進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[つぶやき] 格付け

2011-01-29 08:52:12 | 政治
今、話題のブログ。

格付け(菅直人)
http://www.n-kan.jp/2002/05/post-1294.php


2002年5月31日 00:00 :  日本の国債に対するムーディーズの格付けが二段階下がった。景気回復が見込めず財政悪化に歯止めがかからないと見られた結果。日本の国債はほとんどが日本国内で消化されその多くは銀行が買っている。通常なら格付けが下がれば国債も下がるのだが銀行は資金運用先が国債以外に無いため、国債の価格が下がらないという奇妙なことになっている。外国に資金が流出し始めれば一挙に国債は暴落する恐れがある。能天気な総理や財務大臣には分かっているのだろうか。


2002年のこととはいえ、同じ人とは思えないですね。。
つまり、この文章は本人のものではなく、政策秘書か誰かの文章と思われます。
そういう国民ウケすることなら中身にかかわらず利用しようという心意気がよく見えます。
言葉に説得力がないのは昔からなわけです。

[つぶやき] 政治的な景気が悪いよね

2011-01-29 01:07:23 | 政治
消費税増税よりもシュウカツ改革が日本経済にとって重要な理由(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1213974.html


なぜ消費税増税が重要でないか。そもそも重要でないというより、今は増税すべきではない。その理由は景気要因ではない。日本の景気は今はいい。世界的な好況を受けて、景気はいいのだ。今が悪いというのなら、今後はさらに悪くなるだろう。財政は世界的にも日本においても、タイトにならざるを得ないし、金融も引き締めに向かうのが世界的な趨勢だ。財政危機が当然今年のテーマとなる。

だからこそ、消費税増税を、という議論が経済学者的には当然で、良識ある学者、エコノミストは消費税に賛成すると思われがちだが、私は反対だ。

理由は、政治的な“景気”が悪いことにある。

日本の税収水準は低い。対GDP比でみると世界のいわゆる成熟先進国中では最低水準だ。だから、増税の余地が有り、もちろん増税するべきだ、という議論となるだが、これは税水準が低い理由をわかっていない議論だ。

ハーバードのshleiferらの研究によれば、税収の水準は国民の政府への信頼度と相関していることが知られている。これを日本に当てはめれば、日本は政府への信頼がないから、政府は増税できないということになる。

これは現実の感覚とも非常に良く合う。実際、日本では、制度改正を伴って、増税を行ったことは戦後一度もない。要は、高度成長に伴い、名目所得水準の上昇にのっかり、所得税の累進構造を利用して増税できただけのことなのだ。消費税導入時も、引き上げ時も、ネット減税で所得税減税とセットで、しかも、減税先行で行われた。

これは国民が甘えている、という議論もできるが、それを説得できない政府に責任があると見るのが普通だろう。その理由は、政府にお金を預けてもどうせろくな使い方をしないから、増税には反対、ということなのだ。

したがって、民主党は現在は迷走しているが、当初の事業仕分けなどにより無駄を徹底排除、その後に、年金改革とあわせて消費税議論、というのは至極全うな方針だったのだ。

それがいつからか歯車が狂い、迷走に迷走を重ね、しまいには、増税するのが責任ある政府、という本末転倒は主張を論壇に広めることに成功した。

もう一度原点に帰って、信頼できる政府を構築し、歳出を大幅カットすることから初めてもらいたい。


至極全うな意見で、みな考えていることなのに、なぜこの意見が主流にならないのかが不思議である。
いわゆる悪い均衡、コーディネーションの失敗なわけだが、原因は不信なのだ。

誰かが損をしなければならない時、人間なら誰しも自分だけが貧乏くじを引くことを避けたい。
自分だけが不利になるようなことがないように回避行動をとるものだ。
自分が不利をすることは許せても、他の不利になるべき人が不利になっていなくても許せなくなる。
そして、それを皆が考える時、誰もが動けなくなる。

この場合、信頼を集めることのできるリーダーが存在すると状況を変えることができる。
最終的に自分が損をするかもしれないが、平等に納得できる形で損をすることが担保されるのであれば、損も許容できるのである。

能力の前に、信頼できる人間かどうかが重要なのだ。

まぁ、ありきたりの話ですね。

[つぶやき] タイガーマスクの出来はなかなかのものだ

2011-01-26 09:48:28 | ブログ情報(News Release)
ね。伊達直人からの本当の贈り物は「タイガーマスク」でしょ。

タイガーマスク、実は施設の上級生 配布の菓子貯め贈る(asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0124/TKY201101240265.html

奈良県天理市の児童養護施設で、幼い子どもたちが暮らす棟の前に菓子や文房具が置かれているのが見つかった。漫画「タイガーマスク」の主人公「伊達直人」などと署名が入った手紙も添えられていた。菓子は施設内で以前に配られたもので、文房具に書かれた元の持ち主の名前も丸見え。施設内の子どもたちが下級生たちを思ってのささやかな贈り物とわかった。

 この施設は天理養徳院(中島道治院長)。親に虐待を受けるなどした2~18歳の子どもたち71人が暮らす。

 2~6歳の16人が暮らす「梅・桜棟」の玄関前で贈り物が見つかったのは20日朝。菓子や絵本、定規や三角定規などの文房具が置かれ、添えられた手紙にこう書かれていた。「天理養徳院(梅・桜様) 私は、この部屋にたくさんの小さい子どもたちがいると聞いてやってまいりました。テレビや新聞などで私もやってみたい、役に立ちたいと思って、持ってきました。これからもおガンバリを 伊達直人(タイガーマスク)4人、伊達直子1人 中1 2人、小6 2人、小5 1人」

 「梅・桜棟」の名は施設内の子しか知らない。手紙の文字は幼さの残る小学校高学年か中1くらいの文字。菓子は少し前に施設内で配ったもの。修正液が塗られた定規を裏返すと、施設で暮らす年上の子の名が透けて見えた。

 4日前の16日、同院には別の「タイガーマスク」が現れていた。中学2年生の女子生徒が母親と施設を訪れ「自分も施設へ寄付したい」と、名乗らないままポチ袋に入ったお年玉4千円や文房具、菓子を置いていった。

 中島院長は「同じ年ごろの中学生の行動に触発されたのでしょう。他人の分を奪ってでもたくさん食べたい年ごろの子たちが菓子を食べずに取っておき、小さな子にあげる優しい気持ちを育んだことがうれしい」と話している。

 この話は、茨城県で開かれている日本教職員組合の教育研究全国集会の分科会で披露された。(増谷文生)

[つぶやき] 社会的責任は国内だけに適用される概念ではない

2011-01-24 23:52:07 | 経済
たまたま気になったから取り上げるのですが、批判したいわけではありません。

大企業神話から目覚めよ、学生諸君(木走日記)
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20110124/1295850984


 シャープの会長が「電機業界は日本のウエートをどこも5分の1ぐらいにしか考えていない。海外進出を進める限りは雇用も5分の1になる」と宣ったそうであります。

 さらに塩野義製薬の社長が「国内に雇用を残すなら国際競争力のある分野しかないが、研究開発減税を減らされると『研究も米国で』となる」と駄目押しの発言。

 このシャープ会長の「日本で雇用、5分の1」発言ですが、ちっとも「目の付け所がシャープ」じゃないですね。

 この国のことよりも会社のこと中心でしか考えていないのでしょう。

 どうにも最近、経団連などの法人税減税要求など大企業トップの欲むき出しの発言が続いていますが、国を憂いての発言というよりも、欲望の赴くままの発言に聞こえてしまいお下品で嫌になります。

 企業の社会的責任、CSR(Corporate Social Responsibility)は、どこへいったんだ?

 企業は、利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をするんじゃないのでしたっけ?

 そもそも日本の商いは、江戸時代から一人で儲けすぎない奥ゆかしさ、耐えず社会に還元する視点を持つ伝統があったはずです、シャープも関西企業のはずですが、有名な近江商人の家訓「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神はどこへいったのでしょうか?

 これじゃ、売り手(シャープ)は精神が悪く、買い手(海外しか見ていない)も悪く、世間(国内の景気と雇用)にも最悪、という「三方悪し」じゃないですか。


リンク先のブログ主さんが何ゆえここでCSRなんて言葉を持ち出したかは不明ですが、「CSR」はそんなに都合のよい言葉ではないです。


企業は、利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をするんじゃないのでしたっけ?


これを言うのであれば、シャープの会長が言うように、事業の80%を海外で展開するのであれば、その会社はそれ相応分の社会的責任を海外で持つわけですね。

逆に考えてみてくださいよ。
例えば、ある米国の会社が日本で事業をして、莫大な利益を上げたとします。
しかし、その企業は本社を米国において、日本には小さな支社があるのみです。
その会社は日本国内にてほとんど雇用を生み出していません。

どう考えますか?
利益ばっかり収奪しやがって。と思いませんか?
海外で事業活動をする日本企業は、海外における社会的責任を負うべきでしょう。
それとも海外を日本人のためのマーケットとして扱えという主張なのでしょうか。
ナショナリズムを大切にする人々にはそれでいいのかもしれませんが。

まぁこれは極端な話なのですが、社会的責任というのはセンチメンタルなお話ではないのです。
もともとCSRを言い始めたのはドラッカーだといわれていますが、ドラッカーが企業の社会的責任を言い出したのは、企業が社会があってはじめて存在できる社会的機関だからであって、道徳心にのみ訴えるものではないのです。
組織社会の到来という社会の構造変化をいち早く見抜いたドラッカーゆえの慧眼であると思います。

グローバルな社会で生きるために、グローバルに人材を獲得していく。
当たり前の話のように思えますが、そうではないのでしょうか。

伊達直人からの本当の贈り物

2011-01-22 02:29:48 | 社会
「タイガーマスク現象」と呼ばれる社会現象が起きている。
この現象は概ね好感を持って受け入れられ、連日マスコミは大絶賛の嵐である。

マスコミが取り上げれば取り上げるほど現象は拡散すると思われるが、
そろそろ悪ノリする輩が現れたり、
児童養護施設への浅い理解(※)の元での寄付活動に対して批判する輩が現れたりして
どこかで下火になると思われるが、
(マスコミにそういった批判を放映するだけの勇気があるとも思えないが)
これはブームに付き物のアンチと冷や水であるから問題にする必要はない。


全てとは言わないが基本的に経済的に窮乏している施設ではない。

それよりも、私はこの「タイガーマスク現象」を違った視点から見ている。
書くのが面倒だったのでネットで同じことを主張する論客が現れるのを待ち、
そこにリンクを張ろうと思って静観していたのだが誰も書かないので自分で書くことにした。
(気づいていないだけかもしれないが)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


私は、このニュースをTVで見た時に率直に驚いた。
最初に伊達直人を名乗ってランドセルを寄付した人が一体何を考えたかを知る術はないが、
この寄付行動が日本に与える影響(その後のタイガーマスク現象)を即座に理解することができた。
さらに言えば、もし最初に寄付行動に出た人が、
私の考える理由によって「伊達直人」を名乗ったのだとしたら、
その人は非常に頭が切れ、そして日本の本質的な問題を見抜き、
何よりも日本のことを愛情を持って見ている人に違いない、と思った。
(単に私の勘違いかもしれない。)

伊達直人が"日本人"に贈ったもの。

それは「タイガーマスク」である。

タイガーマスクは覆面レスラーである。
タイガーマスクが伊達直人である必要はない。
だが、伊達直人はタイガーマスクになるのだ。
タイガーマスクを付けた時、人はタイガーマスクになれるのである。

マスコミでは下記の言説がたまに流される。
児童養護施設の関係者や、そこで育った子供たちの意見としても。


「悪いことをしているのではないのだから、実名でよいのではないか」
「匿名社会から実名社会へ」


ことの本質を全く理解していない。
タイガーマスクがあるから、伊達直人が現れるのだ。

なぜ日本では2ちゃんねるがアクセス数を集めるのか。
それは匿名(無名ではない)というマスクがあるからだ。

匿名という隠れ蓑に隠れているのではない。
むしろ仮面(ペルソナ)である。
仮面を付けることで、日本人はその人になるのだ。

単に自己アイデンティティがないのではない。
仮面を付け替えることで自己アイデンティティを変化させることができるのだ。
潜在的自己をどのように表出させるかという問題である。
菩薩の顔が幾つもあることが許される国である。
宇宙・自然は多様であり、また人間の有様も多様なのである。

神様とは何で、宇宙とは何で、
人間とはこういう形で、こういう意味を持って、こう生きるべきで、
そんな自己アイデンティティには固執しなかった人々も世界には大勢いるのである。
むしろ我々が近代文明だと思っているものは地球規模で見れば小数派である。


伊達直人が日本人に贈ったもの

それは、タイガーマスクである。

日本人の潜在的な力を引き出すために

日本の壮大なる自己矛盾

2011-01-18 10:13:58 | 社会
役人というもの 政策のあり方との関係(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1174425.html


役人が権限を欲しているというのは大きな誤解だ。役人とはむしろ権限を持つことを嫌がるのであり、役人から権限を奪うことが行政改革ではなく、役人に責任を持って権限を持たせるのがポイントなのだ。

役人とは、世間やメディアのイメージとは違って、権限を振り回したり、権限を獲得することを最優先にして仕事をしていたりする、ということはない。むしろ逆に、責任を負わされるのは嫌だから、なるべく不必要な権限は保持したくないのであり、実施が面倒な法令は嫌で、自由にやってもらいたいのだ。

だから、自由にやられたらほかの住民から苦情がくるようなことは起きてほしくなく、そういう場合に、何でも禁止してしまえ、と言うことになり、実施しやすいルールを作り、それに当てはめて、自分で判断、解釈して責任を追及されないように、ルールどおり運用していますと言えるような制度を望むのだ。

ここにこそ、官僚主導の最大の弊害が生じる。個別に実際に監督、検査して判断するべきことをしなくなり、最適な資源配分を実現するための社会システムデザイン、経済政策が実施されなくなるのだ。

これが役人は責任を取れない、ということの真の問題点である。

きちんと社会として望ましい形に地域や経済を持っていこうとするならば、その姿が実現できるように直接的に誘導する必要がある。その中では、個別に誰かが適不適を判断しないといけない。そこは争いになるから裁判か調停組織が必要となるし、そもそも監督、調査には手間隙と技術が必要だし、何より、責任を持って自分で判断する、というガッツが必要だ。

実は、これは日本の多くの大組織に掛けており、個人では能力もあり、大きなヴィジョンを語っている中間管理職が、実際の判断はすべて上にあげるということになり、ガッツのない上は、すべて下に個別の判断は任せてあると逃げ腰である。

これが日本総無責任体制の根本的な理由である。


激しく同意する。
日本に欠けているのは、この「責任」に対する認識なのだ。

今、日本を閉塞する問題の根本的原因は何か。
それは「責任」が存在しないことに他ならない。
日本的空気の問題とは「国民の総無責任化」にあるのだ。

当Blogで何度も繰り返した内容だが、ここでまた述べよう。

近代に入って日本は何も考えずに「社会」と「個人」を輸入した。
西欧的近代社会観の輸入をしたということだ。
だが、もともと日本では「社会」や「個人」などという発想が希薄であった。
個と個が溶け合った「和」があった。

我々が「社会」や「個人」を語るとき、
あたかも日本に当たり前のように存在しているモノとしているが、
実は「社会」も「個人」も日本には存在していない。
存在していないのに、存在しているという前提で話を進めるから、何もかもおかしくなる。
だから日本人は「権利」の概念も、「責任」の概念も「民主主義」の概念もいまいち理解できない。
それらは「社会」と「個人」を前提とした話だからだ。

しかし、われわれ現代人はこの問題をいつまでたっても直視しようとはしないのだ。
理想を前提として話をする前に、
自分たちの置かれている現実を率直に受け止める覚悟が現代人にはない。

なぜなら、自分を自分たらしめるアイデンティティを
近代的社会観を持ち出さずして語ることができないからだ。

つまり、自己アイデンティティを確立するために近代社会観に依存するが、
その一方で、そうした近代社会観が自分たちの現状と合致していないことも
また無意識的に自覚している。
それが日本人のチキンレース(責任回避衝動)に繋がっているのだ。

ここに、日本の壮大なる自己矛盾が存在する。
日米安保に問題の根本を帰着さえている論者も多いのだが、
そこは派生的問題にしかないと私は思っている。

今時間がないのでつづきはまた。

[つぶやき]ノンアルコールビールの意義

2011-01-15 11:02:27 | ブログ情報(News Release)
人がノンアルコールビールを飲む意義はどこにあるか。
これである。

「想像上の行為」も現実的影響:食べ物で実証(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201101/2011011321.html

ビールであるとしてノンアルコールビールを飲めばそれはビールなのである。

それとして存在するように行動すれば、それが現実となる。

この宇宙の奇跡

「責任」とは何か?

2011-01-07 21:08:25 | 哲学・思想
アクセス数が増えたので、久しぶりの責任シリーズ。
(思えばブログ発足時はこんな話題ばかりであった)

この世界で「責任」という言葉を正しく理解している人は稀である。
それは、権利でもなければ義務でもない。

「そうでなければならないという認識」である。

「認識」なのである。

簡単に言えば「やらなければ!」「やるしかない!」こういう考えのことである。

世に言う「責任を取れ」などという言葉に意味はない。
なぜなら、責任を取って辞任したり、賠償をしたりしても問題は解決されないのだから。
事後的な方策によって本質的な問題は何も解決しない。

責任というのは"事後"のものではない。

"事前"のものなのである。

それでも我々が事後的な罰則を規定したがったり、
報酬によるインセンティブを与えたがるのも、
事前に責任という認識を持たせたいがためである。
結局、我々はいつも何らかの方法で、
人々に責任を認識させたいと四苦八苦している。

では、「責任」を得る、与えるために必要なことは何か?

それは「理解」である。
「理解」の存在しないところに「責任」は存在し得ない。
なぜなら、責任とは認識のことであるからだ。
認識は理解がなければ存在し得ない。

だから、言葉だけで、ルールだけで、契約だけで「責任」を負わせても意味がない。
本来の意味を失っている。
ただ、負荷を負わせることによって理解が進み責任感が増すことはある。

これは「視点」の問題である。
理解をするためには視点が必要であるからだ。
負荷を負わせる、つまりある立場を人に与えると人は変わる。
責任感をぐっと持つ。
それは、立場が変わることで「視点」を得るからである。
視点が変われば見える世界が変わる。
より多くの視点を持つ人は、より多くの責任を認識するであろう。

では、「視点」を得る、与えるために必要なことは何か?

それは「信念」である。
目の見えない人に、視点を与えても無駄である。
しかし、信念は人に与えることはできない。
自らによってしか得ることができないもの、それが信念である。

つまるところ、「責任」を人に与えることはできない。
「責任」とは、自分でしか掴み得ないものなのである。

では、「信念」を得るためにはどうすればよいか。

それは「経験」である。
人は自分という「経験」を通してしか「信念」を得ることはできない。
だから人は、ゆっくりながらも着実に、スパイラルして進化する。

ゆえに人は生きる。
生きるということでしか「経験」を得ることはできないから。

よって、生きるということからしか「責任」は発生しない。

我々にできること。
それはまず、生きるということ。
生きることに命をかけること。
だから人類は生きることが苦しいながらも集団自殺をしない。

それが人間にできる唯一の道だからだ。

「責任」

この言葉を再発見することが、何よりも重要だ。

無縁社会にならないために今こそ「責任」という言葉を再発見せよ

2011-01-07 15:50:00 | 社会
同期への最後の年賀状(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51660321.html

「誰だって自分のこと以外は真剣に考えない」

からこそ、「責任」という概念があるのです。
他との関係性の中でこそ自己を発見できるゆえに、
達成したい目的(存在したい自己)があるのであれば、
責任という関係性を確定するものが必要です。

ドラッカーのいう組織社会の文脈で言えば、
組織における「責任」を通してこそ
人は社会(組織は社会的機関)との繋がりを獲得することができるし、
コミュニタリアニズム的文脈で言えば、
コミュニティにおける「責任」を通してこそ
人はコミュニティとの繋がりを獲得することができます。

国家・社会を考える(肯定する)時は、
我々は国家・社会にどのような目的を託し、
それゆえに国家・社会に対してどのような責任を負わすべきであり、
そして、そのためにどのような権限を持たせるべきか、
責任と権限のバランスは適切かなどを議論すべきなのです。

何度も述べるように、
日本の空気の問題は責任の真空化であり、
過去においては意味があったのです。

責任を用いて関係性の中で自己を明確化する必要がありません、
自己は和に溶け込んでいるのが和の文化であるからです。

これが海外から輸入した近代社会と融合し切れていないと思います。
社会だけ入れたから結果として総無責任化が起きているのだと。

国家・社会を語らないのであれば、責任の話をする必要はありません。
ただし、国家や社会の規模で個人や自己なども語らぬことです。
そういう社会ではない社会を目指すのも、衰退の選択肢としては有り得ると思いますが。

ただ私は、組織社会を否定して残るのは個人主義ではなく全体主義だ
というドラッカーの意見に賛成します。
それは、現代社会(知識産業社会)において何かを成し遂げるためには、
組織の力なくして有り得ないからです。
中間集団から個人に分割された人々は、
結局「公」という権力にすがらざるを得なくなり、
そして責任を超えた権限の暴走を許容せざるを得なくなるのです。

小泉進次郎氏が「自助、共助、公助のバランス」と言っていたが、
人々を無縁にさせないために、今「責任」という言葉を
「自助、共助、公助のバランス」感覚を持って人々に投げかけるのです。
責任を負わせることで、人々は無縁ではいられなくなる。
この先に共生社会も見えてくるものと考えます。

ちょっと最後は適当ですが、以上です。

AKB48という破壊的イノベーション 第3話 ~グローバルローカライゼーション~

2011-01-06 19:37:54 | ビジネス
久しぶりのAKB48シリーズ。

AKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48(よそ行きの妄想)
http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20101230/1293682544


証券化商品と比較してAKB48に足りないのは保証会社による保証くらいのもので、それさえあれば前田敦子や大島優子にはJCRくらいであればAAA格が付き、農協あたりが間違えて投資してしまうだろう。


思わず吹き出してしまった。
いいギャグだ。


CDO48
このように考えると、AKB48関連ビジネスの次の展開も自ずと明らかになる。

いま、AKB48に続きSKE48やNMB48などの類似商品が次々とリリースされているのは、単なる2匹目のドジョウ狙いではなく、明らかに次の展開に向けての布石である。次の展開とは、他でもないCDOの組成だ。

AKB48やSKE48、NMB48などの各チームからメザニントランシェ的な微妙なメンバーを寄せ集めた新チームを組成し、さらに分散されたポートフォリオを演出するのだ。新チームの名前は是非CDO48にしてもらいたい。CDO48でも当然貢ぎ物によるランクをつけ、そこで1位になったメンバーについては、ナンバー1としてそれなりに売り出す。するとどうなるかというと、完全にイマイチだった女の子が、結果的にトップアイドルに変身することになる。

これはリスクロンダリングならぬ、アイドルロンダリングなのであって、まさに現代の錬金術である。米金融業界が狂乱したこの素晴らしい仕組みを応用し、全部自分の懐に入れてしまおうというのだから、秋元康氏のマネタイズ・パワーには心底感服する他ない。


実は、このCDO48の発想はハロプロで既に実践済みであり、新しいものではない。
複数のグループから特定の軸でメンバーを抽出して期間限定グループなどで売り出す。
人気者同士をグルーピングしてもよいし、
身長の小さい者同士や、ロリータ軸でグルーピングしてもよい。
様々な組合せが可能だ。

さらにいえば、都合よいペルソナみたいなもので、普段とは違う顔をすることが許される。
例えば、いつもはカッコよさで売っているグループを可愛さで売るなどだ。
母体となるグループではできないことが、違うグループでは実行可能であったりする。

さらにさらにいえば、人気グループと未認知グループを組み合わせての広告効果も期待できる。

ただ、AKB48でこのCDO48を実践することによる意味は、ハロプロで実践するよりも大きい。
それはリンク先のブログでも述べられているように、AKB48にはランキングシステムが存在するからだ。
これこそがAKBビジネスモデルの中核であり、CDO48の成功の秘訣でもある。
AKBビジネスには保証会社の保証は必要ない。
ランキングシステムがあるからだ。

そういう意味で前から述べているように、
AKBビジネスモデルはこれまでのアイドルビジネスをよく研究した結果なのであり、
アイドル業界におけるイノベーションなのである。

ちなみにSKE48にしろNMB48にしろ、このビジネスの特徴は、
SKEは栄、NMBは難波、という地名に由来しているところからもわかるが、
グローバルローカライゼーションの実践なのである。
AKBビジネスモデルを地域ごとに適応しているのである。

海外展開にしても、秋元康氏はAKB48を展開しようとしているのではなく、
AKBビジネスモデルを展開しようとしているのだ。
これは、料理の鉄人の番組モデルを海外輸出するのに似ている。

あけましておめでとうございます 2011

2011-01-05 12:39:34 | ブログ情報(News Release)
遅くなりましたが、

新年あけましておめでとうございます。

昨年は、私事都合により10月頃から更新が低調になりました。

今年は、プライベートな面でさらに大変になることが予想されるのでありますが、

できるだけ本Blogの更新に力を入れていきたいと思っております。

よろしくお願い申し上げます。


それにしても、更新を怠っていたにも関わらず、

毎日一定のアクセス数が維持されており、非常に驚いております。

相変わらず200円を払わないせいでアクセス解析は出来ないので詳しいことはわかりませんが、
(gooブログがセコイのである)

アクセス数だけで傾向を見ると、土日祝日、および盆や年末にアクセス数が少なくなる現象が見て取れます。
(なぜか年始は多かった・・Googlebotか?)

ということは、みなさんご家庭ではなく、学校や会社からアクセスされているのかと推測しますが、

それにしても多くの方に読んで頂きありがたい限りでございます。

今後も、弱小ブログとして細々としながらも、しかし言うことは大きくという姿勢でいきたいと思います。
(たいして影響力もないですが)

また、コメント、トラックバックは当Blogのプリンシパルに反しない限りフリーでございます。

お気軽にして頂けると嬉しいです。

以上です。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

グルーポンおせち問題の雑感

2011-01-05 12:26:51 | 経済
グルーポンの割引で買ったおせち料理が酷すぎワロタwwと話題に(アルファモザイク)
http://alfalfalfa.com/archives/1852782.html

グルーポンのおせち問題が話題になっているようだ。
ちょっとこの話題に乗ろうと思う。
(別にどうしても言いたいことがあるわけではない。)

最近WikiLeaksやYouTubeに関する話題がメディアの在り方や論壇を変えると盛んだが、
日本における2ちゃんの威力は強烈だなと改めて感じ入りさせられた。

リンクは張らないが、中にはバードカフェのゴミを漁って、
具材の発注書を見つけて2ちゃんで暴露するものまであった。
既存のマスメディアには絶対に乗ってこない情報だ。
そして、ネット上の情報が即時的に収集、公開されてしまうという荒業。

既存マスメディアがこの時勢にも関わらず自らの醜態を曝すように
政局一辺倒になるのもわからんでもない。
もはや、その類の情報しかマスコミが優位性を発揮できるものがなくなってきているからだ。

まぁ、マスコミ論はここでは横に置いて、このグルーポン問題について私見を少し述べてみたい。

まず、食品業界関係者からすれば、こういう事件は困るわけだ。
これは、事実がどうかとは関係なくイメージ問題は大衆商品には付き物である。
そういう観点から考えれば↓な議論は正論であり、うなづけるものだ。

全然違うよ、堀江さん (はてな匿名ダイアリー)
http://anond.hatelabo.jp/20110104091443

最近では問題が発生すると、すぐにコンプライアンスという御旗の錦の下に大規制が行われる。
結局、それらは企業側のコスト増となり、消費者にとっては品質低下や価格高騰という結果になる。
関係者からすれば、一握りの業者のためだけに、そのような事態を招くことは避けたいのは当然だ。
しかも、それが過失ではなく故意であればなおさらであろう。

この問題は、リーマンショックで有名なあの金融信用不安と似たような構図なのである。
数多くの饅頭の中に毒饅頭が混入した場合に、どうやって信用不安を解決できるかという問題である。

最も単純で確からしいが、最もコスト増となる方策は、全ての饅頭について消費者に届く前に検査することである。
こんな気の遠くなる作業はできないので、サンプリング検査になるだろう。
しかし、サンプリング検査だけで消費者が納得するであろうか。
狂牛病騒ぎの際に、日本はアメリカに全頭検査を押し付けた。
アメリカはクレイジーだと日本を批判したが、
これは消費者側の日本と生産者側のアメリカの立場の違いでもある。

しかも検査中は出荷できないわけだから、生鮮要素のあるものは商品価値を陥れる結果にもなる。

ただ、サンプリング検査では本質的な問題を解決できないと判断されるのが通常で、
生産者側での品質管理を徹底させるというのが一般的に考えられる方策だろう。

企業側では、品質基準認定機関から承認を受けることによって消費者にアピールする方策がある。
行政側では、品質基準を法律で定め、違反者に対して罰則を与える方策がある。
消費者側では、品質承認を受けない企業の商品を買わないことや、
政治に働きかけて規制法律を作る方策がある。

ただ、どの方策にも
コスト増や、商品開発の自由度の低下などに繋がるというトレードオフがあるので
単純に規制すればよいというものでもない。
毒饅頭を食べることはなくなっても、饅頭の味が落ちたり、同じ味の饅頭しか店頭に出なかったり
饅頭の価格が異常に上がったりすることは消費者にとってうれしいことではないはずだ。

その観点で、もう一つ注意しておくべきこともある。
例えば、↓のBlogの内容も、また正論であり、うなづけるものだ。

おせちの裏側(京都を遊ぶ社長のblog)
http://blog.livedoor.jp/ftakahiro/archives/1399386.html

しかし、無知ゆえの失敗を許さないという姿勢もまたバランスを欠くと前述の損失を招く。
(上記ブログはおせちは大変だよと書いてあるだけです。)
今回のグルーポンおせち問題の場合は、経営者の程度が低かったのであろう。
ただ、起業や新規事業立ち上げの際には、
無知ゆえのリスクにもある程度鈍感であることは重要である。
起業の99%は失敗するのだ。
夢を見て動き、現実に苛まれて止まるといった失敗を許容できな社会は、
新陳代謝も多様性も促進されず、閉塞的なものとなってしまうだろう。

ここにも、1つのバランス感覚が要求されているのだ。

夫と親の対抗は、平等で公平な社会ゆえ

2011-01-04 00:36:42 | 社会
ちょっと面白い、というかちょっと納得しました。
ロジックにではなく、状況としてね。
日本の構造そのものをよく表している状況だし、
実際にそういう人たちが多くなっていると私自身が感じているからだ。

女の子の欲しいもの(Ohnoblog 2)
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110102/1293978579

最近、高校3年や大学4年で妊娠する女の子が増えているそうだ。その人の近所にも数人そういう娘がいて、他でもそんな話をポツポツ聞くという。

高校や大学の最終学年というと就活まっただ中の人が多い。しかしその女の子たちは、社会に出て僅かな報酬のために苦労しながら働くのはまっぴらだと思っている。そこまでやりがいのある仕事なんかないし。

しゃかりきに働きながら一生独身を通すのも、仕事+家事育児分担という共稼ぎスタイルも、どっちもしんどそう。専業もセレブでない限りつまんなそう。労働も結婚もいや。でも子供はほしい。



そこで、つきあってる男の子供を計画的に妊娠する。親バレし、就活どころではなくなり、男も外堀を埋められ逃げられなくなってでき婚。

しかし娘はその男と結婚したいのではなく子供がほしかっただけだから、数年経つと男もハメられてたことを知り、夫婦仲はうまくいかなくなって離婚。



子供を抱えて生活能力もない若い娘の生活は、当然すべて親がかりとなる。

ブツブツ言っていた父親も孫の顔を見ると娘の言うなりで、母親に至っては娘と同居し思う存分孫の面倒を見られるので大喜び。

甲斐性のなさそうな婿なんか、最初からいなくていいのだ。娘と孫さえ手元にいればいい。



こうして娘の手には、当面の楽チン生活と子供という欲しいものだけが転がり込んでくる。

父親はまだ働いているし(というかこうなったらまだまだ頑張って働かざるを得ないし)、家事は母親がやってくれるし、自分は衣食住の心配をすることなく子育てに専念できる。バツ1子供ありの親元暮らしなんて今時珍しくもないから、後ろ指指されることもない。

仕事と家事育児に追われながらの、低収入の若い男との下流生活に比べたら、天国だ。

親の資産があればもっと安泰。そのために介護を引き受けるくらい覚悟の上。夫の両親まで引き受けなくていい分、気楽。男なんかいらないのだ。使い途がなくなったら、いらない。


今後は世代に関係なく二極化が進むだろうが、
今の日本には「豊かな親」と「貧しい子供」という構図があって、
しかも、その豊かな親は若い頃に清貧に耐えて生き抜いてきた故の節約志向があり、
子供にはその親の資産を食い潰して生きてきた故の贅沢志向がある。
自立して生きる上での「資産」と「志向」のギャップを、
子供が親にパラサイトすることによって埋めている関係とでもいえるかもしれない。
で、その潤滑油の役割をしているのが「孫」なのだ。

今、豊かである親が子育て世代であった頃、
一般的に子育てに配分される力というのは今よりもずっと小さく、
その結果として、関係が良いとはいえない親子が多い。

しかし、その状況が一変するのが「出産」である。
親子ともに「孫」という存在によって一段進歩するチャンスがあるのだ。
正確にいえば、お互いの人生における着眼点が変わる大きな機会になるということだろう。

ここで女性の視点に立って、このチャンスをどう活かすかを考える。
正直に言って、配偶者たる夫と、経済的に豊かな親を比べた場合、
夫に勝てる要素があるとすれば、性的な優位性、将来的な経済的優位性、
もしくは親によって補完することができない信頼性を持つか、しかない。
もちろん男女関係上の恋愛感情が数年で低下することを前提としている。

だが、基本的に親以上の信頼性を夫が獲得することは簡単ではない。
夫と親とはスタート地点が違う。
よほど駄目な親でもない限り、夫が優位性を発揮することは難しいだろう。
そうすると、将来的な経済的優位が望めぬ夫であれば、
もはや性的な優位性でしか対抗し得ないのである。
実際には、逆の性的な優位性が存在しないパターンも多いとは思うが。

いや、「夫と親の対抗」という発想自体がおかしいのではないかという問題提起はその通りだ。
本来、立ち位置の異なるものであるから、対抗するべき存在ではない。
なのに、なぜここであえて「夫と親の対抗」を持ち出したのか。
それは、役割の異なるものとしての線引きが出来ていないからだ。

社会が平等を求める結果として、権威的な役割分担は排斥される。
フラットな社会を推進する一つの指標が経済的価値であろう。
あらゆる場面で人それぞれを平等に扱おうとすれば
当然のことながら、それを代替可能なもので全てが事足りる社会になる。
子供が欲しければ試験管ベイビーでもよいのだ。
資本主義的な言葉で語れば「分業」であろう。

これは論理の飛躍でもなんでもなく、
我々が平等で公平な社会を目指そうする結果として、
夫や親の役割分担といったものが崩壊するのだ。

世の中には、技術的にも代替可能でも、権威的に代替不能であるものは多い。
ただ、それらの権威がいつどのタイミングで崩壊するかという問題は常にある。
技術的に代替可能であれば、いずれ効率性という正義の行進を妨げることができなくなる。


昔、理不尽な子育てや、家族内のしつけ、のしきたりなどがあった時代があった。
その時代に比べれば、現代はずいぶんと平等で公平な社会になった。
だが、平等で公平な社会というのは素晴らしいだけではない。
なぜなら、平等で公平ということは、権威的な役割分担によって楽をすることができない。
ということを意味するのだから。