マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

第25回天理考古学・民俗学談話会聴講

2014年11月20日 08時19分43秒 | 民俗を聴く
始まってから25回目を迎えた天理大学天理考古学・民俗学談話会。

なんと今年で四半世紀にも亘る。

私は天理大学の卒業生でもないごくごく普通の一般人。

天理考古学・民俗学談話会を聴講するようになったのは平成24年からだ。

発表されるテーマによっては知りたいものがある。

そう思って今年もやってきた。

学生、一般人の受付は別個だ。名を記して500円の資料代を支払って、ふるさと会館こと天理大学9号棟に入る。

この日の午前1時。真夜中の棟内は人でいっぱいになったそうだ。

宇宙飛行士の若田光一さんが船長を務めている国際宇宙ステーションと米国NASAに天理大学雅楽部を結んだコラボ演奏があったという。

管楽器の笙(しょう)を奏でたのは若田さん。

NASAではバイオリン演奏で雅楽部学生が共演した。

ユニークな試みである。

長期間に亘って活動してきた若田光一さんは5月14日に、無事に地球へ帰還した。

それから数時間後に始まった第25回天理考古学・民俗学談話会の第一部は、題して<地域社会と文化遺産>。

1.伏見城と伏見桃山・名古屋大学大学院博士課程の西野浩二、2.水間八幡神社の祭祀組織・天理大学歴史文化学科事務助手の小野絢子(アヤコ)、3.関西における民芸運動の展開・大阪日本民芸館学芸員の小野絢子(ジュンコ)、4.東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―・天理大学考古学・民俗学専攻の齋藤純氏らが発表する。

午前の部はここまでだ。第二部に<物質文化と技術>、第三部に<各地の遺跡調査>があったが、所用が入っており途中下車した。

私が知りたかったのは水間八幡神社の祭祀組織と東吉野村の「魚見石」だ。

水間八幡神社の祭祀は田楽を奉納する芸能行事がある。

マツリに出仕される当家・当人を決めるフリアゲ神事、宵宮に行われる当家の座に真夜中の田楽奉納、大祭の座・馬駆け・子供力士相撲である。

2月11日には名替えが行われると聞いているが未だ拝見できていない。

対象となる男児がいない場合は代理人となる名替えの儀はいわば元服。

村入りの認められる年齢に達した際に幼名から成人の名に替えるのである。

総代が立会する儀式より数時間前には年番の引き継ぎもある。

今では11日に移っているが、かつては1日であった。

その日は弓鏑的の式があったと大正四年調の神社調査書にそう書かれているが、「宮座」の文字は見られない。

水間の八幡神社の祭祀を務める組織は宮座だと推挙された発表者。

いつしか村座に移った変遷を卒業論文にしたためたそうだ。

県内各地には今尚宮座を継承している地域もある。

村座に移った地域も多々あるなかで、なぜに水間を選ばれたのか発表にはなかった。

宮座研究は奥が深い。

調査地をどこにするかで特定することは難しい。

一事が万事ですべてを明らかにすることはできないと思っている。

昭和4年に宮座調査書の質問にある「宮座」の名称に回答はなかった水間。

そりゃそうである。

私が知る地域でも「宮座」の呼称はなく、○○座とか□□座、或いは○○講とか□□講である。

ある地域では「宮座講」の名も見られる。

「宮座」の呼称で呼んでいたのは僅かで、「座」と呼ぶ地域もある。

これはいったいどういうことなのであるのか。

呼称の研究は多くの事例を調査しなければならない。

本質的には地区に残されている文書が一番だと思っている。

場合によっては神社に寄進した燈籠などに「座」或いは「講」の名がある。

そもそも江戸時代には「宮座」の呼称はあったのか、である。

地域によっては「座」は一つだけでなく、二つ、三つの場合もある。

もっと多くの事例を研究する余地がある発表。

若い人だから、水間だけでなく多くの地域に足を運んでほしいと思った。

天理大学歴史文化学科教授の齋藤純氏が報告された「東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―」はとても興味深い。

「魚見石」は氏の談話で始めて知った。

東吉野村の小(おむら)にある「魚見石」の原像はどのような過程があって、そう呼ばれるようになったのか。

「小」の文字一つで「おむら」と呼ぶ訳も始めて知った。

もともとの「小」は「小村」であった。

「村」の字が取れて「小」の一文字になったが、呼び名がそのまま残ったのである。

それはともかく「小」にある「魚見石」の伝承に、「神武天皇が厳瓮(いつべ)を流して戦勝占いをした所だ」がある。

ところが日本書紀にはそのような記述がないのだ。

一方、「高僧の奇跡譚と似た内容を村の人が記憶にある」というのだ。

高僧はおそらく弘法大師。全国各地に弘法大師が発見したなにがしだという奇跡譚がある。

「魚見石」に掲げられている聖蹟碑は村の伝承であるには違いないが、日本書紀の事柄にはないのである。

いつの時点で事実に基づかない「魚見石」が伝説になったのかである。

日本書紀にあるのは、大和侵攻に際して天神の夢告があったということだ。

夢告は「天香山の埴土(はにつち)を以って平瓮(ひらが)、厳瓮(いつべ)を造って丹生の川に沈める」。

厳瓮とは酒瓶である。

思い出したのは、畝火山口神社の埴土取り神事だ。

大阪の住吉に鎮座する住吉大社で祭祀される際に用いられる「神酒壷」と呼ぶ祭器の願材料が「埴土」である。

祭器の原材料は、畝火山口神社の元社になる畝傍山山頂に存在する。

かつては耳成山にもあったことが知られている。

「埴土」は夜行性コフキコガネの糞であると橿原市史に書かれてあった。

樫の木の養分を集めて、土(のなかの精髄を)丸めて団粒にするコフキコガネの習性。

自然界から生まれたものを秘土とした埴土に驚きを隠せない。

日本書紀にある「埴土」は天香山であったのだ。

「埴土」で造った土器を川に沈めて、その浮き沈みで祈い(うけい)をした。

その場は「誓(うけい)の淵」だ。

「土器を沈め、魚が酔って流れたならば、国を平定できるという祈い。

それを見た家臣の椎根津彦は神武天皇に報告したところ、大いに喜んで丹生の川上に諸神を祭った」ということである。

齋藤純氏は続けて話す。

「魚見石」の異伝に「焼魚蘇生譚」がある。

それと同じ類型譚は各地に見られる。

宗派拡大をもくろむ宗教伝播者がいた。

それが各地に広がった「焼魚蘇生譚」。

魚を捕る村の人から料理した魚を提供される。

宗教伝播者は、自己のものとして川に入れる。

すると魚が蘇生して川に棲むことになる。

氏曰く、これをきっかけに在来の村人と訪れた宗教伝播者による教化によって宗教的関係が結ばれる、というのだ。

「小」では「村人から提供されたアマゴは片身を焼いたまま、堰に入れた。するとアマゴは蘇生して堰より俎上する様を村人とともに見た」というのだ。

その場をカンジョウノフチ(勧請の淵)と呼び、宗教伝播者(推定弘法大師)は神仏を勧請し祈願を行ったと記す。

古老が記憶にあった「焼魚蘇生譚」は「魚見石」に改変された。

その際に神武天皇の祈いを加えたのであろう。

伝説はいくつかの要件が合わさった作り話の物語(譚)なのである。

言い伝えはともかく伝説は古譚。

なにがしかの要素が変化を加えて伝わってきた。

事実関係は史料にある。

それを深く考察することが大切だとあらためて認識した講演であった。

ちなみに氏が一覧表にされた弘法大師が由来する「焼魚蘇生譚」の地域は次のとおりだ。

奈良県内では東吉野村小の他、旧都祁村の上深川、旧室生村三本松・同村平原、十津川村出谷・小壁がある。吉野町国栖の由来は弘法大師でなく、天武天皇になる。

和歌山県では高野山内玉川も弘法大師。

大阪府は行基が関係する堺市家原寺だ。

兵庫県伊丹市昆陽池も行基である。

(H26. 5. 3 SB932SH撮影)

東安堵の苗代水口祭

2014年11月19日 07時19分38秒 | 安堵町へ
早いところでは4月20日ぐらいに苗代作りをされる矢田町、月末近くになれば山田町も始まる。

あちこちでされているが、予定していた日が雨天ともなれば順延するところもある。

家族が応援しないことには苗代作りが始まらない家がほとんどのようだ。

雨が降り続けた「29日は仕方なく作業場でモミオトシをしただけや」と話していた東安堵の住民。

翌日は苗床を作って、苗箱をひとつずつ並べていた。

その様子を拝見したく、送迎の仕事を終えて直行した。

家から運んできた運搬車に積んだ苗箱は190枚。

品種は奈良産のヒノヒカリである。

改良が加えられ高品質になったそうだ。

モミオトシをした土は肥料付き、本来なら山土であるが、手間を省くために市販品。

溢さないように、そろりそろりと手渡していく。



このころの田んぼには花が見当たらない。

付近に咲いていた野の草花をあしらって撮らせてもらった。

1時間半ほどの苗箱置き作業は中腰体制の連続。

作業はドロ田を歩いては、一枚、一枚下ろしていくが、急げば波立つ。

「そんな歩き方したら苗箱の土が崩れてしまうやないか」と叱咤も入った。

鳥除けの金属ポールを立てて曲げていく。



そのころ、徐にお供え準備しはじめたのは奥さんだ。

洗い米、塩、お茶にお菓子類をお盆に盛っていく。

苗代作りをする男性は送迎仕事の相方さん。

私が出勤すれば、彼は休みで家の仕事ができるということである。

苗箱作り、苗箱落としは彼がしているが、「お供えは奥さんがしているので、詳しくはそっちに聞いとくれ」と云う。



お供えの準備ができれば、旦那とともに鳥除けポールを立てていく共同作業。

この日の苗代作りに応援していたのは旦那の兄弟。

そのうちの一人は生駒高山の「前座」の座中であった。

苗代作り取材から民俗モードになっていた。

鳥除けポールを立てたら幌を被せる。

白い幌であるが、彼は寒冷紗と呼んでいた。

苗床は水路から水を引いてヒタヒタの面一にしておく。

「根が張ってしまっては、苗箱を取り出すときにやっかいになるから」と云って、穴開きシートを一面に覆っていく。



作業が始まっておよそ2時間後、奥さんが苗代のドロ田にイロバナを立てた。

倒れないようにドロで周りを固めていく。

幌も風で飛ばないように数十カ所にドロを置いていく。

お供えはイロバナ付近に置きかけたが、お盆が濡れてしまうと云って、畦に移した。



そうして、すぐさまお菓子をばらまいた。

かっぱえびせんでしょうか、お菓子が大きかったので撒く様子がよく判る映像になった。

後日に聞いた話しによれば、かつてはキリコ(キリコアラレ)であったと云う。



塩、洗い米も同じように苗代に撒いていく。

神事のように見えるが、お祈りはすることもなく淡々と進められる。



そして、イロバナの手前に2本のローソクを立てて火を灯した。

これまで県内各地の水口祭を拝見してきたが、このような祭り方は初めて見る。

一昨年までは弟さんが住む生駒高山で苗代作りをしてきた。



その地では「けっこう見られる」と話す苗代の祭り方ではあるが、東安堵のご主人曰く、「ここではおばあさんがずっとそうしていた」と話す。

供え方、祭り方はこのような在り方であるが、拝見した東安堵では「水口祭り」という呼び名もない。

祭り方はこれで終わることもなく、まだ続きがある。

この場で撒いたお菓子を食べられるのだ。



すべての作業を終えて帰路につくころ、ご主人と生駒の弟さんだけは手を合わしていた。

お二人は「豊作の願いや」と云っていた。



ところで、5月3日の午後に飽波神社役員が各戸に、この日の午前中に奉った松苗を配られると云っていた。

受け取れば、あらためて苗代に松苗を立てると話していた。

ご主人主人が云うには「一杯飲んでからや」と云っていたことから、午前中に祈年祭若しくは御田植祭があるのではと思った。

松苗には小さな紙片もあったと云うから、お札であるかも知れない。

同家では田植えも早くしていると云う。

6月に入れば池水を利用するが、早めにされる同家の田植え時期には、まだ出水はしない。

そのような状況であることから、富雄川の水を使うと云っていた。

(H26. 4.30 EOS40D撮影)

御所鳥井戸ひ孫のコイノボリ支柱

2014年11月18日 08時45分17秒 | 御所市へ
風の森から峠越え。国道24号線を北上していた。

昼過ぎから降りだした雨で葛城山系が霞んでいる。

五百家(いおか)を通りぬけてしばらくは下り坂。

往路にも通っていた国道である。

そのときに気がついた。

高く伸ばした木製の支柱があった。

支柱の先は矢羽根でもなく、木の葉でもない。

どことなくカマの形に似ていたのだ。

それは一体何であるのか。

気がかりにしたまま帰宅するわけにもいかず、念のためと思って訪ねた家は鳥井戸の住民。

母屋から出てこられた婦人は95歳。

支柱に掲げてあった正体を教えてもらった。

それはカマでもなく、ひ孫が生まれたときに立てたコイノボリの支柱であったが、最初の年は木の葉付きで2年目はくるくる回る矢羽根に取り替えた。

ひ孫は大きくなったが、そのままにしておいた。

もう何年も経っているという、それは矢羽根の欠片。

一枚が残っていたものがカマに見えたのである。

同家にはもう一本あったが、孫の誕生のときのもの。

どちらも山から伐り出したヒノキの木である。

それは門屋の前に立てていた。

用を終えたコイノボリの支柱は記念に門屋のツシに掲げている。

長い支柱は立派な太さ。

でんと構えている。

婦人の出里は五條市の野原。

それほど遠くない。

嫁入りしたときの家は現在の国道24号線よりも下の旧街道だった。

今でも田畑はそこにあって、この日は若い者がモミオトシをしてきたという。

この日は数か所で田んぼ作りをしている農家があった。

東佐味ではすでに苗代を済ませている田んぼもあった。

旧道はかつての本道。

バスの終着点でもあった。

国道24号線は山麓を走る新道になったころに旧道からあがって、この地に新居を建てた。

建築材は近くの山から伐り出して10年の廻り。

それから旦那とともに自前で建てたという。

かつての鳥井戸は葛城の心斎橋の名がつくぐらいの賑やかさがあったと思い出話。

いずれひ孫の支柱にもコイノボリを泳がせたいという支柱はネジで止めているから、緩めて倒すこともできるそうだ。

(H26. 4.28 EOS40D撮影)

イオン五條店のそばうどん寿司セット

2014年11月17日 07時20分59秒 | あれこれテイクアウト
五條市霊安寺町の下見を終えて帰路につく。

そのころは丁度昼時間。

五條市の野原を通って本陣の信号を東に向かう。

ここら辺りは中心部の市街地。

イオン五條店がある。

入店はおよそ20年ぶりだ。

十津川村に向かう際に買出しをしたことがある。

駐車場は屋上が広いが、路面はずいぶんと崩れている。

店の古さを知ったこの日であった。

1階は食材関係の売り場。懐かしいと思うが、昔の記憶とはずいぶん違っていた。

売り場のレイアウトはイオン流。

県内各店舗と同じようであるから、すぐ判る。

求めたのは弁当売り場。

あれやこれやと迷って選んだ弁当はそばうどん寿司セット。

その名の通りにそばもあれば、うどんもある。

当然ながら冷しである。

中央は出汁を入れるようになっている。

先日食べたオークワの寿司そばセットとほぼ同じような形である。

出汁を入れる器は小さい。

すぐに脇から溢れだす。

流れていなり寿司やにぎり寿司が出汁びたしとなる。

もっと工夫の余地があると思える容器である。

手前に盛ったそばからいただいた。

添えていたワサビは寿司用、それとも出汁用のためらいもなく両方に、である。

そばは分離して取りやすかったが、うどんは粘っこい。

くっついてくるから小さな容器に入れるのが、実に困難。

箸でなんとかほぐしながら出汁に浸ける。

ワサビが利いているから食べられる。

いなり寿司もにぎり寿司も出汁の味がする。

はたと気がついた醤油。

それがないのだが、ワサビでごまかして食べた。

(H26. 4.28 SB932SH撮影)

霊安寺町の御霊神社を訪ねて

2014年11月16日 09時32分04秒 | 楽しみにしておこうっと
隔年の4月に太々神楽祭が行われると知って訪れた五條市霊安寺(りょうあんじ)町の御霊神社。

今年がそうである。

時間は不定と思われたので、ゆっくりとした気分でかけた。

御霊神社は五條市の他、たくさんある中のご本社。

創建は不詳であるが、延暦十九年(800)七月に霊安寺の建立に伴って御霊神社も創祀したのではと伝えられる。

御霊神社へ向かう道は毎年十津川に向かう街道筋。

丹生川を跨ぐ橋のすぐ手前の坂を登る。

そこに鎮座していたのが御霊神社だった。

人影はなかったが、神社境内から車を出そうとしていた方に声を掛けた。

お姿は神職。F名誉宮司であった。

前年の3月に退官されて名誉職となった。

この日かどうか判らなかった太々神楽の件をお聞きした結果は、前日の日曜日に終わっていた、であった。

その日より二日前はセンターに集まった氏子たちがたくさんのお米洗いとしていたという。

一日かかる作業は翌日もある。

ゴクツキである。

お米はモチゴメであろう、杵で搗いていたかどうかは聞きそびれたが、十数斗にもなるというモチ搗き。

これも一日を費やす作業である。

それほど多いゴクモチは祭りの午後に神振行事の「大餅撒き」をする。

大量なモチに氏子圏が広い御霊神社のゴクマキは2回に分けて撒くそうだ。

この日に訪れた時間帯はゴクマキをしていた櫓がまだあった。

隔年で行われているという太々神楽は、2年待たなければならない。

名誉宮司の話しによれば田原本町の守屋家と婚姻関係にあるそうだ。

そのときに伝わったのかどうか判らないが、守屋家では途絶えている御湯があるそうだ。

守屋家の代々が継承してきた太々神楽は、霊安寺町御霊神社の2カ所だけであると云う。

(H26. 4.28 SB932SH撮影)

我が家の花

2014年11月15日 08時34分24秒 | 我が家の花
我が家の庭にもいろんな花が咲いている。

いつまでも咲いているクリスマスローズもあれば、白いタツナミソウにカンサイタンポポやオダマキ、ハナニラ、サンショも。

花の名前は知らないが、これは園芸種。

何かの花に混ざっていたのだろうか。

しばらくすればセッコクやシランも咲く時期がくる。



地植えしたジエビネが咲きだすころはシンピジウムも花が開く。

何の手入れもしなくとも今年も咲いた。



昨年は実に4年ぶり。

僅かに咲いたワインカラーのシンピジウムであったが、今年の花つきがすこぶる良いが、前年よりも一週間遅れだ。



一週間前のお大師さんが行われた番条町でいただいた大麦は床の間に飾った。

(H26. 4.27 EOS40D撮影)

上深川のシバザクラ

2014年11月14日 07時18分29秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
墓地に咲き誇っていた千手山桜は老衰なのか花はどんと少なくなった。

今年はさっぱりだったそうだ。

衰退を考えて苗を植えたという。

その下は上深川を通り抜ける街道だ。

近年、街道沿いの畑の土手、川堤などが美しくなっている。

春の色を染めているのはシバザクラ。

誘導されるような一面の花盛り。

神社の駐車場も春色で染めていた。

村の「みどりの会」が数年前から取り組んでいたシバザクラの植生地は街道沿い。

2月に行われるカンジョ場にも染まっていた。

勧請綱は2月7日の初祈祷の日に綱を結う。

大蛇に見立てた綱は祈祷されたのちに清麗な流れの川を跨げるように綱を渡す。

12年前の平成16年にその様子を拝見したことがある。

その行事は元薬寺で行われるショウゴン(荘厳)の呼び名がある初祈祷だ。

法要の際に結ったジャを祈祷したのちにトーヤらが地区を流れる深川の六文橋付近に掛けるカンジョウ縄。

その場はカンジョウの場と呼ばれている。

ムラに疫病が入ってこないようにという願いである。

(H26. 4.26 EOS40D撮影)

下深川のミツバツツジ

2014年11月13日 08時00分20秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
久しぶりに通りがかった旧都祁村の下深川。

暑い日だった。

日陰はないものかと走っていた。

そこでお弁当を食べたかった。

行き交う車はほとんど通らない田園を走る。

車窓から眺めていた。



長閑な地に色花があった。

立ち止まって佇んでいた。



もったいないからと思って撮っておいたが、風景写真家Yさんが数日前にとらえた場と同じだった。

(H26. 4.26 EOS40D撮影)

上深川八柱神社の造営奉祝祭

2014年11月12日 07時17分51秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
かつて上深川村は隣村の針ヶ別所村・小倉村・下深川村・萩村・馬場村とともに山辺郡に属していた。

平成17年4月の市町村合併によって旧都祁村に属する上深川は奈良市に編入された。

平成25年の1月に八柱神社の造営委員会を立ち上げた奈良市上深川町。

八柱神社の造営は18年に一度の本殿造り替えの一大事業である。

伊勢神宮の式年遷宮は昨年の平成25年に行われた。

内宮、外宮の二つの正殿の他、14の別宮などの社殿を造り替えて神座を遷す20年に一度の大事業である。

ニュース報道或いは特集を組むなど報道機関は盛んに放映していた。

一方、世界遺産に登録されている春日大社では平成27年3月の仮殿遷座祭を経て平成28年11月には本殿正遷宮が予定されている。

春日大社も同じように20年に一度の大事業をされるが式典の正式名称は式年造替である。

上深川の氏神さんは八柱神社。

なぜか判っていないが、18年周期で行われている造営事業である。

氏子たちの話しによれば、山添村片平の氏神さんも八柱神社。

当地も18年周期に行われると云う。

他所においてもそのような事例があるのだろうか。

探してみれば菅生は12年周期だった。

地域によっては12年もあれば18年もある造営周期に興味をもった。

前回は平成8年に行われた御造営事業。

それから18年経った神社は本殿、参籠所、玉垣、手水舎などなどを改築工事された。

造営委員会を立ち上げて、村の総会で決定した造営。

平成25年の3月には仮殿を祀って氏神さんに遷ってもらった。

それから順次、改築工事に移った。

すべての工事が終わったのは9月である。

翌月の10月には鮮やかに蘇って新しくなった本殿に遷した。

造営の儀式は平成26年の4月。

23日には18年ぶりに行われる祭典儀式を滞りなくするためリハーサルも行っていた。

上深川に始めて訪れたのは平成14年の10月12日だった。

題目立が演じられる様子を拝見したく出かけた。

その後の平成16年、18年、23年にも拝見した。

平成23年には演者の練習にあたる「ナラシ題目立」も拝見したことがある。

上深川の年中行事は題目立の他、神社行事である8月の風祈祷、12月の注連縄掛けもあれば、元薬寺で行われる行事も取材したことがある。2月の初祈祷乱上柳のオコナイ、3月の念仏講、7月のゲーである。富士講の営みである富士垢離も取材してきた上深川。

顔馴染みになった人たちと接することが多い。

3月7日にメールが送られてきた。

お彼岸に関する事項であるが、元薬寺では彼岸の行事は存知していない。

もしかと思って度々お世話になっている送り主のOさんに電話をした。

話しを聞けばどうやら間違いメール。

親族関係者に送るべきメールが誤って私にも送られたのである。

その際に伝えられた八柱神社の造営事業。

4月26日に行われると教えてくださった。

正式にご連絡をいただいたのは4月6日だった。

なんとか都合をつけて立ち寄ることを伝えた。

4月23日にはリハーサルを終えた直後にその様子も伝えてくださったOさんに始めてお会いしたのは平成16年の2月だった。

それ以来度々お話を伺う機会を得て、上深川で行われる数々の行事を取材してきたのである。

祭典当日は青空が広がる晴々とした日になった。

村人誰しも心待ちにしていた造営の祭典に相応しい天晴れ日だ。

ハレの日は村の祝いの場。

目出度い日に届けた祝いの酒を持参してきた。

式典を教えてくださったOさんは造営委員を勤めている。

題目立保存会会長のTさんは造営委員長。

いつもなら「おーい、写真屋」で応えるフレーズもなく、晴々とした笑顔で手を握る。

長老たちもお元気な姿をみせる。



晴れの最低に相応しい正装で集まった村人たち。

和服姿の婦人たちもみられる。

村から出た外氏子もこの日は装ってやってきたハレの祝いである。



本殿のほか、末社の八坂神社、厳島神社も美しくして、高々に御造営の日の丸御幣を掲げている。

竹を立てた鳥居にも日の丸御幣を括りつけていた。

受付を済ませて登った祭典会場には氏子たちが作法をする槌もあれば、紅白の綱も準備されていた。

槌は前回同様の文様。

18年前に祭典で受け取った槌は会所や各戸で大切に保管されていた。

それらを見本に作ったという槌には朱書きされた宝珠文様がある。



八柱神社の神宮寺は元薬寺。

上深川ではお寺の行事も継承されてきたのである。

八柱神社の宵宮行事に「題目立(だいもくたて)」が奉納される。

ユネスコ無形文化遺産に指定された神事芸能「題目立(だいもくたて)」は、数え年17歳の青年たちが演技する伝統奉納である。

貴重な伝統行事に着用する衣装は文化庁、県、市の支援を受けて新しくなった。

その姿で披露するのはこの年だ。

新しくなった本殿下で演じられる。

造営祭典は三部構成になっている。

一部は「御造営奉祝祭」で、手水、参進、開式の辞、修祓、斎主一拝、御扉開扉、献饌、祝詞奏上、奉祝氏子幣奉幣、弓矢清祓い、紅白曳き綱、槌打神事、棟梁寿詞奏上、御神楽奉納・太神楽奉納、玉串奉奠、撤饌、御扉閉扉、斎主一拝、閉式の辞で終える。

次の二部は「造営奉祝式典」。

列席された関係各位の祝い・お礼のご挨拶である。

開式の辞、造営委員長挨拶、事業報告、来賓挨拶、外氏子代表挨拶、感謝状贈呈(工務店代表)、閉会の辞で終える。

三部は「祝賀式」で、太神楽、御供撒、鏡割、乾杯、直会を経て散会で終える。

祭典斎主は山添村室津の奥中弥寿司宮司だ。

兼務社にあたる各地域で行われる神事行事でお世話になっている。

住まいする室津のお渡りにも来てほしいと願われた。

奥中宮司が写し記した大正4年調の『東山村神社調書(写し)』は私にとって貴重な史料になった。

手元にもっておられた写し帳を拝見したのは平成18年12月23日のことだった。

山添村室津の戸隠神社で行われる申祭り取材のときだった。

神職を勤めることになった宮司は精魂を込めて村に保存されていた大正4年調の『東山村神社調書』を判読されて書き写したのである。

全編を写し終えたのは平成18年の11月だった。

拝見したできあがったばかりの調書写しはその後も見直しをしてきたと話す。

この史料は山添村の六所神社のマツリに出仕される峰寺・松尾・的野の三カ大字の廻りで奉納されるジンパイで参照させてもらった。

六所神社で行われてきた古い作法や経緯も参考にさせていただいた貴重な史料は、県の緊急伝統芸能民俗調査に於いて、相当な箇所で引用させていただいたありがたい調書である。

元文書は筆で書かれた文字。

漢字は特に判り難いく、その後も検証を続け、一部は新しく書きなおしたと話す。

御造営祭典のメインは紅白の曳き綱と槌打神事。



長老らがその作法をする。棟梁が「エイ エイ エイ トー」と掛け声すれば、曳き手が「エイ エイ エーイ」で応えて綱を曳く真似をするのだが、棒立ちであるため何をしているのか判り難い写真になった。

数か所で県内事例を取材したが、いずれも同じようで判り難い絵面になってしまう。

次は宝珠の文様がある木槌を打つ。



棟梁が掛ける「せんざい トー」に合わせて、一同は揃って「オー」と返し、トンと槌を打つ。

「まんざい トー」で槌打ちトン。

「えいえい トー」で槌打ちトン。

「せんざい」は「千歳」、「まんざい」は「万歳」で、「えいえい」は「永々」の意がある。

村が永遠に栄えるよう、益々の繁栄を願った目出度い詞の槌打ちの作法である。

上深川の八柱神社の御造営の正式名称は御造営奉祝祭。

「造営」と書いて「ゾーク」と呼ぶ。

奈良大和の東山中では一般的な呼び名だが、西側の葛城山系ではそう呼ぶことはない一部修理で継いでいる。

棟梁の寿詞奏上に続いて御神楽と太神楽を奉納される。



本殿下に設えた仮舞台で舞うのは石上神宮の巫女さん。

奉納神楽の「豊栄の舞」が美しい。



改築に伴って石垣造りにした。

植生している大杉の根っこが起こす土崩れの防止を兼ねてほぼ全面に石垣で囲った。



次に登場したのは室生神楽保存会が演じる奉納太神楽の「鈴の祓い」だ。

背景に石垣を入れたのは造営の儀式に奉納された状況を記録するためである。



今年の題目立は新調された装束となってこの場で演じられる。

二部は「造営奉祝式典」にお礼の挨拶された造営委員長。

「少子化になった上深川。氏神さんのご加護を受け継いで村が発展してきた。」と述べられた。

次に挨拶されるⅠ治委員長も「18年に一度の造営の詞に・・・、本殿および末社の八坂神社、厳島神社も新しくなった」と御礼の挨拶をされた。

御造営の祭典は「御造営奉祝祭」、「造営奉祝式典」、「祝賀式」の三部構成。

祝いの詞や挨拶などの「奉祝式典」に続いて、再び登場する室生神楽保存会が演じる獅子の舞。

奉納と違って氏子のために舞いを演じる。



「鈴祓い」から口に銜えた獅子が舞う「剣の舞い」に転じる演技には高々と獅子頭をあげる所作がある。



黒毛の獅子舞が終わって、次に登場する獅子は赤毛。



演目は「荒獅子」に移った。



太神楽を終えて御供撒(ゴクマキ)に移った祭典。



モチ搗きした一石二斗のモチは桶に入れていた。

一段高い石段より撒く紅白のモチが境内に飛んでいく。

そうして、鏡割、乾杯を経て直会に移った。

(H26. 4.26 EOS40D撮影)

スズキエブリィJOINターボ初出動

2014年11月11日 08時05分55秒 | いどう
15日に契約を済ませたスズキエブリィJOINターボ。

翌日には「売約済」の表示をつけてAKGコーポレーション展示場にあった。

並んでいた中古車は平成19年式のマツダスクラムワゴン。

白いボディが眩しい。

ターボ・フォグ・キーレス・パワースライドドアにメッキグリルアルミ装着だ。

9万4千km走行で59万8千円。

かーさんが乗った実感はこれが良いであったが、我が家の出費にたえない価格。

走行距離は魅力だが断念だ。

もう一台あった中古車は黒色ボディ。

平成23年式スズキエブリィワゴンはターボスペシャルだ。

オートステップ・両側パワースライドドア・フォグ・純正アルミを装着する。

11万7千km走行で61万8千円。

これを買うにはアルバイトをもう一つしなくちゃならない。

とてもじゃないが買えるわけがない。

決めては捻出する家計費内。

平成19年式のスズキエブリィJOINターボは35万8千円。

なけなしの貯金から出費した。

これからの暮らしはどうするか。

お金が天から降ってきてもらいたいものだ。


(H26. 4.16 SB932SH撮影)

「売約済」の表示が消えたのはそれから一週間後の24日だった。

エンジンなどの調整に加えて内装を少しでも奇麗にしておくと聞いていた。

納車日は25日にしていた。

整備などは二日間。24日の晩に電話があった。

明日の夕方には納車ができそうだというのである。

約束は守られた。

指定時刻にやってきたAKGコーポレーション。

外装はピカピカになっていた。

内装は天井の染みはとれなかったが、展示場で見たときよりも奇麗になっていた。

ドアを開ければ新車の香りがする。

受け渡しされたエブリィの走行距離は112151km。

我が家の駐車場にもすんなり入った。

乗り降りはダイハツスクラムよりもすこぶる良い。

ステップの位置が足元の高さと丁度いい。

その晩に荷物を積み替えて翌日の支度を調えた。

朝の光りに輝いていたボディ色はターコイズグリーンパールメタリック。

乗り込んでエンジンを起動する。

しばらくは暖気運転。

低水温表示灯が点灯していた時間は7分間。

昨日まで借りていた代車のダイハツタントは3分間だった。

あまりにも長い水温上昇。

気にかかるが出動は待ったなし。

マツダスクラムには低水温表示灯がなかったから気にならなかった。

ランプが消えないままで走行していいのやら、不安が残る。

エンジン音はとても静かだ。

スクラムのエンジン音は長男が驚いたぐらいにガンガンしていた。

その音量に慣れていた。

スクラムの前はタウンエースのジーゼル仕様。

これもまた驚くぐらいの音量である。

十数年間も慣れていた感覚は染みついていた。

昨今、といっても平成19年式のエブリィ。

静かすぎるエンジン音は信号で停止するたびに故障記憶が蘇る。

エンジンが停止したのではないかと思えるぐらいのエンジン音は澄んでいる。

走行はラクラクと高速に移る。

西名阪国道の坂もラクラクである。

インパネシフトレバーも操作しやすい。

アクセル反応も機敏で、すぐに高回転になる。

ターボが機能的に働いているのであろう。

燃料メータは中央だった。

上深川を往復して戻ったときはずいぶんと下がっていた燃料針。

うん、なんとなく燃費が悪いように感じた。

帰宅途中で満タンにした燃料計は、翌日に買い物したスーパーの行き帰りは数十km。

針はぐんと下がっていた。

その後もぐんぐんと下がり続ける燃料メーター。

どれほど悪いのかと思いきや、中央ゾーンに針があった距離は175kmだった。

その晩に我が家の駐車場に納まったエブリィ。

2階から見ていたかーさんが「室内で赤ランプがチカチカしている」と言った。

調べてみれば盗難防止のセキュリティアラームだった。

キーレス以外でドアを開けようとすれば鳴りだすアラーム。

鳴りだしたら止まらないらしく、運転手も大慌て。

店員さんが早く止めてというような映像がテレビ放映していたというかーさん。

ガラスを割られたら、そんな機能も役立たない。

数日経って気がついた。

ドアを開ける度に傷がつく我が家の駐車場。

スクラム時代はさほど気にもかけなかった。



当たって傷がつくコンクリート門壁の面にクッションボードを括りつけて保護した。

初登場した商用車のスズキエブリィJOINターボは、翌日には早々に発揮した。

ラゲッジルームは広い空間。後部座席を倒せばママチャリも難なく収容できる。

前輪がパンクしたママチャリはかーさんの自家用車。

もう何年使っているか判らないほどにクタクタ自転車だが実用的。

電動自転車を買いたいが家計のやりくりは難しい。

もう少し乗ってみたいといって、エブリィに積みこんで自転車アサヒに持ちこんだ。

乗用車タイプならたぶん無理だと思うラゲッジルームは、こういう場合に発揮するのだ。

二日後も出動したエブリィ。

今度は折りたたみ自転車の運搬だ。

所用ででかけていた息子は図書情報館に出かけていた。

雨が降るやも知れない日であるにも拘わらず乗っていった。

イオン大和郡山店で買い物を済ませたときにかかってきた電話。

迎えにきて欲しいというわけで出動した。

折りたたみ自転車の積み込みはラクラクだ。

注文していたETCカードは翌月の2日に届いた。

これで心置きなく高速道路に入れる。

カードを使うことはないが、西名阪国道を走ってみた5月6日。

初のロングランであるが、それほど遠くない東山間の取材を終えた復路。

天理福住からは下りで、エンジンを吹かすことも少ない。

どこで点灯したか覚えてないが、信号待ちの際に気がついた低水温表示灯

なぜか点灯したのである。

しばらく走れば戻ったが、何故なんだろうか。

翌日の7日も同じ事象が発生した西名阪国道の下りは魔物が住みついているのだろうか。

(H26. 4.26 SB932SH撮影)
(H26. 4.29 SB932SH撮影)