進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[つぶやき]娘がスカウトされた

2011-02-28 13:21:22 | ブログ情報(News Release)
最近、アクセス数が減ってきたので、ついでにブログの立ち位置も変えてしまおうという気になってきました。
最近、本当にいろいろあって、いろんなものをリセットしてしまいたい気分なので、このブログもジャンルを変えるくらいの勢いで変身していこうと思います。

ということで、これからは少しプライベートな話も出して行こうと思います。
ただし、これまで通り匿名は維持するし、個人を特定できるような具体的な情報は明かしません。

で、まず第1弾。
先週うちの娘がある芸能プロダクションのスカウトだと名乗る人からスカウトされた。
まぁこう書くとちょっと大げさな言い方だが、聴くところによるとスカウトされること自体は結構あるらしい。
(東京や横浜ではよくある話)
だから最初に言っておくと、スカウトされたからといって私の娘が特別何かに優れているというわけではない。
ただ、親としては子供の将来を考えるということがどれだけ難しい問題か、いや親が関与すべき子供の将来の範囲とは如何ほどかというのは一般解のない問題だ。
ここでは、そういうことを題材としたい。

(いろいろとプロダクションの説明や、スカウト後に待っている世界の話があって・・)

スカウト:「どうでしょう。やってみませんか?」

私:「娘にそういう可能性を感じていないのでいいです。」

スカウト:「スポンサーが付けば、いろんな特典がありますよ。」
スカウト:「例えば、うちの事務所の○○はスポンサーがついているので無料で海外いけたりします。」


と経済的なメリットを主張してきたので、
そんなものを全く求めていない私は議論を展開して、

私:「いや、他に可愛い子がいっぱいいるし、その中で勝ち残っていくとは思えません。」

と言ったら

スカウト:「そんなことありません。私は長年スカウトやっていますが全く問題ないと思います。」
スカウト:「一度、ゆっくりお話させていただけませんか?」

と言われたので、本音で話をする。

私:「そっち方面に進んだら、人生の早い段階で方向性をロックしてしまうかなと。」
私:「今その決断をしてしまうことはできないし、娘が自分のタイミングで決めればいいと思っています。」


スカウト:「2~3日したらお考えが変わるかもしれません。」
スカウト:「たいていみなさん、少し経つとやってみてもいいかなとお思いになられます。」
スカウト:「2~3日後にまたチャンスを頂けませんか?」


私:「変わることはありません。」

このスカウトという人が結構しつこく、
こんな議論を繰り返している内に、

スカウト:「親御さんが反対されている状況で無理は申しません。」
スカウト:「もう一度だけ、確認させてください。」
スカウト:「どうでしょう。まずはゆっくりお話させてくださいませんか。」


私:「すみません、いいです。」


スカウト:「わかりました。お時間をとらせて申し訳ありませんでした。」


となって終了。
スカウトの人は非常に丁寧であったし、常にこちらに気を使う語り方で決して悪い人ではなかった。
スカウトというのが、こんなに気持ちのよい人達なら、賛成する親御さん達も多いに違いないと思いもした。
多分、スカウトされた娘が長女でなかったら、私はスカウトの話に乗った可能性が高い。

だが、残念なことに娘は私の初めての子だったので、私の夢が重なってしまっている。
それが良いことなのか悪いことなのかは別として、私は娘に社会的影響力を持って社会的問題の解決に寄与する立場に立ってほしいと強く願ってしまっている。
政治家や社会起業家ではなくとも、新しい哲学でもって社会的問題の解決に寄与する人物になって欲しいと願ってしまっているのだ。
だからといって娘に何かを強制したりはしていないが、私自身がそう願っているから、私に他の可能性を模索しろと言われても、かなり難しい。
(ハリウッド女優には、ブレイクした後に社会貢献活動に精を出すセレブもいるが、そこまで登りつめれるとも・・考えにくいというか何と言うか。)
もちろん、娘が自分自身の行く道を決めればよく、他の可能性を模索したいならすればよい。
私自身、押し付けるつもりもなければ、そういう言動もとらない。
ただ、娘が求めていないものを、親が自ら、特に自分の信じるものとは別のものを押し付けるのは難しいという話をしたいのだ。

というのも、娘が全ての情報を掴んでるわけでも、私が全ての情報を掴んでいるわけでもないので、娘か私が考えていることが正しいとは限らない。
時には、誰もが考え付かない方向に転んだ方がよいこともある。
誰かが助け舟を出しているのかもしれない。
人間万事塞翁が馬である。

そういうことを考えると、人の人生を方向付けてしまう可能性というのは親であれ自分自身であれ非常に怖いことでもある。

それと、スカウトの人にも少し努力が足りないなと思うのだが、芸能人としてヒットすることや経済的メリットだけで親を説得しようなどというのが、なんとも旧世代的な古きよき時代の発想だと思う。
今日的な仕事感で重要なのは職業が果たす社会的な役割なので、例えば芸能人という仕事が、社会にどのような影響力を行使できる可能性を持っているかという点で親を説得すべきではなかろうか。
芸能人になるにもトレードオフがあることがわかっているのだから、その点を明らかにして、それにも増してやる意味があると主張できなければならないのではないだろうか。
いや、逆にそういえるような業界でなくても今後の繁栄はないだろう。
今どき単純に自分の子供が芸能人になって喜ぶ親が多くいるとも思えない。

まぁ、最後に言っておくと、たとえ今回のスカウトにのったとしても、即芸能人になれるだなんて考えたりはしていない。

PASSPO(ぱすぽ) を見て感じた生の重要性

2011-02-28 10:33:41 | ビジネス
ぱすぽ☆オフィシャルサイト
http://passpo.jp/

横浜在住なので、休日は横浜近辺にいることが多いわけですが、ここ2週間はみなとみらいにいました。
(その前は野毛山動物園に10週連続くらいでいました)
最近は日産本社がやってきたり、いろんな商業施設ができてきたのですが、私は古い人間なので「みなとみらい=コスモワールド」という図式が成り立つ人なので、飽きもせずコスモワールドにいたわけです。

すると、2週連続で「PASSPO」という旅をテーマにした10人組のアイドルグループのコンサート&握手会などをやっているじゃありませんか。
失礼ながら私は「PASSPO」なるグループを知らなかったのですが、実際コンサートが始まるとそのパフォーマンスのレベルの高さに驚きました。
歌やダンスの質の高さもさることながら、ステージの上に立つ彼女達が"表現者"としてプロフェッショナルであろうとし、そのために大変な努力をしているのであろうことが、彼女達のことを何も知らない私でもその場にいてすぐにわかりました。
細かい動きや視線、息づかい、場の雰囲気、またファン達ステージを見つめる人達への彼女達からの気づかいなど、TVやネットだけ見ていては気づけない、歌やダンスだけに還元できないそのアーティストの魅力というのが、実感として理解できました。

彼女達がブレイクするかどうかは別として、生で見る彼女達のパフォーマンスの質はプロだと思いました。
プロフィールを見るとまだ20歳以下ということがわかったのですが、自分が20歳の時などのことを考えると恥ずかしくなります。

それにしても、おそらく、TVやネットだけで「PASSPO」を見ていたら、私は彼女達に何の魅力も感じなかったでしょう。
現に、彼女達のオフィシャルサイトやブログを見ても、良さがいまいちわかりません。
他にもアイドルは山ほどいるからで、違いが出にくいのです。
だから、多くの場合は、どの程度プロモーションに投資するかによって大勢が決まってしまうものです。

でも、生で見てみると、わからなかった魅力に気づくものです。
他との違いではなく、そのものの価値や魅力に気づけるのです。
TVやネットでは伝えることのできない魅力がそこにあるからです。
(だから直接行って感じる例えば旅行もなくなりはしない)

逆にTVやネットでは、そのものの価値や魅力に気づけないからこそ、他との差分が非常に重要になってしまいます。

TVやパッケージメディアが凋落し、ネット全盛の時代と言われますが、そういう状況だからこそ、こういう生の情報を伝えていくか、マーケティングでは、これを考えていく必要があるでしょう。
生の感覚を得る機会をどうやって増やしていくか、そういう意味ではAKB48のビジネスモデルは間違っていないと思うわけです。

まぁ結論はありきたりな話になってしまいましたが、人間というのは不思議なもので、こういう人の努力を感じると少し応援したくなるものです。

「愛するべき」で愛する人は、その愛によって滅ぶ

2011-02-25 15:55:54 | スピリチュアル

「愛するべき」で愛する人は、その愛によって滅ぶ。

人の心は理性で制御することができない。

理性で制御できるのは人の表面的な振る舞いだけだ。

何人も自分に嘘は付けない。

心は嘘をつくことができないからだ。

嘘をつけるのは理性によってだけで、心を騙すことはできない。

人の心が変わらない限り、永遠に理性によって嘘をつき続けなければならない。

偽りのない愛を知りたければ、心が変わらなければならない。

しかし、愛さないということを知らなければ、愛するということを知ることはできない。

つまり、愛さないということを通してのみ、愛するということを知ることができる。

この葛藤の中に身を置いてこそ、人は成熟し、愛を知ることができる。

「愛したい」で愛する人は、その愛によって栄える。


[つぶやき] アクセスが減少傾向

2011-02-25 15:24:32 | ブログ情報(News Release)
gooブログではアクセス解析ができないので推測の域を出ないのだが、最近アクセス数が減少傾向にある。
ただ、ユニークIP数は減っていないので、おそらく新規読者が減ってリピーターの皆様が大勢を占めているのかと思う。
(リピータなのかRSSなのかはわかりませんが・・もしくはbot)

新規読者がどこからやってくるかといえば、どこかのランキングとか他Blogでの紹介とか、そしてGoogle検索などによってだと思われるのだが。

で、最近のエントリを眺めて見ると、最近の旬の話題が少ない。
なるほど、アクセス数を増やすためには、もう少し話題のキャッチーなタイトルで釣らないといけないようだ。

まぁそうやってアクセス数を増やすことに何の意味があるのか?と聞かれると何も答えられないのだが、減少傾向にあるというのが何ともさびしいものである。

というか、gooブログだけで150万ある中で、どうやって自分のブログにアクセスしてもらうかを考えるのは、小中学生の総合学習なんかでやったらいいんじゃないかと思うネタでもある。

顧客が誰か?とか考え出すと、それこそドラッカーの「マネジメント」を読むことになり、「もし○○の小学生がドラッカーのマネジメントを読んだら~」とかやれるなぁということも考えたり考えなかったり、ちょっと先生とかやってみたいと思う今日この頃である。

満員電車解消よりも輸送能力の向上が東京首都経済圏のために重要

2011-02-25 15:14:40 | 経済
昔、当Blogでも考察したことのある満員電車ネタですが、再考してみましょう。

満員電車解消は最優先課題のひとつ!地下鉄合併について(渡邉美樹)
http://ameblo.jp/watanabemiki/entry-10812186419.html

これが一番大切なのですが、地下鉄は公共財です。

その経営のゴールは利益最大化ではありません。

「利用者の満足の最大化」です。

その意味で、都が過半の株式は確保し続け、経営陣に厳しく満足度向上、再投資を求める必要があると思います。

国と都が話をつける必要がある案件です。トルコやインドの地下鉄開発を日本チームがかなりやっていますが、そのようなインフラ輸出のような成長戦略にしっかり取り組めるような、そんな体制が組まれるべきだと考えます。

水野君、答えになっているでしょうか? ちなみに、ラッシュアワーの輸送能力はめいいっぱいのようです。大幅に投資して複線化するよりは、企業の始業時間の柔軟化、職住近郊化策、など、「チーム東京」でお金をかけすぎずに解決したいですね。


反論ではないのですが、1つの考え方としてあっていいなと思うアイディアを書かせて頂くと、それは東京首都圏の人口が増加し、そして経済が成長をすることを前提とした投資計画があってもいいと思う。ということです。

渡邉さんの主張は合理的かつ一般的なものです。
通常、設計する側になって考えて見ると、電車の利用状況を観察するとピークがラッシュアワーに集中するので、ピークに合わせて設計すると高コスト構造になってしまいます。
ラッシュアワー以外の時に利益にならないスカスカの電車を走らせるか、もしくはラッシュアワー用の余剰人員を抱え込む結果になってしまうからです。
また、様々なシステムをピークに合わせて設計しなければならないため、維持・運営費もかさみます。
より経済的なのはピークを平準化するということですね。
入り口で流入量を制御できれば、ピークを押さえ込むことが可能で、ピーク設計が容易になります。

だから、

大幅に投資して複線化するよりは、企業の始業時間の柔軟化、職住近郊化策、など、「チーム東京」でお金をかけすぎずに解決したいですね。

と考えるのがまぁ普通の企業人の考え方でしょう。
しかし、実際に駅の改札口で入場制限をするのは、事故発生時以外では市民の自由を制限する行為であり社会主義国家でもない限り現実的ではありません。
となると、「企業の始業時間の柔軟化」、「職住近郊化策」ということになるのですが、私はこの考え方も現実的ではないなと思います。
なぜか?
それは企業の始業時間が柔軟化されても、昼働く人と夜働く人に分かれるわけではないからです。

人々の暮らし方が柔軟化されたら、生活時間帯が分散化するのでしょうか?
答えは「否」です。
人々の生活時間帯が分散すると仕事にならないし、資本効率が悪いので、人々の生活時間帯は幾つかのグループに分かれて集中します。
これは「都市化」の習性なのです。
人々が都市化のメリットを生かそうとすればするほど、人々の生活時間帯は特定時間帯に集中するのです。

今後、世界で都市間競争が激しくなっていくといわれておりますが、日本が取り残されないためには東京、名古屋、大阪に人、モノ、カネを集中することになっていくでしょう。
その展望を持って、むしろ輸送能力を増強させるために必要な投資をするというのも一つの考え方として有り得ると思います。
もちろん、これは国家全体の戦略のお話なので、東京都だけで決めれることではありませんが。
また、JRなどの民間企業も関わっていかないとだめですが。

大人が逃げ続ける国、日本

2011-02-24 18:07:10 | 社会
心底同意します。

【赤木智弘の眼光紙背】子供と真剣に向いあおう(赤木智弘)
http://news.livedoor.com/article/detail/5366662/
(強調は当Blogによるもの)


そして、人間同士の出会いで産まれるはずの、心や体やお金といった複雑な関係性を否定し、どこにもあるはずのない「清く正しい出会い」があるかのように、人々に思わせてしまっている。そして正しく無い出会いは全部不健全なのだとして、子供を家庭の中に押し込めようとする。

 他者との出会いというのは、常にリスクと隣り合わせである。それは親戚であろうが、学校であろうが、ネットであろうが、会社であろうが、それは変わらない

 重要なのは、あくまでも「出会いはいつでもリスクを含む」ということを子供に伝え、対処法を伝授することであって、「悪いから悪いのだ」というトートロジーで、子供が他者と出会い、成長しようとする欲求を押さえつけることでは無いはずだ。

 非出会い系での子供の被害とやらが増加しているのは、決してフィルタリングが不十分だからではない。

 大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず、フィルタリングや都道府県の青少年育成条例、そして警察に、子供の行動を抑制してもらうことばかりを考えているからだ。

 そうして逃げ続ける限り、被害が増えていくのは避けられないと、私は考えている。


"大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず"

人と人との関係性というのは、非常に複雑なもので、とても一般化できるようなものではない。
そこに万事に通用する理論も方程式も定石も存在しない。
だが、日本人達はそんな一般化できないものをリスクとして扱い、そして遠ざける。
自分達の理論を拡張せず、自分達の理論に合うものを取り込むだけだ。
だから日本には純粋培養された単純君か、もしくは粗暴に育ったガサツ君ばかりになっていく。
恋愛の「れ」の字も語れないような大人たちが大量生産されて、人生というベルトコンベアに乗ったまま使い古されて死んでいくだけだ。
そうやって、世界の構造が大きく変化していく時に、時代に合わなくなった理論をいつまでも使い続ける。
生産ラインが稼動し続ける限りにおいて、それが必要とされているかどうかに関わらず、使い続ける。

ある研究者が人間をテクノロジの力で拡張可能かどうかなどとカッコいいことを言っていたが、その前に人間そのものの拡張について考えることの方がよっぽど大事だ。
複雑さ、不確実性、こういったものに大人たちが勇気をもって向き合わなければ、明日を担う子供たちは育たない。

こんな時、私はある言葉を思い出す。

西洋では病気をしないことを健康と考える。
しかし、東洋では病気とうまく付き合っていくことを健康と考える。
西洋的な考えでは、一生健康でいることは不可能で、また健康を維持するために常に多大な労力を要する。
東洋的な考えでは、一生健康でいることができるし、また健康を維持していくために適度な労力を要する。

社会には複雑さ、不確実性に溢れている。
それを否定したいと思っても、否定し尽くすことはできない。
大人が自分の論理矛盾に気づく時は、子供が大人になった後だ。

※注
このエントリは、一方に偏った意見であることを自覚して書いています。

幼児教育への集中投資が明日の日本を創る

2011-02-24 13:48:48 | 政治
既に幾人もの識者が提案しているが、日本は高等教育ではなく幼児教育に投資を集中させるべき。
これは日本の長期戦略を考える上でも最重要項目の内の1つでなければならない。
これを怠れば明日の日本はない。

幼児教育や初等教育に力を入れずに、高等教育で有能な高度人材を育成するのは、不可能に近い。
なぜなら、高等教育における"教育効果"なんてものがほとんどないからだ。

高度知識労働者にとって最も重要な能力は専門性などではなく、「思慮深い」「誠意がある」「一貫性を持っている」「信頼できる」といった基本的人格に紐づく「人間性」であり、この能力は高等教育で修練することはほぼできない。
高等教育で習得できるのは、知識や方法論だけである。

そして、最近の就活議論の中で全くもって軽視されているのが、上記の論点である。
日本企業の雇用慣行を批判するのは間違っていないが、長所を読み解かずに短所のみを強調して批判するのは辞めにすべきだ。
日本の雇用関係を破壊してアメリカ型もしくはヨーロッパ型にすればよいという短絡的な発想では、明るい未来は望めないだろう。

まずもって求められる専門性などというものは、時代の要請によって変わるものである。
この宇宙に永続性を保証してくれるものなど何もないのだ。
ゆえに、一時の繁栄を謳歌するために専門性にロックインすることほどリスクの高いことはない。
それでも短期利益を重視する大人たちは、専門性こそ反映の基礎と考えるから、若者に専門性を持つことを期待する。
「これだけは人に負けない領域を持て」「なんでもいい、自分のオリジナリティを持て」と言うのだ。
日本を覆う一つの病「差異化原理主義」である。

だが、若者は無意識的にでも直感的にこの言葉の嘘を見抜いている。
その言葉は、あくまでもそれを"今"求める人々の声であり、その人の人生を慮っている言葉ではない。
専門性を持つことほどリスクのあることはないのだから、誰しも「何の専門性を持つべきか」に思い悩むことになる。
「なんでもいいわけがない」のである。
だから受験エリートはリスクの小さい専門性である医者を目指す。

そうではないのだ。
「人間性」を磨き上げることこそ最も有用なのであり、差異化を考える必要性は低いのだ。
専門性は人間性さえあれば後から付いてくるからだ。

企業は、新しい製品、新しいビジネス、新しい産業、新しい分野に挑戦していかねばならない。
こういう変化に対応するために必要なのは専門性ではなく、人間性である。
高度知識社会において必要な能力は「人間性」である。
いや、正しく言おう。
専門性は人間性のないところに宿ったりしない。
専門性は人間性のあるところにしか存在しないのだ。
人間性のないところに、うわべだけで存在する専門性などは、時代の変化とともに廃れていく。
使い古されたら捨てられるだけだ。
向かう先は、使い捨てられる有期労働者になるだろう。

人間性こそドラッカーのいう組織社会を生き延びるために必要な能力であり、人間にとって獲得すべきより高次な能力である。

幼児教育・初等教育をさぼって、うわべだけの理解を高等教育で与えることはできない。
人格形成に強い影響を及ぼせる幼児教育にこそ、投資を集中させるべきである。

それと、何も経済合理的な理由からのみ幼児教育に投資すべきといっているわけではない。
社会的問題に対する建設的な世論の形成、治安・風紀の向上、文化的な質的向上などにも十分に効果を発揮するであろう。

幼児教育が人生に与える影響:研究結果(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201102/2011022320.html


政府の財務状況がますます乏しくなる中で、社会にとって有効な公共への投資は何かについての判断が重要になってきている。

シカゴ大学の経済学者でノーベル賞受賞者のJames Heckman(ジェームズ・ヘックマン)氏と、ペンシルベニア大学の経済学者Flavio Cunha氏が2010年7月に発表した論文は、そのような賢い公共投資の例を挙げている。幼稚園教育だ。

[中略]

興味深いのは、この実験が「IQスコアの向上」に長期的な効果をもたらしたわけではないことだ。就学前教育を受けた子どもたちは、最初のうちは一般知能の向上を示したが、この傾向は小学2年生までに消失した。代わりに就学前教育は、さまざまな「非認知的」能力、例えば自制心や粘り強さ、気概などの特性を伸ばすのに効果があったとみられる。

われわれの社会は「頭の良さ」に価値を置く傾向が強いが、冒頭の論文を執筆したHeckman氏とCunha氏は、こういった「非認知的」な能力こそが重要であることが多いと論じる。彼らは、信頼できる人間性こそ雇用者が最も評価する特性であり、「粘り強さや信頼性、首尾一貫性は、学校の成績を予測する上で最も重要な因子」だと指摘する。

これらの有益な能力は、むろん一般知能とはほとんど関係がない。そして、それはおそらく喜ぶべきことだ。非認知的な能力はIQに比べて、はるかに順応性が高いからだ――少なくとも、早い年齢から介入を行なう場合は。幼児教育はわれわれの知能を賢くすることはないかもしれない(知能には遺伝の影響が大きい)が、われわれをより良い人間にするし、それはより重要なことなのだ。

[中略]

Cunha氏とHeckman氏は、早期教育の効果は明白であり、リスクのある幼児に教育を行なうための1ドルで、社会全体は8ドルから9ドルの「益」を得ると計算している。税金の使い方としては望ましいものと言えるだろう。

[低所得層および中所得層の学生における認知力の発達を扱った長期の研究で、子ども時代の貧困とストレスは、成人になってからの記憶力等に影響するという結果も発表されている

[わかフリ解説] 革命騒ぎ

2011-02-22 13:53:17 | 政治
中東情勢の激化が世論を刺激しておりますな。
今日も当Blog相変わらずの"わかフリ"させてもらおう。

※わかフリ = わかっているフリ

学生の頃に読んで衝撃を受けたある論文を思い出した。
ハーバードビジネスレビュー誌に「帝国は反撃する~」のような題名の米国の歴史学者の見解が載っていた。
世の中に「革命」という言葉があるが、しかし歴史を紐解くと「革命」というのは案外少ないという。
「革命」を目指したものの成功して「革命」になるものは稀で、ほとんどは失敗して「~の乱(反乱)」とか「~の蜂起」とか「~の暴動」といった形で片付けられてしまっていると。

で、革命が成功する場合とそうでない場合の違いについて調査した結果、その学者はある答えに至った。
それは、革命が成功するかどうかは「革命を推進する側」の問題ではなく、「革命される側」の問題であると。
革命の旗手の主張がどれだけ正しいかは革命が成功するかどうかに関係しておらず、革命が成功するかどうかは「体制側の落ち度」である場合がほとんどだと。(いや、それしかないという)

例えばロシア革命が成功したのは、共産主義イデオロギーが正しかったからなのではなく、ロシア皇帝が第1次大戦や内政問題に対応できなかったからだし、イラン革命が成功したのは、聖職者による政治が素晴らしかったからではなく旧体制側の汚職や内政的問題であったらしい。
(部分的に記憶間違いがあるかもしれないが・・)

なぜ革命が成功しないかというと、体制側の力が充実している時には、体制側には5つの対応方法があるからだという。

「囲い込み」「適合」「吸収」「中立化」「無効」

大衆を囲い込んで、革命を非正当化する。
資本を投入して、革命を既存体制に適合させる。
革命勢力を吸収してしまう。
革命勢力を鎮圧するなどして中立化させる。
体制側を変化させて革命目的を無効化してしまう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

で、今回の中東情勢を見てみると、まだ進行中のものもあるが、どうも「囲い込み」「適合」「吸収」に失敗して「中立化」を試みるがこれも失敗、最後は「無効」策に出てそれも失敗するという流れになっている気がする。

今回、軍部という暴力装置を誰が握るかだという論をよく目にするが、これは「中立化」のフェーズの話で、基本的には最初の「囲い込み」「適合」の段階で勝負は決まっているようにも見える。

グローバリズムの影響を受けて経済的に優位に立ったものが実権を握ったのだが、そこから追い出された守旧派(軍部も取り残された遺物)が巻き返しに出て、そちらの方が圧倒してしまったということだろう。
結局、体制側が市場経済を導入するなどして経済成長をする時に生じる歪み(いわゆる格差問題)についての処理を間違えて、成長から取り残された人々が革命勢力として立ち上がってしまった。
体制側からすれば、マクロ観点では自分達の政策の方がより大衆に有利に働くという計算もあるだろうが、大衆側からすれば「格差問題」そのものが問題なのであり、両者が歩み寄れる点が少なかったのかもしれない。

これも市場経済の特徴で、一部の富める者と多くの貧しき者を生み出してしまうという構造が根本的に格差問題を増幅させてしまう。
格差を周知のものとしてしまうネットの影響力も無視できない。
世界的に見て超富裕国の日本においても、近年あれだけ格差問題が叫ばれたことを考えれば、途上国における格差問題がどれだけ導火線に火をつける事象か想像に難しくないだろう。

なんとなく俯瞰してみると、今回の中東情勢のお話は「独裁vs民主化」などという対立軸などではなく、「富者vs貧者」という対立軸であり、そうすると日本にとっても今回の事件は対岸の火事でもなんでもなく、自分達の今日的問題である。
日本はまだ世界的に見て福祉優良国家であるがゆえに問題は水面下に潜っているが、今後は少子高齢化で問題の顕在化が避けられない。

日本に起こる革命とはいかに・・新しい政権の樹立によって成し遂げられるのか
日本の行く先ははたして・・


[追記]

それとやっぱり、石油資源絡みの工作が裏にないとは言い切れないな。
なんか今回の中東での革命騒ぎの裏に深謀があるような気がする。
本当の狙いはリビアだったりするか。
う~ん、ありきたりな陰謀説かもしれないが。

大切なことはすべて君が教えてくれる

2011-02-22 11:08:32 | 恋愛
大切なことはすべて君が教えてくれた(フジテレビ)
http://www.fujitv.co.jp/kimigaoshietekureta/index.html

久しぶりに"録画"をしてドラマを見ている。
なぜ見始めたのか、それは全くの偶然(第1話の再放送)であったのだが、最近いろいろ考えるところがあって最初から全て見ている。

月9ドラマを見ること自体、かなり珍しく、若者向けのドラマを見ると、ついつい「若いな・・」などと悟ったフリをして冷めた視線で受け流すのが癖ついていたのだが、どうも見方がスパイラル周回したらしく受け取り方が変わってしまった。

決して悪いことではないが、人間には物事を帰納的に考える癖があって、身の回りに起きる事象に関して一般化(法則化、定式化)してしまう。
ブラックスワンのタレブ曰く、後付バイアスによる「プラトン化」というやつだ。
往々にして、これはかなり特殊な前提条件に基づく一般化なので、想定外の事象をうまく包含できない。

恋愛でいえば、人間はある程度の経験をすると、マクロで恋愛を捉えようとして、一定の傾向から、自分なりの恋愛理論を構築してしまう。
一度、恋愛理論が出来上がってしまうと、この理論に基づいてしか恋愛を見ようとしなくなるので、人は想定外の事象については事象の論理を単純化して理論における論理矛盾を回避するか、もしくは事象そのものをなかったことにするという無視作戦をとることになる。

どうすればよいか答えのわからない問題について、人は向き合うことを避けたがる。
(日本の教育が回答の用意されている問題ばかり解かせるから、日本人はこの手の問題が苦手というのもあるだろう)
人は、「どうしたらよいかわからない」という状態に対して「不安」を感じる生き物だからだ。
「知らない恐ろしさ」というやつである。
「不安」は生き残るための危険検出センサーなので、知らない恐ろしさが存在すること自体は生物学的に言って正しい。

しかし、日本の教育は知ることのできることばかり教え、それに答えることができる人を優秀とする傾向が強いので、日本人の多くは「知らない恐ろしさ」に対する耐性がない。
また、全知全能な神を宗教的背景としてもたないし、神道や仏教の影響が薄れ、人間の未成熟さを肯定する素地がないということもあるだろう。

だから、日本人はやたらと「知らない恐ろしさ=不安」を恐れている。
「不安」を排除するために安定的な生活を手にしようと躍起になっている。
日本人は事象をプラトン化して「論理の単純化作戦」と「事象の無視作戦」に全力を傾けるのだ。
そして、時としてそれが不毛な努力になり、人生から幸せを追い出している。

当Blogでは、以前より「恋愛」に焦点を当てている。
何度も言うように、「恋愛」こそ、その日本人のプラトン化を打ち破る鍵だからだ。
凝り固まった自分を破壊し、新しい秩序を求める原動力になる。

恋愛の1つもできないような日本人に何を変えることができる。
この社会の何を、この世界の何を、この文化の何を、変えることができるのだ。

嫌いなことから物事を変えることはできない。
物事を変えることのできる条件は、唯一、それが好きであるということだけである。

答えは、上述したように、人間にとって「好きである」ということが既存の構造を破壊し、新しい秩序を構築するために最も優れた動機となるからだ。

「大切なことはすべて君が教えてくれた」は、全くもってその通り。

大切なことはすべて好きになったものが教えてくれるのだ。
あなたが、大切なことを知る条件はただ一つ、好きになるということ、それだけだ。



ちなみに、ドラマの話ですが、私は佐伯 ひかり(武井 咲)と柏木 修二(三浦 春馬)とがうまくいって欲しいです。
お願いします。

[追記]

勘違いされるかもしれないので補足しておきますが、
ここでいう恋愛とは人と人の恋愛だけにあらず、
人と人と物事すべてとの関係性の話です。

ちなみに、この恋愛話は私の持論で、だいぶ前の学生時代の頃から採用面接時にも語った内容でもあります。
これくらいのことが語れなければ学生した意味がありません。

今こそ中東への進出を

2011-02-22 09:41:19 | 政治
ブーツオンザグラウンド(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/02/post-929.php

中東アラブ諸国の大使と夕食会。

既に本国の政変で辞表を出された大使もいる。

バーレーンのシーア派によるデモがサウジアラビア東部のシーア派に飛び火することを心配している。

ヨルダンとモロッコ以外の政権は、このジャスミン革命の影響から逃れられないだろうという意見も。

みな口をそろえるのは、これは日本外交にとっての大きなチャンスだ、と。ただ、そのためには官にしろ、民間ビジネスにしろ、ブーツオンザグラウンド、つまりアラブに来い。

失われていくアメリカの影響力に替われるのは、あるいは替わってほしいのは、日本だ。しかし、ここのところ日本の外務省はアフガニスタンとイラクとイランで手一杯。中東を見ていない、と。


ピンチはチャンス。
なぜならピンチという既成構造が崩壊する時にこそ、新しい構造を築き上げる機会(チャンス)があるからだ。

今の中東情勢で言えば、日本がリスク・テイクする条件としては、日本が新しい中東の構造についてのコンセプトを構想できるかどうかにかかっているが、日本の外務官僚にそんなことを期待するのはかわいそうだ。
彼らにそんな大きなスケールの権限がないのだから。

こういう時こそ政治家が自らの責任において、官僚を使いこなしてリスクテイクすべきだ。

河野太郎がやればいい。

私は知らないことを知っている

2011-02-21 17:39:37 | スピリチュアル
私は知らないことを知っている。
そして、知らないことを知りたいと願っている。
そこに私の知らないことがあるから、知りたいと思う。
そこに私の知らない桜の木があると思うから、見たいと思う。
その時、私がどう感じるかは知らない。
知らないから知りたいと思う。
ただ、それだけだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

最近、これまでと異なった形で「先験的感覚」を実感するようになった。

脳の歴史は、生物の進化にしたがって内側から外側に向かって増築された歴史である。
原始的な生物から人間に進化するまでの脳の過程は、内側から外側に向かって説明できる。
だから、原始的な欲求は脳の内側から発し、人間らしい理性の部分は外側で活動する。

よく「理屈じゃない感情」というが、これは本当だ。
理屈じゃない原始的な欲求は人間の内側から発し、これを人間の外側の理性で抑制するなり、導くなりしている。
理屈じゃない感情を、理性によって後付的に解釈することはできるが、感情レベルが理性で制御できるレベルを超えると人間は自己同一性を保持できなくなる。
人は普段、理性によって仮想的に「自分」を構築しているわけだが、自分に統合できない感情をうまく処理できず「自分」を統率できなくなるからだ。

時に、人は自分でない自分を恐れ、「自分」を統率できない状況を避けたがる。
人にとって自分を統合している基準を失うことは非常に恐ろしいことだからだ。

しかし、この「自分を破壊する感情」は人にとって非常に重要な役割を果たす。
ある特定の「自分」で凝り固まってしまった場合に、そこから抜け出す機会をもたらすからだ。
悪均衡状態を抜け出すために、重要なのだ。

そして、ここからが本題だ。
「理屈じゃない感情」が善にも悪にもなるとして、
では「理屈じゃない感情」は、その性質ゆえに理性によって制御不能なのだろうか。

実は、理屈じゃない感情を包含する理屈が存在する。
それが「先験的感覚」である。
言葉の通り、経験に先立つ感覚である。
人は、この先験的感覚を使って理屈じゃない感情を発火させることができる。

いや、理屈じゃない感情が発火するのは、この先験的感覚が故である。
理屈じゃない感情が発火する前に、この先験的感覚が先立って存在している。

ゆえに先験的感覚を研ぎ澄ませば、
ある程度の方向性を持って理屈じゃない感情を発火させることができるし、
また、理屈じゃない感情の解釈にも有意な影響をもたらす。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私には文才がないので、自分の考えを文章にするのは骨が折れる。
話し言葉なら幾分かまだ楽なのだが、誰にでもわかる文章にするのには決して楽ではない。
だから今日も他人の言葉を使わせてもらう。
ありがたや。

こびとさんをたいせつに(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php


[前略]

今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。
言ってみてから、そういえばそうだなと思う。
ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing)も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。

[中略]

どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。

「実際に会う」ことの重要性

2011-02-18 15:02:11 | ビジネス
「実際に会う」ことの重要性:研究結果(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201102/2011021722.html


世界がドットコム・バブルに沸いていたころ、多くの人は、インターネットの台頭によって「地理的な場所」が重要な時代は終わると予想していた。しかし、その予想は外れたようだ。

以下、この問題に関する、David Brooks氏による優れたコラムから引用しよう。


[ハーバード大学の経済学者Edward Glaeser氏は新著『Triumph of the City』(都市の勝利)において、グローバルな情報ネットワークの時代であるにもかかわらず、実際の都市がより重要になってきていると主張している。]なぜなら人間は、物理的に一緒にいるときに最もうまくコミュニケーションがとれるからだ。

[中略]

都市は人々の力を拡大すると、Glaeser氏は主張する。人が密集した環境では、アイディアがすばやく拡散しやすいためだ。グローバルな市場で競争したい人にとっては、都市の中心部近くにいることが大いに役立つ。業界の地理的な中心地の近くに居を構える企業のほうが生産性は高い。都市部の労働者は都市外に住む労働者よりスキルの向上ペースが速いため、年ごとの賃金上昇ペースも速くなる。(略)

大学出身者の数が多い都市は豊かになる傾向がある。大都市圏では大学出身者の数が10倍で10%多く、個人の収入額は7.7倍7.7%多い。都市部での高卒者の収入にも同じ傾向がみられる。



Mailや何らかのWebシステム、TV会議システムで仕事を
遂行したことのある人なら誰にでもわかることがある。

それは、業務を遂行するために必要なコストの内に占める
コミュニケーション・コストの割合が非常に大きくなるということで、
しかもそれは、業務やプロジェクトの規模が大きくなればなるほど大きくなる。

そして、TV会議システムではわかりえないことが、
出張して直接に1つのテーブルで話し合えば、即座に分かり合えたりする。

私自身、長い間、国内外の複数の物理的に離れているところに
拠点を構える企業と仕事をしてきたため、これは逃れようのない事実として理解している。

理由はリンク先の研究結果を待つまでもなく、実感としてわかる。
それは「絶対的な情報量の違い」のせいだ。

人は言葉だけで円滑なコミュニケーションをとることができない。
なぜなら、「言葉」というのが非常に不完全なコミュニケーション・ツールだからだ。
人は、言葉を使って伝えたい意図を正確に表現することができないし、
また、言葉を使って相手が伝えたい意図を正確に受け取ることもできない。
それが話し言葉であっても書き言葉であっても同じことで、
結局、人の思考は言葉ほどに単純ではないので、
人がテレパシーなどのような意図を正確に伝えるツールを持たない限り、
コミュニケーション上に生じる相互理解のギャップは生じてしまう。

さらに、コミュニケーション・ギャップは、単に相互理解を阻むというだけではなく、
人のコミュニケーションへの情熱を失わせてしまう。
人は、理解し合えないと感じるとやる気を失うのだ。
より正確に言えば、人はギャップを意識すると、より低レベルの相互理解で妥協してしまう。
到達可能な程度に目標設定を下げることをするということだ。

このコミュニケーション・ギャップを乗り越える最も有効な手段が、
原始的だが直接話し合うという行為である。
原始的ではあるが、直接対面して理解し合うという行為は、人が原始人の時代よりずっと前から、
もともと備え持っているコミュニケーション・スキルであり、より本質的な行為とも言える。
逆に言えば、このことは、人類が直接話合う行為よりも、
より本質的なスキルやツールを開発できていないことを示している。
人類がテクノロジの進化によって手にしたのは、
この本質的なスキルを補完するものばかりなのである。

直接会って話し合う行為で伝達される情報は言葉だけではない。
人と人のコミュニケーションの内、非言語コミュニケーションが90%以上だといわれているが
直接会って話し合えば、表情、声色、息づかい、身振り手振り、色気、雰囲気、などなど
そういったものはMailやTV会議システムでは伝えにくい。

言葉と言葉から零れ落ちる意味を伝えるために重要なのは、非言語コミュニケーションなのだ。

リンク先では「情報が拡散しやすい」などの理由を挙げているが
それもつまるところは絶対的な情報量が違うからである。

それともう一つ、これは忘れがちな視点だが、
情報を伝達する時、人はそこに意図を加えることがある。
入力された情報を解釈し、それを出力として伝える行為だ。
これは正確な情報共有という点ではマイナスな要素もあるのだが、
実は、一人ひとりに情報の解釈と加工という機会を与え、
新しい付加価値を生み出す可能性を持っているという点でプラスの要素もある。

ICTの技術で正確な情報共有が可能になったという話しはよくあるが、
その「正確な情報共有」のために一夫で失っている「人が考える機会」について
指摘する人はなかなかいない。

桜の木を見よう

2011-02-11 01:14:51 | スピリチュアル

『バカの壁』(養老孟司)

 君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。

 ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。


これは「知る」ということの本質を物語っている。
人は知ることで変わり、その変化は不可逆だ。
一度知ってしまったことを都合よく知らなかったことにはできないが、
知ることができる限り、人は変わることができる。

見えるものは視点によって変わる。
異なる視点、より多くの視点を持てば、当然見えるものは変わる。
新しきを知り、より多くを知れば、人はより変化することができる。
人生が経験に裏付けられるものだということだ。

だが、人が変わりたいように変われるかといえば、そうではない。

なぜなら、人は知りたいように知ることができない。

これが安易な自己啓発がうまくいかない理由だ。

知るということは、今知らないことを知るということである。
今知らないのに、なぜ知る前に知ることがわかるのか。
わかるわけがない。

知らないから、知ろうとするのである。
知った後に何を知ることができるのか、それは実際に知った後でなければわからない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

多くの人々は幻想を持っている。
「○○をすれば△△を知ることができる。」といった思い込みだ。

しかし、実は多くの人々はそう思い込みたいと思っている。

なぜかといえば、「知る」ということは本質的に人にとって恐いことだからだ。
(正確に言えば、知るということが、新しい知らないということをもたらすからだ。)
一度知ってしまったら今の自分には戻れないのだ。
「知る前の自分」から「知った後の自分」になるためには勇気を振り絞った飛躍が必要だ。
「知った後の自分」は「知る前の自分」とは別人なのだ。
別人になる勇気がなければ「知る」ことはできない。

だから、臆病者は人生の中で様々な意味を模索することを諦める。

だが、知ることでしか、桜の美しさは感じることができない。

余命半年と宣告されて見る桜の木は美しく見えるだろう。

それと同じように、あなたが何かを知ることで、あなたは何かを見ることができるようになる。

何を見ることができるのか、それは知る前にはわからない。

人間は葛藤のうちにしか成熟できない

私は葛藤の中に身を置く。

それが、どれだけ辛く、苦しく、悩ましいものであっても。

私は、桜を見たい。

桜を見たいのだ。

許す力

2011-02-10 16:35:34 | スピリチュアル
自分を嫌になる場面を想像して欲しい。

小さなことに右往左往したり、
些細な出来事に心を痛めたり、
自分の思う通りにならなくて怒ったり、やる気をなくしたり、
といった場面が思い浮かばないだろうか。

そして、そういう場面で自分に言い聞かす言葉も想像して欲しい。

「大人にならなければ。」
「子どもだな自分は。」

というものであったりしないだろうか。

もし、そうであるとするならば、
あなたは、人生を生きる上でとても重要で本質的な鍵に
無意識的に気づいていることを示している。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

逆に、「あの人はいいな」と思う場面を想像して欲しい。

いわゆる「心の広い」「懐の深い」人達がいる。
他の人達が面倒がったり嫌がったりすることに、率先して取り組み人達がいる。
大胆かつ繊細といった相反する性質を両方持ち合わせる人達がいる。


自分を嫌になる場面と、誰かをいいなと思う場面。
実は、いずれにも共通点がある。

「こだわるところが違う」ことだ。

では、なぜ「こだわるところが違う」のか。

その理由は、自分とその人との間で、感じているものが違うからだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

2人の間で同じ出来事が起きたとしても、
片方は怒り、片方は怒らなかったり、
片方は笑い、片方は笑わなかったり、
片方は泣き、片方は泣かなかったりする。

なぜか。

2人の間で見えているものが違うからだ。

想像するのは容易い。

ある画を見て、興味を全く抱かない人と、泣き崩れる人がいるかもしれない。
ある人にはなんでもない絵画が、ある人には最愛の人の形見かもしれない。

ある曲を聴いて、昔の歌だなと思う人と、涙する人がいるかもしれない。
ある人にはなんでもない曲が、ある人には思い出なのかもしれない。

小さな子どもが公園で遊んでいるのを見て、うるさいと思う人と、微笑む人がいるかもしれない。
ある人には騒音でしかない音が、ある人には幸せを奏でる音に聞こえるかもしれない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

では、どうして見えるもの、感じるものが変わってくるのか。

それは、2人の間で、同一の出来事から読み取れる情報量が異なるからだ。

1つの出来事は、ただ単純に1つの出来事であるわけではない。
1つの出来事の背景には、無数の要因と出来事が隠れていて、
そして、それらは相互に結びつき合って、互いに影響し合っている。
そこに原因と結果の区別はない。
全てが原因であり、全てが結果なのだ。

我々が「出来事」だと思っているものは、
我々がそう考えたいと思っているだけに過ぎない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人によって「1つの出来事にどれだけの事象が相互に影響し合っているか」
という点についての理解が違う。
出来事の背景にあるものへの理解が異なれば、自ずと出来事への感じ方が異なるようになる。

子どもが粗相をする時、未熟な親には怒りの対象になるのかもしれないが
子どもの成長過程を一通り見てきた祖父母には微笑みの対象になるかもしれない。

親が子どもにプロセスの重要性を説いても、
子どもはプロセスの重要性を理解できないのだから短絡的な行動をとってしまう。
親は子どもに対してこう思う。
「どうしてわからないのか。」と。

同じ出来事でも、見えているものが違うのだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このことを端的に表す言葉がある。

「人間万事塞翁が馬」である。

人は、短期的な利益に集中すると盲目的になる。
なぜなら、利益の向上に繋がらない要素を、負の要素として避けてしまうからだ。
しかし、その要素が"負の要素"であるのは、
短期的な利益に基づく判断だからであって、
長期的な利益に基づく判断の下では"正の要素"になる可能性がある。

現代社会での人々の暮らしぶりは、
とても短期的な利益に集中するようになった。
理由は幾つもあるが、主な理由として
農作物のように結果が直ぐには現れない産業から
産業革命、IT革命と産業が変化していく中で、
結果が出る速度が早くなってきたことがある。
現代人は、とても焦って生きているのだ。

そんな中で、皆が荒波にもまれて今目の前の波をどう避けるかを考えている中で、
星を見ている人がいる。

いわゆる「心の広い」「懐の深い」人達がいる。
他の人達が面倒がったり嫌がったりすることに、率先して取り組み人達がいる。
大胆かつ繊細といった相反する性質を両方持ち合わせる人達がいる。

彼らは短期的な利益ではなく、長期的な利益に基づいた判断をしている。
それは、彼らには、目の前の出来事が長期的な利益に繋がることを理解できるからだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こだわるところが違う人達がいる。

彼らは「許す力」を持っている。