前日に伺った葛城市寺口の二塚(につか)大字。
集落の婦人が云うには呼びだしに太鼓を打つ二塚のダイジングサンは前夜に博西神社の夏祭りに献燈された十二振提灯を立てると話していた。
ダイジングサンは「集落北のほうや」と云うので探してみた。
集落を北に向かって歩いた。
T字三叉路を小川に沿って坂道を登っていく。
しばらく歩けば見つかった大神宮の石塔。
その場には「庚申」の文字を刻んだ石塔もあった。
大神宮の石塔は「明治十三年正月吉日 村中安全」の刻印があった。
ここより後方には二塚古墳があるそうだ。
歴史を訪ねる人たちのために案内看板を立ててある。
大神宮の石塔が立つ前は山から流れる小川がある。
人力によって施行されたと思われる石畳の川だ。
積んだ石垣に蔵が建つ。
急峻な傾斜に施した石畳はおそらく花崗岩であろう。
上流に布施城跡の土塁・石垣があるそうだが登る余裕はない。
石畳の川の件は後日に訪れた博西神社の宮役員を勤めるTさんに教わった。
この年初めて宮役員を勤めることになったと話していた。
小川に大きな石を埋めて護岸工事をしたのは親父さん。
工事にあたったのは6、70年前のことだと話していた。
18時半ころには提灯を準備されると聞いていたが、どなたも現れない。
待つこと30分。
提灯竿の先が下にある民家にちらりと見えた。
もしやと思って大急ぎで走る。
その家に行けば、ローソクを灯して提灯を掲げている最中だった。
二塚のダイジングサンは大字5組の廻りで、今年はこの家がアタリになったと云う。
組の人たちが手伝って提灯を括りつけていく。
博西神社の献燈もそうであるが、竿の先には御幣を取り付けている。
竿は竹製で中は空洞。
そこに挿し込む御幣である。
大庄屋の門屋で組んだ十二振提灯を出すころには太鼓も持ち出された。
抱えるように太鼓持ちを先頭に御供持ち、提灯担ぎが続く。
後方からチャン、チャンと打ち鳴らす鉦の音が聞こえてくる。
当番の男性が打っているのだが、写り込まなかった。
本来なら太鼓持ちは太鼓を打ちながら向かうのだが、抱えて持つがゆえ打つことはできなかった。
御供を供えて提灯を立てる。
2、4、6の提灯を吊るした十二振提灯である。
ゴザを敷いた場に降ろして太鼓と鉦を打つ。
ダイジングサンの呼び出しである。
太鼓は「昭和55年8月吉日」。
大阪市浪速区の太鼓正(たいこまさ)製の太鼓である。
鉦に刻印があるかもと思って拝見した。
「天保十五辰(1844)九月吉日」の刻印が見られた。
鉦であるが、なぜに九月吉日なのであろうか。
何らかの仏事ごとがあったと思われるが大字の人は知らないと云う。
しばらくすれば母親に連れてこられた子供が一人。
「太鼓を打ってみるか」といわれて叩いてみる。
「鉦も打ってみい」といわれてそれも打つ。
昔は大勢の子供がきたそうだが、この夜のダイジングサンは当番の組の人ばかりだった。
役目は5年おきの当番、終えたらすっかり忘れてしまうものだと話す。
19時半も過ぎれば街の灯りが見えてきた。
美しい景観に見惚れることもなくダイジングサンの場では太鼓と鉦の音色だけが響いていた。
その場に犬を連れて散歩する男性が訪れた。
「来年はウチやと」云ってお参りをされていた。
当番を終えたら7月7日の弁天さんの日に提灯・太鼓・鉦を引き継いでいた。
弁天さんを祀る地は布施城跡近く。
「歩くのもたいへんや」と云う場である。
「わざわざそこまで出かけることもないだろう」という意見も出て、引き継ぎの場は大神宮の前に替えて、11月或いは12月ころにしたのは平成25年のことだった。
寺口二塚の夏祭りの行事は博西神社の献燈と大字のダイジングサンを拝見して郷村と大字における行事の在り方が少し判ったような気がする。
寺口では7月16日にダイジジングさんをする大字もあれば、6月16日、或いは10月16日の大字もあると聞く。
寺口の各大字の在り方に興味をもったわけである。
(H26. 7.16 EOS40D撮影)
集落の婦人が云うには呼びだしに太鼓を打つ二塚のダイジングサンは前夜に博西神社の夏祭りに献燈された十二振提灯を立てると話していた。
ダイジングサンは「集落北のほうや」と云うので探してみた。
集落を北に向かって歩いた。
T字三叉路を小川に沿って坂道を登っていく。
しばらく歩けば見つかった大神宮の石塔。
その場には「庚申」の文字を刻んだ石塔もあった。
大神宮の石塔は「明治十三年正月吉日 村中安全」の刻印があった。
ここより後方には二塚古墳があるそうだ。
歴史を訪ねる人たちのために案内看板を立ててある。
大神宮の石塔が立つ前は山から流れる小川がある。
人力によって施行されたと思われる石畳の川だ。
積んだ石垣に蔵が建つ。
急峻な傾斜に施した石畳はおそらく花崗岩であろう。
上流に布施城跡の土塁・石垣があるそうだが登る余裕はない。
石畳の川の件は後日に訪れた博西神社の宮役員を勤めるTさんに教わった。
この年初めて宮役員を勤めることになったと話していた。
小川に大きな石を埋めて護岸工事をしたのは親父さん。
工事にあたったのは6、70年前のことだと話していた。
18時半ころには提灯を準備されると聞いていたが、どなたも現れない。
待つこと30分。
提灯竿の先が下にある民家にちらりと見えた。
もしやと思って大急ぎで走る。
その家に行けば、ローソクを灯して提灯を掲げている最中だった。
二塚のダイジングサンは大字5組の廻りで、今年はこの家がアタリになったと云う。
組の人たちが手伝って提灯を括りつけていく。
博西神社の献燈もそうであるが、竿の先には御幣を取り付けている。
竿は竹製で中は空洞。
そこに挿し込む御幣である。
大庄屋の門屋で組んだ十二振提灯を出すころには太鼓も持ち出された。
抱えるように太鼓持ちを先頭に御供持ち、提灯担ぎが続く。
後方からチャン、チャンと打ち鳴らす鉦の音が聞こえてくる。
当番の男性が打っているのだが、写り込まなかった。
本来なら太鼓持ちは太鼓を打ちながら向かうのだが、抱えて持つがゆえ打つことはできなかった。
御供を供えて提灯を立てる。
2、4、6の提灯を吊るした十二振提灯である。
ゴザを敷いた場に降ろして太鼓と鉦を打つ。
ダイジングサンの呼び出しである。
太鼓は「昭和55年8月吉日」。
大阪市浪速区の太鼓正(たいこまさ)製の太鼓である。
鉦に刻印があるかもと思って拝見した。
「天保十五辰(1844)九月吉日」の刻印が見られた。
鉦であるが、なぜに九月吉日なのであろうか。
何らかの仏事ごとがあったと思われるが大字の人は知らないと云う。
しばらくすれば母親に連れてこられた子供が一人。
「太鼓を打ってみるか」といわれて叩いてみる。
「鉦も打ってみい」といわれてそれも打つ。
昔は大勢の子供がきたそうだが、この夜のダイジングサンは当番の組の人ばかりだった。
役目は5年おきの当番、終えたらすっかり忘れてしまうものだと話す。
19時半も過ぎれば街の灯りが見えてきた。
美しい景観に見惚れることもなくダイジングサンの場では太鼓と鉦の音色だけが響いていた。
その場に犬を連れて散歩する男性が訪れた。
「来年はウチやと」云ってお参りをされていた。
当番を終えたら7月7日の弁天さんの日に提灯・太鼓・鉦を引き継いでいた。
弁天さんを祀る地は布施城跡近く。
「歩くのもたいへんや」と云う場である。
「わざわざそこまで出かけることもないだろう」という意見も出て、引き継ぎの場は大神宮の前に替えて、11月或いは12月ころにしたのは平成25年のことだった。
寺口二塚の夏祭りの行事は博西神社の献燈と大字のダイジングサンを拝見して郷村と大字における行事の在り方が少し判ったような気がする。
寺口では7月16日にダイジジングさんをする大字もあれば、6月16日、或いは10月16日の大字もあると聞く。
寺口の各大字の在り方に興味をもったわけである。
(H26. 7.16 EOS40D撮影)