5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

清らかな厭世

2008-09-25 23:25:01 |  書籍・雑誌

阿久悠は怒っていた。

去年(07年)の8月に70歳で亡くなった作詞家・阿久悠のエッセイ集「清らかな厭世~言葉を失くした日本人へ」(新潮社・07年10月刊)を読み終えた。

これは、04年から連載が始まって、本人の死まで続いた産経新聞のコラム「阿久悠・書く言う」という118の時評を再編したもの。投稿の期間はすべて病中だったのだから、世間のあり方について、最後のメッセージのつもりで書き進んだのかもしれない。

「今、言葉がない。誰も言葉を使わない。どのように饒舌に語彙数を積み重ねても、心を通過しないものは言葉とは呼ばない。」と文の始めに書き、「今、社会に、そして若者たちを取り囲む日常に、ただのひとつも警句は存在しない」のだから、このコラムはその警句集、《日常のアフォリズム》を記したものにするのだという。

最初のアフォリズムは「ユーモアと笑いとお笑いは、薬とナイフとトンカチほど違っているものなのだ」で、ユーモアという言葉が、いつの間にか死語になってしまい、探しても見つからないのに、「お笑い」としての笑いは世に満ちているおかしさを指摘する。

ページを繰ってランダムに阿久流警句を書き出してみよう。たとえば、

〇選択肢が無数にあるって、それはまやかし。選択肢は《生きる》だけだよ。
〇悪しき事も恥ずべき事も、テレビで騒いでくれりゃ認められたってことよ。
〇大人ってのはね、会話の中に擬音を使わないものなのだ。
〇善人には壁ばかり見え、悪人には隙ばかりみえる。それが法律だ。
〇売ったものを大切にする客を、迷惑がるような「次世代」は文化を滅ぼす。
〇抱くときに抱かず、ひとり立ちの時に抱くから、子供らは逃げる。
〇東京が顔だというのなら、顔らしい品性とバランスが必要である。

など、本文を読まなくても、彼の言わんとするところはよくわかる。彼は自分より少し先輩だが、戦後民主主義の申し子、団塊以前で、ほぼ同じセンチメントを持った世代だからである。

「ある時、ぼくは《時代遅れ》という詞を書いた。早足で傲慢な時代を見た結果である。この詞で、時代を見つつ、時代に流されるなと、言わなければならなくなった。二十年前である。今もその気持は変わらない。」(歌は時代の妖怪である)とも書いている。

これは丁度、昭和が終わり平成が始まったところだろう。思えば、昭和天皇の崩御とともに、日本人の社会的紐帯が勝手に解かれることが多くなって、いまやその帯の在処を忘れることもしばしば。阿久さんのお怒りごもっともな状態なのだからしょうがない。

昨晩のNHKの「SONGS」では沢田研二が新編曲の「時の過ぎ行くままに」を歌っていた。沢田も今年60歳。落ち着いたその歌唱はなかなか良いと思うが、阿久だったらどういったコメントをするのだろう。

今日の新聞には、新内閣の閣僚名簿が一面に掲載されていて、人事の目玉とマスコミが追いかけるのが、20年前に「新元号は平成」と読み上げた元官房長官の愛娘(小渕優子)である。

走り出した麻生「とりあえず」内閣とそれを追いかけるマスコミ連には、やはり、この警句が似合うかも。曰く「視聴率があり支持率があり、すべてこれ数字の魔術、義務も責任もそれには無い。」



最新の画像もっと見る

コメントを投稿