島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

92-1伏見天皇

2021-07-09 | 天皇陵巡り
 
 ここでは本来、前回の後宇多天皇の皇子である性勝親王(ショウショウ)(?~1354)の大覚寺宮墓地(ダイカクジノミヤボチ)(右京区北嵯峨山王町)を91-3として紹介する順番なんですし、大覚寺裏の住宅街にある写真の墓地も巡ってるのですが、有名でもないし歴代大覚寺門跡と一緒に葬られてるので、省略して写真だけにしました。
 
 第89代後深草天皇(1243~1304)(在位1246~1259)の第2皇子として、母洞院愔子(インシ)(1246~1329)の下に産まれたのが、難しい漢字ですが煕仁親王(ヒロヒトシンノウ)です。
 
 煕仁親王は持明院統の皇子ですが、鎌倉幕府の裁定に依って、大覚寺統の第91代後宇多天皇(1267~1324)(在位1274~1287)の皇太子に立ち、後宇多の譲位により1287年に第92代伏見天皇(フシミ)(1265~1317)(在位1287~1298)として即位しました。
  JR奈良線の車中から、通勤途中にいつも眺めてる深草北陵です
 
 中宮は太政大臣西園寺実兼(サネカネ)の娘西園寺ショウ(金へんに章)子(1271~1342)ですが、子は無く、典侍五辻経子(ケイシ)の産んだ第1皇子胤仁親王(タネヒト)(1288~1336)(後の第93代後伏見天皇)を猶子としています。
女院洞院季子(スエコ・キシ)(1265~1336)の産んだ第4皇子富仁親王(トミヒト)(1297~1348)(後の第95代花園天皇)の他にも、沢山の妃にたくさんの皇子女が産まれています。
  JR奈良線越しに陵を眺めています
 
 即位後2年にして父後深草上皇が院政を停止、1289年には息子胤仁親王を皇太子に立てたので、大覚寺統の怒りを買い対立は激化しました。
 また1290年に、宮中に浅原為頼(アサハラタメヨリ)父子3人が押し入る伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起こり、裏に亀山上皇の存在も疑われたので、大覚寺統の痛手になりました。
 この頃の宮中は男女関係の乱れもそうとうでしたし、聖域でも無くなってきてるようです。
  陵は塀に囲まれた方形堂です
 
 伏見天皇は和歌・書道にも優れ、特に書道は日本史上最高の能書帝とも呼ばれています。
 1298年には息子第93代後伏見天皇に譲位し、3年後には又大覚寺統の第94代後二条天皇に皇位は移りましたが、再び息子第95代花園天皇の下で伏見上皇は院政を行っています。
 こうして伏見上皇は両統迭立問題の解決を出来ないまま亡くなり、父後深草と同じ深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られました。
  12人の天皇の名が並ぶ陵は、十二帝陵とも呼ばれています

 阪神雨のおかげで、巨人三連戦の初戦を獲りました。
これで8月中旬までは首位キープ出来そうです。
   良かった!

        返事
和さん:ありがとうございます。
    8日で73歳、思いのほか長く生きてますね。
     今年はまだ五島の人も歓迎してくれないので、
    来年ぐらい行きたいです。


コメント (2)
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