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『エリッククラプトン自伝』に学ぶ「弱い人間」の生き方

 前々から買ってあったのだが読まずに積んであった『エリッククラプトン自伝』(中江昌彦訳、イースト・プレス刊)を読んだ。400ページを超える本で、じっくり読むとそれなりに時間を食うのだが、ある仕事でエリック・クラプトンについて少し話す予定があり、今、読んで置こうと思った。
 事実を時間順にみっちり語り込むスタイルの自伝で、エピソードが豊富だから、読み終えるとかなりのボリューム感がある。
 伝記としては、かなり異色だ。端的に言って、これは「弱い人間」の物語だ。本が書かれた2007年に至る最後の10年は、家庭・仕事・健康の何れにも恵まれているようで、流れはハッピー・エンドなのだが、全体を通した印象では、この幸せのどこがいつ崩れてもおかしくないような危うさがクラプトン氏の人生にはある。
 「ひねくれ者でろくでなし」(p409)と自分でも言っているが、エリック・クラプトン氏は、一般的な基準から言って、人格的にはかなり「ひどい人」でもある。薬物やアルコールへの依存症に長年苦しんだことは有名だが、赤裸々に語られる女性関係もまさに「手当たり次第」だ。よくぞ、現在、健康で生きているものだ。
 詳しくは伝記を見て欲しいが、エリック・クラプトン氏は、自分の父親を知らずに、祖父母の下で育つ、かなり不幸な生い立ちなのだが、若い頃に関する記述の端々には、後の自堕落な生活や依存症、気むずかしさなどに対する「言い訳」のトーンを感じる。自分への甘さは超一級品だ。ただ、言い訳をストーリーの中で作っているというよりも、思い出すことが出来る限りの事実を時間順に羅列していく方法で書いているので、自然にこういうストーリーになってしまうのだろう。つまり、彼は彼自身に対する同情を隠さない。
 しかし、ぎりぎりで彼に嫌な感じがしないのは、彼が率直であるからだろう。気むずかしくてとても社交的とは言えないクラプトン氏だが、推察するに、彼は他人に上手に甘えることができるのだろう。
 もちろん、彼個人がギターの名人として突出した実力と商品価値を持っていたことで、周囲が気を遣ったということはあるだろうが、伝記を読むと次から次へと助けが現れる。彼がどのように他人にアプローチしたのかは、自分の視点だけから書かれた伝記で正確に理解することは難しいが、自分に出来ないことはあっさり他人に任せているし、やりたいことを次々とやって行く。そして、彼が興味を持った女性はいとも簡単に彼になびいていく(時間が掛かったのは、ジョージ・ハリスン夫人だったパティくらいのものだ)。
 ギターに関しては、彼は努力の人だったように見える。練習を続けられる才能において天才、というタイプだ。ちなみに、若い頃の練習は、コピー対象を自分で何度も弾いてこれをテープに録音し、完全に同じになるまで何時間も繰り返すというようなもので、これがいくらでも続けられたようだ。また、若い頃の記述で「楽譜が読めなかった私」というフレーズが出てくる。ギターが声のように肉体化しているのだろう。
 薬物やアルコールに対する依存症が深刻化した場合でも、自分にとって得意で、他人からも評価され、自分が付けることができる「ギター」があったことが、彼を救ってきたし、もちろん、経済的に成功させてもきた。
 凡人が何かに注力して、その「何か」がエリック・クラプトンに於けるギター演奏のようなレベルや評価に達することは稀だろうが、一つのことを前向きに続けることが出来れば、それなりに自信を持つことが出来るのではないか。名人・神様のクラスではなくとも、ギターを上手く弾けることがエリック・クラプトンにっとっては一種の励ましになっていたように、自分を励ますことができる「得意なもの」があれば、落ち込んだときにも何とか生きる意欲を再活性化できるのではないか。
 思うに、殆どの人は「強い」「自立した」存在ではない。本人が自覚している場合も、自覚していない場合もあるが、人は、その人に固有の弱さを抱えて生きている。
 人は他人に上手に甘える術を覚える方が、自立しようとして頑張るよりも、上手く生きていくことが出来るのではないだろうか。そのためには、自分は弱いし、自立などしていないから、他人が必要なのだということを素直に認めるのが第一歩だろう。
 『エリック・クラプトン自伝』は、弱い人間、ダメな人間の人生の記録として一級品の読み物だ。そして、弱い人の生き方こそ、学ぶ価値があるのではないか。
 内容はたいへん重たいので、調子のいいときに読むべき本かも知れないが、「強くない私」もいいではないかと思える人には、一読をお勧めする。
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オヤジギャグへの感じ方に影響するのは世代か年齢か

 小沢氏の問題はどうやらツマラナイ方向で決着が着きつつあるようだ。民主党政権も裏表のツー・トップが脛傷持ちでは、脛が痛くて前向きに走ることは出来まい。政権は一層官僚によってコントロールされるようになるのだろう。勝者は小沢氏でも検察でもなく、財務省ということではないだろうか。

 さて、毎度毎度小沢氏の話では暑苦しい。ここしばらく日常的に疑問に思っていることを書いてみる。

 会話の中に洒落を混ぜることに対して、年齢によって感じ方が異なるようだ。私を含めて中年以上の年代は、洒落・駄洒落の出来不出来に対する評価や時に非難はあっても、くだけた会話に洒落を混ぜることに対しては抵抗がない。少々頭を使う遊びとして、洒落をポジティブに考えることもある。
 私は1958年5月8日生まれなので、現在51歳だ(注;当ブログのプロフィール欄はブログ開設当時そのままに放置されている)。
 これに対して、たぶん、現在私よりも十数年下のどこかの年齢以下の世代では、会話に洒落を混ぜることに対しては、「オヤジギャグ」というレッテルを貼り、相当にネガティブに評価しているようだ。彼ら・彼女らにとっては、オヤジギャグは、あか抜けなくて、年寄り臭く、うざったく、会話にとって邪魔なものであるらしい。
 同世代以上との会話にあっては、自分が使うかどうかはともかくとして、他人の洒落を解さないのは「少しバカ」であるし、逆に、若い世代が中心の会話の場では、オヤジギャグの発信を抑えないとその場に合わないことが多い。
 私個人は、たぶん同世代内で偏差値にして60くらいのオヤジギャグ適性を持っているので、オヤジギャグが幅広く通用する方がやや好都合なのだが、世の中の趨勢を見ると、そうも行かない感じだ。「洒落は高級な言葉遊びなのだ」と言い張って頑張る元気は、現在の私にはない。
 
 当面、二つ知りたいことがある。

 「洒落=原則として楽しいもの」と思う世代と「洒落=原則として邪魔なもの」と思う世代は、現在の年齢でいうと、どの年齢で分かれるのだろうか。
 会話の相手の様子を見ていると、30代前半はオヤジギャグ=うざったい」という感性回路が明らかに頻繁に作動しているようであり、40代となるとそうした気配を感じにくい。従って、現在の30代後半くらいに境界線がありそうに思えるのだが、それでいいのか、また、それでいいとしても、もう少し詳しく知りたい。
 二十代前半の新入社員だった頃、一回り以上上のオヤジやオバサンたちは似たようなものに見えて、大きな差を見いだし難かった。年齢が離れた集団の年齢別の細かな差を感じることはなかなかに難しいことだ。
 そういえば、つい最近まで、20台後半の女性と30代前半の女性には画然とした差があるように感じていたのだが、今や、どちらも「同じくらい」ほどよく可愛いと思う(選球眼が衰えてきたということだろうか。まあ、いいけど)。
 ともかく、現時点での洒落・駄洒落に対する年齢別の感性の差を知りたい。

 もう一つは、洒落・駄洒落に対する感性の差が、「年齢」に依存しているのか、「世代」に依存しているのかを知りたい。どちらが重要な要因なのだろうか。
 記憶によると、自分が20代だった頃は、下手な洒落をけなすことはあっても、洒落・駄洒落全体をオヤジギャグと称して蔑む気分はなかったように思う。他愛のない駄洒落だの、掛詞だのを交えながら同世代と会話していたように思う。替え歌などもよく作って遊んでいた。
 この記憶を尊重すると、洒落・駄洒落に対する感性は「世代」によって違うということなのだろうし、育った時代の文化・流行・風俗・教育などの影響を受けて世代によって異なるということなのだろう。そう結論していいなら、次には、何が影響してそうなったのかを考えることになる。
 しかし、自分が20代だった頃に、当時の40代、50代が洒落に対してどんな感性を持っていたのかが分からない。実は、当時のオヤジ達はもっともっとオヤジギャグが好きだったのかも知れない。そういうことなら、世代ではなく「年齢」が洒落に対する感性に影響しているのかも知れない。
 差を説明する要因として年齢が重要ということなら、洒落・駄洒落全体の盛衰がある中で、高齢者と若年者の感じ方に差があるということになるのだろう。金利水準全体の変化と長短金利差の変動のようなイメージだ。
 一体、どうなっているのだろうか?
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ウェブは今やほとんど普通の「世間」なのだろう

 中川淳一郎氏の新著「今ウェブは退化中ですが、何か?」(講談社)を読んでみた。本は、この本を担当した(らしい)編集者から頂戴した。
 著者は1973年生まれで、話題になった「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書)の著者でもあり、現在ニュースサイト編集者にしてPRプランナーだ。サブタイトルには「クリック無間地獄に落ちた人々」、帯には「不自由なり、インターネット」とある。
 本全体の主張はシンプルだ。書き出しには「インターネットは最高に便利なツールだ」とあり、最後の段落では「ネットに期待や夢を描くのはいいが、ほどほどに」と言う。これで論旨はほぼ要約できる。
 著者は、インターネット及びウェブが便利な情報伝達手段であることを全く否定しない。しかし、悪意を含んだ匿名の書き込みをはじめとしてウェブの世界には精神を消耗させる面があり、SNSやTwitterをはじめとするウェブ上の仕組みや新しいツールについても、それが特別に目覚ましい成果を上げるものではないということをページの大半を費やして例示していく。

 全体の筋は以上の通りだが、第三章には「ネットでウケるための方法」を11項目、「良いコメントをもらうための8つの条件」を8項目、「PVを稼ぐためのテクニック」を8項目プラス<注意>5項目、といった箇条書きで具体的にあげている。この部分は、ネットで記事を流し、ページ・ビューを稼ぎ、話題とコメントを貰おうとする著者の本業のノウハウであり、サービス的な寄り道ページだ。一つ一つの項目は割合平凡なのだが、網羅的に並んでいるので、例えばウケるブログを作ってPVを稼ぎたい人には役に立つチェック・リストになっている。
 また、会員登録のあるSNSが安心かというと案外そうでもなくて、企業人の怖がる2ちゃんねるの方が「作法」が出来ていて粋で無難な場合がある、ということなども分かる。
 リストを読んでいて、私のブログには複数の「ウケない」ポイントがあることが分かった。もっとも、当ブログは、PVを上げたいとか、アフィリエイトで稼ぎたいといった目的を持って運営しているわけではないので、管理者がこの本を読んだからといって大きく変化することはないだろう。
 ちなみに私は複数のSNSに登録しているがアクティブな会員ではない。また、Twitterには未だ参加していない。Twitterは一方で面白そうだとも思うのだが、些か時間を食いそうなので、敬遠している。今のところ仕事上も、「早い情報」よりも、「少しのんびり考える」ことの方が価値が高い。

 この本を読んで、最も大きなメリットを得るのは、ウェブで他人に腹を立てている人だろう。たとえば、自分でブログを運営していて、悪意のあるコメントに悩んでいるような人だ。著者の言うところのバカと暇人に対しては、遠慮のない悪口雑言が並んでいる。これを読んでスッキリする人はいるかも知れない。
 ただ、本の著者に直接反論するのは結構面倒であり、本を書く側からも「言いっぱなし」になっている点で、この本には、ネットの匿名のコメント欄で他人の悪口を言うのと変わらない面が少しある。本を読みながら、この点に気付いてしまった。ウェブ世界の馬鹿者たちを叩くにしても、もう少し周到に余裕のあるからかい方をする方がいいのではないかという気もする。
 「責任を伴わぬ匿名人間との言論バトルは、完全なるハンディキャップマッチ」(p52)だ、というのは、確かにその通りだと思うし、仮に、それが将棋で言うと「待ったも助言も有りの通信駒落ち対局」のようなものだとしても、自分が暇で面白ければ参加してみたらいいのではないか、という気もする。そして、そんな条件なら一層、下手で指すよりは、上手の方が面白かろう。著者の言うようにリアルな世界の人生が充実していれば、ネットでけなされたり、威張られたりするくらいのことで動じる必要はない。むしろ、程よい刺激であり、意外性のある手軽な暇つぶしではないのか。

 私は「バカ」が嫌いだ(しかし、自分がバカだと気付かざるを得ない場合がしばしばある)。自分自身はなるべくなら「バカ」にはなりたくないと思うのだが、「暇人」というのは、できることなら胸を張って名乗ってみたい気がする。
 田舎者の拙い美意識で判断するのだが、「私は暇人だ」と言う方が「私は忙しい」と言うよりも、ずっと格好がいいと思う。挨拶で「お忙しいですか?」と言われたときに、本当に忙しい時でも「そうですね」と答えるのは無念だし、まして、カラスでもニワトリでもないのに「ばたばたしています」などと答えるのは人間として恥ずかしい。

 この本の著者はリアルな世界の人間同士のふれあい、特に、お酒を介したコミュニケーションの効用を説いていて、私もこれには大いに同意する。しかし、著者はまだ若いとはいえ、しばしば深酒しているらしいのに「朝6時30分に起きたら食事を作り、仕事としてネットを見まくりはするが」(p249)というような「忙しい」生活で少し疲れておられるのではないか。
 尚、自分が単に「見る」行為を「見まくる」と書くのは、凡そ文章のプロらしくないが、これは、著者が、わざと素人っぽい文章を書いて、読者に隙を見せたのだろう。この本にはこうした「気遣い」が他にも多数ある。

 著者の主張の背景にあるのは「世間にはどうしても分かり合えない人(どうし)がいる」という実感なのだろう。この実感を著者は、大学合格直後の引っ越し屋のバイトで得たらしい。一緒に作業チームを組まされた相手の2人が、「焼き肉」「風俗」「借金」「競馬」「パチンコ」「会社へのグチ」しか話題のない、当時の著者のようなエリート学生(一橋大学)に反感を持った人達で、著者は相当に嫌な思いをしたようだ。借金を除くといずれも結構「いい話題」であるように私は思うが、相手から嫌われたのでは仕方がないか。
 確かに、「世間」には、お互いに虫の好かない相手がいるし、ボキャブラリー・セットがすっかり違っている(従ってこちらの意図が相手に伝わらない)人がいる。機嫌(要はコンディション)が悪ければ、相手もこちらも何らかの「悪意」を持って他人に接することがある。まして、インターネットで情報のやりとりがスムーズになっても、それだけでお互いが賢くなるわけでも、楽しくなるわけでもない。これは、著者が本一冊をかけて言う通りだ。これは、リアルな世界でもウェブの世界でも変わらない。ウェブは普通の世間であり、たぶん、それ以上でも以下でもない。
 ウェブに特別な「衆合知」のようなものがあるわけでもないし、さりとて、電話が普及すると電報が古くなったように、紙の新聞のような媒体がビジネスとして成立しにくくなったり、流通にネットの関わりが増えたりするのは全く当たり前のことだ。

 ところで、この本の最後に向かう部分で、著者は自らの過去のエピソードを紹介しつつ「リアルの力」を訴える(p242以降)。この部分には「『ウェブはバカと暇人のもの』を書くきっかけは焼き肉屋だった」とあった。何と、かつて話題として嫌っていたはずの「焼き肉」ではないか!
 こんな調子で、著者は無防備に思ったことを書いている。つまり、この本は決して偉そうな本ではない。これを読んで「上から目線だ」と思うのは、よほど余裕のない、ひがみっぽい気分の人だけだろう。そういった心境の、人生にくたびれて不機嫌になった人はこの本を読まない方がいいかも知れないが、元気な暇人(←できれば、私もそのようでありたいものだ)は、この本を読むといい暇つぶしになると思う。

 ところで、この本の、「PVを稼ごうとするときの注意点」の中に、「文字量は400字~600字にする」という項目があった(p177)。拙ブログは、エントリーの文章が長すぎるきらいがあるので、この点には影響されてみようかと思ったのだが、今回も全く実行できなかったし、今後実行できるかどうかも不透明だ。
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有馬記念を前に

 かつて、光文社に「競馬の達人」という雑誌があった。しばらく休刊していたが、同社の「flash」の臨時増刊として有馬記念攻略を軸とする号が久しぶりに刊行された。
 私は恥ずかしながら取材を受けて、「競馬は合理的な投資になりうるか」と題した記事が掲載されている(p96~p99)。経済だの投資だのといったテーマであれば、わざわざ告知しようとは思わないが、趣味の分野であり、ちょっと嬉しいのでご報告する。「いつかは競馬の本を書きたいと思っているんですよ」などと上機嫌に話している。
 この記事に有馬記念の予想を載せているのだが、一ヶ月以上前の取材であり、出走馬の想定が変わっているので、修正予想をお伝えしよう。

 記事に載せた予想は以下の通りだ。
◎セイウンワンダー
○アサクサキングス
▲マツリダゴッホ
△スクリーンヒーロー
△オウケンブルースリ
△ブエナビスタ

 残念ながら、6頭中3頭が不出走となってしまった。それだけ、ジャパンカップが過酷なレースだったのかも知れない。

 出馬表をあらためて見るに、上記に挙げていない馬が気になる。
 だが、◎は変えないことにしよう。

 私の理解する有馬記念というレースのイメージ(=重要なファクター)は以下の通りだ。 先ず、①有馬の時点で馬がフレッシュかどうかが重要だ。天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念を全て頑張るのは馬にとって過酷だ。加えて、②冬に調子のいい馬かどうかということも考慮したい。
 そして、③中山競馬場のコースに向いていることも大切だろう。右回りのコーナリングが上手い馬でないと強くても来ない。
 レース展開のイメージは「速くないけれども、上がりは割合かかる」という印象だ。オグリキャップやダイナガリバーのレースが頭にあるのだが、暮れの中山の馬場での2500mなので、高速決着にはなりにくい。④前段から中段につけられて直線で一伸びが利くタイプがいい。加えて、⑤世代のレベル比較が重要だ。
 こんなイメージからいうと、◎セイウンワンダーは、冬に中山でGⅠを勝っているし、距離の融通も利くし(菊花賞3着)、父グランスワンダーで中山は向いている。足を余さないタイプの藤田騎手が乗るのもいい。また、ローテーション的にも菊から直行で余裕があるし、暮れのやや荒れた馬場に向いた馬格の大きさもあり、こと中山に関する限りレースは器用だ。非常に古い例で恐縮だが、リードホーユーのようなイメージだ。あまり人気になっていないこともあり、これを◎(本命)としよう。
 ○(対抗)はドリームジャーニーだろう。常識的にはこれが◎かも知れない。今年の成績は高位で安定しているし、中山は向いている。オールカマーでマツリダゴッホに負けているが、1kg重い59kgを背負ってのものだし、休み明けで、しかも、レースのペースは逃げたマツリダゴッホ(上がり34.1秒)に有利なスローだった。これを59kg背負って33.6秒で差し込んでいるのだから、狙い目は十分だ。秋3走目でいかにも有馬を狙ったローテーションもいい。
 世代の比較は難しいが、厳しいレースだったジャパンカップで逃げたリーチザクラウンが1.0秒差で頑張っていることから見て、3歳が勝負にならないということはないだろう。ドリ・ジャニに気持ちは傾くが、◎はセイウンワンダーで行ってみよう。
 マツリダゴッホは、いかにもこのレースを狙っているが、前走の天皇賞が負けすぎでもあり△(連下)に落とす。
 ▲(単穴)は3歳からフォゲッタブルとする。菊花賞の後ステイヤーズSを挟んだローテーションは使い詰めの観があるが、ステイヤーズSはいかにも楽なレースだった(2000m通過が2分13秒のゆるゆる)。騎手ルメールも込みの評価だが、中山コースに経験有りという点もプラスだろう(ダンスインザダーク産駒は「飽きる」のかもしれないが一般論としてはプラス)。
 一番人気が予想されるブエナビスタは△。この馬はかなり強いが、ダイワスカーレット(私の思うに史上最強牝馬)級ではないと思う。距離は長めが良さそうだし、中山だと前が止まりやすいので、有利とも思えるが、有馬記念は一気の追い込みが決まるイメージが乏しい。
 あとはフォゲッタブルとの比較で大きく落とせないスリーロールスと前に行ける強みがあって有馬のコースならペースが落とせるかも知れないリーチザクラウンが△だ。
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会議の思い出

 現在の私の半ばフリーの仕事の形態だと、会議というものに出席する機会が少ない。サラリーマン100%で働いていた頃は大小様々な会議があったし、特に運用の仕事をしているときには会議が多かった。他方、商社マン(財務部)の頃は、私がまだ若手(20代前半)で議事に関係ないということもあったと思うが、会議がそれほど多かったという記憶は無い。

 今振り返っても、運用会社の会議の多さは異様だった。会議でもやっていないと仕事の体をなさないからだが、会議中は新しい情報にも接しないし、運用方法の研究も進まないので、運用の仕事そのものにとっては会議の時間は邪魔だった。しかし、サラリーマンとしては、会議の場が仕事の発表の場になるので、大きな会議のリハーサル用のサブ会議が設けられるようなこともあって、連日何らかの会議があるのだった。また、会議がないと寂しい(仕事をしていることにならない)人がいて、社内の会議が無い場合には、証券会社のアナリストを呼んだりして何らかの会議をセッティングするのが常態だった。出ても意味がないと思う会議でも、若手社員の間は「勉強だ」と言われて出ることになるし(本当は勉強の邪魔なのだが)、転職で入社するとしばらくの間はその会社のやり方を尊重する態度を取る必要があるので、これまた出席することになる。そしてベテラン社員になる頃にはすっかり会議慣れしているということなのだろう。
 これは外資系の運用会社でも同様で、かつて勤めたイギリス系の運用会社の本社を出張で訪ねた時も連日会議があって閉口した。「私は日本の運用会社のムダな会議が嫌いで、外資系の会社に転職したのに、これではガッカリだ」と教育係のイギリス人に感想を漏らしたところ「ワハハ。ミスター、ヤマザキ、それは残念だねえ。我々はミーティングが大好きなんだよ。君が慣れるしかないよ」と言われた。もっとも、このイギリス人(骨董屋の息子で「サッカーは下層階級のスポーツなので職場では話題にしない方がいい」と教えてくれるような人だった)も、会議中には手もとの書類の余白に抽象的な模様のような絵を描いて時間を潰しているのだった。
 雑誌のコラムなどで書いたことがあるが、運用会社は「良い運用利回り」(≒現世利益)を直接売ることが出来ずに、「無形の期待」(ex.長期投資の成功≒来世の幸福?)を売らざるを得ない商売なので、ビジネス・モデルとしては宗教に似ている。宗教団体に各種の儀式が必要なように、運用会社にも会議が必要なのだ。

 時間の無駄を給料で我慢するとしても、私の場合困ったことに、カラダ自体が、退屈して、発言せずに、背中が15分間温かくなると眠くなるように設計製造されているようで、特に若い頃は多くの会議で居眠りして怒られた。
 いったん眠ると眠りは深いことが多いし、会議に全然関係ない夢を見ることもあった。オーバー・ヘッド・プロジェクター(昔の場合)やパワーポイント(近年)を使ったプレゼンテーションが入る会議は室内の照明を落とすので特に眠りやすい。悪いことにイビキが出ることがよくあって、放っておく訳にもいかなかったことが多々あったようだ(こちらは熟睡しているので正確な状況が分からない)。
 さて、眠気と時間の無駄の両方に対する対策をどうしたか。
 正統派の対策は、何といっても、つまらない話でも何か自分で発言することだ。すると、カラダが(精神が?)受動的な状態から能動的な状態に切り替わって、その後30分くらいは目が覚める。とはいえ、延々とプレゼンテーションが続く会議の場合には、この手が使えない。
 かつてよく使った手は、将棋を考えることだった。会議のある日は「詰め将棋パラダイス」の1ページをコピーして資料の間にはさむことが多かった。「中学校」(9・11手詰)、「高等学校」(13~17手詰)あたりの問題を数題用意しておくと時間が潰れた。問題を一題ずつ見て記憶して、頭の中で解く。これは、将棋のトレーニングとしてもいいはずで、運用会社に長くいたら、私はもっと将棋が強くなったかも知れない。
 頭の中で将棋を指す、ということも良くやった。角道を開けて、飛車先を突いて、・・・、と頭の中で局面を考えていく。ただ、これは、会議の内容などに気が散ると持ち駒の数などが分からなくなるので、私くらいの棋力(アマ4段くらい)だと幾らかキャパシティーが不足する。それに、自分同士で戦っているので、形勢に差が付くと直ぐに諦めて投了してしまう。詰みまで指すことはあまり多くなかったように記憶している。
 別の対策しては、会議に関係のない「読み物」を持ち込むことがあった。英文の記事や短い論文をコピーして会議に持ち込む。英文にするのは、少ない枚数で長持ちする(←ちょっと情けないが)のと、他人が見ても何を読んでいるか直ぐには分からないからだ。今やるなら、Economist誌のホームページ辺りから面白そうな記事をコピーして持ち込むことになるか。会議や時間待ちの多いサラリーマンは、A4で二、三枚くらいの記事のコピーを常に持ち歩くと便利なことがある。この場合、裏面にメモを書けると便利なことがあるので、両面印刷にはせずに片面に印刷する方がいい。会議中に手元を注目された場合にも、紙を裏返してメモを書けばいい。
 最近だと携帯電話をいじって暇を潰す人が多そうだが、これはいかにも会議に気が向いていない感じに見えるので、いい手とは思えない。会議の進行役は、会議の開始前に「携帯はマナーモードに。また、会議中は携帯電話に触らないでください」と宣言するといいだろう。

 会議の方法については、本が多数出ているが、最近会議が少ないこともあって私はあまり興味を持っていない。敢えてコツをまとめると、(1)会議はできるかぎりやらない、(2)会議の目的を決めて事前に確認し、最小限の時間で結論を得るように努力する、(3)「エライ人」の飛び込み発言や意見になっていない「感想」の発言を許さない、ということだろうかと思うが、サラリーマンの会議の目的は「エライ人」を気持ちよくさせることだったり、皆が平等に時間を潰すことだったりするので、表面上効率的なのがいい会議とも限らない。

 冒頭に書いた通り私の現在の働き方だと会議の出席機会が少ない。楽天証券は非常勤だし、私は政府の審議会にたくさん呼ばれるようなタイプではない。この状況は、フリー的な働き方の大きなメリットの一つだと大筋では思うのだが、たまには会議が懐かしくなることもある。比率でいうと、85%は会議が無くて嬉しいが、15%はちょっと寂しい。張り合いのある会議があれば出てみたい、といった都合のいい事を時々は思う。何とも勝手なものだ。
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グラビア・ページの男目線・女目線、など

 女性を被写体とした雑誌のカラー・ページの写真、いわゆる「グラビア写真」には幾つかの類型があるが、ニュースに関連づけられた報道写真と、ほぼ裸が映っているヌード写真(「厳密な定義」はご想像にお任せする)、女性誌のファッション写真、及び芸術的表現を目的としたポートレートを別とすると、「男目線の写真」と「女目線の写真」の二種類に分かれるように思う。

 男目線のグラビアの典型は、現在だと「週刊SPA!」の連載「グラビアン魂」だろうか。ごく大雑把に言うと、女性を性的な対象として見る写真ではあっても「ヌード写真」ではないギリギリの僅かな着衣(典型的には水着か下着)の下に撮影された写真なのだが、長年の間に、ある種の作法というか様式が出来上がっている。
 主な特徴をあげると、(1)何らかの状況設定がされている(女性の部屋、放課後の学校、開放的なリゾート、夜のオフィス、など)、(2)女性の身体の男性が興味を持つパーツ(ココとソコとアソコの三通りくらい)を布きれ一枚(又は手)で隠しつつも強調するアングルの写真が含まれる、(3)程度はさまざまだが性的な関係を連想させる表情の写真が含まれる(誘うような表情、恍惚感を連想させる目、受動性を強調した表情など)、といったものだ。場合によっては、水着とモデルのカタログのような素っ気ないものもあるが、上記のような「意味」が付加された写真が多い。
 こうした様式を理解せずにこの種のグラビアを眺めると、ポートレートとしては概ね美的ではないし、「どうして、ここでこんな格好をしているのか」、「この姿勢は不自然で辛そうだ」、「なぜ、ホンの少しだけの差で見たいところが見えないのか」、「(カメラマンの注文とはいえ)どうしてこんな表情をしているのか」というような感想を持つような写真が数多く登場する。この種のグラビア写真なのだという前提を理解しなければ、写真自体として眺めるとかなり奇妙な代物が少なくない(私は、決してこの種の写真も被写体も嫌いではないが、写真が奇妙であるということが少しは分かる・・・)。
 女性から見ると「何だこれは?」というものが多いのではないか。

 女目線のグラビアの典型は、「週刊文春」の巻頭にある「原色美女図鑑」だろう。こちらは、女優さんなり、何らかの分野で売れている美人なりがモデルで、もちろん着衣のスナップ・ポートレートだ。モデルさんの性格なりその時点での状況なりを「なるべく自然風に」表現しようとしているようだ(注;完全に「自然に」ではない)。
 男目線のグラビアが、被写体を性的な対象として見た写真なのに対して、こちらは読者、特に女性読者が被写体の人柄全体に「共感」するような狙いの写真であるように見受ける。読者は男性であっても女性であってもいい。少なくとも、女性が目を背けたくなるようなものではない。「万人が見て感じのいい写真」だ(常に素晴らしいとは思わないが、大外れは少ない)。

 ある大手出版社の編集者から聞いた話だが、大変有名な女性の評論家がこの「原色美女図鑑」に是非登場したくて、かなりの働きかけをしたらしい。しかし、編集サイドは、この方はこのグラビアの趣旨に合わないという理由で却下したのだという。文藝春秋社の単行本のビジネスを考えると、この申し入れを拒否するのは相当の勇気が必要だったと推察するが、グラビアのコンセプトを守り通した「断る力」には敬服する。ブランドを守るには、短期的な利益の誘惑に勝たなければならない場合がある。
 グラビアのタイトルからだけでなく、マーケティング的な観点からも、女性の有名人なら一度は登場したい好感度の高いページなのだろう。かつて、ベンチャーの経営者が続々と株式公開を果たしていた頃、数多くの男性経営者が「GQ」誌の表紙に登場したがったらしいが、これと少し事情が似ているかも知れない。

 「週刊文春」は、駅でもコンビニでも売っているが、家庭でも多く読まれているようで、発行部数が多く週刊誌の中では成功している雑誌だ。
 一方、「週刊現代」はどちらかというと男性読者中心に読まれていた雑誌だが、一時、「週刊文春」のように男性にも女性にも読まれるような雑誌を目指した時期がある。かつては、しばしば袋とじも使って、いわゆる「ヘア・ヌード」を積極的に強調して売っていた時期もあったのだが、家庭で主婦にも読んで貰うためには、ヌード写真があっては具合が悪いと判断したようで、ヌード・グラビアから撤退した時期があった。当時のK編集長は「ターゲットは週刊文春である」と堂々と仰っていた。
 この時期、「週刊現代」は多額の訴訟を数多く抱えたことでも分かるように(訴えの累計額は確か28億円だった)、思い切った記事を書いていて、内容は面白かったのだが、結果的に部数は伸びず、むしろ低迷した。
 その原因の一つとして、どうしても気になったのがヌードが消えた後で代わりに載るようになった若い女性の写真のグラビア・ページだった。しかし、「厳密な定義上」ヌードではない写真が載っていたのだが、このページは、ほぼ100%「男目線のグラビア」的な写真が占めていた。近年であればオフィスでも開けない場合が多いだろうし、やはり主婦のいる家庭に持ち帰って読むには都合が悪かったのではないだろうか。方針転換の前後にグラビア・ページの担当者が代わったのかどうかは、寡聞にして知らないが、当時の「週刊現代」の記事は面白かったと思うので、今でもあの(後ろのページの)グラビアは心に引っ掛かっている。

 その後、「週刊現代」は再び男性読者中心に方針を転換したように見える。毎週ではないがヌード写真が復活し、食べ物の情報が増えた。紹介する食べ物も主に男性ビジネスマンが好みそうなものが多い。また、一本の記事が長くなって、読み応えのあるものが増えた。四回に一度担当していた「新聞の通信簿」が無くなったのは寂しいが、私にとっては、全てが好ましい方に変化した。応援したいと思っている。

 とりとめのない話になってしまったが、編集者からも被写体サイドからもあれこれと注文を付けられるグラビア・ページの担当カメラマンは本当に大変だろうと思う。一読者として、男目線、女目線、何れの写真であってもよく見る積もりなので、大いに頑張って欲しい。
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歴史はくりかえさないから愛おしい

 3月に書いた「歴史は繰り返すのか」というエントリーにはコメントが500個以上付いて、現在も増えている。ある方のブログを見ると、gooブログのコメントの上限はどうやら1999個らしいが、さすがに、500個にもなると、ブログを読む環境によってはあまりにも重いだろうし、新しい読者がやりとりに参加しにくいのも勿体ない。
 このエントリーは、<作業員>さん、<moto金田浩>さん、<琴子>さん、<アベルフ・シンドラー>さんら、「歴史は繰り返すのか」のコメント欄のコメンテーター諸氏のための引っ越し先として設けるものだ。もちろん、新規の方のご参加も歓迎する。<作業員>さんあたりと上手くやっていただけると、楽しいだろう。
 
 以下は、毎日使っていただくコメント欄に何も無いのは殺風景だと思い、雑文を書いた。特に意味はないので、読者は、いきなりコメント欄にお進み下さい。

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 写真のボトルは、友人に紹介して貰った神楽坂のバーで飲んだものだ。左は「ホワイト・ホース」、右は「スペイ・ロイヤル」で、いずれもブレンディッド・ウィスキーのオールド・ボトルだ。
 オーナーの奥様と二人の娘さんでやっているダイニング・バーで、メニューにはワインが多く、マニアックな品揃えのウィスキーで勝負するような店ではないのだが、オーナー氏がブレンディッド・ウィスキーのオールド・ボトルの大変なコレクションをお持ちで(「モルトは単純なのでイマイチだ」と仰る複雑系の感性をお持ちの方なのだ)、同時にいたずら心の旺盛な方であるために、常時数本「とんでもなく素晴らしいウィスキー」が店内に持ち込まれている。上記2本はそのカテゴリーだ。

 「ホワイト・ホース」はざっと30年強前になる学生時代に、よく飲んでいた。本にも書いたことなので、遠慮せずに書くと、高校生時代から家では普通に飲んでいた。当時は未成年(特に学生)の飲酒に対して世間が大らかだったし、父が「外では飲むな。家で飲む分には、好きに飲んでいい」というポリシーだったので、いろいろなお酒を試していた(自分の酔い方、酒量の限界、嗜好などが分かって、大いに助かった。違法ではあったが、役に立つ方針だった。「親父、ありがとう!」)。
 幾らか生意気な学生で、「サントリー・オールド」以下のクラスの国産ウィスキーは殆ど飲まず、「ホワイト・ホース」や「ブラック・アンド・ホワイト」といった当時「スタンダード・クラスのスコッチ」と呼んでいたウィスキーを酒屋で買ってもいたし、ボトル・キープして外でも飲んでいた(当時の六本木は今のようにごみごみした街ではなかった)。
 「ホワイト・ホース」は当時酒屋で7、8千円だっただろうか。「グレンフィディック」が1万円、「グレンリベット」が1万2千円の時代で、シングル・モルトは高級品だった。今にして思うと、大半が税金だったわけだが、当時のスコッチは値段なりに美味しいような気がしていた。
 これらのお酒の現行品は何れも2千円前後、あるいはそれ以下でスーパー・マーケットの酒類コーナーに置かれているが、残念ながら、飲んで美味しいということはほぼない。安いので文句は言いにくいが、これはどうしたことか。

 近年、シングル・モルトのウィスキーをよく飲むようになって、70年代以前に蒸留されたモルトが、その後のものよりも、どうやらかなり美味しいことが分かった(師匠及び有識者のご教示のお蔭もある)。樽で長期熟成したものでなくても、たとえば12年物でも、蒸留が70年代以前だとかなり美味しいのだ。
 そのうちに、モルト専門のバーのバーテンダー(神保町の「モルトの師」)も、時々、ブレンディッド・ウィスキーのオールド・ボトルを勧めてくれるようになり、「ホワイト・ホース」とか「カティーサーク」といった、学生時分に飲んでいたお酒のオールド・ボトルを飲むと、これが意外なくらい美味しい。

 ところが、オールド・ボトルは、先ずどの年代の何が美味しいかが、基本的に愛好者達の評判を聞かなければ分からないし、同じ年代の同じ銘柄でも一壜ごとに出来不出来があり、開けてみなければどんな味か分からない。もちろん、評判の高い物は、値段も高い。率直にいって、私のような素人の酒飲みが直接自分で入手して飲むのは、手に余る。「結婚してみなければ良さが分からない素晴らしい女性」くらい扱いに困る。私は、オールド・ボトルは、自分で買うことを諦めている。

 「ホワイト・ホース」が、ラガヴーリンをキー・モルト(ベースではないが、味のアクセントを付けるために使うモルト)に使い始めた時期が何時からなのかは知らないが、写真のホワイト・ホースを口に含んで最初に感じたのはラガヴーリンの香りだった。超オールド・ボトルでアルコール度数は数度下がっている感じなのだが、決してアタックが弱い感じがしない。その後、口の中に決して甘くないアーモンドの枯れたもののような香りが拡がって、喉を通りすぎた後には、両方の香りが交互に何度も戻ってくる。味は、刺激を求めると、はかなく淡いのだが、香りは複雑だ。
 ラベルを見ると、ホワイト・ホースはすっかりブラウン・ホースになっていて、さらによく見ると「bottled 1941」とある。これは前回、日本が負けた戦争の戦時中のボトリングということになるが、当時からこんな美味い物を作って飲んでいた相手に勝てるはずもなかったと納得した。
 付け加えると、写真の「スペイ・ロイヤル」はもう少し新しいもので(60年代か70年代のボトリングだろう)、モルトのように輪郭がハッキリしているわけではなく、角は取れているのだが、十分なインパクトと余韻のある「複合スペイサイド」だ。価格的にはホワイト・ホースの約半分だ。
 尚、現在、この店には、このホワイト・ホースを更に上回る貫禄と味の脱帽物のオールド・ボトルがもう一本ある。

 それにしても、オールド・ボトルはなぜ美味しいのか、正確な理由が分からない。
 ボトリングされた時点で、樽の中での熟成は止まっているわけだから、樽の風味がつくこともないし、樽を通じた外気との交流もない。しかし、壜の中でも僅かなスピードで熟成が行われているようだ。あるいは、「熟成」というのは正確でないかも知れないが、「変化」はするようだ。それが、好ましい方向に働いたときに、いいオールド・ボトルが出来上がるにちがいない。
 たぶん、誰かがもともと計画してそうなるというのではなく、偶然そういうことが起こるのだろう。
 もう一つ考えられる原因は、原料なのか、製法なのか分からないが、昔のウィスキーは素材が良かったのだろう。現行品を壜で長いこと置いても、美味しいオールド・ボトルが出来るとはどうにも想像しにくい。
 昔のような美味しいものが将来は飲めないというのは何とも残念なことだが、「物」でも「事」でも、いつでも再生可能ではないというところが、面白いのかも知れない。

 ところで、月日が経つと「山崎」はどう変わるのだろうか?
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「岩瀬式! 加速勉強法」に見る秀才の努力

 ライフネット生命保険の副社長、岩瀬大輔氏の「岩瀬式! 加速勉強法」(大和書房)を読んだ。岩瀬氏は、東大在学中に司法試験に合格、ハーバードのMBAで20数年ぶりに上位5%の成績を取った日本人にして、現在ネット生保の起業を成功させつつある有名な秀才だ(ライフネット生命の業績は順調に伸びているように見える。詳しくは→ http://www.lifenet-seimei.co.jp/shared/pdf/LIFENET_disclosure_zine_2009.pdf)。勉強法流行の昨今、彼を著者にしてタイトルに「勉強法」と付く本を出せた時点で、出版企画的に、先ずは成功だ。
 私は、若くて頭のいい人物が理屈抜きに好きだし、ご本人にも何度か会ったことがある。以下の文章は書評としては、少し甘いかも知れないとあらかじめお断りしておく。付け加えると、岩瀬氏の格好のいいところは、優秀な能力を有利で安全な立場を手に入れるために使うのではなく、「いざというときは何とかなるでしょう」という程度の保険程度に扱っているところだ。お酒も飲むし、よく遊ぶ。朝から晩まで自己啓発に励み続けるような暑苦しい人物ではない。
 この本も、自信と客観性がバランスしているから、自慢にも走らないし、逆に過剰に謙遜する鬱陶しさもない。

 秀才の書いた勉強法は参考になるか。多くの読者にとって真似は出来ないが、参考になる、といえるだろう。たとえば、はっきり言って東大にはいるのに苦労する程度の頭の人が岩瀬式を真似ても、仕事や勉強に於いて岩瀬氏のような達成度を得ることはできないだろう。だが、勉強にあって、秀才でも苦労したり工夫したりするポイントがどこなのかを知ることは参考になるし、面白い。
 秀才、あるいは一般に頭が良いと言われる人には三通りのタイプがある。
 (1)「勉強が続く人」、(2)「勘のいい人」、(3)「要領のいい人」だ。
 一番多いのは、(1)で勉強的体力が強い人だ。継続は力であり、安定的に力を発揮する。
 (2)は答えから先に分かるような物事の構造を見渡すのが上手い人で、これは確かにいるけれども、何かとムラが大きい。
 (3)は切り替えが上手で必要なときに必要なことに自然に集中できる人だ。遙か昔、私が田舎から東京に出てきて東京の秀才達を見たときに、ああ秀才とはこういうことができる人たちなのか、と思った記憶がある。
 岩瀬氏は、(1)、(2)でも高いレベルをお持ちだが(特に、人一倍負けず嫌いだから、(1)のパワーも大きい)、(3)の系統に属する秀才だろうと思う。つまり、勉強法のノウハウを聞いてみたい人物だ。

 本の内容は大まかに二つに分かれているように感じた。
 前半は岩瀬式!加速勉強法のコアになる手順の説明で、後半は彼の知的処世術だ。尚、彼は勉強と仕事について敢えて区別をしていない。知的努力の必要な仕事に対しては勉強と同様に取り組んでいるようで、彼の勉強術は同時に仕事術でもある。

 加速勉強法の手順は、私流にまとめ直すと、(1)問題の構造を見極めることに時間を使う、(2)できるだけ「生」に近い情報を労力を惜しまずにインプットする、(3)しばし対象と距離を取る、(4)やがて突破口が見つかるのでそこで勢いをつけて一気にレベルを高める、というものだ。
 読みながら、この構造はどこかで見覚えがある、と思った。
 読者はアマゾンで岩瀬氏の本を発注するついでに、ジェームス・W・ヤングの「アイデアの作り方」(今井茂雄訳、TBSブリタニカ)を一緒に買うといいだろう(合計1500円を超えるので、送料がタダになる)。
 ヤングの方法は、(A)テーマに関連する物事について調べるだけ調べて、(B)しばらく問題から離れて時間を取って、(C)無意識が問題を整理して解決の糸口やアイデアを与えてくれるのを待つ、という一種の脳の使い方のノウハウだ。
 これに対して「岩瀬式!加速勉強法」では、(A)のプロセスで何が必要なのかについて意図的・戦略的に取り組み、(C)のプロセスで得られる達成の喜びを勉強の馬力に替えて集中力を発揮するというような仕掛けになっている。根性論は嫌いだ、しかしやる気は是非必要だし、目的は達成したい、となると、これは上手いやり方だ。
 高度な達成のためには、集中力の発揮と継続が必要になるが、これを意図的に作る岩瀬式の手順が確立している。(4)以降の効果に自信と期待があるので、(1)と(2)を実行することができる訳だが、岩瀬氏の場合、大小何度も成功体験を持っているので、これが不安なく十分に実行できるのが、凡人に対する能力以外のもう一つのアドバンテージだ。

 思うに、勉強法を含めて、広義の自己啓発本の概念的な構造は、少数のパターンで殆ど説明し尽くすことが出来る。私も自己啓発本「的」な本を書かないとは言い切れないし、自己啓発本マニアではないから種明かしはしないが、基本のパターンは4つ、それが書かれた本で言えば3冊だ。
 世にある自己啓発本(の中でまともなもの)は、これらのパターンの1つないし複数を種に使って、事例を変え、レトリックを変えて世に問うたものだ。前にも書いたことがあるが、商品としてよくできた上手い自己啓発本は、読書中に能力の一時的高揚感のようなものが得られる。読者をその気にさせるわけだ。だが、内容的には、実質的に新しいことが書かれていることはまずない。
 ヤングの前掲書はその中の1パターンを簡潔に記した基本書の1冊である。岩瀬本は、内容的には、この系統の本ではないかと思う。もっとも、私は秀才ではないから、こうした理解で本当にいいのかどうかは自信がない。
 読者をその気にさせるテクニックが十分発揮されているとは言い難いので、大ベストセラーにはならないような気がするが、マジメで正直に書かれているので、勉強法の構造をやさしく苦労なく理解できるという意味では実用書として良心的だ。若い読者にお勧めしたい。

 後半の岩瀬式処世術もそれなりに面白い。岩瀬さん流の効果的な自己表現の方法やプレゼンテーションの心得、それに他人の力の借り方などが語られているわけだが、天下の秀才でも普通のビジネスパーソンと同じ苦労をしながら、成長していることが分かる。人によっては、少し安心するだろう。
 もっとも、他人から協力を得るためには、敢えてツッコミ所を残しておくことが大事だ(「つっこまびりてぃ」が大事なんだとさ・・・)、などということも書かれている。喜んでツッコンだら、岩瀬さんの予定通りだった、などということがあるかも知れないから、秀才には油断しない方がいい。
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元官僚の友人と会った

 数日前、路上でばったり学生時代の友人に会った。概ね同年代だが、彼の方が少し年上だ。ある経済官庁にいわゆるキャリア官僚として就職した。数年に一度くらい会う機会のある相手で、この日も数年振りだった。
 近くの喫茶店でアイスティーを飲みながら身の上話を聞くと、昨年官庁を辞めて、現在はある民間会社の幹部社員だという。
 以下、断片的で恐縮だが、彼の話で印象に残った台詞。

(1)「去年、役所を辞めたのは、もう役所には将来は無いと思ったから。これからは、天下りだってなくなっていくし、どうせ民主党政権なんだろう。役所関係の知り合いは、だいたいが『お前、いいときに辞めたな』と言うよ」

(2)「現在の○○省(注;彼の出身官庁)には、もう『目的』というものがない。人事評価にも『信賞必罰』というものが機能していない。そんな職場は嫌だ」

(3)「この頃は役所の建物もセキュリティが厳しくてね。あれやこれやと手続きを作った。そうしたら、民間の会社の連中が寄りつかなくなって、ぜんぜん情報が入ってこなくなった。仕事していない奴は、静かになって満足なんだろうな」

(4)「50代の半ばを過ぎて役所に居ても、給料も退職金もそんなに増えない。正直なところ、局長くらいにはなる確率が高いと思うが、なったからといって、どうということはない。それからのことを考えると、行き先なんてないかも知れない。現在、年収は次官並み(2千数百万円)だし、今後のことを考えると、経済的には明らかにこちらの方がいい」

(5)「民間の会社だって、活きのいい、これからまだまだ働く人材が欲しい。50歳を超えてからだったから、(自分の)転職はもう遅すぎるくらいのものだった。たぶん、ラスト・チャンスだっただろう」

(6)「官庁の人材(対象はキャリア)には上・中・下がいる。今後、上の部類は、30代、40代で民間会社に出て活躍するようになるのではないか。中は、役所に残って局長でもやればいい。局長なんて、国会答弁さえ出来ればいいのだから、そんなに出来の良くない人材でも十分だ。これは、△△次官も同意見だった。下の人材は、どこに持っていっても使えないから、まあ、迷惑を掛けないように飼い殺しにするしかないな」

(7)「現在の職場は、目下の所環境は厳しいが、俺の担当業務は何れも目標を達成している。もちろん、やり甲斐はこっちの仕事の方がある。まあ、正解だったと思うんだが、ヤマザキはどう思う?」

 最後の問いには、もちろん、「正解だろうね」と答えた。
 彼は、本人が言うとおり、役所に残れば最低でも局長にはなっただろうと思われる。組織で出世する素養を十分持った人物なのだ。しかし、役所の職場環境がそんなに嫌なら、辞めるのは正解だろう。また、細かな経済的計算の話も聞いたが、経済的には確かに彼の選択は正解だと思われた。現在の仕事に張り合いと可能性があるのも本当らしい。

 ただ、別れ際に言おうかと思って、思い直して飲み込んだのだが、「ところで、あなたは、何がやりたくて○○省に入ったのか。在任中にやりたかったことは何だったのか?」と彼に訊いてみたかった。
 一国民として元官僚に問いたいというような意図ではない。かくも嫌な職場で存在自体に意味がないと思う官庁だったのなら、そこに余りにも長く彼が居たことの理由が知りたかったし、友人として不憫にも思うので、その答えが聞きたいということだ。
 そこで訊かなかったのは、もう少しじっくり話す時間があるときに語りたい話題だったからなのだが(しらふで話すのも調子が出ない話題だし)、今も心に引っ掛かっている。

 それにしても、今後は、何をやりたくて、どんな人が官僚になるのか。また、官僚をどう処遇したらいいのか。友人の出身官庁については「廃止」(民営化もしようがないくらい役に立っていないので廃止)でいいが、幾つかの将来も残すべき官庁については考えなければならない。
 答えはほぼ出ているような気がするが、望ましい形に無事に移行できるかということも含めて、心配な問題の一つだ。
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「レスラー」を観て仕事の意義を考えた

 映画「レスラー」(監督ダーレン・アロノフスキー、主演ミッキー・ローク)を観た。映画を観るのにいちいちきっかけが必要な訳ではないが、先般のプロレスラー三沢光晴氏の事故死が心に引っ掛かっていたことは否めない。私は現在のプロレスのファンではないが、三沢選手の死は何とも残念だった。
 三沢選手の死については、その後も波紋を呼んでいて、プロレスラーの安全対策などが検討されている。この件について一言だけ言って置きたいのは、三沢選手に技(バック・ドロップ)を掛けた相手には一分の責任もないということだ。このことだけは、分かってやって欲しい。
 プロレスの技は、掛ける側・掛けられる側の相互の信頼と了解に基づいて行われるものであって、本当に相手を痛めつけることを目的に仕掛けられるものではない。三沢選手は受けの達人であった。バックドロップは、大きな技だが、近年ではありふれた技だ。三沢選手なら、過去に数百回以上受けているのではないか。相手選手に責任は全くない。相手選手は、後悔を感じているだろうし、精神的にショックを受けているかも知れない。彼を責めてはいけないし、まして捜査やヒアリングの対象になどして欲しくはない。今、生きている人たちこそが大切だ。

 プロレスラー同士が、お互いの身体をいたわり合い、仲間として尊重し合いながら、肉体的に厳しい仕事をしていることは、映画「レスラー」でも丁寧に描かれている(以下の拙文には「ネタバレ」の要素がありますが、映画は、これ以外には展開のしようのないストーリーなので、これから観るに人もたぶん大きな問題はないでしょう)。
 映画としての「レスラー」は素晴らしかった。特に、中年レスラーの身体と動きをリアルに作り上げたミッキー・ロークの役作りと、シーンの無駄が一切無い引き締まった脚本の二点に感心した。
 盛りを過ぎた中年プロレスラーの肉体を迫力も汚さも含めてそっくり作って隠さず見せたミッキー・ロークの執念には本当に感服した。あの身体を作るためには、当然、薬も使ったのだろう。単に「役作り」にとどまらない「薬造り」の肉体にちがいない。闘うシーンも本人で、それなりの形になっている。これは、命懸けの熱演だ。
 近年のハリウッド映画には、余計なサブ・ストーリーがあったり、意味もなく老人・子供・犬やファッションなどが登場したりして、しかも、画質を落とさずにDVDに録画できないようにということか、120分を超える内容の割に冗長なものが多いが、この映画には無駄なシーンが全くない。かといって、説明不足も一切無い。ラストもあの後に映像があると余計だ。
 時間があれば、もう一度観てみたい。

 さて、この「レスラー」だが、1980年代に全盛期を迎え、今やスーパー・マーケットでアルバイトをしながら辛うじてプロレスを続けてきた中年レスラーが、心臓発作を起こして倒れて、バイパス手術を受け、医者にプロレスを止められるが、全盛期の有名カードの再戦興行に命懸けで臨む、というストーリーだ。娘や恋人的女性が絡む場面もあるし、「ナインハーフ」的な「技」を披露するシーンもあるのだが、「プロレスに生きる男」が話の本筋だ。
 だが、この映画の最後のシーンを観ながら考えたのは、このランディ・ロビンソンという役名のレスラーにとって、自分の「仕事」がどれだけ大切なのかということだった。自分の仕事はレスラーであり、ファンのためにもリングに立って試合をするという決意は美しいが、この映画の設定では、彼は激しいプロレスの試合をして、しかも自分の大技を繰り出したりすると、命を落とすかも知れないのだ。
 それでも彼は再戦興行のリングに立ち、コーナー・ポストの最上段から飛ぶのだが、これは何故か。そして正しいのか、と考えると分からなくなってくる。
 彼にとって、自分が最も輝く場がプロレスだとして、これをやりたいことは分かる。しかし、スーパー・マーケットの惣菜売り場で、「元人気プロレスラー」として、命の危険なく、そして卑屈にもならずに生きることにも勇気が要る。それができれば、ある意味ではこれ以上ないくらいに立派で男らしい。
 でも、彼は、その境遇に耐えることが出来なかった。照れもあれば、刺激にも弱い、人間味のある人物だ。そして、必然的に昔のカードの「リマッチ」のリングに向かう。これは、プロレスラーとしての自分のアイデンティティに対して純粋で、仕事に対して情熱的な美しい行為なのか。あるいは、我慢の出来ない短慮の愚行なのか。

 最新号の「経済セミナー」(2009年、6・7月号)の巻頭に、玄田有史氏と湯浅誠氏の対談が載っている。
 この中で湯浅氏は「働くことと人格の強固すぎる結びつき」とその危険性を指摘されている。働いていない人間には価値がないのだと考える、第三者及び、それ以上に本人の先入観が問題なのだ。
 湯浅氏は「新自由主義が壊れてもこの問題は残ります。日本社会の岩盤に関わる問題で、本当の問題はここにあるのだろうと思います」と語っている。この指摘は鋭いし、正しいと思う。

 「レスラー」が、主題として、自分の「職」が人間にとってのアイデンティティとして大切であること描いた映画なのだと受け止めると、少し危ない。
 ストーリーを反芻しつつ考えてみると、主役のランディの場合、一つには他人との結びつきの場所として、もう一つには自分の存在を最大限にアピールできる場所として、プロレスが大切なのだ。彼はファンが大切だった。再戦のリングに上がって、ファン以外に自分を引退させる権利のある者はいないと述べてから、命懸けの試合を開始した。
 人間は、自分が見て欲しいと思う自分を基本的に同意して見てくれる他者を必要としており、それが「レスラー」のランディにはプロレス会場のファンだったということなので彼が職業を持っていることに拘っているわけではないが、この職業を失った時に精神に埋めがたい空白が出来るようにも見えるから、彼にはやはり危うさがある。
 ランディの場合は、その後に希望があるとしても、家族は全壊に近い崩壊状態だった。家族がいないことの空白感は大きかっただろう。
 ただ、一方で、一般論として、家族のため「だけ」がアイデンティティでもあるような人物というものは単純にツマラナイ。
 それにしても、ミッキー・ロークではなく、ランディというレスラーが実在しているように感じる。「レスラー」は実にいい映画だった。

 玄田・湯浅対談に話を戻すと、湯浅氏の「日本社会は働くことが人々のアイデンティティーになり過ぎている」という指摘は正しい。失業の際の喪失感が異様に大きいし、仕事を失うと自分を失ったように思うことが多いというのもその通りだろう。付け加えると、世間も、失業者・無業者に厳しい。こうした社会的な価値観は解毒する必要がある。
 働くことは大切なことかも知れないが、本人は好きで働いているのだから殊更に立派なことではないし、働かずに食えるなら、それはそれで大したものであって、他人がとやかく言うべきものではない。

 他方、湯浅氏は、生活保護と最低賃金について「最低賃金と生活保護基準を同じレベルの問題として考える必要がある」と仰っているが、これはもう一つピンと来ない。「失業しても生活できる人は、劣悪な非正規労働にはいかないはずだ」とも言っておられるが、これは「そんなもの」なのだろうか。
 生活保護がどうあるべきかにもよるが、低賃金の労働であっても生活保護に加えて追加的な収入が欲しいと思う人は働くインセンティブがあるだろう。生活保護が「働いて収入があれば、その分給付を減らす」というような働くインセンティブを失わせる構造になっているとすれば、先ずそこを修正する必要があるだろう。たとえば「負の所得税」(あるいはベーシック・インカム)的な働くインセンティブを損なわない所得再分配の仕組みが必要だ。
 賃金の水準はそれぞれのビジネスに於ける労働の需給から決まるべきものであって、生活保護で保証しようとする水準よりも高くても低くてもいい。働いているのに生活保護よりも低報酬では人間の尊厳が損なわれていると思うなら、それは、仕事が人間の存在意義だという悪しき社会的価値観に別の形で囚われてるように見える。
 契約の遵守は重要であり、この点で企業を甘やかす必要はないが、解雇をやりにくくしたり、最低賃金を上げたりというようなことを企業に強いると、労働者の機会がかえって狭まるように思われる。基本的に企業を闘争の対象にするのは間違いなのだ。同様の意味で、労働組合との連帯という戦略はいただけない。労働組合は、当面多少の影響力が有効に使えるとしても、根本的には無くても済むようにするべきものだろう。
 湯浅氏の主張をまだ十分読んだことがないので、彼の意見をここで批判するつもりはないが、この対談を読むと、彼は敵方に対するレッテルとして「新自由主義」という言葉を何度か使っている。自由な経済取引をむやみに敵視すると、かえって労働者のメリットが損なわれるのではないか。
 セーフティーネットは企業と関係なく、個人個人を対象として政府と社会が作るべきものだろう。

 最後にもう一度話を戻すと「あなたは自分の『仕事』以外にどんなアイデンティティがあるのか?」という問いはとても重い。しかし、このことを十分考えないと、いい人生もいい社会も作れないにちがいない。
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同窓会にふさわしい話題は何か?

 今週末に、高校の同窓会がある。私が卒業した高校(札幌南高校)は北海道にあるが、地元札幌の他に、東京にも同窓会組織があるようだ。確かに、東京に出稼ぎ(?)に来ている卒業生が多い。会場が拙宅の近くであることもあり二次会(飲み会)だけでなく一次会から出席するが、主目的は同年次近辺の知り合いの最近の顔を見たいということだ。選挙に出る予定があるわけでもないし、生命保険のセールスをしているわけでもないので、人脈開拓のために行くわけではない。旧友と会うのが楽しみなだけなので、卒業年次単位で行われる二次会が「本番」である。

 先日、友人とお酒を飲みながら、同窓会(以下、本番である飲み会を指す)に不適当な話題は何かという話になった。

 私は、病気の話題を挙げた。病気の話は、辛気くさくて場が暗くなりがちだし、本人は熱心に話すので、その話題が他人にとってはツマラナイのに長引くことが多い。また、同窓会(同期会、クラス会を含む)では、同窓生の老い具合・弱り具合を見て、自分と較べて安心するといった安らぎを求める層が存在するので、雰囲気的に、「みんな、年は取るね」「これからは、何があってもおかしくないね」といった方向に対して同意を強要されることがある。

 自分の加齢や体力的な衰えは現実だし、そう気にならないのだが、病気の話は聞いて疲れるし、「みな同じように、老いる」という事実に何の面白味があるわけでもない。また、他人の血糖値だの前立腺の状態だのに対して、話題にすべき興味を感じるわけでもない。こうした話題に長時間付き合うと、何やら悪い影響を受けたような気になる。特に、私の場合、純粋サラリーマンの友人たちよりも長く働こうと思っているので、嬉しくない影響だということもある(陰気な話が嫌い、というのが一番の理由だが)。

 しかし、傾向として、集まって話をする人間の年齢が上がってくると、病気の話題(健康だという話や健康法の話も含めて)は確実に増える。同窓会に限らず、これは強力な法則で、嫌になるくらい現実に当てはまる。

 友人の一人は、不適当な話題として、子供の話題を挙げた。子供のいない参加者にとってツマラナイし、それ以上に、子供の問題は進学の状況なども絡んで優劣が付きやすいので、飲み会の話題に不適当なのだという。確かに、一流の学校にスイスイと進学する子供を持っている親もいれば、子供の進学が深刻な問題になっている親もいる。特に、自慢話をするのには不適当だろう。

 同様に、仕事の話も本人の世間的な出世具合の優劣が絡むので、適当とは言いにくい。私の年齢(昭和33年生まれ。5月に51歳になった)では、サラリーマンの場合、大体先が見えていることが多いし、もちろん個人差が大きい。特に、大学の同期の集まりのような場では、スタートラインが近い分だけ「差」が深刻だ。威張っている奴はからかってもいいので大きな害はないが、出世し損なった友人の愚痴や虚勢などを聞きすぎるとネガティブな影響を受けることがある。

 病気・子供・仕事(出世も含む)は何れも「自分の話題」として展開される。同窓生同士だから、相手の個人的な状況にも興味はあるのだが、どの程度自分の話題で引っ張っていいかは程度問題だ。10人で一時間話す間に、一人が50分間自分の病気や仕事の話をしているというのは、迷惑な場合が多かろう。「自分の話」がどれくらいの割合を占めているか、というバランス感覚は必要だ。

 それでは、世間話ならいいかというと、これも簡単ではない。宗教や政治の話がパーティーの話題にふさわしくないとはよく言われることだが、確かにそうだと思う。先日も、ある集まりで久しぶりに会った友人数人と世間話をしていたら、その中に、政治に熱心な宗教団体の会員さんがいて、「総選挙はいいけど、都議選だけはよろしく頼む」などと言われてしまった。

 食欲・性欲は一般的な欲求なので話題にし易いかとも思うが、何が美味しいという話題も、性的な話題も、ある程度以上の年寄り同士で話すと、注意していないと、健康の話にすり替わってしまう。

 会話の参加者が興味を持って話せて、陰気にならず、自慢話にならず、自分にしか関わらない話題ではなく、主義主張の対立を招かない話題というのは、考えてみると難しい。皆が興味を持つ世間話があるといいが、日頃から話題の仕入れに気を配る必要がある。

 そういえば、映画「グラントリノ」でクリント・イーストウッドが扮する老人が、隣人のモン族の青年に、「大人の男の会話」を教える場面があったが、話題選びの指針は「そこに居ない奴の悪口を言うんだ」(誇張を交えて、冗談として話す)であった。これは、有力な選択肢だが、同窓会の場合、毒の入れ具合と抜き具合の加減が難しいかも知れない。

 同窓会まではまだ日があるので、話題を考える時間はあるが、結局、「あいつはいまどうしているの?」という話題を次々に話して、やりとりがなるべく陰気にならないようにする、というくらいが落とし所なのだろう。
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「群れない社会主義者」森永卓郎先輩のこと

 森永卓郎氏のブログが久しぶりに更新された。おそらく彼のテレビでの発言が問題となって、コメント欄がいわゆる「炎上」状態となって3ヶ月くらい更新が止まっていたが、最近になって静岡県のヤキソバ(おかべ焼きそば。玉露入り)の写真がUPされた。直接見聞きしていないことでもあり、氏のテレビでの発言については、ここでは論じない(この件に関連するコメントはご遠慮下さい)。

 森永氏は私の一歳年上だ。同じ大学の同じ学部を卒業しているし、長らくUFJ総研に在職されていたので、世間的には「先輩」ということになる。
 UFJ総研では、同時期に4年半過ごしていたわけだが、会社でお会いしたのは、ほんの数回だった。エレベーターの扉が開いて、まるで紙袋を下げたたトトロのように森永氏が現れたことが二、三度あって、これが印象に残っている。テレビで見る印象よりもさらに小柄で丸かった。
 「証券会社の社員ではない経済のコメンテーター」という括りになるためか(もっとも森永さんは日経センターに出向経験がある日本の民間エコノミストとしては正統派の経歴の持ち主だ)、同じテーマで、森永氏と私が共に取材されることが多かった。「今、森永さんに会ってきました」「次は、森永さんのところに行きます」と記者が言うことが再々あった。向こうも、こちらも、彼らを通じてお互いの近況を把握していた。

 手元に「モテなくても人生は愉しい」(森永卓郎著、PHP研究所刊)という無理気味のタイトルのご著書がある。氏は人一倍「モテたい!」人なのではないかと私は推測しているので、このタイトルは信用していない。
 女性は平凡よりも「他人とちがう」対象を好むことが多い(ような気がする)。従って、多数からはモテていないかも知れないが、森永氏を好む女性が確実に一定割合居ると推測する。つまり、森永先輩は十分モテているのではないだろうか。
 しかし、数年前にお聞きした話によると「ニュース・ステーション」(当時)のスタッフから「女性と飲みに行ってはいけません。二人きりで出かけるなんて、もっての外ですよ」と注意されていたという。氏は恋愛の研究がライフワークなのだそうで、「困っている」と仰っていた。そのせいか、初めてお目に掛かってから十年近くになるが、森永氏に関して浮いた噂を聞いたことがない。実のところは、どうなのだろうか。

 森永氏は、いわゆる「オタク」としても有名だ。私はオタクの道については詳しくないが、さる人から、オタクとしての森永氏は「事柄」よりも「モノの所有」にウェイトが偏っているのが特徴だとお聞きしたことがある。実際、彼のモノのコレクターぶりは並はずれている。二、三年前に、秋葉原にビルを買って、コレクションを展示する場所(博物館?)を作りたい、と仰っていたが、その後も忙しく働いて(稼いで)おられるようだし、不動産価格が下落しているので、これは、そろそろ実現するのかもしれない。

 森永先輩は、経済政策的には一貫して大きな政府・大きな福祉を指向されている(政治的には戦争反対の「ハト派」だ)。近時の不景気の前から、財政・金融共に拡張論者だ。小泉首相時代に流行った「構造改革」に対しては大いに批判的だった。彼と話していると、竹中平蔵さん、木村剛さん辺りが仮想論敵になることが多い。
 ある時「官僚の狡さや、政府が関わる仕事の非効率性は気にならないのですか?」とお訊きしたことがあるのだが、「うーん、それもそうなんだけど、大企業やお金持ちからもっとお金を取って、貧乏人のために使うことが大事だ」というような答えが返って来たように記憶している。自由な競争や市場原理に対しては大いに懐疑的だ。
 私も対談の際に「ヤマザキさんは、金持ちの味方だから」と攻撃されたことがあるし、いつぞや森永氏が雑誌に載せた「エコノミスト・マップ」のようなもので、彼が敵意を隠さない木村剛氏と同じ場所に分類されたことがあるのだが、その割には、嫌われずに済んでいるようだ。ある雑誌の取材(たぶん座談会)の席で、森永氏が「僕はIT長者に何人も会ったが、彼らは一様に落ち着かない風情で幸せそうに見えなかった。一方、ヤマザキさんは、あんまり稼いでいないけれども、好きなことを言い放題言って暮らしていて、ずっと幸せそうだ」と褒められた(?)ことがある。
 IT長者達が不幸せに見えたというのは、森永氏流の「思い込み」のような気がしなくもないが、「幸せそうだ」と言われたのは嬉しかった。
 多少無理気味でも「そうだ!」と思ったことは「思い込んでみる」、というのが彼の発想法の一つであるように思う。この方法論でユニークな意見を作っている一方、これが氏の失言(とされるような発言)の原因にもなることがあるようにも思う。

 これも数年前の話だが、ある時「僕は、社会主義者だと言われても構いませんよ」と仰っていた。ご発言を聞いていると、確かに、社会主義者なのかも知れないと思うことがある。しかし、森永氏が特異なのは、(自称)社会主義者なのに、「群れ」を作ろうとしないことだ。「群れない社会主義者」というのは珍しい。これは氏の誇るに足る特長だと思う。

 しかし、前掲の「モテなくても人生は愉しい」を読んでも分かるが、UFJ総研では、働かない役員・社員にはきわめて不寛容で、かなり純粋な成果主義的な会社運営を主張されていたようだ。ビジネス・ユニット毎にテーマを選び、それぞれに顧客獲得の営業を行い、稼ぎに応じて報酬を支払う、という森永氏らが作った当時のUFJ総研の仕組みが極めて資本主義的だったのはちょっと面白い。

 森永氏は、UFJ総研時代からずっとハードワーカーだ。ご本人の言によると、何年間も殆ど休みを取っていないらしい。そして、過労のためか、顔色が悪いことが多かった。
「健康診断で医者に『この調子で働いていたら、5年後の命は保証出来ない』と言われたんだよ。でも、それ、10年前のことなんだけど」というのが、氏の健康に関する定番のジョークだ。
 はじめてこの話を聞いてから、さらに5年以上経過している。相変わらずお忙しそうだが、健康に気を付けて、大いに活躍し続けて欲しい。
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GW映画、私の採点

 「レッドクリフⅡ」、「スラムドッグ・ミリオネア」、「グラントリノ」、「新宿インシデント」(観た順)の4映画作品について思うところを書く。いわゆるネタバレを気にせずに書くので、これらの映画をこれから見ようという方で、ネタバレを嫌う方は、以下の拙文を読まないで下さい。

 私は映画評論家ではない。従って、私がどうこう言ったからといって、映画の興行成績に影響するとは思えないのだが、公開中の映画については、ネガティブなコメントをするには覚悟がいるとの気持ちを多少は抱く。映画の関係者が、本の編集者のように世評を気にするのではないか、と実感を伴って、想像できるからだ。(同時に、そこまで意識するのは、自意識過剰だろう、とも思う)
 しかし、映画を観ると、それについて語りたくなるのも一方の事実なので、ゴールデン・ウィーク向けに公開された4本の映画について、感想と採点を書いてみたい。どうせブログなのだから、これくらいはいいのではないか。

 尚、最近、映画をなるべく観ておきたいという気分になっている。経済や市場関係のコメントを生業にしていると、どうしても、人間のストーリーに対する感性が退化するような気がする(気のせいかも知れませんが)。また、「〆切は自由にならないが、時間の使い方は割合自由だ」という私の生活にあって、映画は3時間くらい時間を都合すればいいので、付き合いやすい娯楽である(その分安易な娯楽でもあるが)。時間を都合して、平日の初回に観ると、ゆったりと観ることが出来るのは、出来高が増える前に株を買うような趣のいい気分だ。

 採点から行こう。点数が高い順に以下の通りだ。

「新宿インシデント」 85点
「グラントリノ」 80点
「スラムドッグ・ミリオネア」 70点
「レッドクリフⅡ」 50点

 大学の成績に置き換えると、順に、A、A、B、D、ということになる。

 「新宿インシデント」は、主演のジャッキー・チェン(プロデューサー兼)が、日本に不法入国して生きるためにいろいろなものに手を染める中国人に扮する、いかにもリアルでダークなテイストの映画だ。この映画でのジャッキー・チェンは、カンフーもやらないし、強くも、格好良くもない。刃物で人も刺すし、追われると逃げるし、女も買う。頭が大きくて、足の短い、冴えない風采の中年東洋人だ。
 このジャッキー(役名は「鉄頭」)の、それなりに正義感もあるが、生きるためには悪いこともするし、他人とのやりとりを「取引」として考え、結局、相当に悪いことに手を染めていく、人間としてリアルな堕ち具合が実にいい。
 作品のテーマは、監督にでも聞いてみないと分からないが、私の感じたところは以下の通りだ。
 人間は、最初は食べられて快適なら十分に幸せな生き物だが、生きていて他人を見るうちに、あれも欲しい、これも欲しいと思うようになり、欲望が育ってしまう。そして、最終的には、自分の好きなもののお蔭で滅びていく。人間の関わりの中で、一人でバランスを取ることは難しい。それが、人間なのだ、ということが色濃く描かれている。
 中国語と日本語が混じることで、そもそも人間のコミュニケーションというものが、いかにも頼りないものであることも分かる。ストーリー自体が、現実にありそうかというと、そうでもないので脚本の完成度は今一つだと思うのだが、基本的に人間の描き方がいい。
 主な登場人物は誰一人幸せにはならない物語なので、好き嫌いはあろうが、今年のGW映画ではこれがイチオシだ。

 クリント・イーストウッド監督・主演の「グラントリノ」も佳作だ。フォード自動車の工員だった頑固で差別的なイーストウッドの爺さん(ミスター・コワルスキー)が、隣に越してきた東洋人の家族と徐々にうち解けて、行きがかり上その家の息子を指導するうちに、この青年のために、彼と東洋人の不良グループとの間を引き離すための解決策を、この爺さんが実行することになる、というのが粗筋だ。大筋としては感動できるストーリーなのだが、脚本にどうしても納得できない箇所があった。
 途中、この老人が何度か喀血して病院に行き、重病であるかも知れないことが示唆されるのだが(なのにアメリカ人の実の息子は父の病変に気づかない)、このエピソードは、クライマックスのシーンで、イーストウッドが単身不良達のもとに乗り込んで、彼らの銃弾を浴びて、彼らを刑務所送りにすることで、隣人(特に青年)と不良グループを引き離す訳だが、この命を捨てる献身の価値を下げているように思えるのだ。
 また、言いにくいことだが、人間の心理を表現するにあたって、クリント・イーストウッドは果たして上手い役者なのかという点についても、若干の疑問を覚えた。今回の役は、十分老人である彼が地に近い感覚で演じられる役だし、「これはイーストウッドだ」と思いながら観る訳なので、見る側で大きな不満はないのだが、「ブランド物の大根(役者)」にお金を払ったような気になる。
 もっとも、ダーティー・ハリーのシリーズをはじめとして、多くの人間を銃弾で穴だらけにしてきたクリント・イーストウッドが、本作では、自分が蜂の巣になることで物事を解決するという展開には「なるほど」と兜を脱ぐ。彼はまだまだ映画を撮っていくつもりのようだが、これが遺作でも悪くないと思わせる風情がある作品だ。
 いい感じの映画であることは間違いないので、観て後悔することはないだろう。
 それにしても、イーストウッド扮する爺さんは、本作中でよくビールを飲む。観ている方がおしっこに行きたくなる位なので、鑑賞の際は、ご注意されたい。

 先般アカデミー賞を多数受賞した「スラムドッグ・ミリオネア」は、インドを舞台としたクイズ「ファイナル・アンサー」の成功物語なのだが、これを単純に成功とはいえない苛烈さがあるストーリーだ。一問の解答、一つの解決の蔭に必ず大きな代償があり(母親も死ぬし、兄貴も死ぬし、恋人も変な男の情婦にされて顔に傷を受ける)、単純にハッピーなストーリーではない。
 私の評価で80点に達しない理由は、ストーリー展開に今一つ無理があって、感情移入しきれないからだ。回答に不正があるのではないかとの疑いに基づく警察の取り調べも不自然だし、一つ一つの回答に結びつくエピソードも、もう一つよく練られていないように感じた。
 しかし、画面(見事な撮影だと思う)と音、それにテンポの良さなどは、非常に高い水準にあり、劇場で観る価値が十分ある映画だ。

 「レッドクリフⅡ」は、4作の中で最もプロモーションに力が入っていた作品なのだろうが、ストーリーが平板だし、リアリティーがあまりに乏しくて、感動できない。私は三国志を全く知らないが、それでも、途中からストーリー展開が苦労無しに予測できた。
 ジョン・ウー監督の大がかりで大げさなアクションシーンや、いかにも予算を掛けた感じの画面は、目と耳をそれなりに驚かせてくれるが、ストーリーがつまらなくて、脳味噌が全く暇になる、というような映画だ。
 ハッキリ言って、「外れ」だった。大人は楽しめまい。
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ボクシング会場に行ってきました

5月2日に、後楽園ホールに行ってきました。男女5大タイトルマッチということで、5試合組まれていました。<作業員>さんの業務連絡によりこのイベントを知りました。「第1試合の池山直選手を応援せよ」ということだろうとの意図を汲んでの観戦です。写真は、試合に臨む池山選手(中央。左は原田親方)です。

お目当ての第1試合は、チャンピオンの小関桃選手に池山直選手が挑むWBC女子世界アトム級タイトルマッチでした。

試合は、身長とリーチに勝る小関選手が、一歩一歩詰め寄る強打(左右のフックが強そう!)の池山選手をいなす展開で終始進み、結果は、3-0の判定で小関桃チャンピオンの防衛となりました。やや池山選手に「ひいき」が入っていた私の手元の採点でも98-93で小関選手だったので、この判定に違和感はありませんでした。

池山選手は左を出しながらコツコツ詰め寄るのと左右何れかの大きなフックを振りながら飛び込むのとのツーパターンで攻めましたが、小関選手の連打を食わないたくみなボディーワークが良く、またクリンチがなかなかほどけなくて、加えて距離の長い小関選手のパンチが手数多く飛んできて、結局、10ラウンドをフルにやって、詰め切ることが出来ませんでした。リズムとパンチの軌道の両方を読まれていた感じです。小関選手の技術が池山選手のパワーを上回っていたということでしょうし、全くスタミナ切れを見せなかった小関選手が総合的に勝っていました。

池山選手側から見るとすれば、出入りの速さを磨くこと、パンチの種類をもう少し増やすこと、長身選手のクリンチに対する対策を練ることなどが、今後の課題になるのでしょう。もう一度観たい対戦です。

他の4試合は何れも順当な結果でしたが、最終戦、スーパーフェザー級の内山高志選手はWBCの同級5位のトーン・ポー・チョクチャイ選手に半ば格違いともいえそうな戦いを展開し、5回にTKOし、OPBF東洋太平洋タイトルを防衛しました。相手のガードを破って左右共にパンチがよく入り、余裕を持って勝った(その分、詰めが少し甘く見えたくらい)印象でした。選手層の厚いクラスですが、WBAチャンピオンのホルヘ・リナレス選手は別格としても、超強豪の多くは上のクラスに流出しており、今後、世界タイトルのチャンスが大いにあるように思います。もちろん、本当に強い相手を求めて、リナレス選手と戦う(これなら試合は日本国内でしょうし)というのも、男らしい選択です。何れにしても、楽しみな選手です。

試合会場の美人比率にも注目していましたが、仮説は支持された、と感じました。隣の東京ドームで比較的ファン年齢層の高いロックバンドのコンサートをやっていたようで、試合の終了とコンサートの終了の時刻が概ね重なりましたが、二つの集団を比較すると「やはり、ボクシング会場に美女が多い」と思いました。私は、後楽園ホールのエレベーターを降りたところで、森山昌選手とおぼしきさっぱりした感じの美女を見かけました(人違いかも知れませんが、たぶん当たりでしょう・・・)。おそらく、池山選手の応援に見えたのでしょう。リング外の女子ボクサーもなかなか素敵だ、と付け加えておきます。
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グリーン車のハゲとボクシング会場の美女

 幻冬舎新書に「なぜグリーン車にはハゲが多いのか」(佐藤明男著)という本がある。同書の著者がグリーン車に乗って調べたところ、3車両42人中17人が薄毛の男性で、40.4%の男性が薄毛だったという。対して一般指定席は3車両228人中12.7%の人が薄毛だったという。日本人成人男子の薄毛率は26.7%で(2007年アデランス調べ)で、この数字はグリーン車と一般指定席の乗客の平均値(26.5%)とほぼ重なるという。この現象にたいする佐藤明男氏の説明は「知能が高く、競争心や支配意欲が強い薄毛の男性は出世する人が多い傾向があり、それゆえ、グリーン車には薄毛の方が乗っている割合が高いと思えるのです」というものだ。
 私は、四月から、二週間に一度東京・名古屋を往復する新幹線のグリーン車に乗る用事(東海テレビの情報番組のコメンテーター)が出来たので、行き帰りに観察してみようかと思うが、そういうこともあるかもしれないし、そうでないのかも知れない。おそらく、佐藤明男氏の意図は、「優秀な人にハゲが多いのだから、ハゲを気にするな!」ということなのではないか。この本自体は、社会ウォッチングというよりも、男性の髪の毛に関する知識の啓蒙書だ。
 このグリーン車のハゲのように、「○○○には、どうして×××な人が多いのか?」という現象を見つけて、その理由を考えることはなかなか面白い。私は、最近、いくつかのケースについて考えを巡らせて暇を潰している。
 最近理由を考えているのは「なぜボクシングの試合会場には美人(女性)が多いのだろうか?」という疑問だ。近年、年に数回程度ボクシングを試合会場で(多くは後楽園ホールで)見る機会があるのだが、会場を眺め渡して平均すると、東京の他の場所の平均よりも、明らかに美人が多いような気がする。この事実については、私と一緒ににボクシング観戦した男性複数が同意している。
 私のある友人(男性)の解釈は「人は、自分が持っていない属性を『いい』と思いやすい。自分が美しい女性は、男性に美を求めずに、強さや能力を求める傾向があるのではないか」というものだ。
 そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない。私は女性でないし、自分が美しいと思ったこともないので、この解釈の正否は実感レベルで判定できない。ただ、美人でない女性も美人と同じ程度強い男性を評価することがあってもいいような気がするので、この説明に満足していない。
 この現象に関する私の仮説は、「女性の場合、ボクシングの観戦はたいてい(特に最初は)男性に連れられてくることが多いから、『男性が連れてきてもいいと思う女性』という意味で、容姿の優れた女性が試合会場には多くなる」というものだ。ボクシング会場にいる女性は、女性だけで来ているグループもあるが、少なくとも最初は男性にボクシング観戦のパートナーとして選ばれた方が多いのではないか。つまり、彼女らは、男性による選択というフィルターを一度はくぐり抜けた集団である可能性が大きいのではないか、という推理だ。
 ボクシング以外でも何らかのイベントに誘われる女性は、そうでない女性よりも、女性全体の平均よりも美人である公算が高いと思うが(あくまでも平均値の比較だが)、加えて、ボクシングの試合会場を訪れることが多いある種の男性は、派手好みの趣味(身なりや、振る舞いで)を持っている人の比率が高いように思う。彼らの好む(美意識を満たす)女性は、外見が美しい人が多いという理由もあるのではないか。

 他にも幾つか理由を考えている事象があるのだが、不特定多数の読者の目に触れるブログのような場所には書きにくいものが多い(飲酒時の話題ていどにちょうどいいことが多い)。

 読者にも、「こういう場所には、こういう人が多い」という現象に対する気づきと、その理由に対する推理があれば、(かつお暇なら)ご教示いただけると嬉しいです。

(注;程度の問題なので加減は難しいのですが、特定の人や集団が不愉快に感じるような話題はご遠慮下さい。私も我慢しています・・・・・・)
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