進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

渡辺麻友おめでとう!

2014-06-07 21:27:02 | AKB48_心の叫び
AKB48は総選挙という場で意思を表した。

指原がということではなく、渡辺麻友1位というところに意思を感じたし、可能性を見た。

純粋に感動した。

AKB48の力はまだ死んでない。

素晴らしい。


■補足

言葉足らずで誤解を生むかもしれないので補足します。

私の発言には深い意味はなくて、私が「AKB48はまだ死んでいない」と書いたのは、「AKB48のダイナミズム(動きを生み出す力)はまだ残っている。」という意味です。

このダイナミズムを持っていれば、まだまだ物語を創ることはできるでしょう。

正直に言って驚きましたし、率直に感動しました。

私自身は「渡辺麻友が1位でならねばならない」とは考えていなくて、「渡辺麻友が1位でなければならないと考えるファンが渡辺麻友を1位にした」、このことについて感動したと書きたかったのです。

また、私はAKB48の強さが「推しメン」システムの頑健さにあると考えているのですが、最近ではAKB48コミュニティはその推しメンによる多元社会になり、分裂気味である印象を持っていたのですが、総選挙にて渡辺麻友1位にするべく推しメンの「境界」を超えて結束し、、また渡辺麻友1位に歓喜するファンの姿に民主主義の芽生えを見た、と印象を述べました。



それと、私は伝統というのは大事だと考えています。

「保守」ではなく「復古」。

三谷博氏の『愛国・革命・民主』の影響を多分にウケているのですが。

どの時代も、ナポレオンもヒトラーも、明治維新も復古によるものだから。

「進歩」ではなく「復古」が大事という話がしたいのだけど、また今度・・。

保守:現状肯定、参照点過去
復古:現状否定、参照点過去 ←過去に戻るという意味ではありません。
進歩:現状否定、参照点未来

最近AKB48についてブログを更新していない件について。

2013-10-08 01:24:58 | AKB48_心の叫び
ご無沙汰しております。

最近AKB48についてブログを更新していない件について、ここで考えを述べておこうと思います。

(たいした話ではないですが、更新がなくて何事かと思われると困るので。)



私は、「AKB48に語るだけの価値がない」とは考えていません。

そもそも「AKB48に語るだけの価値がある」というのは、「AKB48に価値がある」のではなく、「AKB48を語ることによって生まれる価値がある」という意味の言葉です。

ですので、語ることによって価値を生みだすことができるか否かが、語るだけの価値があるのかの判断基準になるわけですが、しかし、「価値」というのは、不確定性原理のように事前には不確定なものです。

何かを確かめようとするとき、はじめて価値は確定的になります。

ただ、価値判断を伴うモノゴトには何となく「型」というものがあって、モノゴトの中身はよく理解できなくても、その型に照らし合わせて、マクロでの方向性はそれとなくわかるものです。

本質的な問題が何かを見極めようとすることによって、過程はどうあれ行き着く先のイメージは持つことができるということです。

「筋の良し悪し」という言葉はよく使われる表現です。

だから、いつも私は、AKB48を見て、私の頭の中にある型に当てはめ、今後どういう価値が生み出されるのか思索するわけですが、最近はAKB48を見ていてもよくわからないことが増えてきました。

これまでは、何かがある度に、それが意図したか意図せざるかに関わらず、将来的な方向性はそれとなく見えていたつもりですが(それもつもりでしかないが)、最近は私の理解の範疇を超えていることが多くなりました。

「AKB48に語るだけの価値がない」のではなく、私が価値を語ることができなくなってきたということです。

こういう時、往々にしてよく行われるのが、自分が理解できるような形に現実を捻じ曲げるという行為です。

これは必ずしも悪いことではありません。

人間が生きていくために、論理の単純化や矛盾を1つ上の次元で統合するといったことは重要な知恵です。

が、時として経験や知恵は邪魔になるものです。

過去の成功体験が新しい成功の芽を潰すこともあるからです。

よって、「AKB48に語るだけの価値がある」と考える人々によって、今後もAKB48は語られるべきだと思うし、私はダグラス・マッカーサーの有名な言葉「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」に倣って、しばらくの間充電期間をもって、私自身が成長して新たな価値を見出すことが出来るようになったら、また語りたいと思います。



誤解されたくないのは、上記で述べているのは、AKB48に関する話題を扱わないという意味ではなく、これまでのように偉そうに意見するのは当分の間、控えるということです。

(この間、知人の知り合いの若者に「乃木坂46を売るにはどうすればよいか?」という相談をされたりして、こういう話はやはり面白いなぁと感じているので、ライトな会話なら余裕さえあればしていこうかと。)

コメント欄については自由闊達な議論に使って頂ければと思いますが、荒れないようにはしていきますので、よろしくお願いいたします。



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【追記】

様々なコメントを頂きながらも、コメント欄を放置して申し訳ないのですが、ここでものすごく簡単ではありますが、考えを述べておきたいと思います。

私は、どのコメントにも一理あると思います。

主張の部分を見れば、論理的な整合性や正当性といったところで調整が必要になる内容も多々あるかもしれませんが、どのコメントにも傾聴に値する理が込められているなと感じています。

主張の本質だけを見ていくと、頂いたコメントの多くには重要な意味が込められていると思います。


何が言いたいかというと、今行われているのは不完全な議論かもしれませんが、その背景にある思想の多様性と強靭さ、これがAKB48世論の強さである、ということです。

正しさが何か?という点についての混乱が憂うべき状態なのでなしに、この多様な立場に基づく思考をAKB48という名の下に統合できずにいる現状こそが憂うべき状態である、ということです。

運営には、是非1つ上のメタ次元でよく考えてもらいたい

ってもう偉そうに発言してるじゃないかって言われそうですね。

まぁ・・AKB48に限った課題ではないのですが。

人をやる気にさせることなどできない

2013-09-02 20:34:09 | AKB48_心の叫び
人をどう動機付けたらよいのだろうか?

↑この問いは間違いである。

正しい問いは、「他者をどのように動機付けるか?」ではない。

どのようにすれば、他者が自らを動機付ける条件を生み出せるか?

である。

言葉にすると僅かな差しかないが、意味は大きく違う。


マネジメントの仕事は点火すること
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/442bce70b0735af450c69e0e31663040

戦いは「非対称戦」であり、恋愛総選挙は「理念」であり、目指すべきは「Win-Winの関係」である

2013-07-28 00:53:06 | AKB48_心の叫び
みなさま、いつもコメントありがとうございます。


次善策として、AKB48内に「恋愛禁止条例」について多様な考えが存在することを認めるのはどうだろうか
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/330dad703995c71eb0f1df312dffcf43


↑こちらのエントリにコメントで頂いている件です。

一つのエントリで伝えられることには技術的にも量的にも限界がありますし、過去何度か語っていることは前提にしたくなるもので、毎回丁寧に説明するのはなかなかしんどいものです。

ただ、誤解されたまま放置するのは本意ではありませんので、ここで改めて私の考えを述べることにします。


私は、ここで問題提起をしたいと思っています。

まず問題認識を合わせないと議論が深まりませんし、結果として問題を解決できないと思うからです。

対立や混乱よりも、解決こそが皆が望む未来だと思いますので、そこに向かって今一度、語り合うことにしましょう。

よろしくお願いいたします。


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上記のエントリについて頂いたコメントから一部転載します。

異分子側を思い切ってAKBから隔離するような世論を盛り上げるのが、現実的だと思います。

異分子側を肯定的に解釈しようとして共存共栄を期待するのは画餅だと思います。

異分子を無理に理解しようとしても、真AKB側と世界観が違いすぎればサリンを撒かれて共倒れです。

異分子とその支持者にはAKB界隈から消し去ってもらうように世論を高めないと、理想論や期待論では前に進めない段階にAKBは来たと思います。


異分子を切って隔離した結果が「サリン」です。

迫害された(と受け取った)オウムは、人里離れた上九一色村にサティアンを構築しました。

そのサティアンでサリンは製造され、長野と東京でのテロに使用されたのです。


過去を振り返ってみると、人類は様々な時代で隔離政策を実施しています。

近代だけを見ても、江戸幕府がキリスト教を弾圧した「禁教令」、ナチスの優生学に基づく「ホロコースト」、旧ユーゴスラビアの「民族浄化」など、挙げればキリがありません。

しかし、隔離政策の結果はどうだったのかというと、一時の安定と引き換えに滅亡を呼び込んでいます。

これには理由があります。

エネルギー保存則は、カオスを隔離しても、その総量は変わらないことを教えてくれます。


AKB48論争の光と影 ~エネルギー保存則~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/480bba361b4ed29647474a3c41c48eb0


隔離してしまえば、問題は見えなくなるでしょう。

しかし、問題がなくなるわけではありません。

問題は地下に潜って残り続けるばかりか、集まればその力を増し、いずれ制御不能になる可能性もあります。


また、万里の長城のような長大な壁を作って、外と内を隔てることもできます。

しかし、内を守るために外を隔離すると、外の様子を把握することができなくなり、さらに外に対する影響力も失います。

その結果、内の力が弱まったときに、外的が侵略してきて滅ぼされる可能性が高くなります。

外的から身を守るために防壁を作ることによって一過性の安定を手に入れることができても、その壁に隔てられた外側に対する関心まで失ってしまえば、気づいた時には制御の難しくなった手遅れの問題に直面せざるを得なくなり、結果、己の破滅を招くのです。


これは、今この時代にも起きていることです。

つい最近も、アメリカ軍がイラクで味わいました。

アメリカ軍はイラク戦争での損失よりも、治安維持活動で失ったものの方がはるかに多いです。

ラムズフェルド国防長官が更迭された後、治安維持活動を地元密着型に戦略転換をしてようやく落ち着きました。

治安維持活動に苦戦した最大の要因は、アメリカ軍とイラク住民との関係が疎だったことです。

イラクの住民にとってテロリストは日常のものですが、アメリカ軍は頑強な防壁に囲まれた基地の中にいて、掃討作戦の時だけ外に出てきます。

住民は、アメリカ軍に協力すれば、アメリカ軍が基地に戻った後テロリストに殺されてしまいます。

安全が約束された中央で戦略を立てようとしても、複雑極まる現場の何を反映できるというのでしょうか。

そこいる人々の想い、息遣い、苦しみ、こういったものをわからずして、有効な戦略が立てられるわけがありません。


今、戦いは「非対称戦」へと主戦場を移しています。

我々が直面している問題は、弾道ミサイルと無人爆撃機で倒せる相手ではないのです。

誰もがターゲットに成り得る状況下で、事前にターゲットを明確に区別(隔離)して攻撃することなど、ほとんど不可能です。

それゆえ、当Blogではずっと「理念」としての「恋愛禁止条例」を主張してきました。

「ルール」ではありません、「理念」です。

1人ひとりに「理念」が浸透することで、壁がなくてもガバナンスがとれるようになります。

だから「理念」は、1人ひとりが理解してこそ意味があるのであって、その理解を醸成するための組織力、土壌を養うことが大切なのです。

その観点から、反するものを隔離することは、「理念としての恋愛禁止条例」とは異なる考え方だと言わざるを得ません。


ここは誤解を生みやすいので、念のために補足しておきます。
「辞めさせる」ということと「辞める」ということは別の話です。
前者はクビであり、後者は「切腹」のことです。
わかりにくいと思いますが、意味が違います。

やるな増田
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/faca55009eae53e5ef4477ede8350c29


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目指すべき個人と組織の関係性について、他で説明する時に使っている資料があるので、一部をここに掲載しておきます。

個人と組織との関係性で目指すべきものは、相乗効果を生み出す「Win-Winの関係」です。

認識のギャップを乗り越えて、向かう先を合わせなければ、お互いの努力を浪費をするだけです。

「Win-Winの関係」を構築するため、個人と組織が意識を合わせて行くために「恋愛禁止条例」という「理念」を使うことを考えたらどうでしょうか。













恋愛禁止条例 自己責任論に反対する
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ea854ba7bd0c3c1f300f624ca48032a2

アンチではなく「水を差す」人々は必要だ

2013-06-20 13:01:18 | AKB48_心の叫び
ちょっと遅れたけど

よしりんAKBヲタやめるってよ(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51882035.html


小林さん!

私はあなたの意見いつも楽しみに読んだり聞いたりしています!

総選挙番組での指原とのやりとり、地デジでは有り得ないヲタ発言は素晴らしかったです!

みなが指原1位の意味をどう解釈するべきかと考え議論している中で、あなたのように「そんな意味は認められない」と主張する人は必要です。

みなが1位の意味を解釈しようとする行為によって、みなは自然と1位の意味という檻の中に閉じ込められてしまうから、そういう人々は望むと望まぬ途に関わらず間接的に体制を翼賛する側に立ってしまう危険性を持っている(それは集団の閉鎖性につながる)ために、小林さんのように脱構築する人がリスクヘッジになるのです。

健全な野党は必要です。

じゃないと与党が成長しないですから。

忙しいなか大変だと思いますが、今後も楽しみにしていますよ、よしりん先生!


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私は、自分のポジションを取って意見をする人は尊重されるべきだと思っている。

各人が自分のポジションを明らかにすることで、対話というものは発展性を持ち、そして建設的なものになるからだ。

人間は誰もが心の中に豊かな感受性を持っていて傷つきやすいから、自分を傷つかないでよい場所において意見だけをしたくなる。

自分の立ち位置を明らかにせずに批判だけをするのは容易だし、実際、その誘惑は強い。

しかし、自分が傷つくからこそ、人間は成長する。

人間は傷つきたくなくて感じる心を封印することもあるが、同じように傷つきたくなくて、もしくは傷心を乗り越えたくて成長する。

「傷つく」ことをどう理解するかの話であり、どちらを選択するかの問題だ。


リンカーン
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/708d2dc1b8153dd7737986144117eb88

人間なら誰しも、年齢や経験に関わらず、その内面に豊かな感受性を持っており、それゆえに傷つく。

人は傷つく。

だから、外部からの脅威に怯える。

自分が弱いものと見られ、その弱みに付け込まれ、悪用され、なにか大切なものを失うことを恐れる。

そして、自分の弱さを守ろうとして、自分の言動を正当化する。

誰かの間違いや欠点を、自分の言動の言い訳にして、自分を正当化する。

自分は正しいのだ!弱くなどない!恐れるものなどない!と、まず自分に言い聞かせる。

そして、次に外部に向かって叫ぶ。

自分は正しい!弱くなどない!私は利用などされない!

だが、いちど自分の弱さから目を背けると、ずっと自分に言い訳することになる。

もともとの弱さに、言い訳した自分の弱さを加えて受け入れなければならなくなるからだ。

いずれ、雪だるま式に大きくなってしまった自分と、本来望む自分との埋められない溝に苦しむことになる。

心に抱えた二面性の矛盾と葛藤に悩み苦しむ。

問題はそれだけではない。

周囲の人々は、いつも正しいあなたに間違いや欠点を告白することはしない。

いつも正しいあなたの周りには、常に、正しい人々しかいなくなる。

孤独があなたを襲う。

それがさらに心の中にある正しい自分を増長させる。

そうしなければ傷つくからだ。

このようにして人は、失うことを恐れた結果として、もっとも大切なものを失うのだ。

感ずる心を、そして自分を。

傷つかないためには、感ずる心を封印しなければならない。

しかし、感ずる心がなければ、何かを得ることは難しい。

感ずる心がなければ、自分のことでさえ知ることはできなくなるだろう。

ある人は言う、人生は心の中の悪魔を如何に飼いならすかで決まると。

だが、はじめに自分の弱さにしっかりと向き合っていれば、その悪魔につけ入る隙を与えずにすんだはずだ。

自分の弱さを受け入れたところで何も失うものなど何もないと、理解することもできたはずだ。

人は選択することができる。


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「空気」という同調圧力をはねのけるためにも、各人がポジションを明確できる環境を作ることも重要だ。

山本七平は「空気の研究」とともに「水の研究」も行っており、この中で「空気の支配」を防ぐために「水を差す」ことの重要性を述べている。

「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a26523bb516f6852fae0f70f09b48e68

集団的高揚を得るために適度な空気は必要であるが、組織や集団が空気に支配されて閉鎖性を高めていくのを防ぐために、水を差す人は必要だ。

「水を差す」人々をアンチと蔑視するのではなく、重要な役割を担っていると考えるべきなのだ。

大人と子供の純粋性

2013-06-13 19:47:05 | AKB48_心の叫び
「大人」とは、モノゴトを相対的に把握し、大局をつかむことができる人間をいう。

「子供」は、モノゴトを絶対化することを純粋とし、相対化することを不純とみなす。


「問題」とは、その対象に自己が束縛される状況をいい、

問題を「解決」するとは、対象を相対化し、対象から自己を自由にすることをいう。

何度も言うが、研究生でスピンオフ・チーム「チーム8」を創るんだ

2013-04-03 23:54:06 | AKB48_心の叫び
これは真剣に言っているのだが、何度も繰り返すことになるが

研究生でチーム8を作ったらどうか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a8dc7ad391013fd4ab6644a69075a5bd


研究生を正規チーム(A/K/B)に組み込むのはダメだ。

ダメ、ぜったい。

今度はチーム4と同じ徹を踏まないように、「チーム8」でデビューさせるんだ。

しかも、インディーズで手売りオンリーだ。

それで、SKE48もやる気ないみたいだから、チーム8で↓これをやるんだ。


SKE48は、次世代エース級メンバーを「SKE48バス」で全国武者修行させたらどうか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6522173ea3af32a26b55cbddf8cad599


とにかく、そのまんまAKB48に組み込んでメンバーを埋没させてはならない。

これまでの運営のやり方では、有能な若手メンバーほど率先して昇格させて、結果、メンバーを埋没させて腐らせてしまうことになるから、これまでと同じやり方はやってはならない。

独立的で自立的なチームとして存在させ、その活動の中でダイヤの原石を磨くのだ。

そうすれば自然と役割が人を育て、メンバーは育つしキャラ立ちもする。

とにかく埋没させるな。

自分たちが構造的な大企業病にかかっていることに気づくことが大事だ。


で、チーム8のセンターには、14期の三銃士を据えよう。

12期の研究生たちは、先に昇格したメンバー達を見返してやろうと獅子奮迅するだろう。

この編成の方が13期のたとえば茂木を活かせるだろう。


フレッシュさならHKT48がいる?

何を情けないことを言っているのだ。

そんなんだからダメなのだ。

AKB48を倒すのはAKB48だ。

他に頼ってばかりじゃ、AKB48自体の力はどんどん弱まるぞ。


とにかく、研究生でスピンオフ・チームを作ってデビューさせよう。

話はそれからだ。

幕末における理念闘争

2013-03-25 12:33:23 | AKB48_心の叫び
かなり乱暴なまとめですが、流れはわかるかと思います。


「幕末の尊王攘夷派は政権とってからリアリストになって開国派に転向した。」


という話を聞くのだが、たぶん事実と違うと思う。

よく考えてみると不思議に思うはずだが、

「尊王攘夷」というテーマだけで250年余続いた幕藩体制を覆すほどの支持を得ることができたのだろうか?

もちろん、答えは「否」である。

明治維新が成功したのは、尊王攘夷のテーマが優れていたからではない。

物語的には、黒船来航による外圧によって、日本人のアイデンティティーが感化され「尊王攘夷論」となり、これが反体制派のテーマとなって明治維新を成し遂げた。

と考えられることが多いが、明治維新の原動力は、体制内外の改革派の力だ。

体制派も反体制派も一枚岩ではなく、それぞれの立場で先進的な思考の持ち主はいた。

そして、最終的にどちらが、その先進的な思考の取り込みに成功したのか、ということが勝敗の決め手となった。

つまり、よく見られる幕末の「体制派」と「反体制派」の闘争という括りは適切ではなく、幕末の動乱における本質は、「改革派」をどう取り込むかという「理念の闘争」なのである。

大義名分もなく大勢の人間をまとめられるわけがないので、当たり前である。


丁度よく最近坂野潤治『日本近代史』を読んだので、幕末における理念闘争の移り変わりを極簡単にまとめてみよう。




「アヘン戦争」と、その10年後に起きた「黒船来航」は日本国内で世論を二分した。

「尊王攘夷論」と「佐幕開国論」である。

幕府はどちらでもない曖昧な意思決定に終始したが、それにしても「尊王攘夷論」というのは滑稽である。

「尊王攘夷」は日本古来の伝統「尊王」と、江戸幕府による鎖国「攘夷」の組み合わせであり、それを朝廷側が幕府に迫るというのはなんとも言えない話である。

というのも、「尊王攘夷」の核心は、日本の統治権を幕府から取り上げるということであり、「朝廷を中心とした共和制」というイメージが時間経過とともに浮かび上がっている。





井伊直助のトップダウン・マネジメントの有り方は、「公議輿論(共和制)」に火をつける。

もともとボトムアップの国である日本は、トップダウン・マネジメントを否定する。(桜田門外の変)

そこで編み出されたのが「公武合体論(朝廷と幕府による政治体制)」である。

これなら「尊王攘夷派」の中にあって「開国派」である人々を統合できる。





長州が最後まで「攘夷」を捨てなかったために反体制派は結合できていなかった。

この情勢が変えたのは、坂本竜馬の仲介で長州が薩摩名義でグラバーから銃を買い付けた件である。

薩摩と長州は「攘夷 vs. 開国」を棚上げすることで「尊王倒幕」で一本化されたのである。





これで反体制派側の準備が整う。

長州が「攘夷」を放棄したことで、「開国派」で貿易を重視していた諸藩と反体制側の結合が可能になった。

「尊王倒幕」と「富国強兵」の結合である。

この中心は薩摩であり、西郷隆盛である。





幕末の最終局面では、「公議輿論(共和制)」によって幕藩体制は崩壊する。

新政府は実質的には薩長の藩閥政治となるのであるが、幕府を潰す大義名分として「公議輿論(共和制)」を掲げるのである。

ここに「富国強兵」が組み合わされ、明治維新は完成するのである。



失敗を許すのは容易であるが、人を許すことは難しい ~罪を憎んで人を憎まず~

2013-02-17 17:51:32 | AKB48_心の叫び

罪を憎んで人を憎まず


東洋にも西洋にも、同様の意味の諺があるという。

実に、深い言葉である。

ということを、今日は持論を述べたい。




起業家や識者が集まって「日本のイノベーション」について議論すると、

たいてい「日本はもっと失敗に寛容になるべき」という意見が出る。

新しいアイディアは「千三つ(千に3つくらいしか本当のことがない)」と言われるほどほとんど失敗する。

しかし、失敗することを恐れて誰も新しいアイディアに挑戦しなくなると、その3つに巡り会うことができなくなる。

だから、とにかく挑戦者を多くすることが重要であるが、

新しいアイディアは往々にして直感や慣習に反するものが多いし、何よりも既にモノを持ってる人にすれば新しいモノの必然性が見えにくいため、その活動が支援されないばかりか阻害されやすい。
(イノベーションのジレンマである。)

よって、社会や市場、企業には失敗を許容し挑戦者を多くしていく空気や文化が必要である。

という論理だ。


新しい道を切り拓こうとするドラマや映画などの物語では、寛容で太っ腹のリーダーが、理想のリーダー像として描かれる。

そうだ。

みんなが求めているのは

「失敗を許容する社会なり市場なり企業なりリーダーである!」


となる。

これにはほとんど人々が賛同するだろう。



しかし、これは本当の話だろうか?

私には、それが安っぽい論理に思えて仕方がない。

我々が失敗に寛容的ではないのは「失敗が憎い。」からではない、と私は思う。

そうではない。

我々が、失敗に怒れる時、我々は失敗そのものに怒っていない。

人は「失敗」自体を許すことは比較的容易にできるのだ。

しかし、その裏側にある人の「愚かさ」を許すのはなかなかに難しい。



誰かから何らかの損害を被ったとする。

例えば、「大切な人が傷つけられた。」「部下が結果を出せなかった。」「子供が言うことを聞かずしでかす。」「推しメンが嘘をついていた。」

その時、我々は何について怒るのだろうか。

「失敗」そのこと自体に怒るだろうか?

「大切な人が傷ついたこと」「部下が結果を出さなかったこと」「子供がしでかすこと」「推しメンが嘘をついたこと」に怒るのだろうか?

はじめはそうだろう。

まず、そのこと自体に傷つく。

しかし、間も無く「起きた事象の向こう側にある何か」が気になりだす。

「なぜ大切な人が傷つかなければならなかったのか?」「なぜ部下が結果を出せなかったのか?」「なぜこの子はわからないのか?」「なぜ推しメンは嘘をついたのか?」

それは、「あいつが救いがたい悪人だから」「あいつの能力が足りないから」「あいつの配慮が足りないから」「あいつは自己利益しか考えていない」etc...

我々は「浅はかさ」や「思慮不足」「能力不足」、こういったその人の「愚かさ」が許せないのだ。

だから、我々はいつも「反省」を求める。

同じ説教を「お前はわかっていない」と何度も繰り返す。

「対策」や「救済」ではなく、まず「謝罪」を求める。



しかも、この時、人は合理的に安易な方向に流れがちである。

情報が不足している状況では、事実関係を明らかにし結論を得るのに長い時間をかけるよりも、

限られた情報の中から事実を「仮定」できることの方が、有用な場合も多い。

だが、その結果、とんでもない袋小路にはまることもある。

「あいつが救いがたい悪人だから」「あいつの能力が足りないから」「あいつの配慮が足りないから」「あいつは自己利益しか考えていない」etc...

という「仮定」が許せなくなる。

「事実」ではない「仮定」を許せなくて怒るのだとしたら、これは不幸であろう。



だが、どうだろう。

なぜ我々はこれらを愚かしいものと考えるのだろう。

自分の想像を超える範囲での失敗かもしれないのにである。

それは、相手を自分よりも愚かしいと存在だと思うからである。

「わかっていない」から問題を起こすと考える。

だから、「失敗を許容する社会、市場、企業」こういったものが欲しかったら、

まずそれを構成する人々が知の不完全性を自覚しなければならない。

簡単に言ってしまえば「自分はバカだ」と思う人々に構成される組織体は、失敗に寛容である。

自分が知らないと思うから、何が起きたのか、何が起きているのか、知ろうとする。

何が問題だったのか、何が問題の再発を抑止するために課題となるのか、これらを知ろうとする。

逆に「自分は賢い」と思っている人々が多数派となるような組織体に進歩はない。

あらゆることを見下し、「仮定」して、怒るからである。



罪を憎んで人を憎まず


実に優れた知恵である。

格言とは、かくあるべきだろう。

AKB48は半年経った今もまだ1830m地点に留まっている

2013-02-07 21:37:12 | AKB48_心の叫び

2012年8月の終わり。

AKB48の夢「1830m(東京ドーム公演)」の幕が開こうとするその時に、

やすす先生は「これからは1831mが始まる。」と檄を飛ばした。

次の日、劇場公演にて前田敦子が卒業すると、AKB48はこの時から「AKB48第2章」がはじまると声高らかに宣言していた。

しかし、この時から今までに一度も「AKB48第2章」が何なのか明らかになったことはない。

「第1章」から「第2章」に向けて「どう変わるのか。」「何が違うのか。」という部分が一切提示されないまま、「第2章」という言葉だけが宙に浮いている状態だ。

そもそも、「AKB48第2章」にはどんな意味があったのだろうか。

通常、組織の構成変更などの内部事情を外部に向けて広報するのは、それが外部に影響がある可能性が考えられる場合と、意図的に注意をひきつけたいプロモーションが理由と考えられるが、今回は前田敦子卒業によるAKB48への先行き不安を掻き消したいという想いが先行した結果だったのではないだろうか。

つまり、「AKB48第2章」というのは「中身」の話をしているのではなく、「気持ち」の話をしているのではないか、ということだ。

「変わらなければならない」「創造と破壊」という気持ちを言ってるだけで、実際のところ「どう壊す」のかという点について何もストーリーがないのではないか。

いや、これまでも行き当たりバッタリでやってきたし、組織の在り方として、多用な活動を生み出すために、組織の存続意義を表す広範な目的(理念)は設定するものの、意図的にある特定の目標を定めないというやり方はある。

もし、そうだとするなら、今AKB48は新しい目的を創り出す過程の「生みの苦しみ」を経験している最中なのかもしれない。

「AKB48第2章」を歩み始めるための準備段階ということだ。

だが、なんにせよ言えることは、まだ「AKB48第2章」は始まっていないということだろう。

(言うならば「AKB48第1.5章」というところか。)

東京ドーム公演を終えて、AKB48公式ブログの副題は「AKB48 TOKYO DOME までの軌跡」から「1830mから」に変更された。

その言葉の通り、AKB48はまだ「1830m」のところで留まっている。

「AKB48」の旗を掲げよ

2013-02-06 14:16:32 | AKB48_心の叫び




どうした。


旗が降ろされたままだぞ。


誰か旗を手に取り、掲げるんだ。


そして、旗に集うんだ。


たとえ夢やぶれたとしても、仲間が次から次へと倒れたとしても、去っていく者がいたとしても、


最後の瞬間まで旗を掲げ続け、信じた道を突き進む。


それがAKB48たる所以であり、誇りだろう?


それとも、東京ドーム公演の夢を果たしたことで、目的を失って進むべき道がわからなくなったのか。


旗に集う覚悟のない者は去ればいいし、


新しい旗を掲げたかったら掲げればいい。


旗を掲げるんだ。



【追記】

読み返すと、ずいぶん精神論だなぁと思ったが、

これは、たぶん最近『レ・ミゼラブル』を観た影響だな(笑)

今朝山手線が止まってた間、ずっとサントラ聴いてたからなぁ・・

「正当化」と「現実否認」の狭間で愛を叫べ

2013-02-05 17:09:23 | AKB48_心の叫び
いま想うことをダラダラと。



人間というのは、理解することや処理することの難しい状況に直面すると、

たとえば矛盾的状況を目の前にすると、「正当化」という行為を行います。

「正当化」というのは「不確実性(計算不能)をリスク(計算可能)に置き換える作業」で、知識を総動員してこれを行います。

あらん限りの理屈を持ち出して、眼の前の矛盾を論理的に解決しようとするわけです。


【補足】
よく「費用対効果をよくしよう!」と言うが、世の中には測定できないものが2つある。
人の幸福感、社会的価値、共同体的価値など数量化、定量化できないものだ。
もう一つ測定できないものは、確率論ではあらわせない不確実性なこと。
確率によって予測できる「リスク」と、確率的事象ではない「不確実性」とがある。


生物にとって「よくわからない状況」というのは、生命を維持するのによろしくない状況なので、

その状況が危険なのか、安全なのかを見極めようと、もしくは回避行動を取ろうとします。

「よくわからない状況」に「不安」や「恐怖」と感じるようにできている、というわけです。


いま安全が危ぶまれる状況だと判断すれば「恐怖」を感じ緊急回避行動(つまり逃げる)をとりますし、

安全が確保されているものの排除できない事物である場合には「不安」を「安心」に変換するために「正当化」を行います。

(排除可能と思えば「排除行動」にとる場合もあります。)


「正当化」は必要です。

「正当化」がなければ、毎日を生きていけないと思いますし、「正当化」する能力のある人は仕事ができます。

(「習慣」も1つの正当化です。)

ですが、よくわからないものに出会った時に、直観で嫌いと判断した場合、その「嫌い」を「正当化」しようとする癖にもある、ということです。

これはよく見かける光景ではないでしょうか。


しかし、これはまだよい方で、「正当化」に失敗すると、今度は「現実否認」をします。

精神科医エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に、有名な「死の受容プロセス:悲しみや悲劇を受容するまでの5段階」というものがあります。

以下、Wikipediaからの抜粋です。


第1段階 「否認」

患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。


第2段階 「怒り」

なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。


第3段階 「取引」

延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。


第4段階 「抑うつ」

取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。


第5段階 「受容」

部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。「デカセクシス(Decathexis)」とロスが呼んだ状態である。この状態で最期の言葉を残すことが多い(例:ゲーテ「もっと光を」、夏目漱石「もう泣いてもいいよ」)。



ただ、キューブラー・ロスは否認を否定的に捉えるのではなく、むしろ非常に困難な状況に対処するための健全な手段とみなしいてます。

「否認は予期しない衝撃的な知らせに対する、緩衝材としての役割を果たす。否認によって患者は気持ちを立て直し、それほど過激ではない他の自己防衛策を取れるようにする。」

ただし、こうしたことが当てはまるのは、結果が避けられないもので、またどれほど現実を直視しようとしてもそれが変えられない時だけです。

当Blogでは、これまで「現実否認」について幾つかエントリを書いておりますので、お時間ありましたらご覧ください。


現実否認と夢 そして愛
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/20573f10f72f22c159495a6aee7bffdd


なぜ自覚もプロ意識もあるのに問題を起こすのか ~現実否認~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/21c1c45068b71e99a133525be25eaebc


AKB48運営は失敗を認められるか ~危機管理の模範的教材:タイレノール事件~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0a80eca62b4d07869cc1780d4e713a0c


率直に真実を語る重要性 ~コカコーラの失敗:カンザス計画~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0b5d472b756e70b5561866829b4abed0


このようにして、人間というのは「正当化」と「現実否認」を繰り返し、いつかは「受容(悟り)」の境地に達するのだと思います。

ただ、この「正当化」→「現実否認」の流れを遮る勇気の存在、というものも私は認めたい、と思うわけであります。


少年少女よ嘘をつけ!!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1a4534769840e97713e977324b0abc3e


否認の魅力が、魔力ほどに強いのは、短期的にはそれでうまくいくことがあるからだ。

だが、否認によって長期的にうまくいく可能性はほとんどない。

状況が実態よりも良いようなフリをすることは、最終的にはほぼ確実に破滅的な状況に繋がる。

「夢」が真に有用なものとなるのは、現実を否認するのではなく、現実に対峙することを決めた時だ。



【追記】

しっくりこなかったので表題を変えました。

釈迦ならトイレ掃除で宇宙を語る

2013-01-31 17:47:45 | AKB48_心の叫び
ある人は言う。

この世には「価値のある仕事」と「価値のない仕事」とがある。


もしくは

「価値の高い仕事」と「価値の低い仕事」とがある。


ここでいう「価値」が、「経済的価値」をいうのであれば、この主張はおそらく正しい。

より少ないコストでより大きな利益を生み出す生産性の高い仕事は価値が高い。

しかし、この考えには、一つ前提があり、この前提条件を満たす時のみ正しい。

それは、ここでの「経済的価値」は「後づけの価値」であるということだ。

何かが「大きな利益を生み出す」かどうかは、事前にはわからない。

事前にわかってしまったら、「ヒットの法則」や「大金持ちになる方法」が実現化してしまう。

(それは素晴らしい世界なのか、つまらない世界なのかは難しい問題だ。)


一般に「経済的価値(Value)」は、「社会的価値(Values)」と違い、ある程度には定量的に判断できるものと考えるが、そのような考え方は実はかなり古くさい。

フランスの経済学者リュック・ボルタンスキーは現代における経済的価値の定義の難しさを次のように語っている。

社会的体制には「様々な価値体系」が含まれる。
現代経済は「複数の評価原理」から成っているのであり、価値を生み出す方法は1つではない。

現代において経済的価値は「市場合理性」、「産業的・技術的合理性」、「市民論理と組織化された合理性」、「忠誠の原理に従う合理性」、「ひらめき」、「地位と名声」などの価値体系の総合的判断で決定されるとした。

加えて、この論争に決定打を与えるのは、アメリカの実践哲学者ジョン・デューイである。

彼は、こういう。(当Blogの相当な意訳解釈)

価値の探求とは、資源を再認知することで機会を認識する実務である。
あらゆる計算は価値判断から分離できない。
情報処理で重要なのは解釈の能力である。
既にカテゴリー化されているものをパターンとして認識することと、新たな関連性を見出すことは全く別次元のことである。
未知なるものを認識する、つまりカテゴリーとして認知されていないものを認識するためには、単に情報をうまく管理することではなくて、何度もいろいろな思考を巡らせ解釈を通じて機能する「熟考型の認知」が働くことを可能とする「認知環境」が必要だ。

つまり、「価値は静的に評価できるものではない。評価プロセスが重要である。」といっているわけだ。

「価値」とは、常に揺れ動き、状況によって様を変える動的な文脈なのであり、その根底には「認知」の問題が潜んでいる。

価値を判断する前に、「何を現実として認知したのか」ということが決定的に重要なのだ。

だから、あらゆる価値判断は認知の影響を免れない。

同じ環境に身を置いたとしても、人によって感じ方が変わるのは、価値観の違いというだけではなく、何を現実として認知したのかが異なるという点が大きい。


釈迦ほど悟りを開いた人間なら、トイレ掃除をしていても、一般人には見えていない現実を見るだろう。

今を生きる私達にとっての「現在」は、いずれ歴史になるであろう「今」は、決して静止しているものではない。

それはミクロな素粒子の世界に目を向けるとよくわかる。

静止しているように見える巨大な岩でさえ、それを構成する素粒子は光のスピードで移動している。

この世界に、止まっているものなど存在しない。

全てのものは関連し、連鎖し、連続で、絶え間なく変化し、その姿を変える動的な文脈である。

認知の能力次第では、トイレの向こうに宇宙を見る事さえできるはずだ。


もし、あなたが自分から何かを発信したり語れない状況を場や環境や経験のせいにしているのだとしたら、

それはあなたが見ている世界が、そういう世界だと言うことだろう。

この宇宙に、「価値のない仕事」や「価値のないこと」などというものは存在しない。

何に価値があって、何に価値がないのかを決めているのは、あなた自身だからだ。


人は見たいものを見、聞きたいことを聞き、信じたいことを信じている。


あなたは何を見て、何を聞き、何を感じ、何を知りたいと望み、何を信じるのか。


涙の後に、何を見るのか、それを決めるのはあなた自身だ。

なぜAKB48は一塁に向かってヘッドスライディングなのか、イチローがその答えを教えてくれた

2012-12-30 01:45:50 | AKB48_心の叫び



NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』のイチロースペシャルを観た。

非常に興味深い内容だったし、イチローという人間の深みがより増した気がする。

相変わらず見ている問題の次元が違う。


イチローが向き合っている問題は「技術的」なことではなく、その先にある「人間としての成長」なのだという。

条件は揃っているのに「紙一重」の違いで変わる結果。

自分が気づけていない、心の奥底にある無意識の領域で自分を支配している何か。

イチローがバットを振るのは、その「紙一重」の正体を追求する為なのだ。

イチローにとってプロ野球選手であることは人生を極めるための「修行」なのである。


当Blogと言ってることは似てるのに、イチローが言うと説得力がまるで違う。

これが一流と三流の違いかと自戒せざるを得なかったが、今日も三流なりの言葉で語ろうと思う。



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東京ドーム公演DVDのCMのために行われた「TOKYO DOME~1830mの夢~徹底討論!」の中で、こんなやりとりがある。


TOKYO DOME~1830mの夢~徹底討論!完全版 を見た。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e0cbe82d450362a1533f3a4e59811679


田原:

秋元さんがね、僕にね、AKBはプロ野球じゃない、高校野球だと。
で、高校野球はね、内野ゴロを打ってもね、一塁へ全力でいってヘッドスライディングだと。
これはどう?


濱野:

それはもうAKBは完全にそうですよ。
今回の東京ドーム公演にしたって映像にしても、
まさに常に全力投球っていうのは、
でもなんていうのか、しかしそれはあまりにも当たり前すぎる前提
なんというのかな


宇野:
AKBってやっぱ部活なんですよね



濱野:

そういう意味で言うと
初日のメイキングの映像で何が面白いって
たかみなが明らかに部活ですっげーキレる先輩にしか見えない面白さ
たしかにものすごい政治的リーダーシップ持っているんだけど、
その本質は、あんな怖い先輩いたら聞くよなっみたいな
そういう生々しさ


宇野:

何が面白いかって
部活ってみんながプロ野球選手になりたいわけでもなければ、
プロサッカー選手になりたいわけでもないじゃないですか。
ほとんどの人は普通に進学したり普通に就職したりするんですよ。
でも彼ら彼女らはすごく一生懸命に部活をやって、ほんとにそこで泣いたり、
本気で泣いたり本気で傷ついたりするわけですよね。
AKBってそれなんですよね。
みんな歌手になりたいモデルになりたい女優になりたい
別に要因があるんですよ。
でも、その夢の為の道具に利用してやるっていう計算高いことでやるんじゃなくて
あの独特のシステムの中にいるとそこに全力投球してしまうのですね。
そのことに僕らはすごく

(ここでよしりんが割り込んでチーム4の話題に展開していく)


(話を部分的に切り取るのは本意ではないし、話によって全体として力点を置く部分とそうでない部分があるわけなので、決してこのやりとりを批判するわけではないことだけ前もって書いておきます。)


このやりとりには、AKB48に関する重大な論点が出てきていない。

結局「なぜAKB48は一塁に向かってヘッドスライディングなのか?」という問いに答えられていないということだ。

「マジ」や「ガチ」に人が惹き付けられるから、ということだけが理由なのだろうか。

違う。

もっと哲学的、思想的なものなのである。


上で述べた番組の終盤で、番組スタッフから「野球選手としての終わり方(理想の完成形)は何なのか?」について質問されてイチローは次のようなことを述べた。


人間としての円熟期はもっと先にあると思う。

しかし、物事というのは、たいていそれを辞めてから(野球選手なら引退してから)理解することが多い。

僕は、現役の間にそれをわかりたいと思う。

それが僕の挑戦。


それがどういうものか見えてるものがあったりしますか?


何もわかっていない。

でも、それがわかっていないから、ありったけの気持ちを込められるのだと思う。

それをわかりたいから。

わかっていたら、ありったけは有り得ない。



これが、答えだ。

一塁に向かってヘッドスライディングをする理由だ。


なぜ、高校球児は内野ゴロで一塁にヘッドスライディングして、プロ野球選手はしないのか?

「マジ」や「ガチ」だからではない。

結果がわからないからだ。

いや、言い方を換えればこうなるだろう。

「可能性を信じているから」

「内野ゴロでアウトになるって誰が決めた?」
という話である。

内安打を大量製造するイチローに聞いてみるといい。

「なぜ、あなたは内野ゴロでも一塁に全力疾走なのですか?」と。

(イチローはヘッドスライディングするよりも駆け抜けた方がセーフになる可能性が高いことを知っているから、ヘッドスライディングはしないけれど)


新しいことというのは、たいてい想定外なことなのである。

考えてみれば当たり前のことである。

それに意味があると思ったら、それ以前に誰かがやっているからだ。

それが新しいということは、それまでは何らかの理由で誰もやる意義を感じなかったということである。

「そんなことには意味がない」と言っていたら、何にも新しいことは起きない。

だから、AKB48では一塁にヘッドスライディングさせられるのだ。

それに意味があるかないかは走りながら考えろ。

それがAKB48の信条なのであろう。

ということである。


そろそろ「努力が報われるかどうか」などという古めかしい議論は卒業すべきではないか
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4221775c8e40413749a43c7091f0e26c


高橋みなみの努力、原みづきの努力、やすす先生の努力 ~努力と競争戦略と学習のトリレンマ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/955b300923bbc4c6a1a256fab4a5c0df

なぜ、人はお坊さんの言葉を聴くのか?

2012-11-30 18:15:27 | AKB48_心の叫び
非常に時間がないので中途半端ですが、これだけ言わせてください。



高僧が口を開いて「人生とは・・」なんて話をし始めたら、ちょっと話を聴いてみようと思いませんか?

高僧でも枢機卿でも、牧師さんでも、学校の先生でもいいかな。

説教なんて聴きたがる人、今の日本には少ないですかね。

若い人はうざったいだけですか?

もしくは、甲子園で活躍した高校球児でも、相撲の横綱でも、オリンピックの金メダリストでもいいですね。

私は、この人達が何を言うのか聴いてみようとすると、自分で思うのです。

もちろん、忙しくなければね。



なぜ、なんでしょうね?



だって、この人たち、地を這うような努力をしてきたかもしれませんが

ロクに俗世的な人生経験せずに生きてきた人たちですよ。

その道のことだけに打ち込んできた人達です。

そんな人たちの言葉を、なぜ聴くかといえば、その言葉に力があるからです。



なぜ言葉に力があるのか?



その人にしか見えない世界を、自分の知らないであろう世界を見てきた人だと、私たちが思うからです。

それは、私たちが思う普通の世界とは違う、日々の努力と研鑽による賜物として特別な視点を手に入れたと思うからです。



「それが当たり前だから」という言葉を鵜呑みにして「特別なこと」を犠牲にするのが賢いとは限らないと思います。

もちろん、モノによるのは言うまでもありませんが。

人生は理路整然としたものではなく、「矛盾」と「葛藤」に満ちているものだからこそ、

「特別なこと」に価値があるのだと思います。



AKB48が特別であろうとすることは悪いことではないと思うのです。

だめかな?