マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

田中町甲斐神社雨のお田植祭り

2013年06月20日 06時53分53秒 | 大和郡山市へ
午前中いっぱいかけて祭りの準備を整えた大和郡山市田中町の宮守たち。

一旦は家に戻って出番を待つ。

その間に降りだした雨。

強風も吹き荒れるお田植祭りの日となった甲斐神社。

かつては3月10日であったが現在は第二日曜日である。

前庭に設えたお田植え所作場。

田んぼに見立てた神田はずぶぬれになった。

先月の垣結びの日から作り始めたお田植祭りに供える竹製の松苗がある。

宮守総代が精魂込めて作った松苗は先に松葉を挿して御供を包んだ。

御供は御神籾の文字がある。

中には三粒の籾種を入れている。



田植えの所作に使われる祭具は木製の鎌、鋤、鍬だ。

傘をさしてお参りに来た婦人は赤子を抱いている。

天理市の刀匠家に嫁がれたOさんだ。

彼女は藍染師。

元紺屋を改造した箱本館で勤めている。

平成22年7月3日に藍染体験した際にご指導を受けた先生だ。

赤子ができて一年間は育児休暇を取得していたが復帰された。

久しぶりの顔で出合う田中町はそれまで暮らした実家であったのだ。

嫁入りされた刀匠にもお世話になったことがある。

平成23年9月以来の久しぶりに元気な様子を拝見して嬉しく思う。



懐かしい村の人たちに赤子を披露する姿は微笑ましく思ったのである。

参籠所に座るのは氏子たち。

いつもと同じように老人会の人たちも登る。

冷たい風が抜ける。

お田植えの所作が始まる迄の時間は外の気温が赤子に影響も考えられたので社務所で待っていたらどうかと案内した。

前置きが長くなってしまったお田植祭りは神事から始まる。

舞殿にあがるのは宮司、宮守総代、自治会長に水利組合長である。

7月に行われる代々とも呼ばれる夏祭り、8月の七日盆とも呼ばれる祖霊祭、9月の八朔祭、10月の祭りの宵宮では湯花神事とも呼ばれている御湯の作法をされる巫女さんであるが、今日の行事には巫女さんの出番はない。

参籠所の外で婦人たちとともに見守っている。

雨にあたらないよう場に佇んでいる。

かつてはこの日のお田植祭においても御湯をされていたそうだ。

田中町では春祭りと称される祈年祭の祝詞を奏上されて場は移った。



本来ならば神田であるが雨天決行の日にはその場でなく参籠所内。

お田植えの祝詞を奏上する宮司。



最初に登場するのは里の女児巫女。

お稚児さんと呼ばれている巫女は小学生。

かつては4人で舞っていたが現在は2人だ。

浄衣装の宮守総代。



始めに木鎌を持つ一老が所作する。

畦などに生えている草を刈り取る所作である。

次は鋤を持つ二老。

鋤を畦に入れて鋤入れの所作。



次は鍬を持つ三老。

鍬で田んぼを耕す。

次は四老。

畦に大豆を撒く。



次は五老。

神田全面に籾種を撒く。

宮守総代の役目は決まっており「いつもそうしている」と話す。

これらの所作を拝観する氏子たち。

晴れの日であれば境内の神田であるが、雨天の日はこうして目の前で所作されるのだ。

最後に稲苗に見立てた松苗を植え付ける里の女児巫女が登場する。



一老、二老から手渡された松苗を一つ、一つ丹念に植えていく。

一人が3本ずつの3列。

植えれば後ろに下がる。

お田植え祭りが終われば氏子たちは受け取って持ち帰る。

松苗は苗代を作ったときに苗代付近に立てる。

田中町の苗代に立てられる松苗は数多く見られる。

豊作を祈願する松苗は虫除け、或いは子授縁結びにもあると云われておりたくさんの人たちが貰って帰る。

(H25. 3.10 EOS40D撮影)

小林町杵築神社春まつりの祈年祭

2013年06月19日 06時51分12秒 | 大和郡山市へ
今年度事業にあたる造営に伴い拝殿を撤去した。

1月6日には宮司を迎えてお祓いをした。

その日以降も工事が続く大和郡山市小林町の杵築神社。

例年通りに執行される春まつりは祈年祭である。

八条町の菅田神社の宮司が神事を行っている。

参拝者は左座、右座の長老たち三人衆とトーヤ家である。

拝殿がなく風が吹き抜ける本殿前に並んで春祭りの祓いを受けた。

(H25. 3.10 EOS40D撮影)

南六条南方の月参りの観音さん

2013年06月18日 08時14分37秒 | 天理市へ
月参りの薬師さんを終えた南六条南方の婦人たちは南側にある観音堂に場を移す。

「観音堂にお砂の袋があります」と見せてくださったのは四国八十八カ所霊場で賜ったお砂だ。

昭和の時代に村の人が四国に参った。

町内安全を願って授かったお砂は4月21日のお大師さんのときに踏むと云う。

聖地の砂を踏むことで四国八十八カ所を巡拝したことと同じのありがたい功徳になるそうだ。

かつて観音堂で営んでいたのは観音講の人たちであったようだ。

毎月17日がお勤めであった。

今では村の婦人の長寿会が行っている。

観音堂に安置されている仏像は2体。

いずれも十一面観世音菩薩立像である。

永正二年(1505)三月に宮境内に移したと伝わる十一面観世音菩薩立像である。

脇侍に2体の四天王像がある。

右・広目天と左・増長天(若しくは持国天)のようだ。

伝承(萬葉集畧解・大和名稱録)によれば往古は龍王山(引手山とも)眞福寺と呼ばれていた宮寺で安置されていた。

その地はカンノンバタケと呼ばれる小字であるようだ。

仏像を安置する段には弘法大師像もある。

お砂踏みをされる4月21日の営みは観音堂でされるらしい。

薬師さんと同様にお花を飾ってローソクを灯す。

堂師が前に座って念仏を唱える。

観音さんの念仏は先ほど唱えた真身観文(しんじんかんのん)から始める。

一節ごとに鉦を叩くのも同じである。

薬師堂よりも僅かに広い観音堂ではあるが堂内にあがれる人数は限りがある。

念仏を終えると西国三十三番のご詠歌を唱える。

始めは番外のいのうえの観音さんだ。

きいのくにの一番から通しで唱えるご詠歌は二十三番で休憩。

長丁場のご詠歌はどことも同じ個所で休憩される。

お茶を一服いただいて二十四番から再開する。

続けて新四国七十九番のご詠歌も唱えた。

導師が叩く鉦とともに打たれるおリン。

一番ごとに2回だ。

たにぐみ、ならにがつどう、かうや山、ぜんこうじなどの番外も。

最後に般若心経を三巻唱えて終える観音さんの月参りは一年に12回のお勤めである。

『庚 文政三年辰春(1820) 願主矢利揚げる奏文 本尊十一面観世音』の扁額が掲げられている観音堂には萬治二年(1659)に寄進された鰐口があった。

「施主 聖明明尼敬白 萬治二年 衆生為三源楽世三月十八日」の文字が読み取れた。

当時は尼僧がおられたようだ。

(H25. 3. 9 EOS40D撮影)

南六条南方の月参りの薬師さん

2013年06月17日 07時43分06秒 | 天理市へ
毎月第二日曜辺りに寄りあう婦人たち。

年齢は65歳以上になれば加わることができる長寿会の人たちだ。

実際は100人以上も会員であるが寄りあうのはいつも20~25人ぐらいになると云う天理市南六条町の婦人たち。

毎月の営みは元六条の呼び名がある南方の杵築神社境内にある薬師堂と観音堂である。

元柳生と呼ばれる北方には三十八神社境内に旧興蔵寺がある。

元六条の毎月の営みには当番が交替するが、薬師さん、観音さんにそれぞれがあたる。

営む時間帯はいつも同じの昼過ぎ。

自宅で昼食を済ませてから参る。

始めに参るのは薬師堂だ。

登る石段には滑らないようにドンゴロスを敷いた。

懐かしい名前のドンゴロスは麻製の袋。

今では袋としての利用はせずに、一枚に広げて敷布にしたドンゴロスの再利用である。

薬師堂の内部は狭い。

上がれる人も制限を受ける。

薬師堂の本尊は2体ある。

一つは厨子周りに一寸二分の薬師千体佛とともに安置する一尺二寸の木造薬師如来仏である。

もう一つは金銅仏である。

お堂は宝徳三年(1451)八月に再建されたと伝わる。

お花を飾ってローソクを灯す。

一人の導師が前に座って薬師さんに念仏を捧げる。



唱える念仏は「融通念仏宗在家勤行式」だ。

香偈、礼文、三礼、懺悔・・・・。

一節ずつ鉦を叩く導師。

「願わくば・・・云々なにがし・・・」と唱えて南無阿弥陀仏に手を合わせる。

三帰(さんき)、七仏通戒、別願を経て真身観文(しんじんかんのん)、光明文から総回向、開経偈で終えた。

南六条は北方、南方とも融通念仏宗派の村であることから唱えた念仏は融通念仏の勤行であったのだ。

両村とも11月には大阪平野からやってくる大和ご回在がある。

北方の旧興蔵寺はかつて真言宗であった。

村人の話によれば無住寺になったおよそ100年前に宗派が替ったという。

2時間余り、北方でのお勤めを終えれば南方に向かう一行。

当番の人は南方に継がれた情景は平成22年に拝見したことがある。

(H25. 3. 9 EOS40D撮影)

再び合流のグリル開花亭

2013年06月16日 08時31分59秒 | 食事が主な周辺をお散歩
予想よりも早くできあがった自作のとんぼ玉。

次の散策地は決めていない。

あてもなく彷徨っても時間がもったいない。

夜食の合流地は大阪御堂筋の大丸百貨店。

それならばバラ園でも行ってみるかと目指した中之島。

今頃に咲いているわけがないと判っていても車を走らせる。

中之島は淀屋橋から北浜。

おふくろ、かーさん、私にとってのかつての勤務地。

懐かしい風景を車窓から眺める。

「いらっしゃいませー」の声が懐かしい麻雀屋はとうにない。

近くにあった飲食店もない。

勤務していた別館も東館もない。

本社もない。

ないないづくしである淀屋橋であるが、吉兆本店、そば屋の「一山」、吉野寿司などは今でも商い中。

史跡重要文化財の適塾や愛珠幼稚園もある。

何十年も前の話になった。

時間を潰した淀屋橋をあとにして御堂筋を南下する。

駐車場が見つからない。

大丸店のどっち側にあったのだろうか。

ぐるぐる回って着いた駐車場は大丸契約駐車場。

NPC西心斎橋パーキングだ。

ぐるぐる回ってきたから方角が判らなくなってしまう。

都会の様相に慣れない。

山なら山だてがあるし、海なら海だてだ。

そんなものは一切見えない大都会のビルだて。

屋上にあった「大丸」のシンボルを頼りに歩いていく。

予めおふくろが頼んでいた「グリル開花亭」は洋食。

ときおり一人で食事をするそうだ。

料理は美味しいし団体席もあるからと予約しておいた。

待ち合う時間はまだある。

店内をぶらぶらショッピングウインドウ。

そこへ二女とともにやってきた三男家族。

久しぶりである。

二男家族といえばまだだ。

電話をすれば大阪城を散策して遅くなったという。

泊まり先に車を停めて地下鉄でやってくる。

明日はユニバーサル・スタジオ・ジャパンだ。

時間を持て余すことなく楽しませてくれるUSJというが・・・私らはしんどくなるエンターテインメントテーマパークである。



ともかく合流した3家族。

正確にいえばおふくろもいるので4家族だ。

グリル開花亭のセットメユーにはいろいろあった。



女性たちはレディースセットで男性は海老フライにハンガーグセットだ。

いずれも2100円である。

海老フライがプリプリ。

タルタルソースが引き立てる。

2本もあるからこれにしたのだ。



ふわふわとろとろ玉子のオムライスはデミグラスソース。

ちょっとだけ分けてもらった。

家のオムライスもこういうようなソースで食べれば美味いだろうな。



セットメニューにはデザートがついている。

アイスクリームが喉を潤す。

紅茶もいただいた大家族の団らんはそれぞれの我が家に戻っていった。

おふくろを住之江に送って阪神高速道路に乗ったのは21時過ぎ。

翌日に我が家で食べたのは二男の土産もの。

持ち帰るには冷凍ボックスが要る。

神戸に向かう道中にあったイオンマックスバリュー大池店。

隣店のウエルシア大池店でアルミ保存バッグを買ってマックスバリューでカップの氷。



それに入れて持ち帰った仙台名物の厚切り牛タン(牛たん元祖のべこ正宗で販売中)である。

噛みごたえがあるといっても堅くない。

歯で噛んだらよく切れる。

分厚い牛タンは肉汁がじゅわっ。

こんなに美味しいとは思わなかった。

というのも十数年前に訪れた仙台。

二男に案内されて立ち寄った商店街のある店で食べたことがある。

そこの牛タンはこの夜の牛タンとは大違い。

美味すぎるのである。

二男からはとおおり美味しいお米を送ってくれる。

今度は牛タンにしてくれとお願いしてみようか。

土産は仙台カマボコや天ぷらもあった。

これも美味い。

三男からはわざわざ足を伸ばしてこの日に三田まで買いにいった小山ロール。

有名シュフのお店だそうだ。

予約でないと買えないというバームクーヘン。

実に美味しい。

ありがたい弟たちからのお土産はすぐになくなってしまった。

二男が元気に暮らし笑っている顔を見ると思い出すのは結核療養。

二男が小学一年生で私は三年生。

昭和34年だったと思う。

私も小児結核だったが二男は私よりももっと重かった。

母親が小児科先生や学校に相談した結果は長期に亘る治療である。

二男が入院したのは貝塚水間。

南海本線から乗り換えていった水間鉄道線。

2両だったか、1両だったか覚えていない車両。

ゴトゴトと音を立てて動いていた。

終着駅は水間観音だった。

母親に連れられて願かけのお参りに行ったこともある。

入院先の結核療養所(三ツ松駅下車国立千石荘病院)は度々見舞いに行った。

入院したときもそうだったが、帰るときにはいつも鳴いていた二男。

後ろ髪をひかれる思いで駅に向かった。

辛い思い出は今でも脳裏に焼き付いている。

おふくろはもっと辛かったと思う。

療養所にはたしか養護学校があったと思う。

そこで学習をしながら療養を続けてきた二男。

この記事を書いているだけで今でも涙が出る。

退院したのは2年後のことだ。

戻ったときは三年生。

先生のご尽力もあって同年生で大阪市立小学校に復帰した。

それからは元気に育った二男も60歳になった。

おふくろともどもこれからも元気な姿で暮らしてほしいと願った。

(H25. 3. 3 SB932SH撮影)
(H25. 3. 4 SB932SH撮影)

神戸らんぷミュージアムカフェの昼食

2013年06月15日 07時59分40秒 | 食事が主な周辺をお散歩
とんぼ玉が冷めるまでの1時間は昼食にあてる時間。

旧外国人居留地ストリートを歩いてみる。

なにやら行列ができているお店がある。

有名なお店であろう。

行列を待っているほどの時間はなく通り過ぎたお店は「ロビンソン」。

スピッツの唄にあるロビンソンを思い出したお店はパンビュッフェ。

パンが食べ放題だそうだがパスタのお店。

おふくろは食べられない。

ここら辺りはイタリアン料理店が多い。

和食のお店はあっても高い。

とてもじゃないが入る気がしない。

日本ビルヂングの地下にもお店があるがカツドンの店。

カツはトンカツ。

パスタもそうだが料理には豚が入っている。

これが食べられないおふくろ。

あきらめるしかない。

ソバ屋の店もあったが閉まっている。

ストリートを行ったり来たりの散歩道。

待ち時間が迫ってくる。

神戸らんぷミュージアムがあるビル内にあるお店を案内していた看板が目に入った。



神戸らんぷミュージアムカフェだ。

昼のランチに「ひなランチ」の看板には20食までとある。

今日は3月3日のひな祭り。

お雛さんの段飾りはなかったがここに決めた。



出てきた料理は日替わりランチのチキンカツ。

これならおふくろもいただける。

野菜サラダにスープも付いていて780円。

一口食べたカツの味。

サクサク感の衣にジューシーなチキンカツの美味かったこと。

下味にした醤油漬けが利いているのだろう。

おふくろはそれを食べずに600円のカレーにした。

これも美味しかったと嬉しそうに話す。

独特の味だったそうだ。

朝食よりも美味しかったというのだから相当な味にご満悦。

らんぷミュージアムも拝観して丁度一時間が経過した。

出来あがっていた自作のとんぼ玉。

このままでは単なる「球体」である。

紐などのアクセサリーが無ければどこかに転がって行方不明になってしまう。

KOBE・とんぼ玉ミュージアムではそういうことがないようにネックレス、携帯ストラップ、キーホルダー、ブレスレット、かんざしなどのアクセサリーも販売している。

パーツそれぞれによってはパーツ代が異なる。

選んだのは400円の携帯ストラップ。



入館料一切を合計すれば2000円のとんぼ玉は手前味噌ではないがとても気にいった。

停めた駐車場の支払いは2時間20分で1400円。

予想よりも高くついたような気がする。

(H25. 3. 3 SB932SH撮影)
(H25. 3.12 EOS40D撮影)

KOBE・とんぼ玉ミュージアムの玉作り体験

2013年06月14日 08時05分40秒 | もっと遠くへ
3家族がそれぞれ向う先は異なる。

仙台からはるばるやってきた二男組はオノボリさん。

神戸中華街、神戸港や大阪城を巡るという。

鈴鹿の三男組は有馬の繁華街巡りだ。

長男組はおふくろと共に神戸を目指した。

昨年は六甲オルゴールミュージアムだった。

今回はとんぼ玉を作ることができるKOBE・とんぼ玉ミュージアムだ。

有馬にもとんぼ玉ミュージアムがあるが体験はできない。

手作りできる神戸に行ってみようということである。

有馬から神戸に向けて一直線。

三宮辺りにあるらしい。

予めネットで検索していたかーさん。

スカイプ専用にと買ったNEXUS7で毎日を楽しく過ごしている。

当初は難しいと云っていたがいつの間にか使い慣れるようになった。

食べ物、買い物、探し物に地図などあらゆるものまで検索する。

テレビを見ていて思い出せない歌手の名もでてくるありがたい機械である。

それはともかく神戸も様子が随分と変わった。

メリケンパークは懐かしい。

大晦日の晩にわざわざ出かけたメリケンパーク。

ボゥー、ボゥーと停泊中の船が一斉に鳴らす汽笛を聞きたかったのだ。

24時丁度に鳴らす汽笛の音色は今でも心に染み込んでいる。

35年も前のことである。

当時は波止場に車を留めてさまざまな音色を聞いていた。

年越しの一瞬である。

波止場の岸壁から聞こえるピチャ、ピチャの波打ち際の音。

その場を見たかったが風景はまったく様変わり。

35年前にはなかったハーバーランド。

観覧車があるし神戸海洋博物館もある。

斬新な建物は神戸の海街に似合う。

神戸港中央突堤に建つ神戸ポートタワーは昭和38年に建設された展望用のタワーである。

この日も寒いからと車から眺めるおふくろとかーさん。

その付近にあるというKOBE・とんぼ玉ミュージアム。

近くにある駐車場を探して停めた。

神戸港街は古いビルに新しく建てられたビルが混在する旧外国人居留地のメインストリート。



ビル玄関がユニークな建物が日本ビルヂング。

まるで巨大な二本の足があるように見える。



ビル内に入れば一味違う造形美が現れる。



その2階にあるのがお目当てのKOBE・とんぼ玉ミュージアムである。

400円の入館料を支払ってとんぼ玉の造り方を案内していただく。

初心者であっても親切丁寧な指導で始まった体験学習。

簡単に言えばガラス棒をバーナーで炙ってガラス玉を作る。

そういうことだ。

KOBE・とんぼ玉ミュージアムの正式名称はKobe lampwork glass museum。

ランプワークの技法でガラス玉の工芸作品を造るのである。

今ではバーナーの火を使って溶かすのであるが昔はランプの火であった。

そういうわけで正式にはランプワークということだ。

阪神淡路大震災から8年後に誕生したお店である。

とんぼ玉の製作は1個について1200円の費用が要る。

2個であれば2000円だ。

体験者の対象年齢は小学3年生以上。

十分な年齢に達している私とかーさん、それぞれ1個ずつ製作することにした。



始めるにあたって選択しなければならないことがある。

ガラス玉をどのような色にするか、もう一つはその玉にくっつける柄をどうするかである。



柄は文様があるパーツか、細かい色がいろいろある水玉。



パーツはお好みの四つ選択できるが、水玉はスプーン半分の量である。

運命の分かれ道といほどたいそうなものではないが悩みの選択である。



選んだ柄に合わせてガラス玉の色を選択する。

これも悩ましき選択である。

出来あがり具合を想像しながら選んでこれに決めた。

氏名を書いた札も渡して製作に入る。



製作体験には注意事項がある。

ガラス棒を溶かす器具は炎が高くあがるバーナーだ。

その部分は肉眼では見えない高温だ。

手を翳せば火傷すること間違いなしである。



体験はスタッフが手を添えて手伝ってくれるから安心だが、見えない炎に緊張が走る。

指定した色のガラス棒を渡されてバーナーに近づける。

バーナーの真上からである。

しばらく翳せば棒の先が溶けてくる。

熱くなればガラス棒を右手にもってクルクル回す。

でないと垂れてしまう。



見えない炎を注視しながら一定の回転速度で作業をすすめていけば真っ赤に焼けた球になってきた。

左手に持ったロッド。

それも炎に翳す。

熱するのである。

両手使いのロッドが二本。

目が点になってきた。

ガラス球が溶けそうになれば左手のロッドに垂らしていく。



左手のロッドをくるくる回しながら球を移動するような感じである。

渦巻状になるガラス球移動は無事にいった。

それを左手で支えながら右手で回せば球状になってきた。



赤い炎はまるで火の球だ。

その状態になればガラス棒を水平に保ちながら回転する。

先の方が上がったり下がったりすれば球状が崩れるから要注意だ。

今だということで私が選んだ水玉にコロコロ転がす。

そうすれば熱くなったガラス玉にくっついてくる。

ほんの少し足らないくっつき方。

もうちょっとくっつけたくなって再び転がして見えない炎に翳す。

この段階でも水平を保つ。

もう少しだ。

「できあがりました」のスタッフの声で終了。

ガラス棒は黒曜石が詰められたケースに埋め込まれた。

ほっとする瞬間である。



黒曜石に埋め込むのはスタッフ。

中央辺りに入れるという。

上部のほうなら冷めが悪いそうだ。

こうして冷ます1時間。

緊張の糸がときほぐれた。

(H25. 3. 3 SB932SH撮影)

有馬の朝食

2013年06月13日 06時52分38秒 | もっと遠くへ
室内は汗が出るほど熱かった。

室内コントローラーが見つからなかった神戸有馬のダイヤモンドソサエティ。

何度も目を覚ましたと口々に話す朝の会話。

夜間まで降っていたのか記憶にないが有馬の山の頂は薄らと白く染めていた。

目覚めはともかく朝食の時間になった。

和朝食、洋朝食。

いずれも1700円の朝食はまったく変わらないと思っていたが温泉玉子がないけど・・・と思ったが玉子焼きになっていた。

なぜか物悲しく感じられた一品も変化がある。

容器が替ったのかそれとも食材が違うのか。



洋朝食はパン食。



食べ放題ではないが美味しそうに見える。

(H25. 3. 3 SB932SH撮影)

有馬でだんご三兄弟

2013年06月12日 06時48分02秒 | もっと遠くへ
15年ぶりに顔を合わせた男3人。

離れ離れであるから滅多に合うことはない。

宮城県の仙台からは二男が三重県の鈴鹿からは三男が集まった地は兵庫県の神戸有馬のダイヤモンドソサエティ。

昨年はおふくろと長男夫婦だけだった有馬の地。

子供の頃はイケメンだった二男に可愛い顔していた三男。

今でもそう思っているかーさん。

それから40年近くもなればただのおっさんはだんご三兄弟。

顔つきがほとんど変わらないぐらいになったおっさんの姿である。

おふくろが住んでいるのは大阪の住之江。

三兄弟が育った故郷は大和川。

ドロドロになっていた川は河川工事でずいぶんとましになったが、いつまで経っても護岸工事をしているように感じる。

我が家を出発して40分余り。第二阪奈有料道路、阪神高速を利用すればあっと言う間に着いてしまう。

おふくろを乗せて再出発したのは12時50分だ。

再び阪神高速に乗る。

目指すは大阪の池田。

いきなり降りてきたジェット機が高速道路をかすめる。

思わず頭を下げたかーさん。

市街地にある大阪空港付近と通過するときに遭遇する。

飛行場のない奈良県では見慣れない風景である。

池田から誘導されるように進入した中国自動車道。

第二阪奈有料道路も阪神高速も現金扱いだが中国自動車道だけはクレジットカードが利用できる。

ここでも第二阪奈道路と同じように軽自動車料金の650円。

料金体系助けられて出たのは西宮北料金所。

阪神高速の住之江からおよそ45分で到着だ。

ここから有馬までは地道。

見慣れた道路や飲食店。

信号を右折して川沿いの上流へ。



ソサエティに行くまでに用をたすスーパーはmandai西宮山口店。

スーパーmandaiは奈良県内にもあるお店だ。

大和郡山市には小泉駅前店がある。

そことは大きな違いの広いスペースに陳列された商品の豊富さがまったく違う。

昨年もここで買い求めた夜食の買出し。

スーパーmandaiの前身は万代百貨店(昭和37年に万代油脂工業株式会社から分離創業)。

「いちでまんだい じゅうでまんだい ひゃくでまんだい せんでまんだい まんで まんだーい ひゃっかてん」のベタなコマーシャルが懐かしい。

万代百貨店といえば大阪住吉帝塚山にあった万代池(まんだいいけ)。

手漕ぎボートに乗って底にあったカラス貝を手探りで探したことを覚えている。

42年前のことだ。

中学生時代に男友達と一緒に自転車を漕いではるばる出かけた万代池。

学生帽を被っていたことまで覚えている。

その帽子は白かった。

夏の様相であったと思う。

万代池と万代百貨店が関係あったのか、なかったのか未だ判らず、である。

チェックインを済ませてそれぞれの泊まり部屋に案内されて落ち着く間もなく有馬温泉街に向かう。

今夜の食事処となる「あり釜めしくつろぎ家」へは徒歩で何分かかるかどうかの下見である。

軽自動車でも難しい有馬の道。



雪国稲荷大明神を祀る神社がある辻角を曲がる。

創建が明治40年であるからそれほど古くないが有馬の街の入り口に建之するのは門ノ切の守護神。

かつては射場山中腹に鎮座する有馬稲荷大明神の神託を受けて上之町に勧請したそうだ。

そこから少し下れば愛宕神社の社が見られる。



覆い屋下にある社はどうみても山車である。

唐破風屋根、獅子噛、車板、枡合など地車特有の彫り物がある。

おそらく綱で曳いていただんじりを神社として固定化したのであろう。

だんじりの幅、大きさは上之町の街道を曳く丁度良い形のように思える愛宕神社は昭和参年八月の建之。



経緯は判らないが愛宕神社は町の防火。

火伏せの神さんとして崇めているのであろう。

さらに下ればまたもや神社があった。



そこには縄のれんのような形の注連縄が掛けてあった。

七、五、三の注連縄でもないようでもなくそれぞれ2本ずつ垂らして下部は藁筋を広げている。

気にかかったので撮っておいた妬(うわなり)泉源の妬神社。

湯は枯れたが建之して祀っている。

ここからは御泉街の情景。



有馬人形筆の店や新しいkinariとんぼ玉の店が立ち並ぶ。



有馬名物炭酸煎餅を焼く店や松茸昆布店もある。

さらに下れば人気の足湯。

観光客で湯はいっぱいになっている。

以前も入館した有馬玩具博物館を左手にあがる。



金の湯を通りすぎて着いたのが「あり釜めしくつろぎ家」だ。

ソサエティから歩いて10分ほどの距離である。

車の通行が難しい御泉の車道だが1時間で300円の一般駐車場もある。

予約を確かめておいたくつろぎ家。

大家族が揃って会食する店は旅館と思わせるような佇まいだ。

有馬への旅が決まったことから探し出したお店に前もって電話で予約しておいた。

何度も何度もかけた電話は呼び鈴が鳴っても出なかった。

数日間外してやっとかかった。

間違いなくこの店である。

兄弟は酒を飲みたいから車でなく徒歩。

それを確かめた下見の散歩。

戻りは渓谷を思わせるような有馬川に沿った道。

これが実に急な坂である。

途中でなんども一服するかーさん。

おふくろは昭和元年生まれの87歳。

二男の孫は7カ月。

雪がちらつく冷たい風が吹く有馬では辛かろうと思って相談する。

先に風呂をよばれていた三男が曰く、それはないだろうと却下された車の利用。

一台だけでもと思って合い乗りも考えたが・・・。

仙台から12時間かけてやってきた二男。

少しの睡眠と入浴で身体が戻った。

「酒を飲みたいから歩いていきたい」の一言で出発したのである。



表玄関からは想像できない「あり釜めしくつろぎ家」。

狭い階段を上がって案内されたお部屋は座敷。

ガラス戸の風情と外の風情が一致しない。

予め注文していた「湯けむり蒸し」は2600円。



神戸肉がたっぷり盛られた蒸し器の下には野菜もたくさんある。

ヘルシーがうたい文句の一品メニューに300円を追加すれば釜炊白飯がミニくつろぎ釜飯になる。

ミニといっても侮れない。

椀に三杯もある量だ。

淡路島周辺で獲れた魚介類が盛りだくさん。

蒸し神戸肉ができあがるは釜飯も炊きあがっているはでどちらにいくか箸が悩む。

我が家が勢ぞろいした宴席は瓶ビールで乾杯。



すき焼きの鉄鍋を小型にしたような鉄板に水が入っている。

店員さんが火を点けてじゅうじゅう。

煮たってくれば2段の蒸し器を置く。

2段といっても上段は蓋だ。

5分間待って出来あがった神戸肉の蒸し料理は野菜も含めてとても美味しい。

タレはポン酢でしょうか。

もう一つは胡麻タレだ。

どちらを選ぶかは食べる人任せ。

必然的に選んだ胡麻タレは牛肉だ。

これが美味しくて箸がすすむ。

野菜はポン酢のほうに味わいがあって美味かった。

釜飯といえば具材である。

明石のタコかどうか判らないが淡路島周辺で獲れた魚は鯛もある。

さすがに鮭は違うだろう。

釜飯には香りつけに山菜もあったが味は薄め。

食べてもコクがないと感じた釜飯である。

吸い物はワカメでしょうか。

香の物も付いている程度でデザートと呼ばれていた和菓子はソサエティにもあった同じ金泉焼のモチだった。

「あり釜めしくつろぎ家」で2時間弱も過ごした寛ぎの団らんは積もる話も盛りだくさんだった。

支払いは飲み物も入れて3万円を切った9人分。

ソサエティで食べるよりも遥かに安くついた。



ご満悦の夜は歩いて帰る組とタクシー組に分かれた。

19時も過ぎれば観光客はいないだろうと思っていたがそうではなかった。



さすがに足湯はだれもいないが日帰り御泉の金の湯(入浴料650円)に浸かる人も少なくない。

午後10時まで営業している。

ソサエティに戻ったら飲みなおし。

スーパーmandaiで買出ししておいた料理をテーブルに広げる。



造りはブリ、サーモン、めばちマグロの3品。

合計で千円だ。

298円のさばのきずしも買っておいたがそこまでいかない。

ではとパックを開けたポン酢付きの若鶏モモ焼きは298円。

レンジで温めたいが室内にはそれがない。

金麦の発泡酒をぐいぐい。

会話も酒も弾けるのである。

この日は二男の定年満了や孫の誕生、息子の卒業の祝いの日。

目出度い日に昔話も展開する。

お互いの白髪頭を身合わす姿。

歳がいけば同じような顔立ち。

まるでだんご3兄弟と女性陣が笑う。

399円のお魚やさんの玉子焼きも美味かった。

お腹が空いていればもっと美味しく感じたであろう。

時間が経てばお腹も空くだろうと買っておいた煮こみ穴子の美味しい巻き寿司はあっという間になくなった。

これも399円でお買い得。

子供が食べたらいいだろうと買っておいたレタスたっぷりのエビチリは298円。

これも美味い。

女性にはサンドイッチもと買っておいたスペシャルBOXは278円。

半分残した。

若鶏のモモ竜田揚げは336円。

これも半分残した。

178円の穂先竹の子の土佐煮や190円の野菜たっぷりポテトもまるまる残した。

漬けものもいるだろうと思って買った198円のナス漬け、105円のキュウリ漬けは手がいかず。

「こんなぎょうさん食べられるわけないだろう」と云われたが・・・。

3.11の東日本大震災で大きな被害を受けた。

山形に出張していた二男は仙台の家族と連絡がとれなかった。

ほどなく合流することができた自宅も損壊。

何週間も日々を暮らした食べ物はコメばかり。

いつ何時食べることができなくなると思って暮らしたそうだ。

飢餓のような気分で送る毎日だったと話す。

それほどであったのか・・・。

おかずが無い毎日。

コメ、コメである。

そのおかげか、定年退職後の運動不足も繋がって身体は膨らみぎみ。

話も膨らんで有馬の夜がふけていく。

(H25. 3. 2 SB932SH撮影)

萱森の行事2

2013年06月11日 06時51分59秒 | 楽しみにしておこうっと
萱森の御神入り行事の取材に向かう途中のことだ。

小夫、和田を経て下ってきた小夫バイパス線。

初瀬ダム辺りに着く。

バス停留所から山側に行けば萱森であるが、その手前に社がある。

天落神六社権現の宮である。

落神の宮は山に三社、大和川(初瀬川)に三社。

その内の一つはかつて初瀬川にあったが、初瀬ダムの建設(昭和62年竣工)に伴って水没した。

巨大な屏風岩だったそうだ。

その磐には宝篋印塔や梵字が線刻されており、上部に祭神の祠があったようだ。

県道を挟んだもう一つは岩盤に線刻された宝篋印塔があった。

いずれも初瀬ダムに水没してしまうということで石材を運び当地に遷したと昭和63年に設置した石碑に記されている。

その場を通過しようとした際である。

神職が振った祓いが見えたのである。

どうやら神事のようであるが御神入り行事を優先しなければならない。

見送っていかざるを得なかった。

萱森の住民らの話ではその行事は存知していないようだ。

取材を終えて下りてきた天落神(あまのおちがみ)六社権現の宮。

大きな岩に注連縄が張られている。

由緒書きされた線刻の宝篋印塔が見られる岩に奉っている注連縄である。

人影はなく尋ねることもできないが石碑の由緒書きには旧暦一月十一日に輪番の六社権現講が綱掛けをするとある。

真新しい注連縄はその行事であろうか。

同日の旧暦正月十一日に行われている行事に長谷寺境内の三社権現の綱懸けがある。

中央の滝蔵権現社は中之郷(南之郷とも)の大字吉隠・角柄・柳である。

西の新宮権現社が下之郷の大字下の森・出雲・柳原で、大字の萱森は中谷とともに祀る東の石蔵権現社だ。

石蔵権現の権現當屋は萱森の宮垣内、中垣内、下垣内と大字中谷で順次交替して勤める。

平成25年は急遽変更されて大字中谷が勤めた2月20日であった。

予定していた順番を替えての當屋である。

天落神の六社権現講はいずこの大字が勤めているのか判らないが、先ほど取材した萱森住民の名が石碑に寄せられている。

数人の名は存知する萱森の人たちであるが萱森の天落神はそこではなくバス停前の石組みされた墳丘だそうだ。

『萱森風土記』によれば長谷寺の三社権現と天落神の六社権現の創始は天平年間・長谷寺開創の徳道上人の発願によるとある。

三社権現の由来も含めて話された御供のモチ。

旧暦一月十一日の前日は輪番にあたった大字・垣内は頭屋(當屋とも)家でモチを搗く。

6升のウルチ米で搗くモチは8枚の鏡餅と蟹餅と太刀餅だそうだ。

三社権現に供えるモチは二種類。

ガニノモチが訛ったカメモチとナタノモチである。

それぞれのモチの形から命名された呼称であろう。

他に三段のコモチもあるようだ。

祭典当日の午前中は注連縄作り。

神殿に掲げる大注連縄、落神磐座に掛ける中注連縄の他小注連縄もある。

それらは山之神、頭屋家の荒神と天落神六社権現社である。

拝見した宝篋印塔が線刻された磐座の注連縄はそれであると思われるのだ。

三社権現に参る際には長谷寺内のホウジョウサン(方丈講堂であろうか)に向かう。

そこにはセンジョウジキ(千塁の間であろうか)の掛軸もあるらしい。

「三社権現のがっちよんという寺」に行くそうだが「がっちよん」と呼ぶ名は一体何であろうか。

萱森においても旧暦閏年に行われる庚申さんがあると云う。

「タナアゲ」とか「トアゲ」と呼んでいる行事は四つの垣内ごとで行われる。

行事の日は初庚申の日。

その年によって大幅に日付けが替る。

下垣内では初庚申日直前の土曜日にしていると話す旧暦閏年の庚申さん。

『萱森風土記』によれば4年ごとだと書かれてあるが実際は4年、3年或いは2年跨りの場合もある旧暦であろう。

庚申さんは「庚申講塔揚」とあることから隣村の芹井や瀧倉滝蔵、小夫嵩方と同じ呼び名の「トアゲ」である。

桜井市の山間は10ケ大字からなる上之郷村だ。

かつては式上郡であった大字で桜井が萱森、中谷、白木、芹井、小夫嵩方、三谷、小夫、滝倉、笠、和田で、山辺郡大字は修理枝である。

数年前から調査している旧暦閏年の庚申トアゲは滝倉、白木、芹井、小夫嵩方、和田、修理枝、小夫、和田の現況を調べてきた。

聞き取りによって萱森も加えることにした。

『萱森風土記』によれば御供の鏡餅を供える御供台があると記されている。

七色の菓子に七色の花を添える花立てもある。

いずれも竹製である。

庚申塔婆は杉の木に「五文字の梵字に為南無青面金剛五穀豊穣講中家内安全祈攸」と墨書するらしい。

かつては宿(当番の家)に奉っていたが現在は庚申堂のようだ。

10月は秋祭りだ。

かつての祭りには供える御供に山盛りがあった。

サトイモ、コンニャク、ダイコン、イタ(カマボコ)、チクワ、ニマメを山盛りに積んでその上に生カマスの切り身も乗せたそうだ。

祭りを終えれば瀧蔵に参る。

あくる日には三社権現にモチを供えるともいう。

9月16日に行われる掘切神縄懸は「お庭造り」とも称する。

山の中にある神社(白土山中腹の龍ケ谷神社であろう)で谷道を跨げるように綱を掛ける。

かつて疫病が流行った。

それから今でもしているカンジョウ掛けだそうだ。

(H25. 3. 1 EOS40D撮影)