マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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稲作文化と農耕儀礼-大和の民俗にみる-

2011年06月25日 06時50分37秒 | 民俗を聴く
ここんところ聴講に出かける機会が増えている。

先月もでかけた県立橿原考古学研究所附属博物館の5月例会講座。

今回は弥生時代の稲作と農耕儀礼について2題である。

長年取材してきた民俗行事に関して示唆されるのではないかと思ってでかけた。

参加者は前回と同様に会場はあふれそうで250人にもなったという。

年齢層からすればおそらく博物館の友史会の人たちであろう。

数人の若い人がおられるのは古代研究をされている学生であろう。

しかしだ。もっと若い女の子が2人。

一所懸命にメモをとっている。

あとから聴けば高校1年生だった。

これには驚いたが講座の内容は判ったのかどうか聞かなかった。

<横田堂垣内遺跡の一本刳り抜き井戸>
それはともかく会場ロビーには大きな丸太に木が展示されている。参加者はその大きさもさることながら興味しんしんで拝見している。解説員がここを見てくださいと示した先は「下」の墨書文字。この大きな丸太は刳り抜きの一本丸太の井戸枠だった。「下」は下部を示す。外側は大きめの四角い窓。内部はそれより小さめの四角い枠。ハメが入っている。両方にそれはある。運んだ際に使われたであろう穴だという説がある。それは棒を入れていたのか綱であったのか判らない。井戸枠が見つかった周りは径6.2m、深さ3.3mの砂地だったそうだ。井戸枠の丸太は径1m、高さ3.1mのヒノキ材がすっぽりと埋もれていた。外側も内側もチョウナで美しく削られている。穴を掘ってあとから砂を入れ込んだと考えられるそうだ。そうであるとすればだ。下部にあった四角い穴は強度の綱をかまして下ろしたのではないだろうか。稲藁では考えられない。過重に耐えられないはずだ。各地で見られるツナカケの綱は稲藁である。引っ張りにはそれほど強くない。それはツタ類であったかもしれない。そろそろ下ろしてツナを外した。と思えるのだが・・・四角い穴はさて。これは棒を固定する役目だったのでは。その両端にかけていた。なんてことをいろいろ想像できた横田堂垣内遺跡から発掘された一本刳り抜き井戸だった。

<弥生時代の稲作について>
「弥生の里」はほのぼのしてやさしい言葉。これまでの弥生と言えば戦い、争い、武器、矢が刺さった人骨だったがイメージは大展開した。それは京奈和道路の大規模開発の恩恵でもある。主に発掘された水田を調査してこられた森岡秀人氏による講座が始まった。テーマは「水田開発からみた初期農耕集落」である。1970年代以降まではあまり意識されていなかった水田。足跡が発見されてからは学者たちの目線に変化みられたそうだ。足跡からその人の心理状態をさぐる。・・・なるほど。そういう研究もあるのだと感心する。講座は7千年前の中国河姆渡遺跡から始まって春季特別展のモチーフとなった中西遺跡へ。根成柿遺跡、萩之本遺跡、玉手地区遺跡などなど。あっちこっちへ飛んでいくし、発掘場所をイメージしながら聴かねばならないので頭の展開は目まぐるしい。水田跡は小規模で整然と畦畔(けいはん)が形成されている。当時は河内湖(潟)だった大阪や神戸で発掘された違いなどそれぞれについて解説される。小さな区画は三畳とか四畳半の畳部屋の広さ。かつて学生が住んでいた下宿の広さを想定してくださいと言われても現代の若者には馴染みがない。水田跡の傍には大河川がない。そこは離れていて支流も見当たらない。だから遠くの河川から水を引いていた。流路はどの方向に流れていたか。検証できる材料は徐々に揃ってきた。今後に期待されるようだ。今まで発見された弥生人が暮らしていたとされる地は扇状地や潟付近に近い地でかつては沿岸部。盆地であろうと平野であろうと一挙に生活技術が広まったとされる。古墳時代には水田耕地は定着したが弥生人は自然現象における災害を受ければ放置していたそうだ。

<稲作文化と農耕儀礼-大和の民俗にみる->
長年に亘り民俗博物館で生活文化調査・収集し、文化財課で民俗調査を行ってこられた浦西勉氏。現在、残っている伝承文化は人が伝えてきたものであるゆえ弥生時代に辿りつけるかどうか・・・大きな課題だと前置きされて講座が始まった。今日に残るマツリや行事はどこまで辿れるか。今回の画期的な展示は考古学、自然、歴史、民俗で・・点から線に、そして面で時間で包括する。この問いかけは25、6年前に弥生人の四季をテーマとして展示、シンポジウムがあった。当時は資料も少なく観念的だった。1987年に出版されているそうだ。立場は変わっていないし今回も十分な回答をできない民俗は人が伝えてきた。過去の事実を復元するのは考古学も同じだが民俗は慣習だけに残りにくいもの。それだけに資料が乏しい。民俗に関心が寄せられたのは昭和19年。当時は戦時中、そのとき初めて年中行事を求めた和州祭礼記。柳田国男氏に激励されて発刊したそうだ。配られた資料の写真キャプションは右から左に、である。戦後も関心が広まった時期があった。昭和40年代後半のオイルショックのころにも民俗調査が活発になった。そして近年。祭りごとに興味をもつ人、新聞記者やカメラマン。そういう人がマツリの報告を活発にしている。関心が高まっている。今回の特別展にも写真を提供している田中さん・・・。熱心に収録に取り組んでいると・・・。(ありゃ、私のことだ)
奈良県のイメージをするには明治17年にデータを収集された大和の国の市町村史。これには当時の各村における1300の集落の生活が集められているそうだ。その対象集落は秀吉時代に全国の田畑の収穫量調査、検地測量した太閤検地(たいこうけんち)が元になっているそうだ。それはともかく収穫といえば水田か山林かの割合が穀物生産がどこにあるのかよく判る。大部分を示すのが盆地部。それは8割もあった。その周辺は6、7割で宇陀は5割。・吉野川流域は3、4割程度だった。南部の山岳地は非常に少ないのはもっともで大塔・天川・川上は水田がなかった。畿内で8割を示すところは山城辺りだけというから大和の盆地は穀倉地帯で水稲畑作密度の濃い地域であった。その盆地部、昭和10年の分布図によれば1300のなかで800もの小さな村落が集中している一帯で地域共同体が営んでいた。その意識は強固で伝承文化が濃く民俗行事が今でも行われている。
今日の農耕儀礼は田植え初めから季節ごとの節目に行われる予祝儀礼がある。年初めに行われる代表的なオコナイ。それはユミウチ、ケイチン、ツナカケ、ランジョウ、造りもののハナモチ(モチバナ)などでオコナイにおける作法である。ツナカケの神事の代表格に桜井市江包・大西のオツナマツリがある。もうひとつは明日香村の稲渕と栢ノ森のツナカケだ。これらは正月行事である。オツナマツリは大きなツナを作って両村から出向き合体する。生産を願うスタイルである。これを古代の日本の祭礼をとどめている珍しい行事だとある学者が言っていたそうだ。それは一般論となり定説にもなった。が、だ。果たしてそうなのか。
鎌倉時代後期・室町時代の初期から始まったとされる宮座が伝えるものであろうと氏は語る。その様子を捉えた動画が上映された。興味しんしんと画面に視線が集まる。大きなツナ作りにどよめき。ドロ田でのスモウに笑いがでる。「ひーらいた ひーらいた」の囃子にどっときた映像に・・・。歴史的な文献が残っていないオツナマツリは村の人が行事そのものとして残してきた。いったい何時まで遡れるのか。室町年間の条里地図復元図をもとに刊行された「日本荘園絵図聚影 出雲荘土帳」によれば大西に帝釈堂、モリの堂があったそうだ。その周辺は堂垣内。こういった小字名はその当時に寺があったことを示す地名である。冒頭の刳り抜き井戸枠が発見された遺跡名もそこから付けられた。現在もその名が見られる地図は各市町村にもある。以前に郡山市内でそれを検出するのにその地図を参考にしたことがある。堂西や堂南、堂前とかの小字は明確に廃絶となったお寺の場所を示すものだ。現在のオツナマツリは長谷川下流の江包側にある。ところが明示された荘園地図には上流にもツナカケの地がある。かつてはそこにも綱を掛けていた証しであろう。正月行事の修正会(オコナイ)を営んでいたお寺は存在していた。それを祭祀する宮座組織があったわけだ。中世室町時代にはそれが成立していたと考えられる。
稲渕と栢ノ森の中間には観音堂があった。ウスタキヒメ神社(飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社)には「ドウコウ」と呼ばれる行事がある。それはツナカケとは別なようであるが、観音堂は廃れ講が引き継いだものと考えられるドウコウ(堂講)はお寺の存在を示すツナカケは上流と下流に掛けられる。
オツナマツリは村人(農民)の力強さ。地域水田を耕作する労働力はマツリでエネルギーを発する。村落共同体が強固であったゆえお寺の衰退とともにツナは巨大化していったのでは。それは土一揆として寺院の権力を排除した歴史がある。代々行われてきたツナはモニュメントとなって巨大化して語り継がれてきた。古来より伝わる考え方、儀礼文化は大和の祭り組織が引き継いでいるのかもしれない。
ツナカケの場の下には井堰(堤防)がある。水を運ぶ施設である。それを構築するには一人の力では賄いきれない。組織体がなければできない大がかりなものである。水路を引くということは・・・それは水利を意識する蛇体でもある。このことは中世からあった意識であろう。ツナを作ってそれを川跨ぎに掛ける。シメナワであるかもしれない。それはいつしか巨大なモノに変容していくのだが、一年に一度の組織体の作業。それは生活技術を伝えるとともに緊急な場合における制作技術の伝承でもある。その結果が大きな蛇や龍と変化していった。村落を維持する人々は子供から大人までの幅広い年齢階層となる共同体。参加することで成長していく。村落で農耕をしていくためにも子供の成長は大切なもの。行事はその謂れを合わせて物語りを設定しなくてはならなかったのだろう。いわゆる後世への語りをもつ必然性である。もう少し語りがあったが今回はこの辺までとしておこう。

(H23. 5.15 SB932SH撮影)