島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

56-1のイ清和天皇火葬塚

2020-03-04 | 天皇陵巡り
 
 京都吉田山にある浄土宗の金戒光明寺(コンカイコウミョウジ)、幕末に会津藩主松平容保(カタモリ)が京都守護職会津本陣を置いたので、鳥羽伏見の戦いで亡くなった会津藩士の墓もあります。
 
 アフロ大仏として近年人気スャbトにもなってる五劫思惟阿弥陀仏(ゴコウシュイアミダブツ)です。
*一劫;大岩を3年に一度天女が羽衣でこすることに依って、
    岩が擦り切れて無くなるまでの間、
    ほぼ永遠に近い時間の単位。
ですから五劫なんてのは、無限大以上と言うことでしょうね。
落語の「寿限無寿限無 五劫の擦り切れ・・・・」の五劫はこれです。納得!
 金戒光明寺にあるこのアフロ大仏を左に見て、お墓へ行く石段を登り、会津藩士墓の更に上に三重塔が有ります。
 
 分かり難いですが、その三重塔の裏側に清和天皇火葬塚を見つけました。
前回の御陵のあった水尾にお寺を建立しようと思っていた時に、源融の嵯峨の別邸で発病し、この近くの円覚寺(今はない)で亡くなった清和天皇は、ここで火葬されたようです。
 
 火葬後の遺骨は前回の清和天皇水尾山陵近くに埋葬されたようで、薄葬の遺詔があってか陵は築かれず、今の水尾の陵やこの火葬塚も後世のものです。
 天皇として最初に火葬されたのは持統天皇ですが、平安初期からしばらくは皇族や金持ちは火葬される風習も出てきたのですかね。
 火葬塚も紹介するので大変ですが、まあ分かった限りは本ブログで紹介して、数を稼ぎます。

      返事
花水木さん:普通の市民の私ですが、
    小さな小さな権力争いはしてますので、
    時々嫌になります。
大雪男さん:日本人は浮ェりなのか、
    心配性なのか、右に習えが好きなのか、
    なんだかたいした民族ではない気もしてきてます。
    その点馬は、マスクもせず、観客がいなくても黙って走ってくれています。
    まあ私の思い通りの走りはしてくれませんが。

コメント (2)
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