進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

ブログ近況報告(2009/12/29)

2009-12-29 15:16:51 | ブログ情報(News Release)
もうすぐ年が変わる。

今日は電車が空いていた。
いつもなら座ることなんかないのに、今日はガラガラだったので座る場所を選び放題だった。
しかし座れるのが当たり前だと、有り難味を感じることはない。

昨日は職場から見えるマジックアワーの時間帯に見られる東京の夜景がすごく綺麗に見えた。
一つひとつの灯りが、一人ひとりを照らすとても暖かいものに思える。
その対照にある暗く照らされない部分があればこそだけれど。
そんなことを忘れてしまう。

通りですれ違う人々の表情にいろんなものを想像してしまう。
行き交う人の硬い表情の裏に何かの待ち遠しさを感じる。
決してよいものばかりではないのだろうが。

不思議なものだ。

年が変わったからといって何かが変わるわけではないのに。
しかし、確かに社会は変わって見えるのはとても興味深いことだ。

結局、社会が一人ひとりの人間によって構成されるものだからだ。
年が変わると、人々は何かが変わって欲しいと願う。
人の気持ちが変われば、社会は変わる。
皆が変わると思えば、そのことが現実になる。
(まぁそういう風に社会構造を構築してしまったということもあるが)

政治がそのキッカケになれたら、すごいことだと思うのだが。


さて、これで当Blogにおける今年最後の更新になります。
これから数日間、ネットにアクセスすることができませんので。

当Blogを9月に開設したのですが、それ以来、多くの皆様にご支援いただけて大変嬉しく思っております。
開設後4ヶ月経ってもブログの目的も曖昧なままな上、時間のなさを言い訳に適当なエントリ更新を重ねてまいりましたが、続けられたのもひとえに読者の皆様方がいればこそでございます。
大変お世話になりました。
そして、ありがとうございました。
来年もまたよろしくお願いいたします。
来年はもう少しコメントやトラックバックを増やして行きたいと考えております。

以上です。
それではまた来年。

空っぽの有用性

2009-12-29 00:48:24 | 哲学・思想
ショックなことに夜中にがんばって書いたエントリの半分が消えてしまったので書き直しました。

前回のエントリで老子の「タオ(道)」の話を出したのは唐突だったが、これは年の暮れに少し物思いにふけていたのと、↓の記事のある一部分に関連を見出したからだ。

鳩山首相政治資金問題会見、雑感(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-cbe0.html


現在では著作権が山本七平の親族に移譲され「山本七平の日本の歴史」(参照)というタイトルになっているが、当初の著作権者イザヤ・ベンダサンはこう述べていた。漱石の「こころ」の文脈で。

 この点で、この作品に乃木将軍が登場するのは偶然ではない。彼を軍神にしたのは、実は、日本人ではない。むしろ逆輸入であって、少なくとも戦争中と直後は「乃木無能」が定評であった。彼は確かに無能である、というより「即天皇去私の人」であり、この点でまさに真空的人格であった。
 従って彼は、意志、決断、それに基づく指導力などはじめから皆無なのが当然であり、ただその真空的な人格が周囲に異常なエネルギーを巻き起させただけである。そして、それが発揮する --- というより実際には「させる」だが --- 一種独自の力に、逆に超人乃至は超人的偉力をもつ指揮官と錯覚したのは、日本人よりも外国人であった。彼らには「去私の人」のもつ真空が発生させるエネルギー、それは理解できないが故に、かえって不思議な魅力になっていき、自分もそれに巻き込まれて、正当な評価を下しえなくなってしまうのである。
 実はこれが「天皇制」のもつエネルギーである。中心に、欲望の無力状態、人間関係・社会関係における無菌人間を設定し、一種の真空状態を作り出す。これを「去私の人」と言いうるなら、そういって良い。本人は真空であるから、一切の意向はない。いや、たとえあったとしても、ないと設定される。従って意志決定も決断もしない。それが徹底すればするほど、それはますます真空状態を高め、それが周囲に異常なエネルギーを起こして台風を発生させ、全日本を含み、東アジアを巻き込み、遠く欧米まで巻き込んで、全世界を台風圏内に入れてしまう。しかし「台風の目」は、静穏であり虚であり、真空であって、ここには何もない。たとえ「目」が非常な早さでどこかへ進行しても、それは周囲の渦巻が移動させているのであって、「目」が「目」の意向に従って進路を決定しているのではない。


この極東ブログに出てくる「真空人格のエネルギー」は、老子道徳経の第11章で言わんとしている「空っぽの有用性」のことである。


老子道徳経の第11章

三十輻共一轂   三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。
當其無有車之用  其の無に当たりて、車の用あり。
挺埴以爲器    埴(つち)をうちて以って器を為(つく)る。
當其無有器之用  其の無に当たって、器の用有り。
鑿戸以爲室    戸ゆうを鑿(うが)って以て室を為る。
當其無有室之用  其の無に当たって、室の用有り。
故有之以爲利   故に有の以て利を為すは、
無之以爲用    無の以て用を為せばなり。

[当Blogによる独断と偏見による意訳解釈]
車ってのは車輪の穴に車軸を通すことで動くよね。
穴がなかったら動けなくて車の意味無いよね。
土をこねて器を作ってみても、中がくり抜かれてなかったら使えないよね。
器ってのは中が空だから意味があるんだよ。
戸や窓ってものを形作って部屋を作ってみても、中がつまってたら使えないよね。
部屋ってのは中が空じゃなきゃ意味ないんだよ。
ってことで、我々は普段モノが役に立っていると思うけど、実はその前段で空っぽであることが役に立ってるんだよな~。


慣れていない人にはちょっと難しいかもしれないけれど、我々は普段「何かが役に立つ」を「(有形無形を問わず)構造を持った何かが役に立つ」と無意識的に脳内変換している
役に立つモノは「有」であると考えている。
例えば、我々は普通「家」を役に立つモノだと考えるけど、「家の中身(空っぽの部分)」が役に立つとは考えていない。
役に立っているのは「家」であって「家の中身」ではない。
同様に水を飲むのに「コップは役に立つ」けど「コップの中身が役に立つ」とは考えない
それは、我々が「コップ(有)」を考えるとき、無意識的に「コップの中身(無)」を前提として捉えているからだ
(少ない事例でいきなり結論めいたことを述べるが)
要は、「有」の前段に「無」があって、「無」がなかったら「有」が存在し得ないということを意味している。


これは「無」の中に「有」があるってことなのだ。
いつもの言葉で言えば相対性を用いて「無」から「有」を構築しているということ。
この視点はものすごく強力なもので、万事に適用できる。
少しずつ突き詰めていこうと思う。

これが「空っぽの有用性」とどう絡んでくるかを述べよう。

いきなりサッカーの話をしよう。(適切な例かはわからない)
サッカーというスポーツでの肝要は、空きスペースを創ることにある
戦略高いチームは空きスペースを相手陣地に創り出す戦術に長けている。
相手を誘き寄せて空白地帯を創り、そこにパスを出す。
そこにパスが来ることを予期していたプレイヤーが抜け出してボールを受ける。
そのプレイヤーはスペースにおいて自由を得るのだ。
伝説的で独創的プレーが表現されるのはプレイヤーの自由があればこそである。

続いて、組織の話に移ろう。
例えば「会社」について考える。
「会社」には身体があるわけではない
「会社」という組織は型であって中身はない。
しかし、中身がないから、中にいる人は自由に行動できる。
たいていの「会社」には、中にさらに「役職」という型がある。
会社」の中身が空っぽだと個人の自由裁量が大きすぎるので、普通さらに「役職」という型を創って個人の裁量を限定する
しかし、逆に会社の中身を型だらけにしてしまうと個人の裁量がなくなってしまう
こうすると、もはや自由意志を持つ人は不要になる
単純労働は新興国に移動するか、もしくは機械化されてしまう

型をどう決めたらよいかわからない仕事もある
その場合、やはり自由意志を持つ人と「空きスペース」が必要だ
一般にクリエイティブな仕事をする人に当てはめる型を少なくするのはこのためだ。
芸術家にいたっては型をはめようとしないだろう。

これで感のいい方はもうわかるだろう。
「空っぽの有用性」とは「自由」にある
換言すれば、人間の「自由」を発揮したければ「空っぽ」であることが有用であろう
「自由」を発揮させたくなければ「空っぽ」を創ってはいけない

さて、そろそろ「真空人格のエネルギー」と「空っぽの有用性」を繋げて考えてみよう。
(もう答えてしまっているけれど)

なぜ真空人格の周囲に莫大なエネルギーが生まれるのか
それは「自由」が周囲にもたらされるからだ
「自由」は人類が持つ最も強力な性質だ。
「自由」がなければイノベーションも生まれない。
「自由」がなければ何も変わらないだろう。
(「自由」が何かという究極の問いについての持論はいつか述べたい)
あとはどのような方向性(型)が示されるかだけだ。

ゆえに、「創造性」を最大限発揮したければ「神のごとく沈黙すること」である
その真空の周囲には「自由」がもたらされ、能力の限りを発揮するであろう。
ただ、その発揮される方向が必ずしも望ましいものとは限らないなら、真空加減を調整するしかなかろう。
時としてその調整には「権威」が用いられる
「権威」は型のようで型でないようなものだ。
解釈そのものに自由裁量があるからだ。
非常に便利なツールである。

タオ 道

2009-12-28 16:57:16 | スピリチュアル
タオとの出会いは、気づかないくらい静かで穏やかで、大きく、そしてやわらかいものだった。

タオは自己主張しない。

存在しないことで、そこに存在している。

気づかされることはない。

しかし、気づこうとして気づけるものでもない。

タオは、ただ静かに穏やかに、そしてそこに在る。

どこに存在するかを言語で表現することはできない。

なぜなら、タオは存在という言葉の意味を超えている。

しかし、タオはそこに在る。

あえていうなら、「ない」ことで「ある」。

これまで幾人かの人達がタオを「究極の哲学」と評したが、
その一方で幾人かの人達が「矛盾に満ちた詐欺だ」といった。

タオは言語でも数式でも完全には説明できないから、矛盾に満ちて見える。

足し算だけで高等な科学理論を説明することが難しいように。

小さいもので大きいものを説明するのは難しい。

そもそも言語や数式とは、相対性を用いた認識手法だから、絶対的なタオは認識できない。

だから結局私のタオに対する理解もまた、中途半端なものでしかない。

それでも私はタオに心を傾ける。

また、そのために逆の方向へも走る。

あらゆるものに「名前」をつける。

今日もまたいろんなものに、こうして「名前」をつける。

それで結局、タオから外れて、またタオに戻る。

タオは静かで穏やかで、大きく、そしてやわらかい

「無知」と「狡賢さ」 = 「違法」と「合法」

2009-12-28 10:05:39 | 政治
無税での財産継承法(ある女子大教授のつぶやき)
http://iiaoki.jugem.jp/?eid=3363


自民党の議員の3分の1は世襲議員である。彼等は議席だけを引き継いだわけではなく、当然に何がしかの財産や資産も手にしているはずだ。普通なら、贈与税や相続税の対象となると思うが、実際にはアベ氏やコイズミ氏が、そのような手続きをしたという話を聞かない。何か税金逃れのうまい仕組みがあるみたいだ。

[中略]

いま追求されるべきは、合法的かもしれないが、あざとい方法で財産を承継した世襲議員たちの政治家としての倫理であろう


あぁ・・全くその通りでございます。

(脱税といって断定的に語ると怒られるかもしれませんが)
今回の鳩山首相の贈与税の脱税問題ですが、この問題について自民党は強く突っ込むと自爆する可能性があるので慎重にならざるを得ない。
今回、マスコミや一部識者の間で問題となっているのは「合法かどうか」であるが、このこと自体「公平性の確立」のためには追求されなければならない。
法治国家で違法なことしていいよと暗黙的にも認めてしまえば、これは社会の安定に重大な影響が出てしまう。
(社会における必要悪とは何か)

しかし、一方で「合法なら何やってもいい」という話も通らないと思われる。
なぜなら法律で定義できる公平性には限界があり、「合法=公平」にはならないからだ。
「合法なら脱税テクニック駆使してもいいよ」と世論形成するのは無理だろう。
そういう「狡賢さ」とか「強欲」とかいうワードを人々が非常に嫌うということを、我々は昨今の金融危機で身に染みるほど知った。

無知ゆえに贈与税の支払いを怠った鳩山首相と、狡賢さゆえに政治団体を世襲する自民党政治家、どちらが悪かな。
しかし、公平性を保たんがために稀代の政治家を失うのもまた悪なのかもしれない。
まぁ正義や悪なんて相対的なものに振り回されるシステムが民主主義というものです。
もし「進化」という仕組みがこの宇宙になければ、我々はその相対性に絶望せざるを得ないところであったが、幸いなことに現実はそうでない。
これこそが生命の奇蹟。

ブログ近況報告(2009/12/27)

2009-12-27 00:39:17 | ブログ情報(News Release)
不定期でお届けしているブログ近況報告です。

「池田信夫Blog」や「アゴラ」といった有名ブログ様にトラックバックを貼らせていただいて、かつ頻繁にエントリ更新を行いましたところ、ついにgooブログ130万中3000番台に到達いたしました!
(ネットアクセスってべき乗分布になっていて、当ブログはロングテールの一部分みたなもんだと思いますけれど・・)
この目的も夢もない弱小ブログがようやくここまで。。開設が9月の終わりだったような気がするのでここまで来るのに3ヶ月かかりました。
未だに当ブログが何のブログなのかわかりませんが、ここまでこれたのはいつも読んでくださる皆様のおかげでございます!!
厚く御礼申し上げます!
エントリ怠ると即落ちてしまいそうな気がしますが・・。

しかし、アクセス数が増えた割りにコメントが減った気がします。
当ブログではエントリの内容に関係してさえいればコメントやトラックバックは完全フリーです
これまで中には手厳しい内容のものもございましたが、筆者の勉強になっております。
感想でも気になることでなんでも結構でございます。
皆様の厚いご支援いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
すぐ返信できないかもしれませんが、どしどしお寄せください!


そうそう、今日はNHK教育の「獣の奏者エリン」が最終回でした。
はじめは偶然見たことがキッカケだったのですが、これが意外にも面白くて、ここ半年くらい最も楽しみなTV番組だったのです。
しかし、ここ数年のアニメは本当に内容が深いですね。
誰を対象に作成されているのか知りませんが、大人が見ても十分楽しめる内容のものが多いです。
ドラマや映画よりも、シナリオの優れているものが多いように感じるのは、おそらくアニメの表現能力が書き手の創造性を生かすのに適しているのではないかと思います。

前に養老氏と押井守氏の対談を見ていてなるほどなと思ったのですが、


「アニメは見ている側が初めから嘘だとわかってみている。」
「安心して騙されることができる。安心して想像することができる。」
「人は嘘を求めている。」


みたいなことを言っていました。

表現したい「物語」に少しSF的要素が入るとき、ドラマや実写映画だとどうしても視聴者が「なんか嘘っぽい」とか「話に無理がある」みたいな違和感を感じてしまいます。
初めからフィクションだとわかっていても。
歳をとるとなおさら恋愛ドラマなんかにはそっぽむいてしまいます。
(スターウォーズみたいなレベルまでアニメ的になれば話は別ですが。)
それがアニメとなると、もう安心して見れてしまう。
事実に基づくノンフィクションだとしても、その作品としてはアニメという時点で嘘でしかありえないから。
これはテレビゲームも同じかと。


我々はいつも恋愛や政治について考える時「騙されたくない」とか「裏がありそう」とかすぐ勘ぐってしまうけれど、本当は我々は騙されたいし、騙されていたいのだ。
人間には「公平性」を求める習性があることがわかっているけど、あれも本当は嘘。
本当のリアリティなんて誰も求めていないし、誰にも本当のリアルなんてわからない。
我々が求めているのは「自分にとっての事実」で「自分にとっての公平」なんだ。
本当の事実=現実なんて知りたくないし、本当の公平なんて知ったら我々は卒倒してしまうよ。
我々は我々の籠の中でやわらかいリアルと戯れていたいだけなんだ。
いわば「夢見ていたい」みたいなもの。
だから本当のところでは夢を壊す人を求めていない。
本当のリアリズムをもたらそうとしてる人なんか求めていない。
適度に「自分にとっての事実」を物語として語ってくれる人がいいのさ。
そんな人が現れたら我々はイチコロなのさ。

そういう哲学というかスピリチュアル的なところを語りたいと思っているのだけど、果たしていつになるのか。
気合が足りないのさ。

コスト意識はトレードオフを理解する第一歩

2009-12-26 16:57:08 | 経済
世間話レベルのつぶやきです。

マスコミ報道でよく出てくる「2番底」というワード。
いわゆる「W字型」と呼ばれる景気動向予測である。

あるTVキャスターが民主党の政治家にやたら「2番底がくるのか?」と「その対策は?」みたいなことを騒ぎ立てていたのだが、マスコミがこういうノイズに惑わされるからこそ視聴者の財政政策バイアスが強くなるのではなかろうか。

思うに、これを「W字型」と見るのか「L字型」と見るのかで大きく結論が変わるだろう。
W字型と見る人は短期トレンドに着目しているし、L字型と見る人は長期トレンドに着目している。

地球温暖化議論も同じなのであるが、長期変動と短期変動はしっかりと分けて考えるべきである。

長期トレンドの中で短期トレンドは変化し得る。
しかし短期トレンドに対応したやり方では長期トレンドを変えることはできないし、また長期トレンドに対応したやり方では短期トレンドに細かく対応することができない。
(もちろんトレンドを完全にコントロールすることはできないが)
全力で長期トレンドのコントロールに取組む事ためには短期トレンドを無視する覚悟が必要であるし、短期トレンドに全力を費やすためには長期トレンドによってその努力が長期的に無駄に終わる覚悟をしなければならない。

本来、国家の経済財政政策のあり方とは「短期と長期のバランスをどうとるか」に議論が集中されるべきである(本来議論参加者はトレードオフを理解していて、その中でどう結論づけるかが問題だからだ)が、残念ながら現在の日本の政府は短期のバイアスが強すぎてバランスを欠いている。

いや、それが民主党の特徴なのだと言われれば、そういう政府であることはむしろ肯定されるべきなのかもしれない。
左右にふれるのが民主主義で、そこに付きまとうのは「デモクラシーのコスト」である。
コストを認識すればこそ、自分達が手にすべきベネフィットが本当は何か考えることができるのだから。

コスト意識が芽生えるのはトレードオフの理解の第一歩だ。

社会における必要悪とは何か

2009-12-25 16:51:35 | 哲学・思想
これは社会を表現するのに非常に本質的でしびれるものだ。

鳩山首相政治資金問題会見、雑感
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-cbe0.html


私が傾倒した思想家吉本隆明は、正確な言葉ではないが、こう言っていた。食えなくなったら盗みでもしなさい、それは悪いことではないのだ、と。盗んで食えるものがあるなら盗めばいい。人が飢えて死ぬより何倍もよい。人が飢えるような世界そのものにいかなる正義でも認めてはいけない。少なくとも、他者にそんな正義を求めるような社会を作ってはいけない。この世にあって大衆が生きること、その倫理こそが社会の根幹ではなくてならないし、そこには必然的に悪が含まれる。

[中略]

「銭ゲバ」ではないがカネがなければ親が死ぬという状況もある。そういう状況に立つ人が悪を自身の倫理と受け入れるなら、罪は罪でもしかたがないと思うし、同情せざるを得ない。
 少なくとも、カネがあって、カネを使って汚い所作を他者に押しつけて、自身は潔白だという人間よりは、食い物やカネをくすねた人間のほうがはるかに尊いと私は思っているし、それは戦後日本の餓えをしのいだ記憶やその生の話を伝え聞く庶民には当然のことのように思っている。


ここで述べられているのは、「公平」であるという「正義」と、それに反する「不公平さ」という「悪」についてである。

これまで確認されている人間の性質として、人間は「経済的合理性」よりも「公平さ」に対するバイアスが強いことがある。
「経済的損得」よりも「裏切り」「背信」「怠惰」「狡猾さ」を許さない。
「最も多く人が助かること」よりも「助かる人が少なくても公平であること」を重視するのだ。
ゆえに法律は「合理性」よりも「公平性」が重視されて作られているし、弱者が拳を握り締めて正義を訴える時の根拠は「公平性」である。
世にいう「正義」とは「公平さ」に他ならない
(ここでは話を単純化しているが、正義は相対的な概念で、各個人にとって公平であるか否かに基づいていると考えてもらいたい)

吉本隆明が言わんとするのは、「求むべき社会倫理の根幹」は「合理性(全体最適)」であり、「正義(公平)」がそれを邪魔するのであれば、それを打ち砕く「悪(不公平)」は必要悪である。というものだ。


「全てにおいて公平であること」を社会的善として定義すると、社会は非常に非効率的で硬直的になってしまう。
代表例が社会主義である。
社会主義は公平さを最重要視するので、沈むタイタニック号の中でも「できるだけ多くの人が助かる道」よりも「できるだけ皆が公平に助かる道」を選ぶ。
いつもいうようにトレードオフから逃れることはできないので、結果は散々たるものになるだろう。


無論、それがダメだというつもりはない。
我々の選択の問題だ。

高速上限2000円にがっくり

2009-12-25 16:27:54 | 経済
ありきたりな話題であるが、高速上限2000円にがっくり。

高速道:実験で新上限制、普通車2000円 ETC不要(毎日jp)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091225k0000e010081000c.html


政府は25日、高速道路無料化へ向けた社会実験として、10年度から普通車の料金を走行距離がいくら長くなっても最大2000円とする上限料金制度を新設する方針を固めた。軽自動車は1000円、トラックは5000円を上限とする。


私は長期休暇を取ると妻の実家に子供を連れて返る。
個人的には飛行機で帰りたいが、妻の希望でいつも車で高速道路を利用している。
高速料金は片道約12,000円。
8時間から10時間に及ぶ長距離運転だ。

そんな私が高速1000円に賛成しているかといえば、大反対である。
(しかし妻は賛成だ。)

なぜか?

長期連休中はバカみたいに混むからだ。
(首都高付近は毎日混んでいるけれども)
我々は渋滞する高速道路を求めていない。

ここに選択肢(トレードオフ)がある。

1,000円だけど渋滞する高速
10,000円だけど渋滞しない高速

どちらを選ぶかの問題だ。
私は後者を選びたい。
早くなければ高速道路の意味が無い。

国民は一般道よりも少し早いが安い高速を選ぶのか、
それとも一般道よりもかなり早いが高い高速を選ぶのか、
どちらだ?

「高速料金を安くするなら輸送容量を増やす必要がある」とすると、その費用は誰が持つ?
料金を安くするのだから、税金になるのだろう。
結局、トレードオフから逃れることはできない。

一般的な考え方は下記エントリでわかりやすく説明されています。

交通経済学
http://rionaoki.net/2009/10/1180


高速道路は適切な価格付けがなければ適切に使われない、ドライバーが混雑などの社会的費用を全て負担するような価格付けにならない限り、常に過剰な需要が発生し、時間の浪費と言う形で社会的な無駄が発生するという。

これは現在の日本の政策の問題を明らかにしている。道路はその容量に達した途端に極めて非効率的な移動手段となる。しかし、個々のドライバーは自分が運転することで他のドライバーが時間を浪費することにたいし費用を払わないため、放っておくと常に混雑=容量オーバーが発生する。これを防ぐには通行料という形でこの負の外部性を個人に負担させる必要がある。

高速道路無料化ないし上限千円と言った政策はこれに完全に反している。結果は予想される通り大渋滞が発生して利用者がみな無駄な時間を過ごすということだ。このような無駄を省くには、まず高速道路の料金は渋滞をコントロールするためのデバイスであって、道路の建設費用をカバーするためのものではないということへの理解が必要だ(料金が費用をカバーできるかは規模の経済で決まるが、それは二次的な問題だ)。

よくアメリカでは高速道路が無料だと言われる。それは単に高速道路の輸送容量が十分あるためだ。容量が足りないベイエリアのブリッジではどれもかなりの料金を徴収している(残念ながらこの料金も混雑解消というよりも一種の財源として設定されている印象はある)。

利用者にとってみれば混雑している高速道路に料金を上げるというのはどういうことだという意見もあるだろうが、現実には混雑しているからこそ料金を上げる必要がある。高速道路無料化に対する立場は基本的な経済学を理解しているかを示すよい指標になっている。


高速料金引き下げって産業振興政策なのかな。
乗数効果があるようには思えないので、ドメスティックな利益の再分配にしか見えないのだけれども・・。
最適配分としてしっかり計算されているのだろうか。

インターネットは誰のもの?

2009-12-25 11:18:41 | 経済

懐かしい話題だったので、個人的雑感を述べます。
ツッコミどころ満載かもしれませんがご容赦ください。
登場人物に対して悪意を持っているわけではありません。
ここに出てくるエピソードは当Blogの思い込みである可能性があります。


参考HP:

IPアドレスにオークションを(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51334914.html

IPアドレスの市場(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51293948.html

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以前ネットワーク・システムの研究に従事していた頃「IPv6(Internet Protocol Version 6)」をかじったことがある。
現在広く使われているIPv4はアドレス空間が32bitであるため割当可能アドレス数は約43億個。
これに対してIPv6はアドレス空間が128bitに拡張されるので、アホみたいに増えて日本語で何と読むかさえわからない桁になる。
(細かいことをいうと128bit中上位64bitがネットワーク識別部で下位64bitがホスト識別部だ)

IPv4でも約40億個のアドレス割当が可能であるが、将来的に地球上の全ての人にアドレスを1つ割当てることや、各電子機器それぞれにアドレスを割当てることを想定すると、アドレスが枯渇する可能性が高い。
そこで登場するのが、アドレス空間を128bitに拡張し無尽蔵に割当てを可能にするIPv6である。

インターネットユーザーからしてみるとIPv4/IPv6のどちらであっても使い勝手にたいした違いがないので、どうでもよいことなのだが、あらゆるものがIP化することができれば、そこにユーザメリットもあるであろうと考えられている。
インフラシステム側観点では機器やソフトウェアの置き換え等が必要なのでIPv4/IPv6では大きな違いがある。

IPv6がその名前を広めるキッカケとなったのは、森喜朗首相(当時)がバブル崩壊後停滞する日本経済の起爆剤としてIT革命を推進すると国会演説したのだが、その中になんと「アイピーバージョン・シックス」なる技術用語が出てきたことだ。
その舞台裏にはIT戦略会議議長(当時ソニーCEO)出井伸之氏の想いがあったらしい。
(さらにその裏には村井氏などがいるのだろう。)
(e-Japan戦略は高速インターネット網の整備に寄与したと認めていいだろう)

※ちなみに出井氏と森氏は早稲田の同窓であり親交があった

出井氏は、ネットワークのブロードバンド化と常時接続(通信インフラ開放)の両方を実現することで、社会的に様々な変化を起こし、日本を覆う閉塞感を吹き飛ばせると考えていた。
そのためには、日本のインターネット網が既存の電話線の上に構築されたものであったので、これをインターネット用に構築しなおす必要があると提案したのだ。
このとき、将来的に起こるIPv4からIPv6への移行を視野に入れる必要もあると同時に確認され、そこから日本では産学連携という形でIPv6に関する様々な研究・開発が行われた。
この背景には、IPv6は日本が世界最先端を走る分野であることもあった。
日本はICT分野で立ち遅れたが、IPv6で諸外国を先回りしたいという気持ちもあるにちがいなかった。
しかし、実情はというと、IPv6は世界中でほとんど相手にされていない技術であった。
日本が最先端を走っていたのではなく、世界が相手にしていなかっただけなのだ。
その点について、当時経済産業研究所上席研究員であった池田信夫氏の論文で説明がなされている。
当時IPv6のデマゴギーに洗脳されていた私は大変な衝撃を受けたのを覚えている。
ずっと疑問に思いながらも無視し続けていた事にについてズバリ答えてくれたのだ。
(私が池田氏を知ったのはこの時が初めてだった)

IPv6は必要か(池田信夫)
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/02012500.html

IPv6推進陣のトップといえばミスター・インターネットこと慶大教授の村井純氏である。
私は彼の発する言葉から池田氏の批判に対する有効な反論を求めた。
自分のやってることを正当化したいがためである。
彼の口から出てきた答えは「End to End」と「Connectivity」であった。

これは強力な言い訳だった。
NATやIPマスカレード等の技術では本来的な意味で(サーバを介さずに)「End to End」を実現することはできないからだ。
「End to End」を実現するためには、一つ一つのホストにIPアドレスが割当てられる必要がある。
しかも常時Connectivityを提供するためには、IPアドレスが固定的に割当てられなければならない。

だが、イノベーションと言うのは時に残酷なもので、技術はその言い訳を無効化してしまった。
IPアドレスの固定的割当てを前提としない、アプリケーション・レイヤで「End to End」を実現するプロトコルやP2Pアプリケーション等の開発が進んだのだ。
(サーバを全く介さないわけではないが、そもそもサーバを一切介さないインターネット・アーキテクチャなど存在しない)
同じ「End to End」を実現するにも、IP・レイヤとアプリケーション・レイヤでは技術的に大きな違いが存在するが、ユーザの使い勝手としては差がほとんどなかった。
これでIPv6による「End to End」アプリケーションの必然性が大きく揺らいだのである。
こうなるともはやIPv6の優位性はIP・レイヤで実現した方がパフォーマンスが比較的良い程度しかなく(細かい理由は多くあるがユーザ視点で違いが出せない)、そうなるとコスト・パフォーマンスとして大きく劣るIPv6は後退せざるを得ないのだ。

しかし、未だに学術分野や一部業界ではIPv6の火は消えていない。
(NGNなんてものに一生懸命な業界もある)
この理由はなんだろうか。
私が思うに、これはある種の原理主義的な思想が根底にあるからなのではないかと思う。
その原理は「インターネットはユーザのもの」である。
ゆえに権威者たるサーバを介することを善しとせず、あくまえも「End to End」にこだわり、そして「インターネットはユーザのもの」を守るために公的機関がIPアドレスを管理しなければならないというものだ。
これは一種の矛盾かもしれない。
権威を排するために権威を使うのだ。
これは社会主義思想そのものである。
(それがダメだと決め付けるつもりはない)
少なくても、私はそういうものを村井純氏をはじめとするその一派に感じた。

などと考えていたら、どうも池田信夫氏の説明が納得的だ。
彼ら科学技術者の原理主義を、自己利益のために後押しする行政機関が存在することが大きな理由なのかもしれない。
「国の後押し」という印籠があれば彼らは安心して研究ができる。
国は彼らの最大のスポンサーだから。


もちろんアドレスを再編成するにはコストがかかるが、それは土地を引っ越すのにコストがかかるのと同じだ。アドレスを2n単位でまとめないと配分できないというのも、土地が一坪単位で取引できないのと変わらない。アドレスだけを特別に市場から除外する理由は何もない。

私はこの点を何度もJPNICに説明したが、「公共的なアドレスを売買するのはなじまない」とか「金のある企業が買い占める」など、電波社会主義を擁護する総務省の官僚と同じような理由で聞いてもらえなかった。欧米で市場メカニズムの採用が決まってからも、JPNICは市場を拒否してきた。彼らがユーザーを無理やりv6に移行させるために流してきた「v6に移行しないとインターネットが破綻する」という宣伝が、嘘であることがばれるからだ。

しかし社会主義が崩壊したように、どんな組織的なデマゴギーも現実には勝てない。私はv6を否定しているわけではないが、ユーザーをあざむいて無意味なv6アドレスを強制するのはおかしい。JPNICは、オークションによってv4アドレスを全面的に再配分すべきだ。その制度設計については、オークション理論の成果が応用できよう。


IP技術を推進する科学技術者は制度設計の専門家ではない。
いくら大物といえど、これが限界なのだ。
制度設計などは経済学者などが入った場で再度やり直したらいい。

もうネットワークから離れてずいぶん経つので、その後の進展については知らない。
ひょっとしたらIPv6陣営に強力な論拠が出てきたのかもしれない。

なので、ここで書いたことはあくまでも個人の戯言なのだが、ふと科学技術の世界にも「原理主義」的な思想が入り込んでいることもあると、そう言いたくなったのだ。
必ずしも科学技術者が論理的であるわけではない。
経済学者が自分のことでは経済学的合理性を追求できないのと同じだ。
このあたりは人間の不合理性を描いた「アニマル・スピリッツ」を参照いただきたい。
(自分の人生を実に合理的に生きている方といえば勝間氏くらいでしょうか・・)

鳩山ブーメランは来年の流行語

2009-12-24 12:56:01 | 社会
鳩山首相が辞任したら流行語になる可能性は低いな。

鳩山首相のマニフェスト違反より深刻な問題(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-bf4e.html

最近、極東ブログを読むと噴出して笑うことが多い。
ネタは「鳩山ブーメラン」だ。

ここずっと面白いくらいに鳩山ブーメランが炸裂している。
ほんっとキレイにスパッと決まる。
かつてこれほどキレイなブーメランで人々を沸かせた首相がいただろうか。
鳩山首相の絶妙なキャラクターのおかげでブーメランがお笑いに変わる。

最近、finalvent氏が言う「鳩山首相のキャラ」がわかってきた。

自民政権だったら即死級のネタが豊富な民主党政権において、なにゆえ鳩山バッシングが中途半端なのか。
これまで当Blogでは「自民党に対する嫌悪感」が理由としてきた。
民主党に変わる野党が存在しないことが第一の理由だと。
その意見は今でも変わらない。
しかし、もう一つ重要な理由があることに気づいた。

それは「国民の誰も鳩山首相を真剣に見ていない。」ことだ。

内田樹の「日本辺境論」ではないのだが、日本人は日本のことを日本の外から眺めているのである。
鳩山首相のことはイコール自分達のことなのに、客観的に見ているのである。
そして、さらにいえば客観的にまるでTV番組を見るように鳩山首相を、そして政治を見ている。

極端なことをいえば、多くの国民が、今この瞬間に政治の世界で起きていることを「政治」というフレームワークを通してしか見ておらず、「自分」というフレームワークが介在していないのだ。

これは、日本人の「平成の坂本竜馬」などといった英傑を求める思想と関連があるのだろう。
政治はお上で、お上のことは誰かがなんとか解決してくれるものなのだ。
日本人にはどうも「社会」という概念を理解することが難しいようだ。
自分達がどのように社会と関わるべきかについての考察が根本的に欠けている。
(昔、社会という言葉はなかったようだ)

根底にあるのは、ある種の謙遜。
日本人が美徳としてきた概念である。
日本人は、他国に比較して自己能力の客観的評価に優れている

「私はたいしたことないから、ここは専門家の人に任せたい。」という感じだ。

これがアメリカ人だったら

「私ならできるかもしれない(やらねばならない)、やってみます。」になるかもしれない。


なぜこのような思想が日本人の根底に流れているのかは、いつか語りたい。

長所でもあり短所でもある、この日本人の思想性質に、鳩山首相のキャラクターが重ねあわされると、無関心に似た寛容的関心に変わるのかもしれない。

鳩山首相というキャラクターが政治を自分とは関係のないフレームに押し込めるのだ。
彼に何か大きなことが成せると思っていないから。
(つまり、自分に直接影響のある形で損失をもたらす雰囲気がしない。一種の諦めである。)

これが小沢だったらお笑いにならない
彼はやってしまうし、ゆえに彼がコケたら洒落にならんからだ。

まぁくだらないことを愚考したわけだが、
おそらく根本的なところは、国民のほとんどは日本の将来に希望的観測を持っているということなのだろう。
(人間には自然と楽観する習性がある。悲観ばかりでは生きていくのをやめてしまうだろう。)
そして、自分達の求める政治が実現されるまでには幾らかの時間を要するというのも覚悟していると。
その希望的観測の根拠は実はないのだが。

時間がある時にこのあたりの話をしたいと思う。(いつになることやら・・)

推奨図書
・ブラックスワン
=> 不確実性に対するものの考え方について参考になる。
・アニマルスピリッツ
=> 人間が本能的に持つ不合理性について知るのに参考になる。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 再々補足

2009-12-24 10:55:30 | 政治
「子ども手当て“所得制限なし”は愚の骨頂。日本の借金は1000兆円を超える!」
~予算編成の迷走を井堀利宏・東大教授に聞く
(ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10092/


昨年の衆院選は民主党にとって、政権を取るための選挙だった。500万円以下の低所得者層や子どもが2人以上いる家庭の票だけを獲得できるような政策を打ち出すわけにはいかなかった。なるべく多くの人々に支持される公約が必要だった。だから、子ども手当てに上乗せするように、「高校無償化」も打ち出したのだ。

 同時に、財政状況の厳しさへの認識が甘かった。1人2万6000円の子ども手当て支給(現在検討されている制度では、1年目は1人1万3000円、2年目からは2万6000円)には年間約5兆円の財源が必要だが、民主党は選挙で、無駄な予算を削減すれば10兆円くらい捻出できると明言していた。本気でそう信じていたのだろう。だが、「事業仕分け」で浮いた予算は6800億円程度で、それすらも反発されている。現実を知った今、方向を転換すべきだ。

―「無駄削減による10兆円捻出シナリオ」は、なぜ崩れたのか。

 国民の誰にとっても無駄、明らかに必要ないという予算は、非常に少ない。高級官僚が天下った先で、社会的に意味のない仕事を行っているケースがその典型だろうが、そうした過剰な人件費・福利厚生費を全部削っても数千億円程度にしかならない。だから、“無駄を削る”という言い方では大胆な予算の再構築はできない。

 “無駄削減幻想”に囚われていたのは、国民も同じだ。自民党は民主党を批判して、予算の無駄を削ってもまとまった財源など捻出できないと真っ当なことを言っていたのだが、国民は信用しなかった。無駄を削りたくない自民党の自己弁護にしか受け取らなかった。だが、もうわかっただろう。 

 10兆円規模で予算を新たに捻出するには、政策に重要度の優先順位を付け、下から切るしかない。優先順位は相対的比較だから、順位が低くても必要だと欲している人がいないわけではない。だが、痛みを我慢してもらうのだ。


井堀氏は「子供手当て」自体を否定しているのではなく、民主党の財務状況に関する認識を危惧しているのであるから、この題名は編集者による意図的な誇張であり、いささか頂けない。
井堀氏の主張は、厳しい財政状況を踏まえた上で政策はパッケージとして提示されなければならないというもの。
彼は財政状況が厳しくなかったら子供手当てに反対しないだろう
政策の実現にはトレードオフがあるということを財政の観点から述べているのである。
これは当Blogの主張と全く同じである。

たぶん、一般の方は「子供手当て」を勘違いしたままだ。
繰返しになるがまた述べよう。
所得制限を設けるなら"今の"子供手当てはやめて、"新しい"子供手当てを創設したらいい。
途中で政策目的を変えるのは絶対にやってはいけない。
手戻りで遅れが生じるが、原点に戻って政策目的の策定からやり直す。
これがどの分野でも重要。
民主党はこのプロセスを踏み外してはいけない。
いつも政策目的を後付けにし、また無視して自滅した政権を見てきたのなら、多少面倒であっても、原理原則に忠実にあるべし。

「指導力」は「リスク」と同意

2009-12-21 19:48:07 | 政治
各社世論調査の結果によると、民主党の支持率が落ちている。
主な原因は「指導力不足(リーダーシップ不在)」だそうだ。

なるほど。
いつの時代も人はリーダーを求める。
そして日本人が求めるリーダー像というのは、公平で、みなの模範となり、未来を見通すビジョンを持ち、信念を貫き、己の危険をかえりみず決断をする全人格的な人物だ。
そして、皆さんの目には「鳩山首相は決断力がない。」と映っているようだ。
実際、私も鳩山首相には戦略の無さを感じている。

しかし、あえて、ここで皆さんに注意を申し上げる。
私には「決断力がある」という言葉の定義を、皆さんは狭く捉えているように感じる。
これはとても危険なことである。
というのは、「決断」という行為は「可能性を限定する」という意味だからである。
そのことを理解した上で誰かに「決断」を迫るのはいいが、「可能性を限定する」リスクを踏まえずに誰かに「決断」を迫っているとすれば、それは危険な猛獣「リスクの尾」を踏む行為に等しい
その点に注意しなければ「そんなつもりはなかった」などという言い訳を後で聞くことになる。


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何かを「決める」という行為は何かを「諦める」ということと同義語である。
なぜなら、諦める必要がなければ、決める必要がない。
AとBのどちらも選べる状況で、Aを選ぶということは、Bを捨てるということだ。
例えば、「この景色は綺麗だね」というのと「こんな真っ赤に染まった紅葉ははじめて見た」というのでは意味が違う。
前者は色や形について言及していないのに対して、後者は色や対象をより具体的に限定している。
前者の方が相手側に様々な想像を可能とするが、漠然としていて相手に意図を伝えられない可能性がある。
一方、後者は何がどう綺麗なのかを特定しているため相手の想像を引き立てる効果は低いが、相手とより強い共感を共有できる可能性が高い。
前者ではなく後者を選ぶとすれば、それは意図的に可能性を特定して(つまり他の可能性を捨てて)自分の意志をより具体的に相手に伝えることを選んだということだ。
普段我々は、どこまで決めて、どこまで決めないか、というバランスを意識的にも無意識的にも選択している。
その時々で使い分けているのだ。

これはいつも言うように、この宇宙において相対性から逃れることができないということと同意である。
全ての価値判断が相対的だからである。
相対的ということは、一方の可能性を肯定するために、一方の可能性を否定するということに他ならない。
この相対性がなければ我々は価値判断ができない。
-<>-<>-<>-<>-<>-


この辺りを内田樹が説明してくれている。

及び腰ストラテジー(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/12/19_1142.php


普天間基地の移転問題がなかなか解決しない。
問題がなかなか解決しないのは、誰もが満足できるソリューションが存在しないからである。
当たり前のことを言うな、と言われそうだが、「誰もが満足できるソリューションが存在しないとき」に「早く、誰からも文句のでない決定を下せ」と言い立てるのはあまり賢いふるまいとは思えない。
「できるなら、しているよ」
ということである。
「先送り」というのはひとつのアイディアである。

[中略]

国際関係は複雑な要素の絡み合いであり、どのような外交的難問にも「一般解」というものは存在しない。
そのときは罵倒されたが、後から考えたら「すばらしい決断」だったと言われることもあるし、そのときは絶賛されたが、後から見たら「希代の愚行」だと評価されることもある。
アメリカは飛び地のアラスカ州を1867年にロシアから720万ドル(1平方キロあたり5ドル)で購入した。
当時、交渉に当たった国務長官スワードは「巨大な冷蔵庫を買った男」と国民的非難を浴びた。
その後金鉱が見つかったら、たちまち非難の声は止み、さらにその後東西冷戦時代にはいるとアラスカが国防上の要害となった。
いま「アラスカ抜きのアメリカ」を想像できるアメリカ人はいない。
禁酒法は1919年に国民的な支持を得て成立したが、たちまち密造酒がギャングの収入源となり、警官、司法官の汚職がはびこり、1933年に廃止された。
外交的決断もそれと同じである。
リアルタイムの世論の賛否と、ソリューションの決定の適否のあいだにはあまり(というかほとんど)関係がない。


次がこの主張の本質であろう。


それは世論の形成者(ジャーナリストとメディア知識人)が「未来の未知性」を軽んじる傾向にあるからである。
未来はどうなるかわからない。
だから、とりあえず「まあ、このへんで・・・」というように政策選択においては「及び腰」になるのが正しいのである。
だって、未来にどのような意外なファクターが到来するかわからないからである。
外宇宙から致死的なヴィールスが隕石に乗って地上に墜落したが、地球が温暖化していたせいで棲息の温度条件が合わず、繁殖できずに死に絶え、おかげで人類は生き延びた・・・というようなことだってあるかもしれない。
いや、ほんとに。
「人生万事塞翁が馬」である。

[中略]

だから、「これが最適解です」と胸を張って政策を提言するのは止めた方がいい、と申し上げているのである。
それはその政策が間違っているからではなく、「そこそこまとも」な解であったかどうかは「蓋を開けてみないとわからない」からである。
だから、「なるべく蓋を開けるのを遅らせる」というのは、とりあえず政策決定に際しては、「しばしばそれによってこうむる損失の方より、それによって得る利得の方が大きい」ソリューションなのである。
だから、鳩山首相も「のちほど最適の政策を提出します」など未練がましいことを言わず、「何が最適解だかぜんぜんわからないので、とりあえず先送りして、もうちょっと様子を見ることにしました」ときっぱりとした「及び腰」を示せばよろしいかと思う。


我々はいつも強いリーダーを求めるから「決断できない宰相」を嫌う傾向がある。
しかし、我々はいつも自分が求める決断に責任を持とうとはしない。
あくまでも決断するのは相手であり、自分ではないからだ。
クイズ番組を視聴者の立場で見ているときは正解率が高いのに、いざ自分が回答者の立場に立つと何も出てこなくなるのと同じだ。
それは問題を自分の問題として認識したとき、はじめて可能性の取捨選択のプレッシャーを認識し、決断について慎重になるからだ。
相手に指導力を求める前に、我々は指導者に何を求めているのであろうか。

天才か、蛮勇か。

過去に強力な指導力を発揮した有名人にはヒトラーやスターリン、ブッシュなどがいるのではなかろうか。

ちなみに、これは鳩山首相を擁護するエントリではありません。
いちいち世論調査で指導力不足とか期待通りの結論出して世論形成したがるマスコミのみなさんに対抗する術を国民はもたないといかんですよ。
といいたいだけです。


マスコミのモチベーションのほとんどは世論形成だろうから、別にそれが悪いというつもりはない。
マスコミは一つの権力だから、それを抑制する力が必要です。
今のところネットメディアかな。
究極的には国民一人ひとりなんだけれども。

小沢の戦略目的は自民党の兵站破壊

2009-12-21 13:04:04 | 政治

いい加減な内容ですが・・


政策の内閣一元化はどこへ?・・・このままでは政権破たん(江田けんじ)
http://www.eda-k.net/column/week/2009/12/20091221.html

江田憲司は好きな政治家の1人だ。
みんなの党には大きな期待をしている。
しかし、もう少し戦略的な政党になって欲しい。


例えば、戦争において相手の「戦略目的」を読み間違えることは、大損害、最悪は敗北に直結する可能性が高い。(運よく予期せぬ戦果を上げれることもないわけではないが)

非常に単純な例だが考えてみる。
相手がこちらの補給線を機能不全に陥れようと軍事活動を展開している時に、それを単純な戦闘行動と誤解して、相手の裏をかこうと奇襲作戦に出たとする。
奇襲作戦が成功し、相手の前線を破砕したとしよう。
その勢いに乗じて相手の本体を突き、今にも陥落かという時になって、後方で補給基地等がやられたことに気づいても時既に遅しだ。
たいていの場合、苦肉の策としてそのまま相手陣地を落として兵站を現地調達しようなどと考えるに違いないが、相手は補給機能不全を戦略目的として展開しているのだから、現地調達ができないように準備を進めているはずなのである。
かくして、戦闘勝利から一点、この部隊は窮地に陥れられる。

説明不足の上、単純化し過ぎの面もあるが、この戦闘の要点を解析しよう。
(これはあくまでも例えば話だ)

相手の戦略目的はこちらの「補給機能の不全化」であったが、こちらの戦略目的は「相手戦力の破砕もしくは相手陣地の攻略」であった。
もう少しわかりやすく言うと、相手の狙いは「兵站」という軍事作戦を継続するための条件の破壊であったのに対して、こちらは「勝つ」ことに固執したのである。
「(戦闘に)勝つ」ということが至上命題になってよいのは、「勝つ」ということが戦闘終結条件(軍事作戦を継続不可能にするための条件)になり得る、もしくはそれに繋がる時(もう一つ上の戦略遂行上有意であるある時)のみだ

この戦闘の失敗は、こちらの「勝つ」という意味の定義が狭かった(もっと広い視野で勝つということを定義できなかった)からだ。
これが結局、相手の戦略目的を読み間違えることと繋がる。
こちらが相手の戦略目的を読み間違えたのは、「勝つ」ということについて偏見を持っていたからだ。
こちらは、相手は「勝つ」ために軍事作戦を展開しているはずだと考えるが、この「勝つ」という定義が相手とこちらで異なれば、相手の戦略意図を読み間違えるのは必定だ。


さて、なんともつまらぬたとえ話をしてしまったが、なぜこんな話をしたかというと、今話題の小沢一郎を巡る一連の論評が、このような戦略目的を読み間違えていると感じているからだ。
(そもそも彼が権力だけに固執している人間なら自民党を離党する必要がなかった)

小沢が「選挙最優先」で動いているというのは正しい認識だと思うが、ではなぜ「選挙最優先」で動いているのか、という「戦略目的」まで読み切れていないのではないか。
「参議院における民主党の単独過半数」は政権与党として最低限の目標であるのだが、実はもっと大きな戦略目的がある
小沢の戦略目的は「自民党の兵站を破砕すること」である。
これはもう何年も変わっていない。
政権与党で居座るために、つまり過半数を取るために選挙を優先しているのではない
自民党という日本の民主化を妨げてきた社会主義的政党が2度と政権与党にならぬよう、解党的ダメージを与えるために、作戦継続能力を破壊するために選挙を優先しているのである

そのためには「最善ではない政策」も選ぶし「権力構造の転換」も迫る
彼は、そのためにあらゆる手段を講じるだろう

彼の大目的は「日本の民主化」であり、それは民主党とイコールではない
あくまでも彼にとって民主党は手段でしかないのだ

そう考えると、彼の行動の全てが、透けて見えてこないだろうか。

書評という名のシーリング・シグナリング

2009-12-18 23:38:12 | TV・書籍
たまにはこんなエントリもしてみます。

ネットを徘徊していると、世の中には驚くほど読書家の人が多い。
1日1冊とか、子飼氏や勝間氏にいたっては1日3冊くらい読むとか読まないとか。
速読技術を身につけている人には可能なのかもしれないが、私には無理。
私はだいたい1週間に1本のペースで、年間20万くらい書籍代に使っている。
読書のみの時間などというものは私の人生にほとんど存在しなくて、だいたい通勤中とか何かの待ち時間の暇つぶしに興味のある本を読むだけである。
(何かを調査するために読むというのはあるけれど。)
趣味的に小説やフィクション系のものはほとんど読まない。
(最近、感性が鈍ってきた気がするのはそのせいか?)
そういえば仕事の片手間で恋愛小説でも書いてみようと思った時期もあったのだが、今は昔と言う感じだ。

そうそう、だいたい本を読む人は、自分が読んだ本を人に薦めたがるクセがある
気持ちはわかる。
自分の言葉で説明するよりも「本を読め」と言う方が楽だから。
「俺の言いたいことはここに書いてあるから。」と。
実は私もその言葉を何度も使ったことがあるし、自分の文才の無さなんかを自覚してるから、言いたいことを本で伝えようとするところもある。

だけど、こういう心理もあるかなと思う。
俺はこういうことわかってんだぜ。」と。
「この本には、こういうこと書いてあるから、勉強しておいた方がよいよ。」
というなんとなく上から目線である。
いろんなBlogで書評なんかを眺めていると「良いと思うものを誰かに伝えたい」という意思の他に、「俺を決して甘く見るなよ」的な自己顕示欲を感じるのである。

そもそも、ネットで書評をするっていうのは、同級生によい参考書を薦めるのとはワケが違う
ほとんどの場合。仕事としてやってる人は除いて。
相手が求めてもいないのに薦めるのだから

たぶん、ネットのように不特定多数の人間と、しかも属性情報がかなり少ない中で接する可能性のある空間では、自分がどのような人間なのかを宣言することがシーリングの意味でもシグナリングの意味でも有効だからだと思う。

だから、「俺は普段難しいこと考えてんだぜ」的な人は難しい本の書評を書いてたりするし、特定の分野のマニアなら、その分野のマニア本の書評を書いていたりする。

もちろん、みんながそうだとはいえないけれど、なんとなくネット上の書評ってシーリングとシグナリングの意味があるのね。
と思ってしまうのである。

そう思うから、私は書評をしていないのである。
でも、やっぱり薦めたくなるんだよね。

ブログ近況報告(2009/12/18)

2009-12-18 19:42:34 | ブログ情報(News Release)
先週末からエントリを量産しました。
政治ネタの連続で、しかも根本的ネタが多かった気がします。

民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/31bed38fcbb14bc66063673dc77e0c53

我々が手にしたのは「政権交代」ではなく「民主主義」である
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/dfe970736075ccb96e27ee4328d9528c

本質の時代
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a70c817d14aa252b4645d7fd93ee65ae

政治を直視する勇気が必要(政治とはトレードオフを前提とした調停システムに過ぎない)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/b30cf6d356e6068c87b065f9eba91cd6

民主主義についての補足
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/22b3b9c2b4ed6ea4ed998503ba13cfce

力はまず己を制するために、次に人を制するために使え。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f491cc508cf1a9325e93a0536129a716

やはり小沢は日本政界において数少ない民主主義者だ。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/912c061c8c1ccd11581da0d3f80232c5

子供手当てに所得制限をかけてはいけない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/adec27a471fb28d74f21bcb6a9a6bb8d

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 補足
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c3c4c230b96145bc5926e4de370a6d6b

「菅vs竹中」論争を支持する
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/afe57012a74b1f109db3892965c837cc

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 再補足
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0bd1cd9d2c864da33d8c2119a25a2690

これまでは夜中しかブログ更新ができなかったのですが、ついに禁じ手を使い始めたため、日中に更新可能になりましたが、来週以降は量産できるかわかりません。

しかし、アクセス数が少し伸びたわりにコメントが少ないのが残念ではあります。
皆様の温かいご支援とご助力をいただけますよう、今後ともよろしく申し上げます。

とりあえず寝不足です。
当Blogの特徴として日曜日のアクセスが極端に少ないという傾向がありますので、週末更新するかは未定でございます。
(みなさん職場や学校からアクセスしてくださっているのでしょうか。)