5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

そこはかとなき秋の暮れ

2010-11-11 22:29:16 | 自然
昼間の時間が短くなり、今日の日の入りは午後4時51分。「秋の日は釣瓶落とし」というが、気づかぬうちに周りは薄暗く暮れて、南の空には少し太った三日月が浮かぶ。体感11度と小寒い宵である。エネループ懐炉のスイッチを入れ、ベルトのへそ上に放り込んでから歩き出す。

枯葉を踏んで歩く秋の夕暮。古来から日本ではこうした「寂しい趣」が愛されて来たというのは、「ことばの歳時記」の金田一春彦先生。「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近こうなりたるに」というよく知られた『枕草子』の巻頭文をまず引用した11月9日のコラムは「秋の暮れ」と題されている。

次に先生は、「侘しさ、寂しさ」のそこはかとなく漂う秋の夕暮れの情緒を詠んだ歌の代表として、『新古今和歌集』の「三夕の歌」を挙げている。

「さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕ぐれ」 寂蓮法師
「心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ澤の秋の夕ぐれ」 西行法師
「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ」 藤原定家朝臣

どれも「秋の夕暮れ」で終わることから「三夕」という訳だ。

「秋の暮れ」というのは、昔は暮れていく秋、すなわち晩秋のことを云ったのが、どこかで混乱して、「秋の夕暮れ」を表すことばにかわってしまったらしいと云う。 晩秋をさすことばには、漢語の「暮秋」を訓読みにした「暮れの秋」というものもあることから、「秋の暮れ」というのは夕暮れで、「暮れの秋」が晩秋というように区別してきたのだそうだ。ナルホドである。

ところで、「そこはかとなく漂う侘しさ、寂しさ」とは、「何とはなしに感じる侘しさ、寂しさ」という意味に理解するのが普通だが、金田一先生によれば、室町時代に作られた日匍辞書には《socohacatonaqu》というローマ字のあとには「無限に」という意味が書かれているのだそうだ。これからすると、「何とはなしに侘しく寂しい」とするより、「限りなく侘しく寂しい」と訳すほうが、冬の始まりの雰囲気を表すのにぴったりだろうと云う。またまた、ナルホドである。


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