5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

空青し山青し海青し

2011-05-15 22:29:39 |  文化・芸術
明るく爽やかな日曜日の午後だった。鳴海駅前にある古本屋で、岩波新書(黄版)の大岡信著「折々のうた」を買った。1979年(昭和54年)から翌80年にかけた1年間、朝日新聞に連載されたコラムの内容を加筆して一冊に纏めたアンソロジーである。

和歌も漢詩も歌謡も俳諧も今日の詩歌も、すべてひっくるめてわれわれ日本人の詩であり、この「折々のうた」で自分は、「短歌、俳句、近代詩」で簡単にくくられる傾向にある「日本詩歌の常識」を覆したいと大岡は書いている。

さて、その「夏のうた」の項の最初に出てくるのが佐藤春夫の「望郷五月歌」の一節だ。

塵まみれなる街路樹に 
哀れなる五月来にけり
石だたみ都大路を歩みつつ 
恋しきや何ぞわが故郷

空青し山青し海青し
日はかがやかに
南国の五月晴れこそゆたかなれ

まさに童謡「鞠と殿様」にある「紀州は良い国 日の光」のイメージである。

新宮生まれの佐藤が、五月の東京にあって彼方紀州の水清く実り豊かな自然と人の営みをなつかしみ歌った望郷の詩である。現在に比べればよほど清潔だったはずの、昭和6年(1931年)の東京も南国生まれの詩人にとってはそれこそ「塵まみれ」に見えたようだと大岡は解説している。

この詩人の話題はなかろうかとWIKIを探すと、5月9日付けの毎日新聞に「佐藤春夫の碑、倒壊」というローカル記事が見つかった。

新宮の船町にある生家跡地にあった昭和47年に市民有志建立の石碑が倒れ二つに割れているのがみつかり新宮署に通報されたという。車がぶつかった跡はないため人為的に壊された可能性が高いという。

佐藤が亡くなったのは昭和39年(1964年)の5月6日だ。そろそろ半世紀が経過しようとしているが「俺のことを忘れてくれるなよ」とでもいいたい死者からのメッセージだったのかもしれない。

毎日新聞からもうひとつ、詩人と紀州に関わる話題。

柑橘栽培の盛んな和歌山には昭和の初期ごろから「春光柑」という名のザボンとユズの血縁を持つ雑柑があり、今でも細々とつくり続けられているという。この「春光柑」という名前をつけたのが佐藤春夫だという由来があるが、「夏みかん」や「蜜柑」は作品中に探せても「春光柑」という名前は見られない。どうやら、陽光降り注ぐ南紀沿岸に実る鮮やかなイメージと望郷詩人のイメージが重なった結果ではないかというのが記事の結論だった。

夏みかんたわわに実り 
橘の花さくなべに 
とよもして啼くほととぎす (望郷五月歌)

72歳の皐月に突然迎えた死の前、佐藤は40歳で詩作した「空青し山青し海青し」の初夏の故郷をきっと想っていたことだろう。
















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