「イタリア紀行2004-19 イタリア3日 ピサ大聖堂 ガリレオ・ガリレイ 斜塔」
バスはアルノ川を渡った。地図を見ると海は下流の10kmほど先まで後退している。かつては橋の近くに港があり、このあたりは交易船でにぎわったはずだ。アルノ川をさかのぼればおよそ100kmでフィレンツェである。フィレンツェも交易と金融で栄えたから、アルノ川の航行権を巡ってピサとフィレンツェが争ったのもうなずける。
ほどなくピサ大聖堂Duomoに着いた。洗礼堂+大聖堂+斜塔が手招きしているように感じる(写真)。ピサの斜塔はあまりにも有名だが、ここからは意外と小さく見える。大聖堂の前でガイドの説明を聞いたあと、自由時間となった。
学校教育では、ピサの斜塔でガリレオ・ガリレイ(ピサ生まれ、1564-1642)が落体の法則を発見した、と習った記憶がある。確か、斜塔の上から重さの違う球を同時に落としたところ・・それまで、重い方が早く落下し、軽い方が遅れて落下すると考えられていたが・・なんと同時に着地した、つまりは物体が落下する速さは重さと無関係である、これを落体の法則という、のを習ったと思う。
実際にその現場を見たいと思うと、ついつい小走りになる。ところがなんと無情にも、斜塔のチケット売り場がちょうど閉まってしまった。係員たちは大きな声で談笑していたから、「5時にまだ数分ある!、日本から来た!」などと言ったが、聞く耳を持たず、あっけらかんとしておしゃべりに花を咲かせていた。
これがイタリア式なのであろう。自分が終わろうと思った時間が終了時間になるらしい。目の前には少し前に入場でき、楽しそうに斜塔の階段を上っていく観光客が見えているから、なおさら未練が残る。仕方ない。次回のお楽しみにしよう・・2015年の情報ではライトアップされ、遅い時間まで見学できるそうで、しかもインターネット予約ができるらしい・・。
ちなみにガリレオ・ガリレイの実験は後世の作り話らしい。ガリレオの実験は斜めに置いたレールの上で重さの異なる球を転がして調べたそうだ。ただし、そのヒントとなったのは斜塔の中に下がっていたシャンデリアか香炉が揺れるとき、小さな揺れでも大きな揺れでも往復の時間は変わらないのを見つけたことだそうだから、作り話でも大同小異といえなくない。
ついでながらガリレオは優れた天文学者でもあり、天体観測を元に1500年末には地動説を唱えていた。のちに解説書も書いている。ところが、天動説を教義とするカトリック教会から1633年に有罪判決を受けてしまう。
自宅に帰されず軟禁され、死後もカトリック教徒としての埋葬が許されなかった、というから聖職者たちの思考が完全に閉塞していたようだ。埋葬許可が下りたのは1737年、なんと90年後で、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。真実を見つけた科学者の悲劇である。
ピサの斜塔Torre di Pisaを見上げる(写真)。最上階には見学者の姿が見える。羨ましいが、入口扉付近には入り損なった人が私と同じように上を見上げているから気を取り直して資料を読む。
海洋貿易の絶頂期のさなか、ドゥオーモに続いて1173年に鐘楼となるこの塔が着工された。もともとこのあたりはアルノ川、セルキオ川の流域だから地盤が悪かったはずだ。
資料には土台の深さは3mほどあると書かれている。この土台の上に大理石で、直径17mほどの塔の建設が始まった。3層目=およそ10mまで出来上がった1185年、軟弱地盤が不等沈下を起こし、塔が傾きだした。いったん工事が中断されたが修復法が分からないため?、4層目の中心軸を修正して工事が再開された。しかし、土台の根本的な修正が行われていないため、傾きを止めることができず、層を重ねるごとに中心軸を修正しながら工事が進められたらしい。
古代ローマ人の技術力はどこに行ってしまったのか?。強大な海軍+海洋貿易のため造船技術は卓越したのであろうが、土木技術が忘れられたのかも知れない。傾きが進んでいるなかでの工事だったため、当初の予定の高さ100m?を断念し、1372年、およそ55m=8層で工事は完了した。内部は、重量を軽減するため?、直径7.7mの空洞になっているそうだ。
外観は、すべて白大理石で、ロマネスク様式を基調とした細身の円柱が小さな半円アーチをのせて回廊に並んでいて、優美さをつくり出している。地盤沈下がなければ倍の100mほどの高さになったはずだからさぞやピサ人の自慢の種になったと思うが、55mでも斜塔のゆえに世界に知られたのだから、ピサの現代人は危険を顧みず斜塔を作り上げた先人に感謝すべきだろう。
斜塔は鐘楼としての役割があったが、鐘を鳴らすと振動?、共鳴?で傾きが増すかも知れないため鳴らされていないそうだ。さらに言えば、鐘楼なら大聖堂に付属して建てられていいはずだが、大聖堂とは少し離れている。その理由は資料には書かれていない。もし大聖堂に付属して塔が建てられていたら、塔の傾きで大聖堂に被害が出ただろうから、離して建てたのが幸いしたともいえる。
斜塔をあとにして、ピサ大聖堂Catterale de Pisaに向かった。大聖堂の着工は斜塔に110年先立つ1063年で、海洋貿易の利権を巡ってサラセン軍と戦い、大勝利した記念として計画された。資金は戦利品のおかげで潤沢であり、勝利記念でもあるから、壮大な大聖堂が目指された。平面をラテン十字プランとし、東西は100m,南北は72mにも及ぶ。
堂内は身廊の南北に2列ずつの側廊のある5廊で、翼廊も3廊あるからやはり大げさなプランである。交叉部のドームの高さもおよそ51mで、ピサの勢いを誇示している。1118年に完成するが、1261~72年に改修などの第2期工事が行われ、いまの形となった。
外観はロマネスク様式で一見すると簡素だが、よく見ると繊細に仕上げてあり、華やかさを感じさせる(写真)。たとえば、西側正面ファサードの下層は7つの半円アーチが繰り返され、両側から一つおきのアーチ壁を閉じ、中央から一つおきが扉口となっていて、リズミカルである。ファサードの上層は、2層目を幅広の長方形、3層目を台形、4層目は短い長方形、5層目を三角形として圧迫感を軽減しながら、ファサード側の開廊に細身の円柱と小さな半円アーチを並べて小気味のいいリズム感を出している。外装の大理石は微妙に色合いが異なっていて、水平性が強調されていることも軽快感をつくり出している。
堂内は、4層目から射し込む日射しで、ロマネスク様式にしては明るい(写真)。屋根を支えるヴォールト構造の進化で、窓を大きくすることができたようだ。5廊にしたことで荷重を分担する円柱が増えたことや、外周に半円アーチの円柱を並べたことで壁を薄くできたことも窓を大きくできた要因であろう・・ゴシック様式は間近であることを感じさせる。
後陣の丸天井にはイエス・キリストとその左右に立つ聖母マリア、洗礼者ヨハネのモザイク画が描かれている。これは13世紀、第2期工事のころに描かれたらしい。交叉部のドーム下、左手にジョバンニ・ピサーノ(1250?-1315)作の説教壇がある(上写真左手)。
1311年ごろの完成だから、シエナ大聖堂のファサードの工匠頭(1287-1296)を終えたあとになる。その少し前にはピサーノ親子がピサで彫像の製作をしていたから・・このときはピサーノに疎くて彫像を見逃している・・、シエナ大聖堂の出来映えを伝え聞き、第2期工事をで改修を加えたのかも知れない。
大聖堂の西には白亜のサン・ジョヴァンニ洗礼堂Battistero di San Giovanniが建つ(写真左)。1153年にロマネスク様式で着工、14世紀にゴシック様式で完成したそうだ。が、集合時間になった。これも次のお楽しみである。 (2015.2)
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