吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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夫婦ゑびすの原型 道君首名公夫婦の古碑 No518

2019-06-07 13:43:12 | 神霊界考察
15年ほど前にいただいた玉名市歴史博物館の企画展パンフレット
『大宰府と肥後の寺院 兼任国司道君首名の役割』の
最後のページに記載されていた田主丸門ノ上にあるという
道君首名夫婦の古碑の写真が気になっていた。
  



多分、羽犬塚の夫婦恵毘須像も高良大社の市恵比須社の夫婦像も
櫛田神社の境内の夫婦恵比須神社も人吉の札の辻夫婦恵比寿神社も
その原型がこの道君首名公夫婦の古碑にある。

なんとかに田主丸門ノ上にあるという道君首名夫婦の古碑を
探してみようとは思っていたものの
ネット上には情報が全くなく場所も遠地なのでそのままになっていた。
最近やっと「2018/06/23付 西日本新聞朝刊」の情報を見つけ出し
現地に赴いてきた。

 

この道君首名公夫婦の古碑は近年移転している。
そしてとなりに由緒不明の石碑が追加されていた。
とても残念なことに門ノ上公民館の空き地に適当に
移設させられたような状況と言える。
本来なら鳥居と社を設置し御神体として祭祀すべき存在である。

なぜここに道君首名公夫婦の古碑があるのかというと上記添付資料の通りで
その夫人が出家し田主丸にて首名公の菩提を弔ったからである。
後胤は竹野長者と呼ばれている。
また越の道君一族は大彦命の孫の彦屋主田心命の後裔としているが
田主丸の地名も彦屋主田心命から取られたものであろう。
田主丸と呼ばれた菊池丹後入道がどれだけ真意を知っていたのかは不明である。
道君首名公の存命は663年-718年5月18日(養老2年4月10日)であるが
首名の孫である道広持が835年(承和2年)に
道君から当道朝臣と改姓されたことが記録に残っている。
また首名が没して約150年後の865年(貞観7年11月2日)に
後胤に贈従四位下が贈られている。

田主丸竹野地区の道君首名公の血縁の当道朝臣の一族から
1155年(久寿二年)金光上人を輩出している。
金光上人は浄土宗の開祖法然上人の高弟であり
東北陸奥に浄土宗を広めた僧として有名である。
高良山で出家し13歳の時に比叡山に登り円証の名を貰っているが
32歳の時に田主丸の石垣山観音寺の別当として故郷に戻り赴任している。

ひとつ前の記事の法然上人の師である『皇円大菩薩』は
1169年7月9日に没しているのでほぼ面識はなかろうと思える。

田主丸の石垣山観音寺の由緒等から探ると
まず行基菩薩の伝承がある。
 
次に慈覚大師円仁が唐での赤山法華院や五台山で修行からの帰国時に
この石垣山観音寺に立ち寄り「円成院」の院号を名づけ
「法相宗」から「天台宗」 に改宗させている。
こういう歴史が残る寺に金光上人は赴任したのだが
この寺で牛鬼を退治したとの伝承が残っている。
この牛鬼退治の伝承では以下のブログが詳しい。
『石垣の牛鬼 「耳納山」の由来』

なるほど筆者の道君首名公との感応が
牛鬼伝承や塵倫鬼に繋がりその追悼を願われているのは
こういう歴史があるからなのだろう。

※夫婦ゑびすの過去記事は以下参照
『道君首名公と道祖神信仰 No125』
『天社宮の夫婦像 HP』
『肥の國の夫婦ゑびす考察 No381』
東北に道祖神像が多いのには金光上人の影響があるのかもしれない。


越の道君一族は大彦命の孫の彦屋主田心命の後裔を名乗っているが
大彦命の兄弟に少名日子建猪心命(日本書紀では少彦男心命)がいる。
武内宿禰の父とされる人物が屋主忍男武雄心命であるが
屋主忍男武雄心命と少名日子建猪心命は同一人物の可能性がある。
健軍神社の祭神の健緒組命とも繋がっているはずである。
『熊本の健軍神社の神話 No367』
『健軍神社の主祭神の健緒組命について No394』
『謡曲 「高砂」の意味するところ 2009/10/17 (Sat) 10:23:23』
『少名日子建猪心命と少彦名神の関係については』
コメント (20)
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