yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2015 2度目のグエル公園へ、ガウディはオロット火山の石を用い、ヤシの生長をイメージして擁壁を築く

2017年07月21日 | 旅行

スペインを行く51 2015年ツアー13日目+1994年ツアー2日目 グエル公園
 2015年11月1日・日曜、・・略・・ グラシア通りPasseig de graciaでガウディのカサ・バトリョが見えた(写真)。少し先には伊東豊雄がデザインした商業ビル、向こうの角にはガウディのカサ・ミラが建っている。・・略・・ 今日の午後と明日の午前の自由時間にじっくり見ることができそうである。
 ディアゴナル通りAvinguda Diagonalを抜け、北に向かって上る。カサ・ミラあたりから1.2kmほどの傾斜地にグエル公園Parc Guellがある(図、上・中ほどがグエル公園)。
 グエル公園も1994年ツアーの2日目に見学した。・・略・・ 全世界から押し寄せる観光客への対処から観光客は予約制で時間厳守になったそうだ・・地元市民はパスで入園できるらしい・・。一定の質を確保するためには有料化+予約制は避けられないと思う。
 エウゼビ・グエル(1846-1918、グエルはカスティーリャ語でカタルーニャ語ではエウゼビ・グエイ、海外ではグエルが知られる)は地元の実業家、資産家で、政治家でもあり、文化活動にも力を入れた。20代後半のアントニオ・ガウディ(1852-1926、カスティーリャ語でカタルーニャ語ではアントニ・ガウディ)の才能を認めて親交を結ぶとともに、生涯の後援者となり、グエル公園、コロニア・グエル教会、グエル別邸、グエル邸などのデザインを依頼した。グエルの功績に対し、当時のスペイン国王アルフォンソ13世(1186-1941)はグエル伯の称号を授けたほど、グエルの活躍はめざましかったようだ。

 アントニ・ガウディAntoni Gaudi(カタルーニャ語、カスティーリャ語ではアントニオ・ガウディ、1852-1926)を復習する。ガウディはカタルーニャの銀細工職人の家に生まれた。親のつくった銀細工品を見ていて空間力が芽生えたという説があり、小さいころリウマチにかかり自由に動けなかったことで観察力が養われたという説もある。20代に入ってバルセロナで建築を学び、並行して建築事務所でも働いたそうだ。ここで実践の技術を取得したのかも知れない。
 1878年に建築士の資格を取り、パリ万国博覧会に出展する手袋店のためショーケースをデザインした。これが、エウセビオ・グエル=エウゼビ・グエイの目に止まり、以後、グエルはガウディを生涯支援し、グエル邸やグエル公園となった住宅地開発などの設計を依頼した。昔読んだ本の記憶では、ガウディは必ずしも敬虔なカトリック教徒ではなかったが、サグラダ・ファミリアの設計を受けたあと、教会に頻繁に通い、司祭の話に耳を傾け、繰り返し聖書に目を通し、それがサグラダ・ファミリアの設計に結集されたそうだ。

 グエル公園でもガウディの自然に即したデザインが表れているが、ガウディは「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と考えていて、自然環境をよく観察するとともに、模型によって力学的な安定を確かめていた。形のユニークさも自然の観察と力学的な安定に裏打ちされているので、リズミカルであり、バランスがとれていて、親しみを覚える。 
 ・・略・・
 話を戻して、19世紀の産業革命以後、バルセロナは産業が振興し、市街が拡大した。新市街は碁盤目状の都市計画が実施され、ブルジョアが台頭して邸宅を建て始めた。
 グエルは裕福層のための新興住宅地の計画をガウディに依頼する。それがグエル公園の位置する斜面地で、碁盤目状の都市計画のさらに北になる。
 ガウディとグエルは自然と芸術に囲まれて暮らせる画期的な住宅地を目ざし、1900年から建造が始まった。15万㎡の敷地に、60戸の分譲住宅と共同施設が予定されていた。しかし、その当時のバルセロナでは工業化を目指していて、自然と芸術に囲まれて暮らすという価値観が理解されなかった。複雑な分譲条件や旧市街、新市街からの交通の不便なども重なった。3棟が?完成した(2015年のメモ、1994年メモでは2棟完成し、グエルとガウディが買い取った)が、ほかに買い手が見つからず、1914年に工事は中断する。グエル没後、遺産は市に寄付され(または市が買い上げ)、未完の住宅地は公園として整備され、1922年に一般公開された。バルセロナ市民のみならず世界中から大勢が訪れる名所となり、1984年に世界遺産に登録された。

 バルセロナ市街は南東側が海、北西側が丘陵地で、グエル公園は丘陵地の中腹といった立地で、南東側の市街に向かって傾斜している(前々頁地図参照)。私たちは北側のゲートから入場した(写真1994)。2015年ツアーの印象では道路が拡幅され、駐車場も拡張して広々としていた。
 もともと丘陵地が樹木で覆われていたのであろうが、ガウディは植生にあった植樹を励行したらしい。グエルも賛成しただろうし、没後、寄贈された市が緑地整備を進めたであろうから、緑豊かな公園になっている(次頁上写真、北側から南斜面を見下ろす)。分譲住宅地として完成していれば、住んでいる人々は豊かな自然を満喫できたはずだ。
 ゲートから西に進むと、さっそく奇妙な風景に出くわす(中写真1994)。だいぶ前に読んだガウディの設計手法に、ガウディは自然の地形に従い、構築物には地の素材を用いることを原則にした、と書いてあった。
 写真は土留めを兼ねた通路で、上部は住宅地に住む人の駐車場予定地らしく、斜面を切り土して下には通路を設けている(下写真)。切り土した場合、石垣を積むのが一般であろう。ガウディも切り土で出た石を用いながら、擁壁も石柱も野積みとした。

 バルセロナの北西のジロナ県にかつて噴火したオロット火山Olotがあり、堅い火山岩が手に入るそうだ。あるいはバルセロナにも吹き飛んできたのかも知れない。擁壁や石柱の石はオロット火山の石で、情熱のたぎるような荒さを表している。
 傾斜地に重力が加われば、重力は外側へ押し出す斜めの力となる。斜めの力を支えるには、斜めの柱が適している。ガウディは構想を実現させるため、模型を作って検証したそうだ。だから外側の柱は斜めに傾いている。理にかなった構造である。
 加えて、中写真の柱の上部がロートを逆さまにした形になっている。これはヤシの成長のイメージといわれるが、人工構築物を自然環境に馴染ませるためのアイデアともいえる。ガウディの発想はとどまることを知らないようだ。続く

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1994サグラダ・ファミリアの紀行文=受難のファサード未完、生誕のファサードほぼ完成+工事用リフト

2017年07月19日 | 旅行

1994年ツアー2日目 受難のファサード 生誕のファサード 塔 完成予想図 枝の主日
 2015年10月31日・土曜、午後11時半ごろ、バルセロ・サンツホテルでビールを飲みながら、1994年ツアーの紀行文「サグラダ・ファミリア」の続きを読んでいる。
 1994年ツアーの続き・・写真は西正面の受難のファサードの未完の骨格である。ここに最後の晩餐、磔刑、埋葬、昇天などをテーマにした彫刻が飾られる予定である。私たちは受難のファサード側から入場した。受難のファサードの骨格を見ただけでも十分に圧倒される。未完とはいえ、ファサードには情念が満ちあふれている。
 受難のファサードの見学メモには、Ωオメガと縦横4マスのマス目に1-14-14-4、11-7-6-9、8-10-10-5、13-2-3-15の魔方陣の走り書きが残っていた。どこを見てメモしたか、記憶に残っていない。
 ギリシャ語の文字はアルファαで始まり、オメガΩで終わるそうで、キリスト教ではα-Ωを神が始まりであり終わりであると解釈するそうだ。ガウディか弟子か職人?がこの建物は神の住まいであることを表そうとしてα-Ωを彫り、それをガイドが紹介し、私がメモしたのだろうか。
 魔方陣とは縦に足し算しても横に足し算しても斜めに足し算しても、四隅の4マスを足し算しても・・ほかにまだあるかも知れない・・和が同じになるという数式である。1-14-14-4、11-7-6-9、8-10-10-5、13-2-3-15の和はいずれも33になる。33はイエスの生涯と一致するそうで、ガウディが後世に伝えようとした暗号であるとする説もある。暗号解読にも興味を引かれるが、どの場所に彫り込まれていたのか記憶にないから、次回のお楽しみにする。

 足もとに注意しながら、東正面の生誕のファサードに向かう。生誕のファサードを遠くから見ると、ただ凹凸で覆われているように感じた(次頁上写真)。しかし、近づいてみると、凹凸は植物をモチーフにした紋様で、植物の枝葉が幹から伸び出しているように、植物紋様が壁から浮き出ている。遠望したときはそれが単なる凹凸にしか見えなかった。その植物紋様がそれぞれ自由に伸びだしているためファサード全体としては左右対称に整っているわけではないが、枝葉が幹からどれだけ伸び出そうとも一本の木として脈絡をもってまとまっているように、自由に伸びている植物紋様は全体としてはバランスしている。

 バランスしているから安定感はあるが、表情全体は圧倒する迫力で迫ってくる。異様といっていい。

 すでに彫刻も完成していて、最上部に聖母マリアの戴冠(上写真上部)が彫られ、その下の上部に大天使ガブリエルによる受胎告知(上写真中ほど)、続く下にイエス生誕を祝い楽器を奏でる天使たちが飾られている(中写真左右)。それを支える柱の上はイエスを抱くマリアとヨセフの像である(中写真中ほど)。
 聖書のエピソードに詳しければ、もっと理解が深まったかも知れない。

 足もとに注意しながら工事用リフトに向かい、何人かのグループに分かれてリフトに乗った。12使徒を象徴する12本の塔は、受難のファサード側に4本、生誕のファサード側に4本立っている。栄光のファサード自体はまだ着工されておらず、塔も未着工である。記憶が曖昧だが、たぶんリフトは受難のファサード側の塔に沿って設けられていたようだ。リフトを上っていくと、塔の上部が間近になる。上部は彩りが鮮やかになり、それぞれの塔にexcelsisなどの文字が浮かび上がっている(下写真)。聖書にちなむ言葉のようだ。すべての塔には鐘が備えられ、荘厳なメロディを奏でることになるそうだ。リフトからは、はるか下にバルセロナの町が広がっている様子が見える。言い換えれば、サグラダ・ファミリアはバルセロナの町を抜きんでていることになる。その抜きんでた上方から鳴り響く鐘の音で、町中が荘厳な雰囲気に包まれるていく。それがガウディの狙いかも知れない。

 リフトを降りたあと、地下の資料展示室をのぞいた。ガウディのメモ?や模型?・・あとで弟子たちが記録したり、製作したのかも知れない・・、彫刻の断片?、建設用の道具?などが並んでいたようだが、壁に展示されていた完成予想外観と平面に吸い寄せられてしまった(写真)。まだ工事が進行していて、生誕のファサード、受難のファサードと8本の塔しか見ていないから、とても想像しきれない威容である。おそらくこれもガウディ直筆ではなく、弟子たちがガウディの言葉やスケッチ、模型をもとに推測したのであろう。弟子たちはガウディの構想を忠実に引き継いでいるだろうが、もしかするとガウディは弟子たちが構想を発展させることを期待していたのかも知れない。

 サグラダ・ファミリアの外に出た。サルデニャ通りに面して演壇が設けられていて、通りを人が埋め尽くしていた(写真)。人々は、正装ではないが、きちんとした身なりをしていて、子どもたちは大人の背丈ほどもあり、飾りのついた藁束のような枝を手にしている。キリスト教の祭儀らしい。あとで調べたら、イエス・キリストがエルサレムに入城したとき、人々がナツメヤシ(日本語訳聖書では棕櫚)の枝葉を道に敷き、あるいは手に持ってイエスを迎えたことを記念して、この日を受難の主日=枝の主日と呼んでいるそうだ。となると、子どもたちが持っているのはナツメヤシ(=日本ではシュロ)の枝葉ということになる。イエスは、エルサレム入城のあと最後の晩餐をし、受難、磔刑となり、そして復活する。
 復活に先立つ1週間が聖週間で、キリスト教徒には大事な祭儀となる。枝の主日は聖週間に先立つ祭儀という位置づけになり、このように大勢が集まってくるのであろう。日本では聖週間や枝の主日といった祭儀を目にする機会がないから、大勢がキリスト教の祭儀に集まっている様子を見るだけでも、スペインの人は敬虔なカトリック教徒であることがうかがえる。(1994.3現地)

 ・・略・・ バルセロナの起源は、伝説によればカルタゴ人がつくった町で、カルタゴが破れたあとローマ人が町を整備した。そのころの遺構が旧市街=ゴシック地区にいまも健在である。その後、西ゴート王国、ウマイヤ朝の支配下になり、801年フランク王国領になり、10世紀末に独立、11世紀カタルーニャ君主国となる。12世紀にはカタルーニャ・アラゴン連合王国となり、地中海に進出、海外に領土を保有して大いに栄えた。バルセロナは港町として繁栄したが、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合王国とカステーリャ王国が統一王朝となり、中心がマドリードに移って、バルセロナは次第に衰退する。19世紀の産業革命以後、繁栄が戻り市域が拡大したため、旧市街=ゴシック地区を残して、碁盤目状の都市計画が進められた。ホテルから見通しがいいのも碁盤目状の都市計画のお陰である。

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2006埼玉木の家設計コンペ・学生の部最優秀賞は木の座敷→木の土間→→庭→田園と空間が連続

2017年07月18日 | studywork

 2006「埼玉の木の家・設計コンペ」  埼玉県産木材利用推進

埼玉の木の家・設計コンペの狙い
 日本が木の国であったことには誰も異論がなかろう。つい最近まで、東京を始めとした都会でも木造住宅が一般であったし、いまでも地方には豊かな自然環境を背景とした木造の民家が地域性を形づくっている。
 あまりにも自然環境が豊かすぎると、樹木を始めとした自然環境は「自然」に維持されているように勘違いしてしまう。しかし、人が住めない原生林のように自然がそのまま維持されているところと違い、人里に近い山々は人が手を入れることで二次林としての自然環境が維持されてきた。
 日本書紀巻第一にも、素戔嗚尊が日本に優れた木がないことを残念がり、髭を投げて杉、胸毛を投げて桧、隠れ毛を投げて槙、眉毛を投げて楠とし、子ども 3 人に植林させた、とあり、日本の山が人手によって植林されてきたことをうかがわせる。
 埼玉にあっては、本多静六博士の造園、植林を忘れることができない。大宮の氷川公園、東京の日比谷公園を始め、各地で人々の憩いの場として親しまれている数多くの公園は氏の力によるものである。人が緑とかかわることで豊かな自然環境がつくりだされてきた、といっても過言ではない。
 しかし、いつの間にか、木のことが忘れられてきた。木の見えない生活があたりまえになってきた。一方で、木は「自然」に育つものといった誤解も人と木のかかわりを弱めている。埼玉から木が失われるといったい何が起きるか。まず土砂崩れが起きよう。降った雨は地表面を流れ落ちてしまい、豊かな清流を涵養することもできない。直接は目に見えないが、光合成でつくられる清涼な空気も消失し、二酸化炭素の急増で地球温暖化に拍車がかかる。木から発散される薬効成分も、木から得られるいやし効果も得られなくなる。身近にあったぬくもりのある木製品が消えてしまう。なにより、豊かな自然環境を背景にした住まいの原風景を失うことになる。
 言い換えれば、山々に木を植え、その木を積極的に活用することが、土砂災害を防ぎ、水源を涵養し、清涼な空気を供給し、地球温暖化を抑え、人々の心身をいやし、生活にぬくもりを与え、そして豊かな自然環境に囲まれた原風景を心に刻むことができるのである。
 埼玉県農林部では ・・略・・ 今年度は「JR 八高線沿線地域の里山など美しい田園景観に配慮し、県産木材を使った魅力ある田園住宅」へと継続された。
 ・・略・・
埼玉の木の家・設計コンペ審査経過
 今年度は広報、ホームページに加えて、建築系の雑誌にコンペ募集を紹介したこともあり、計 81 点の応募が全国から寄せられた。内訳は、学生の部 53 点、一般の部 28 点、都道府県別では、埼玉県 37 点、東京都 16 点、大阪府 6 点、石川県 5 点、千葉県 4 点、京都府 3 点、群馬県 2 点、神奈川・栃木・福島・岡山・広島・高知・佐賀・北海道各 1 点である。
 ・・略・・
学生の部:最優秀賞「命を吹き込む木の住まい」
 表現が絵画的であり、やや誇張しすぎだが、図面を通して感じる木の家に対する思い入れの強さが審査委員の心をとらえ、最優秀賞となった。イメージとしては八高線沿線の林が展開する田園の一角に、元もと育っていた木々と折り合うように部屋をはめ込んだ住まいといえる。これは課題の田園景観を見事にとらえている。おそらく、応募者の心象風景にこうした田園景観が息づいているのではないか。この田園景観のとらえ方は、プランの「木の座敷から→ 木の土間へ→ そして素足遊歩の間→さらに郷山の庭→田園の風景」へと空間が連続的に展開する気持ちよさに見事に結実している。プランの気持ちよさは、同時に、コンセプトでも指摘している②風をとらえるや③光をとらえるにもつながり、自然と折り合って暮らす田園地域のライフスタイルの提案となっている。木材利用のアイデアも、新しい工夫ではないが、純朴であるだけに説得力がある。こうした思い入れを持ち続けるとともに、プランをもっと注意深く練りあげ、空間を洗練させるよう研鑽されることを期待したい。(選評:I)

一般の部:最優秀賞「お気に入りのハナレをもつ田園住宅」
 この作品のパースや連続立面、断面図に描かれている背景の山並みや庭の立木が田園の風景にたたずむ住宅の心地よさを視覚的に表していて、審査委員の高い評価を得た。とくに、連続立面に表された景観は、低い母家と高見のハナレのさまざまなバリュエーションで構成され、田園地域の家並みモデルを分かりやすく示している。母家は、1.2 m間隔の木造構造部材で間取りが計画されていて、住宅規模、ライフスタイルに合わせて空間を可変させることができ、これが家並みのバリュエーションを裏付けている。また、リビングやデッキを東西方向に吹き放すことで、庭~室内~生垣~田園のように風景にとけ込んだ住まい方を提案している。この考え方は、母家からの景観を損なわないようにハナレを高くしたことに通じる。一方、高見のハナレからは普段と異なった景観が楽しめ、趣味など、非日常の生活に没頭できる仕掛けになっている。人生のゆとりを楽しむライフスタイルの提案である。しかし、30 代後半の夫婦二人の暮らしとしては現実味に欠ける。家族像の提案に踏み込んで欲しかった。(選評:I)
学生の部:優秀賞「日のあたる場所から」
 ・・略・・
学生の部:優秀賞「オオキナ木ノユカ」
 ・・略・・
一般の部:優秀賞「ちょっとだけ自然に恩返しできる家」
 ・・略・・

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2005埼玉木の家設計コンペ・学生の部最優秀賞は高校生の杉戸宿に残る古民家再生案

2017年07月17日 | studywork

2005 「埼玉の木の家設計コンペ」埼玉県産木材利用推進

 埼玉県産木材利用推進の一環として、2004年度埼玉県木づかい夢住宅デザイン事業「埼玉の木を使った家づくりの夢」に続き、2005年度は埼玉木の家デザイン事業「埼玉の木の家・設計コンペ」を募集することになった。建築設計を志す学生や木造住宅に興味を持つ一般の方を対象としたデザインコンペで、「埼玉県産木材を使用し木の良さを生かした木造住宅」が設計課題である。

 設計課題の趣旨は、「日本では古くから木材が主要な建築資材として使用されてきた。木で囲まれた生活は私たちにぬくもりや安らぎを与えてくれる。また、木材は地球温暖化の原因である二酸化炭素を閉じこめるとともに、森林で再生できる循環素材でもある。埼玉県産の木材を使うことは県内の森林の整備を促し、森林による水源涵養や土砂災害防止に有効で、大工、職人に伝承される木を使う匠の技を活かすことができる」ことである。
 埼玉県産木材の利用の観点からは、県西部の山岳丘陵地に広く分布する山林の特性や課題をいかに読み取るか、多様な県民のニーズを踏まえつつ家並みや景観をどのようにリードするか、木の良さ、木の家の魅力を県民に広くPRするにはどうしたらよいか、が問われてこよう。
 応募条件をそろえるため、家族構成を夫婦と子ども二人、敷地を南面道路で10×15mなどに設定したうえで、多様なアイデアを募るため、応募者が家族構成・敷地条件を自由に設定できるようにし、住宅形式も戸建てを原則としながらも、二世帯住宅、グループホーム、併用住宅、古民家再生、古材再利用などの提案も可とした。

・・略・・ 
学生の部最優秀賞「木の薫りが時を」  
 旧杉戸宿に残る、古い町並みの特徴である短冊形敷地に建つ古民家再生のアイデアである。古い町並み・古民家再生の着眼点に、応募者の力量を見つけることができる。それは、えいえいと日本人が築きあげてきた自然と住みあう暮らし方=住文化を素直に受け止め、再生住宅の基本にしていること、通り土間を現代的なだいどこに発展させていること、中庭=吹き抜けを介して1階の寝室、居間食事室、だいどこ、2階の東西の子ども部屋の視線が連結され、家族の輪=和をつくり出していること、土蔵づくり風の町屋を若々しい感覚で再生していることに表れている。町のいたるところに暮らしの記憶が刻み込まれた古い町並みは各地に数多く残る。町のたたずまいと暮らしの記憶を引継いだ民家再生は県民に馴染みやすいアイデアであり、秀逸な作品である。

学生の部優秀賞「Saiの家」
 この作品は木材の新たな可能性を追求したことが高く評価された。木材は繊維の束によって組織されているため、圧縮・引っ張りや曲げに強い。これは、熱加工して木材をカーブさせてもほとんど損なわれない。応募者はこの特性に着目し、これまでの住宅構法が木材を直線材として使っていることによる意匠の限界を、曲げ加工した木材使用による曲面の大空間をつくることで克服しようと試みている。さらに、住宅全体を間伐材を用いた格子やルーバーで覆い、柔らかな光で包まれた室内空間を演出しようとしている。曲げ加工材、格子、ルーバーによる外観も手際よくまとめられている。個室を1階におき、2階を南面採光の広々とした家族空間とした間取りも評価できる。階段動線・浴室まわり、1階と2階のつながりなどへの細心の配慮があればさらに良かった。

学生の部優秀賞「墨家~書道教室併用住宅~高床式と地下室のコラボレーション」
 応募者の思いが、墨家=すみか=住み処、墨=書道教室、墨=炭=活性化炭素のようにタイトルに込められている。いうまでもなく住み処は家族の生活の場であるが、既存の町並みには併用住宅も少なくない。応募者はこうした併用住宅を課題とし、ポーチを挟んで書道教室と住宅部分を分離させ、解決している。活性化炭素の効果は一般によく知られているが、応募者はこれを通風のための高床とした部分の束材塗布として用い、耐久性を高めようとしている。日本には、ベンガラのように耐久性の向上に加え、風格を醸しだす意匠として用いる技術があり、活性化炭素塗布もそうした可能性を追求しても良かったと思う。さらに燻煙乾燥法により杉材を乾燥させ、外装に使うアイデアも盛り込まれている。これによって外観の意匠性が高められている。アイデアがユニークなだけに、間取りの難点が惜しまれる。

一般の部最優秀賞「埼玉の木の家・設計コンペ(間伐材三方取りパネル)」
 良材を得るためには山林の間伐が必須であり、言い換えると間伐材の有効利用が良材を育てることにつながる。埼玉県の山林には桧・杉が多い。間伐材は成長段階の木材であり、強度や大きさは成木に比べ劣る。そこで、応募者は桧の間伐材の三方を加工してパネル化し、外壁材として利用することを提案した。外装材とすることで耐力不足は解決され、さらに間伐材を一本おきに間引きするパネルを併用することで、採光・通風を確保し、変化のある外観をつくり出している。応募者は、間伐材パネルを道路側の塀や門扉にも使うことで住宅の外観との調和をつくり出し、隣地の塀・門扉にも連続して使うことで家並み景観を整える効果も提案している。自然共生への配慮や手堅くまとめられた間取りは高く評価できる。ただ1点、南側採光への工夫が惜しまれる。

一般の部優秀賞「創造@910」
 910mm=3尺は日本の伝統的なモジュールであり、建築にかかわる部材・製品は910を寸法体系の基準にしてきた。応募者は、この910を基準にした住宅であれば、主要な部分を大工さんなど専門職人に頼み、住み手が自分でできるところを作るといった分業ができるはずであり、自分で作ることを通して木に触れ、木に親しみ、ひいては木材活用につながると提案する。その例として、キッチンカウンター、オープンデッキ、床下収納、バルコニーの造り方を分かりやすく図解している。こうした例を通して木の性質に馴染めば、住み続けるあいだに必ず起きる補修や簡単な増改築にも挑戦できるようになる、と思う。そして、そのことが住まいへの愛着を育て上げ、家族総出の共同作業が家族の輪を強めることにも発展しよう。間取りもよくまとめられている。ダイニングキッチン上部の吹き抜けもいい。主動線となるらせん階段、鋼板外壁は再検討を期したい。

一般の部優秀賞「木格子の家」
 間伐材については前述した。応募者は杉の間伐材に着目し、木格子として活用するアイデアを提案している。小さい敷地の欠点をカバーするために中庭をとり、採光・通風を工夫したうえで、南道路側の塀・門扉から駐車場を兼ねた南庭を囲む西側の塀、さらに南庭・中庭の上部の覆いに、木格子あるいは市松状にくりぬいた格子を用いている。これによりプライバシーを守るとともに、強い日差しを和らげている。間取りや外観も無理なくまとめ上げているが、木格子の活用を住宅外観、さらには家並みの景観に及ぶ配慮があればさらによかった。

一般の部審査員特別賞「埼玉の木材を使用した100年、200年住宅」
 タイトルにあるように、応募者のアイデアは耐震性、耐久性に優れた100年200年住宅にある。振り返ってみれば、かつての日本の伝統的な民家は100年200年に十分耐えられる強さを持っていた。適切な補修を重ね、時代の変化に応じた改修、増改築を加え、住み続けられていて、今も多くの古民家が残されている。応募者は、50cm角の大黒柱を中心に立て、四隅に耐力壁を配置した構造により耐震性を高め、2階床を吊り構造とすることで間取りの可変性をつくり出している。100年200年住宅のアイデアに富んだ作品だが、間取りの欠点や表現の粗さで審査員特別賞となった。

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平岩弓枝著「青の伝説」はスリランカ・キャンディの殺人に始まり、水死+行方不明が続き、シシリー島で幕

2017年07月16日 | 斜読

book445 青の伝説 平岩弓枝 講談社文庫 1988  (斜読・日本の作家一覧)
 スリランカを舞台にした本を探して見つけた。平岩弓枝氏(1932-)著の足利義満をテーマにした「獅子の座」(b241)を読んでいるし御宿かわせみのイメージが強いから、海外を舞台にした本も書いていると思わなかった。
 氏が50代の1985年に出版されたこの本はスリランカの古都キャンディを皮切りに、ニューヨークに舞台が変わり、日本でも殺人が起き、シシリー島で幕が下りる展開で、世界を縦断する物語になっている。氏の国際感覚に脱帽である。
 ただし、この本に限ってはあまりにも安易で無残な殺人が多すぎる。結末も心に傷を残した終わり方になっている。私の好みではない。殺人に正当性などないことは重々承知しているが、それでも社会正義とか自分や家族や愛する人を守るためとか、やむにやまれぬ背景のため武器を取るといった話にして欲しかった。

 話は、スリランカの古都、シンハラ王朝最後の都であるキャンディの駅に近い通りで起きた殺人から始まる・・あとで被害者はバンコク在住の華僑と分かる・・。
 主役の一人は、新婚間もない外交官夫人の三好=旧姓有沢浩子である。夫の和彦は前任地のインドからスリランカの日本大使館に赴任し、新婚の妻を上司から借りたベンツで観光中で、その途中で殺人事件が起きる。

 浩子は、仏陀の歯を祀っている仏歯寺参観のときと、一人で象の顔をした神像ガネーシャを買うとき、日本語の巧みな人・・あとで和気良太と分かる・・に出会う。
 和彦の運転するベンツは、キャンディから北のハバナラに向かう途中、大雨でぬかるみにはまり動けなくなる。通りかかった和気良太が二人をハバナラに送ってくれる。
 翌日、和彦は修理屋と車の故障現場に向かう。その間、浩子は和気良太の案内で世界遺産に登録されているシギリヤロックの観光に出かける。そこで、キャンディでも同じホテルだった静岡からの僧侶のグループと出会う。

 浩子がシギリヤロックからホテルに戻っても和彦が帰ってこない。修理屋は偽物だったことが分かり、やがてポロンナルワで水死していた和彦が見つかる。ベンツはホテルに置いてあったがガネーシャは消えていた。
 浩子の兄彰一は警察庁国際刑事課に所属していて、コロンボに家族とともに駆けつける。火葬のあとも和彦水死の手がかりを探そうと、浩子とともにコロンボに残る。浩子は、ハバナラのコテージの向かいに泊まっていた日本人らしい男を思い出す。彰一の聞き取りで、男はニューヨーク在住の華僑、楊子春と分かる。
 彰一と同期の婦人警官小出玲子は、結婚後退職し夫とともにワシントンには住んでいる。玲子の妹佐知子も婦人警官で国際刑事課に属し、彰一と恋仲である。彰一が手がかりを探しにニューヨークに来るので、玲子が応援に駆けつけた。
 二人はチャイナタウンの楊子春の店を見つけるが、女が応対し・・あとでシンシアと分かる・・楊子春は不在という。翌日訪ねると、楊子春は殺されていた。

 舞台は浅草に変わり、実家に戻った浩子を和気良太が訪ねてくる・・やがて二人は恋仲になっていく・・。和彦の遺品のなかに「宝石物語」という原稿があった。どうやら和彦はインド赴任中に宝石にかかわったらしい。
 さらに、静岡の僧侶のグループの一人森田光照がバンコクに出かけたまま行方不明になっていることが分かる。その僧侶には小料理屋を営む女きみ子がいて、スリランカの旅行に同行していた。
 浩子はきみ子に会って聞いたところでは、スリランカ旅行中に森田は楊子春からガネーシャを預かり、日本に帰国後、バンコクの楊にガネーシャを届けに行ったまま行方不明なったそうだ。ほどなくしてきみ子が殺される。物色のあとはないが、スリランカ旅行の写真の一部が消えていた。
 彰一は不審に思い、担当刑事荒木忠人にこれまでの経緯を伝え、慎重な捜査を依頼する。話が飛んで、荒木はほかのスリランカ旅行参加者の写真と照合し、どんな写真が消えたか調べているうち消息不明となる。

 ニューヨークに舞台が変わる。和気良太がティファニーで浩子のための宝石を見ているとき、研修で来ていた小出佐知子に出会う。前後するが、小出玲子の夫の友人がロングアイランドにバケイションハウスを買ったので玲子夫妻が招待され、そこで玲子は偶然にもシンシアを見つける。
 シンシアについて調べていたら、日本語の上手なシンシアの夫に招かれる・・。話が途切れて、玲子が帰ってこないと夫から電話をもらった佐知子はロングアイランドに駆けつけ、二人で玲子を探しに出かける・・。やがて玲子夫妻、佐知子の溺死体が見つかる。彰一が駆けつけるが、手がかりはない。

 話は浩子に戻る。浩子は和気良太とベッドをともにする仲になっていった。一方、彰一はスリランカで和彦の秘密と一連の事件の背景を知ったらしい。スリランカから浩子に電話すると、母が、和気良太を追ってシシリー島に出かけたと伝える。彰一は浩子を救うために、死を覚悟しシシリー島に向かう。
 シシリー島で全容が明かされて幕となるが、やはり幕の降ろし方は私好みではない。正義は勝ち、悪には鉄槌を降ろした方がいい、と思う。

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