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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

男性にも「出産適齢期」がある

2011-06-27 21:45:52 | 社会
男性にもある「出産適齢期」 - 高齢の父親と子どもの障害の相関性(WSJ)
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_254698

先天性疾患を持つ子供の親として言っておきますが、こと出産に関して言うと、早い方がよいです。
男も女もです。

あくまでも確率的問題ではありますが、高齢になればなるほど確率は高まります。
もちろん、平均的人間などおらぬため、健康を考える上では個体差、誤差を考慮に入れるのは当たり前であり、高齢だから即NGというわけではありません。

しかし、確かな理由がわからなくても、統計を取ると有意な結果が得られるわけです。
年齢というパラメータは放射線被曝よりもずっと先天性の奇形に影響を与えると考えられます。

そもそも、出産期が高齢化したのは、ここ数十年のことであり、以前は今よりずっと若い時期に出産していました。
現代のように、高齢出産が一般化した状況は、人類未踏の領域であり、非常にリスキーな可能性が大です。
現代社会における経済的合理性は高齢出産に傾いているでしょうが、生物学的な合理性は高齢出産を歓迎するとは限りません。
今後、もっと違った形で、高齢出産の影響が出てくる可能性もあります。

私の子供は中核病院に通っておりますが、似たような状況の子供の多くは高齢出産です。
しかし主治医の論文も読んでみましたが、やはり親の年齢で有意な差が見て取れます。
原因が完全に解明しているわけではないので、バイアスもあるでしょうけれど。

あくまで総体としてのお話で、例外があるのは常識です。
何の提言にもなっていませんが、こと出産に関しては、放射線よりもずっと年齢を気にした方がよいようです。
放射線を気にするなってことではなくて、もっと全体として年齢を考えた方がよいということです。
だからといって早く生む方法があるわけでもないので、どうすることもできないわけですが、要点は、医療技術を過信して事後の対応に頼るのではなく、あくまで生活スタイルの範囲内になってしまいますが、事前の対応で未然に防げるものは防いだ方がよいということです。

健康に関しては言えば、時代は「治療」から「予防」へ移っていく、これは避けられないのであります。

先輩に賞を譲った時の話

2011-06-27 15:35:57 | 社会
この話は私の記憶を再構成したフィクションです。
決して学会の権威を貶めたいのではなく、人間社会を考察するためのケーススタディです。
小さい話だし、かっこつけた話なので、小話程度に思って頂けるとこれ幸いです。

◆◆◆◆◆◆

もうずっと前、私が修士1年だった時のこと。
私の学部時の卒業研究を元にした論文が、ある学会の査読付き論文誌に掲載されることになった。
私としてはどうでもよいことだったのだが、研究室には企業から共同研究の名の下に多額の資金が入ってきており、指導教官達にとっては査読付き論文を何本とれるかは重大な関心事であり、学部研究で1本稼いだ私は高い評価を得た。

しかし、私は非常に複雑な心境であった。
むしろ嬉しくなかったのである。
なぜなら、その論文のFirst Author(第一著者)は私になってはいたが、実際に論文を書いたのは2nd Authorの先輩院生だったからだ。

なぜ、先輩が私の名前で論文を書いたのか。
それにはわけがある。

まず第一に、論文の元になった研究成果の大部分が私の業績であること。
次に、指導教員は先輩よりも私の将来に期待しており、論文掲載を私の業績としたかったこと。
(研究者にとって論文数は非常に重要だからだ。)
そして何より、私が指導教員からの論文執筆要請を右から左へ流し続けたことがある。
(単純に忙しかったから。恋愛に・・。)

その先輩は、真面目かつ勤勉で、技術的なことは私よりずっと詳しかった。
しかし彼は少し不器用だった。
真面目すぎたのだ。
だから実質的な指導教員である助教からは評価されていたが、大御所の教授には認められなかった。
逆に、私はいい加減な性格で物事をきっちりこなすのが苦手な上、技術的なバックグラウンドは持ち合わせていなかった。
しかし、私はその適当な性格ゆえに細かいことを気にせずに大きな画を描くことが得意だった。
だから先輩とは逆に大御所の教授に認められていた。
私は自覚していた。
私が適当を通せるのは、技術を持った先輩や同期の友人達がいるからで、私に対する評価は、私をサポートしてくれる人々を含めた全員に対する評価なのだと。
私は全員を代表しているに過ぎない。
そう、つまり先輩は一人で勝負しているのに、私は周りを自分のところに引き込んで組み合わせて付加価値を生み出して自分の業績にしていたのだ。
もちろん意識的にである。

しかし、その後に起きたことが私を陰鬱とさせた。
なんとその論文の功績で学会から賞をもらうことが内定したのだ。
もちろん受賞者は私一人だ。
そして、2nd Author の先輩もその事実を知ることになった。

とても私事なことだが、当時、その先輩の母親は余命いくばくもない状態であった。
何かを意図してということはないが、ある時、先輩はぽつりと「母親に最期に賞を取ったことを報告したかった・・。」と漏らした。

先輩自身は何かを期待してということではなく、単純に自分の不甲斐なさを悔いて言った言葉であったと私は確信している。
今から死に行く母親にとって、息子のそのような後悔が何でもないことはわかっていた。
だが、先輩の気持ちを思うとやりきれなかった。
私の中で何かが動いた瞬間だった。

何も考えずに学部主任の教授の部屋へ行って、こう伝えた。

「賞を辞退したい。」
「私には資格がない。実際に論文を書いた先輩が賞を受け取るべき。」
「先輩を代わりに推薦して欲しい。」

もちろん、大説教をくらった。

「賞は私事都合で決まるものではない。」
「なんと身勝手かつ不謹慎な理由だ。」

その教授は私の直接の指導教員ではなかったが、人の良さでは知られていたので、少し期待していたのだが、やはり現実は甘くなかった。
しょぼくれた私は意を決して、自分の指導教員の教授のもとへと行くことにした。
指導教員は皆から恐れられる大御所で、下手をすると研究室にいられなくなる可能性があったが、自信はあった。
私自身が教授に特別に好かれていたこともあるが、教授の癖をうまく利用する手はあると考えたからだ。

「賞を辞退したい。」
「私には資格がない。実際に論文を書いた先輩が賞を受け取るべき。」
「先輩を代わりに推薦して欲しい。」
「こんな賞はいらない。他人の論文で賞をもらうなど自分が許せない。」
「私はこの論文に全く満足できていない。」
「次の論文でもっと大きな業績を得るつもりだ。」
「私ならそれが出来ると思う。」

いろいろあって、その教授は、次のように答えてくれた。

「君らしいな。」
「わかった。あれは所詮名誉賞みたいなものだから、本当に素晴らしい研究と認められたことを意味するわけではない。」
「私の方から言っておくよ。」

むしろ最後は笑顔で私の印象がさらにアップしたくらいである。
教授に気に入られることが、どれだけ研究生活にメリットがあるかは言うまでもない。

で、この話の中で、何が言いたいか。

日本の学会なんて適当だというところではない。
(これフィクションだから)

この話を聞いて、いい話と思うか、駄目な話と思うか。
その違いだ。
「先輩も受け取っちゃだめだろ」という突っ込みを聞きたいのではない。

要するに、この話の中で誰が損をして、誰が得をしたかという話なのである。
良いとか悪いとかではないところで、人間って何ができるだろうかって話だ。
そもそも「賞」がなかったら悩みもしなかったところに、「賞」が出てくることで問題が発生したわけだ。
賞なんて食べれないものに一生懸命になってしまう。
人は善意ゆえに傷つくのだが、そこの技術は何かなのです。
これも「人間の問題」。

電車の中で45くらいのサラリーマンの男性が「はぁ?キモッ」といわれて
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e1c768d6bd9f572604a0c5de99262323

私がAKB48批判を批判する理由  究極の理論を教えてほしい
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d817115b717b669bb72f14467ecbeb7

このエントリを関係者が見ないことを祈ります。

◆◆◆◆◆◆

ちなみに、その後、私が賞をとることができなかったのは言うまでもない(笑)
より正確に言うと、本気で狙いにいった研究で見事に滑った。
はっはっは。

あくまでフィクションだ。

「命をもってあがなう」日本文化論の嘘八百

2011-06-27 13:32:52 | 社会
この記事はいいところを指摘していて面白い。

「命をもって購う」日本文化論の嘘八百
この国は本当に先進の法治国家なのか (伊東 乾)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/12591

[...]

民衆支配の構図の中では、当然のようにして「死をもって購う文化」が恐怖を裏打ちとする見せしめとして、延々続いていた、いやむしろ激化していた可能性すらあるでしょう。

 問題は、それらが文書に必ずしも残されず、多くが識字能力のなかった民衆層を恐怖心に基づく統治=「(フランス革命期の命名の正しい意味における)テロリズム」による支配を、法を超えて支え続けてきた、という草の根だと考えられるわけです。

[...]

悪党の特徴は、刀を持っているということです。これは何か? 殺人の道具です。

 後々まで「切捨て御免」と言われるように、悪党すなわち初期の武士は「裁判」の手続きなど踏まず、何か揉め事があれば「彼自身が法」となって「切捨て御免」で物事を解決していった・・・現代で言えばこれ、ヤクザの問題解決法と変わりありません。

 一方で、都から来たエリートはきれいごとで「平安なまつりごと」を司る。他方で地元の実力者は、法もへったくれもない暴力で有無を言わせず政治を動かす・・・こう言い切ってしまうなら、史学であれば誤りになります。

 しかし現実には、中央政権の力と地元の力、この「二重支配」が8世紀から15世紀まで、ほぼ700年にわたって二重のパワーで日本全国を支配し続けます。

[...]

秀吉の行った「太閤検地」と「刀狩り」などの武装解除が、「非公認の悪党」を全国から駆逐するのに、最終的な力を持ちました。

 しかし、幕藩体制下にあっても、武家は各地の惣村の中にまで手を突っ込もうとはしませんでした。時代劇で見るような「お奉行様」の裁きなどはごく一部のことであって、農村内部の掟や裁きは、各々村の中での合議、あるいはむき出しの暴力で内々に処理されることもあったようです。

 ここで重要なことは、そのような各地の「ホンネの裁き」が、成文法に基づくものではない、直接的な暴力と感情的判断が支配する世界であった、という事実です。

 鳩山邦夫さんが「日本文化」と言ったものは、一面極めて正確だと言えます。それは、決して表の記録で文書に残るようなものではない、「受領」が律令という文字で明確に記された「罪刑法定主義」でとりつくろうのとは別の、暴力を背景とするパワーの調停、親分仕事です。

 これは、フランス革命期、恐怖を背景として民衆動乱を抑え、支配を確立しようとした元来の「テロリズム」そのものであるところの一切無関係の「ホンネの力の政治」です。

[...]

「命をもって購う」と称する人たちの主張が、文章に書かれた「法治主義」をホンネでは軽んじ、力と感情に支配された「人治主義」を、フラストレーションのたまった21世紀初頭の民心を背景に「日本文化」の如く称しているだけであることが明確になりました。

[...]

そのような浅い理解の、正体不明ながら選挙向けの「日本文化」という強弁で、現行法の本質と一切矛盾する「人知主義」的ホンネを「根拠」としながら、民主主義的な政府で法務を司るはずの職務にあたるとしている部分が、根本的に間違っている、ということです。


よく見かける風景であるが、何の根拠も示さずに「日本文化が」という理由で物事の善し悪しを判断する人は、基本的に危険だ。
私も私的な日本文化論を披露することが多いが、あくまでも説明を短縮するためであって、根拠にしているわけではない。
全ての物事を完全に追求することは能力と時間の問題で不可能ではあるので、どのレベルまで論理性を求めるのかは、物事によって変わる。
人は、人間のことも宇宙のことも完全にはわかっていないから、最後は信念だ。
これまで幾度となく経験してきたが、どんな世界も最後は信念対決のフェーズに入る。

ただ、完全はないからといって、決め付けてはならないし、諦めてもならん。
重要なことは、出来得る限りお互いの理解を得ようとして、論理の正当性を議論しようとする姿勢である。
なぜコンセンサスや相互理解を得ようとすることが重要なのかといえば、人の理性が完全ではないからだ。
完全ではないから、人はその論理の正当性を保証することはできない。
だから、論理の正当性を徹底的に叩いて、上の次元へ昇華させるプロセスが必要であり、それがコンセンサスや相互理解を得ることの意味なのである。

誤解して欲しくないのは、だから全ての物事についてコンセンサスを得る必要があると言っているのではない。
内容や詳細よりもまずは動くことが求められる状況では、コンセンサスを得ている暇はない。
内容如何に関わらず、やる必要があるからだ。
内容にこだわるのであれば、コンセンサスを得ようとすることが"有用"である。

さらに重要なこと。

「コンセンサスを得ようとすると何も決まらない。」というのは、元の目的を失っている。
コンセンサスを得るのは、その内容をより高い次元に昇華させるためである。
内容をより高い次元に昇華させる必要がなければコンセンサスを得る必要がない。
逆に、内容が低レベルなものであれば、徹底的にコンセンサスを得る努力をすることで、内容を鍛え上げるのだ。
目的を履き違えてはいかん。

ドラッカーは、日本企業のコンセンサス重視型経営を見て「事前の情報共有を徹底的に行うことで、いざ作戦を実施する段階になった時に情報共有コストを大幅に低減させることができる。未来型の経営スタイル。」と評したが、これも結局は作戦の内容を磨き上げるということなのだ。