島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

120-1仁孝天皇

2023-05-08 | 天皇陵巡り

 ゴールデンウイークの前半を頑張りすぎて、後半は天気も悪かったのですが、孫と遊んだり、競馬で負けたり、麻雀で負けたりで終わってしまいました。

普通の人と違うのは、本日8日もまだゴールデンウイークは続いており、仕事は明日からですが、出かけなかったのでブログのネタも有りません。

 写真はリーズナブルな伊料理店のデザートですが、それだけで腹一杯になる野菜20種類ぐらいの前菜バイキングも有る店なので、このデザートでも正直しんどいですが、まあ別腹ですので、別腹様の後月輪陵(ノチノツキノワノミササギ)もゴールデンウイーク明けにお楽しみください。

 第119代光格天皇(1771~1840)(在位1779~1846)を父に、東京極院婧子(ヒガシキョウゴクインタダコ)(1780~1843)を母として生まれた、光格天皇第6皇子にあたるのが寛宮(ユタノミヤ)です。

  以前陵に参拝すると言ったら、拝観料を取らなかった泉涌寺受付ですが、コロナ禍の時は誰もいませんでしたので、そのまま通過させてもらいました。

 寛宮は1807年光格天皇皇后欣子内親王(ヨシコ)の実子とされて儲君となり、立太子して恵仁親王(アヤヒトシンノウ)となり、1817年父光格の譲位を受けて即位し第120代仁孝天皇(ニンコウ)(1800~1846)(在位1817~1846)と成りました。

  写真は泉涌寺境内東外れにある月輪陵・後月輪陵の入り口です。

ずらっと39人の名前が書かれた制札も有ります。

 父光格上皇は死の直前まで院政を敷きましたので、仁孝天皇在位30年の半分以上は院政下でありましたが、朝廷の儀式やしきたりに関心を寄せていた仁孝天皇は、諡号(シゴウ)(死後に贈る名前)の古制を復興させて、父帝に光格天皇と諡(オクリナ)しています。

  陵の入り口の南側に、横から裏に廻れる門と道が有り、「民墓(我々平民の墓)へお参りする方のみ」と書かれていましたが、そっと入らせてもらいました。

 公家の子弟の教育機関として学習所を創設しようとし、出来たのは仁孝天皇が亡くなってからですが、この学習所はやがて尊王攘夷派の公家たちの温床となり、やがては現在の学習院大学の基礎となったようです。

  横から塀越しに眺めても、どこまでが月輪陵か後月輪陵か分かりませんでしたが、さすが多数の石塔が有りました。

 仁孝天皇も正規の皇后にあたる妃からは皇子は産まれず、典司正親町雅子(オオギマチナオコ)の産んだ煕宮(ヒロノミヤ)が次期天皇になりました。

  正面に戻って、陵の入り口から中に入っても、広場までは入れないようになっていましたし、誰もいませんが、この鎖を乗り越えて中に入って写真を撮る気にはなれませんでした。

 亡くなった仁孝天皇は、父と同じく後月輪陵(東山区今熊野泉山町)に葬られましたが、陵印も共通で、ほぼ同じ場所の月輪陵と後月輪陵を分けたのは、光格天皇からは傍系の天皇であったからでしょうか?

コメント (4)
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