この日は大暑。高温注意報が発令された奈良市内。
7月23日の夜は二条町の四叉路道路中央にある地蔵尊で地蔵講が集まって歓喜寺住職が三仏偈を唱えると聞いて訪れた。
東に向かえば平城京大極殿裏に通じる道。
西は近鉄西大寺駅になる。
北へ向かえば二条町に向かう四叉路信号。
そこにあるのが地蔵尊である。
拡張された舗装道路の中央にある地蔵尊は、場が特徴的であるゆえ通りがかった誰もが記憶に残る場所である。
地蔵尊は昭和29年に道路拡張がされるまでは対面の角地に建っていたと86歳のおばあさんが話していた。
昭和29年にご結婚された直後の道路はもっと狭くて一車線程度。角を追いやって今では丸みをつけた辻にしたと云う。
地蔵尊の北側は元々道がなかったようで、拡張の際に新道をつけたそうだ。
そういうわけで道路に挟まれたような格好になったと云うが、「地蔵さんは元の位置に戻ったんや」と話したのは歓喜寺住職。
事実関係は歓喜寺に記録があると云う。
浄土真宗本願派の歓喜寺は二条町東にあるお寺。
廃仏毀釈の際に取り壊された超昇寺の仏像は歓喜寺に移されたようだ。
今では行政区割りの二条町の呼び名であるが、かつては超昇寺村であった。
鯉の養殖池になっている御前池の西側に超昇寺城があったそうだ。
二条町「青野墓 墓子」一同の出資によって、平成14年に弘法井戸・地蔵堂の覆屋を建て替えた。
弘法大師の井戸には三体の石碑がある。
左端の五尊板碑(上から薬師・釈迦・不動明王・阿弥陀・地蔵)は有名らしく室町期の天文十六年(1547)の作だそうだ。
中央は阿弥陀佛、右端も天文十九年(1550)に建之された平等利益板碑。
弘法井戸は昭和30年代までこんこんと湧いていたと云う老婦人。
小学生時代の帰り路に飲んでいたと話す様相は今から75年前のことである。
湧いていた井戸は「セキスイ」の工場ができてから絶えて「井戸水があがってしもた」と云う。
その後も増え続けた交通量に対応するために役所は井戸の場を替えようとしたが、「いろたら祟る」と云われて断念したと話す。
右隣は鎌倉時代後期の作と伝わる地蔵立像。
後方は新道。行き交う車が往来する場である。
辻の歓喜寺地蔵尊を守ってきたのは二条町の地蔵講だ。
汚れが気になれば講中が日々清掃してきた。
よだれ掛けを付け替えるのも地蔵講の役目だという年寄り講。
地蔵盆のお供えには地蔵講の名があった。
二条町の地蔵盆をお世話するのは歓喜寺の年番さん。
法要をされるのは歓喜寺の住職。三仏偈を唱える。
お念仏を唱えるなか、一人ずつ参拝する地蔵堂の内部は狭い。
焼香を済まして交替する。
おじいちゃんとともにやってきた子供も手を合わせていた。
地蔵さんの前後はひっきりなしに通り抜ける生活道路。
町内の人たちがお参りに来られるのだが、立ち位置は悩ましき場所。
激しい車の往来を避けて、僅かな空間に立って参拝行列を待っていた。
(H26. 7.23 EOS40D撮影)
7月23日の夜は二条町の四叉路道路中央にある地蔵尊で地蔵講が集まって歓喜寺住職が三仏偈を唱えると聞いて訪れた。
東に向かえば平城京大極殿裏に通じる道。
西は近鉄西大寺駅になる。
北へ向かえば二条町に向かう四叉路信号。
そこにあるのが地蔵尊である。
拡張された舗装道路の中央にある地蔵尊は、場が特徴的であるゆえ通りがかった誰もが記憶に残る場所である。
地蔵尊は昭和29年に道路拡張がされるまでは対面の角地に建っていたと86歳のおばあさんが話していた。
昭和29年にご結婚された直後の道路はもっと狭くて一車線程度。角を追いやって今では丸みをつけた辻にしたと云う。
地蔵尊の北側は元々道がなかったようで、拡張の際に新道をつけたそうだ。
そういうわけで道路に挟まれたような格好になったと云うが、「地蔵さんは元の位置に戻ったんや」と話したのは歓喜寺住職。
事実関係は歓喜寺に記録があると云う。
浄土真宗本願派の歓喜寺は二条町東にあるお寺。
廃仏毀釈の際に取り壊された超昇寺の仏像は歓喜寺に移されたようだ。
今では行政区割りの二条町の呼び名であるが、かつては超昇寺村であった。
鯉の養殖池になっている御前池の西側に超昇寺城があったそうだ。
二条町「青野墓 墓子」一同の出資によって、平成14年に弘法井戸・地蔵堂の覆屋を建て替えた。
弘法大師の井戸には三体の石碑がある。
左端の五尊板碑(上から薬師・釈迦・不動明王・阿弥陀・地蔵)は有名らしく室町期の天文十六年(1547)の作だそうだ。
中央は阿弥陀佛、右端も天文十九年(1550)に建之された平等利益板碑。
弘法井戸は昭和30年代までこんこんと湧いていたと云う老婦人。
小学生時代の帰り路に飲んでいたと話す様相は今から75年前のことである。
湧いていた井戸は「セキスイ」の工場ができてから絶えて「井戸水があがってしもた」と云う。
その後も増え続けた交通量に対応するために役所は井戸の場を替えようとしたが、「いろたら祟る」と云われて断念したと話す。
右隣は鎌倉時代後期の作と伝わる地蔵立像。
後方は新道。行き交う車が往来する場である。
辻の歓喜寺地蔵尊を守ってきたのは二条町の地蔵講だ。
汚れが気になれば講中が日々清掃してきた。
よだれ掛けを付け替えるのも地蔵講の役目だという年寄り講。
地蔵盆のお供えには地蔵講の名があった。
二条町の地蔵盆をお世話するのは歓喜寺の年番さん。
法要をされるのは歓喜寺の住職。三仏偈を唱える。
お念仏を唱えるなか、一人ずつ参拝する地蔵堂の内部は狭い。
焼香を済まして交替する。
おじいちゃんとともにやってきた子供も手を合わせていた。
地蔵さんの前後はひっきりなしに通り抜ける生活道路。
町内の人たちがお参りに来られるのだが、立ち位置は悩ましき場所。
激しい車の往来を避けて、僅かな空間に立って参拝行列を待っていた。
(H26. 7.23 EOS40D撮影)