久しぶりにスピリチュアル的観点から話をする。
当Blogのコアコンピタンスでありますので。
前回のエントリは時間がなかったので引用に留めていたが、少し私見を述べたい。
なんとことはない、当Blogで何度も繰り返し述べる「相対性」と「知的好奇心」についての議論なのだ。
※
[当Blogの主張]
生命の根源的欲求は「知的好奇心」であり、その欲求を満足しようとして生命は、この相対的な宇宙において「相対性」を用いる。
相対性の悪魔 再び(進化する魂)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/107b2e19917ea0866c323c6f30edea2f
ハーバード大学社会心理学部のダニエル・ギルバート氏。
おそらく多くの日本人が彼を知らないが、でも彼を見たことあるだろう。
大和証券のCMだ。
ボブは告白できない。
ジョージは告白を待っている。
ボブは、過去の失恋を忘れられない。
ジョージは、女の子からほめられた事を忘れられない。
滅多に起こらない出来事は 滅多に起こらないのに。
「人は未来を予測する時、最良と最悪の出来事ばかり思い出してしまう」
を説明する博士だ。
他にも「人は未来を予測する時、極端な出来事を想像する傾向がある」版のCMもあった。
そのダニエル・ギルバード氏が提唱するのが「実際の経験によって幸せの尺度が拡張される」という説(experience-stretching hypothesis:邦訳すると・・経験的価値尺度拡張仮説?)だ。
未来を予想しているときは幸せだが、実際に経験すると簡単には満足できなくなるという。
「幸せはいつもちょっと先にある」のだ。
で、今回、ベルギーのリエージュ大学の心理学チームが、ダニエル・ギルバード氏の仮説を確かめるために実験(実験の正当性については横に置くとして)を行ったと。
お金は人が最高に贅沢な喜びを味わうことを可能にする(贅沢なホテルに泊まり、高級な寿司を食べ、素晴らしいガジェットを買える)が、それゆえに、日常のありふれた喜び(天気の良さや冷えたビール、チョコレートなど)を味わう能力を低下させると考えている。そして、われわれが遭遇する喜びのほとんどはありふれたものであるため、贅沢をする能力を得ることは、喜びを味わう能力にとっては、かえって逆効果になるのだという。
右肩上がりの時の幸福感の説明にもなるわけだ。
次から次へ新鮮な経験が待ち受けているから、幸福を感じると。
そして、よく聞くあの言葉に繋がる。
人間、登っている時はいいが、登り切ると後は下るだけで、
そうすると現在位置は豊かにも関わらず幸福を感じれず不満を覚えてしまう。
それに対し、最近、一部の言論人から聞くのは、逆に下り坂を楽しめれば、
下り坂でも幸福を感じれるはずだ。
そういう生き方が大人の生き方ってもんだぜ。というものだ。
内田樹とかね。
さて、この問題、「幸せの正体とは何か?(幸せって何?)」という古典的な問題について
我々はどう考えるべきだろうか。
当Blogの古参読者の方には繰り返しになってしまうが、今一度語ろう。
「幸せ」とは何か。
こんな宇宙の神秘のような難解な問題に、当Blogでは非常に簡単な答えを用意している。
幸せとは、「知的好奇心」の充足である。
道具は無限の「相対性」。
幸せを説明するにはたったそれだけで十分だ。
生命の欲求に「知的好奇心」以外の欲求は存在しない。
全ては「知的好奇心」の派生的欲求に過ぎない。
(ただ、この「知的好奇心」が何者かについては後述する。)
実は、これとマイケル・サンデルらコミュニタリアンがいう
コミュニティ内で自己を確立するための「物語」は、非常に濃密な関係がある。
物語が提供するのは、未来に対する予想および期待(それを時に妄想という)だ。
人間は、その予測に対して幸せを感じるのだとすれば、
その予測を提供する「物語」こそ、幸せの源泉といえる。
当Blog流に言えば、「物語」が提供するのは、予測および期待であり、
その予測および期待の正体は「知的好奇心」である。
そして「物語」の正体は「相対性」だ。
「物語」は人間が相対性によって生み出したもの以外の何物でもない。
「相対性」によって喚起された「知的好奇心」の充足、これが幸せなのである。
この考えは、コミュニタリアンの主張と親和性が非常に高い。
もう少しだけ詳しく説明することとしよう。
知的猛者の人々は、「知的好奇心」の充足というが、では「知的好奇心」とは何か?
ということが気になるだろう。
直感的には理解できるかもしれないが、少し説明が必要だ。
ただ、実はこの「知的好奇心」を完全に説明することはできない。
言葉の範疇を超えているからだ。
言葉で表現できる概念を超えていると言ったほうがいいだろう。
こう話すと、いつもスピリチュアリストの都合のよい現実逃避のように責められるのだが
私は、討論に負けるのが恐くて正確に説明できないと言っているのではない。
単に言葉で全てを表現できると考える方が理性万能主義の危険な発想だと言いたいだけなのだ。
だが、それでも私は説明を試みることにしよう。
これは自分自身への挑戦でもある。
(とかいいつつ既に息切れ気味なので、如何に早くこの文章を終わらせるかしか考えていないが)
「知的好奇心」とは何か・・・はやっぱり後でまた
今疲れて眠いから・・