2015.12.7 スペインを行く5 スペイン広場 ドン・キホーテ セルバンテス /2015.11記
2015年10月、スペイン3日目、私たちの泊まっているホテルはアトーチャ駅、ソフィア王妃芸術センターのすぐそばで、少し北にプラド美術館、さらに北にアルカラ門がある。このあたりはもともと緑地、牧草地で、16世紀、フェリペ3世(ハプスブルク家)のと記に開発され、18世紀、カルロス3世(ボルボン朝=ブルボン朝)のときにいまに残る形で改造されたそうだ。
スペイン・ハプスブルク家は、狂女フアナがハプスブルク家・フィリップと結婚し、カルロス1世(スペイン王)=カール5世(神聖ローマ皇帝)が生まれたことに始まるが、17世紀末にハプスブルク家が断絶したことから、政略結婚でハプスブルク家の血筋を引くフランス・ブルボン朝=ボルボン朝(スペイン)フェリペ5世がスペイン王に就く。
マドリッドの都市の形からもスペインの歴史がかいま見える。
朝一番の見学は、スペイン広場の「ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像」である。「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」は、1605年に出版されたミゲル・デ・セルバンテスの小説である。
セルバンテスは子どものころから読書好きだったらしい。文学の才があったようだが、家が貧しかったようで、スペイン海軍に入隊する。訓練を終える?ころ、スペイン艦隊はヴェネツィア軍、教皇軍、マルタ騎士団とともに、オスマン帝国軍との戦いに突入する。レパント沖での海戦で、結果的には連合軍が勝利するが、セルバンテスはオスマン軍の弾を浴び、負傷する。左腕の自由がきかなくなったそうだ。
不幸は重なり、帰還するセルバンテスを乗せた船が海賊船に襲われ、セルバンテスは捕虜としてアルジェリアに囚われてしまう。貧乏のため身代金を払えないセルバンテスは、脱走を試み、失敗し、また脱走し、また失敗し、5回試みた脱走はすべて失敗する。
あわやというところで救われ、帰国し、海軍の食糧調達係となる。ところが、スペイン艦隊がイギリス艦隊に敗れ、またも失職、次に税金を集める徴税史となる。不幸はさらに重なり、集めた税金を預けた銀行が倒産し、その負債のためにセビーリャの監獄に囚われてしまう。
塞翁が馬、このときにいままでの艱難辛苦を盛り込んだドン・キホーテを構想し、出獄後に出版したところ大変な評判になる。ところが不幸にも、生活苦のため版権を安く売ってしまったので、本はどんどん売れたが、セルバンテスの生活は相変わらず苦しかったそうだ。
生活苦にもめげず、のちにセルバンテス通りと名づけられた通りの借家で創作活動を続け、69才で、波瀾万丈の人生を終える。
「ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像」の後ろには、椅子に腰掛けたセルバンテスの像が飾られている。子どものころドン・キホーテを読んだが、セルバンテスの人生は小説よりも数奇な運命だったようだ。