光孝天皇が亡くなる前の慌ただしい時期、次の天皇に誰が成るのかは、結局権力者基経の手に委ねられましたが、ここで基経は臣籍降下していた光孝天皇の皇子源定省(ミナモトノサダミ)を再び親王にして、立太子させ、速やかに次の天皇にしました。
こうして即位したのが、第59代宇多天皇(ウダ)(867~931)(在位887~897)です。
前回の光孝天皇の真陵かとも言われてる、仁和寺裏手の御室陵墓参考地から更に山道を(自動車道)を登っていくと、昔参道であった急な石段に到りました。
その石段を登った所から、本当の山道の参道になります。
光孝天皇の長男でもない定省を基経が選んだのは、定省が基経のこちらは仲が良かった妹淑子(トシコ)の猶子になっていたことがありました。
仁和寺の裏山にある御室八十八カ所は、私の小学校の担任の先生の家が御室にあったので、級友と遊びに行った時に皆で廻りましたし、大人になってからハイキングに行ったこともあります。
今回宇多天皇陵を目指して仁和寺裏山の大内山を登りましたが、なんとなくこの辺の土と言うか岩と言うか、懐かしい気がしながら登って行ったので、しんどいと聞いていた宇多天皇陵も意外と楽に到達できました。
山の上から少し下がったような所に、御陵が見えてきました。
基経によって成れたような天皇の地位ですので、宇多天皇は基経にそれなりに気をつかっていたと思いますが、基経はせっかく自分が選んだ天皇なのに、なんかいちゃもんをつけたり権力を誇示するような性格の悪さから、阿衡の紛議(アコウノフンギ)と言う一件を起こしています。
(詳しくは調べて下さい、入試を日本史でとった私ですが、このことを知りませんでした)
定省が宇多天皇になる前からの多くの妃の中で、藤原胤子(インシ)が産んだ敦仁親王(アツギミ・アツヒト)が次の第60代醍醐天皇になりました。
天皇になってから888年には基経の娘温子(オンシ)を更衣に迎えていますが、幸か不幸か二人の間には内親王しか産まれませんでした。(宇多が避けた?)
基経が891年に亡くなり、その後藤原北家を継いだのは基経長男の時平(871~909)でしたが、まだ若いこともあって、宇多天皇は藤原北家とはやや距離を置くようになり、菅原道真などを重要地位に置く布陣を構えています。
宇多天皇は比較的早めに譲位し、以後899年には出家し、仁和寺に入って法皇となり、熊野三山にしばしば参詣するなど、政治からは身を引いていきました。
それでも901年昌泰の変(ショウタイノヘン)、いわゆる菅原道真が時平などの勢力によって太宰府へ左遷された時は、あわてて内裏にかけつけたそうですが、時すでに遅かった。
宇多天皇は火葬後そのまま土で覆われ、そこが陵になっていたそうですが、こんな山の上に江戸時代になってから治定されたのが、この大内山陵(オオウチヤマノミササギ)(右京区鳴滝宇多野谷)です。
返事
花水木さん:花粉症の人は、
今のご時世、電車などに乗りにくいですね。
前々回の花水木さん:まだ満開ではないですが、
混みそうでない場所の花見に出かけてはいます。