島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

越前大野

2021-07-19 | 
 
 先週は、温泉でも浸かってボーとしていたいなあと思いつつ、結局日帰りで蕎麦でも食べに行くことに日和ってしまい、越前大野までドライブです。
 小京都と言われてる越前大野には5回以上は行ってますが、やっと越前大野城にも登りました。
 
 今流行の天空の城と言われてる割には、それほど高い山城ではなく、本当にこれで雲海に浮かぶことがあるのか、と思うぐらいの山の上にあります。
暑い日でしたが、ほとんど木陰の登り道だったので、ゆっくり歩いて天守までは20分ほどで、なんとか登りきれました。
 天守は昭和43年に再建で、登城料300円です。
元は織田信長家臣金森長近の築城です。
 
 天守に登って、碁盤目状の町割りになってる大野城下を見下ろしました。
再開発したのかどうかわかりませんが、町筋は意外と広いです。
 麓の駐車場に停めた愛車も、まだ新しいので暉って見えました。
 
 大野で一番有名な蕎麦屋でおろし蕎麦を食べる目的は、店が改装中で休業してるので、達成不可能。
 方針を全く転換して、こじゃれた喫茶店でコーヒーと水ようかんアイスの昼食でしたが、このコーヒーが美味しかったので当たりです。
 
 越前大野は町中に湧水が湧いていますが、この湧水をここでは清水(チョウズ)と呼んでいます。
 
 信長に敗れて一乗谷から逃げてきた、「麒麟がくる」でユースケ・サンタマリアが演じてた朝倉義景は、ここ大野で自害したようで、墓所も水で囲まれていました。
 
 墓所の前の義景清水(ヨシカゲショウズ)、湧水も多いですし、冷たい!
 
 武家屋敷旧田村家(300円)
大野藩家老田村家の屋敷を解体復元した建物で、300円の値打ちは無いのですが、「風車棚」を作って人を集めていましたので、若い人もパラパラとは来てました。
 
 暑い日なので、縁側に座って風にあたったり、暗い室内でゆっくり涼んだので、まあ300円は許します。
 
 
 
 蕎麦を食べ損ねたので、越前海岸まで足をのばして、岩ガキ・船盛り・撮影時は残骸になってた鬼エビの塩焼きの、遅い昼兼早い夕食を食べて帰りました。
73歳になって、私の日帰りドライブも、片道3時間ぐらいのこの辺が限界になってきたようです。

       返事
Toitenlabeeさん:Toitenさんの昔は、
    どれくらい昔のことですか。

コメント (2)
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祇園祭

2021-07-17 | 京都
 
 今日7月17日は、本来なら祇園祭山鉾巡行の日ですが、2年続けて新型コロナで巡行は中止です。
 一昨日15日は宵々山ですので、仕事帰りに途中下車して、今年は少しだけたてた山鉾を観に寄りました。
 先ずは長刀鉾を遠くからパチリですが、肝心の長刀が欠けました。
 
 函谷鉾(カンコボコ)です。
高校の同級生2人がせっかく2代連続で山鉾連合会の理事長になったのに、今の理事長は就任してから2年連続の巡行中止、「来年は絶対やる」と言ってました。
 
 鶏鉾です。
菊水鉾と船鉾は、今年はたてなかったようです。
「たて方を継承できる」の意味もあってたててるそうで、本当は観覧も控えるように言ってますが、少しは人も出てましたし、前でちまきなども売ってました。
 
 月鉾です。
たかだか100年ほどのオリンピックを、選手ファーストと言って無理矢理開催しますが、1000年近く続いてる祇園祭は、そもそも無病息災・疫病退散を願ってのお祭りですので、これをやらずしてどうするんですかね!
色々不条理なコロナ対策なんか止めて、全国のお祭りや神事を中止せずに施行し、神頼みに頼った方が効果的かもしれませんよ。
こんなことを、一応医療従事者の端くれが言うのはまずいでしょうが、祇園祭中止は葵祭や時代祭り中止以上に寂しいです。
 
 私の実家に一番近い場所にたつ放下鉾(ホウカボコ)です。
私の麻雀友達も、ずっとこの鉾に乗ってましたが、今は口うるさい古老にすぎないと思います。
祇園祭が終わったら、ずっと休んでいた麻雀も再開予定です。
 
 山も少しはたてていました、霰天神山です。
青春時代、祇園祭でのデートは夢でしたが、一度も実現せず。
今年の宵々山も、こんなに晴れていたのに夕方からは土砂降りです。
昔も祇園祭の夕方に、アスファルトに跳ね返る蝶ちょのような夕立を見ながら、「二人で濡れたかったなあ」と、ため息ついてたことを思い出しました。

コメント (1)
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93-1後伏見天皇

2021-07-14 | 天皇陵巡り
 
 第92代伏見天皇(1265~1317)(在位1287~1298)の第1皇子として生まれた胤仁親王(タネヒトシンノウ)、母は典司五辻経子(ケイシ)だったので、子のなかった太政大臣西園寺実兼(サネカネ)の娘で中宮だった西園寺ショウシの猶子となりました。
 
 胤仁親王はわずか1歳にして父伏見天皇の皇太子にたち、11歳で第93代後伏見天皇(ゴフシミ)(1288~1336)(在位1298~1301)として即位し、父伏見上皇の院政が始まりました。
 後伏見天皇は西園寺実兼の孫娘西園寺寧子(ネイシ・ヤスコ)(1292~1357)を女御として3男2女をもうけ、その内に北朝第1代光厳天皇と北朝第2代光明天皇がいます。
 その他にも6人の妃にたくさんの皇子女をもうけています。
  祖父後深草・父伏見の次に後伏見の名が並んだ制札です
 
 なんか武家社会の支配下に置かれるようになった承久の乱(1221年)以後の天皇は、政治主導が出来ない分、手当たり次第に身近の女官などに手を出し、産まれた皇子は法親王として日本中の寺々の座主・門跡として配っていたような気がしますが、こんなことを書くと戦前なら不敬罪でしょうね。
  深草北陵の正面です
 
 後伏見天皇の養母の父で、妻の祖父でもある西園寺実兼(1249~1322)は、それこそ第88代後嵯峨天皇の上皇時代から、第96代後醍醐天皇の時代まで、9代の天皇に仕えた実力者で、1269年関東申次に就任し、鎌倉幕府と共に大覚寺統・持明院統の皇位継承権を握る立場にいました。
  嵐山に有る火葬塚は、元々の後嵯峨は良いとして、別れた敵の大覚寺統の亀山と同じです
 
 実兼の妹嬉子は、第90代亀山天皇の皇后でしたが、亀山に余り愛されてなかったので、実兼は亀山の大覚寺統を見限って持明院統の伏見・後伏見天皇の即位を実現させました。
しかし伏見院政下で、本来は歌人で実兼の家来にすぎなかった京極為兼(キョウゴクタメカネ)が頭角を表わし、家来が主人を凌駕するようになったので、実兼は今度は元の大覚寺統に鞍替えし、結果後伏見天皇はわずか3年にしてた退位し、皇太子であった後宇多の皇子が大覚寺統として第94代後二条天皇になりました。
 こんな個人的な見栄や血縁で、天皇も決まっていたんですね
  これも嵐山亀山公園内の火葬塚です
 
 1331年大覚寺統の後醍醐天皇が討幕の兵を挙げましたが失敗し、息子光厳天皇が持明院統として即位したので、後伏見上皇による院政が開始されましたが、1331年足利尊氏の入京で光厳天皇は廃位されたので、後伏見の院政も停止されました。 
後伏見はその後出家し、崩御後深草北陵(フカクサキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られています。

        返事

Toitenlabeeさん:「見た目もダンデイだし、綺麗!」
    と、何万回も聞いてきたお褒めの言葉を糧に、
    これからも生きて行きます。ありがとう!

コメント
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梅雨あけか

2021-07-11 | 京都
 
 今日までは大雨がずっと降り続ける予報でしたが、今日は蒸し暑い晴。
孫Ⅲ-1と二人だけで、大好きな京都市バスに家の前から乗って、小旅行です。
 賀茂川を歩かされました。
 
 植物園前の和菓子屋さんで休憩、二人で氷を分け合いました。
 
 お相撲さん?、植物園にこんなの有ったかなあ、初めて気づきました。
 
 立派なヒマワリも咲いていましたが、植物園も夏は入園者少な目です。
 
 カンナ?も咲いていますが、陰は気持ちいいが、日なたは暑い。
当たり前ですね。
 それでも、ブラブラ(トボトボ)家に歩いて帰るまでの4~5kmぐらいを、孫Ⅲ-1は歩き通しましたし、行ったり来たり、遊具でも遊んで、私の倍は歩いてるかもしれません。
 
 蓮の花も満開か?、水と陰があると気持ち良い日です。
 
 お昼には帰れましたが、夕方は突然の嵐でした。
これで梅雨もあけるのですかね。
 
 73歳になりました。あと10年ちょっと、何をするわけでもありませんが生き続けようと思っています。
 でも、阪神は巨人に負け越したので落城まじか、こんなに勝ってた今年優勝できなかったら、私の生きてる間に阪神優勝は見れないでしょうね。
 

      返事
花水木さん:おめでとうございます!
    (花水木さんの誕生日も孫Ⅰ-2誕生も)
    元気に動けて手助けできる間に孫が産まれてくれるのは幸せですよ!
Toitenlabeeさん:波が去った頃に買いに行きたいですが、
    城陽も遠くなりましたよ。

コメント (1)
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92-1伏見天皇

2021-07-09 | 天皇陵巡り
 
 ここでは本来、前回の後宇多天皇の皇子である性勝親王(ショウショウ)(?~1354)の大覚寺宮墓地(ダイカクジノミヤボチ)(右京区北嵯峨山王町)を91-3として紹介する順番なんですし、大覚寺裏の住宅街にある写真の墓地も巡ってるのですが、有名でもないし歴代大覚寺門跡と一緒に葬られてるので、省略して写真だけにしました。
 
 第89代後深草天皇(1243~1304)(在位1246~1259)の第2皇子として、母洞院愔子(インシ)(1246~1329)の下に産まれたのが、難しい漢字ですが煕仁親王(ヒロヒトシンノウ)です。
 
 煕仁親王は持明院統の皇子ですが、鎌倉幕府の裁定に依って、大覚寺統の第91代後宇多天皇(1267~1324)(在位1274~1287)の皇太子に立ち、後宇多の譲位により1287年に第92代伏見天皇(フシミ)(1265~1317)(在位1287~1298)として即位しました。
  JR奈良線の車中から、通勤途中にいつも眺めてる深草北陵です
 
 中宮は太政大臣西園寺実兼(サネカネ)の娘西園寺ショウ(金へんに章)子(1271~1342)ですが、子は無く、典侍五辻経子(ケイシ)の産んだ第1皇子胤仁親王(タネヒト)(1288~1336)(後の第93代後伏見天皇)を猶子としています。
女院洞院季子(スエコ・キシ)(1265~1336)の産んだ第4皇子富仁親王(トミヒト)(1297~1348)(後の第95代花園天皇)の他にも、沢山の妃にたくさんの皇子女が産まれています。
  JR奈良線越しに陵を眺めています
 
 即位後2年にして父後深草上皇が院政を停止、1289年には息子胤仁親王を皇太子に立てたので、大覚寺統の怒りを買い対立は激化しました。
 また1290年に、宮中に浅原為頼(アサハラタメヨリ)父子3人が押し入る伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起こり、裏に亀山上皇の存在も疑われたので、大覚寺統の痛手になりました。
 この頃の宮中は男女関係の乱れもそうとうでしたし、聖域でも無くなってきてるようです。
  陵は塀に囲まれた方形堂です
 
 伏見天皇は和歌・書道にも優れ、特に書道は日本史上最高の能書帝とも呼ばれています。
 1298年には息子第93代後伏見天皇に譲位し、3年後には又大覚寺統の第94代後二条天皇に皇位は移りましたが、再び息子第95代花園天皇の下で伏見上皇は院政を行っています。
 こうして伏見上皇は両統迭立問題の解決を出来ないまま亡くなり、父後深草と同じ深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られました。
  12人の天皇の名が並ぶ陵は、十二帝陵とも呼ばれています

 阪神雨のおかげで、巨人三連戦の初戦を獲りました。
これで8月中旬までは首位キープ出来そうです。
   良かった!

        返事
和さん:ありがとうございます。
    8日で73歳、思いのほか長く生きてますね。
     今年はまだ五島の人も歓迎してくれないので、
    来年ぐらい行きたいです。


コメント (2)
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