進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

AKB48のガーディアン

2014-05-28 02:10:59 | AKB48_オピニオン
無差別的な暴力行為に対するリスクをどう軽減するか、について私見を。

まえおきとして、警備というのは具体的なものなので、それはそれでしっかりと進めるべき課題。

ここで述べるのは、それとは別に、今後どういう方向性でメッセージを打ち出すべきかについてだ。


安全保障と同じ種類の問題と考え、ゲーム理論を基に考えると。

先制攻撃が有利な状況で相手に攻撃をさせないためには、その先制攻撃が失敗する可能性が高く、さらに確実な反撃がなされることを認知させる必要がある。

そのため常設の戦力(常備軍)の充実が不可欠(最大戦力よりも訓練され機動性を持った常備軍が重要)であり、それゆえ軍拡競争になるのであって、究極は核兵器による相互確証破壊によって平和はもたらされるのであるが・・

(もちろん国家権力によって暴力は抑制され、報復は認められていないわけだが。)

とにかく、狩猟採集民にとっての農耕民が座せる標的であったように、功撃する側からしてAKB48は座せる標的なわけだから、先制攻撃を封じないといけない。



ということで、私なら次の手を検討したい。

コストはかかるが、OJS48の専門集団化・強化・拡充だろう。

単なる用心棒でも警備員でもなく、特殊部隊のように、常設の最強エリート警備集団であるという認知を得ることが重要だ。

ボディーガードではなく、王室を守る近衛兵のように尊敬を集める存在でなければならない。

あくまでもエンターテイメントとしてこの問題の解決をはかりたいと思う。


まぁ・・そのためにはAKB48自体が高潔でなければならないのだが・・。




「常備軍は維持・運用コストが高すぎる」と指摘されたのだが、警備会社と合弁でやれば設備投資は抑えられる。
警備会社側にもプロモーションメリットがあるようにしかければいいと思う。



今回の事件について「テロ」と表現されている方がおられますが、私の認識では、今回の件では「無差別」ではあるものの「テロ」ではないです。

「無差別」と「テロ」は意味合いが異なります。

テロの場合は、既に標的になっていることを前提としなければなりませんが、

無差別という場合には、標的になることを避けなければなりません。

この本文で述べた常備軍による抑止力的な話は、テロのような非対称戦を想定しているわけではありません。

「AKB48は標的だ」というのであれば、もはやAKB48だけで解決できる問題ではありません。

やれることは城壁を作って防御することくらいです。

大組閣のメッセージは「変わらないために変わる。」

2014-02-25 14:58:15 | AKB48_オピニオン
今回の大組閣について雑感を述べます。


まず、事前に私は2つエントリを書いています。

(1)
大組閣について
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/8563d9a0d7b5f4ac130fbbd1795a6ae8


(2)
これからのAKB48の向かう方向性を示すために大組閣をする
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/27611652f45fa6f1b5417e545cf282c3


「大組閣」と聞いて感じたのが(1)。

AKB48は大組閣をせざるを得ない状況に追い込まれていると書きました。

しかし、せっかく「大組閣」をやるのだがら、この機会を活かした方がよいと言いたくて書いたのが(2)です。

(1)に近かったですね。

いや、正直に言えば、ほとんど想定通り(1)でした。

コメンテーターのみなさんも指摘しておりますが、今回の組閣案は現場のボトムから上がってきたものを基本に、後から全体的な整合をとっただけのもの、と言われるとしっくりきます。

後ろ向きなことを言っているのではなく、はじめにコンセプトありきのものではなく、必要性に応じて考案されたもの、と考えるべきものかもしれないということです。

ここは表現次第でポジティブにもネガティブにもなるところなので、言葉を選ぶのに注意が必要な部分です。

が、端的にいえば、AKB48グループが持つ各グループ資産をもっと柔軟に運用したいという「内部的」な話でした。

これは、ケイパビリティ(組織能力)を向上させ、顧客価値を高める能力を高める経営方針だと言われれば理解できる話です。


で、ここまではまえおきです。

私が(2)を書いたのは、これを機会にどういう方向性を打ちだすべきかを考えた方がいいという話でした。

それはそうです、何も意味がないのにやるわけありません。

良い悪い、意図的かどうかは別にして必ず顕在的にも潜在的にも意図はあります。

で、実際の大組閣を受けて、AKB48運営の考えるAKB48の方向性が打ち出されたと受け取ることにした方がよいです。

この大組閣に秘められたメッセージは何か?


それは、「変わらないために変わる。」ということです。


今回の大組閣で、今後のAKB48の方向性は打ち出されました。

AKB48は、これまで大事にしてきた劇場やチームといった価値観を今後も大事にするということです。

サプライズ優位ではなく、基本を大事にするグループだということです。

ただ、そのためにこれまでのグループやチームの垣根を飛び越えた運用を可能とする必要があった、ということでもあります。

その背景には、国内にAKB48/SKE48/NMB48/HKT48/乃木坂46と各グループがあって、それぞれに成長したものの、その相乗効果が思うようには得られていないというジレンマがあると思います。

パッチワーク的な増改築を繰り返し、いつやら温泉旅館のように全体性のないものになってしまい、むしろ力が分散してしまって各グループ、各メンバーの潜在性を活かせていない可能性も大いにあると考えられるわけです。

なので、今回いったん仕切り直したと。

だから前向きに捉えれば「変わらないために変わった」ということであるし、少しネガティブに捉えれば、どのようにすれば相乗効果が得られるのか、という点についてAKB48という組織は悩んでおり、その答えをいまだに見いだせていない、ということです。




私は、今回の大組閣で体制を整えたので、これでようやく次の仕掛けの準備も整ったのだと受け取るのはありだと思います。

(2)で述べたことです。

外に可能性を開いていく前に内部を固める。

今はそれです。

次回タイミングを見計らって、グループとしてコンセプチュアルなものを仕掛けてくるものと、可能性が増したと感じたのでした。

AKB48第2章がはじまるとき

2014-01-09 20:45:08 | AKB48_オピニオン
引用したスレ主さんからコメント頂けたので、前回のエントリの意図をもう少し補足したいと思います。

AKB48第2章は三銃士とチーム4が天下を取るまでの物語 ではないと思う。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/907d662829da04a37b1482bd74810365

チーム4でAKB的な成功を収めても仕方がないと思うのですよ。

まずもってそんなこと出来ないと思う。

誰が喜ぶのそんなことして?

チーム4のファン?

それって発展性があるのかね。

そうではなくて、当Blogが主張してきたのは、チーム4というアイドルでブレイクすることが大事。


↑この部分についてです。


「物語性」が重要なのは今更説明するものでもないのですが、その「物語」をどの立場で語るかによって、持っておくべき前提が変わってくると思います。

単純にAKB48ファンとして「AKB48第1章」や「AKB48第2章」といったものについて語るときには、「AKB48第2章は三銃士とチーム4が天下を取るまでの物語」と言っても特に問題があるとは思っていないです。

私は、そういう物語を語ることを否定しているわけではありません。(たぶんご理解頂けていると思いますが)

ですが、もし「AKB48という組織がどこに向かうべきか」などについて議論したいと思うのであれば、持たなければならない前提があります。


それは、当Blogで何度も繰り返している組織としての「理念」や「ビジョン」のお話です。

話をわかりやすくするために、次のようなケースを考えるとします。

----------------------------

AKB48関係者を集めて複数のグループを作ってブレストをするとします。

テーマは「大島優子が去った後にしかける新しい取り組み」としましょう。

アイディアが出揃ったら、次に何らかの手法で整理して提案としてまとめ、簡単に発表する段取りにします。

ここで、事務局が幾つかの条件を課します。

その条件の一つが、おそらくこれです。

そのアイディアの「AKB48らしさ」「AKB48がやる意味」「AKB48のどういう強みが活かされるか」を発表の内容に入れてください。

----------------------------

断言したいところです。

この手の取り組みは、ほとんど成果を上げることなく終わってしまうだろう、と。

ここに持続的に利益を上げ続けることができるビジョナリー・カンパニーと、そうでないカンパニーの違いがあるのです。

注目して欲しいのは、このやり方だと「AKB48らしさ」だとか「AKB48がやる意味」が後付けになってしまう、とういことです。

多くの人々が、新しいアイディアが組織に意味があると主張するために、無理やり理由をつけるのです。

後から。

そうすると、新しいアイディアを説明することが苦しくなるわけです。

むしろ組織が枷になってしまいアイディアをダメにします。

そして、たいていこう言い出すわけです。

「組織の中にいては好きなことはできない」などと。

こういう構造をわからないままに「組織は新しいアイディアを潰してしまう」という安直な結論に至ってはいけません。

そうではないのです。

あらかじめ組織の向かう先、ミッションやビジョンといった理念的なものが参加者に共有されていれば、「新しいアイディアが思いつく=説明するのは簡単」となるわけです。

これ当たり前ですよね。

ミッション・ステートメントというのは「この組織の存在意義は何か?」を述べるものです。

そのミッション・ステートメントの下に人々が集い組織を構築しているのなら、ミッション・ステートメントによって組織と個人の方向性が合わさっているので、新しいアイディアが今組織が持っていない強みに基づくものだったとしても、それが新しい強みになると簡単に説明できるし、それが組織にとってどれだけ意味があるか、という説明も簡単にできるのです。

これが、ミッション・ステートメントによる組織と個人の「相乗効果」コンセプトの最も単純な説明ですね。


「いい物語」というのは、組織と個人の方向性が合わさっているものです。

それは、相互干渉関係では決してなく、相互補完/相互依存関係という意味です。

個人の成長が組織の成長に繋がり、組織の成長が個人の成長に繋がるものです。


上記の認識をもって「AKB48第1章」を見ると、これまでと違った姿が見えてきます。

AKB48が認められて社会的に拡散していく(社会的な物語になっていく)過程と、AKB48コミュニティでAKB48物語が深まる過程がリンクしていたのです。

「外部に向かっていく力」と「内部に向かってく力」が矛盾せずに統合することができた。

たまたまです。

それは偶然の産物でしたが、両者の相乗効果で大きなムーブメントを生み出すことができたのです。

この構造を理解せずに、片方だけの力で「第2章」を語っても虚しい結果が得られるだけです。

「チーム4が天下を取る」という話は、「内部に向かっていく力」の話です。

あくまで「AKB48内部の物語」であって、それだけでは外部から浮いた存在になってしまうでしょう。

いま、社会的な物語になっていく「外部に向かっていく力」が求められているのです。

そのワンピースを手に入れることによって、はじめて「AKB48第2章」がはじまるのだと、私は思います。


残念ながら、今のAKB48コミュニティの中でこのトンデモ話に気づいている人は、あまりいないようです。

それが、当Blogで「理念」について語っている反主流派な人々(私含む)だけだというのが、皮肉なものです。

個人の目的として組織のフローを生み出す

2013-11-03 11:14:00 | AKB48_オピニオン
ニーチェが「神は死んだ」と結論して以来、哲学者や社会学者は存在は所詮目的を持たないこと、偶然と非人格的な諸力が我々の運命を支配すること、そして全ての価値は相対的なものであり、したがって恣意的なものであるということを証明するのに忙殺されてきた。

我々が意味を持たないというのは事実である。

しかし、そのことは生活に意味が与えられないということを意味していない。

風立ちぬ、生きねば
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/81304912bedcc89ac1e5af8f53b57041

一般に我々が文化や文明と呼ぶモノの多くは、圧倒的に不利な条件に対抗して、自分自身や子孫がどう生きるかという目的意識を創り出そうとした人々の努力の産物なのである。

生活はそれ自体としては無意味であると認識することと、その認識に黙従するということは全く別である。

我々に羽がないことは、我々に空を飛ぶことができないということを意味しない、という事実と同じことだ。


ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』、「第10章 意味の構成」から部分引用。




※部分的に言い回しや表現などを変更していますので、ご注意ください。


「目的」は個人の努力目標を方向付けるが、それが生活を容易なものにするとは限らない。
目標はあらゆる困難にぶつかる可能性を持ち、そうなると人はそれを放棄するよう誘惑されたり、自分の行為を秩序づける上でより容易に達成できるシナリオを求めようとする。
逆境に出くわす度に目標を変更することに対して支払う代価は、その変更によってより楽しく快適な生活を達成できるかもしれないが、空虚さと意味の欠如に終わりがちになる。

アメリカに最初に定住したピューリタンたちは自らの意識に従う信教の自由が、自己の統合を維持するうえで必要であると決意した。
彼らは超越的な存在と自分との関係を維持しておくこと以上に重要なことはないと信じていた。
彼らの決意は、他の多くの人々もそれまでに同じことをしてきたのであるから、生活を秩序付ける究極の目標の設定に際して新しい選択をしたわけではなかった。
ピューリタンの特徴は、同様な選択をしたマサダのユダヤ人(数百人のユダヤ人がローマ軍に包囲され、閉じこもったパレスチナの丘にある都市の名。1年に渡る籠城の後、全員が自殺した)、キリスト教の殉教者、中世末期の南フランスのカタール派(アルビ派とも呼ばれる。反ローマ教会の宗派)のように、意思を阻喪させるための迫害や苦難に立ち向かったということである。
彼ら罪の自覚という原理に従い、その原理が彼らをどこに導こうとも、彼らが信奉する価値が慰安や生命そのものをすら放棄するに足るかのように振舞った。
そして彼らはこのように振舞ったために、彼らの目標が元来価値あるものであったかどうかに関わらず、現実に価値あるものになった。
献身することによって彼らの目標は価値あるものになり、ピューリタンの存在に意味を付与するのに役立ったのである。


真剣に取り組まない限り、目標は多くの効果を生むことはできない
それぞれの目標は一連の結果を規定し、人がそれらを考慮に入れなければ目標は無意味なものになる。
困難な登頂を決意した登山家はその登山で自分が疲労し、危険にさらされることが多いことを知っている。
しかし簡単に諦めれば、彼の冒険はほとんど価値を持たないことになるだろう。
すべてのフロー体験についても同じことがいえる。
「目標」と「目標が要求する努力」との間には相互関係がある。
目標は最初はそれが要求する努力を正当化するが、後になると目標を正当化するのは努力である。
人は自分の配偶者が人生を分かち合うに値すると考えるから結婚するのであるが、結婚後は、そのことが真実であるかのように振舞わなければ、夫婦の共同関係は時とともにその価値を失うだろう。

あれこれ考えてみると、人類は意思を保持し続ける勇気に欠けていたとはいえない。
さまざまな時代のさまざまな文化の中で、数十億の親が子供たちのために自分を犠牲にし、そのことによって自分自身の生活をより意味のあるものにしてきた。
おそらく同じ数の人々が、自分たちの土地や集団を守るためのエネルギーのすべてを捧げてきたのだろう。
数百万以上もの人々が、自分たちの宗教・国・芸術のために全てを投げ打ってきた。
苦悩や失敗にも関わらず、このような態度を貫いてきた人々はフローを拡張し、生活全体を一つのエピソードとする機会を持つ。
それは焦点を持ち、集中し、内的にまとまるのある論理的に秩序化された一連の経験、その内的秩序のゆえに意味と楽しさがある経験である。

しかし、文化が複雑になるにつれて、この程度にまで意思全体を達成することはますます困難になる。
卓越性を競い合う目標があまりにも多過ぎて、どれが全生活を捧げるに値するか判断し難い。
わずか数十年前、女性は家族の福祉を自分の究極の目標とすることに疑う余地のない正当性を感じていた。
これは一つには、他の選択肢が多くなったという事実によるものである。
今日では、女性は会社員・学者・芸術家、または兵隊にすらなることができるので、妻になり母親になることは、もはや女性の「自明な」第一優先目標ではない。
我々全体が有り余る富になす術を知らない。
機動性の増大が我々を故郷から解放した。
もはや出生地に埋没するために故郷に縛られる理由はない。
他の土地が今いるところよりもよく見えたら、そこへ移りさえすればよい。
オーストラリアで小さなレストランを開くのはどうだろうか。
生活様式や宗教は簡単に切り替えられる。
昔、狩人は死ぬまで狩人であり、鍛冶屋は生涯を腕を磨いて過ごした。
我々は今や自分の職業上のアイデンティティを意のままに投げ捨てることができる。
一生会計士である必要は誰にもない。

我々が直面している選択肢の豊富さは、100年前ですら考えられないほど個人の自由を拡大してきた。
しかし、いずれも同等に魅力的なものから何かを選択する際に避けられない結末は目的の不明確さである。
不確実性は順次意志を鈍らせ、意思の欠如は選択したモノの価値を減じてしまう。
したがって、自由は生活の意味の洗練に役立つとは限らない。
いや、逆なのである。
もしゲームのルールが柔軟過ぎれば集中は薄れフロー体験を得ることはより困難になる。
選択の機会が少なく明瞭な時の方が一つの目標を選び、その目標が必然的に求めるルールに依拠することは遥かに容易である。
このことは、過去の厳格な価値や限定された選択への回帰が、可能ではないのだが、たとえそれが一つの可能性であったとしても、好ましいということを意味しない。
我々に突きつけられ、我々の祖先が懸命に戦って勝ち得た複雑さと自由は、我々が達成法を見つけなければならない一つの挑戦である。
もし我々が達成すれば、我々の子孫の生活はこの惑星でこれまでに経験されてきたモノの全てよりも遥かに豊かなものになる。
もし我々が達成しなかったら、我々は矛盾した意味のない目標にエネルギーをなし崩しに使うという危険を冒すことになる。

しかし同時に、我々は心理的エネルギーを投入する場所をどのようにして知るのだろうか。
我々に「ここに君が人生を捧げるに値する目標がある」などと教える者はどこかにいるというわけではない。
頼るべき絶対の確実性はないのだから、各人が自分自身で究極の目的を見つけ出さねばならない。
試行錯誤や厳しい陶冶を経て、我々は葛藤し合う目標の束のもつれを正し、行為に目的を与えるその一つを選ぶことができる。

「自己知」
あまりにも古いので、その価値を簡単に忘れてしまう古代の救済は、人が錯綜した選択肢を整理する過程である。
「汝自身を知れ」という言葉がデルフォイの神託所の入り口に刻まれて以来、数えきれないほどの宗教的警句がその価値を称揚してきた。
この忠告が繰り返される理由は、それが実際に良い結果を生むからである。
しかし我々はこれらの語が意味するもの、また個人に対するこの忠告の実際の意味を世代ごとに新たに吟味し直さねばならない。
そのためにはそれを現代の知識に基づいて表現し、それを適用する現代的方法を想定してみることが有効である。



「活動」と「反省」は理想的にはともに補い合い、相互に支え合うべきものである。
それ自体としては活動は盲目であり反省は無力である。
大量のエネルギーを一つの目標に投入する前に、基本的な疑問を問うてみるのは無駄ではない。
それは私が本当に望んでいることなのだろうか。
私はそれを楽しんでやっているのだろうか。
近い将来、私はそれを楽しんでいるだろうか。
私、そして他者が支払う対価はそれに値するだろうか。
もしそれを達成したなら私は自分自身と折り合っていけるだろうか。

これらの一見単純な疑問も、自分自身の経験との接触を失った者にとってはほとんど回答不能である。
自分が望むものを見つけようと悩んだことが無ければ、また注意が外発的な目標に縛り付けられているために自分自身の気持ちに気づけないならば、人は意味のある活動を計画することはできない。
他方、自分を省みる習慣が十分に発達していれば、人は一つの行為がエントロピーを増加させるかどうかを見極める為、たびたび自己分析をする必要はなくなる。
彼はこの昇進がそれに値する以上のストレスを生むこと、または現在は魅力的なこの特定の友人関係が、結婚という文脈では耐え難い緊張へと至るということをほとんど直感的に理解するだろう。

心を短期間秩序づけることは比較的容易である。
どのような現実的目標でも心を秩序づけることができる。
良い試合、緊急の仕事、家庭での幸せなくつろぎは注意に焦点を与え、調和のあるフロー体験を生み出す。
しかし、このような状態を生活全体に及ぼすことは遥かに困難である。
生活全体をフローする為には我々が万策尽きた時でさえ、また快適な生活を拒否する無慈悲な運命に出会った時でさえ、我々の努力を支える説得力のある目標にエネルギーを投入することが必要である。
目標が正しく選ばれ、抵抗に負けずにそれを堅持する勇気を持つなら、我々は様々な行為や周囲の出来事に十分注意を集中することができ、したがって不幸を味わうことはない。
その時、我々は全ての思考と情緒が調和ある全体へと適合する生活の広がりの中で、秩序の感覚を直接感じることになるだろう。



今日でも我々は時折、過去の偉大な宗教の精神的洞察に基づく内的秩序を具現した生活をしている人々に出会う。
証券市場の非道徳性、防衛産業関係者の腐敗、政治家の無原則主義が毎日新聞紙上を賑わしているが、逆の実例も現実に存在している。
苦しんでいる人々に手を差し伸べることが意味のある生活の必須要素であると信じて、余暇の一部を割いて病院で死に瀕している患者と共に過ごす成功した実業家もいる。
そして祈りから力と静穏とを引き出し続けている多くの人々がおり、強いフロー体験を生む生む個人的に意味のある信念体系を持つ人々がいる。

しかし、伝統的な宗教や信念体系によっては救済されない大多数の人々がいることは確かであり、その数は増えつつある。
彼らの多くは古い狭義に含まれる真理と、その時代が付加した歪みや堕落を区別できず、その誤謬を受け入れられない為に、そこに含まれる真理さえも拒否するのである。
他の人々はあれこれの秩序に全く絶望し、何であるかを問わず、たまたま生じた信念にしがみつき、ファンダメンタリストになったり回教徒になったり共産主義者になったりする。

21世紀の子供たちの生活に意味を与えるのには役立つ新しい「目標-手段のシステム」が生まれる可能性はあるのだろうか。
ある人々はかつての栄光を回復したキリスト教がその必要に答えると確信している。
ある人々はいまだに共産主義が人間経験におけるカオスの問題を解決し、その秩序は世界に広まると信じている。
現在その双方ともに起こりそうにはない。

もし、新しい信仰が我々の想像力を捉えるとすれば、それは我々が知っていること、我々が感じていること、我々が望んでいること、我々が恐れていることを合理的に説明するものであるはずである。
それは我々の心理的エネルギーを意味のある目標に向けて整理する信念体系、フローをもたらし得る生活法のルールを与えるシステムであるはずである。

このような信念体系が、科学が人間や宇宙について明らかにしてきたことを全く無視することなど想像できない。
科学の基盤なしには我々の意識は信条と知識との間に引き裂かれてしまう。
しかし、科学が信念体系の確立に真に役立つものとなるためには、科学それ自体が変わらねばならない。
現実の孤立した部分を記述し統制する様々な専門領域に加えて、知り得た知識全ての総合的な説明を発展させねばらなず、それを人類とその運命に関連させなければならない。

このことを達成する一つの方法は進化の概念を用いることである。
我々の大多数に関わることの全て、我々はどこから来たのか、どこへ行こうとしているのか、我々の生命を形作っているのはどのような力なのか、善や悪とは何か、我々は相互に、また地球以外の宇宙の全てとどのように結びついていくのか、我々の行為の結末は何か、などの疑問は、我々が進化について現在知っていること、また将来我々が知ろうとしていることと関連させてはじめて体系的に議論することができよう。

このシナリオに対する明らかな批判は、科学一般、とくに進化についての科学は、それが「何であるか」を扱うのであり、「どうあるべきか」を扱うのではないということである。
他方、信条や信念は現実に限定されない。
それらは何が正義か、何が望ましいかを問題にする。
しかし、進化論上の信条で重要なことの一つは、まさに「あること」と「あるべきこと」とのより密接な統合なのである。
我々はなぜ我々のようであるのかをよりよく理解する時、本能的衝動、社会統制、文化的表現などの起源、意識の形成に寄与する全ての要素が、より十分に認識される時、我々が自分たちのエネルギーをそれが進むべきところに方向付けることはより容易になるだろう。

また、進化論的展望は、我々のエネルギーを注ぐに値する目標を指示している。地球上での数十億年以上もの生命活動の中で、しだいに複雑な生命形態が姿をあらわし、人間複雑な神経形態で頂点に達しているということには疑問の余地はなさそうである。
大脳皮質も順次意識を進化させ、今では大気同様、地球全域を包み込んでいる。
複雑化のこの現実は、「ある」とともに「あるべき」ものなのである。
それはそうなった。
地球を支配している条件によって起こるべくして起こった。
のであるが、我々が前進させようとしない限り複雑化を続けることはできないだろう。
進化の将来は、今や我々の手の内にある。

過去数千年、進化の時間のほんの一瞬のうちに、人類は意識の差異化の面で信じられない進歩を遂げてきた。
我々は人類の他の生命形態から切り離されているという認識を発達させてきた。
我々は人間を互いに切り離されたものとして理解してきた。
我々は抽象と分析、落下する物体の速度をその重量と質量から切り離すように、物体の次元と過程の次元を相互に分離する能力を発明した。
この差異化が科学や技術、それに環境を作り破壊する人間のよそうもされなかった力を生み出したのである。

しかし、複雑さは差異化と統合化を含んでいる。
次の数十年、数世紀の課題はこの心の未開発の構成部分を実現することである。
我々自身を相互に、また環境から切り離すことを学んできたように、今や我々は我々自身を周囲の実在物と、我々が苦労して勝ち得た個性を失うことなく再統合することを学ぶ必要がある。
未来についての最も有望な信条は、宇宙の全てが共通の法則によって関連付けられた一つのシステムであり、このことを考慮することなく我々の夢や願望を支自然に割り込ませることは、無意味であるという認識に基づくものだろう。
我々は人間の意志の限界を認識し、地球上での支配的役割よりも共同的な役割を受け入れることで、ついに我が家に辿り着こうとしている流浪者の安らぎを感じるはずである。
その時、意味の問題は宇宙的なフローと融合した個人の目的として解き明かされるだろう。

カリスマ信仰の虚構 ~世界を変える静かなる人の力~

2013-10-26 13:18:27 | AKB48_オピニオン
人をやる気にさせることなどできない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e75057175a59763a45dbc3054a562ff7

単なる愚痴
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4ed8e017364789136553dd2363f71654


の流れで看過できず。


-------------------


組織が成長している時には、何が本質的な成長要因なのかが分析されることはあまりない。

なぜなら、成長要因がわからなくとも、今現在成長することができているからだ。

浅慮による的を外した要因分析であったとしても、結果がその要因を正当化してくれる。

分析結果が間違っていても、気づくことは恐ろしく難しい。

それよりも、眼前にある成長機会を十二分に活かすにはどうすればよいか、ということに全力をかけることになるだろう。


だが、組織の成長力が鈍化すると、今後の成長力を獲得するために、「何が成長要因だったのか?」という議論が組織の中を駆け巡る。

たいてい「うまくいっていた時にやっていたこと」が成長要因だとされる。

「あの時うまくいっていたのはアレをやっていたからで、今ダメなのはアレをやっていないからだ!」

その発想自体は、正しいかもしれないし間違っているかもしれないが、少なくとも浅慮であることは間違いない。



AKB48佐々木優佳里「最近毎日自分に"悔しい"」(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51900300.html


これはAKB48に限った話ではないが、最近では人材育成に関して誤った発想が蔓延っている。

どの世界でも、理想的な人物像を聞くと、だいたいこんな回答が返ってくる。

「主体性があって~」

そう、どの世界でも主体性が大事だと言われる。

主体性を持って能動的に動き、まわりを巻き込んで大きな活動を!


笑顔で!アクティブに!自己表現を!


大きな声で叫ばれるこの言葉によって、世界中の人々は意図せざる結果を招き入れている。

ここで明確にしておこう。

この考えは必ずしも正しくはない。

いや、ほとんどの場合において、この考えは間違っている。


なぜ間違っているか?

それは「人それぞれに生まれ持った適性がある」という単純な事実に基づいている。

人は生まれながらにして平等だという人権主義の考えや、ナチスの優生学などの影響で、人の性格が先天的な要因により影響を受けるという発想は社会的に受け入れ難い。

だが、実験によって、生理的な性質の違いが人格形成に大きな影響を与えることが確かめられている。





赤ちゃんの時に外部の刺激に高反応を示す子供は、大きくなると内向的になる。

逆に、赤ちゃんの時に刺激に低反応を示す子供は、外向的になる。

理由は単純で、外部からの刺激に敏感だと、外部から入力される情報を綿密に構造化し、時間をかけて深く内面化する必要性があり、その姿勢は「内向的」にならざるを得ない。

映画やドラマ、小説などにおける理想的なリーダー像は、カリスマ的で人間離れしているが、実際の卓越したリーダーは物静かで謙虚で思慮深い内向的な人々ばかりである。

また、ニュートン、アインシュタインなど科学技術的な発展をもたらすのは決まって内向型人間と決まっている。

にも関わらず、なぜ外交的な人間がリーダー像として支配的になったのか。

スーザン・ケインは、近代化の中で「セールスマン」という種類の人材が必要とされたことが大きいとする。
(しかし、成績がよいセールスマンが外交的とは限らない。)

また、マスメディアにおけるエンターテイメントの様式にも大きな影響を受けているだろう。

つまり、「外向性」信仰は文化的に生みこまれたもので、実態とはかけ離れている、ということだ。

このカリスマ幻想は集団浅慮の原因にもなっている。

会議の中で、声の大きな人物の意見が優先されてしまい誤った判断をしてしまう、といったことが社会全体に大きな弊害をおよぼしている。

調査研究によると、開拓民を先祖に持つ外交的な人間の集まりとされるアメリカにおいてさえ、1/3は内向型なのだという。



エンターテイメントだからといって目立つことが至上命題になるとは限らない。

いや、むしろそうではない可能性を十二分に見せ付けたのがAKB48だろう。

創業メンバーのカリスマ性ばかりが注目され、後輩は先輩に絡み、自己主張することが全面的に善いことだとされる。

しかし、人と人とを結びつける静かな力が、さらにそれぞれの人が持つ静かな力を引き出して、繋ぎ、さらに大きな力に変えていく、それがAKB48のメンバーやスタッフ、そしてファンによる人的ネットワークの強さではなかったか。

誤ったカリスマ信仰によるリーダー幻想を破棄して、新しい時代を拓いていくことを考えるべき時ではないだろうか。


次期48Gのリーダーとして最も適任なのは?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f8f00404313ef9bbdb0e51d13a51dbc6

フューチャーセンター

2013-08-31 16:15:56 | AKB48_オピニオン

運営が完全知に基づいて意思決定を行っていると考えるのは、現実的ではない。

いつだって不確実性の高い状況で意思決定をすることを求められている。

しかし、だからといって結果責任から免れることができるわけでもない。


スピンオフひとつうまくやれず、もう手が詰まってる。


走り続けても追いつかないなら、


フューチャーセンターでも作ったらどうか。


それくらいしか思いつかない。

「議論」ではなく「対話」のススメ ~ダイアログ~

2013-08-21 02:14:32 | AKB48_オピニオン

「議論」ではなく「対話」もあるよ、というお話。


ドラフト会議
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d1ad73b4eb65f76a3a6b6fec2735c6bf


↑上のエントリで繰り広げられた議論を読んで思ったのですが、ちょっと混乱しているようなので、ちょっと私の方で整理しますね。
(既に見習いさんが、非常によいコメントをしてくれていますが。)

論者の立脚している知見が、とりわけ「理念」と「組織」に対する考え方に大きな隔たりがあるので、このまま議論を進めても平行性だと思います。

なので、まず「理念」をおさらいし、「対話」でないと成立しないよという話の展開の後、簡単に「対話」についてお話します。


---------------------------------


当Blogでいう「理念」とはビジョナリー・カンパニーの「基本理念」のことです。

「ビジョナリー・カンパニー」は現代のドラッカーとも呼ばれるジェームズ・C・コリンズが提唱した「学説」でもありますし、持続的に利益を生み出す卓越した企業の「呼称」でもあります。

(なんで現代のドラッカーかというと・・出版社の売り文句だと思いますけど、ドラッカーがそうであったようにビジョナリーだからなんだろうなぁと思います。)

当Blogでも過去何度か触れています。

AKB48はビジョナリーカンパニーになれるか?!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2462f432dbc5e3b5b22c8fa39f7b877f

時を告げるのではなく、時計をつくる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/91429274914372eb7fc7865aac457f6d

AKB48も踊る
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/148e8f87673bb92ee979d213b1926620

アイディアを狩る狩猟採集生活から、土壌(組織力)を醸成しタネ(アイディア)を育てる農耕生活へ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0319c34c9503377d8b175908352da252

「育む」という発想で、継続的な努力が活きる生き方をしよう
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/eaf9943d3704e917e3377c127067f036


ジェームズ・C・コリンズは過去の企業業績を調査し、卓越した企業になるための「条件」と思われていた項目が実は嘘だと明らかにしました。

これは「12の神話の崩壊」として説明されています。

(1) 「すばらしい会社を始めるには、すぐれたアイデアが必要である」とは言えない
(2) 「ビジョンを持った偉大なカリスマ的指導者が必要である」とは言えない
(3) 成功している企業は、利益の追求を最大目的とはしない
(4) 成功企業には、共通した「正しい基本的価値観」があるとは言えない
(5) 「変わらない点は、変わり続けることだけである」とは言えない
(6) 「優良企業は危険を冒さない」とは言えない
(7) 「優良企業はだれにとってもすばらしい職場である」とは言えない
(8) 「成功企業は綿密で複雑な戦略を立案し最善の動きをとる」とは言えない
(9) 「根本的な変化を目指すには社外からCEOを迎えるべきだ」とは言えない
(10) 「成功企業は競争に勝つことを第一に考えている」とは言えない
(11) 「二つの相反することは同時に獲得することはできない」とは言えない
(12) ビジョナリー・カンパニーが成長を遂げたのは、経営者の発言が先見的だからでは全くない。

その上で、唯一つだけ、卓越した企業に共通してる点があるとしました。

それが「基本理念を持っており、病的なまでに基本理念に忠実である。」ことです。

コリンズはこう言います。

世界は変化している。
この難題に組織が対応するには、企業として前進しながら、その基礎となる信念以外の組織のすべてを変える覚悟で望まなければならない。
組織にとっての聖域は、その基礎となる経営理念だけだと考えるべきである。

基本理念を、文化、戦略、戦術、計画、方針などの基本理念ではない慣行と混同しないことが、何より重要である。
時間の経過とともに、文化の規範は変わる。
戦略は変わる。
製品ラインは変わる目標は変わる。
能力は変わる。
業務方針は変わる。
組織構造は変わる。
報酬体系は変わる。
あらゆるものが変わらなければならない。
その中でただひとつ、変えてはならないものがある。
それが基本理念である。
少なくとも、ビジョナリー・カンパニーになりたいのであれば、基本理念だけは変えてはならない。

この点から、本書の中心になっている概念が導き出される。
概念とは「基本理念を維持しながら、進歩を促す」であり、これこそ、ビジョナリー・カンパニーの真髄である。

組織を築き、経営している読書に向けた本書の主張のなかで、何よりも重要な点をひとつあげるなら、それは、基本理念を維持し、進歩を促す具体的な仕組みを整えることの大切さだ。
これが時計をつくる考え方の真髄である。

会社を究極の作品と見るのは、極めて大きな発想の転換である。
会社を築き、経営してるのであれば、この発想の転換によって、時間の使い方が大きく変わる。
製品ラインや市場戦略について考える時間を減らし、組織の設計について考える時間を増やすべきなのだ。

ビジョナリー・カンパニーが素晴らしい製品やサービスを次々に生み出しているのは、こうした会社が組織として卓越しているからに他ならず、素晴らしい製品やサービスを生み出しているから素晴らしい組織になったのではないと思われる。



「会社を究極の作品と見るのは、極めて大きな発想の転換である。」

これは極めて重要な発想の転換です。

ビジョナリー・カンパニーは「時を告げるのではなく、時計をつくる」のです。

昔は正確に時を告げる能力は貴重なものであった。
その才能のある人が才能を生かして、生涯、正確な時を告げる役を負うか、そうではなく、正確に時を告げることのできるシステムとしての「時計」を創るのか、は大きく役割が違う。


この部分に関する考え方が大きく異なると、議論は進みません。

「持続的な利益を生み出し続けるAKB48という組織(システム)こそ究極の作品である!」と主張する人と、「AKB48のブランドも組織も、個々のメンバーの自己実現のためにある!」と主張する人の間には、基本的な考え方に大きな隔たりがあるからです。

また、今時「ミッション・ステートメント」や「経営理念」を掲げない企業はほとんどないと思いますが、「ビジョナリー・カンパニー」を信ずる人と、そうでない人の間には、これまた「理念」に対する考え方の大きな隔たりがあります。

一方は「基本理念は全てに優先する」と考えているわけですから。


以上を踏まえると、考え方の違う両者が語らうためには、見習いさんが指摘してくださったように、

これらを踏まえて次の議論が成立しませんか?
AKBは理念を掲げずに成功するパターンを作りたいのか、それとも今でも理念を掲げているのか、掲げたいが掲げる事ができていないのか、ここがハッキリしていません。
そして恋愛禁止条例=理念とする考えは主流派の考えではなく同意が得にくい部分です。

ガチ・マジという理念は必要か?
必要ならどういう形で具体化するか?

ではないでしょうか?


となるわけですが、たぶんこの話も平行線になるのは目に見えています。

「理念」に関する議論に答えが出るなら、全ての企業がビジョナリー・カンパニーになっているわけですから。

つまるところ、何に価値があるか、何が正しいのか、といったことを論争する枠組みがあるのは多様性を醸成するのに非常に重要なれど、「理念」に関して言えば、これは明確な答えが出るものではないので、「議論」ではなく「対話」によって進めるのがよいかと思います。


---------------------------


で、また言葉で説明するのが面倒なのでPPTのスライド貼りつけることにします。

(文字が小さくて見えるかな・・)









「恋愛禁止条例」に関する次の論点を挙げます。

2013-08-01 16:07:47 | AKB48_オピニオン
当Blogにおける「恋愛禁止条例」に関する最近の議論を、ここで私なりに整理したいと思います。

↓の続きというか、視点を変えます。(「恋愛禁止条例=理念」という説明がわかりにくいというので)

恋愛禁止条例 自己責任論に反対する
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ea854ba7bd0c3c1f300f624ca48032a2


今日は、レイヤー構造で「恋愛禁止条例」の意義を考えたいと思います。

(伝えるために、あの手、この手で、がんばります。)


まず「恋愛禁止条例は破棄されたのか?」という問いがあって、これはかなりグレーな問題です。

AKB48運営は掲げるとも破棄するとも明確にはしていません。

破棄したとする立場の人は、「スルー=破棄」や「指原が選挙1位になり恋愛に関することを公言=実質的に破棄(もしくは破たん)」という論理だと思います。

「恋愛禁止条例破棄」と「恋愛肯定」とは必ずしも一致しませんが、「スルー=実質的に肯定」とする立場から、今AKB48は実質的に恋愛を肯定している状態だとする意見もあります。

しかし、運営が恋愛に関して明確な意思を示さないからといって、即「恋愛肯定」になるわけではありません。

「恋愛」がアイドル活動に大きな影響を与えることは、ほとんど自明であり、メンバーには率先して恋愛を肯定する動機は合理的には存在しないからです。

「恋愛禁止」は、「恋愛禁止条例」を掲げなくても「アイドルの行動規範」としてコード化されているものなのです。

ただ、「恋愛」は生物学的に埋め込まれたコードで「人間の基本設計」にあたるものですので、恋愛に向かおうとする情動は、社会的なコードであるアイドルの行動規範よりも遥かに強いものです。

厳密にいえば、強いというよりも、人間それ自身が恋愛を肯定するフレームワークですから、その中で恋愛禁止を実現するのは、工夫が必要です。

「恋愛の真っ只中で、恋愛禁止を叫ぶ」くらいのお話です。

これをコンピューター・システムにおけるレイヤー構造のアナロジーで考えると、OS(オペレーティング・システム)がその上で動作するアプリケーションに対して優越するというか、アプリはOSの制約条件を超えることはできない、ということに似ています。

心理的には「恋愛」は「アイドル行動規範」に優越する存在なのです。

しかし、それは時としてアイドルとしてのエラーに繋がるものです。

実際、結構な数のエラーが発生しているのが今のAKB48の現状かもしれません。

そこで、「恋愛禁止条例」の意義が出てきます。

OSレイヤーに、「アイドル行動規範」に加えて「恋愛禁止条例」を組み込み、エラーの発生を抑制したわけです。

上位レイヤーに便利な機能を提供しつつ、システム全体の信頼性と完全性を保全するための存在として「恋愛禁止条例」の存在意義が出てきました。

AKB48の場合、他のアイドル・グループに比べてメンバーや活動にかなり多様性があるわけですが、多様性を高めることとガバナンスをきかせるというのは単純には矛盾しますので、これを「恋愛禁止条例」で方向性を合わせて両立させていたわけです。

「恋愛禁止条例」がスタックから抜けると、これまで「恋愛禁止条例」に頼っていた分を何かで埋め合わせないといけなくなります。

一部コメントで頂いている「異分子を除去」というものを要約すると、「恋愛禁止条例がなくなって動作不安定になる原因となりそうなアプリは排除しよう」というお話になるかと思います。

コメンテーターが、システム全体の信頼性が落ちると予測していることからくる意見かと思います。

(表現を変えた方が理解は得られやすいと思いますよ。是非ご検討ください。)

一方、「恋愛禁止条例がなくなってもシステムは不安定にならない」という立場の人々もかなりの数いるわけです。

人によっては「むしろ制約が外れて動きやすくなった」という意見もあります。

この前提が合わないので、目指すべきものが合わないと思います。

他にも、ハイブリッド方式でいくべきだと主張する人もいるでしょう。

グループ内で使い分けるという意見です。

その場合、どこで線を引くのかが問題になります。

おそらく具体的に線を引くのは難しいでしょう。

さらに、もしあなたが複雑系システムの研究者ならば、こう言うかもしれません。

エラーこそ既存の体制を破壊してシステムを進化させるために必要だ。

エラーを許さないシステムではなく、エラーを一つ上の次元で利用するシステムを構築すべきだ。

と、言うかもしれません。

アイディアに説得力がありますが、どういう仕組みでそれを実現するのか、になるでしょう。









話を戻しましょう。

このエントリでは、「恋愛禁止条例の破棄≠恋愛肯定」だと説明しました。

その上で、「恋愛禁止条例」は、AKB48が価値創造とシステム全体の信頼性と完全性を両立させるためのフレームワークだと説明しました。

という認識に基づいて、では、結局、「恋愛禁止条例」を失ってシステムは不安定になるのか、それとも進化するのか、不安定になる場合はなぜそうなるのか、そしてどうするべきか、進化するのであれば、なぜ進化するのか、どう進化するのか、ここが議論の次の要点ではないかと思います。

「恋愛禁止条例」の意義を再考する ~フリーライダー問題~

2013-07-11 01:38:49 | AKB48_オピニオン


「恋愛禁止条例」の意義を、いつもとは異なる側面から考えてみたい。


-------------


まず、繰り返しになるが「恋愛禁止条例」の定義について。

ここでいう「恋愛禁止条例」は、成文法的な明示的なルールのことではなく、慣習法の元となるようなAKB48グループ全体に共有されている「暗黙的なルール」もっと分かりやすく言えば「価値観」のことだと考えて頂きたい。

誰かが意図的に作り上げたものではなく、様々な人々の言動が相互に影響し合って創発的に形成されたパターンや価値観のことで、形があるわけではない。

「形があるわけではない」という意味は、その価値観は論理性によってのみ構築されているわけではなく、そこには非論理的な情緒的な感覚も大いに含まれるため、入力から出力は一意には決まらず、「A→B(AだからBだ)」というような図式が必ずしも成立しないということだ。

しかし、そこにいる人々にとっては、問題を明確に説明できないとしても、問題そのものについては互いに認識し共有し合うことができる暗黙知のような存在である。


-------------


「恋愛禁止条例」が必要である理由は、↓下記のエントリで述べたように、メンバーやスタッフだけでなくファンも含めたAKB48グループに関わるステークホルダー全員の意識を方向性を持って統制するために有効であるからだ。

恋愛禁止条例 自己責任論に反対する
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ea854ba7bd0c3c1f300f624ca48032a2


(有効)にも関わらず、「恋愛禁止条例の是非」がこれまでに大きな軋轢や議論を生み出してきたのは、理由がある。

一般的な言説によれば、「恋愛禁止条例」の定義の曖昧さとAKB48運営の一貫性のなさは常に議論の的であったし、↓下記のエントリで述べたような「保守的なアイドル観」による言論は時代が変わっても大きな派閥を占めると思われ、それが主な理由と考えられているが、

指原の速報1位が巻き起こした「リベラル vs. コンサバ」論争
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/de80fbc2ea31186b2ac691e94cf714b6


実は他にも理由があるのだ。

そして、その理由ゆえにAKB48グループは「恋愛禁止条例」の問題を放置できない。


-------------


「恋愛禁止条例」に関するスキャンダルは「フリーライダー問題」なのである。

「恋愛禁止条例」を破る人々がいてもAKB48グループが成立するのは、その一方で「恋愛禁止条例」を守る人々がいるからである。

AKB48グループがリベラルなグループだから、AKB48グループはスキャンダルに寛容なのでは決してない。

AKB48がリベラルでいられるのは、多様性を養うだけの「高い生産力」と、アイドルグループとしてゲシュタルト崩壊が起きないように一体性を確保するための確固たる「アイドル価値基盤」を持っているからだ。

簡単に言うと、AKB48が多様で自由なアイドルグループでいられるのは、その裏でその分のコストを負担しているからであり、そのコストを負担するだけの力があるからだ。

それゆえ、そのコストを負担せずにタダ乗りしようとする者(フリーライダー)がいると、排斥する力が働く。

幾つかの日本論によれば、日本のコミュニティにはフリーライダーの発生を防ぐために、空気に同調しない者を村八分にする力が内在しているのだ。

フリーライダー問題は、人々に不平等感や不公平感から不安や憤りを覚えさせ、「信頼や協力の欠如」や「妨害行為」を招くだけではなく、、空気が水を差されれ雲散霧散してしまうと、みな興醒めしてしまい物語性に依拠した政策の効果がなくなってしまう。

それゆえ、たとえば(当Blogで取り上げたところでは)チャン・キムらによる『ブルーオーシャン戦略』では、「公正なプロセス」が必要だと説明している。

AKB48が挑戦している難しい問題 ~社会的複雑性(多様性の高まり)~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/81af48ec44ccac04b031909ccd3327c3


信頼や協力が欠如すると、各人の考えが研ぎ澄まされ、全体としてよりよい発想が生まれる機会が妨げられ、各人の理解を引き出すことができなくなり、運営に対する信頼もなくなり、駆け引きやズルが横行するようになり、結果として組織は衰退する。


-------------


「フリーライダー問題」として考えると、(払ったコストの妥当性には疑問がある人は多いとは思うが)指原や峯岸といった現役のスキャンダル・メンバーは少なくてもコストを払ったとは言える。

最悪なのは問題をスルーするなどして、見える形でのコストの負担をしないことだ。

実はファン側には見えない形で、密かに見えないコストを負担している場合もあるかもしれないが、「フリーライダー問題」の観点から考えると、問題の解決に全く繋がっていないことに注意が必要だろう。

とにかく何らかの形でコストを負担しなければならない。


-------------


「フリーライダー問題」をどのように解決するか。

通常は制度的な不備を検討すべきだが、この問題の難しさをよく表している良い(?)例がある。

NHKの受信料の徴収問題だ。

視聴に関係なく受信契約が成立するという法的解釈が非難されているが、これも「公共放送のタダ乗り」を許すかどうかという意味で「フリーライダー問題」である。

一部でも払わない人々の存在が許容されてしまうと、他の視聴者にとっても「払わない」が合理的な選択肢となってしまうため、NHKは受信料の取立てを厳密に行うしか手がない。

受信料を税金化すればよいという意見も根強くあるが、この場合NHKは「国営放送」になってしまう。

NHKが国営でもなく民営でもなく「公共放送」なのは、太平洋戦争の教訓である。

「国営化」は国民の望むところではないだろう。(今でも実質国営だという指摘は有り得るが)

「民営化」して広告収入などでスポンサーシップを導入すると、(実際どうかは別として理念的に)中立性を担保することができない。
(海外のたとえばBBCでは広告収入の受け入れを容認しているケースも見られるようだ)

そのため、その中間(?)の「公共放送」なる曖昧な定義と、その理念実現のために税金のようで税金ではない「受信料」なる不思議な制度が継続されているのだ。

理想ではないが、現行制度の下での現実的な解として、NHKにはなんとしてでも受信料を取り立てる選択肢しか有り得ないのだ。


-------------


ひるがえって「恋愛禁止条例」に関する「フリーライダー問題」はどうか。

前述したNHKの文脈でいうと、下記3つの道がある。

(1)国営化・税金

「恋愛禁止条例」を成文法化し、統一ルールで運用する。

コストは公平かつ厳密に負担する。

(2)民営化・使用に応じて料金を支払う

「恋愛禁止条例」の是非は民営化され、ルールは運用されない。(例:ファンが決める)

コストはファンがそれぞれに払う。

(3)公共放送・受信料

「恋愛禁止条例」は慣習法的に扱われ、暗黙的ルールで運用される。

コストは取り立てられる。名目上、例外はない。


どれも選択しだいだが、おそらく(2)はAKB48グループ自体が分化して、結果として衰退する道を辿ると私は思う。

さて、どういう選択をするかだ。




※「恋愛禁止条例」に限らず、スキャンダル全般に適用される話

恋愛禁止条例 自己責任論に反対する

2013-06-21 02:05:43 | AKB48_オピニオン
いつもここで述べていることを簡略化してみました。

是非、古参の方に教えてもらいたいのは、AKB48はいつから「ガチ」と言い始めたのか、ということ。

ガチにせよマジにせよ、恋愛禁止条例にせよ、これらは後付で創発的に創られた空気だと思うのだけれど、いつ頃からそういう空気が醸成されていったのかは興味深いところです。




























多元社会になって↓こんなふうに分裂と統合を繰り返すというのもあるかもしれない。


幕末における理念闘争
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5ebcf72709c972da103e5df5379c75f0


それこそ↓の話につながるわけだけど。

AKB48第1章「反運営」 → AKB48第2章「反AKB48」 ?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f9ae49fe6387651a91954974d1fedf42


SKE48松村香織が支持を集めるヒミツ

2013-05-27 18:42:24 | AKB48_オピニオン
SKE48「松村香織」というコンテンツの可能性と限界(SKEまとめエンクラ)
http://ske48encra.doorblog.jp/archives/27503945.html


なぜ、BBQ松村香織は関心をひくことができるのか?

この問題を分析するにあたって、少なくても考えておくべき3つの視点を挙げます。

「コンテンツ」「メディア」「ネットワーク」の3つです。

「どれか」ではなく「どれも」で見た方がいいです。

3つの性質を持っているということです。

ただ、とりわけ注目したいのは「ネットワーク」です。

BBQ松村の強さの秘訣を知りたければ、「ネットワーク効果」と「複利の力」を理解するのが一番だと思います。

この点については1年前くらいに「今夜も1コメダ」初期の頃に何度も語ったのですが、最近になって松村に関心が集まるようになったので再び簡単に考えを述べておくことにします。


--------------------


■コンテンツという観点


まず、「コンテンツ」という発想で「松村香織」を見ると、↓こんな感じの議論になると思います。





「松村香織の何が新しいのか?」

「松村香織の何が面白いのか?」

「松村香織の何が特別なのか?」

という話になるわけです。

いろいろと意見はあるでしょう。

ですが、私は松村香織について特別なにかが新しいとか、特別なにかが面白いとか、そういった観点では見ておりません。


■メディアという観点


「メディア」という発想で「松村香織」を見ると、↓こんな感じの議論になると思います。





「松村香織はニッチな顧客需要を捉えたニッチ・メディア」であるという意見には一理あるように思います。

確かに、その要素はあると私も思います。

でも、それだけでは次の質問には答えられないでしょう。

「じゃぁ、なんで他のメンバーは真似できないの?」

ニッチ・メディアというだけであるなら、他のメンバーに真似されてBBQ松村の競争優位が奪われてしまってもよいと思いますが、なぜかそうなっていませんね。

動画というだけなら他のメンバーもやっていますが、残念ですがBBQ松村ほどに注目されておりません。

これは、なぜでしょう?

BBQ松村の映像編集技術やインタビュー技術が優れているからでしょうか?

いえいえ、違います。

BBQ松村のやっていることに「模倣困難性」があるからです。

では、BBQ松村は何をやっていて、それがなぜ模倣困難なのでしょうか。

それを理解するには、次の観点が必要です。


■ネットワークという観点


BBQ松村の強さのヒミツ、それはその「強さ」が実は「BBQ松村の強さ」ではないのです。

BBQ松村をハブとして、そのネットワークに参加する全員の力によるものなのです。

これが私の答えです。

コンテンツという観点でこの話を捉え直すなら、「松村香織」というコンテンツは「松村香織そのもの」ではなく、「松村香織をハブにして参加する皆が創り上げている松村香織」となるでしょう。

ネットワーク全体で「松村香織」なのであり、それが松村香織の強さなのです。(あくまで私の考えね。)

松村香織の力ではなく、松村香織を含むみんなの力です。





「ネットワーク」はコピーできませんので、模倣困難性が高く、簡単には真似できません。

「人的ネットワーク」の結合因子が何か知っていればなおさら模倣困難であることが理解できます。

それは「信頼」です。

「信頼」を構築するには長い時間を要します。

そして、「信頼」を得るために必要なものは「誠実さ」です。

過去が暗黒歴史でも、ブサイクでも、これといった才能がなくても、賛否はどうあれ、愚直であっても、一貫して誠実であり続けることによって人間は信頼のネットワークを構築することができ、そのネットワーク上でのアクティビティの効果性を高く保つことができます。

個人の力で成し得るものなどたいしたことがありません。

長期的な視点で誠実であり続けることは、持続的なネットワークの力を得るのに必要不可欠の要素です。

初めは効果が見えませんので本人も思い悩むことも多かったと思いますが、継続は力なりで信じてやり続けた、これが今現時点での成功要因です。

だからこう言ったのです。

皆がその存在に気づいた時にはずっと前にいて、もう追いつくことができない。


そして、次に狙うことはもう決まっています。

グループを横断する新しいネットワークを構築することです。







このネットワークの力というのはAKB48のそれとフラクタルですね。

その意味で松村香織は実にAKB48らしい人材だと、私は思います。

立候補の捉え方がシリアス過ぎる。立候補するのに理由はいらない。

2013-03-30 13:22:55 | AKB48_オピニオン

今は「立候補制」の是非は横に置くとして、

メンバー側が立候補するしないについて構え過ぎだ。

重く受け止め過ぎである。

たとえAKB48が未開の土地を切り拓くことを信条に掲げたとしても、それはあくまでエンターテイメント領域の拡大であり拡張という話だ。

愉快でなければ、もしくは愉快に繋がらなければダメだ。

メンバーにとってもファンにとっても。

もし、そうなっていないのであれば、ひとえに運営のコミュニケーションの失敗であろう。

ステークホルダーに解釈の幅を与えることは既定路線なれど、その方向性がズレてる時は何らかの手段で補正することも必要だ。

『AKB48の戦略! 秋元康の仕事術 (田原総一朗責任編集)』の中でも、やすす先生は「いいコンテンツは深読みされる」と説明している。)

コミュニケーション・デザインである。

不作為も過ぎると罪であろう。

言われるまでもない話だと思うけれど。



最近では、中心メンバーが「大人」になったことも大きな影響を与えていると思うが、AKB48全体にシリアスさが増してきている。

関わる問題の難しさが変化していることはよくよく認識するべきことだ。

AKB48が挑戦している難しい問題 ~社会的複雑性(多様性の高まり)~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/81af48ec44ccac04b031909ccd3327c3

私達が置かれている世界や社会や組織というものは、とても複雑なものなのだ。
動的で因果関係が複雑怪奇にこんがらがっている。

紛争問題の解決に関する世界的なファシリテーターとして有名なアダム・カヘンは、その著書『手ごわい問題は、対話で解決する』の中で物事の複雑性には3つの種類があると述べている。

・物理的複雑性
 原因と結果が時間的にも空間的にも離れているかどうか

・生成的複雑性
 過去の経験で解決できないくらい変化が激しく、未来が予測不可能かどうか

・社会的複雑性
 問題に関る人たちが価値観や認識、見解が大きく異なるかどうか


私は、AKB48から弾けるネアカ(根明)さが失われていると感じている。

シリアスさがあるのよいが、明るさがなければだめだ。

そういうこともあり、研究生でスピンオフ・チームを作って独自活動でもしてみたらどうかと提案もした。(理由はそれだけではないが)

研究生でチーム8を作ったらどうか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a8dc7ad391013fd4ab6644a69075a5bd


話がそれたので、立候補を重く受け止め過ぎという件について。

そもそも、AKB48に在籍すること自体が「立候補」なのであるからして、その時点で一つの「踏絵」を踏んでると考えるべきだ。

AKB48に在籍している時点で「踏絵」を踏んでいて、その上で「立候補」でもう1つ踏絵を踏ませるのか?

そうではない。

立候補は「踏絵」ではない。


AKB48は未来の正統派である ~ 「踏絵のアイドル」と「焚香のAKB48」 ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1ac77147ea4e33f6ceef3a40ff34b0c5


もし、「AKB48のメンバーであることの踏絵」で解決できない問題を、「立候補という踏絵」で代替解決しようとしているのだとしたら、本質論に立ち戻るべきだ。

そうやって問題が起きる度に次から次へと踏絵を差し出すようになると、がんじがらめになって近い将来、身動きが取れなくなる。

巧い回避策に頼り続けると、いずれ基礎体力は落ち、根本的な変化があった時に適応できずに崩壊するのが歴史の必定である。

(私は、そもそも「AKB48のメンバーである」ことも「踏絵」であってはならないと思っている。「焚香」であるべきだ。)



なので、ここで「選抜総選挙の位置づけ」を明確にしておくべきだ。



まず「立候補」するのに理由はいらない。

宣言する必要すらない。

なぜ立候補するのに理由が必要なのか?

たしかに衆議院議員になろうと思ったら理由が必要だろう。

それなしに誰も支持してくれないからだ。

それと同様に「立候補宣言」しなければならないとすれば、それは選挙を有利に進めるためだけだ。

だが、根本的にAKB48の選抜総選挙に立候補するのには理由は不要だ。


なぜか?

AKB48グループのメンバーというだけで立候補するための条件が揃っているからだ。

その条件は何か?

それを理解するためには、逆に「なぜ立候補するのに理由がいるのか?」を考えるのがよい。

順位が落ちることを恐れない覚悟が必要だからか?

結果が圏外、負けだとわかっているからなのか?

やる気を誤解されてはならないということなのか?

ファンに無理をさせたくない、ということなのか?

総選挙の主旨にそもそも反対ということもあるかもしれない。

コマーシャリズムに反対など。

AKB48に対する批判を気にしているなど。


だが、それらに総じて言えることは、「結果」を気にしているということだ。

「結果」を気にするから、立候補の理由を考える。

それが、そもそもの誤りだ。


理念に立ち戻るべきだ。

「AKB48は一塁に向かってヘッドスライディング」だろう?


なぜAKB48は一塁に向かってヘッドスライディングなのか、イチローがその答えを教えてくれた
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/7e0acb731f2860261a35e5be769bb353




このやりとりには、AKB48に関する重大な論点が出てきていない。

結局「なぜAKB48は一塁に向かってヘッドスライディングなのか?」という問いに答えられていないということだ。

「マジ」や「ガチ」に人が惹き付けられるから、ということだけが理由なのだろうか。

違う。

もっと哲学的、思想的なものなのである。


上で述べた番組の終盤で、番組スタッフから「野球選手としての終わり方(理想の完成形)は何なのか?」について質問されてイチローは次のようなことを述べた。


人間としての円熟期はもっと先にあると思う。

しかし、物事というのは、たいていそれを辞めてから(野球選手なら引退してから)理解することが多い。

僕は、現役の間にそれをわかりたいと思う。

それが僕の挑戦。


それがどういうものか見えてるものがあったりしますか?


何もわかっていない。

でも、それがわかっていないから、ありったけの気持ちを込められるのだと思う。

それをわかりたいから。

わかっていたら、ありったけは有り得ない。



これが、答えだ。

一塁に向かってヘッドスライディングをする理由だ。


なぜ、高校球児は内野ゴロで一塁にヘッドスライディングして、プロ野球選手はしないのか?

「マジ」や「ガチ」だからではない。

結果がわからないからだ。

いや、言い方を換えればこうなるだろう。

「可能性を信じているから」

「内野ゴロでアウトになるって誰が決めた?」という話である。

内安打を大量製造するイチローに聞いてみるといい。

「なぜ、あなたは内野ゴロでも一塁に全力疾走なのですか?」と。



選挙の結果を気にして「選抜に入れないから」とか「順位が落ちる」とか「どうせ私なんか」などというのは、AKB48ではない。

「そこに山があるから」やるだけだ。

AKB48のメンバーである限り、立候補するのに理由はいらない。


「大人の事情に振り回されるのがいや?」

気持ちはわかる。

だが、では何を考え、どうすべきであろうか。

拒絶するべきか。

立候補せず不買運動で拒絶の意思を表明するべきか。

それも選択肢としてあるだろう。

それは自由だ。

だが、眼前に全力を出すためのステージが用意されてる。

選抜総選挙はAKB48にとって最高の舞台だ。

その機会を、どう捉えて、どういう形でモノにするのか、どうよいモノにするのか、それは初めに決まっているものではなく、それに参加する人々が決めることだ。

自分に何ができるかを考えた結果、初めから諦めて、選挙拒否ならそれならそれで仕方がない。



東京・横浜では今週で桜も見納めだと思うが、桜を見ていると選挙による栄枯盛衰、それもよきことかなと思う。


桜の「はかなさ」について
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e2cad56815e1fa4ea20c71aa755335d6




「桜のはかなさ」とは何であろうか。「はかなさ」とは、桜の花が散る様を見て語られるものだが、果たして、桜の花が散る様は「はかないもの」なのだろうか?

桜は1年を通して「休眠(秋)」「休眠打破(冬)」「生成(早春)」「開花」というプロセスを辿る。桜が美しく咲くために、冬の寒さと春の暖かさが重要な役割を果たす。つまり桜の美しさと四季の移ろいには深い関係がある。日本人が桜、四季、そして人生を重ねたとしても不思議ではない。

だが、桜のプロセスを理解すれば、桜の違った側面が見えてくる。桜の花が咲くのは昨年の夏につけた花芽の成長の結果であるが、桜の花が散るのは、次の花を咲かせるための準備である。桜の花が散るのは1つのプロセスの終わりであると同時に新しいプロセスの始まりでもあるのだ。そしてそれはより大きなプロセスの一部でしかない。

「表の選抜」と「裏の選抜」~伝統芸能と新しさの共存~

2013-03-15 17:41:13 | AKB48_オピニオン
余裕がなくて適当な事ばっかりになっていると思われてそうですが、割と真剣です。


仮定の話。

伝統芸能と新しさの共存みたいな話をしていたので、そのネタを。


仮に新劇場ができたとしたら、今のAKB48劇場は殿堂にしよう。

「殿堂」とかやすす先生が嫌う話かもしれないけれど、そうではないという話。

いつもは見学だけが出来て、年に夏と冬の2回公演が開かれる時のみステージが使われる。

「夏の甲子園」と「冬の甲子園」みたいに。

冬はAKB48劇場で初公演が行われた12月8日で、夏は選抜総選挙の直後。

AKB48の中で最も権威の高いものといえば、たぶん「選抜総選挙」だと思うけど、

それとは別にAKB48の最高権威を作る。

夏公演選抜は選抜総選挙の上位16名で、冬公演選抜は毎劇場公演の度に行われるファン投票の1年間分の累積によって決める。

冬公演選抜の投票は、劇場公演1回参加につき1票入れることができ、1年間の結果上位16名が選ばれる。

夏の公演選抜が「アイドルとしての人気の選抜」なら、冬の公演選抜は「パフォーマーとしての実力の選抜」と言われるようになる。

人気のセリーグ、実力のパリーグ的な。

言うなれば、AKB48の「表の選抜」と「裏の選抜」。

この裏の選抜に選ばれ、冬公演に参加することはAKB48のメンバーとして裏の最高の栄誉であり、

1位は冬講演の前に、つまりデビュー○周年に際して、あの邪魔くさい二本柱に年輪テープを貼る大役を任せられる。

テープを貼った者の名前はテープに名前が記される。

表と裏、両方の選抜に選ばれるメンバーは、名実ともにAKB48の中核メンバーとして権威づけされる。



人気出てもいいけど人気出なくて、それでも認められて欲しいメンバーがいると思うのです。

そういうメンバーを積極的に評価する文化があってもいいなと思った次第です。

研究生でチーム8を作ったらどうか?

2013-03-13 19:59:18 | AKB48_オピニオン
SKE48は、次世代エース級メンバーを「SKE48バス」で全国武者修行させたらどうか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6522173ea3af32a26b55cbddf8cad599


のつづき。


私だったら、研究生で「チーム8」作るかな。

これまで通りの研究生→正規生昇格→既成の3チームに配属、という流れには反対。

最近のAKB48を見て個人的に感じてるのが「不屈の精神」とか「努力」、「悲壮感」、よくいえば「美学」的なものといったところ。

歳をとったということなのか、直面する問題がより難しくなったということなのか。

それはそれでいいんだけど、

「前向きさ」とか「キラキラ感」、「ドキドキ感」、「フレッシュ」といったもの感じにくいんだよね。

両方欲しいなぁと。

AKB48の凄さって、その両者をうまい具合に両立していた点にもあると思うんだよね。

草の根デビューというのか地下デビューというのか。

もちろん選抜凍結でチーム8がヒットしたら歓待されると。


個人的な趣味の話だけど。

チーム4を解体してしまったが、まだやれる手はあると思う。

研究生、メンツも揃っていそうだし。

SKE48は、次世代エース級メンバーを「SKE48バス」で全国武者修行させたらどうか?

2013-03-08 01:47:59 | AKB48_オピニオン
ずっと前に当Blogでは、SKE48の根拠地中京圏はAKB48の東京圏、NMB48の大阪圏に比べて都市人口では劣ってはいるが、むしろ他のグループは経済的な中心地である東京・大阪に構造的に縛り付けられてると捉え、機動的かつ草の根的に全国を走り回ってファンを稼ぐ戦略をとるべき、つまり「会いに行くアイドル」になるべきと主張していた時があったのだが、今こそ、その時なのではないかと思う。

湯浅元SKE48支配人が「(NMB48はやってるのにSKE48は)ツアーやりたかったが、やらせてもらえなかった。」と苦しい心境を述べていたが、もうね、そういう発想が面白くないわけ。
(ごめんなさい)

あと、よくファンが「結局仕事は東京にあるから東京に進出しないと云々」という話も、正直言って面白くないよね。

もともとAKB48はマスメディアに依存しないグループとしてスタートしたわけでしょ。

批評家の宇野さんがうまいこと言ってるけど「朝廷(既存メディア利権構造)に対する鎌倉幕府(自主独立)」なわけだよ。

AKB48の強さは、マスメディアに依存しない自分たちの経済(顧客)基盤を持っていたことだった(過去形)から、マスメディアに対する支配権を確保できたし、面白い仕掛けや好きなことをいろいろやれたのだ。

SKE48がさらなる飛躍を目指すなら、やるべきことは新領域の顧客の開拓だよ。

ツアーなんてやっても来るのはファンだけ。

もちろん、既存のお客様を大切にするのは当たり前です。

だけど、今のSKE48に必要なのはそういうことじゃない。

今SKE48について知らない人、つまり「新しいファン」を掴まないといけない。

だからさ、みんなが「東京」「東京」言ってる時にさ、SKE48は「地方」に行くんだよ。

アイドルなんて興味のない人々のところに行くわけ。

「あいのり」みたいに6人くらいでバスに乗って草の根的にね。

メンバーは次世代エース級をずらっと揃えてそこにベテラン1人くらいのミックスで。

自分たちのお客さん(未来のお客さん)を自分たちで持ってこさせる努力をさせるべきなんだ。

先輩たちが作り上げた地盤を引き継ぐのではなく自分たちで創るんだよ。

その昔、小沢一郎が泥臭い「ドブ板」を推し進めたのは、政治家は有権者のところへ行って直接面と向かって話し合うことで相互理解を深めることができて、そうすると選挙を気にして時勢に流されることがなくなり、国会で自信を持って自分の意見を主張できると考えたからだ。

目の前にいるのが自分たちのお客さんたちじゃないから、先輩たちからいくら叱咤激励されようが変われないわけ。

やる気がないんじゃなくて、構造的な問題なのだ。

それなのにいくら吠えたって変わらないよ。

自分たちのお客さんを掴むだけではなく、そのプロセスがメンバーたちを育ててくれる。

これはAKB48初期メンバー達が経験したことでもある。

クルマは性能が許せば鉄腕ダッシュのだん吉よろしくエコカー(太陽光)で、

でその「SKE48バス」にはBBQ松村香織が研究生兼マネージャ兼カメラマンとして毎回随伴する。

バスメンバーには1日最低2回はライブをすることが義務付けられ、毎日ライブのためにお客さんを集めなければならない。

学校行って呼びかけたり、スーパー行ったり、拡声器持って宣伝して回ってたら警察に怒られるとかして、やれることはなんでもやる姿勢でやる。

集客だけではなく、場所も交渉して確保すると。

時には、田んぼの真ん中でお客さん1人のために歌って踊ることもあるわけだ。

「今日は香川に来てるからお昼うどんにしよっか」とか「今日の目標はライブで10人以上にCD買ってもらう」とか。

田舎に行って「知らない」とか「AKBなら知ってる」とか言われながら、「(SKE48は)紅白歌合戦に出ました。」と言って「あ~、あのバク宙の?!」「それ私です!(もちろんメンバーには藤本参加)」という会話をするという紅白ブランドを使った会話を楽しみつつ、ダーツの旅的な知らぬ土地でのいろんな人との出会いあり。

この汗あり、涙あり、喧嘩あり、出会いあり、別れあり、喜びありの泥臭い話は、毎日ググタスで動画配信され、全世界のファンに配信されます。

もちろん担当は松村。



とにかく、何度も言うように、今のAKB48グループの若手メンバー達はグループ問わず「自分たちのお客さんを自分たちで創り上げる。」というプロセスをほとんど踏んでいないのだから、いつになっても「後輩」のままだし、AKB48グループの成長も未来もない。

「自分たちのお客さんを自分たちで創り上げる」というやつ、AKB48はチーム4解体するしその後も全く何もせずやる気ないらしいから、SKE48がやったらいいよ。



忙しいのでラフ過ぎる文体ですみません。