語りたいことはいっぱいあるのだが、時間が無い。
(言葉ってのは何でこうも不完全なんだっ!いや不完全なのは私の能力か・・)
なので、ついつい簡単な話題に流れてしまう。
今日はちょっと趣向を変えて、AKB48の楽曲に対する私見を述べたい。
どうでもいい話なので、興味ない人は読み飛ばしちゃってください。
曲は当Blogで話題の『Everyday、カチューシャ』だ。
PVについては既に雑感を述べた。
AKB48『Everyday カチューシャ』のPVを視聴してみた
今度は、楽曲そのものについてだ。
これは、個人的な何の根拠もない考えなのだが、だいたい1つの楽曲を20回程度聴くと、どんな曲でも、その曲の良さがわかりはじめる。
50回程度聴くと、なんだか自分の一部のような気がしてくる。
100回程度聴くと、もう自分の曲なんじゃないかと錯覚する。
既に『Everyday、カチューシャ』は100回以上聴いているので、そろそろ語れるような気がしてきた。
もう自分の曲なんじゃないかという気がしている。
(ファンから言わせればまだまだだと思うが)
そんな私の『Everyday、カチューシャ』雑感を述べたい。
まず、端的に言ってノーマライズし過ぎだと思う。
正規化し過ぎて何者でもない曲になってしまっている。
これでは「AKB48」の冠を外したら誰の曲かわからない。
繰り返し聴いて楽曲のことがわかるにしたがって、なぜ『Everyday、カチューシャ』のPVがあのようなつくりになったのか理解できた気がする。
何者かわからない楽曲だから、何者かわかるように作ったのだ。
PVを作る側は悩んだのではないか。
PVのつくりに妙に納得してしまった。
もちろん、これは製作者側からすれば意図した通りである。
AKB48の楽曲は、"AKB48の楽曲"でなければならず、"AKB48の誰かの楽曲"であってはならない。
それは、AKB48がプラットフォームであって、決してグループではないということからきている。
いや、楽曲としてのクオリティは上がっていると思う。
冒頭からアップテンポで前のめり過ぎるだろと思う変なテンポも、繰り返し聞いていると計算されたものだと気づく。
メジャーアイドルとして恥ずかしくない楽曲だ。
ただし、あくまでもメジャーアイドルの楽曲としてだ。
広く浅くカバーはするが、深みやコクが思いのほかない。
(でもアイドル楽曲が人生語るほど深い必要はない。)
アイドル楽曲のクオリティとは「消費されやすさ」でもある。
ゆえにアイドル楽曲は消費されて終わるだけになってしまう。
名曲として残る、歌い継がれる楽曲はなかなか生まれない。
狙い通りだ。
計算し尽くされた消費される楽曲。
しかし、私はちょっと残念な思いがした。
もちろん、私が勝手に残念がっているだけなので、勝手に言ってろと思われて構わない。
それでもあえて言いたい。
私は正直に言って「これがAKB48なのか?」という疑問を持たざるを得ない。
この楽曲のどこにAKB48らしさがあるのか?
製作者側の意図を聞いてみたい。
AKB48のコアコンピタンスは何だ?
メジャーアイドル楽曲にする必要がどこにあるのだ?
この楽曲の跡に一体何が残る?
これは個人的趣味以外の何者でもないが『ポニーテールとシュシュ』や『ヘビーローテーション』と、『Beginner』の間に一線があるようにも思える。
(チャンスの順番は?)
あの時からAKBの楽曲は根本的に何かが変わった。
『Beginner』がAKB初のミリオンセラーになったこととも無関係ではない。
つまり、国民的アイドルを完全に意識したつくりに変わっている。
これも個人的考えでしかないのだが、昨年の第2回総選挙を通してAKBは一気に広がりを見せた。
『ポニーテールとシュシュ』や『ヘビーローテーション』によってAKBが世の中に広く認知されたのだ。
そのため、『Beginner』からAKBは国民的アイドルとして振舞わねばならないプレッシャーがかかっているのではないか。
否が応でも注目される第3回総選挙『Everyday、カチューシャ』で、それは先鋭化されている。
そう考えると、そもそも「AKB48とは何なのか?」という基本コンセプトに立ち返る必要性を感じる。
いや、AKB48の上位グループをメジャーアイドル化させるのがビジネス戦略上有り得るのは知っている。
シャワー効果を狙っているので、国民的アイドルとして広告塔になってもらわねば困るという意見はわかる。
しかし、私がここで問題にしているのはそういうことではない。
AKB48とは何か?AKB48の基本コンセプトとは何か?という点を取り上げている。
ドラッカーや多くのビジネス研究が雄弁に語るように「基本コンセプト、コアコンピタンスから外れるものは、ことごとく滅ぶ。」のだ。
基本コンセプトやコアコンピタンスを外れた拡大・多角化路線は破滅への道である。
どんなに収益を上げる戦略があろうとも、基本コンセプトに違反するものは絶対に拒否しなければならない。
では、AKB48の基本コンセプトとは何なのか、について少しだけ議論したい。
「会いにいけるアイドル」であろうか?
これは1つの選択肢として大いにあるだろう。
国民的アイドルになる必要性は必ずしもなかったように思う。
各メンバーは女優なり歌手なりの夢を持っているので、国民的アイドルに登りつめた方が夢の実現に近づけることは間違いない。
ビジネスサイドもより利益を稼げる方がよいのも間違いがないだろう。
しかし、売れるからといって、規模を拡大しなければならない必然性も実はない。
ソニーの設立趣意書ではないが「徒に規模の大を追わず」に基本理念を忠実に追い求めた方が、長期的な利益に資する可能性はある。
これは、AKBが初ミリオンを達成した時に当Blogに書いたことだが、「拡大路線を取ったことで、AKBは新しいPhaseに入っており、ここでの舵取りに失敗すると急激に落ち込む可能性もある。」と今も改めて思う。
メジャーアイドルと化した上位グループの失速は、AKB全体に影響する。
秋元氏は、永続的にヒットしていく難しさを知っているはずなので、何も考えていないことはないと思うが。
(実は足きりしやすい仕組みでもあるなと思ったりもするのだがまぁそれは別途だ。)
短期的な利益を追い求めて急激な拡大路線を展開すると、それが中長期的に足かせになる。
本当に得意な分野に絞って確実に利益を積み重ねる方が長期的にはプラスになる。
※
時間ある時に私の考えるAKBの基本コンセプトを発表します。
さて、いきなりまとめ。
いまだにAKBの代表曲は「会いたかった」である。
この曲がAKBらしさを存分に表現しているからに他ならない。
AKBのビジネスサイドは、この意味をかみ締めて考え直す部分があるのではないかと思う。
無批判にAKBを応援しているわけではないってことをアピールしたかったエントリです。
読み返すとひどい文章だなと思いますが・・すみません。。
(言葉ってのは何でこうも不完全なんだっ!いや不完全なのは私の能力か・・)
なので、ついつい簡単な話題に流れてしまう。
今日はちょっと趣向を変えて、AKB48の楽曲に対する私見を述べたい。
どうでもいい話なので、興味ない人は読み飛ばしちゃってください。
曲は当Blogで話題の『Everyday、カチューシャ』だ。
PVについては既に雑感を述べた。
AKB48『Everyday カチューシャ』のPVを視聴してみた
今度は、楽曲そのものについてだ。
これは、個人的な何の根拠もない考えなのだが、だいたい1つの楽曲を20回程度聴くと、どんな曲でも、その曲の良さがわかりはじめる。
50回程度聴くと、なんだか自分の一部のような気がしてくる。
100回程度聴くと、もう自分の曲なんじゃないかと錯覚する。
既に『Everyday、カチューシャ』は100回以上聴いているので、そろそろ語れるような気がしてきた。
もう自分の曲なんじゃないかという気がしている。
(ファンから言わせればまだまだだと思うが)
そんな私の『Everyday、カチューシャ』雑感を述べたい。
まず、端的に言ってノーマライズし過ぎだと思う。
正規化し過ぎて何者でもない曲になってしまっている。
これでは「AKB48」の冠を外したら誰の曲かわからない。
繰り返し聴いて楽曲のことがわかるにしたがって、なぜ『Everyday、カチューシャ』のPVがあのようなつくりになったのか理解できた気がする。
何者かわからない楽曲だから、何者かわかるように作ったのだ。
PVを作る側は悩んだのではないか。
PVのつくりに妙に納得してしまった。
もちろん、これは製作者側からすれば意図した通りである。
AKB48の楽曲は、"AKB48の楽曲"でなければならず、"AKB48の誰かの楽曲"であってはならない。
それは、AKB48がプラットフォームであって、決してグループではないということからきている。
いや、楽曲としてのクオリティは上がっていると思う。
冒頭からアップテンポで前のめり過ぎるだろと思う変なテンポも、繰り返し聞いていると計算されたものだと気づく。
メジャーアイドルとして恥ずかしくない楽曲だ。
ただし、あくまでもメジャーアイドルの楽曲としてだ。
広く浅くカバーはするが、深みやコクが思いのほかない。
(でもアイドル楽曲が人生語るほど深い必要はない。)
アイドル楽曲のクオリティとは「消費されやすさ」でもある。
ゆえにアイドル楽曲は消費されて終わるだけになってしまう。
名曲として残る、歌い継がれる楽曲はなかなか生まれない。
狙い通りだ。
計算し尽くされた消費される楽曲。
しかし、私はちょっと残念な思いがした。
もちろん、私が勝手に残念がっているだけなので、勝手に言ってろと思われて構わない。
それでもあえて言いたい。
私は正直に言って「これがAKB48なのか?」という疑問を持たざるを得ない。
この楽曲のどこにAKB48らしさがあるのか?
製作者側の意図を聞いてみたい。
AKB48のコアコンピタンスは何だ?
メジャーアイドル楽曲にする必要がどこにあるのだ?
この楽曲の跡に一体何が残る?
これは個人的趣味以外の何者でもないが『ポニーテールとシュシュ』や『ヘビーローテーション』と、『Beginner』の間に一線があるようにも思える。
(チャンスの順番は?)
あの時からAKBの楽曲は根本的に何かが変わった。
『Beginner』がAKB初のミリオンセラーになったこととも無関係ではない。
つまり、国民的アイドルを完全に意識したつくりに変わっている。
これも個人的考えでしかないのだが、昨年の第2回総選挙を通してAKBは一気に広がりを見せた。
『ポニーテールとシュシュ』や『ヘビーローテーション』によってAKBが世の中に広く認知されたのだ。
そのため、『Beginner』からAKBは国民的アイドルとして振舞わねばならないプレッシャーがかかっているのではないか。
否が応でも注目される第3回総選挙『Everyday、カチューシャ』で、それは先鋭化されている。
そう考えると、そもそも「AKB48とは何なのか?」という基本コンセプトに立ち返る必要性を感じる。
いや、AKB48の上位グループをメジャーアイドル化させるのがビジネス戦略上有り得るのは知っている。
シャワー効果を狙っているので、国民的アイドルとして広告塔になってもらわねば困るという意見はわかる。
しかし、私がここで問題にしているのはそういうことではない。
AKB48とは何か?AKB48の基本コンセプトとは何か?という点を取り上げている。
ドラッカーや多くのビジネス研究が雄弁に語るように「基本コンセプト、コアコンピタンスから外れるものは、ことごとく滅ぶ。」のだ。
基本コンセプトやコアコンピタンスを外れた拡大・多角化路線は破滅への道である。
どんなに収益を上げる戦略があろうとも、基本コンセプトに違反するものは絶対に拒否しなければならない。
では、AKB48の基本コンセプトとは何なのか、について少しだけ議論したい。
「会いにいけるアイドル」であろうか?
これは1つの選択肢として大いにあるだろう。
国民的アイドルになる必要性は必ずしもなかったように思う。
各メンバーは女優なり歌手なりの夢を持っているので、国民的アイドルに登りつめた方が夢の実現に近づけることは間違いない。
ビジネスサイドもより利益を稼げる方がよいのも間違いがないだろう。
しかし、売れるからといって、規模を拡大しなければならない必然性も実はない。
ソニーの設立趣意書ではないが「徒に規模の大を追わず」に基本理念を忠実に追い求めた方が、長期的な利益に資する可能性はある。
これは、AKBが初ミリオンを達成した時に当Blogに書いたことだが、「拡大路線を取ったことで、AKBは新しいPhaseに入っており、ここでの舵取りに失敗すると急激に落ち込む可能性もある。」と今も改めて思う。
メジャーアイドルと化した上位グループの失速は、AKB全体に影響する。
秋元氏は、永続的にヒットしていく難しさを知っているはずなので、何も考えていないことはないと思うが。
(実は足きりしやすい仕組みでもあるなと思ったりもするのだがまぁそれは別途だ。)
短期的な利益を追い求めて急激な拡大路線を展開すると、それが中長期的に足かせになる。
本当に得意な分野に絞って確実に利益を積み重ねる方が長期的にはプラスになる。
※
時間ある時に私の考えるAKBの基本コンセプトを発表します。
さて、いきなりまとめ。
いまだにAKBの代表曲は「会いたかった」である。
この曲がAKBらしさを存分に表現しているからに他ならない。
AKBのビジネスサイドは、この意味をかみ締めて考え直す部分があるのではないかと思う。
無批判にAKBを応援しているわけではないってことをアピールしたかったエントリです。
読み返すとひどい文章だなと思いますが・・すみません。。