よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)歩いています。2日目(古賀茶屋(久留米市)~羽犬塚(筑後市))

2021-05-22 05:12:37 | 薩摩街道(豊前街道)

5/19(水)薩摩街道(豊前街道)2日目  梅雨の真っ最中ですが、今日は梅雨の晴れ間、自宅を7時に出発し電車を乗換しながら前回ゴール古賀茶屋に8:27到着しました。

古賀茶屋駅から北野天満宮下宮を通り、筑後川に向け歩きます。

  

筑後川にかかる神代(くましろ)橋近くに神代浮橋の碑があるそうですが、見つけられませんでした。

 

説明文によると、文永11年(1274)蒙古軍撃退の為、鎌倉幕府の執権北条時宗の命を受け、薩摩・大隅・日向・肥後勢が博多に北上していた。その際、高良大社の一族で当地を管理していた

神代良忠が九州最大の難所といわれた筑後川に舟を浮かべ(船橋)通行を手助けしたことで、軍勢は速やかに博多に趣くことができたという。「高良大社所蔵文書」には、その功績を記した

幕府感謝状の写しがある。尚、神代の名が初めて登場するのは平安期に編纂された「和名抄」。古来よりこの地は南九州諸国と大宰府や京都方面との交通において筑後川の重要な渡河地点で

あったとされる。室町末期には、薩摩坊津(現南さつま市坊津町)を起点とする坊津街道に「神代船渡し」の名が見られ、江戸期に入ると、鹿児島・人吉・熊本・柳川・島原といった諸藩は、

参勤交代の折にここで船渡をし、八丁峠、冷水峠を通って小倉に向かっていた。

  

神代橋を渡ると「神代天満宮」があります。これは、菅原道真公が水田の郷より北野へ帰還、筑水の辺り神代天満宮の所在地にて沐浴されたという。故に村民一同この地に天満宮を建て

当地の産神とした。それ故神代天満宮を見浴びの天満宮という。

野口、旗崎交差点を過ぎ九州道の高架下を通ります。

  

久大本線の踏切を過ぎると左側に「山川招魂社」があります。明治2年(1872)久留米藩主有馬頼咸公の命により創建されました。高山彦九郎、真木和泉守、稲次正訓を始めとして、明治維新の大業に身を捧げた久留米藩士たちをお祀りしたのが始まりで、明治以降の戦役で命を落とされた旧久留米藩領出身者の御英霊もお祀りしています。

 

久留米市府中宿は、良山中学校前信号からが「北構口」です。

  

府中宿は、高良山の門前町で、坊津(薩摩)街道、日田街道、柳川往還が合流する重要な宿場町でした。府中の名は、筑後国国府が7世紀前半から鎌倉時代が始まるまでの約500年間あったことに

由来しています。宿場には、庄屋、横目という役人と往還筋の町並みを世話する町別当がいて、これら双方が宿駅の行政全般を取り仕切っていました。この支配下で実務にあたる人馬問屋場があり、

問屋役がいました。更にこの下に馬や人足を差配する問屋場役人がいました。問屋場には、通行人を継送するための人足15人、馬10疋、駕籠10挺が常備されていました。

町には、上・中・下町の3つに分かれ、上町には広手があり、ここから東へは高良社、西へは久留米城下につながっていました。

府中本陣は、御井小学校の正門の坂を登り切った所にありました。

  

 

街道の方に戻ります。府中宿には、16軒の旅籠がありました。

  

   

高良下宮社

 

下町で最も古い300年以上の歴史を持つ大鍋屋(青柳家)。鬼瓦や漆喰のコテ絵が美しく映えます。

  

  

 

  

矢取の信号を直進します。左側には、久留米信愛学院中・高・短大があります。つい先日まで信愛女学院でしたが、平成31年に共学になりました。

女優の吉田羊さん、高校1年迄でしたが、歌手の松田聖子さんが通われていました。

信愛学院の先の高牟礼市民センターの所に「久留米藩鋳造所跡」があります。

説明書によると、「「からくり儀右衛門」として親しまれている「田中久重」は寛政11年(1799)通町10丁目に生まれました。幼い頃から才能を発揮し、文政2年(1819)から天保3年(1832)

頃までの五穀神社の祭礼では、水からくりなど新しい仕掛けを次々と考案し、大変な評判を呼びました。この間九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により全国に

知られるようになりました。

天保5年(1834)には、大阪・伏見に移り、懐中燭台・無尽灯などを考案し、後に京都へ移り天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学び、嘉永4年(1851)には、当時の時計の最高傑作

「万年自鳴鐘」を完成させました。嘉永6年(1853)、佐賀藩精錬方に招かれ蒸気船・銃砲の製作などを行い、元治元年(1864)には、久留米藩に帰り、藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、

この石碑が建つ裏山に藩鋳造所を設けました。ここでアームストロング砲を鋳造し、ここから約3000m先の飛岳に向けて大砲が試射されたところです。

久重は明治14年(1881)に亡くなりましたが、優れた発明の数々により、日本の近代技術の発展に貢献しました。」

久重75歳の時、政府の要請を受け東京に移り、銀座に電信機などのメーカーとして「田中製作所」を開きました。これが、現在の「東芝」です。

  

先を進みます。下川原橋を渡ると街道は、自衛隊久留米駐屯地を左に大きくカーブします。(元々は自衛隊の中を街道が通っていたのではないかな?)

 

長閑な道に出ると正面に仮囲いをした大きな建物が見えてきました。(マンションの工事中かな?)

 

浦山公園が最初の休憩地です。浦山公園は、4つのため池や自然林を生かして整備された公園です。横には、5世紀後半の前方後円墳の浦山古墳があります。

 

 

浦山公園を下りていくと太鼓の音が聞こえてきました。その音の方に向かうと、ここは、成田山久留米です。

久留米成田山は、昭和33年(1958)に身代わり不動尊で全国的に知られている千葉県成田市の新勝寺から御分霊を勧請し、浦山古墳に隣接した現在地に開山された直系分院です。

 

マンションみたいに見えたものは、「久留米成田山母子大観音像」でした。

62mの高さ日本一を誇る母子大観音像は、現在お色直しの真っ最中でした。工事中でなければこの大きな母子大観音像がみられたのですが・・・・・

  

国道3号線二軒茶屋の交差点に差し掛かりました。二軒茶屋というと、昔、ここに茶店が2軒あったのでしょうか?

街道は、二軒茶屋から上津小学校を通ります。ここから緩やかではありますが、上りです。

 

上津小学校から緩やかではありますが、長い上り坂です。この先は、自衛隊高良台の演習場になっています。時々自衛隊の車両とすれ違いますが、道幅も狭く避けていきます。

 

途中道を間違えながらようやく抜けました。

 

国道209号線の永代橋に永代橋橋脚跡と茶屋跡があるとガイドブックに書かれていますが、見つけることが出来ませんでした。

  

筑後市に入ってきました。民家に「原田万吉生家」があります。調べてみると植物学者だそうです。

  

秋葉神社が左側にあります。時間も12時を過ぎましたのでここで休憩します。

  

休憩後再スタート。

 

  

羽犬塚上町あたりが「羽犬塚宿」の北構口です。社日神社には、種田山頭火の歌碑が立っています。昭和5年(1930)12月に羽犬塚に滞在しています。

羽犬塚には、山頭火の歌碑が4か所立っています。そのうちの一つ、社日神社の所には、「お経あげて お米もろうて もず鳴いて」。

ここには、山頭火が滞在した木賃宿「喜楽屋」がありました。

羽犬塚の地名の由来となった「羽犬」の塚がある「宗岳寺」に行ってみました。

 

羽犬塚(はいぬづか)という地名にもなり、JR鹿児島本線の駅名にもなっている羽犬伝説。この羽犬伝説には、2種類の話が伝わっています。

●ひとつは悪い犬バージョンで、昔この地に羽の生えた犬がいたというものです。この羽の生えた犬は性質が荒く乱暴で、家畜や旅人を襲うため、地元の民たちから大変恐れられていました。

天正15年(1587年)、島津氏討伐のため九州に遠征した豊臣秀吉は羽犬に行く手を阻まれ、やっとの思いでこれを退治。秀吉は羽犬の強さと賢さに感心し、塚を作って弔ったといいます。

●もうひとつは愛犬バージョンで、秀吉が九州遠征の際に羽が生えたように跳び回る犬を連れていたというものです。残念ながらその犬は病気にかかり死んでしまいます。

犬を大変かわいがっていた秀吉は非常に悲しみ、家来たちが見かねて犬の塚を建てたという伝説です。

 

羽犬塚小学校には、羽犬の銅像が建っています。

 

羽犬塚小学校の所には、「羽犬塚お茶屋跡(本陣跡)」もあります。お茶屋とは、大名居城の御殿に対し、遊猟、領国内巡覧などの時休泊する本陣の事で久留米藩直営の施設でした。

施設の広さは、間口十七間余、奥行二十八間余の五百坪で更に付属地として691坪余がありました。建物は、平屋建てで四脚門を通った奥に本屋があり、本屋南の中庭三方を屋根付きの

土塀が巡り、蘇鉄、茅、マキ、ナギが植えられました。

 

お茶屋跡(羽犬塚小)の先には、国内最古級の夫婦えびすがある「六所宮」です。

 

六所宮の夫婦ゑびす像は、幅35㎝、高さ30cmで男女並んで彫られています。元々羽犬塚中町会所の敷地内にあり、明治時代に六所宮に移されました。

古くから市が栄え、交通の要所でもあった羽犬塚には、町のあちこちにゑびす神が祭られていました。

 

川村皮膚科の所から右折します。ここも宿場町特有の桝形になっています。藤島橋の所にも山頭火の歌碑が建っています。

さろうとして けふもくれたか 山頭火

 

羽犬塚の旧道を通り、今日のゴール地「羽犬塚駅」に到着です。羽犬塚駅前にも「羽犬」の像がありました。

今日は、8:30に古賀茶屋駅をスタートし、羽犬塚駅には、14:20に到着しました。約6時間のウォーキングでした。(20,7km)

  

今日のGPSです。

※今日の交通費 :西鉄福岡~古賀茶屋 @630 、JR羽犬塚駅~博多駅 @950

 

 


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
kumasan (よっくん)
2021-05-23 07:53:33
了解しました。次回は羽犬塚からスタートしますので街道からは、外れますが、寄ってみます。
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漱石の句碑 (kumasan)
2021-05-22 22:00:39
漱石の句碑は船小屋鉱泉場にあります。
なぜ漱石が船小屋に泊まったのかは、漱石の随筆に「隈本繁吉君が船小屋は良い鉱泉場があるとうるさく勧めるので、ぜひ泊まるようにーー」と書いています。その隈本繁吉の最晩年には私も一緒に一緒にふろに入って背中を流してあげたこともあります。
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kumasan (よっくん)
2021-05-22 16:58:55
コメント有難うございます。福岡も緊急事態宣言が発令され、ウォーキング協会の例会などもすべて中止になりました。そこでこの休みの期間中、薩摩街道(豊前街道)を歩こうと思い立ちました。最初、神代を「じんだい」と呼んでいましたが、「くましろ」だったのですね。というと、奥様は、神代一族の末裔にあたるのでしょうか?
羽犬塚は、車ではよく通るのですが、今回初めて歩きました。山頭火の句碑は分かりましたが、夏目漱石の歌碑もあるそうですが、見つけられませんでした。
次回は、羽犬塚から瀬高、山川まで歩こうと計画しています。
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正確な資料に感謝します (kumasan)
2021-05-22 13:35:00
家内の旧姓は神代なので、神代浮橋のことや神代橋を渡ったことなど記憶に在りますが、こんなに詳しい資料を改めて読ませていただき、家内も喜んでいます。
羽犬塚は私が中学、高校時代を過ごしたところなので、なんでも知っているつもりでしたが、初めて教えて頂くことが多くて感謝、感謝の気持ちで一杯です。有難うございました。
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