マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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米谷町白山比咩神社の神主渡し

2017年12月10日 09時14分15秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
かつては「烏帽子渡し」と呼ばれていた奈良市米谷町・白山比咩神社行事の神主渡し。

神主というのは職業神職でなく、村の神主である。

2月5日から1年間を務めた米谷町の村神主は翌年の2月4日までの年中行事を務める。

一年を無事に務め上げた村神主は次の村神主に引き継がれる。

その儀式を「神主渡し」と呼んでいる。

平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に記載されている「カンヌシワタシ」は、今も変わらない2月8日であった。

「カンヌシ(※村神主)の交替の日。古くは“烏帽子渡し”ともいった、という。サタニン(※佐多人・助侈人とも)がカンヌシの装束(※烏帽子・衣装など)、書類などを新しいカンヌシの家に持っていく。そして、翌日の百座(ひゃくざ)の準備をする。昔は山に入って百座で使う柴を作った。新旧カンヌシはサタニンに対して、それぞれ昼、夕食の接待をする」とある。

「カンヌシワタシ」の翌日の9日にしていた百座という行事は、現在行われていない。

『五ケ谷村史』に記載されている「百座」の行事に「カンヌシ交替の披露の日。昔はカンヌシの家に十一人衆が招かれて、昼にヨバレ。夜には神社でオッサンの名で呼ばれる上ノ坊住職によって仁王経が読経されたのち、親類なども集まって賑やかに飲食した」とある。

続いて「今は昼間に神社に集まり夕方に終わるようにしている。住職と新カンヌシが拝殿に座り、あとは籠り所に座ることになっている。旧カンヌシが準備を行い、サタニンがこれを助ける。十一人衆のほか、氏子総代のうち一人が陪席する」。

次に「肥後和男氏の宮座資料には、この日のカンヌシは十一人衆、サタニンとともに神社に参り、神前で“トリの盃”といって、一尺二、三寸ほどの盃を前カンヌシ、一老、二老の順に飲み廻し、最後に前カンヌシに返り、さらに新カンヌシが飲むという作法があったと記している」も書かれていた。

また、「百座の名称は地元では坊サン百人が読経したため、或いは、昔は夜通しで籠りをしたので、火を焚くのに柴が百駄もいったからなどといわれているが、仁王経に見える“仁王般若経護国品”の古事に基づく百座仁王講に由来する名称かと思われる」と結んでいた。

なお、宝暦六年(1756)書写本である『宮本定式之事 米谷村 社入中』に正月九日の行事とあり、「社僧・平僧によって仁王経が読経されたことが記されている。また、当日の食事の献立も、詳しく記されているので参考になる」と、村史執筆者の奈良市教育委員会の岩坂七雄氏が調査・報告されている。

上之坊の僧の荻英記が安政六年に書き留めた『定式』の翻刻は貴重な史料。

「百座」行事については下記に記しておく。

一.正月九日百座 御祈禱之定
  先社僧 平僧伴に 仁王経百座読誦(どくじゅ)致 法則 座頭ハ社僧より相勤候
  御祈禱の布施僧壱人に宮本京舛に三升ツヽ遣スなり
  同九日衆僧宮本拾壱人会献立ノ事

一.朝飯に 汁ハ せちりん(※七輪)にたうふ(※豆腐)を入べし

一.坪(※ひら)ハ 八切之たうふ(※豆腐)二切もり(※盛り)ミそ(※味噌)而(※しかも)に(※煮)る

一.壺ハ こんにやく だいこん ごうぼ(※牛蒡)

一.生酢ハ だいこん にんじん こんにやく しやうが みかん

一.引(※ひい)たり ごうぼ(※牛蒡) たうふ(※豆腐)
  次ニ 酒弐こん 三重の肴あり 衆僧銘々に茶壱包ツヽ 神主所江持参いたすべし
  次ニ 明神江参り 社僧社人そろへ候 而(※しかも)御経の休の節茶わんニ壱献三重の肴あり

一.中飯之事

一.汁ハ だいこん いも ごうぼう(※牛蒡)也

一.菜ハ なのあゑ(※え)もの斗(※ばかり)
  次ニ 酒弐献 三重の肴あり
  次ニ 御祈禱結願終バせん米頂 次 御酒二献ハかさ 
      三献めニ茶わん 三重の肴あるべし 以上

翻刻文書を拝読してわかった三献の儀に配膳される肴の数々。

今の時代から見れば、なんと質素な、と思えるが、当時の献立料理としては上々であったように思える。

現在においてもよく似ている米谷町のマツリに提供される料理は家庭の味付け。

煮物が主な料理に和え物も・・。

これまで幾つかの料理をいただいたことがあるが、どれもこれもとても美味しいものだった。

翻刻文書味付けはまったくわからないが、坪に盛った豆腐だけは(田楽)味噌で煮たもの思われる。

そこで思い出したのが2月に行われる「田楽飯」の名で呼ばれる座の行事である。

2月22日は「田楽飯」、5月から6月にかけては「筍飯」、10月の「松茸飯」、12月22日は「くるみ餅」。

宮座十一人衆が参集されてご馳走をよばれる座の四大行事の一つが「田楽飯」である。

この年は2月29日の日曜日に行われたと聞く。

行事日はだいたいが22日になっているが、村神主はもとより十一人衆の都合の良い日を選んで決めておられる。

その日は参籠所外にあるU字坑を利用して炭火焼き。



U字坑は横風を防ぐ鉄壁を細工している。

U字坑の底に置いて火起こしする炭の真上に網を乗せる。

その網に豆腐を置いて焼く。

本来であれば串を2本挿して豆腐を焼くのであるが、柔らか目の豆腐は落ちそうにもなる。

落ちては困るから網を置いて焼く。

そう聞いていた焼き豆腐は田楽味噌を塗りつける。

田楽豆腐が出来あがれば、座に運ばれる。

こういった作業のすべてをするのがサタニン(佐多人・助侈人とも)の役目である。

今ではコンロ代わりのU字坑であるが、昔は参籠所室内にあったされる囲炉裏であった。

今でも参籠所に囲炉裏を作って、その場で焼いて座に出しているところがある。

山添村の桐山では囲炉裏で御供下げした開きのサバとモチを焼いていた。

また、山添村北野の津越では正月初めに行われる初祈祷行事に、年番の年預(ねんにょ)が薬師堂内の囲炉裏で作る田楽豆腐である。

私は拝見していないが、米谷町もかつては同じようにしていたものと思われる事例である。

豆腐に串をさして囲炉裏の火で焼く。

水きりをたっぷりしておかないと豆腐が弛んで焼くのが難しいと話していたことを思い出す。

「デンガクメシ」の名がある行事は奈良市の米谷町以外に大和郡山市の外川町の宮座にもあると聞いたことがある。

座中の一人であった当時四老であったYさんが話してくださった「デンガクメシ」行事の時期は5月と聞いていた。

10月には座入りでもある「マツタケメシ」の行事もある外川町の宮座については、奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』にごくごく一部であるが、記されていた。

調査報告書によれば、当時の外川町は8軒・八人衆の宮座であった。

時期は不明であるが、外川町全戸の20戸になったとある。

かつては八人衆が一般座衆の上位にあったと書いてあるから、八人衆以外の座衆は12人にもおよぶことになる。

また、座中は15歳で入座していたようだ。

話題は米谷町に戻そう。



座中めいめいがやって来て参拝される。

この日も本社殿に参って般若心経を唱える上ノ坊寿福寺住職。

四日前に行われた薬師さんのオコナイの際にもお世話になった方である。

2月11日は自坊の大師堂で大師和讃を唱えているという。

甘酒も接待するというから、『五ケ谷村史』に記載されている“米谷の大師レンゾ”であるような気がする。



座中も参拝されるなか、住職一人が座って年頭の心経を唱えていた。



このとき、参拝されていた83歳、五老を務めるYさんは我が家の墓石に文政年間の記銘があるから是非とも取材して欲しいと願われた。

いつか機会を設けてお伺いしたいものだ。

この日に神職は出仕することがない。

前述したようにかつては翌日9日にしていた「百座」の御祈禱之定があった。



しなくなった理由は聞いていないが、あったと話してくれたのは住職である。

「社僧」に「平僧」が伴って唱えていた「仁王経百座」の読誦(どくじゅ)である。

「座頭ハ社僧より相勤候」とあることから、座頭は社僧でもある。

と、いうことは、住職は社僧でもあり、座頭でもあるわけだ。

本日の斎主は社僧であるが、神主渡しの行事であるからには主役は新旧お二人の村神主さんである。

上座に座った中央は四日前の2月4日が最後のお勤め。

一年間の米谷町の年中行事を務めてきた九老のNさんは、この日に十老のTさんに村神主を引き継ぐ。

実際の任期期間は2月5日から翌年の2月4日まで。

行事が始まる9時までに烏帽子や装束に幣棒、神主帳簿、参籠所築写真などをサタニン(佐多人)が新村神主家に運んでいたという。

神主用具などの引き渡しは、先に済ませていたのだった。

「今日でやっというか、ようやく無事に務めることができた。一年間は長かった。特に毎度の掃除に手間がいった。神社境内から参道の掃除は半日で終えることもあったが、落葉の量によっては一日がかりもあった」という。

この日の供え物は旧村神主が調えたようだ。

海の物、山の物に里の物以外の決まった神饌は白米に小豆である。

参籠所建物に立てかけた長い木の棒がある。



2月1日に行われた小正月行事のときに置いたものだ。

『五ケ谷村史』に記載されている2月1日の「小正月行事」である。

宮司は神前で祈祷し、住職は拝殿で神名帳を読みあげ、般若心経を唱える。

十一人衆、氏子総代、佐多人が参加する神事である。

ミヤモリ(村神主)は漆の木を7本供えると聞いている。

祭典が終わってからに薬師堂で行われた“ゼニ カネ コメ”の作法もする。

このときのごーさん札の文字は中央に「米谷宮」を配置している。

「寿福寺」を書かれたごーさん札の2枚で一対。

両方が揃って漆の木に挟んだ。

挟むところはT字型に割いた部分に、である。

種蒔(苗代)と田植えの両方に立てるというから、それぞれがどちらかになるようだ。

この日に立ててあった長い木の棒は漆(うるし)の木である。

数えてみれば7本である。

この漆の木は持ち帰って苗代に立てていたが、JAから苗を購入するようになってからは、苗代作りをすることがなくなったので立てることもない。

そのようなことで残っているのであるが・・・2カ月後に調べた結果では、苗代作りをしている家はごくごく僅かの数軒であった。

うち1軒は、このことを知らずにわざわざ漆の木を探していたのであった。

神主渡しの座料理は仕出し屋さんに発注したパック詰め料理。

座中が座る席に配膳された。

パック膳の他にも手料理がある。

甘く煮た2種類の豆にキズシやタコの造り、コウコと野沢菜の香物も配膳するが、一人一皿でなく、何人かが一枚を取り皿する料理である。

こうした行事の料理膳などをメモしていた男性は十一老のUさん。

翌年の村神主を勤めることになっているから、この一年の村神主を勤める十老のTさんの動きも見ていくようだ。

一同、揃ったところで一年間も村神主を勤めたNさん述べられるお礼の挨拶。

村神主を勤めるまでのころ、大病をした身体であったが、こうして無事に勤めることができたのも皆さん方のおかげであると述べていた。

それではお神酒と言いかけたときに、一老さんから待て、である。

新しく勤めることになったTさんの新任挨拶もある。

Tさんも大病を抱えている。

2年間に亘る大病に神主勤めを受け入れられるのか不安だった。

今も絶えず、一か月に10日以上も通院治療をしている身。

いつ何時、という身体的事情もあるが、皆さん方に励まされて務めさせていただくことになりました、と述べてから乾杯した。



新旧が交替する場にお神酒を注がれるサタニン(佐多人・助侈人とも)さんがせわしくなく動かれる。

この場は村神主が十一人衆を接待する場であるが、慰労する場でもあるようだ。

この日は所用があって途中で場から引き上げせざるを得なかった。



前述したように、神主道具の引き渡しはすでにおわっているが、儀式はそれからになる。



儀式は注いだ酒を飲み交わす三献の儀であろう。

その盃は大盃である。

行事が始まる前に拝見していた大盃は朱塗りの武蔵野大盃(村史では一尺二寸盃)である。



大正三年(1914)十二月に奉納された武蔵野大盃を納めていた箱の蓋裏面に墨書があった。

「能登國輪島町 製造本店熊野寿十郎 □□国上野赤坂町 ・・・上田榮吉」とあった。

漆塗りと云えば石川県輪島市で生産されている輪島塗漆器をすぐさま連想するぐらいである。

儀式は拝見できなかったが、旧村神主や住職の話しによれば、宴が終わる直前に、この武蔵野大盃を上座に座る住職に酒を注いで飲んでもらう。

その次が村神主。

そして、一老から二老、三老・・・の順に大盃を廻して注いだ酒を飲んでいく廻し飲みをしているらしい。

酒を満々と注いだ大盃を座中が一杯ずつ廻し飲み儀式は大和郡山市の横田町で行われている春祭の際に町内の長老四人を祝う一気に飲み干す廻し飲みの儀式がある。

その廻し飲みは乾杯代わりともと話していたことを思い出す。

横田町の儀式は拝見したが、米谷町は拝見していないだけになんとも言えないが、話しの様相から似ているように思えた。

(H29. 2. 8 EOS40D撮影)