進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

半沢直樹とビジョナリー・カンパニー

2013-09-23 18:10:58 | TV・書籍

TBSドラマ『半沢直樹』の話題で盛り上がってますね。

知人に面白いと薦められて3話目くらいから観ていました。

フィクションだと割り切って観ていたのですが、最終回の最後のシーンに妙にリアリティがあってなんとも言えない気分になりました。

私は原作を読んでいないので話がわかっていないのかもしれませんが、実に面白いというか、リアルな構図だなぁと思います。

ストーリーは、正義のヒーローである半沢が敵方のボスである大和田常務を如何にして倒すか、という水戸黄門的な勧善懲悪になるわけですが、これがストーリーとして成立するには「如何にして銀行という民間企業の中で善悪を定義できるか」にかかっているわけです。

これは極端な考え方ですが、もし東京中央銀行がコンプライアンスよりも短期的な利益を重視する企業風土を持っているなら、ひょっとしたら大和田は正義かもしれません。

ドラマ中では、全体を通して「真なるバンカーとは」という理念が、その評価基準になっていたわけですが、後半は銀行のトップたる中野渡頭取が正義の担保者になっていた側面がありました。

そのため、最後のシーンで正義の担保者たる中野渡頭取から出向が命じられた時に衝撃が走ったわけです。

(どんな思惑があったのか次回作を観ると理解できるのかもしれませんが)

「組織のトップ=正義」は古今東西使われる構図ではあるのですが、それが現実的かどうかは様々な意見があることでしょう。

そんなことを考えると、やはり、この問題は企業の存在意義というところに尽きるのであり、その意味で「ビジョナリー・カンパニー」の意味を噛み締めるのでありました。

風立ちぬ、生きねば。

2013-07-31 02:05:22 | TV・書籍
※ネタバレ注意!



ジブリの最新作『風立ちぬ』を観てきた。

あえて何の予備知識も持たず、前評判も聞かず読まず、期待もせず行ったのだが、観て驚いた。

映画として恐ろしく出来が良い。

観ている途中でジブリ映画であることを忘れてしまった。

宮崎駿の作品とは思えない。

宮崎駿自身が主張しているように、ジブリは「子供向けファンタジー」を得意とする会社なので、その観点でこの映画を「ジブリ的映画」として考えると様々な意見があるところだと思うが、「ジブリ」を外して「映画」として観たときの完成度の高さは、これまでのジブリ作品と比べるとかなり異質だ。

宮崎駿の本意ではないかもしれないが、ジブリの作品の中で最高傑作と言っても過言ではない。



ネットでは『風立ちぬ』を酷評する意見が散見されるのだが、私は真逆の感想を持った。

『風立ちぬ』を作る力があるのであれば、宮崎駿はまだまだやれる。

私は↓のエントリでディズニーとジブリを対比して、ジブリの強みを説明しているのだが、『風立ちぬ」はこういった浅知恵を一蹴している。

ジブリ映画の真髄
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f518a1811df47cdc3743c10c3da6f879


確かに『風立ちぬ』は、これまでのジブリの人気作品のように子供向けファンタジーではない。

だが、それゆえジブリの実力がよくわかる。

喩えるなら「ピカソ」だ。

ピカソは高い写実能力を持ちながら、キュビズム的絵画を描く。

ジブリは『風立ちぬ』を創る能力を持ちながら、子供向けファンタジーを創るのだ。



また、「宮崎駿の自己満足」という批判もネットで散見されるが、私はこれについても逆の印象を持った。

ファンタジー系の作品では「伝えたいイメージ」を「イメージで伝える」という手法が作品中で常に先行しているが、『風立ちぬ』は実話を土台にした作品なだけに、叙述的でありながら物語の骨格はしっかりしている。

ファンタジーとは異なり物語の世界観に解釈の余地があまりない分、「宮崎駿の自己満足」どころか、物語はかなり抑制的、理性的に描かれている。

むしろ、そのような理性的な内容の中に、よくもこれだけ違和感なくファンタジー的要素を入れ込んだなと感心するばかりだ。

実話を土台としているため物語の世界観が骨太となっており、その分ファンタジー要素の組み込みが難しくなるのだが、宮崎駿は「二郎の夢」という形で非常に巧みに、現実とファンタジーを驚くほど違和感なく接続している。

この絶妙なバランス感覚で、厳しい時代において夢語る姿を表現する難しさを、爽やかに乗り越えていると感じた。

この部分で、ジブリはシナリオを作りこむ力があることを立証していると言っても過言でない。

これは完全に私の妄想だが、ケイパビリティ(組織能力)という観点では、ディズニーはジブリを作ることはできないが、ジブリはその気になればディズニーの作品を作れるがあえてやらないという話さえ成立すると思えてしまうほどの恐るべき力だ。




最後に、この作品のキャッチコピーである「生きねば」について触れておきたい。

作品の中で「生きねば」は唐突感のある使われ方をしているので、どう解釈するべきなのか難しいと感じる人が多いのではないかと思うが、これは物語全体を理解しなければならない。

この言葉は作中にも出てくるポール・ヴァレリイの詩中の「風立ちぬ、いざ生きめやも」からの引用で、意味は「生きようじゃないか」「生きることを試みなければならない」といったもののようだ。

しかし、宮崎駿は「風立ちぬ、生きねば」としている点に注目したい。

宮崎駿は「風立ちぬ、生きねば」を映画全体を貫くコンセプトとし、作中の様々な場面でそれを表現している。

これこそが宮崎駿が映画に込めたメッセージなのだ。


Wikipediaによれば、『風立ちぬ』が映画化されるに至った経緯は次のようなものだという。

鈴木敏夫が映画化を提案したが、宮崎は本作の内容が子供向けでないことを理由に反対していた。宮崎は「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と主張していたが、鈴木は戦闘機や戦艦を好む一方で戦争反対を主張する宮崎の矛盾を指摘し「矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべき」と述べて映画化を促した。

そして、宮崎駿は製作意図について、下記のように説明したと言う。

この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。

この映画には、宮崎駿の答えが明確に描かれている。

まず、最初に認識しておくべき前提は「人生に予め与えられた意味などない。」ということだ。

『風立ちぬ』は堀越二郎という男の人生を描いている。

人生の意味を問う作品ではない。

しかし、人生に風は吹く。

夢の中にカプローニが何度も出てきてはこう言う。

風は吹いているか?

人生は意味を与えてはくれない、しかし風は意味を問うてくる。

作品中で、とても印象的に描かれているのが、風によって飛ばされる帽子、パラソル、紙飛行機であり、それを時に身を危険にさらして掴もうとする二郎と菜穂子の姿である。

風が吹けば、人は動く。

人が動けば、そこに何らかの意味は生まれるだろう。

どういう意味を生み出すのか、風があなたに意味を問うているのだ。

そして、人はその意味が為に生きる。

人生に予め与えられる意味などないが、生きるということはそういうことなのである。

これが宮崎駿の答えだ。

飛行機に憧れた男が戦争の時代に戦闘機を作ることに情熱を傾けるのも、結核で余命の限られた女性を愛し妻とするのも、風が立ったからだ。

ヴィクトール・E・フランクルの名言を思い出す。

あなたが人生に意味を問うのではなく、人生があなたに意味を問うているのだ。


風が吹くならば、生きねばなるまい。



これは、これまでのファンタジー系の作品に込められたメッセージとは大きく異なると思う。

しかし、同じ宮崎駿の作品であるにも関わらず作品間でメッセージに矛盾が発生していても、何ら不思議ではない。

「生きる意味とは何か?」と、子供に問われた時と大人に問われた時で、答える内容は異なるだろう。

子供向けのファンタジーと、この『風立ちぬ』に込められたメッセージが異なったとしても、ある意味で当たり前なのだ。



さて、今日も生きていくか。


風立ちぬ、生きねば。


この最後の唐突感は映画と同じ

奇跡のリンゴ

2013-06-19 01:46:00 | TV・書籍
  


レイトショーで観てきた。

2006年12月にNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』で放送され大反響を呼び起こした「木村さんのリンゴ」を映画化したもの。

原作は石川拓治『奇跡のリンゴ 絶対不可能を覆した農家 木村秋則の記録』で、番組を観て感化された私は出版されてすぐ購入したのを覚えている。



これは、世界で初めて農薬どころか有機肥料も一切使わずにリンゴを実らせた男とその家族の執念の物語である。

無農薬リンゴがなぜ奇跡と呼ばれるのかといえば、それは「リンゴ」というものが農薬を前提として品種改良された作物であるからだ。

種は生息環境の変化にタイムリーに適応できなければ絶滅してしまう。

個体数が少なく近親交配が続いている場合には、この危険性は高くなる。

一例を挙げると、世界の商用リンゴの木の約90%は、元をたどれば一組の親木に行きつく。

遺伝的多様性がほとんどないため、リンゴの木は環境ストレスに対処できるような適応特性をなかなか生み出すことができず、黒星病、火傷病、うどん粉病など、様々な病害に感染しやすい。

要するに、遺伝子的に同質の集団には、進化の前進の為の「原料」がわずかしかないということであり、そのため環境のマイナス変化によって種全体が危険にさらされることがあるのだ。

商用リンゴは、このリスクを冒すことで「甘くて美味しい、綺麗でよく獲れる」を獲得したのであり、そのリスクを低減させ商用リンゴを成立させるものこそが「農薬」なのである。

つまり、農薬を使わずに作ったリンゴは「リンゴ」ではない、「商用リンゴの定義」からしておかしいというのが常識なのであるからして、無農薬リンゴは消費者のみならず生産者にも心的転換を迫ったという点でまさにコペルニクス的転回イノベーションなのである。



木村を無農薬栽培に駆り立てた動機は、妻の美千子(映画では美栄子)が農薬に敏感な体質であったためと言われており、それが一層この物語を愛と感動へと誘っている。

が、これは単なる感動物語ではない。

本を読めばわかるが、彼は職業としては農家ではあるが、素養としては完全にエンジニアであり、馬鹿かと思うほどの頑迷さと不屈さを持ったイノベーターである。

とにかく頑迷であり、その頑なさゆえ家族を路頭に迷わせ、彼自身は村八分にされるのであるが、その逆境を乗り越え成功を手にするイノベーションの成功物語でもある。

リーンスタートアップやメイカームーブメントの中で「とりあえずやってみる」というのが俄かに流行だが、本質的には「実行する」こと自体に意味があるのではなく「試して学習する」ことに意味があるのであり、それがどういうことかを否応なしにわからせてくれるのが「木村さんのリンゴ」であろう。

やってもフィードバックがないのなら、やらないのも同じである。

本質的に大事なことはフィードバックがあるということなのだ。

木村さんの場合、フィードバックをしてくれる相手は"自然"であった。



では、木村が何をやったかというと、一言でいえば「管理することをやめた」ということだろう。

畑は多種多様な生物が棲むようになって、畑の生態系はより弾力のある安定を獲得する。

一本の綱引きではなく、何百、何千の綱引きが畑のあらゆる場所で行われれば、全体として大きくバランスを崩す可能性はそれだけ低くなる。

多様な生物の営みが畑の生態系をより柔軟で強靭なものに変えていったのだ。

管理しないことによって、環境のマイナス変化によって危険にさらされるリスクを抑えることに成功したわけである。

「奇跡のリンゴ」はリンゴの木が本来持つ力を呼び覚ましたというような奇跡の話ではなく、既成農薬が果たしていた役割を生態系のエコシステムで代替したというテクノロジーの話なのである。



しかし、この話を観ていると「自然選択」の凄さをまざまざと見せつけられたと感じざるを得ない。

生物の進化の選択では、どの遺伝子が選ばれてゲノムに組み込まれるかを決める単一の基準がある。

生殖の成功だ。

切り捨てられることになる遺伝子には、擁護してくれる者はいないし、カニバリゼーション(共食い)の危険性を心配してくれる者もいない。

自然のフィードバックは厳しい。

これに比べて、ほとんどの企業では、どのアイディアに資金を与え、どのアイディアを却下するかを選定する作業を行う時、意思決定に政治的バイアスが入りこむ。

このバイアスの影響を抑え込むにはフィードバックが非常に重要であり、組織が生き残る可能性を高めたいのであれば、組織内に自然選択の仕掛けを取り込むことだ。

アイディアとしては理解できるのだが、実現は容易ではない。



さて、話を戻そう。

農薬や肥料を一切使わずにリンゴを実らせることなど「絶対不可能」であり、これはリンゴ農家にとって大前提である。

仮に無農薬リンゴの生産に成功しても、持続的で計画的な生産が困難であり「農業」として成立しないからだ。

木村さんは、イノベーションによってその常識を覆した。

生産とマーケティングを融合したビジネス的な成功として見ると、その価値はさらに見直されることになるだろう。

本の帯に書いてある通り「ニュートンよりも、ライト兄弟よりも、偉大な奇跡を成し遂げた男の物語」なのだ。

なぜ農薬も肥料も使わずにリンゴが実るのか、その科学的メカニズムは今なお明らかにされていない。



誤解を避け、バランスを取る為に念のために触れておくが、この物語が真にイノベイティブなのは世界初の無農薬リンゴの栽培に成功したからではない。

農薬栽培か無農薬栽培かという単純な二元論によってこの話は評価されるべきではない。

問題のないところに新たな問題を発見し、常識とされてきたパラダイムをひっくり返すことで、新しい価値観を社会に提供することに成功した、ここにこの話の価値があるのだ。

それを勘違いしてはならない。



それに、単純に家族の物語として観ても胸が熱くなる話である。

なんて立派な家族かと、実際にはいろいろとあっただろうけれど、思わずにはいられなかった。

ここ最近の家族観では実現しえない話であろう。



ちなみに、木村さんのリンゴをもらって食べたことあるのだが、生きものを食べている感じがした。

食べたらすぐわかるが「リンゴとは違うものだ」という感覚になる。

言うまでもなく美味しいものだ。

リンカーン

2013-05-28 16:40:46 | TV・書籍



今週は余裕があるので早速仕事帰りに映画鑑賞という贅沢な時間の使い方をしてみた。

『リンカーン』。

アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンの最期の4ヶ月を映画化したもの。

勉強不足でアメリカの歴史については深く知らないため、この映画が脚色されているのかとか、事実でない部分があるのかとか、そういったものは私にはわからないが、これを機会にいろいろと考えさせられた。

物語は1865年1月、リンカーンが大統領に再選されて2カ月が経ったところから始まる。

同じ頃、日本では1864年に新撰組が攘夷派を急襲した池田屋事件や長州が京都から撤退した禁門の変、1866年はじめに薩長同盟、終わり頃に徳川慶喜が15代将軍に就任した時期になる。

あの有名なリンカーンによるゲチスバーグ演説「奴隷解放宣言」を、リンカーン自身が不屈のリーダーシップで「アメリカ合衆国憲法修正第13条」として下院で可決させるところをメインとなるのだが、南北戦争の終盤の複雑で難しい政治状況における平和と自由・平等、それぞれの正義が対立するトリレンマによる葛藤に次ぐ葛藤がうまく描かれていて、観る側を飽きさせず、考えさせられながらも楽しむことができる良作だ。

戦争を終結させて人間の命の尊厳を守ること、人種を超えた人間の自由と平等を確立すること、国民の豊かさや財産権を守ること、それぞれ同時には両立し得ない命題をどう実現するか、リンカーンが自らの信念にしたがって知恵と勇気を振り絞って挑む姿に、自分自身の小ささを想わずにはいられなかった。

ちなみに「アメリカ合衆国憲法修正第13条」は↓な内容。


アメリカ合衆国憲法修正第13条
第1節
奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とする時を除く。

第2節
議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する。



これに加えて14条(市民権)と15条(参政権)で完結するのかな?よくわかりません。

しかし、リンカーンは暗殺されることで伝説になったな。


----------------------------


人間なら誰しも、年齢や経験に関わらず、その内面に豊かな感受性を持っており、それゆえに傷つく。

人は傷つく。

だから、外部からの脅威に怯える。

自分が弱いものと見られ、その弱みに付け込まれ、悪用され、なにか大切なものを失うことを恐れる。

そして、自分の弱さを守ろうとして、自分の言動を正当化する。

誰かの間違いや欠点を、自分の言動の言い訳にして、自分を正当化する。

自分は正しいのだ!弱くなどない!恐れるものなどない!と、まず自分に言い聞かせる。

そして、次に外部に向かって叫ぶ。

自分は正しい!弱くなどない!私は利用などされない!

だが、いちど自分の弱さから目を背けると、ずっと自分に言い訳することになる。

もともとの弱さに、言い訳した自分の弱さを加えて受け入れなければならなくなるからだ。

いずれ、雪だるま式に大きくなってしまった自分と、本来望む自分との埋められない溝に苦しむことになる。

心に抱えた二面性の矛盾と葛藤に悩み苦しむ。

問題はそれだけではない。

周囲の人々は、いつも正しいあなたに間違いや欠点を告白することはしない。

いつも正しいあなたの周りには、常に、正しい人々しかいなくなる。

孤独があなたを襲う。

それがさらに心の中にある正しい自分を増長させる。

そうしなければ傷つくからだ。

このようにして人は、失うことを恐れた結果として、もっとも大切なものを失うのだ。

感ずる心を、そして自分を。

傷つかないためには、感ずる心を封印しなければならない。

しかし、感ずる心がなければ、何かを得ることは難しい。

感ずる心がなければ、自分のことでさえ知ることはできなくなるだろう。

ある人は言う、人生は心の中の悪魔を如何に飼いならすかで決まると。

だが、はじめに自分の弱さにしっかりと向き合っていれば、その悪魔につけ入る隙を与えずにすんだはずだ。

自分の弱さを受け入れたところで何も失うものなど何もないと、理解することもできたはずだ。

人は選択することができる。

釜石の奇跡 新世代のマネジメント

2012-09-01 19:29:29 | TV・書籍
釜石の奇跡。

当時こんな話をしていた。


これはドラッカーも存命ならビビるレベルのマネジメントを、小中学生が発揮した奇跡の物語だ。



気が滅入ることが多いので、NHKスペシャル『釜石の奇跡 命を守る特別授業』に関連して、当Blogの人気エントリ、『釜石の奇跡 信頼が生み出す希望』を再掲いたします。

これが新世代のマネジメントだ。


釜石の奇跡 信頼が生み出す希望
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/19e5c128b52b0dd9b2ebda6cd6fba210



不信の連鎖を断ち切って、信頼によるネットワークをみんなでつくろうよ。


■追記

番組内で、堀ちえみが、緊急事態発生時に家族が集合する目的地をあらかじめ決めておく的な話をしていたが、それが間違いだっていう主旨の話だったのが台無しになった。

子供達がその目的地を守らなかったことが釜石の奇跡を演出した一つという話だったのに。

ハザードマップを信用せずに、危険を感じて逃げた。

あらかじめ決めておいた目的地を目的地にしないことが大事なのだよ。

不確実になるのだ。

だから、そんな不確実な状況だから信頼が重要になるという話だったのに。


映画 るろうに剣心

2012-08-29 18:39:42 | TV・書籍




面白い。

素晴らしい殺陣だと思う。

ほんっとにちょうどいい。

リアルと空想の間の、ほんとに絶妙な境界でアクションシーンを展開してることに驚きを禁じ得ない。

地味すぎず派手すぎない。

シリアスになり過ぎず全体として明るい。


これは稀有な映画だと思う。

さすがワーナー。

やりおるわい。

『ほこ×たて』

2012-03-04 19:56:50 | TV・書籍
『ほこ×たて』面白い!

この番組素晴らしいなぁ。

技術を持ってる職人にフォーカスが当てることができるし、

職人と職人のプライドのぶつかり合い・・職人かっこいいっ!!

ちょーうらやまー。

私も職人になりたかった。。

しかしあえて選んだたまねぎ剣士の道だ。
(妄想の話で現実の話ではありません。)

目指すぜLV.99

こういう普段光の当たらないものに光を当てる企画ってほんとすごいよなぁ。


デパ地下で試飲して買った日本酒「大信州 番外品」いいじゃないか。

うまうま。

平清盛面白いなー。

濃厚なドラマだ。

若者はわかんないのかなーこの面白さが。



採点結果に責任持たないなら評価者がプロである必要がない。全くない。

2011-05-22 02:07:49 | TV・書籍
「お願いランキング」というTV番組を見たら、シェフや美食家による回転寿司店の人気商品をスコアリングをしていたわけですが、つけられる点数に全く説得力がないのに番組が成立しているという構図に驚きました。
何に驚いたかって言えば、点数に全く基準がないことです。
こんないい加減なスコアリングに挑戦者がいるとなると、番組制作者と挑戦者との間で「事前の調整」があるのではないかと疑いたくなります。
(きっとあるのでしょう。)

番組を面白くするために酷評しなければなりませんが、それだけではバランスが取れませんから、どうせ(今日は店対抗でしたが)単体でランキングする時は必ず満点があるようになってたりするんでしょう。
ゴールデンタイムの番組にはありがちな構図ではありますが。

番組のこのコーナーに格を持たせたいなら、次のような採点基準を採点者に課すのがよいでしょう。
付けた点数に責任を持たないなら評価者がプロである必要が全くないからです。
今のままでは道端歩いている人に採点させたのと同じです。

10点 :自分の名前を使って宣伝してもらってよい。(「○○が認めた!」「△△が推薦!」etc..)
8 - 9 点 : 他者に推薦したい
6 - 7 点 : 自分で料金を出してリピートしたい
4 - 5 点 : 無料ならリピートしてもよい
2 - 3 点 : 無料でも食べない
0 - 1 点 : 論評するのに値せず

これが大衆版のミシュランガイドだ!みたいな気合を感じないのが番組制作者側の怠慢か、それともそうできない日本という国の過剰コンプライアンスの悲しさか。。

[つぶやき] 武井咲が輝いて見える

2011-03-01 21:02:45 | TV・書籍
素人ウォッチャーによる雑感なのでさらりと読んで頂きたい。

今週も録画してあった「大切なことはすべて君が教えてくれた」を見た。
ドラマとしての完成度は決して高くないと思うのだけど、ついつい見てしまう。

武井咲が輝いているからに違いない。
武井咲が主役を食ってる。
「ラストサムライ」で主役のトムクルーズを食う渡辺謙みたいな感じ。
存在感で誰よりも勝っている。
ただ、やり過ぎ感が少し出ており、スポンサーや広告代理店、芸能プロダクションの思惑を感じずにはいられない。
今後の問題は、大人らしい少女から、大人になった時にどういう女優になれるかだ。
見てる側の意識が変わるからこの壁は大きい。

逆に、戸田恵梨香の役どころが難しすぎる。
脚本のせいか、演出のせいなのか、とにかく設定(役)がピンボケしてる。
それでも、その違和感を演技力で隠してしまえるのが戸田恵梨香の女優魂か。
しかし、これではまるで武井咲の踏み台に見えてしまう。
かわいそうな配役に思える。
もう少し1人ひとりの人物像を濃く描けば、こういう状況を回避できるのだが、製作者側の総工数が足りないことが原因か。

全体を通して思うのは、一つ一つのパーツ(シーン)は悪くないのだが、総合力を発揮できないパーツとパーツを組合せ方というか、時間がないのか予算がないのかわからないが、全体最適視点が欠けているような感じだ。
いや、むしろ様々な制約の中で、よくここまでうまくまとめてあると言うべきかもしれない。
しかし、うまくまとめるにもこの辺が限界だろう。

TV局はドラマ1つ1つの質を高めるために、もう少し戦略的にドラマに投資した方がよい。
ドラマはヒットすれば映画化やスピンオフ、パッケージメディアなどのコンテンツビジネスとして利益を生む。
現在の伸びきったドラマ戦線を維持してドラマ離れを引き起こすよりも、ドラマ枠を減らし、もっと厳選して作りこんだ方がよい。
俳優・女優は仕事は減って大変だろうけれど、中長期的な視点で考えれば、消費するだけのドラマよりも、経歴として残るドラマに出演するほうがよいことになるはずだ。

「紅白歌合戦」ではなく「東アジア国別対応歌合戦」にしたらどうか

2010-12-30 01:21:29 | TV・書籍

北島三郎、演歌枠縮小を憂慮 「演歌を大事にしてほしい」(オリコン)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101229-00000306-oric-ent

演歌だPOPだという前に、ライフスタイルの多様化を前にして
歌の影響力が落ちてきていること自体が大問題だろう。
このご時世に「紅白歌合戦」というネーミングからして、もう時代遅れなのかもしれない。

もうVHSやCDが一般的に普及した何十年も前にこの流れは出来ていて、
消費者からすれば、CDやYouTubeで歌を聴く事ができる以上、
TV番組で原曲のまま聴く事になんの意味もない。
精々一部のファンが喜ぶのと、普段歌を聴かない人々が時短で楽しむ程度の価値しかなく、
実際に多くの歌番組は消えていった。

現在残っている歌番組はほんとわずかで、
しかも歌って聞かせる歌番組なんてほとんどなく、
ゴールデンタイムでやれるのは
お笑い芸人にホストをやらせてエンターテイメント性を持たせた番組くらいで、
あとは深夜にランキングをやるのが精一杯というところだ。

ただでさえ、技術革新で音楽番組の価値が低下の一途にあるのに、
ここにきて現役世代の減少(世代交代)によってライフスタイルの多様化が進み、
歌そのものの影響力さえ怪しくなってきている。

もちろん、若い世代も歌は聴く。
そして歌を嫌いになったわけでもない。
人間である以上、歌から離れることはできないだろう。
ただ、歌以外にも影響力を持つものが増えた。
だから、相対的に歌の地位が落ちたのだ。

また、もはや1つの価値観でマスを捉えることができないことも大きい。
紅白歌合戦に出場する少数の歌手だけで日本全国民の趣味趣向をカバーできない。

それでもまだ、FNS歌謡祭や紅白歌合戦はまだ努力を重ねている方ではある。
その場でしか見れないもの、聴けないものにこだわった番組制作をしているからだ。
紅白歌合戦の場合は、その年のテーマを取り込むなどかなりの創意工夫の形は見える。
しかし、それもあと10年もすれば様変わりするだろう。
世代が変わるからだ。
20年先に紅白歌合戦が存続しているかは怪しい。

個人的には、21世紀に国民的番組を望むこと自体に無理があると考えながらも、
ただ1つだけ、可能があるのキーワードがあるように思う。

それは、ナショナリズムである。

ナショナリズムという言葉を出すと過剰反応をする人もいるが、
私がここで述べるナショナリズムは愛国心とは少し違う。
同郷・同胞精神のことで、国家レベルで語ればナショナリズムになるだろう。

人間であればコミュニティに対する愛着心を持つ。
これは遺伝的にも血肉化した人間であるが故の性だ。
戦争などを観察しても、ナショナリズムが主義主張に勝るのがわかる。

この人間ならば誰もが持つ、ナショナリズムを発火させることだろう。
典型的な例はサッカーワールドカップやオリンピックなどである。

ただ、問題は紅白歌合戦は非常にドメスティックな番組という点だ。
40年くらい前なら「都道府県対抗歌合戦」でも盛り上がれたかもしれないが、
今なら「東アジア国対抗歌合戦」的なもので盛り上がれるかもしれない。

オリンピックが運動による平和的戦争なら、
「東アジア国対抗歌合戦」は文化による平和的戦争みたいな感じで。

どうやって勝ち負けつけるのかが問題ではあるが。

あと、紅白歌合戦を日本の文化を守る防波堤だと思われる人もいて反対されるかもしれない。
でも、国別対抗でやった方が日本らしさも浮かび上がってくるという考え方も可能だ。
自己認識もできて、発展にも繋がる。
そして相互理解にも役に立つ。
いいアイディアだと思うのだが。

FNS歌謡祭

2010-12-04 21:27:43 | TV・書籍
久しぶりにじっくりテレビ番組を見た。
本当に素晴らしいと思う。

フジの「FNS歌謡祭」。

最高の酒の肴だ。

限界価値効用説によれば、
「希少性」「有用性」「象徴性」で価値は決まるという。

技術は時空間を縮めて「希少性」を貶める。
これまで価値のあったものを無価値にしてしまうのだ。
活版印刷しかり、TVしかり、インターネット、携帯電話しかりだ。

この番組の素晴らしいところは、
本当に素晴らしい歌は何か、
本当に素晴らしいコラボレーションとは何か、
それを追求しているところだ。

今、最も素晴らしいと思う「方法」で魅せる。

こんな贅沢があるだろうか。
紅白歌合戦がとてもつまらないものに見えてくる。

考えてもみて欲しい。
人気のある歌手が自分のものではない歌を
でも、素晴らしいと想う歌を

歌うのだ。

日常のビジネス、プロモーションから離れて
いいと思うものを表現する。

歌うのだ。

ここでしか見れない歌を歌う。

FNS歌謡祭は時空間を超えた。

そこには、そこにしかない価値がある。

潜在的 大観光都市 金沢でも主張したが、「文化」こそ重要なのだ。
グローバリゼーションはローカリゼーションを先鋭化させる。
なぜなら、文化はそこにいる人に会わないと伝わらないものだからだ。
技術だけでは伝えられない、人によってしか伝えることのできない価値がある。

FNS歌謡祭には、FNS歌謡祭だけの文化がある。
フジテレビ恐るべし。

『競争と公平感』 市場との付き合い方を知らない日本人

2010-10-20 00:47:22 | TV・書籍
『競争と公平感』(大竹 文雄 (著) )

本書は「週刊東洋経済」2010年上期 経済書・政治書ベスト2位にランクインしている。
評価を得るに値する本なのは間違いない。
特に、第1章の「競争嫌いの日本人」の中で語られている
日本人が「市場」や「国による再分配」をどう考えているかというくだりは、
今後様々なところで引き合いに出される事になるであろう。
(実際、いろんなところで耳にする)

だが、私はこの本を読み終えて紹介予定本としてスタックに積んだのだが、
どうにも筆を進めることができず、実際にこうしてエントリ化するのに非常に時間がかかった。
なぜかというと、この本で取り扱っている「公平」というテーマがあまりに壮大過ぎるからである。
「公平」に関する自分の立ち位置を明らかにすることができるかどうかが悩みだった。
著者が思い切って自説を並び立ててくれれば、まだ私の意見も表明しやすいのだが、
この本は、著者の誠実さがよく出ており、「公平」について無理な解答を用意していない。
それがこの本の良さでもあり、悪さでもある。

ただ、「公平」の問題がやっかいなのは、壮大というだけでなく日本における今日的なテーマであるという点だ。
難しいからといって避けて通ることもできない問題なのである。
議論を躊躇して踏みとどまるよりも、一歩踏み出すことによって得るものの方が大きい。
そんな動機で、今日このエントリを書くことができた。
「公平」に関する議論はこれからも永遠に続くのかもしれないが、
だからこそ皆で話し始めることに意味があるともいえる。
そのキッカケとして、この本は大変役に立つことだろう。

では、内容について少し触れたい。
この本のハイライトは、前述したように第1章にある。

まず、
日本人は、社会主義国家よりも、市場を信用していない。
しかし、それと同時に、
日本人は、アメリカ人よりも、国による再分配も信用していない。
つまるところ、
日本人は、格差を嫌い、格差が発生しない仕組みによって貧困を抑止することが重要だと考えている。

これには、幾つか予想できる理由がある。
まず、
日本人は、人生における成功は、努力に依存するのではなく、運やコネに依存すると考えている。
自分の胸に手を当てて考えて欲しい。
多くの日本人は、成功とは、自分の力とは関係ない他の要素で決まるのだと考えているのだ。
そして、
日本人の多くは、勤労努力をすれば貧困を避けることはできると考えている。
要は、日本人の頭の中では、貧困と怠惰が結びついていて、国による再分配は怠け者を助けることになるのだ。

果たして日本人のこの考え方は正しいのだろうか。
著者は、日本人の市場競争に関する無理解が、この誤まった考えを導くと示唆している。
つまるところ、多くの日本人は、市場と市場との付き合い方を知らないのだ。
(日本が置かれている状況にも理解が足りないということもいえる)
この原因としては、日本の学校教育の問題や、文化的背景も影響していると思われるが、
この本では「公平」に関して多角的に説明しているので是非参照されたい。

私自身、この問題についてどう考えるかというと、
基本的には「負担と利益の関係が見えにくい」というところに
「運やコネ」や「貧者の怠惰」といった思い込みの原因があると思う。
「負担と利益の関係」が見えないために、「公平な負担」を実感することができないのだ。
しかし、これは歴史的に見れば、むしろ責任を分散するための知恵であったとも思え、
一概に「見える化」や「オープン化」が日本における解決に直結するとは言い難い。

やはり、陳腐な言い方になってしまうが、
市場経済の発達とともに、日本人の意識も変わっていかなければならない部分があったのだが、
意識の方に変わらずに残ってしまった部分が多いのではないか。
日本人が構築したシステムがなまじ素晴らしかっただけに、
意識の変革を必要とせずともある水準までの経済発展が可能であった。
これ自体は成功なのだが、しかし、この成功体験が今日の行き詰まりの原因となってしまった。
そうなると、本の紹介といいつつ当Blogの主張と結びついてしまうのだが、
戦後民主主義の功罪ということにならないか。

続きは、この本の内容からはずれてしまうのでやめにしておこう。

『脱「ひとり勝ち」文明論』 21世紀の予言の書

2010-10-14 12:45:17 | TV・書籍
『脱「ひとり勝ち」文明論』(清水 浩)

著者は、最高速度370km超の電気自動車「Eliica」の生みの親として知られている。
メディアにも多数出演しており、科学技術者としての認知度は相当に高い方だろう。
その著名な第一線の研究者が本を書いた。

でも、本の名前に違和感を持った。

『脱「ひとり勝ち」文明論』

科学技術者による文明論はありがちだが、たいていピンボケやトンデモが多い。
それは、往々にして科学技術者が社会構造やビジネスモデルに疎いからだと思う。
(疎いというと語弊があるが、ある価値観に偏っている場合が多いという意味に近い。)
それなのに、この本の名前は"脱「ひとり勝ち」"と、
いかにも「これからのビジネスモデルを語るぞ」という雰囲気を醸し出しているではないか。
正直言ってあまり期待できないと思った。

それでも、この本を薦める人がいたので買って読んでみたのだ。

私の傲慢さは打ち砕かれた。
科学技術者だからこそ文明論について語れるのだと理解させられた。
それも中高生が読んでも理解できるわかりやすさとともに。

この本を絶賛する書評は多い。
だが、その多くは、この本が我々に与えてくれる本質的な価値について捉え切れていない。
多くの書評はたいていこのような文句を使っている。



「この本に未来がある!」
「この本には希望がある!」
「具体的な解決策を示している!」



それは確かなのだけれども、そこがこの本のメインテーマなのではない。
「Ellica」は未来への先導役だが、それがこの本の主旨ではない。
メインテーマは、本の冒頭部分を読めばわかる。



高校生の9割が「未来は悪くなる」と予測している時代


神奈川県のある県立高校で、僕は、特別講義をやりました。
講義の冒頭で、
「これからの世の中は、良くなると思いますか?それとも、ダメになると思いますか?」
と、50人の高校生に質問してみたのです。
結果は、
「良くなる」=2人
「ダメになる」=48人
というきびしいものでした。

・・・

しばらくして、ぼくの勤務先の慶応義塾大学を志望している高校生達のために開講されたオープンキャンパスの講義の中でも、同じ質問をしてみました。結果は・・・。
「良くなる」=3割
「ダメになる」=7割
講義の終わりに、もう1回、聞いてみました。
「良くなる」=9割
「ダメになる」=1割
というふうに、ぜんぜん違う結果になりました。



この結果が示すことは何か。
著者のプレゼンテーション能力が高いということではない。
将来を悲観している高校生達が、なぜ将来を悲観しているのか。
それは、高校生達が本当の問題と、その解決方法を知らないからである。
では、本当の問題とは何で、その解決方法とは何か。
その手がかりが、この本には書いてある。
そして、それがこの本のメインテーマだ。

この本のメインテーマは、力学と電磁気学を基にした「20世紀型文明」から、
量子力学を基にした「21世紀型文明」へのシフトなのだ。
我々は数々の地球的規模の問題を前にして、
将来を悲観して「このままでは未来は暗い」と議論することが多いが、
それは20世紀型文明の下で考えるからであって、
21世紀型文明の下で考えれば、それぞれ解決可能な問題なのだ。

この本が我々に迫るのは「パラダイムシフト」なのである。
だからこそこの本は「文明論」と名を打っているのだ。

また、著者は、力学や電磁気学をベースとした文明では、
豊かさとは資源の獲得であったため、「ひとり勝ち」することが利益に直結すると考えられたが、
量子力学をベースとした文明では、そうはならないと指摘する。
量子力学を基盤にした社会では、資源のあり方そのものが変わるからだ。

さぁ、人類よ。
20世紀型文明である「ひとり勝ち文明」から脱し、21世紀型文明へシフトするのだ。

脱「ひとり勝ち」文明論 = 21世紀型文明論。


【あとがき】
ちなみに、私はこの本を最初に読み終えた時、著者の人柄が出ているなと思った。
「希望がある」「未来がある」と絶賛する書評から、きっと著者は熱い人なのだろうと想像していた。
しかし、いざ読んでみると非常に物静かな文章で、正直に言って語り上手とはいえない。
プレゼンテーション方法よりも、中身で勝負という科学技術者らしい側面を見た気がした。

先日、著者のプレゼンテーションに直接に接する機会があった。
私の予想したとおり、静かな語り口で、確かなことをさらっというタイプの研究者だった。
「一番大事なのは中身」
久しぶりに本物の科学技術者に触れた気がした。
(誤解のないようにいうと、清水氏のプレゼンは十分に上手だ。私が言いたいのは、プレゼン能力でのし上がった人ではないという意味だ)

『超ヤバい経済学』 経済学的アプローチという冷静さ

2010-10-06 12:45:17 | TV・書籍
超ヤバい経済学 (スティーヴン・D・レヴィット, スティーヴン・J・ダブナー, 望月 衛 (翻訳) )


訳者が同じ望月氏だからだと思うが、軽快な語り口が『ブラックスワン』と非常に似ていて妙な親密性を覚える。
内容としても、著者が主張する「経済学的アプローチ」が
タレブが『ブラックスワン』で主張する「懐疑的実証主義」と重なる部分があることもあるだろう。

「経済学的アプローチ」とは、できる限りバイアス(偏見)を排除して、
実証データや論理性に基づいて判断をしようというものだ。
そうすることで、日常見ている風景とは違うものが見えてくる。

しかし、この手の書籍の評価は難しい。
即効的な効果はあまり期待できないからだ。

「面白い話」として飲み会や世間話で使えるネタ程度の教養ものか、
それとも、読んだ人の「生き方や物事の考え方を変えてしまう」ほどの教養なのか、ということだ。

経済学を学んで、それが実際の生活に役に立つのか?という問いにも似ている。
もちろん役に立つ場面もあるし、本質的には読み手の資質にも影響されるわけで、
そういう意味では評価は読み手に任されていると言えるのだが、
この本については特に意見が分かれるだろう。

私が思うに『ブラックスワン』が評価されるのは、思想的転換を"分かりやすい形"で読者に迫るからである。
では、『超ヤバい経済学』はどうか。
私は、「新しい視点を提供してくれる書籍」と位置づけるのが良いように思う。

内容が『ブラックスワン』に比べて貧弱だとか高尚でないというのではない。
どのようなキッカケを読者に与えてくれるのかということだ。
力点の置き場所の違いと言えば、わかりやすいかもしれない。

我々が普段接するのは各種マスメディアから伝わる情報であるが、
この情報にはかなりバイアスがかかっている。
バイアスに振り回されないための心構えの重要性、
そしてそのためのツールを我々に与えてくれる書籍だ。

特に、売春ビジネスを経済学的アプローチによって焙り出す部分は、必読である。
ブラックマーケットの実態調査を進めると、意外に経済学的に説明できることが多いし、
そうすると「悪」や「善」だと考えていることも違って見えてくる。
(つまり論理的に説明できることが多い)
人間は、どこにいても最適化してしまう生き物なのである。

この書籍について、もう1つ触れておくべきことは「意図せざる結果」について力点を置いていることだ。
これも、「より大きな視点」、「より広い視点」を持つべきだという意見に換言できるが、
何かを行う時には「意図せざる結果」について考慮しておくという発想を身に着けておくことは
ついつい他人のせいにしてしまいがちな外部要因による事象について
自己責任を感化できるという意味において大変に意義深いであろう。

情緒的な人間の前に、ちょっと冷たいひとつの置石。

そんな書籍だ。