進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

風立ちぬ、生きねば。

2013-07-31 02:05:22 | TV・書籍
※ネタバレ注意!



ジブリの最新作『風立ちぬ』を観てきた。

あえて何の予備知識も持たず、前評判も聞かず読まず、期待もせず行ったのだが、観て驚いた。

映画として恐ろしく出来が良い。

観ている途中でジブリ映画であることを忘れてしまった。

宮崎駿の作品とは思えない。

宮崎駿自身が主張しているように、ジブリは「子供向けファンタジー」を得意とする会社なので、その観点でこの映画を「ジブリ的映画」として考えると様々な意見があるところだと思うが、「ジブリ」を外して「映画」として観たときの完成度の高さは、これまでのジブリ作品と比べるとかなり異質だ。

宮崎駿の本意ではないかもしれないが、ジブリの作品の中で最高傑作と言っても過言ではない。



ネットでは『風立ちぬ』を酷評する意見が散見されるのだが、私は真逆の感想を持った。

『風立ちぬ』を作る力があるのであれば、宮崎駿はまだまだやれる。

私は↓のエントリでディズニーとジブリを対比して、ジブリの強みを説明しているのだが、『風立ちぬ」はこういった浅知恵を一蹴している。

ジブリ映画の真髄
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f518a1811df47cdc3743c10c3da6f879


確かに『風立ちぬ』は、これまでのジブリの人気作品のように子供向けファンタジーではない。

だが、それゆえジブリの実力がよくわかる。

喩えるなら「ピカソ」だ。

ピカソは高い写実能力を持ちながら、キュビズム的絵画を描く。

ジブリは『風立ちぬ』を創る能力を持ちながら、子供向けファンタジーを創るのだ。



また、「宮崎駿の自己満足」という批判もネットで散見されるが、私はこれについても逆の印象を持った。

ファンタジー系の作品では「伝えたいイメージ」を「イメージで伝える」という手法が作品中で常に先行しているが、『風立ちぬ』は実話を土台にした作品なだけに、叙述的でありながら物語の骨格はしっかりしている。

ファンタジーとは異なり物語の世界観に解釈の余地があまりない分、「宮崎駿の自己満足」どころか、物語はかなり抑制的、理性的に描かれている。

むしろ、そのような理性的な内容の中に、よくもこれだけ違和感なくファンタジー的要素を入れ込んだなと感心するばかりだ。

実話を土台としているため物語の世界観が骨太となっており、その分ファンタジー要素の組み込みが難しくなるのだが、宮崎駿は「二郎の夢」という形で非常に巧みに、現実とファンタジーを驚くほど違和感なく接続している。

この絶妙なバランス感覚で、厳しい時代において夢語る姿を表現する難しさを、爽やかに乗り越えていると感じた。

この部分で、ジブリはシナリオを作りこむ力があることを立証していると言っても過言でない。

これは完全に私の妄想だが、ケイパビリティ(組織能力)という観点では、ディズニーはジブリを作ることはできないが、ジブリはその気になればディズニーの作品を作れるがあえてやらないという話さえ成立すると思えてしまうほどの恐るべき力だ。




最後に、この作品のキャッチコピーである「生きねば」について触れておきたい。

作品の中で「生きねば」は唐突感のある使われ方をしているので、どう解釈するべきなのか難しいと感じる人が多いのではないかと思うが、これは物語全体を理解しなければならない。

この言葉は作中にも出てくるポール・ヴァレリイの詩中の「風立ちぬ、いざ生きめやも」からの引用で、意味は「生きようじゃないか」「生きることを試みなければならない」といったもののようだ。

しかし、宮崎駿は「風立ちぬ、生きねば」としている点に注目したい。

宮崎駿は「風立ちぬ、生きねば」を映画全体を貫くコンセプトとし、作中の様々な場面でそれを表現している。

これこそが宮崎駿が映画に込めたメッセージなのだ。


Wikipediaによれば、『風立ちぬ』が映画化されるに至った経緯は次のようなものだという。

鈴木敏夫が映画化を提案したが、宮崎は本作の内容が子供向けでないことを理由に反対していた。宮崎は「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と主張していたが、鈴木は戦闘機や戦艦を好む一方で戦争反対を主張する宮崎の矛盾を指摘し「矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべき」と述べて映画化を促した。

そして、宮崎駿は製作意図について、下記のように説明したと言う。

この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。

この映画には、宮崎駿の答えが明確に描かれている。

まず、最初に認識しておくべき前提は「人生に予め与えられた意味などない。」ということだ。

『風立ちぬ』は堀越二郎という男の人生を描いている。

人生の意味を問う作品ではない。

しかし、人生に風は吹く。

夢の中にカプローニが何度も出てきてはこう言う。

風は吹いているか?

人生は意味を与えてはくれない、しかし風は意味を問うてくる。

作品中で、とても印象的に描かれているのが、風によって飛ばされる帽子、パラソル、紙飛行機であり、それを時に身を危険にさらして掴もうとする二郎と菜穂子の姿である。

風が吹けば、人は動く。

人が動けば、そこに何らかの意味は生まれるだろう。

どういう意味を生み出すのか、風があなたに意味を問うているのだ。

そして、人はその意味が為に生きる。

人生に予め与えられる意味などないが、生きるということはそういうことなのである。

これが宮崎駿の答えだ。

飛行機に憧れた男が戦争の時代に戦闘機を作ることに情熱を傾けるのも、結核で余命の限られた女性を愛し妻とするのも、風が立ったからだ。

ヴィクトール・E・フランクルの名言を思い出す。

あなたが人生に意味を問うのではなく、人生があなたに意味を問うているのだ。


風が吹くならば、生きねばなるまい。



これは、これまでのファンタジー系の作品に込められたメッセージとは大きく異なると思う。

しかし、同じ宮崎駿の作品であるにも関わらず作品間でメッセージに矛盾が発生していても、何ら不思議ではない。

「生きる意味とは何か?」と、子供に問われた時と大人に問われた時で、答える内容は異なるだろう。

子供向けのファンタジーと、この『風立ちぬ』に込められたメッセージが異なったとしても、ある意味で当たり前なのだ。



さて、今日も生きていくか。


風立ちぬ、生きねば。


この最後の唐突感は映画と同じ

当Blogでアクセスを集める3人のメンバー

2013-07-29 23:58:07 | AKB48_軽ネタ
マジメな話が続いているので、緩いことを書きます。緩急つけないとね。


当Blogでアクセスを集めるエントリの内容って決まっていて、ほとんどこの↓5系統。

「恋愛禁止条例」系
「選挙・売上」系
「島崎遥香」系
「松村香織」系
「宮脇咲良」系

メンバーについて語る数は多くないとしても、なぜこの3人なのか。

しかも、ここ1年くらい傾向が変わっていない。(エントリの新旧に関係なし。)

この3人に関する記事の絶対数が少なく、検索すると当Blogがヒットするという理屈や、

1年前から当Blogの読者層が変わっていないとも言えるのかもしれないけれど、ちょっと違うことを考えた。


超いい加減な三段論法で考えると、


この3人は、ここ1年くらいで名が売れたメンバー。

当Blogのアクセス傾向がここ1年くらい変わらず3人に集中している。(他に流れてもいいのに)

ここ1年、新しく名の売れたンバーについて記事(とりわけブログ)があまり増えていない。


今ブログ使ってまで語る人が少なくなっちゃったのかな。

だって、3人が今注目を集めているなら、当Blogの競合も増えて他にアクセス流れるよね。


まぁ、適当なお話です。

それと面白いのは、「理念」の話ばっかり書いてたら2年半前の↓エントリがアクセスされたり、


「責任」とは何か?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6a6594e111f05bf1810b00879c926c1a


『風たちぬ』が公開されて、↓3年半も前のジブリのエントリがアクセスされたり、時事ネタ反映するのは面白いなと思う。


ジブリ映画の真髄
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f518a1811df47cdc3743c10c3da6f879

読書感想文の感想文

2013-07-28 18:01:00 | AKB48_軽ネタ



ナツイチ図書室 AKB48読書感想文
http://kansoubun.shueisha.co.jp/


まだ途中だけれども、第1週目から第3週目まで読んでみて、文学的な素養云々の前に、「学習」に対する姿勢の違いが選抜クラスとそれ以外のメンバーとの間に如実に表れていて面白い。

予想した通りの結果なのだが・・。

「学ぶ」と「習う」の違いを理解しているかどうか、である。

今回の「読書」を「宿題」のように捉えているメンバーの感想文はつまらない。

つまらない感想文を書く人は、人としてもつまらないと思ってしまう。

だが、それは主観の問題だからまだよい。

私の感じ方の問題だ。

しかし、もしこれが「宿題」ではなく「チャンス」だったらどうだろう?

テクニックの問題ではない。

読んでないし、興味を持っていないし、理解していないのがバレバレだ。

これを宿題だと思う人は、「読書」を特別なことだと思ってしまう。

だから、「この本を読んで特別な体験をした」と仰々しく主張する。

しかし、「学ぶ」ということが日常になっているメンバーは、読書はあくまで学ぶための一つの機会でしかない。

だから、その機会をどう活かすかを考える。

何か得るものはないか、今後に繋げられるものはないかと、意識して本を読むのではないだろうか。

そういう、何からでも学ぼうという姿勢、どこからでもチャンスを狙っていく姿勢、そういうものを見ている人は見ているのだ。



その意味で、指原は一人だけ抜けてる。

大島は意識の高さは伝わってくるが、忙しいのか深く推敲できておらずカッコつけ過ぎだ。

入山は優等生過ぎてつまらないが可能性を感じる。

殻を破れば、化けるかも。

哲人まりやぎは、丁寧さが足りないんでないかな。

一歩踏み込みが足りないというか、なんというか。

これはこれで爽やかでいいと思うけど、出てるよ、いつものが。

大森、がんばれ!



※私の文才の無さはこのブログで立証済みだと思うので、自分のコト棚に上げて言うのも気が引けるが、本エントリで述べていることは大事なことだと思う。

戦いは「非対称戦」であり、恋愛総選挙は「理念」であり、目指すべきは「Win-Winの関係」である

2013-07-28 00:53:06 | AKB48_心の叫び
みなさま、いつもコメントありがとうございます。


次善策として、AKB48内に「恋愛禁止条例」について多様な考えが存在することを認めるのはどうだろうか
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/330dad703995c71eb0f1df312dffcf43


↑こちらのエントリにコメントで頂いている件です。

一つのエントリで伝えられることには技術的にも量的にも限界がありますし、過去何度か語っていることは前提にしたくなるもので、毎回丁寧に説明するのはなかなかしんどいものです。

ただ、誤解されたまま放置するのは本意ではありませんので、ここで改めて私の考えを述べることにします。


私は、ここで問題提起をしたいと思っています。

まず問題認識を合わせないと議論が深まりませんし、結果として問題を解決できないと思うからです。

対立や混乱よりも、解決こそが皆が望む未来だと思いますので、そこに向かって今一度、語り合うことにしましょう。

よろしくお願いいたします。


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上記のエントリについて頂いたコメントから一部転載します。

異分子側を思い切ってAKBから隔離するような世論を盛り上げるのが、現実的だと思います。

異分子側を肯定的に解釈しようとして共存共栄を期待するのは画餅だと思います。

異分子を無理に理解しようとしても、真AKB側と世界観が違いすぎればサリンを撒かれて共倒れです。

異分子とその支持者にはAKB界隈から消し去ってもらうように世論を高めないと、理想論や期待論では前に進めない段階にAKBは来たと思います。


異分子を切って隔離した結果が「サリン」です。

迫害された(と受け取った)オウムは、人里離れた上九一色村にサティアンを構築しました。

そのサティアンでサリンは製造され、長野と東京でのテロに使用されたのです。


過去を振り返ってみると、人類は様々な時代で隔離政策を実施しています。

近代だけを見ても、江戸幕府がキリスト教を弾圧した「禁教令」、ナチスの優生学に基づく「ホロコースト」、旧ユーゴスラビアの「民族浄化」など、挙げればキリがありません。

しかし、隔離政策の結果はどうだったのかというと、一時の安定と引き換えに滅亡を呼び込んでいます。

これには理由があります。

エネルギー保存則は、カオスを隔離しても、その総量は変わらないことを教えてくれます。


AKB48論争の光と影 ~エネルギー保存則~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/480bba361b4ed29647474a3c41c48eb0


隔離してしまえば、問題は見えなくなるでしょう。

しかし、問題がなくなるわけではありません。

問題は地下に潜って残り続けるばかりか、集まればその力を増し、いずれ制御不能になる可能性もあります。


また、万里の長城のような長大な壁を作って、外と内を隔てることもできます。

しかし、内を守るために外を隔離すると、外の様子を把握することができなくなり、さらに外に対する影響力も失います。

その結果、内の力が弱まったときに、外的が侵略してきて滅ぼされる可能性が高くなります。

外的から身を守るために防壁を作ることによって一過性の安定を手に入れることができても、その壁に隔てられた外側に対する関心まで失ってしまえば、気づいた時には制御の難しくなった手遅れの問題に直面せざるを得なくなり、結果、己の破滅を招くのです。


これは、今この時代にも起きていることです。

つい最近も、アメリカ軍がイラクで味わいました。

アメリカ軍はイラク戦争での損失よりも、治安維持活動で失ったものの方がはるかに多いです。

ラムズフェルド国防長官が更迭された後、治安維持活動を地元密着型に戦略転換をしてようやく落ち着きました。

治安維持活動に苦戦した最大の要因は、アメリカ軍とイラク住民との関係が疎だったことです。

イラクの住民にとってテロリストは日常のものですが、アメリカ軍は頑強な防壁に囲まれた基地の中にいて、掃討作戦の時だけ外に出てきます。

住民は、アメリカ軍に協力すれば、アメリカ軍が基地に戻った後テロリストに殺されてしまいます。

安全が約束された中央で戦略を立てようとしても、複雑極まる現場の何を反映できるというのでしょうか。

そこいる人々の想い、息遣い、苦しみ、こういったものをわからずして、有効な戦略が立てられるわけがありません。


今、戦いは「非対称戦」へと主戦場を移しています。

我々が直面している問題は、弾道ミサイルと無人爆撃機で倒せる相手ではないのです。

誰もがターゲットに成り得る状況下で、事前にターゲットを明確に区別(隔離)して攻撃することなど、ほとんど不可能です。

それゆえ、当Blogではずっと「理念」としての「恋愛禁止条例」を主張してきました。

「ルール」ではありません、「理念」です。

1人ひとりに「理念」が浸透することで、壁がなくてもガバナンスがとれるようになります。

だから「理念」は、1人ひとりが理解してこそ意味があるのであって、その理解を醸成するための組織力、土壌を養うことが大切なのです。

その観点から、反するものを隔離することは、「理念としての恋愛禁止条例」とは異なる考え方だと言わざるを得ません。


ここは誤解を生みやすいので、念のために補足しておきます。
「辞めさせる」ということと「辞める」ということは別の話です。
前者はクビであり、後者は「切腹」のことです。
わかりにくいと思いますが、意味が違います。

やるな増田
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/faca55009eae53e5ef4477ede8350c29


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目指すべき個人と組織の関係性について、他で説明する時に使っている資料があるので、一部をここに掲載しておきます。

個人と組織との関係性で目指すべきものは、相乗効果を生み出す「Win-Winの関係」です。

認識のギャップを乗り越えて、向かう先を合わせなければ、お互いの努力を浪費をするだけです。

「Win-Winの関係」を構築するため、個人と組織が意識を合わせて行くために「恋愛禁止条例」という「理念」を使うことを考えたらどうでしょうか。













恋愛禁止条例 自己責任論に反対する
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ea854ba7bd0c3c1f300f624ca48032a2

問題の構造をぶっ壊す

2013-07-27 13:37:15 | AKB48_軽ネタ
※このエントリは、小泉純一郎を礼賛するためのものでも、政治分析をするものでもなく、政治的手法と組織のダイナミクスについて表現する小話です。





2001年、自民党の小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と叫び、「小泉旋風」と呼ばれる圧倒的な国民的な支持を背景に自民党総裁戦に勝ち、内閣総理大臣になった。

小泉にとって3度目の総裁選、政治生命を賭けた大勝負だった。

当初の本命は、自民党最大派閥橋本派のドン橋本龍太郎だったが、小泉は主婦層から人気のあった田中真紀子の協力を得ると、マスメディアを巻き込んでド派手な選挙戦を展開した。

小泉が街頭演説をすると数万の聴衆が集まり、街は埋め尽くされた。


当時の日本では、多くの人々が「(今の政治体制の下では)総理大臣なんて誰がやっても同じ」と、政治を諦めていた。

政治的無関心は、利権団体や派閥に利することになるから、国民が政治に対して無関心になればなるほど、よりいっそう無関心に拍車がかかる。

そんな負の循環が、日本全体を覆う閉塞感に繋がっていたのだ。

誰もが「このままではいけない」と感じながら、関心を失っていった。


みな理解していた。

問題は、どのような政策も、今の(政治体制の)構造の範囲内でしか行うことはできないと。

しかも、その長年の労力と知恵により構築された構造は複雑かつ頑強であり、革命でも起こさない限り壊すことはできないと思っていた。

先進国で革命の起きる確率を考えたら、一部の過激派を除けば、ほとんどの国民は諦める他なかった。

しかし、小泉が攻めたのは、まさにその一点であった。

「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力!」と問題の構造を破壊すると主張したのだ。


誰もが政治的無関心になっていた日本で、みなが政治家の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。

有り得ない光景だった。

そして、皆が時代の目撃者になった。

政治的無関心だった国民が目撃者になり、語り部になった。

政治に対して国民的関心が集まることで、利益団体の圧力は相対的に低下し、派閥は瓦解した。

まさに、それは奇跡だった。

いや、奇跡と呼んでしまうこと自体が、政治的無関心の表出なのかもしれない。


小泉の政治手法は、後に「小泉劇場」と揶揄され、知識人からは批判の的であったが、それは拙速な結論だろう。

小泉の支持の源泉は、政治的無関心の問題の本質を突いていたからだ。

小泉純一郎が内閣総理大臣に就任した直後の世論調査の結果は、90%に近い驚愕の支持率となった。

先進国の民主主義国家で、90%という支持率がありえるのだろうか。

その後、支持率低下や紆余差曲がありながらも、小泉の総理在任期間は1980日で戦後歴代第3位、最近の総理大臣の在任期間を考えれば、この1980日という数字が異常だということがわかるだろう。


次善策として、AKB48内に「恋愛禁止条例」について多様な考えが存在することを認めるのはどうだろうか

2013-07-25 00:46:56 | AKB48_軽ネタ
私は指原の考えを支持はしないけれど、AKB48にあっていい考えだとも思っている。


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※上から目線のつもりはないけれど、そう感じられたら申し訳ない。


指原は20歳になって、これまで幅のある経験をしてきたこともあるからだろうけれど、いろんなものの動きや、その裏にある原理が彼女なりに見えるようになってきたのだと思う。

だから、今は自分の理論や哲学を自分で確かめながら構築・表現したい時期なのだ。

人間なら誰しも、前向きさを失わなければそういう時期があるもので、特に彼女の場合は秋元康という今を代表する自分理論の持ち主が近くにいるわけだから、余計にやりがいを感じているのではなかろうか。

また少しして、その理論が通用しない場面に遭遇して理論を再構築して、ということを繰り返していくことによって、人間は成長してくものだと思う。

私は、彼女がスキャンダル発覚時に辞めるべきだったのかどうかについては明確な答えを持っていないけれど、AKB48グループ(少なくてもHKT48)にとって彼女の成長と献身は必要だと思う。

もちろん、その前段で彼女自身がHKT48を必要としているのだけれどもね。


というのもね、これは私の希望的観測かもしれないのだけれども(希望も何もしていないけれど)、たぶん彼女はもう一回りすると、次は恋愛禁止条例を肯定すると思っている。

彼女なりの理解に基づいて。

今は基本的に自分という存在を確立することがメインだけれども、指導者として他の若い子たちの存在を確立していくことがメインになった時、全体性を見るようになった時には、言うことは変化すると思っている。

1人ひとりのメンバーの心を理解するだけでは足りなくて、みんながどこへ向かうべきかを考えるようになった時に、心的転換は起きるのではないかな。

みんなの「先生」から「校長先生」になった時にね。

求められるものが「進路指導」から「運営方針」になる時。

前に書いたことなのだけど、彼女にはモノゴトを俯瞰する能力があるから、きっとそうなる。


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私は以前から「恋愛禁止条例という理念を掲げるべき!」と論じている立場だけれども、指原がそれと反対のことを言うからといって、それ自体を問題視していない。

恋愛禁止条例に様々な解釈があること自体は問題とは思わない。

問題は、それとは違う考えが全く出てこないことだ。

出てくるのはもっぱら外部(少数)からだけで、内部から全然出てこない。

これは多様性の観点から大問題だと思っている。

多様性の観点から指原は必要だとなっているのに、他が出てこないと論点が指原にアンカリングされてしまう。

これは誰にとっても本意ではないはずだ。

詳しくは↓を参照して欲しいのだが、


人はおとりに釣られる。 相対性の前では全てが錯覚。 ~おとり効果~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/7fc79b658340efabf6fb9461cbf8231d


本来は、AKB48には実に多様な考えが内在しているにも関わらず、指原以外の考えが表立って出てこないために、「おとり効果」が働いて自然と指原の考えがAKB48そのものの考えとしてロックされてしまう。

多様性がないために、錯覚が引き起こされやすい状況に陥っているということだ。

これも前から警鐘を鳴らしているつもりなのだが、単一の考え方で「空気」が醸成されてしまうと、それ以外の考えに対して排他的になるので、対立が激しさを増して世論が分裂してしまい、豊かな多様性に基づいた全体性が損なわれてしまう。

多元社会の誕生だ。

コミュニティの力が失われて、物語を生み出し強化する力もなくなれば、付加価値をつけることも難しくなるだろう。


1000円のチケットを1万円で売る方法
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/9ad6285070b6166e97fe1c53e9558a5a


全体性がなければ、ニッチの集合体というだけでは大きな力には成り得ない。

ネットワーク効果と複利効果が働かないからだ。

それゆえ水を差し続け、空気の支配を避けるとともに、旗を掲げるべきだと言っている。


「恋愛禁止条例」を肯定することができないなら、AKB48内に「恋愛禁止条例」について多様な考えが存在することを認めるのはどうだろうか。

「恋愛禁止条例」をテーマに討論会を開いてみるとか。

疑問に思っている若手も多いみたいだから。

ぐぐたす上開催でもいいと思うよ。

若い人たちだけで考えても迷子になるだろうから、多様な考えをいれていく仕組みが必要かもね。

習う機会ではなくて、学ぶ機会をもっとつくったらいいと思う。




ちょっと最後時間なくて端折っちゃった・・

1000円のチケットを1万円で売る方法

2013-07-25 00:30:55 | AKB48_軽ネタ
※ノンアルコール・ビールを飲んで書きたくなった緩いエントリです。(いつも緩いけど)


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少し動いて汗をかいてオールフリーをグビグビと飲む。

ノンアルコールでは物足りないが爽快だ。

いや~、余暇があるというのは素晴らしい。

しかし、酒を飲まない人が言う。

なぜノンアルコールにしてまでビールを飲むのか?

とか

甘さがなくて美味しくないからジュースの方がいい

とか。

まるでわかっていない。

誰も美味しいなんて思って酒を飲んでいない。

イメージなのだ。

アルコールとコーヒーはイメージで飲むって太古の昔から決まってる。(もちろん個人的主観)

仕事終わりでキンキンに冷えたビールを一気に飲んで炭酸で焼けそうな喉の痛みを耐えながら言う

「くぁぁ~!うまい!!」

という一言が言いたいだけだ。

「うまい!」というが、ここでは「物語」の話をしているのであって、「味」の話はしていない。

たとえば誰かと「酒を飲む」というのは「盛り上がる」や「心を通わす」「会話を楽しむ」といったことのメタファーになっている。

「酒を飲む」とは、「酒」そのものを「飲む」行為を意味していない。

基本、この酒の話がわからんやつは話もつまらないと相場が決まっている。

「物語性」について理解のない人だから。


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1本定価100円のコーラを、スーパーマーケットで売れば競合他社が多く価格競争に巻き込まれてしまうが、たとえば高級ホテルのルームサービスを販売場所に選べば1000円で売れる。

旅行先の高級ホテルの快適な部屋に、最適な温度に冷やされ、ライムと氷がついた、この上なく美味しい状態で、シルバーの盆に載ったコーラがグラスで運ばれてきたら、中身の液体はスーパーで売っているものと同じものだとしても、1,000円払うだけの価値があると感じる心地よい体験ができるだろう。

(もちろん全員に共通する話ではなく、そういう付加価値が認められる状況があるということだ。)


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コンサートに何をしにいくか、だと思う。

運営している側は当然わかっているだろうけれど、だが今回のドームツアーは唐突すぎた感は否めない。

(ドームツアーだけについて言いたいわけではない。グッズやビジュアル製品、CDにせよ同じことだ。)

先日も書いたが、必然性がわからない。

共感できる物語を作りこめていないのだ。

そういう土壌をつくる準備をさぼって果実だけをとりにいけば、そのうち果実は痩せ細り、いつしか取れなくなるだろう。

未来の時計職人、宮脇咲良

2013-07-22 11:04:49 | AKB48_軽ネタ
【HKT48】一日一人について真面目に討論 十九人目【宮脇咲良】(AKB48タイムズ)
http://akb48taimuzu.livedoor.biz/archives/30723008.html


ちょっと違うと思う。

「HKT48のセンター(序列)」という論点から宮脇咲良を語るから、宮脇咲良の可能性を低く見がちになるのかな。

「HKT48をプロモーションする」ということと、「宮脇咲良に対する期待」は別の話なのだよ。


「なぜ宮脇&兒玉ではなく田島&朝長がセンターなのか?」という質問に対する回答は簡単だよ。

その方がHKT48が盛り上がり、売れると思うから。

でも、それは「宮脇に期待していない」ということを意味していない。

むしろ逆。

宮脇咲良には、とても大きな期待をしている。

宮脇は「時を告げるのではなく、時計をつくる」ことができる数少ない人財だ。

将来的には、AKB48グループ全体を見て動ける人材になって欲しいと思っているよ。(たぶん)

センターという時を告げる役割に憧れるのはわかるが、

HKT48の序列にこだわるレベルで終わらないという気高い志を持って欲しいね。

今は、単にセンターの背中を見るのではなく、どういう息づかいのもとでHKT48という生き物が生きているのか、ステージの上でメンバーの中にいてじっくり時間をかけて見ることだよ。


時を告げるのではなく、時計をつくる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/91429274914372eb7fc7865aac457f6d



いやもちろん、今はHKT48のことに一生懸命になって欲しいのだけど。

それと、こういう大人の期待が子供を潰すから、こういうことは直接言わない方がいいよ。


偉そうに言ってるけど、私は何もしりません。

5年後のAKB48についてファンは答えを持たない

2013-07-21 22:46:27 | AKB48_軽ネタ
よしりん先生の登場です!

HKT48宮脇咲良のぐぐたすに感動した。(ゴー宣道場)
https://www.gosen-dojo.com/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=2323&comment_flag=1&block_id=13#_13

秋元康は総選挙の順位は
参考に留めるだけで、
誰をどう売り出すかは
自分のカンを信じて決断を下す。
それで良いのだ。



顧客にとって最善の企業であろうとし、その時点で考え得る最高の手を打つことによって、企業は滅ぶ。

愚かさによってではなく、誰よりも合理的であらんとして、その優秀さゆえに滅ぶ。

なぜなら、時が経てばあらゆることが変わるからだ。

時代が変われば顧客は変わる。

今日の顧客と明日の顧客が同じものを求めているとは限らない。

5年前の2008年の7月の時点では、尖閣諸島で漁船は追突していないし、iPadは発売されていないし、3.11東日本大地震は起きていないし、AKB48はキングレコードにまだ移籍していなかったし、オリコン1位をとったことがなかったし、選抜総選挙もまだやっていなかった。

(NHK紅白には出たことがあった。2007年に「アキバ枠」で。)

環境はぐるぐる目まぐるしく変わる。

世の中に意図した通りに進むことなど、ほとんどない。

この世界は、意図せざる結果に溢れている。

しかし、意図せざる世界だからこそ、進歩がある。

企業が利益を上げることができるのは、市場が不完全だからだ。

市場には、新しい商品やサービスがどのくらいの価値があるのか判断をする能力はない。

もちろん、その意思もない。

顧客は、5年後自分が何を求めているのか、という点について答えを持っていないのだ。

だが、この不確実性を利用して企業家は利益を得ることができる。

企業家が新しい商品やサービスによって利益を得るのは、リスクを負う覚悟に対する報酬ではなく、不確実性を利用する能力で「顧客の創造」を行うからだ。

それゆえ、企業家は、今の顧客に最善であろうとしながら、それとは別に明日の顧客を創り出すという、二兎を追わなければならない。

修羅場を乗り越えていくには、阿修羅の三面六臂のように、複数の顔を持たなければならない。



AKB48第1章はAKB48劇場からはじまった。AKB48第2章をどこからはじめる?

2013-07-19 02:09:58 | AKB48_軽ネタ

幾つかの綺麗に咲いた花は収穫された。

今も幾つかの花は綺麗に咲いている。

中には土の下に力強く根を張り巡らし王様のように咲く花もある。

しかし、この後咲くであろう花々たちを眺めていると、どこか心細い。

今年の下半期はどうだろうか、来年はもっと厳しいかもしれない。

さらに具合の悪いことに、少し前に撒いたタネのうち幾つかは芽が出たが、どうもその後の調子が芳しくない。

前から栄養剤は与えているがあまり効果が得られないし、ずっと続けていると副作用もあるかもしれない。

長い時間かけて耕した畑だったが、収穫を焦って手入れを怠ったせいで土地が痩せてしまった。

まず土を育てないといけないのはわかっていたが、余裕がない。

しかし、このままでは先はないし、少し休めるか、新たに土地を耕すべきだろうか。



アイディアを狩る狩猟採集生活から、土壌(組織力)を醸成しタネ(アイディア)を育てる農耕生活へ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0319c34c9503377d8b175908352da252

「育む」という発想で、継続的な努力が活きる生き方をしよう
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/eaf9943d3704e917e3377c127067f036


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ドームツアーの券が余っているらしい。

私はドームツアーが発表された時に「AKB48第2章の迷走を表す象徴的な出来事」と批判していたのだが、その後もずっと迷走しっぱなしだ。

そもそも、なぜAKB48はドームツアーをしたいのか?

私は「グループ全体を統一していくための目標が欲しかったから」が一番の理由だと思う。

発表された時、まず最初にそれを考えたし、ツアータイトルもそのような感じだ。

(「AKB48 2013年真夏のドームツアー~まだまだ、やらなきゃいけないことがある~」)

厳しいことを言えば、これは残念ながら大きな誤りと言われることになるだろう。

前田敦子卒業以降、さまざまなことが起き、状況はどんどん変わってきている。

にも関わらず、東京ドームを目指していたAKB48第一章の延長線上で目標を立ててしまった。

線形的思考の落とし穴にはまっているのだ。

「東京ドーム(1830m)」は、ファンも含めたAKB48にとっての目標だった。

ファンとメンバーやスタッフ全員の方向性がリンクしていた。

だが、今回のドームツアーはどうだろう。

ファンにとって、一体どんな必然性や意味があるのか。

「ドーム」自体に意味はなかったのに、東京ドームの後にドームツアーを目標に据えてしまった。

ファンを置いてきぼりにしたまま、内部的な論理にファンが共感してくれると誤解しているのだ。

たまたま「東京ドーム(1830m)」でみんなの方向性がリンクし、それで大きな成功をおさめることができた。

自分たちのやり方が正しかったのではなく、みんなの方向性が合ったことが成功要因だ。

自分たちが成功を手にしたのは、これまでのやり方が正しかったからだという誤った認識にとらわれ、現実を直視していないからこうなる。

AKB48第1章の主役たちが去り、AKB48第2章をはじまるなら、新しい声、新しい対話、新しい視点、新しい考え、新しいやり方が必要だろう。

AKB48第1章はAKB48劇場からはじまった。

AKB48第2章はどこからはじめるのだ?

今は迷子だ。

まず、それを考えるべきだろう。



AKB48はビジョナリーカンパニーになれるか?!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2462f432dbc5e3b5b22c8fa39f7b877f


AKB48第2章はリーン・スタートアップで
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/658a3ded9e7797b628f17c244da952b9


AKB48がチーム活動を重視しなければならない理由をもう一度語ろう
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/cd2369445963c0bba14b08501f1dbb86


SKE48は、次世代エース級メンバーを「SKE48バス」で全国武者修行させたらどうか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6522173ea3af32a26b55cbddf8cad599


何度も言うが、研究生でスピンオフ・チーム「チーム8」を創るんだ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f7c15ce5e0359dc183002ca343faad54

組織の意思決定を分析するための「視点」

2013-07-16 16:45:51 | AKB48_経営戦略・組織論系
組織の意思決定を分析するための「視点」についてのお話。


外交政策の専門家グレアム・アリソンは、キューバ危機を分析した『決定の本質』で、政府の意思決定を分析するための3つの「概念レンズ」を提唱した。

合理的行為者モデル:

このモデルは、政府の行動を合理的に統一された行為として見る。
政府は、明確な目標の下に選択は行い、行動を起こす。
この視点に立つと、政府が何をしたか、これから何をするかについて、特定の目的に照らし合わせて予測可能である。


組織過程モデル:

このモデルでは、政府の行動を、政府内部のシステム(組織構造、プロセス、ルーチン)に基づいた組織的な出力として見る。
組織には、その組織としての強みがあり、得意な行動パターン(勝利の方程式のようなもの)がある。
この視点に立つと、意思決定は意識的なものというより、行動様式の結果として見ることができる。


政府内政治モデル:

このモデルでは、政府が何をしたか、これから何をするかは、政府内にいるプレーヤの交渉ゲームの結果として見る。
政府内にいるプレーヤは、それぞれの立場に基づいた利害関係を持っており、意思決定は、それらのプレーヤの相対的力関係と能力に基づいて理解される。
この視点に立つと、一般に「政局」によって意思決定は行われると見ることができる。


上記3つのモデルは異なる次元の分析をもたらすが、相互補完的なものである。

つまるところ、組織の意思決定というのは「戦略」、「組織構造」、「組織文化」という3つの次元の統合された結果として見ることができるのである。

何の意図もなく、参考までに。




「戦略」の意味するところが「合理的」とは限らないのだが、本エントリの文脈としては、組織の意思決定を合理的な意図として見るという立場からすれば、組織の「合理的行為者モデル」は「戦略」なのである。

「戦略」には「意図的戦略」と「創発的戦略」があることは、当Blogでも何度か触れていることである。

調査研究によれば、意図的戦略のまま成功を収めることはほとんどない。

ほとんどの場合において、当初立案した「戦略」には、「修正」「無視」「破棄」が必要となる。

「恋愛禁止条例」の意義を再考する ~フリーライダー問題~

2013-07-11 01:38:49 | AKB48_オピニオン


「恋愛禁止条例」の意義を、いつもとは異なる側面から考えてみたい。


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まず、繰り返しになるが「恋愛禁止条例」の定義について。

ここでいう「恋愛禁止条例」は、成文法的な明示的なルールのことではなく、慣習法の元となるようなAKB48グループ全体に共有されている「暗黙的なルール」もっと分かりやすく言えば「価値観」のことだと考えて頂きたい。

誰かが意図的に作り上げたものではなく、様々な人々の言動が相互に影響し合って創発的に形成されたパターンや価値観のことで、形があるわけではない。

「形があるわけではない」という意味は、その価値観は論理性によってのみ構築されているわけではなく、そこには非論理的な情緒的な感覚も大いに含まれるため、入力から出力は一意には決まらず、「A→B(AだからBだ)」というような図式が必ずしも成立しないということだ。

しかし、そこにいる人々にとっては、問題を明確に説明できないとしても、問題そのものについては互いに認識し共有し合うことができる暗黙知のような存在である。


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「恋愛禁止条例」が必要である理由は、↓下記のエントリで述べたように、メンバーやスタッフだけでなくファンも含めたAKB48グループに関わるステークホルダー全員の意識を方向性を持って統制するために有効であるからだ。

恋愛禁止条例 自己責任論に反対する
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ea854ba7bd0c3c1f300f624ca48032a2


(有効)にも関わらず、「恋愛禁止条例の是非」がこれまでに大きな軋轢や議論を生み出してきたのは、理由がある。

一般的な言説によれば、「恋愛禁止条例」の定義の曖昧さとAKB48運営の一貫性のなさは常に議論の的であったし、↓下記のエントリで述べたような「保守的なアイドル観」による言論は時代が変わっても大きな派閥を占めると思われ、それが主な理由と考えられているが、

指原の速報1位が巻き起こした「リベラル vs. コンサバ」論争
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/de80fbc2ea31186b2ac691e94cf714b6


実は他にも理由があるのだ。

そして、その理由ゆえにAKB48グループは「恋愛禁止条例」の問題を放置できない。


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「恋愛禁止条例」に関するスキャンダルは「フリーライダー問題」なのである。

「恋愛禁止条例」を破る人々がいてもAKB48グループが成立するのは、その一方で「恋愛禁止条例」を守る人々がいるからである。

AKB48グループがリベラルなグループだから、AKB48グループはスキャンダルに寛容なのでは決してない。

AKB48がリベラルでいられるのは、多様性を養うだけの「高い生産力」と、アイドルグループとしてゲシュタルト崩壊が起きないように一体性を確保するための確固たる「アイドル価値基盤」を持っているからだ。

簡単に言うと、AKB48が多様で自由なアイドルグループでいられるのは、その裏でその分のコストを負担しているからであり、そのコストを負担するだけの力があるからだ。

それゆえ、そのコストを負担せずにタダ乗りしようとする者(フリーライダー)がいると、排斥する力が働く。

幾つかの日本論によれば、日本のコミュニティにはフリーライダーの発生を防ぐために、空気に同調しない者を村八分にする力が内在しているのだ。

フリーライダー問題は、人々に不平等感や不公平感から不安や憤りを覚えさせ、「信頼や協力の欠如」や「妨害行為」を招くだけではなく、、空気が水を差されれ雲散霧散してしまうと、みな興醒めしてしまい物語性に依拠した政策の効果がなくなってしまう。

それゆえ、たとえば(当Blogで取り上げたところでは)チャン・キムらによる『ブルーオーシャン戦略』では、「公正なプロセス」が必要だと説明している。

AKB48が挑戦している難しい問題 ~社会的複雑性(多様性の高まり)~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/81af48ec44ccac04b031909ccd3327c3


信頼や協力が欠如すると、各人の考えが研ぎ澄まされ、全体としてよりよい発想が生まれる機会が妨げられ、各人の理解を引き出すことができなくなり、運営に対する信頼もなくなり、駆け引きやズルが横行するようになり、結果として組織は衰退する。


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「フリーライダー問題」として考えると、(払ったコストの妥当性には疑問がある人は多いとは思うが)指原や峯岸といった現役のスキャンダル・メンバーは少なくてもコストを払ったとは言える。

最悪なのは問題をスルーするなどして、見える形でのコストの負担をしないことだ。

実はファン側には見えない形で、密かに見えないコストを負担している場合もあるかもしれないが、「フリーライダー問題」の観点から考えると、問題の解決に全く繋がっていないことに注意が必要だろう。

とにかく何らかの形でコストを負担しなければならない。


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「フリーライダー問題」をどのように解決するか。

通常は制度的な不備を検討すべきだが、この問題の難しさをよく表している良い(?)例がある。

NHKの受信料の徴収問題だ。

視聴に関係なく受信契約が成立するという法的解釈が非難されているが、これも「公共放送のタダ乗り」を許すかどうかという意味で「フリーライダー問題」である。

一部でも払わない人々の存在が許容されてしまうと、他の視聴者にとっても「払わない」が合理的な選択肢となってしまうため、NHKは受信料の取立てを厳密に行うしか手がない。

受信料を税金化すればよいという意見も根強くあるが、この場合NHKは「国営放送」になってしまう。

NHKが国営でもなく民営でもなく「公共放送」なのは、太平洋戦争の教訓である。

「国営化」は国民の望むところではないだろう。(今でも実質国営だという指摘は有り得るが)

「民営化」して広告収入などでスポンサーシップを導入すると、(実際どうかは別として理念的に)中立性を担保することができない。
(海外のたとえばBBCでは広告収入の受け入れを容認しているケースも見られるようだ)

そのため、その中間(?)の「公共放送」なる曖昧な定義と、その理念実現のために税金のようで税金ではない「受信料」なる不思議な制度が継続されているのだ。

理想ではないが、現行制度の下での現実的な解として、NHKにはなんとしてでも受信料を取り立てる選択肢しか有り得ないのだ。


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ひるがえって「恋愛禁止条例」に関する「フリーライダー問題」はどうか。

前述したNHKの文脈でいうと、下記3つの道がある。

(1)国営化・税金

「恋愛禁止条例」を成文法化し、統一ルールで運用する。

コストは公平かつ厳密に負担する。

(2)民営化・使用に応じて料金を支払う

「恋愛禁止条例」の是非は民営化され、ルールは運用されない。(例:ファンが決める)

コストはファンがそれぞれに払う。

(3)公共放送・受信料

「恋愛禁止条例」は慣習法的に扱われ、暗黙的ルールで運用される。

コストは取り立てられる。名目上、例外はない。


どれも選択しだいだが、おそらく(2)はAKB48グループ自体が分化して、結果として衰退する道を辿ると私は思う。

さて、どういう選択をするかだ。




※「恋愛禁止条例」に限らず、スキャンダル全般に適用される話

「松村の予算1万円」の意味

2013-07-05 09:29:51 | AKB48_軽ネタ
ここで説明しちゃ興醒めだし、たぶん大丈夫だろうけど、念のため「松村の衣装予算が1万円」の件について。


「予算」をつけるというのは、名目的には「戦略の具体化」などとカッコよく呼ばれることもあるが、予算統制されている近代組織においては、基本的には「命令」を指すのだよ。

「ヒト・モノ・カネ」を動かすためのもの。

だけれども、松村はいろんな人の協力によってここまで来たわけだよね。

誰かが協力するということは、松村が直接的に対価を支払っていなくても、その誰かが負担しているわけだよ。

「持ち寄り」と言われるやつ。

1コメダについても、松村に動画撮影を許すことで、運営はその映像(内のコンテンツ)で少なからず儲けることが出来た可能性を負担しているわけ。

運営が松村を支持する、もしくは黙認するというのは、機会損失を許容する運営の積極的な姿勢を表しているともいえるのよ。

でも、それは、より大きな機会損失を避けるため、新しい可能性を探索するために必要なコストとも言えるから、積極的な「投資」でもあるのだね。

そういう意味で、松村については、予算化されていなくても、みんなが負担している割合が大きいメンバーなわけ。

もともと松村は「非公式の権力」と「非公式の予算」を持ち寄ることでここまで来たメンバーなわけだから。

(もちろん最も重要なのは支持を集める松村の人柄なのだと思うが。)


以上を踏まえた上で「予算1万円」の意味を考えると、この政策目的は明確だと思うよ。


業務命令:

「命令」によってではなく(運営の意図的戦略によってではなく)、

このプロジェクトに関わる(関わりたい)人々の自由闊達で共創的な工夫によって、

皆が楽しめる結果を想像し、創造してください。

責任はプロデューサーの指原・・ではなく総合プロデューサーの私(秋元康)がとります。

以上。


(指原にプロデューサーを依頼したのもこれが理由だよ)

(ということにしておこう、という話ね。)

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり

2013-07-05 01:37:29 | AKB48_軽ネタ
「過剰適応は適応能力を締め出す。」


という言葉は、実に簡潔でありながら洞察に満ちた格言だ。

クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』が炙り出した盛者必衰の理にも通ずるものがある。


しかし、ここで疑問に思うはずだ。


「では、適切な適応とは何なのか?」


競合より適応能力に劣れば競争に負ける。

競合に勝つためには、誰よりも早く、速く、深く適応する必要がある。

そのような状況の中で、過剰適応となる境界線の寸前で立ち止まることは、可能だろうか?

その境界線がどこにあるのか見定めることができるとは思えないが、仮にできたとしても、それでは競争に負ける可能性が高い。

これでは破滅する前に自滅してしまう。

もし競争の参加者全員が境界線を知ることができたとしたら、全員が横並びになるかもしれない。

その上で競争に「談合」を持ち込むことで皆がWin-Winの関係を構築できる。

参加者全員をコントロール(協調)可能で、誰かの犠牲なしに全員で分かち合うだけの資源的な余裕があるのであれば、それもありだ。

だがそれは、そういったユートピアがこの現実世界に実現できれば・・の話だ。

たいていは「囚人のジレンマ」にはまり、参加者は利己的に動くゆえに競争となる。

いや、「競争」の語源は「互いの良いところを引き出す」という意味であるように、競争はより良いものを引き出す手段として必要だ。

この議論の本質は、「高すぎる適応能力」と「低すぎる適応能力」との境界線を探ることに意味はない、ということなのだ。

繰り返しになるが、競争に勝つには誰よりも早く、速く、深く適応する必要があり、それゆえ適応に「高すぎる」などという概念はない。

「適切な適応能力」などというものは存在しないのだ。


すると、我々には、滅ぶか、負けるかの選択肢しかないのか?

実は、そうだ。


「長期的にはわれわれはすべて死んでいる(In the long run, we are all dead.)」



であるならば、なぜ我々の生活は今こうして成立しているのか?

なぜ100年を超えて存続する組織があるのか?

どうして多くの国は滅んだのに、いまだに多くの国は存在するのか?


この問題に対して、多くの識者はこう答える。


「これは適応の"高低"が問題ではなく、"柔軟性"の問題だ。」


つまりこういうことだ。

誰よりも早く、速く、深く適応し、環境変化の兆しに気づいたら誰よりも早く変わればいい。


しかし、適応するということと柔軟性があるということは両立するのか?

一見、両立するようにも思える。

たとえば、水は容器の形に合わせて姿を変えることができるだろう。

孫子の兵法にもこうある。

兵を形すの極みは無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず、智者も謀ること能わず。形に因りて勝を衆に錯くも、衆は知ること能わず。人は皆、我が勝の形を知るも、勝つ所以の者は知る可からず。故に其の戦い勝つや復さずして、形に無窮に応ず。

夫れ兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに走る。兵の勝は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に、兵に常勢無く、常形無し。能く敵に因りて変化して勝を取る者、之を神と謂う。五行に常勝無く、四時に常位無く、日に短長有り、月に死生有り。

水に決まった形がないように、柔軟に形を変えることは有用だ。

が、しかし、そんなことが可能であろうか?

可能なのであれば、どのようにして可能となるのだろうか?

我々はそれほど柔軟な存在なのだろうか?


我々が柔軟に変化できるとする説は、その理由は我々が「学習」するからだと教える。

そうだ。

我々は学習するから過去に起きた過ちを繰り返さぬようにすることができるし、昨日できなかったことが今日できるようになる。

ただ、「学習」と一言でいってもその言葉が捉えているスケールは幅広い。

我々は科学技術の力で巨大な物体を宇宙まで飛ばすことができるようになったが、いくら学習しても自分の力だけで空を飛ぶことはできない。

火傷をすることでロウソクの炎に触ることが危険なことだと学習することはできるが、ロウソクの炎を触っても大丈夫な皮膚を手にすることはできない。

(一部の人が修行によって炎にまけない身体を手にした話を幾つも知っているが・・)

流行のファッションを学んで雰囲気イケメンになることはできるが、身長を伸ばすことはできない。

何事も外形的なもの(格好)を変化させることは容易いが、内部構造を変えることはすぐにはできない。

遺伝的な変化であればなおさらだ。

「突然変異」のような「特異」な出来事は変化万能主義者にはとても良いことのように捉えられているが、基本的に変異は淘汰されて蓄積しないようになっている。

既存の生態系の中では、特異であることは生存していく上で不利だからである。

しかし、平時には不利なのであるが、有事であれば事情は変わる。

環境変化が大きい時は、これまでとは異なるということが武器になる。

ただ、6500万年前に起きた隕石の衝突ほど大きい(地球上の75%の種が絶滅されたとされる)変化になると変異どころでは適応しきれず、この場合はK-T境界を乗り越えられる条件を持つ種が地球上にどれだけ存在しているか、といったところが重要となる。

この自然の総当り戦略でさえも、巨視的に観れば、絶え間ないフィードバックを得るための学習なのだというなら、「進化」ほどのスケールの話も学習の成果だと言えてしまうのかもしれない。


自然は命をムダにする
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e98d828c318cbd4d9677b82f653b26c8


少し戻って、「適応するということと柔軟性があるということは両立するのか?」という問いに対する答えはこうだ。

両立する。

それは学習によって両立する。

ただし、学習というのは思い直しのようなミクロなものから、生物学的な進化や種の生存といったマクロなスケールを範疇に含めた幅広い概念で、環境変化のレベルに応じた学習能力が必要である。

そして、学習のために必要なものが「多様性」である。

多様である可能性が存在すること、と言った方がわかりやすいかもしれない。


つまり、環境変化のレベルに応じた多様性が存在しているかどうかが、過剰適応の罠を乗り越えられるかどうかにおいて重要である。



この日本という国は政権が変わっても存続しているし、
(一つのやり方がダメでも、クーデターや革命なしに他のやり方を選べる。)

10年もすれば企業が扱うカタログの中身は変化するし、
(扱う商品やサービスが変わっても企業は存続できる)

私の身体を構成している何十兆もある細胞は日々生まれ変わっているのに私は今ここに昨日と変わらず存在するのは
(構成要素が変わっても自己同一性を維持できる)

それらが多様性を使って日々生まれ変わる(学習する)ということをしているからだ。


養老孟司『バカの壁』の中に出てくる「論語」の一説に対する意訳が、「知る」という不可逆の変化をよく表現していると思う。


君たちだってガンになることがある。

ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。

そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。

ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。

その桜が違ってみえた段階で去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。

多分思い出せない。

では桜が変わったのか。

そうではない。

それは自分が変わったということに過ぎない。

知るというのはそういうことなのです。

知るということは、自分がガラッと変わることです。

したがって、世界が全く変わってしまう。

見え方が変わってしまう。

それが昨日までと殆ど同じ世界でも。


これに一番ふさわしい言葉が『論語』の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」

道を聞くというのは、学問をして何かを知るということです。

朝、学問をして知ったら、夜、死んでもいいなんて、無茶苦茶な話だ、と思われるでしょう。

私も若い時には何のことだかまったくわからなかった。

しかし、「知る」ということについて考えるうちに気がついた。

要するに、ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。

去年まで自分が桜を見てどう思っていたか。

それが思い出せない。

つまり、死んで生まれ変わっている。
(知ってしまったらもう過去の自分はそこにはいない)

そういうことを常に繰り返していれば、ある朝、もう一度、自分ががらっと変わって、世界が違って見えて、夕方に突然死んだとしても、何を今さら驚くことがあるか。

絶えず過去の自分というのは消されて、新しいものが生まれてきている。



実は「覚悟を決める」や「死んだつもりになって」「捨て身になる」という言葉には、そんな含意があるのかもしれない。

アントレプレナーシップの極意ではないか。

「八福神」改め「四天王」にしてみるとか

2013-07-04 16:53:29 | AKB48_軽ネタ

最近、私のまわりの一部でスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』が流行っているので、のろうと思って話し始めたら出てこない・・「7つ」の習慣が orz

認知心理学者のジョージ・ミラーが人間の一時記憶容量(マジカルナンバー)は「7±2 (5~9)」だと言ったが、私自身の実感は限りなく「5」に近いと感じていて、あぁ私の一時記憶領域は乏しいのか・・と思っていた。

が、なんと!

最近知ったところによると近頃のマジカルナンバーは「4±1 (3~5)」らしい。

(詳細は知らない。調べようともしていない・・)

たしかに携帯電話やリモコン類のボタン配列は3か4ずつのチャンクになっているではないか!

ということで、今度から情報は「4±1」のチャンクで表現するのが吉だと知る。

2ちゃんの「3行で説明しろ」にはそういう意味があったのかと感慨深い気持ちになる。

3段活用、3段論法、起承転結とか、「そうだよね」的に気楽にしっくりくる感じになるのは構成要素が3か4くらいな気がする。

「7つの大罪」「世界7大不思議」「7つの習慣」・・・「神7」とかはもう古くて、

これからは「四天王」だとオモタ。(四皇だといろいろ問題ありそうじゃないかw)


乃木坂46は日本語と親和性がよいだろうから、「八福神」→「乃木坂四天王」にしたらどうかね。

その方が覚えやすいかも。

(グーグル先生にきくと、非公式な乃木坂四天王は既に存在するらしいが、これらを駆逐してしまってだな。)

(ラッパッパ四天王とか前にあったなそういえば。)

そういう意味で(どういう意味だ?)、「アメ女八賢伝」は「アメ女四天王」の方がよかった。

パロる中にも一粒のダイヤをだな~

・・残念だよ。




三銃士はいいよなぁ。