マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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福住の民俗画帳展示会in天理市福住公民館

2017年07月17日 09時11分40秒 | 民俗を観る
テレビのニュースが伝えていた天理市福住の民俗を描いた画帳展示会。

公開の場は天理市福住公民館だ。

福住の住民たちと思われる人たちでいっぱいになった公民館。

映像で解説していたのは天理大学の大学院生だ。

展示された画帳を前に語っていた。

テレビに映し出された「テントバナ」に腰を抜かすほど驚いた。

福住にかつてあったとされる民俗の一コマが絵に描かれていた。

赤い色の花を十字に縛った竹竿を立てていた。

それを見上げる二人の子どもがいる。

しかも、だ。

その竿には竹で編んだと思われる籠をぶら下げていた。

画のタイトルは「おつきよか」。

旧暦四月八日とある。

まぎれもない「おつきようか」の在り方が絵に描かれていた。

閲覧者に話していた大学院生。

「これはお月さんに向けて供えていた」というのだ。

そんなことはあり得ない。

直に拝見して苦言を申したいと思った。

テレビでは「テントバナ」という表現を一言もしていなかった。

何かがどこかで誤ったのであろうか。

民俗を専攻している大学院生はテレビのなかでさらに説明していた。

同じような仕組みを発見したテーブルに広げた宮中画帳をもって大学生に説明していた。

姿、形が同じであることを説明していた。

それは有りだと思うが、民俗を記録している私は気になって仕方がない。

誤った認識で誤ったことを見聞きしてしまうのがコワイ。

テレビニュースはこの画帳は大学院生が発見したことによるものだと伝えていた。

画帳は100枚以上もある。

今回、展示された画帳はその一部であるが、公民館展示は37枚。

描いた人は故永井清重さん。

明治38年生まれの永井さんは平成11年に亡くなられた。

生前のいつごろに描かれたのか。

その点については言及されていないが、絵そのものにコメントがある。

絵の内容はとても貴重である。

しかも、コメント記事によって、より真実性が伺える状況描写。

テレビニュースに映し出された男性がいる。

何年か前から存じ上げるOさんだ。

レポーターがマイクを向ける質問に答えていたが、名前はなかった。

久しぶりにお会いしたい。

それもあって公民館を訪れた。

Oさんと初めてお会いしたのは天理市長滝町だった。

平成22年2月5日に行われた正月ドーヤ。

長滝の九頭神社と地蔵寺で行われる正月行事である。

朝早くから詰めておられたOさんは福住の住民。

話しを伺えば「御膳」と呼ばれる9月行事をしている上入田の人だった。

平成19年、平成21年の9月15日に取材した「御膳」の行事をしている地域である。

その行事を知ったのは奈良新聞の小さな記事であった。

その様相を見て、たまらなく行きたくなった。

それが実現したのが平成19年だった。

その記事を書いたのは新聞記者であるが、情報を提供したのはOさんだった。

地域の行事を広く伝えたい。

そう思って新聞社に取材を願ったのである。

その記事を見た私は取材した。

その様相はたまたま知り合った旧都祁村の藺生から繋がる。

当時、総代だった男性の奥さんは出里が小倉。

同じようなことをしていると聞いて急行した。

両件とも撮らせてもらった野菜造りの御膳の様は著書の『奈良大和路の年中行事』の頁を飾ってくれた。

繋がりは次々に発展することになったのである。

こうした経緯があって出会ったOさんは平成25年に訪れた大和神社のちゃんちゃん祭りの際にもお会いした。

テレビニュースが伝える「福住地区を中心とした人々の生活や行事の記録」をテーマに展示された画帳のことをよく知っているのでは、と思って出かけた。

天理市山間にある公民館は2カ所。

一つは山田町にある山田公民館。

もう一つが福住町にある南田公民館と福住公民館である。

立地は前々から存じている福住公民館である。

向かい側に枝垂れ桜や十夜会双盤念仏を取材した西念寺がある地区である。

染田でフイゴ祭の取材を終えて時間があれば行ってみようと思っていた。

難なく着いた福住公民館にあった立て看板に「福住公民館まつり第三十回記念 永井清繁さん絵画展」とある。

展示協力に帝塚山大学。

サブタイトルは「福住地区を中心とした人々の生活や行事の記録」とある。

公開期間は三日後の13日まで。

なんとか間に合った。

氷室神社で今尚行われている神幸祭の行列は昔懐かしい状態を描いていた。

雨の日のお渡りになった平成17年の10月15日に撮らせていただいたその在り方とはまったく違っていた。

昔のお渡りとは風情もそうだが登場される人たちにこんな姿もあったことを知るのである。

赤いタスキを額に巻いて顎にぐるり。

首もとで締めて垂らす。

それは同じである。

烏帽子を被る素襖姿の色柄が異なる。

何人いるのか絵画ではわからないがすべてが紺色だった。

私が取材した年は紺もあれば濃紺に茶色もある。楽人が着る衣装の色柄も異なる。

楽太鼓を担ぐ人足は白衣。

これはどこでも同じだと思う。

先頭を行く人はサカキ持ちの神職。

これも同じである。

甲冑武者、巫女さん、旗持ち、天狗、獅子舞、神輿も同じ。

取材したときは花籠があったが、絵画にはなかった。

今回の展示はすべてではないと聞いている。

もしかとすれば蔵に埋もれているかもしれない。

絵画で一番のお気に入りは帽子を被ってサーベルをもつ駐在さんの姿だ。

大正時代になるのか明治時代か、わからないが警官の姿は映画でしか見ることのなかった姿である。

その後続についていた和装の男性。

羽織袴に帽子を被っている。

帽子は山高帽のように思える。

それを拝見して思い出したのが旧都祁村白石・国津神社のお渡りに登場する男性たちだ。

平成18年の11月3日に行われた「ふる祭り」の姿である。

男性たちは宮座衆。

上の六人衆と控えの六人衆が揃った十二人衆である。

太鼓を打って先頭を行く。

後続に御供のスコ飾りを担ぐ十二人衆すべてが羽織袴に山高帽を被っていた。

今でもその姿で行列をしている十二人衆の姿に驚いたものだ。

県内事例でいえば白石だけにあると思っていた山高帽姿が福住にもあったことを知る貴重な絵画は驚愕の事実であった。

氷室神社行事の驚きはもう一枚ある。

「七月一日 氷室神社献氷の祭 塔の森霊廟へ(氷)豆に寒粉をまぶしたと初瓜を供へに参りる」とキャプションが書いてあった。

そのキャプション横にある所作は笹の葉を薪の火で沸かした湯釜に浸けている神職の姿である。

その所作を「煮湯の抜」とあるが、いわゆる「御湯」の作法である。

私が拝見した範囲内の献氷祭に御湯行事はない。

あるのは拝殿の神楽舞と午前中に参拝される塔の森参りである。

寒粉は「かんのこ」。

いわゆる餅つきに欠かせないとり粉である。

氷室神社の祭り関係は別室展示。

大多数はロビーホールでの展示だった。

ロビー中央の壁に展示していた絵画は農耕の在り方。

冬田起こしに高く振りぬいたクワで田を打つ。

隣には女性が藁束をおしぎりで切っていた。

わらまきにクマデやすずきも書いてある。

次の一枚は春田耕。

「耕」に「おこし」のふりがなをふっていた姿は牛耕姿。

隣にある情景は「げんげぼおこし」。

「げんげぼ」とは何ぞえ、である。

それは「れんげ畑」だと話してくれたのは山添村春日住民のUさん。

同じ時間帯に拝見していたUさんも私と同じようにテレビで放映されていたニュースに飛びついたそうだ。

Uさんが云うには「げんげ」は「れんげ」。

そう訛ったということだ。

では「ぼ」とは何ぞぇ、である。

「ぼ」は田んぼと同じことである。

田んぼの「田」ではなく「げんげ」の田んぼだから、「げんげ」に「ぼ」を付けたということだ。

なるほどと感心する。

ひと通り見られたUさんが云った。

これらの絵画はUさんらが管理している山添村三カ谷にある民俗資料館で展示できないものか、ということだ。

複写でも構わないから、是非とも展示したいと話していたが、著作権問題をクリアする必要がある。

これらの絵画を展示するきっかけになった展示協力している天理大学の許可もいるだろう。

ましてや絵画の著作権は継承した家族にある。

複写であってもそのことは重要なことである。

話は展示に戻そう。

次の農耕絵画は田植に代かき。

何故だかわからないが、人が浚えの代掻き棒を引っ張って代掻きをしている姿だ。

私の記憶、或は残された農耕写真では牛が引っ張る代掻き棒で掻いていた映像である。

次は田の草取りに田の虫送り。

草取り姿の農夫は蓑を背中に。

奥さんと思われるもう一人の女性は蓑ではなく田ゴザである。

草取り機械の除草機は今でもときおり目にする形である。

それよりも気になったのは太鼓打ちに火を点けた藁束を持つ人たちである。

福住地区に田の虫送りがあったと思われる絵画に、えっ、である。

Uさんが云った。

福住ではなく山田の虫送りでしょ、である。

看板にあった福住地区を中心とした云々である。

かつて山田は福住村内であった。

明治22年4月、町村制の施行によって長滝村・山田村を合併してできあがった福住村である。

それ以前の福住村は明治8年に中定村・浄土村・別所村・下入田村・上入田村・南田村・井ノ市村・小野味村が合併したことによる。

数十分後にお会いしたOさんは絵画に描かれた田の虫送りは「山田」であると云った。

次の絵画は収穫である。

稲刈りを終えた稲を「はさ」に架けている情景である。

道具のキャプションに「はさ竹」とか「はさの足」がある。

足は木材で竿は竹である。

今も昔も変わらぬハサカケの材である。

次は稲こき。

足で漕いで回転する稲こき機械もあれば、女性が稲こきをしている「千歯ごき」もある。

稲こきが終わって収穫作業も一段落。

冬場であろうと思われる「夜なべ」の情景も描かれている。

俵、さんばいこ、さんた(一般的はサンダワラ)を土間で編んでいる女性たちの姿である。

土間から上がった座敷に座っている男の子は本を広げて学習中だ。

電気もなくランプの光の下で作業をしている。

一連の農耕の情景が蘇ってくるシーンにこれもまた感動する。

次は冠婚葬祭関係である。

一枚は嫁入りしているときの在り方である。

仲人さんとともに嫁入り先の家にあがるときの作法をあらわしているである。

もちろん、をするのは仲人ではなくお嫁さんだ。

すぐ横には弓張提灯を持つ世話人や嫁入り道具を納めた柳行李を担ぐ荷持も並ぶ。

柳行李なんてものは今では見ることのない運ぶ道具。

現状では死語になっているかも知れない。

最近になっても嫁入りにをしていたと話していたのは大和郡山市の櫟枝町の住民である。

婦人が体験した記憶にある嫁入り。

実家が用意した青竹を割る。

それからタライに足を入れて洗う。

白無垢姿でした嫁入り作法をしてから家にあがる。

そんな話を思い出す絵画の様相である。

後に知ったのは、話してくださった櫟枝町の高齢の婦人はかーさんが行っている太極拳の仲間だった。

村の行事の当家祭がある。

その当家の在地を案内してくださったのが高齢婦人。

どこかでご縁が繋がっている事例の一つになった。

次の絵は屋内で行われている結婚式の在り方である。

その次が「二日帰り」。

振り仮名に「にさんがへり」と書いてカッコ書きに里帰りの但し書きがある。

赤ちゃんを背中でおんぶした「おいね」が見送る風景に「ほっかい」に包んだ荷物を担げる男性とともに帰郷する。

いつの時代になるのかわからない衣装。

電車の駅はどこであろうか。

ここは山間部。

バスに乗って実家に戻っていったのか、地元住民の生活体験をお聞きしたい。

その次は赤ちゃんの誕生。

土間に置いたタライの産湯。

産婆さんが赤ちゃんを取り上げているようだ。

竃に火をくべているから沸かしたてのお湯。

その横にクワも抱えた男性が扉を開けて出ようとしている。

木の樽に竹籠を担ぐ男性のキャプションは「えな埋め」である。

「えな」を充てる漢字は「胞衣」。

いわゆる胎盤である。

次は満一歳の誕生祝い。

キャプションに「あずき餅ときなこ餅を背負わせて希望の道具を取らせる」とある。

あずき餅ときなこ餅は直に背負うことはできない。

風呂敷に包んでいる絵が描かれている。

満一歳の子供に背負わせたら重たい。

いつだったか思い出せないが、福住町出身の若い女性が生まれ育った里では満一歳の初誕生の祝いに一升餅を包んだ箕を背たろわせて前に置いた数々の文具を選ばせていると話していた。

その情景はまさに展示された絵画とまったく同じだ。

平成21年の12月のメモにそう書いていたから勤務していた市民交流館時代に来館されていた利用者だったと思う。

生まれたら是非取材させてくださいとお願いしたが叶わなかったが、他所で拝見させてもらった。

取材したのは平成23年の3月27日

場所は奈良市丹生町のF家の初誕生で叶えてもらったことが忘れられない。

さて、福住の初誕生絵である。

満一歳の子供は母親に抱かれるような姿に風呂敷に包んだ一升餅(と思われるが)を首に巻き付けて背負っている。

座った場に箕がある。

その前にある道具はカマ、トンカチ、そろばん、手帳、ハサミ、鉛筆になぜか煙管がある。

傍らにおいてあるコジュウタには大きな餡子やキナコでくるんだおはぎがある。

小さ目に作った餡子(餅かも)もある。

その隣では竃に火をくべてこしきで蒸している。

臼を挽く男性の向こう側にあるのは大きな白餅。

から臼で搗くモチ搗きを描いている。

次の絵は正月の屠蘇祝い。

竃に立てた荒神さんに三段重ねの鏡餅がある。

いろりを囲んだ一家の正月に「いただき」を描いていた。

土間には若水を汲んだ木桶もある。

お重に盛ったお節料理もあるが雑煮が見当たらない。

次の絵は塔まいりに七橋まいり、盆の沸まつりの三つ。

塔まいりは墓石が並ぶ墓地へ参る情景。

「実家の菩提処の墓へまいる 八月上旬」とある。

桜井市山間部の数か所で聞き取りした塔参りと同じような参り方だと思った。

今年の8月7日に萱森下垣内の在り方を取材した。

萱森ではそれを「ラントバさんの塔参り」と呼んでいた。

7日は各地に塔参りがある。

奈良市の旧都祁村になる小倉町は墓掃除をして参る下向の塔参りと呼んでいた。

桜井市倉橋も7日。

カザリバカとも呼ぶ無骨埋葬のカラバカ参りをラントバサンと呼んでいたことを思い出す。

天理市苣原は6日であるが、石塔婆墓に参る塔参り。

また、8日事例に旧都祁村の藺生も塔参りと呼んでいた。

調べてみればもっと多くの地域で今も参っているのだろう。

8月14日宵の七橋まいりが気にかかる。

橋に名前が書いてあった。

「深江・・」の文字があることから深江橋。

場所はどこだかわからない。

七つの橋の一つなのかどうかわからないが線香に火を灯す浴衣姿の女児がいる。

14日に線香を・・ということは先祖さんの迎えに違いない。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に大字笠形の風習に「8月14日、七橋詣りといって、火のついた線香をもって村の7カ所の石橋に行き、2本ずつ立てて、お茶を注いで廻る」とあった。

たぶんにそれと同じようなことをしていたのであろう。

三つめの絵は佛まつり。

8月13日より15日までのことを説明したキャプションがある。

「新しく亡くなった佛は家の軒に新だなを作り 位はいを祭り岐阜提灯をとぼして(灯して)詠歌をとなへる」とある。

屋内で伏せ鉦を打ってご詠歌を唱える。

カドの庭には二本の松明を燃やしている。

廊下か縁側か、それともカド庭なのか位置がわからないが、新仏を祭るタナがある。

それは結構な高さがある。

架けている梯子も長いのが特徴のようだ。

次の絵は旧暦四月八日のおつきよか。



この絵をテレビが紹介していたのである。

茅葺民家のカド庭に立てた竹竿。

てっぺんに結わえた花は十字。

十字といっても下部には花がない。

色柄から云えばツツジであろう。

その十字すぐ下にあるのか竹の籠。

やや大きい丸籠のように見えるからやや大型のシングリであるかも。

この籠は一目で何の謂れがあるのかわかる。

ここに三本足のカエルが入っていたら・・・招福。

或いは金持ちになるとか。

いわば吉兆の印しは福を迎える使者として信ぜられた。

また、十津川村の伝承に「サンボンガエル(三本蛙)」がある。

二俣のトリカゲ(トカゲ)、サンゾクガエル(三本足の蛙)とを肺病で寝ている人の枕元に置いて、さらに、頭が二つある蛇に十五節あるヤマドリの尾羽を輪に曲げて病人を見ると病気の黴菌が見えたという寺垣内の中本家の伝承である。

ありえない四種の動物を並べて、福を招き入れるという民間信仰であろう。

竹竿はもう一本立てている。

それは十字の花ではなく一の字に括ったツツジ。

これは始めて見る様相の2本立てである。

事例的にもあり得ない在り方にクエッションマークが頭に浮かんだ。

その絵にキャプションがある。

「各家の前へつつじの花を 竹はゆわえて月にそなへる」とある。

これが問題なのである。

描かれたご主人はオツキヨウカのことをたぶんに存じていないと思われるのだ。

行事の名はなんとも思わずにそのまま聞けば「お月・・」である。

つまり、お月さんが昇る天に向かって竹竿を立てていたとの思い込み、である。

福住では「おつきよか」であるが、本来は「おつきようか」。

「おつき」は旧暦の四月。

陰暦で云えば「卯月」の4月である。

つまり「うづき」が訛って「うつき」。

さらに訛って「おつき」になったと推定している民俗風習の一つにあるのだ。

絵画に「旧暦四月八日のおつきよか」とある。

ツツジの花が咲く季節は新暦の5月。

そういうことである。テレビで伝えていたご婦人も「お月さん」と話していたが、大間違いである。

解説していた学生さんもこの風習をご存じではなかった。

慌てて福住公民館にやってきたのは、この絵を拝見して確信を得たかったのである。

ちなみにオツキヨカに供えた花は屋根に揚げたら家出した者が帰ってくるという言い伝えがある。

そのことを話してくれたのはOさんだ。

画集ではオツキヨカの呼び名であるが、Oさんはウヅキヨウカ(卯月八日)と呼んでいた。

かつてO家でも、ウヅキヨウカをしていた。

ツツジにウツギの花だった。

籠にカエルが入っていたら、えーことがあると伝わっていた。

田んぼに居るタニシを見つけては納めていたシングリの籠というから、画集にあるような大きな籠ではなかったようだ。

以前、「サンボンガエル(三本蛙)」のことや「オツキヨウカ」の名称についてブログにアップしたことがある。

よければ参照していただきたい。

この絵には茅葺建ての西念寺がある。

今もなお茅葺の西念寺に参る三人のおばあさん。

キャプションに伝法講とあるから融通念仏宗派。

そう、西念寺は融通念仏宗派である。

十夜会に施餓鬼、除夜の日に鉦講が双盤鉦を打って鉦念仏をしている。

お寺では屋根に花を飾り付けた花御堂におられるお釈迦さんに甘茶をかけて誕生を称える姿がある。

今でもしているのか・・と思った次第である。

次の絵は芋明月と栗明月(※いずれも名月の誤記)だ。

芋明月のキャプションは「九月十五日(旧八月明月(※名月の誤記)の晩) かやの穂と萩の花を里芋の子芋を供へる」とある。

かやは花がさいていることから一般的に呼ばれているカヤススキであろう。

左側に描いている栗明月のキャプションは「十月十三日(旧九月明月(名月の誤記)の晩 栗の実と枝豆を供へる)とある。

両方とも今でもされている民家があるのだろうか。

芋名月の在り方は県内平坦部も含めて数か所で調査してきた。

調査事例に大和郡山市の2例がある。

隣近所であるが、様相は若干異なる。

山間部の生駒市の高山平群町では月見どろぼうと称する風習もある。

平群町では中断しているが、今年は十津川村で行われている滝川で芋名月を調査したが、栗名月はなかなか見当たらない。

農村稲作の在り方もあれば茶業も描いていた。

摘娘(つみこ)が刈り取るお茶の葉。

煙が流れている茶小屋まである。

次は茶揉作業。

ふんどし姿の男性が茶を揉んでいる。

作業場にある台は「ほいろし」に「ほいち」。

蒸すのであろうと思われる「上たく」に茶つぼも描いている。

次の絵は茶蒸し。

むし娘(むしこ)がストーブのような処で蒸している。一方の絵は「青たおし」。

煙突がある手回し機械は「高林式粗揉機」のプレート文字まである。

その下には火をくべる割り木もあれば、さまし籠もある。

割り木を伐採する作業もある次の絵。

タイトルは山仕事だ。

「薪積」、「一きし」、「薪」、「なた」、「枝ゆい」、「割木わり」、「割よき」、「ごもくかき」、「ごもくかご」の文字でよくわかる。

次の絵は「山行」だ。

雑木をナタで伐っているのは女性である。

山の道具は「山鋸」、「根切よき」。「やかん飯」でご飯を炊いていた。

次の絵は薪・賣り。カッコ書きで天理市櫟本町馬出とある。

そこまで売りに行くには運ぶ馬がいる。

キャプションに馬で炭賣りと書いてある。

一方、薪賣りは人手の大八車。

坂を下る様子が描かれている。

割り木賣りはオーコで担ぐ女性だ。

道具は「かちんぼ」と呼ぶのだろうか。

故永井清重氏が生まれたのは明治38年。

いつから絵画を描くようになったのかはわからないが晩年まで。

平成11年に亡くなられるまで描き続けていたようだ。

生きてきた時代ごとの服装もまた民俗である。

明治末期より大正時代までの男女の正装も描いていた。

男性は山高帽を被った羽二重黒染五ツ紋。

女性は着物姿の丸髷。

浜縮緬裾模様に倫子丸帯だ。

男性の持ち物は懐中時計。

女性は婦人ものの巾着である。

他にも青年、女学生、主婦、とんびを着た村長さん、まんと姿の(旧制)中学生、夏の(農)作業衣、かんかん帽を被った浴衣がけ男性、婦人ジョーセット着物。

冬姿の五人五様。

一人の男性はネルのひっかむり姿に甚平にがんじき靴。

女性はぢくつ。

厚司は和傘に洋靴を履く。

もう一人の女性は頭巾を被って肩掛けに下駄ばき。

男の子の着物に「井の」の文字と思われる紋様がある木綿服だ。

公民館館長や福住いにしえ会のOさんの話しによれば永井家は呉服屋さん。

衣服に関心があるからこれほど多数の着衣を描いたのであろう、という。

行事や風習に農業、林業などの営みを描かれた絵画はとにかく感動するばかりである。

民俗を表現した絵画は実に貴重である。

今では見られないものばかりでわくわくしながら拝見させてもらった。

私は取材等で記録した写真で民俗情景を残している。

写真ではなく聞きとらせて人たちの記憶は私のブログ等で文字表現させてもらった。

記憶も記録。

忘れてしまえば失効し、いつしか消えてしまう。

その人の記憶を文字化によって記録してきたが限界がある。

かつてさまざまな地域で記憶を文字化した史料が残されている。

それと同じ類のことをさせてもらっている。

その記憶が絵画映像として残された。

たいへん貴重な史料である。

お許しをいただけるならお願いしたいと思って作者の遺産を継承された家族に了解を求めて門を潜った。

著作権も継承されている家人に、類事例の一つにブログとか書物に紹介させていただきたいと申し出た。

この日に拝見したすべてではないが、何かの折に参考、参照公開させていただきたいと申し出たら了承してくださった。

紹介する場合はその都度に連絡は・・と云えば、そこまでは要しないと云われたが、公開時に「出典 故永井清重製作画帳より」を記載することにした。

(H28.11.11 EOS40D撮影)