている。
前者は進化した新文化人であり、後者は旧文化人である。

新文化人にとってIT革命はイノベーションであり、人類はブルーオーシャンを見つけたわけだが、旧文化人にとってのIT革命は文化の破壊に見えるであろう。
ITは人類にとっての破壊的イノベーションなのである。


--------------------------


IT革命がメディアの特性を強調し、社会に変化を与えている
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/22c926ac609ae97e634fbb49a9866aaa


前回のエントリを少し補足しておきます。
IT革命による社会的イノベーションの本質  ~新文化人と旧文化人~

メディアとはメッセージである。


これはマーシャル・マクルーハンの有名な言葉だ。
マクルーハンはメディアを情報密度の高い「熱いメディア」と、情報密度の低い「冷たいメディア」とに定義した。
これは抽象的な概念で、この定義に厳密にこだわることに意味は無い。
(どのメディアが熱くて、どのメディアが冷たいかという事を真剣に考えるのは時間の無駄だ。)
ただ、この定義が言わんとしていることには大きな意味がある。
彼はこう言う。


ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。


つまり、こうだ。
情報密度の高い熱いメディアの場合は、受け手側で情報の補充なり補完なりをする必要がないので、受け手側の参与性が低い。
反対に冷たいメディアの場合は、受け手側が情報の補充なり補完をする必要があるので、受け手側の参与性が高い。
この2つのメディアに関する違いは、受け手側にに異なる効果を与える。

これは直感的だ。
新聞やラジオよりテレビの方がイメージを与えるのには適している。
百聞は一見に如かずではないが、文字や音声だけで説明されるより、映像で見たほうがイメージは持ちやすい。
逆に、何かの数値や手順といった詳細情報などは、映像よりも文字であった方が漏れが無く伝わりやすいだろう。
どちらが優れているかではなく、特性の違いである。

しかし、世の中の一般的な考え方はこうだ。

冷たいメディアより、熱いメディアの方が進んでいる。
だから時代は、冷たいメディアから熱いメディアへと移行していくのだ。

これはある側面では真実だ。
冷たいから熱いへの移行は、技術の進歩と関連している。
新聞 → ラジオ → テレビ → ハイビジョン・テレビ という流れは技術の進歩によってもたらされた変化だ。

だが、ここでも注目すべきIT革命による社会的な変化がある。
それは、Webの広がりによって、冷たいメディアである文字情報がメディアの主役に返り咲いたということだ。
勘の言い方はもうおわかりだろう。
そう、この変化は「マスの崩壊」とも関連している。
最近皆が「ごり押し」と感じることにも。

前回のエントリでも述べたことにつながっているのだ。
前エントリでは、情報の交換技術が進化し、情報が断片化されたことで、違いが先鋭化されたと説明した。
マクルーハンの言葉で言えば、受け手側の参与性が高いメディアが、IT技術によって力を得て、人々に自分だけの物語をつむぐ余地を作り出したということだ。
人々が扱う主要なメディアが変化したこと、そのメディアの性質によって、社会全体に変化が起きているというイメージを、ここで少しでも共有できれば幸いだ。


--------------------------


断定的な語り方をしているが、あくまでも私的見解であることは言うまでもない。

本文の内容に関して影響を受けた参考図書を挙げておく。

タイラー・コーエン『フレーミング 「自分の経済学」で幸福を切り取る』を挙げておく。




ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』




アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考 世界の仕組みを読み解く』

IT革命がメディアの特性を強調し、社会に変化を与えている

2011-10-23 22:49:36 | 哲学・思想
前回のエントリを少し補足しておきます。
IT革命による社会的イノベーションの本質  ~新文化人と旧文化人~

メディアとはメッセージである。


これはマーシャル・マクルーハンの有名な言葉だ。
マクルーハンはメディアを情報密度の高い「熱いメディア」と、情報密度の低い「冷たいメディア」とに定義した。
これは抽象的な概念で、この定義に厳密にこだわることに意味は無い。
(どのメディアが熱くて、どのメディアが冷たいかという事を真剣に考えるのは時間の無駄だ。)
ただ、この定義が言わんとしていることには大きな意味がある。
彼はこう言う。


ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。


つまり、こうだ。
情報密度の高い熱いメディアの場合は、受け手側で情報の補充なり補完なりをする必要がないので、受け手側の参与性が低い。
反対に冷たいメディアの場合は、受け手側が情報の補充なり補完をする必要があるので、受け手側の参与性が高い。
この2つのメディアに関する違いは、受け手側にに異なる効果を与える。

これは直感的だ。
新聞やラジオよりテレビの方がイメージを与えるのには適している。
百聞は意見に如かずではないが、文字や音声だけで説明されるより、映像で見たほうがイメージは持ちやすい。
逆に、何かの数値や手順といった詳細情報などは、映像よりも文字であった方が漏れが無く伝わりやすいだろう。
どちらが優れているかではなく、特性の違いである。

しかし、世の中の一般的な考え方はこうだ。

冷たいメディアより、熱いメディアの方が進んでいる。
だから時代は、冷たいメディアから熱いメディアへと移行していくのだ。

これはある側面では真実だ。
冷たいから熱いへの移行は、技術の進歩と関連している。
新聞 → ラジオ → テレビ → ハイビジョン・テレビ という流れは技術の進歩によってもたらされた変化だ。

だが、ここでも注目すべきIT革命による社会的な変化がある。
それは、Webの広がりによって、冷たいメディアである文字情報がメディアの主役に返り咲いたということだ。
勘の言い方はもうおわかりだろう。
そう、この変化は「マスの崩壊」とも関連している。
最近皆が「ごり押し」と感じることにも。

前回のエントリでも述べたことにつながっているのだ。
前エントリでは、情報の交換技術が進化し、情報が断片化されたことで、違いが先鋭化されたと説明した。
マクルーハンの言葉で言えば、受け手側の参与性が高いメディアが、IT技術によって力を得て、人々に自分だけの物語をつむぐ余地を作り出したということだ。
人々が扱う主要なメディアが変化したこと、そのメディアの性質によって、社会全体に変化が起きているというイメージを、ここで少しでも共有できれば幸いだ。

IT革命による社会的イノベーションの本質  ~新文化人と旧文化人~

2011-10-22 02:13:24 | 哲学・思想

久しぶりに本気出して書いてみました。が、書いた後に読み返してみたらヒドイ文章ですね。後で文章校正するかもしれません。
内容について気になる点やおかしな点、議論したい点などがあればご指摘頂けると嬉しいです。


違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。


分業は資本主義の基本的メカニズムと言われているが、この分業を可能にするのは交換だ。
交換できなければ、生きるための全てを賄わねばならず、特定の仕事に特化することができない。

交換を可能とする技術は時代とともに進化してきた。
池田信夫氏が言うように原始の時代に物々交換が存在したかどうかはわからないが、ドルや円の前にも、古くは絹や米などが貨幣として交換手段になっていたし、今では電子マネーやら電子決済という形態など様々な形での交換も可能となっている。

そして、今、IT技術の進化が、この交換にまつわる状況を急激に変化させ、社会的構造を大きく揺るがしている。
モバイル技術やクラウド技術の進化が不偏的な情報アクセスを可能にし、Webが、映像、音声、テキストなど電子化できるあらゆる情報へのアクセスコストを限りなく0に近づけているのだ。
さらに、BlogやSNS、とりわけTwitterなどのサービスは情報を細分化・断片化し、その断片化された情報を収集し、編集し、整理し、再構成することも技術の力で容易にした。

端的に言おう。
あらゆる情報が断片化され、交換可能になっているのだ。
これがどのような社会的変化をもたらすだろうか。
本エントリの初めの文章に戻ればわかるだろう。

違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。


あらゆる情報が交換可能となれば、違いが恵みとなり分業が進む。
つまり、このような社会においては、「違い」が先鋭化するということだ。
これは現在進行形で起きている変化だ。

そして、もう1つ見逃せない変化がある。

情報へのアクセスコストが限りなく0に近づくと、情報が自分のところにある必要がなくなる。
外部に整理された情報があり、その情報にいつでもアクセスできるのであれば、自分のところで解釈し整理する必要がなくなるのだ。
自分が整理したいと思う情報のみに専念し、他は外部から調達するのがよい。
交換技術の進化によって、ここでも分業が進むのだ。

この分業は非常に興味深い社会的変化をもたらす。
比較的に大きな物語や文脈といったものを練り上げるためには、ある程度の総合的な知見が必要であり、"専業化したい人々"には苦しい作業になる。
こうした専業化したい人々が、外部から大きな物語なり文脈を調達するようになるのだ。
そして、自分たちは自分たちの専念したいことに取り組む。
これがソーシャル・ネットワークにおいて、数多くの文脈のない言葉たちが生まれるメカニズムである。

発信者の意思(情報)はネットワーク上に偏在しており、発信者の意図を読み取るには、ネットワーク上に偏在している情報を統合する"Key"が必要である。
外側にいる人は、それらの情報を統合する"Key"を持っていないため、文脈のない情報に見えるのだ。
それはまるで暗号のように。

しかし、ソーシャル・ネットワークの世界では情報は都市化され城壁に囲まれているため、Keyは外側には見えない。
この問題は、これから、いや既にはじまっている新しい時代の要点となるであろう。
城壁を超え都市と都市をまたぐKey、今は、その可能性を探る長い旅の始まりだ。

★★★★★★

これまでの時代は、どちらかといえば大きな物語を皆で共有する時代であった。
人々は情報の交換手段として、マス・メディアのような大きな情報しか扱えないメディアに依存していたからだ。
また、マスメディアには双方向性や直接的なアクセス手段がなかったため、人々が手にすることのできる情報は限られていた。
これがIT技術の進化、インターネットの普及によってEnd to End、そして小さな情報を扱えるようになると、様相は大きく変わる。

人は、内面的作業の充実に飢えている。
その機会をより多く得るために、情報の交換手段の進化は福音だ。
人々は、この交換手段に飛び乗った。
自分だけの物語を紡ぐのに、現在ほど恵まれている時代は無い。

この進化した情報の交換手段を獲得した人と、そうでない人の間には、深い文化的な溝ができている。
前者は進化した新文化人であり、後者は旧文化人である。

新文化人にとってIT革命はイノベーションであり、人類はブルーオーシャンを見つけたわけだが、旧文化人にとってのIT革命は文化の破壊に見えるであろう。
ITは人類にとっての破壊的イノベーションなのである。

はじめには存在すらしなかった信念対立

2011-09-20 16:39:31 | 哲学・思想
なかなか面白い。

太平洋戦争における保守と革新(永井俊哉)
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/pacific_war.html

(本文とは関係ないけれど)

日本を焼け野原にしたあの戦争を引き起こしたもの、
その根本にあるのは、普通の人々の心の中にある信念なのである。

集団形成によって生成される権力は、
内部だけでなく外部環境までも内面化し、
まるで遠心分離機のように人々の信念を2つの極端な考えに集約させる。

もともと多元・多様に存在した信念をまとめるために、
論理の単純化と二元論という、恐ろしくやっかいなものが使われる。

往々にして権力者たちは、求心力を高めるために、これらを先鋭化させる。
先鋭化したメッセージは、もう一方にいる人々の信念をたきつける。

お互いに、自分達の存在意義を確かなものとするために、相手の存在を否定するようになる。
はじめには存在すらしなかった信念対立が、ここに生まれるのである。

失言が許されるひとの条件

2011-07-20 23:17:43 | 哲学・思想
微妙に違う観点から。

失言が許されるひと
http://getnews.jp/archives/130183

世の中には“失言”をしても許される政治家がいる。たとえば、小泉元首相とか、いまの東京都知事とかがそれにあたる。逆に、失言によって大きな憤激を買う政治家もいる。松本元復興相などがそれに該当するだろう。

なぜ前者の失言が許されるかを考えると、結局のところ、人びとが彼らに対して複数の評価軸を持っているからなのではないか。都知事のケースで言えば、“暴言吐きの石原さん”と“リーダーシップの石原さん”という二つの評価軸がある。なので、いくら暴言を批判されようとも、前者の“石原さん”の評価に回収されてしまい、後者の石原さんの評価にまでは届かない。

逆に、松本元復興相のケースで言えば、ほとんどの人は松本さんがどんな人なのかを知らなかったのではないか。あるいは、同和問題や資産家という属性だけで判断していたのではないか。そこにきて例の恫喝(どうかつ)映像が流れたことで、我々は恫喝(どうかつ)という観点からしか松本さんを評価しようとしなくなった。社会心理学的に言えば、プライミング効果(先行する刺激が後続する刺激に影響を与えること)ということになろうか。

したがって、世論からの支持/不支持により政治家や内閣の命運が左右される現状では、政治家が生き延びようとするなら、どうにかして複数の評価軸を獲得する必要がある。つまり、失言や失策のダメージを引き受けてくれる“もう一人の自分”が必要なのだ。その“自分”を作り出すためには繊細なメディア・イメージのコントロールが必要になるだろう。


私が思う失言が許されるひとの条件。

それは「キャラが確立されている」ということ。
(キャラは利益にもなるし、損失にもなるという点で諸刃の剣である。)

人を見ればわかることだが、人というのは一面的なものではない。
どんな人にも多面性がある。
戦争ドキュメンタリーに涙して「戦争はいけない」と思った直後に、道端ですれ違いざまに肩ぶつけられて「あんなやつ死ねばいい」と思うように。
人の考えや感情も決して一貫しているわけではない。

しかし、人が人を認識するのに、ある一定の枠組みをはめる。
ある場面では非常に几帳面さを発揮する人が、他の部分を強調されて「あの人はいい加減だ。」という評判を得ることもある。
人知れず人道支援活動をやっている人が、日常的な仕事のみを見られて「非人道的なエゴイスト」と言われることもある。

要は、どのようにキャラとして認識されるか、ということが重要だ。

いくつか考え方はあるだろう。
ものすごい信頼されるキャラを確立しているがゆえに失言が許される。
多面性を持ったキャラを確立しているがゆえに、失言しても他の面が相殺して許される。
失言キャラを確立しているがゆえに、失言しても許される。
(ただし不信任フラグが立っていると許されない。)

キャラが確立されていると、その人に関する評価軸が確立されるのだ。
キャラが確立されていないと、その人に関する評価軸がなく「失言」そのものを評価することになる。
それ以外に評価軸がないからだ。
だから、キャラが確立されていない人の失言は、失言問題になりやすい。

ただし、キャラが確立されていても、信任されていない人は、失言問題になりやすい。
逆に言うと、信任されている人は、失言キャラでも許される。

複数の評価軸うんぬんというのは、結局のところ多面性を持ったキャラを確立しているということに他ならない。

と、簡単にぱぱっと考えた結果思う。

本当の意味では、悪はこの世に存在しない

2011-06-22 16:49:17 | 哲学・思想
もう2ヶ月前の記事だが、このモギケンの考えは非常に重要だ。
政治不信の問題も、経済の行き詰まりも、社会不安の問題も、その根っこは同じで、これなのだ。
当Blogでは以前からこのことを「スパイラルな進化」という言葉で表現してきた。

進化というのは、遅々として感じることもあれば、時に行ったり来たりと感じることもある。
我々は、幾世代にもわたって似たようなことを繰り返し、同じ過ちを経験しているかのように思えることもある。
しかし、同じ時、同じ状況、同じ情動が繰り返されることは有り得ない。
同じコトは二度と起きないし、同じものを感じることもできない。
全てがオリジナルなのだ。
似たようなことも、必ずどこかが違っている。
その変化が、時に切なく、辛いものであることもあるだろう。
だが、長い目で見れば、我々が進化の道にあることを理解できるはずだ。
終わりなき旅に辟易する時もあるだろう。
しかし、進化の道しか、我々に与えられた選択肢はない。
進化とは無限のスパイラルなのである。

震災以降(茂木健一郎)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/04/post-c5b2.html

震災以降、何か気分が変わって、まだその中にいる。

震災前、ぼくは、日本の大学入試のあり方や、新卒一括採用のあり方、記者クラブ、それから、ルールやコンプライアンスを出来損ないの人工知能のように押しつける日本の社会のあり方について、大いに違和感を抱き、そのことを表明してきた。

震災が起こり、みながその対応にかかり切りになった。その時、ルールやコンプライアンスなどを杓子定規に当てはめることが無意味だとみなが気付いた。そのこと自体は良かったけれども、気付いてみると、依然として古い日本の制度は残り、システムは存在し、組織は続いている。

ぼくは二つの意味で無力感にとらわれた。一つは、いくら言葉を尽くしても変わらなかったのに、震災という外部要因であっけなく変わってしまったということ。それから、震災の後も、アンシャン・レジームは化石のように残り続けているということ。

ぼくは次第に、社会の中で意味のわからないシステムや組織が存続し続けている理由は、悪意よりもむしろ単純に「できない」のだと考えるようになった。記者クラブに頼る記者は、それ以外のやり方を知らないのである。ペーパーテストだけに頼る大学入試は、それ以外の手段を尽くす方法もリソースもないのである。新卒一括採用を続ける企業は、それ以外の採用の仕方を知らないし、できないのである。

みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。

自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。

権力者は必然的に堕落する だから責任という概念がある

2011-06-04 23:05:37 | 哲学・思想
いつもの焼き直しですが、何度でも言います。

「権力(権限)」と「責任」のバランスのお話です。
権力者が堕落するのは、権限と責任のバランスがとれていないからに他なりません。
権限の範囲と責任の範囲が一致しないと、権力の暴走が起きます。

「権限」と「責任」は常に表裏一体で、組でなければならない。ドラッカーの言うように「権限を越えた責任、および責任を超えた権限は、どちらも権力の暴走(専制)を招く。」

責任を超えた権限は無責任を呼び込み、権限を越えた責任は相手の無責任を呼び込む。無責任は権限の暴走を止められない。

権力というものが、我々の思考に深く影響し、他社への共感を失わせるのだとしたら、我々は「責任」という言葉を見直さなければならない。
権力者に対して責任という制約を突きつけ、自己認識を明確にさせるのだ。

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201106/2011060319.html

[前略]

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。

[中略]

この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

[中略]

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。

[中略]

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。

[中略]

195301993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。


・責任関連のエントリ

安易な権力集中に関する議論は「隷従への道」
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/58cfc83e19ad7ab2b24f2a05deb51fad

無縁社会にならないために今こそ「責任」という言葉を再発見せよ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/011986c05acb69016396a3c9d3b96e3b

「責任」とは何か?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6a6594e111f05bf1810b00879c926c1a

「日本の病」は「国民の総無責任化」
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a20b61ea8584f0a267e40ddec066e623

[責任シリーズ][01] これからの「責任」について話をしよう 導入
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/094f3c81bbc07ca11ef1ea2be5f53f07

その他いろいろあります。

未来が予知不能でよかった

2011-04-19 12:05:11 | 哲学・思想
AKBのCMに感化されて、今朝は「WONDA 金の微糖GOLD」を飲む。缶コーヒーを1本飲むたびに寿命を少し減らしているような気もするが「時間非整合性」はそんなことを忘れさせてくれる。いわゆる「確率的影響」というのは便利だ。未来予見可能性を著しく低下させる。

影響がわからないことが混乱の原因と言う人がいるが、全ての事象について健康被害がわかってしまったら恐ろしくて何もできず生きていけないだろう。缶コーヒーに「これを飲むと癌の発生確率がX%上がります。」と書いてあることがよいことだろうか。少なくても私はそうは思わない。

例えば、23andMeの遺伝子解析サービスを利用すると「腰痛になりやすい」だとか「前立腺癌になる確率が何%」だとかがわかる(ただし最も人々を悩ます生活習慣病の発生確率は遺伝子からの情報だけではわかりようが無い)。

しかし、「あなたは今後10年間で○○癌になる確率が50%です。」と言われて何か嬉しい事があるのだろうか。その情報をどう使えというのだ。「あなたはこのまま1日1本ビールを飲むと5年後に死ぬ確率が30%上がります。」という情報を得たらあなたはビールを飲むのをやめるかもしれない。しかしビールをやめたせいでストレスで10年後に死ぬ確率が40%上がる可能性は排除できない。もしくは実は3年後に交通事故で死ぬかもしれない。このように考えたらキリがない。

なのだとしたら、あるところで割り切って考えることにした方がよいのかもしれない。例えば「人間であれば誰でもいつかは死ぬ。今日かもしれないし30年後かもしれない。だとしたら今日をどう生きるべきか。」と考えた方がよっぽど生産的だと私は思う。

つまるところ、何が重要かを考え、そのためにどのような情報が必要かを考える。逆に情報を提供する側であれば、自分がどのような情報を提供できて、そしてどのような情報が求められているかを考える。
何も考えずに情報だけ入力したら、出力したら、混乱するに決まっている。

人間は見たいものを見、聞きたいものを聞き、考えたいものを考え、そして信じたいものを信じたいだけだ。足元に転がっている石ころひとつに気づけやしない。

「核が存在していること」と「核が良いか悪いか」は別の話

2011-03-30 10:10:25 | 哲学・思想
中学生でもわかる原子爆弾と原子力発電所の作り方(金融日記)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51808832.html

僕は、この原子力というのはものすごいイノベーションだと思う。実際、すごい数のノーベル物理学賞がこの分野に与えられていて、天才的な物理学者がたくさん関わっているんだ。原子力のイノベーションに比べたら、正直いってiPhoneとか作ってるスティーブ・ジョブズとか、ビル・ゲーツとかゴミくずみたいなもんだよ。原子力に比べられる人間のイノベーションって、僕は、二本足で立ったこと、道具を使ったこと、火を使ったこと、言葉を使ったこと、コンピュータを発明したことぐらいしか思いつかない。東日本大震災が千年に一度の大津波だったとしたら、過去千年で大きなイノベーションをふたつ上げろっていわれたら、僕は、コンピュータの発明と、この原子力って答えるな。


この記事を見て、昔のことを思い出した。
私は大学に入学して、すぐ「科学技術史」の講義でこう教えられた。
(ちなみに私は原子力とは無縁の者です。)


(原子爆弾が開発されるまでの歴史を様々な文献などから紐解きながら)

1938年、ナチス・ドイツの科学者オットー・ハーンらは、ウランの原子核に中性子を衝突させ、原子核が分裂すること(後にノーベル賞)を確認した。
その分裂の際に、大きなエネルギーが放出される(失われた質量がエネルギーに変わる)ことも。
有名なアインシュタインの式 E=mc^2 だ。

ハンガリー出身の科学者レオ・シラードは、オットー・ハーンらの実験から、核分裂が原子爆弾につながることを予見し、世界的な科学者アインシュタインの名を借りて、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトに、原子爆弾の開発を進言する。
(アインシュタインはこの計画に関与していない。)
これは後にマンハッタン計画と名づけられる極秘の大国家プロジェクトに繋がる。
当時の科学者達の認識としては、もし、先にナチスドイツが原子爆弾の製造に成功すれば、世界は破滅するという危機感があった。

これに平行して1942年12月2日、イタリア出身の物理学者エンリコ・フェルミ(当時既にノーベル賞受賞)らは、シカゴ大学の粗末な原子炉「シカゴ・パイル1号」で人類史上初の原子核分裂の連鎖反応を制御することに成功する。
いわゆる「原子の灯火がともった日」である。

この1942年12月2日、つまり人類の歴史を「核前」と「核後」とに分けるこの日を、非常に重要な転換点と見る歴史家もいる。


科学技術史を学ぶと、歴史には「核」によるターニングポイントがあると学ぶ。
「この日を境に世界は変わった。」という。
ニュートンもアインシュタインも、そんな対象にはならないが、「核」だけは別格扱い。
(マンハッタン計画のリーダーであるオッペン・ハイマーの方が重要と言わんばかりの扱い。)
(でもグーテンベルクは別扱いかも)
そのくらい「核」は人類にとって(いろんな意味で)破壊的イノベーションであるということが叩き込まれる。

もちろん、この講義に答えは用意されない。
「科学技術に善も悪もないからだ。」と言ってしまえば少しセンチメンタルに訴えるようだが、何より、既に核は世界に拡散してしまっているという現実を直視しなければならないからだ。
答えなど用意できるはずがない。

「核廃絶を訴えていくべき!」それとも「核の平和利用を推進すべき!」と教えるべきなのだろうか。
たぶん、そんなことを主張しても虚しさがつのるだけに違いない。
政策もしくは思想として主張するならよいが、これは科学技術者の卵達に向けられた科学技術の歴史の講義である。
科学技術者の卵達に夢を語っても仕方がなく、教える側がやるべきことは、科学技術者が持つべきマインドである。

もし、「核」が「核兵器」として存在しているなら、その「核兵器」を安全に制御し得る科学技術と科学技術者が必要である。
もし、「核」が「発電機関」として存在しているなら、その「発電機関」を安全に制御し得る科学技術と科学技術者が必要である。
もし、「核」の新しい形を開発しようとしているなら、その新しい開発を安全に進め得る科学技術と科学技術者が必要である。
もし、「核」を廃絶しようとしているなら、その「核」を安全に廃絶し得る科学技術と科学技術者が必要である。

科学技術に善も悪もないが、仮に「悪」の側に科学技術があったとしよう。
しかし、その「悪」の側にもその「悪」を制御し得る「善」が必要ということだ。
「核」で言えば、「核」が存在することと「核が良いか悪いか」は別の話である。
科学技術が世界にある限り科学技術と科学技術者は必要で、そのために必要なマインドを科学技術者に叩き込むことも必要だ。

科学技術というのはセンチメンタルな夢物語ではない。
どうしようもなく、どこまでいっても現実で、立ち向かわなければならない脅威であると同時に乗り越えるべき人間の性だ。

そこに答えなどない。

至高の音楽と人間の感性について

2011-03-11 13:17:42 | 哲学・思想
今日は珍しく音楽ネタ。

私は演奏はできないくせに結構音楽にうるさい。
うるさいというか、知ったかぶりして語るタイプだ。
そんな知ったかぶりをここでも通させてもらうとする。

クラシックもピアノもあまり聞きませんという人に必ずお薦めするのが「ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番」だ。
ラフマニノフの場合、ピアノ協奏曲第2番の方が美しさで有名かもしれないが、第3番の方が迫力があってむしろ素人ウケすると思う。
「これでもかっ!」と言わんばかりの和音の使いっぷりに思わず度肝を抜かれてしまう。
複雑な音の調べの向こうに現代社会の複雑な世情を重ねずにはいられない。
それでいて、とてもロマンチックなのが現代という感じだ。

正統派クラシックを求める人はモーツァルトを聴くのがベストだが、現代的な音楽の方が好きだという方は是非ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を聴いて欲しい。
ヴァイオリンを聴きたい人にはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第1番をお薦めする。

ちなみに美しさという点においては、私はショパンのピアノ協奏曲第1番の第2楽章の右に出るものはないと思っている。
どこが美しいかということを説明するために、ちょっと語ろうと思う。

ちょっと振り返って考えるとわかるが、人間は心の内から込み上げる想いを語ろうとすると言葉少なくゆっくりになる。
それは言葉というツールが想いを伝えるのにはあまりに非力だということを、人は知っているからだ。
人は「言葉にできない想い」を伝えようとする時、言葉が少なくなる。

では、どうやって「言葉にできない想い」を伝えることができるか?

それは、「表現しないことによって表現する」というメタ表現によって可能になる。
「間の取り方」や「息づかい」、「視線・目配せ」、「その場の空気感」といったものだ。

ピアノの音はバイオリンや管楽器などと違って「ドレミファソラシド」の音は断続的にしか表現できずとてもデジタルだ。
人は原始的生物だった時から自然界に暮らしており、音といえばアナログなものばかりだった。
だから人間の脳も耳も感情もアナログ音に最適化されているし、また声にしろにしろ音による表現もまたアナログに最適化されている。
人にとってピアノのようなデジタル音は違和感たっぷりな音であるばかりか、音と音が断続的ゆえに音と音の間から伝えたい意味が零れ落ちてしまう。
ヴァイオリンの方がより心の琴線に触れる表現が得意なのがこれでわかるだろう。

では、どうすればデジタルなピアノでアナログを表現できるだろうか?
ピアノはヴァイオリンなどに比べて劣った楽器なのか?

ピアノが弦楽器に比べて劣っているなら今日これほどピアノが弾かれ、そして聴かれることはなかったであろう。

デジタルなピアノでアナログを奏でることができるか?

答えは「できる。」だ。
「表現しないことによって表現する」というメタ表現によって。

バラードでは音が少なくなる。
音と音の間を人が補完することによって曲が完成するのだ。
気持ちを伝える時に、音は少なくていい、むしろ音は要らない。
なぜなら、必要な音さえ表現できれば、受けて側がそれぞれ持っている物語によって補完してくれる。

そもそも、人には誰一人として同じ人生を歩む者などおらず、ゆえに全く同じ経験をする者もおらず、また全く同じ心を持つ者などいないため、伝えようと思ったものが伝わる方が稀なのだ。

人それぞれに物語を持っているのだから、そのコンテキストを発火させるための機会を音で提供する。
そして、音と音との間を、それぞれの人の物語で奏でてもらえばいい。
だから、むしろバラードは音が少なくならなければならない。

現代社会では、何かにつけて表現至上主義ともとれる風潮がある。
しかし、人というのはその進化の過程で原始的なものを置いてきたわけではない。
進化というのは過去を捨てることではなく、過去からスパイラルに積み上がるものなのだ。
だから人が人になってから以降の、つまり前頭葉なんかで考える理性的な表現ばかりに一生懸命になるのではなく、言葉なんか存在する以前の表現方法に想いを馳せて、心の内の底の部分に耳を傾けては如何だろうか。

中でも、ショパンのピアノ協奏曲第1番第2楽章は、今、恋をしているという人には協力にお薦めする名曲だ。

ちなみに、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、本人の演奏より、デヴィッド・ヘフルゴットの方が好きです。

↓圧巻です。

DAVID HELFGOTT PLAYS RACHMANINOV

語り合ってみたいこと その1

2011-03-10 18:48:00 | 哲学・思想
政治絡みで語りたいことが山ほどあったのだが、このエントリを読んだらどうでもよくなった。
「今、書きたいものを書く」という原則に立ち戻って書く。

と思ったが、時間がなくなったのでいずれ書く。

こういうテーマを昼のオシャレ・カフェで語り合うように議論してみたいよね。
夜の居酒屋とかではなくて。
哲学板みたいなところでやると終わりもロマンもない話になってしまうし。
オシャレに熱く、そして少しジーンとくるように語れるようになるのが目標か。

妻を持つべきか(わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2011/03/post-c7f1.html

「責任」とは何か?

2011-01-07 21:08:25 | 哲学・思想
アクセス数が増えたので、久しぶりの責任シリーズ。
(思えばブログ発足時はこんな話題ばかりであった)

この世界で「責任」という言葉を正しく理解している人は稀である。
それは、権利でもなければ義務でもない。

「そうでなければならないという認識」である。

「認識」なのである。

簡単に言えば「やらなければ!」「やるしかない!」こういう考えのことである。

世に言う「責任を取れ」などという言葉に意味はない。
なぜなら、責任を取って辞任したり、賠償をしたりしても問題は解決されないのだから。
事後的な方策によって本質的な問題は何も解決しない。

責任というのは"事後"のものではない。

"事前"のものなのである。

それでも我々が事後的な罰則を規定したがったり、
報酬によるインセンティブを与えたがるのも、
事前に責任という認識を持たせたいがためである。
結局、我々はいつも何らかの方法で、
人々に責任を認識させたいと四苦八苦している。

では、「責任」を得る、与えるために必要なことは何か?

それは「理解」である。
「理解」の存在しないところに「責任」は存在し得ない。
なぜなら、責任とは認識のことであるからだ。
認識は理解がなければ存在し得ない。

だから、言葉だけで、ルールだけで、契約だけで「責任」を負わせても意味がない。
本来の意味を失っている。
ただ、負荷を負わせることによって理解が進み責任感が増すことはある。

これは「視点」の問題である。
理解をするためには視点が必要であるからだ。
負荷を負わせる、つまりある立場を人に与えると人は変わる。
責任感をぐっと持つ。
それは、立場が変わることで「視点」を得るからである。
視点が変われば見える世界が変わる。
より多くの視点を持つ人は、より多くの責任を認識するであろう。

では、「視点」を得る、与えるために必要なことは何か?

それは「信念」である。
目の見えない人に、視点を与えても無駄である。
しかし、信念は人に与えることはできない。
自らによってしか得ることができないもの、それが信念である。

つまるところ、「責任」を人に与えることはできない。
「責任」とは、自分でしか掴み得ないものなのである。

では、「信念」を得るためにはどうすればよいか。

それは「経験」である。
人は自分という「経験」を通してしか「信念」を得ることはできない。
だから人は、ゆっくりながらも着実に、スパイラルして進化する。

ゆえに人は生きる。
生きるということでしか「経験」を得ることはできないから。

よって、生きるということからしか「責任」は発生しない。

我々にできること。
それはまず、生きるということ。
生きることに命をかけること。
だから人類は生きることが苦しいながらも集団自殺をしない。

それが人間にできる唯一の道だからだ。

「責任」

この言葉を再発見することが、何よりも重要だ。

『これからの「正義」の話をしよう』 正義に悩む人へのガイドブック

2010-10-08 15:47:02 | 哲学・思想
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル (著), 鬼澤 忍 (翻訳))

NHK「ハーバード白熱教室」の影響もあって、今年のベストセラーとなり、日本に哲学ブームを引き起こした。
この本が、なぜこれほどまでに受け入れられ、そして大議論のキッカケを作るに至ったのか。
その本質的な原因は、TV番組が面白かったというだけではない。
多くの日本人が哲学を渇望するからだ。

東西冷戦の終焉による大きな物語の喪失、経済成長力の鈍化、少子高齢化社会、過剰な財政赤字、社会福祉の行き詰まり、グローバリゼーションと新興国の台頭、地域コミュニティの崩壊など今、日本が、日本人が置かれている状況はかつてなく苦々しいものだ。
物質的な豊かさで見れば、日本は相対的に世界屈指の豊かさを手にしているのにも関わらずだ。
人々は、自分達には何かが足りないと感じている。
何が重要なことを見逃し、考えるべきことを見落としているのではないか、皆がそう思い始めた。
近年の政治的混乱が、より一層の日本の行き詰まりを暗示し、その思いに拍車をかける。

そこに颯爽と登場したのが、マイケル・サンデルであり、この本だ。
この本の導入が、その想いに答えている。



哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、そしてノージックといった古今の哲学者たちは、これらにどう取り組んだのだろう。彼らの考えを吟味することで、見えてくるものがきっとあるはずだ。



皆がハーバード大学の世界最先端で活躍する教授の語る言葉に耳を傾け始めた。
「哲学なんて何の役にも立たない」と嘲り倒すだけだった多くの日本人にも世界の知見を取り組む用意ができたのだ。
「役に立たない哲学」があるのではなく、「哲学を役立てられない」自分達がいたことに気づいたのだ。

その意味で、この本はゴールではないし、何かを指し示しているものでもない。
この本はスタートだ。
哲学を実社会にどう適応させることができるかの、議論の始まりである。

ただ、1つ注意しておかなければならないことがある。
この本は「哲学という学問」を探求するものではない。
「新しい哲学」を発見しようとする試みではなく、
「既にある哲学」を現実の社会にどう適応できるか検証するための試みである。
哲学に関する専門性がなくても読むことができる一方で、
この本を読むことだけで哲学の深みを知ることは難しいと思われる。
その意味でも、この本はあくまでもスタートなのである。

この本のタイトルがそれをよく示している。

"これから"の「正義」の話をしよう

この本は読み終えて初めて始まる。

道具に振り回されず、冷静に本質を見定めよ

2010-10-05 11:06:48 | 哲学・思想
今回の中国がアホだった件は、
中国の中のアホ達がアホだったのであって、
中国そのものがアホなのではありません。
(日本にもアホは大勢います。私も・・)
よって、日本が成すべきことは、
中国の中のアホ達が力を持つことがないようにすべきなのであって、
その観点からすれば、今回の菅・仙石政権の対応は全くもってマイナスと言えます。

以前、当Blog(恋愛ベタが語る外交ほど本質を外しているものはない)で述べたように、
菅・仙石政権はまさに「彼女の男遊びの処理を失敗した彼氏」のようなものです。

温首相の発言など、意訳してしまえば、
まるで彼女が「私にここまで言わせないでよ。わからずや!」と彼氏に言うようでありました。
私は心が痛みました。
そして、心の中で思いました。
「すまない友よ。今、日本の中心にいる男は、日本の恋愛下手を代表する男なのだ。許せ。」と。

日本の男性のほとんどは、
恋愛事故を処理する能力のない、社会性のない木偶の坊でありますので
相手の気持ちなどを自分の基準以外で理解することが出来ず、
自分の納得する「理屈」で説得を試みるわけです。

ですが、恋愛経験をお持ちの方なら誰しもご理解いただけるように、
この行為は「火に油を注ぐ」が如き蛮行でございまして、
なんら問題の解決には寄与しないものなのです。

世のわからずや男性諸君にここで直言をしておきます。

原則論や筋論を持ち出して、自分の正しさを主張するのは、
あくまで「自分に向けた行為」であることを忘れてはなりません。

自分を守ろうとして、自分の正当性を主張するのは結構なことですが、
しかしながら、もし自分が正しかったとしても、
それで自分の最終的な利益が守れるかどうかは別の問題です。

こう言われる方もいるかもしれません。
「利益よりも大切なものがある。誇りだ」と。

立派な心がけです。

しかし、その「誇り」は誰に向けられたものですか。
自分自身のためのものでしょう。

そういう方は、晩年に哀愁漂わせて、未練がましくお酒でも飲んでいればいいのです。
懐かしき日々を思い出して、取り返せない時間を後悔し続けてください。

仕方がありません。
自分のことしか考えないわけですから。
そして認めたくない現実に苛まれて苦しんでください。
「本当は自分が弱かっただけなのだ。」と。

ある日、突然街で過去の人と出会ったとしても、
良き思い出がオーバーラップして物語が始まるのはあなただけです。
相手の眼にはあなたは道端に転がる石ころ程度にしか見えません。

それが現実なのです。

ユリウス・カエサルが2000年以上前に残したとされる言葉を取り上げましょう。

人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えているわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。

これは、これを読んでいるあなたのことです。
他人事ではなく、あなた自身の問題です。

原則や筋など、所詮は人間都合で考えた人工的なもの、道具です。
その人工的な道具を持ち出して、人間を裁こうなどというおこがましさこそ、
あなたが恐れるべきものです。
道具は、それを作った人間に貢献すべきもの。
それを忘れてはなりません。

国益が何かを考えず、原則論、筋論を通すという愚を体言した。
その上で、原則・筋を通せずに
日本人男児に向けて、いい教育になりました。

「戦略」を論ずる前に「目的」について論ぜよ

2010-09-28 19:36:29 | 哲学・思想
「戦略」という言葉はどこかカッコいい。

「○○戦略室」「△△戦略会議」「□□戦略論」など。

知的だし、強そうだし、特別な感じもするし、とにかくスマートなイメージがある。

日本人は「戦略」という言葉が好きだ。

最近では政府を批判するのによく使われる。

「××戦略はあるのか?!」という形で。

しかし、「戦略はあるのか?!」と聞いている側の人々は

果たして「戦略」というものについて理解しているのだろうか。

そもそも、なぜ日本人は「戦略下手」なのか考えたことがあるだろうか。

なぜ、日本人は「戦略がない」「戦略はあるのか?」と永遠と言い合っているのかわかるだろうか。


答えは簡単である。

「戦略」というのは「政策目的」を達成するための「方策」のことである。

特定の目標を達成するために資源を総合的に運用する技術・科学だそうだ。

つまり、「戦略」というのは「政策目的」があって始めて意味を持つ。

逆に言えば、「政策目的」がないのに「戦略」が成立するわけがない。

これが、日本において「戦略がない」という議論が永久ループする原因である。

「目的」あっての「手段」なのに、「手段」の有効性のみが論じられる。

「手段の目的化」の最たるものなわけだ。

「戦略」について論ずる前に、まず「目的」を論ぜよ。

当たり前のことを当たり前に。