進化する魂

フリートーク
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AKB48総選挙 これは祭りです。

2011-06-10 19:54:35 | AKB48
前回と前々回のエントリが大人気なかったので、少し落ち着いて説明します。

テレビで秋元康氏が総選挙について「ようやく祭りとして認識されてきた」という認識を示しているのを見た。
(前からそう言っていたのかもしれないが)

私も先日のエントリで主催者側は総選挙に祭り的要素を込めたと書いたわけだが、「祭り」というワードで総選挙を解いてみると、非常にわかりやすい答えが導き出せる。
AKBオタに「現実に戻れ」などといって批判をする前に、「祭り」について考えて欲しいのだ。

当Blogでは過去にも説明したことがある話題なのだが、日本社会には古来より地域的なコミュニティに「祭り」というイベントがビルトインされていた。
細かいことは面倒なので説明しないが、祭り元は五穀豊穣を祈る神事で、特別な意味合いを持っていた。
祭りの日は日常とは異なり特別なのである。
人々は日常から離れ、人が変わった様に祭りにのめり込むのだ。

それが戦後の近代化の中で、職業の工業化と、何よりも都市化により人の移動が促進されると、祭りはその姿を変えていった。
若者が労働力として都市部に移動することによって「故郷=祭り」を持たない世代が生まれたが、高度成長期の会社社会では「飲み会」という祭りが生まれた。
(今も少し残っている)

故郷から移動してきた人たちによって構築された町には祭りが存在しなかった。
これを憂う人々によって町内会や自治体によっては急ごしらえながら祭りがつくられたが、神事を元にする伝統を持たないがために形骸化することが多く、世代間で受け継がれる祭りはそう多くはない。

現代社会の若者世代は、祭りを知らない世代といえる。
そんな若者たちがどこへ向かったか。

それが「サッカーワールドカップ」や「ワールドベースボールクラシックス」、「オリンピック」、「ロックフェスタ」や「クラブ」むかしは「ディスコ」だった。
ワールドカップになると人が変わったように熱中する若者は、高齢者の目には異様に映ったかもしれない。
その時だけ妙にナショナリズムに煽られる若者の姿は。
しかし、それは若者にとっての「祭り」だからである。
彼ら「伝統的な祭り」を知らない世代が、「新しい祭り」を見出したのだ。

ここで一つの提案がある。
次の問いについて考察して欲しい。

「祭りとは現実か?」

祭りの場において「お前、大人なんだから現実に戻れ!」という言葉を言い放つことが、どれだけ無意味か、よくわかるだろう。

「大人だから祭る」のである。
子供よりも大人だから祭りの必要性は増すのである。

「祭り」の時に「現実」か「仮想」かなどどうでもよいことである。
重要なことは、それが日常とは違う「祭り」であるということだ。


さて、話をAKB48総選挙に戻そう。

AKBオタと呼ばれる人たちも、生きているのだから当然、実生活があるわけだ。
CDを買い込んで投票するにも、握手をしに行くにもコストがかかる。
このコストを稼ぐ必要があり、働きに出ている。
中には服装に気をつけるようになったりニートから働きに出るようになった人たちもいるようだ。
彼らもまた「現実」と「仮想」の間を生きている。
批判するあなた方と同じように。

「AKB48総選挙は祭りである。」

AKB批判派の方は、この言葉をどう乗り越えますか。
反論に期待しています。

よろしくお願いします。


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