よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています№17(黒崎~小倉)

2012-01-10 11:33:22 | 長崎街道歩き
1月7日長崎街道(黒崎~小倉)を歩きました。



JR黒崎駅に8時45分到着。
すぐ黒崎の総鎮守の岡田神社に参拝。



それから街道歩きに出発します。
街道は熊手商店街の中を通ります。

    

まだ朝が早いのか商店街も開いている店舗が少ないです。
商店街に中に「興玉神」があります。
これは道租神で道行く人の安全を祈っています。



商店街でパン屋さんを見つけました。
アンパンフェアなど店頭に書いてあり何かおいしそうでしたので
つい買ってしまいました。



街道はJR鹿児島本線を横断します。
踏切の手前に「桜屋跡」があります。
ここは1800年ごろ創業し主に鹿児島、熊本、佐賀藩の定宿として利用されました。
又の名を「薩摩屋」。
西郷隆盛ら勤皇の志士たちも宿泊したそうです。
今はマンションになっており当時の面影はありません。




地図では「町茶屋跡」とありますが、いくら探しても見当たりません。
多分ここあたりでしょうか?



海蔵庵というお寺に「黒崎宿東構口」がありました。
天和元年(1615)黒崎城を廃し城の南側にあった掘を埋めて構口を開き番所を設けて
行旅の人を監視したのが始まりで黒崎の宿場を通過するのは必ず東と西にある構口で
検査を受けました。東構口には4人、西構口には3人が常時監視していました。



構口を先に進みますと新しい記念碑が建てられています。
平成23年ですのでつい最近です。
ここでは黒崎駅周辺の道路工事で発掘された本陣跡や茶屋跡の説明がされています。
黒崎にも城があったのですね。
城跡はすぐ近くの山の上に建てられたそうですのでちょっとここで城跡見学の寄り道をします。





 ここで我が藩、筑前黒田藩について
慶長5年(1600)関が原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した
黒田長政(黒田官兵衛の長男)は翌6年から福岡城の築城にとりかかった。
(福岡という地名は黒田家のゆかりの地岡山備前邑久郡福岡村(現岡山県瀬戸内市長船)からとった)
また同時に国境の守りを固める為、同15年までの間にこの黒崎城をはじめ、若松城、大隈城、
鷹取城、小石原城、左右良(まてら)城の六端城を築いた。
左右良城は杷木町にあり、豊後国をにらんでいたが、他の五城は豊前国をにらんでいた。
豊前細川忠興とは不仲だったそうです。
黒崎城主は黒田24騎の一人井上周防之房が入った。
然し幕府の一国一城の令により元文元年(1615)わずか十数年で城は破却された。




黒崎城址は道伯山に建てられていました。
今は、新日鉄、安川、三菱の工場がありますが、かつてはこの洞海湾の黒崎湊から大坂行きの船が
出ていたそうです。幕末三条実美ら五卿もこの地から上陸したそうです。



城跡を降りて国道3号線に出ます。
ここで少し小腹がすきましたので黒崎商店街のパン屋さんで買ったアンパンがあることに
気がつきました。Dバックから取り出し行儀が悪いですが歩きながら食べていきます。
このアンパン美味しいです。アンパン好きな私ですが今まで食べたアンパンで五本の指に
入るくらいです。



桃園2丁目の信号から右に入ります。
しばらく行くと「前田の一里塚」があります。
ここでは1里について説明が書かれています。
それによると1里は36町、1町は60間、1間は6尺、6尺は1.8m
計算すると1里は3,9kmになります。(本来、6尺は1.824mですので3.94kmかな?)



八幡図書館の近くに「国境石」があります。上のほうが壊れて見えませんが、多分
「従是東豊前国」「従是西筑前国」と書いてあるのでしょうか?
今は筑前も豊前も同じ福岡県ですが、この時代は別の国だったのですね。
街道は「豊前国」に入っていきます。


新日鉄八幡製鉄所が見えてきます。横にはスペースワールドが・・・・

街道の横には新日鉄病院が。このあたりは新日鉄の城下町です。



大蔵という所に差し掛かりました。地図では階段を登るように書いてあります。
階段を登っていくとここが旧街道になります。
今まで旧街道というと街道の側には旧家があるのですが、この一帯マンションやらの
高級住宅地です。唯一街道の道標を見つけました。



「荒生田の一里塚」があります。
先ほどの前田一里塚を10時48分に通って今11時47分。時速約4kmの街道歩きですね。



この荒生田一里塚の高見神社側にも「国境石」が建っています。
三条の国境石です。
高さ約4mぐらいで「従是西筑前国」と書いてあります。
又、この一帯高級住宅地でこの国境石との対比も面白いです。



高見郵便局を過ぎ板櫃川に出ます。
昔はここは橋がなく川を渡っていたそうです。
今は丈夫な橋も架かっていますので平成の旅人の私たちは橋を渡っていくことができます。

街道もこのあたりは案内板が少なく、まして街道がなくなった所もあります。
あまり遠回りになってはいけないと思い、近くの方に聞いたりして歩いていますが、
中には私のDバックに「長崎街道を歩いています」とプレートをつけていますので
止まって地図を見ていると率先して声をかけ教えていただけます。本当に有難いです。

車社会の現代、ナビで目的地を入れれば確実に目的地まで案内してくれます。
私が街道歩きに興味を持ったのがSNS仲間のRさんが東海道を挑戦されたからです。
Rさんの紀行ブログを読んでいますと何か私も街道歩きを挑戦したくなりました。
かといって、仕事をしているので東海道は無理だし日帰りで行ける九州の街道として
一昨年は唐津街道、そして昨年からの長崎街道を挑戦してみました。
いつの日かわかりませんが私も東海道へ挑戦したいと思っています。
普通の人は馬鹿ではないかと思われたりもしますが、この街道歩きをやってみたら
面白くてたまりません。学校の歴史では教えてくれないものがたくさんあります。
道をよく間違えますが、それも楽しい思い出になります。

話が横道にそれましたが、茶屋町に入りました。
ここには九州鉄道(現在のJR九州)が明治24年4月に開通した九州鉄道大蔵線の橋梁があります。
煉瓦を長手と小口を交互に積んだイギリス式の橋梁です。
100年以上経った今でも現存しています。



街道はここから小倉北区に入ります。
「みずかけ地蔵」があります。
昔、旅人が道中の疲れをここで休憩し水を飲んだ所です。
由来を見てみると神功皇后が新羅出兵の際、立ち寄りここで水を飲んだそうで2000年以上の
歴史があります。また弘法大師が唐より帰国され巡国のみぎりここに立ち寄ったと記録が
あるそうです。



小倉の中心地にやってきました。
このあたり今では裁判所や検察庁などが立ち並びますが、小倉城「清水口門」があった所と
推測されています。昔は武家屋敷だったそうです。



西日本新聞社の所には「到津(いとうづ)口門」があります。
地図では石碑が建っていましたが今では案内板のプレートがあります。



西小倉駅にやってきました。もうゴールはすぐそこです。
「大門跡」もこのあたりにあったそうです。



魚町の商店街を抜け、ゴールの「常盤橋」が見えてきました。
午後2時27分常磐橋へゴール。
昔、この常磐橋は、九州の街道の拠点になっていたそうです。
常磐橋の下からは、下関行きの船の発着所があったり、また門司往還、中津街道、秋月街道、
唐津街道そしてこの長崎街道の起点になっていました。



常磐橋の袂の所では長崎街道を通った象さんに因み「白象饅頭」が売られていました。
私たちも街道踏破記念にこれを買って帰りました。
この店では、500円で店主手作りのランチもあるのですが、もうランチタイムは過ぎており
残念ながら食べることが出来ませんでした。





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昨年1月から始めた「長崎街道」 1年がかりでようやく踏破することができました。
最初の長崎県ではキリシタン弾圧の歴史を見て心が痛みました。
佐賀県では街道に沢山のえびす様が迎えてくれました。
冷水峠では、対向してくるトラックが怖く引き返そうかな?などと思いました。
内野宿、木屋瀬宿は昔のままの姿が現存しており感激しました。
昔の人は草鞋履きで1週間でこの街道を通ったそうですが、ウオーキングシューズを履いている
私たちは2週間もかかってしまいました。(昔の人は一日に10里(40km)ぐらい歩いたそうです。)

応援していただいた皆様本当に有難うございました。
また私の拙いブログを読んでコメントくださいました皆様、有難うございました。
次回はいつになるかわかりませんが、別な街道に挑戦したいと思います。
                               (長崎街道228km 完)