yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

乾いた大地ペルシャを支えた地下水路カナート

2015年06月05日 | 旅行

 2002年9月、まだ政情が穏やかだったころ、イランを旅した。その初報が出てきたので転載する。続報は棚上げのままになっている。2004年のイタリア紀行もまだ終わらないし、ほかの旅日記も残したままだが、いつか乾いた大地に映える鮮やかなイスラム寺院を紹介したい。
異文化の旅 イランを行く 2002-1 乾いた大地へ
 大ざっぱな行程は、9.9/→イランの首都・テヘラン
9.10/テヘラン=宮殿博物館・カーペット博物館・ガラス博物館→アフワーズ
9.11/アフワーズ=古代都市遺跡チョーガザンビル→イスファハン=ザーヤンデ川の橋
9.12/イスファハン=チェヘルソトーン宮殿・イマーム広場・シェイクロトフォラー・アリカプ宮殿
9.13/イスファハン=バンク教会・金曜モスク→シラーズ
9.14/シラーズ=古代遺跡ペルセポリス・ナグシェロスタム・エラムガーデン→テヘラン
9.15/テヘラン=宝物博物館・考古学博物館→9.16/成田着  である。
 強烈な印象はどこも乾ききっていることだ。そもそも国土の大半は標高1000m~1500mのイラン高原で、国土の1/3は居住に適さないといわれる。
 居住に適さないのに歴史で習ったようにペルシャの大国が栄えたのは、文明の十字路といわれるように、交易路の要に位置していたことによろう。
 人間が生きていくためには水が不可欠だ。水はどうしたか。イランの北にはエルボルズ山脈、西にザクロス山脈が連なる。標高は3000m~5000mあり、この山脈の雪解け水が伏流水となり、オアシスが生まれ、交易路が発展した。ペルシャ人は、人工的に地下水路を掘削し、雪解け水をオアシスに導いて安定した水供給を行うことに成功した。カナートと呼ばれる。この技法が西は北アフリカのカレーズ、東は中国西部のカレーチンなどとして各地に伝わっていった。
 シラーズではその原形を見学した。大地は乾ききり、気温は30°をはるかに超えていても、地下に下りると雪解け水の冷涼な空気があふれ、とても居心地がよかった。
 その豊かな水でイスファハンなどの都が栄えた。交易路を介してさまざまな物資が集まる。広大なイマーム広場をぐるりと囲んで市が並ぶ。その富をもとに陽光にきらめくイスラミックタイルで飾られたマスジッド・ジャーメ(=イスラム寺院)が建てられた。
 マスジッド・ジャーメのドームは二重構造で、祈りを捧げるとこだまする。文明の十字路では技術も進化する。
 歴史は、豊かであれば富を狙った戦いが起きることを立証している。
 いつか紀行文を書く予定。ご期待を。

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2002年夏休み「子供建築学校」

2015年06月03日 | studywork

 春日部市都市計画課のKさん(当時)から誘われて、2001年に続いて春日部市豊春地区公民館で開催される子供建築学校に参加した。
 狙いは子どものころからまちづくり、住まいづくりに関心を持ってもらうことであるが、私は加えて異文化への目も養いたいと考えた。2001年は「世界の住まい七不思議」として画像を流しながら日本では想像できない不思議な住まいを紹介した。
 2002年は、子どもたちが手を使い、実際に模型をつくることで、不思議さを実感してもらおうと、中国の地下住居ヤオトンと土造の円形土楼住居を取り上げ、「不思議な住まい」と題して、模型づくりに挑戦した。
 参加した子どもは小6が3名、小5が7名、小3が13名、二グループに分かれてヤオトンと土楼住居に挑んだ。9時半開始、おおよそ2時間で、みごと完成である。
 感想の一部を転載する。皆さん、楽しみながら不思議な住まいを理解してくれたようだ。反省も少なくないと思っていたが、感想を読む限り、おおむね成功といえよう。

 「今日は、ヤオトンという家のもけいをつくってびっくりした事は、地面に穴をあけてつくる事です。なんかみんなで、でっかいのを作るのもいいと思うけど、私てきには1人か2人で小さくてもいいからつくりたかったです。そうすればたっせい感がでるし・・・でもおもしろかったです。(6年・Mさん)」
 「中国の住居のしくみと作り方が良く分かった。円形土楼住居は、部屋がふきぬけで、大家族みたいだなと思った。中国の家は戦いにそなえて作られていた。でも、本物の大きさの住居を作るとなると、とても時間がかかると思った。家作りにはどんな材料を作る時に使ったのか?などの疑問も出てきて、今度調べてみようと思った(6年・I君)」
 「さいしょはむずかしかったけど、だんだんなれてきました。ねんどでにんげんなどを作りました。小さく作ったので、すこしむずかしかったです。でも、とっても楽しかったです。(3年・Aさん)」
 「中国の人がすんでいる家がよく分かったり、ダンボールでかべやゆかを作って楽しかった。またきたいです。(3年・S君)」

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イタリア紀行2004-29 海の都ヴェネツィア、まずはサン・マルコ広場

2015年06月01日 | 旅行

イタリア紀行2004-29 イタリア4日~5日目 大運河 サン・マルコ広場 サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 サン・マルコ広場の洪水対策
 
 2004年3月12日金曜、夜、私たちの乗った水上バスは、ヴェネツィア・サンタルチア駅そばの船着き場から勢いよく進み、すぐに大運河グランドキャナルに入った。大運河は大きなS字を描いてヴェネツィア本島を二分していて、さらに150を超えるといわれる小さな運河が縦横に通っているので、ヴェネツィア本島は180に近い島で構成されているそうだ。
 夜陰ではっきりしないが、大運河には邸宅、居館が並んでいるようで、ときおり窓から漏れる灯りに華やかな住まいが浮かび上がる。
 やがて細い水路に入り、じきにホテルの船着き場に止まった。まだスーツケースは届いていないので、そのまま運河沿いを歩いて近くのレストランに行き、シーフードと白ワインを楽しんだ。
 食事を終えたのは9時半頃だったが、サン・マルコ広場が近いのでホテルを通り過ぎ、細い路地をサン・マルコ広場の表示に従って歩いて行ったら、突然視界が開けた。
 サン・マルコ広場は奥行きが160mほどもあり、周りをぐるりと居館が囲んでいて、居館の灯りで広場が照らされているので、巨大な中庭に佇んでいるように感じる。
 夜陰のサン・マルコ大聖堂は異国情緒を漂わせて幻想的だった。大聖堂の前を通り、波の音に向かって歩くと、大運河の埠頭に出る。係留されている船が揺らめいている。1000年の海の都ヴェネツィアに来た、と思うと身震いが出る。冷え込んできたせいかもしれない。来たときの路地を戻り、ホテルに帰った。

 2004年3月13日土曜の朝食前にサン・マルコ広場に向かった。途中で道を変えたが海に向かっていたら大運河に出た。向こう岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂が朝靄に姿を現している。ファサードは端正である。再建時はルネサンス後期になるが、清貧をモットーとするヴェネディクト会の精神を表したのかも知れない。
 大運河沿いを歩いてサン・マルコ広場に出た。昨日は気づかなかったが、広場には洪水対策のパネルが並んでいた。地盤沈下も進んでいて、しばしば2mを超える洪水に襲われているのは予習で知っていた。幸い3月は水位が低く洪水の心配はないが、2mの洪水が来たら、観光はもちろん、日常の生活にも支障が出る。パネルの排水対策を期待したい。
 続く
 

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