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有効恋愛求人倍率

 ここのところいかにも真面目な話題が多いので、少し柔らかめの話をしましょうか。元データはネット専業で格安生命保険を販売するライフネット生命保険の調査レポート「婚活に関する調査」(http://www.lifenet-seimei.co.jp/newsrelease/index.html)ですが、「有効恋愛求人倍率」というものを計算してみました。(ネーミングとしては「有効求愛倍率」の方がいいと思いますが、既に書いた原稿で使ったので、このエントリーでは「有効恋愛求人倍率」にしておきます)

 この調査レポートは20代、30代の独身男女1000人に対して「肉食系」(恋愛に対して能動的。自分から意思表示できる)「草食系」(恋愛に対して受け身。自分から言いたいことが言えない)という区別を導入して、この区別に関する自己認識、相手に求めるタイプ、将来の結婚への自信、「婚活」(結婚するための活動)のあれこれなどを訊いたものです(「ITメディア誠」でも取り上げてみました。http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0904/02/news011.html)。
 先ず、調査対象男女の自己認識として、「草食系+どちらかといえば草食系」が男性(「草食男子」)75.6%、女性(「草食女子」)74.2%いて、「肉食系+どちらかといえば肉食系」がそれぞれ100%から引いた残りだけいます。
 次に、たとえば「草食男子で相手に草食女子を求める比率」(求職側)と「草食女子で相手に草食男子を求める」(求人側)の数字を求めて、後者を前者で割って「草食女子を求める草食男子の有効恋愛求人倍率」を求めます。
 この場合、(自分は)草食男子で(相手に)草食女子を求める人は229人(調査対象全体は男性500人)いて、草食男子を求める草食女子は129人しかいないので、有効恋愛求人倍率は0.56倍ということになります。(大まかにいって男性は草食系女性を求め、女性は肉食系男性を求める傾向があります)
 このようにして求めた、2(性別)×2(自分のタイプ)×2(相手に求めるタイプ)=8通りの「有効恋愛求人倍率」は、以下のようになります(小数第3位四捨五入)。

 (自分のタイプ)→ (求める相手)  有効恋愛求人倍率
・  草食男子  →  草食女子     0.56倍
・  草食男子  →  肉食女子     0.28倍
・  肉食男子  →  草食女子     3.61倍
・  肉食男子  →  肉食女子     1.60倍

・  草食女子  →  草食男子     1.78倍
・  草食女子  →  肉食男子     0.28倍
・  肉食女子  →  草食男子     3.63倍
・  肉食女子  →  肉食男子     0.63倍

 たぶん現実の恋愛成就率は有効恋愛求人倍率に自分の「持ち点」(残念ながら個人差があります)を乗じたものに比例するのでしょうが、顕著な傾向としては、積極的になると(つまり、肉食系になると)成就率が高いということが言えそうです。
 漠然とこんなことではないかとは思っていましたが、私としては、もっと早くに知っておきたかった実用痴識でした。
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気に入っている筆記用具

 最近気に入って使っている筆記用具を三本ご紹介しよう。

 写真手前はペリカンのスーべーレン800というモデルで、神保町の金ペン堂という万年筆屋で買ったものだ。ペン先は、細字と中字の中間くらいの太さのものだ。買ったのはだいぶ前だが、5万5千円くらいではなかったか。同じくらいの価格帯ではモンブランのマイスターシュティック149(一番太いタイプ)という定番のモデルも持っているが、書き味はペリカンの方が明らかに一枚上だと思う。しかし、ペリカンの万年筆はモンブランほど軸が丈夫ではないので、鞄の中に放り込んでおくというような使い方には不安がある(一度壊したことがある)。こちらが自宅用、モンブランは外出用と使い分けている。
 金ペン堂は定価販売だし、店主が大いに威張って商品を売るので人によっては好き嫌いがありそうだが(堂々とした気持ちのいい威張り方なので、私は嫌いでないが)、日本字が書きやすいようにペン先を調整してくれているので、高級万年筆は是非ここで買う価値がある。ペン先を裏返しにして、より細い線を書くことができるように調節してあるから、細かい字を書くときにも便利だ。
 インクは金ペン堂の店主の指定でウォーターマンのブルー・ブラックだ。彼によると他社のブルー・ブラック・インクは、「腐っている」し、時間が経つと書いた字が薄くなるのだという(見本を見せて説明してくれた)。ウォーターマンのこのインクは、正露丸のようなアイラモルトのような臭いがする点も妙にいい。
 残念ながら私は字が上手くないので、封筒の宛名書きやサイン以外に、万年筆をそう頻繁に使うわけではないが、たまに使うと気分がいい。

 モンブランのシャープペンシルは、アイデア・メモを書く用途でよく使う。芯の太さは0.9ミリだ。2Bの濃さの芯を入れて使っている。適当な大きさと重さがあるので、アタマを使わなくてもペンが勝手に何かを書いてくれるような感じがする。「コックリさん」的な働きで、文章の構成案などを作ってくれる。
 このペンは大変頑丈なので、鞄の中に放り込んでおいても大丈夫だ。

 三本目は、最近入手したお気に入りで、三菱鉛筆のジェットストリームというシリーズのボールペン4色にシャープペンシル(0.5ミリ)がプラスされたモデルだ。たぶん、最近発売されたものだろう。
 ジェットストリームの特に芯の太さが1.0ミリのモデル(0.7ミリと1.0ミリの2タイプがある)の格段に軽い書き味が気に入っていたのだが、これまで3色のタイプしかないのが問題だった。
 緑のインクはそう頻繁に使うわけではないのだが、手帳に仮のスケジュールを書き込むとき(緑は薄いので青か黒で上書きすると目立たない)とA4一枚に情報をたくさんメモしたいときなどに3色ではどうしても足りないことがある。この点を残念に思いつつも3色のモデルを使っていたのだが、このたび4色にさらにシャープペンシルまで付いたモデルを発見した。シャープペンシルは私には余計なのだが、ボールペンが4色あるのは有り難い。
 今のところこのペンのインクは、売っている状態では0.7ミリタイプなのだが、1.0ミリタイプの3色ペンの替え芯が使えるので、赤・青・黒の3色は中身を入れ替えて使っている。書き味は申し分ないし、デザインもまあまあ合格だろう(色は白・黒・青・銀の4色ある)。値段は1000円しない。
 実は、4色ペンはラミーの「ラミー2000」というモデルが気に入って愛用していたのだが、このペンは硬質で高級感のある見かけよりも軸が弱く(接合部分のプラスチックが薄い)、相次いで2本壊してしまった。ラミーのボールペンはインクの色の出が良くて、軸を回転させて上を向けると色が選べる仕掛けと共に気に入っていたのだが、壊れては仕方がない。
 購入した銀座の伊東屋に持っていって修理を頼んだのだが、昨年10月21日に持ち込んで以来、4ヶ月以上経ったが、何の連絡もない。メーカーで時間が掛かっているのか、伊東屋さんで滞っているのか事情は分からないが、手元のペンも使うのが嫌になってしまった。
 しばらくは、このジェットストリームが一番よく使う筆記用具だろう。
 4色、太字(1.0ミリ)、シャープペンシル無し、というタイプが出たら、数本まとめ買いする積もりだ。
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将棋の竜王就位式に行ってきました

 さる1月26日に渡辺竜王の竜王就位式に行って来た。ご存知のように、昨期の竜王戦七番勝負では、羽生名人が挑戦者となって、羽生挑戦者の三連勝に対して、渡辺竜王が四連勝を返す、将棋界としてははじめてのタイトル戦七番勝負における「三連敗四連勝」が起こった。
 将棋のタイトル戦はずっと行われているわけだから、三連敗四連勝はいつかは起こっておかしくない現象だが、最初の三局における羽生名人の強さが素人目には圧倒的に見えたので、なぜあの羽生名人が四連敗したのか、理由を知りたいと結果が出て以来ずっと思っていた。スッキリと説明できる理由があるとは限らないのだが、何か納得できる材料が欲しかった。
 先日、今回の七番勝負を特集したテレビ番組を見たのだが、せっかく敗者の羽生名人に単独インタビューまでしているのに、「どうして渡辺竜王は今回勝つことが出来たのでしょうか」と質問して、羽生名人に「それは私に訊かれても・・。渡辺さんに訊いて下さい」と答えられるようなツマラナイ番組だったので、なおさらだった(プロ野球の監督を呼んで話をさせる演出も、内容を深めるには不適切で奇妙だと感じた)。

 実は、竜王戦の結果が出てから、幸運にも複数のプロ棋士の意見を聞く機会があったのだが、どなたからもスッキリと納得できる理由をお聞きすることは出来なかった。
 思うに、プロ同士の勝ち負けの理由を、現役の棋士にお聞きするのは不適当なのだろう。他のプロの勝ち負けに関する分析を語ることは、自分の将棋観や勝負観にも関わる問題なので、現役棋士にとっては「語りたくない」ことなのではないか。私に何かを語っても、その内容を本人の許諾を得ずに公開はしないから、情報が他の棋士に伝わって不利になるということはないが、自分にとって重要で微妙な問題について自分の言葉で他人に語ると、語ったという事実や自分が語った内容に対して何らかのこだわりが生まれることがある。特に将棋はメンタルな影響の大きいゲームだから、余計なこだわりは持たない方がいい。この辺りの事情は、為替や株式のトレーダーが自分の相場観を他人に語らない方がいいのと少々事情が似ている(完全に同じではないが)気がする。
 そんなわけで、渡辺竜王ご本人の挨拶の中に何か手掛かりはないかと思って、メモ用の小型ノートを携えて(ついでにデジタルカメラを首からぶら下げて)、話を聞くことに集中できるように軽く食事を済ませてから、就位式のパーティーに向かった。

 渡辺竜王の挨拶は、簡潔且つ丁寧で、スピーチとしては素晴らしかったが、勝因が何かについては説明してくれなかった。竜王のスピーチの七番勝負に関する振り返り部分をかいつまんで紹介すると、以下の通りだ。
 第一局は将棋観を覆されるような痛い負け方で、二局目、三局目も含めて、最初の三局で「こうやっておけば勝ちだった」と後からいえる将棋は一つもない。四局目は、勝てるイメージがなかったが、一局くらいいい将棋を指そうと思って指し、苦しい将棋だったが、勝ちをを意識せずに指したら、勝っていた(注:最終盤に羽生名人側から見て打ち歩詰めの局面が出来て渡辺竜王の勝ちになった)。それなりの将棋が指せたことで、五局目、六局目は伸び伸び指せて、七局目に辿り着いた。最終局は、凄い将棋で、何回か負けを覚悟して、せっかくここまで来たのに、などと考えた時間もあったが、一分将棋で手がいいところに行って、勝てた。
 渡辺竜王は、まだ二四歳であり、これから何十年も第一線で戦うわけだから、勝負の内幕を詳しく説明するわけにはいかないのだろう。

 パーティーでは、ご著書「ウェブ進化論」(ちくま新書)で有名な梅田望夫氏と立ち話をする機会があった。梅田氏は、近年、将棋と将棋界に対して非常に熱心で(今や相撲界における横綱審議委員のような存在感だ)、竜王戦では、対局場であるパリに直接行って第一局の観戦記をウェブに書かれている。この就位式でも力の入った長時間のスピーチをされた(お話もロング・テールであった!)。梅田氏は、渡辺竜王とも羽生名人とも親交があり、今回の竜王戦に関しては、お二人の両方から話を聞かれているようだった。
 梅田氏は、次に発売される「将棋世界」誌に竜王戦について八ページの記事をご執筆されたということなので、立ち話の内容はご紹介しないが、氏によると、第一局は竜王ご本人のスピーチにもあったように渡辺竜王にとって大きなショックだったようだが、この時点で、一つの有力な可能性として、三連敗四連勝のゲーム・プランを渡辺竜王はイメージしていたのではないかという。
 何はともあれ、次の「将棋世界」を買わねばならぬ。

 竜王戦七番勝負に関する私の勝敗分析は平凡なもので、渡辺竜王が羽生名人に勝ってもおかしくないくらい強いのだという単純な事実を除くと、羽生名人の累積疲労と渡辺竜王の勝負術が噛み合ったことが今回の大逆転の原因ではないかと思っている。
 申し訳ないことだが、今回は、どうしても「羽生名人の敗因は何か」という視点で考えてしまう。私のような素人が見ても、羽生名人の将棋は頭一つ以上抜けて面白いので、羽生名人絡みの将棋はほぼ常に「次にまた羽生名人の将棋が見られるように」という願いを込めつつ見てきた。この気分で将棋を見ていて、羽生名人の変調を感じたのは、木村八段と戦った竜王戦の挑戦者決定三番勝負の第二局の終盤だった。
 この将棋で、羽生名人は、優勢な終盤で玉の逃げ方を間違えて逆転負けした(ネットの解説を参考に考えると、そのようだ)。羽生名人といえども人の子で、ごくごくたまにはポカがあったが、終盤の勝負所で方針を間違えるというようなことは少なかった。しかし、ここのところ、優勢な将棋をスッキリと勝ちきる技に、昔ほどの切れ味がなくなっているように見える。羽生名人のことだから割り切ってスッキリした勝ちを見つけたのだろうと思って将棋を見ていると、どうも割り切れていなかったらしい、というような展開が時々ある。
 羽生名人も三八歳だ。一つの推測だが、二十代の頃ほど終盤の手が読めない場合があるのではないだろうか。よく話題になる「勝ちを意識した(と見られる)ときの手の震え」は、終盤の「心配」から開放されつつある時に、極度の緊張と集中から安心を伴った確信に移行するときに生じる、ホンの少しの自己コントロールの乱れなのではないだろうか。
 しかし、昨年の名人戦も含めて、ここのところ羽生名人は、敢えて終盤に力を要する勝負スタイルで勝ち抜いて来たように見える。あの一連の戦い方では、さすがに疲労が溜まっていたのではないだろうか。
 渡辺竜王の勝負術の正体はまだ分からない(もちろん素人が完全に理解できるようなものではないだろうが)。だが、敢えて推測すると、相手へのプレッシャーの掛け方が上手いのではないか。
 特に、七番勝負では、四勝目をあげることが最大の安心であるわけだから、四勝目が見える状態での最終盤に相手には最も大きなプレッシャーが掛かるだろう。スピーチの中で、渡辺竜王が七局目を指しながら考えたと仰っていたように、四勝目を上げられなければ、「せっかくここまで来たのに」となる訳だから、四勝目の勝ちを見つける場面では心が揺れるだろうし、五局目、六局目、七局目と後になるほど、精神的な賭け金が膨らんでプレッシャーが掛かる。相手に掛かるプレッシャーを知り、自分の側でプレッシャーの処理の仕方を知っていれば、七番勝負のような勝負の形態を有利に使うことができそうだ。
 それにしても、後手番の第六局で新構想が出てくるという勝負の組み立てには恐れ入るし、そもそもこれまでの五期で破った相手が、森内、木村、佐藤、佐藤、羽生、という文句なく強い顔ぶれなのだから、要は渡辺竜王が強いのだろう。

 ところで、今回は永世竜王の就位式ということもあり、会は大くのファンで賑わっていたが、プロ棋士の姿が意外に少なかったのは、少し気になった。ファンとの交流の機会ということもあるが、それ以上に、何といっても、大スポンサーである読売新聞社のパーティーなのだから、ビジネス常識的には、棋士が多数顔を揃えてスポンサーを盛り立てるべきだろう。近年、新聞社のビジネス状況は苦しさを増している。プロの将棋は今のところスポンサーのバックアップで成り立っている商売なのだから、スポンサーにもっと気を遣わなければならないのではないだろうか。
 余計なことかも知れないが、心配だったので、一言付け加えておく。
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偉くてマナーの悪い人物をどう扱うか

 11月は、私としては、なかなか忙しかった。例月以上の原稿〆切(一日当たり一本以上)に、単行本の締め切り(27日校了)、さらにテレビ・ラジオの出演・収録が相当の数あり、加えて講演が4回あった。
 そして、この講演の4回目が最悪だった。
 さる地方都市で行った講演で、50人程度の主に企業経営者を相手にした夕食会での講演なのだが、最前列に座った地元経済界の重鎮と覚しきR社のN会長が隣に居る会の主催者とぶつぶつ話す私語がうるさかったのだ。
 N会長は70歳はこえておられる方なのだろうと推察する。ずっと話している訳ではないのだが、おそらく何か感ずるところがあると我慢が出来なくて、隣に座っている人物に話しかける。弁当とビール・ウーロン茶程度のものがある気楽な会(質疑を含めて2時間)だが、他に、講師の話中に私語に及ぶような行儀の悪い出席者はいない(大人なのだから、当たり前だが)。
 しかし、しばらく話がとぎれても、また思い出したように、ぶつぶつぶつぶつと、N氏は隣の人物に話し始める。他の聴衆の表情を見ていると、N氏の話し声を気にしているようだが、これにどうするつもりなのかと、私の様子をうかがっているような感じだ。
 私は、話の途中でN氏に注意しようかとも思ったのだが、主催者はN氏に随分気を遣っているようであり、また、N氏とは初対面であり、実は傷つきやすい老人であるかも知れず、諦めて無視することにした。老人にも教育が必要なことがあるから、本当は、他人の前で一恥かかせてでも注意した方がよかったのかも知れないが、主催者のビジネスの都合が分からないので我慢した。マイクを通した私の声は会場全体に届くはずなので、私がN氏の私語を気にしなければ、他の出席者にとっての実害は大きくないと考えることにした。
 とはいえ、私語は気になる。話していて、自分の話が面白くない。
 出来の悪い生徒を相手に授業をする教師はこんな気持ちかとも思ったが、教師は通常生徒に注意しても問題はないから、自分の方がもっと不利な状況なのだと気づいて、余計に気が滅入った。
 話の後の質疑応答でも、他の質問者が先に挙手しても、後から手を挙げたN氏に質問のマイクが回ったから、N氏は、おそらくは、この集まりでは「一番偉い」と周囲が認める方なのだろう。
 質問してマイクを持ってN氏が話した内容は、3分間の自社の自慢話(借金に頼らずに堅実に経営したことや、現在の株価など)と、30秒の、私の話(経済の話)にはあまり関係のない質問だった(不景気だと、戦争になることはないか? というレベルの質問)。
 私は、それまでの一時間半の我慢を無にしないようように、N氏が満足しそうな無難な答えを返したのだが、自己反省するに、サンクコストに拘りすぎたかも知れない。
 結局、私の話と質疑は、全体を通して、N氏の機嫌を取った形になった。おそらくは、主催者の利害に一致していたのだろうと思うが、「我ながら、よく辛抱した」という気分がある一方、「これで本当に良かったのか」という疑問と、「無用な我慢をしたのではないか」という後悔が残った。
「評論家」商売の一般的ビジネスモデルを考えると、講演が好きでないと具合が悪い(原稿書きやテレビは、講演よりも時間当たりの経済的効率が良くない)のだが、なんだか講演が嫌いになりそうで、困った。私は、もともと、テレビやラジオの仕事の方が講演よりもストレスが小さい。
 もっとも、質の悪い上司を持ったサラリーマンの会議の我慢に比べると、どうということはないので、この程度のことで気分が悪くなるのは、フリー的な商売で、(私が)わがままになったということなのかも知れない。
 何はともあれ、週末には気分転換が必要だ。
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物欲の秋

 リーマンショック以来ざっと2ヶ月が経ったが、個人的には、この間なかなか忙しかった。リーマンや株価のせいばかりではないが、テレビ、雑誌などの取材(受ける方)の件数が多かったし、原稿の〆切(雑誌、単行本両方)、講演の準備などで、全般的に時間が足りなかった。加えて、生活が大いに不規則になった。(これらは、このブログの更新ペースが落ちたことの理由でもある)
 以前に、生活時間帯を朝方に修正しようとした時期があり、このブログにも書いてみたが、たとえば一週間の原稿〆切が14本といった時間の足りない状況になると、生来の夜型の生産効率に頼ることになる。結局、傾向としての夜型というレベルにとどまらず、昼夜逆転ではないか、という状況になった。時間を見つけて3時間くらいずつ2回寝るというような日が多かったのだが、明らかに明るい時間に寝ていることが多かった。
 私の仕事の様子は資本主義以前の("搾取"の対象になる人手を雇っていない)原始的手工業とでもいうべき段階だ。仕事の依頼が増えると忙しいし、依頼が減ると暇になり、仕事の量の決定は概ね受動的だ。アシスタント的な人材を雇いたい気がしなくもないが、さすがに「100年に一度」の状況に合わせてコストを抱えるのは賢くないだろう。
 さて、自由時間が減ってストレスが増えると買い物がしたくなる。誰もがそうだ、という訳ではないが、ショッピングでストレスを解消する人は少なくあるまい。私の場合、ストレス解消になる買い物は、機械系の耐久消費財であることが多い。
 着る物を買うのが楽しみだという人は少なくないだろうが(特に女性)、私の場合、着る物を買うのは半ば義務的な手続きであり、支出でもあるので、楽しい感じがしない。買い物を楽しむことが出来るレベルのファッション・センスがないからだが、少し残念なことだ。
 飲食も楽しみだが、これは買い物による所有の楽しみとは少し違うような気がする。飲食にもそこそこにお金を使うが、私の場合、物欲と食欲は別物だ。
 さて、現在、何が欲しいか。幸い、時計のような高額なものは現在欲しいと思わない。しかし、デジタル・カメラが2台欲しい。
 一つは、CanonのEOS5D-mark2だ。
 キャノンのデジタル一眼レフとはどうも巡り合わせが悪い。今までD30、20D、40Dと何れも程なく後継機が出る機種を買ってしまっている。フィルム一眼時代のレンズを相当数持っているので(一世代前のものが多いが性能的には問題ない)、35ミリ・フルサイズの受光素子を持つボディーが欲しかったのだが、5Dが意外に長命で(デジタルなのに3年も保った)、「また買って直ぐに後継機が出ると嫌だ」と思って、手が出なかった。やっとその後継機が出たので、今度は、是非手に入れたいと思っている。
 35ミリ・フルサイズのデジタル一眼レフは、ニコンがD3、D700と魅力的な製品を出してきたので(特に高感度でのノイズの低さに惹かれた)、余程ニコンに乗り換えようかと思ったが、EOS5D-mark2が何とか間に合ってくれた。
 もう一つの物欲の対象は、auのW63CAという携帯電話だ。これは、カシオ製の携帯電話だが、800万画素、28ミリ画角(35ミリ版換算で)のレンズ、最高ISO感度1600など、携帯のカメラでありながら、広い範囲で実用になる性能を備えている。TVのワンセグも使える。リコーのGRデジタルIIの代わりを100%務めるのは無理だろうが、相当に良さそうだ。私は現在、W53CAというこの機種の先代に当たる機種を使っているのだが(サイズが縮小されているがこの携帯で「巨匠」を撮った写真をupしておく)、性能差が大きいので、是非買い換えたいと思っている。
 たいした写真を撮るわけではないが、カメラが欲しいのは、たぶん、最近写真関係の人にお会いすることが多いからだろう。
 当面は、明らかに不景気で、物欲を満たすような気分ではない方が多いかも知れないが、読者の皆さんも、年末に向けて「欲しい物」はあるのではないだろうか。サブプライム不況は、実物経済面ではこれからが本番だろうが、ずっと鬱屈していると不況を長く感じる。多少の余裕のある人は、パッと買い物をするのもいいのではないか。
「使うものなら、早く買って、大いに使う方が、無駄がない!(ということもある)」と背中を押しておく。
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「使えるノート」へのあこがれ

 以前に「手帳に目標を書いておくとこれが実現する」という類の主張を持つ手帳(使用)術の論者を、いくらか小馬鹿にして「手帳系」と呼ぶエントリーを書いたことがある。私は、正直なところ、「手帳系」のキャラクターのばかばかしい迄のポジティブシンキングが鬱陶しいのだが、実用書の一カテゴリーとして、手帳術が受ける理由は、何となく分かるような気がする。
 よくできた手帳本は、自分(=読者)にも出来そうな少しの工夫で驚くほど変わった自分を手に入れることができそうな「お得感」への期待を喚起すると共に、読書中には、自分の能力が急に伸びたような「一時的高揚感」が得られるからだろう。この辺りは、ダイエット本も、英会話本も、株式投資のチャート分析本も、よく似ている。

 「週刊文春」の10月2日号の記事(「目からウロコの『東大ノート』200冊大公開)によると、このジャンルに新しい本が登場したようだ。
 この記事は「東大合格生のノートは必ず美しい」(太田あや著、文藝春秋)という書籍を紹介したものだ。同書の著者は東大合格者の高校時代のノートを200冊集めたというが、現役で東大に合格する生徒のノートは、「情報が整理されていて美しく」、「最初のページから最後のページまでノートのテンションが変わらず」、「受験が終わってからもノートを残している」という傾向があり、「ただ美しいだけではなく、迫力のある美しさ」なのだという。本自体はまだ読んでいないが、記事からは、ノートを上手に取ることが、効果的な勉強法であり有効だという趣旨の内容だと推測される。
 勉強の成果を上げたい人は多いだろうし、ビジネスマンも興味を持つかも知れない。タイトルが「東大」を強調する点がいいような悪いような気がして判断に迷うが、実用書としては、売れる可能性がありそうな気がする(このエントリー執筆時点でのamazonの順位は29位だ。既に売れているのかも知れない)。

 私は、ノートに関して、いくばくかの劣等感を持っている。自分でノートを取って、満足の行くノートが出来たことはないし、ノートが役に立ったという実感を伴う経験を全く持っていない。ノートを的確に取れないということは、理解力なのか、表現(要約)力なのか分からないが、重要な能力が劣っているのではないか、と思うのだ。
 記者や編集者などで、実に的確にノートを取っておられる方を見かけることがあるが、いつも羨ましいと思う。時には、仕事のノートで真似をしたいと思うことがあるのだが、上手く行かない。だいたい途中で投げ出すか、書くだけ書いて二度と見返すことがない。

 高校時代はノートを持っていなかった。
 レポート用紙をいつも持っていて、勉強法は、もっぱら問題集を解くことだったので、レポート用紙に解答を書いては、正解を見て赤ペンで添削して、点数を集計して捨てる、ということの繰り返しだった。授業で聞いた話で重要と思ったことがあれば(あまりなかったような気がするが)、教科書の欄外に書き込んでメモしていた。
 学校もおおらかだった。ある時、現代国語のN先生が、ノートを提出せよ、と言ったのだが、「私はノートを持っていない。だいたい先生はノートが要るような授業をしていないではないか。教科書の欄外のメモで十分だ」と答えたら、先生は「そうか」と言って、笑って許してくれた(いい先生だったのだが、現在どうしておられるのだろうか・・・)。
 大学時代は、有名なセンセイがいたこともあり、4年間で通算3、4冊のノートを作ったが、読み返した記憶がない。板書と教師の話を自分なりにまとめて、なるべく洩れのないように書いたつもりだったが、自分が書いた字を見るのが嫌だったものか、後から見ることはなかった。
 会社員になってからは、必要を感じて時々ノートを作ることがあるが、多くの場合最後のページまで続かないし、会議のメモなどで数字を確認するといった一時的備忘の用途以外にノートが役立ったことがない。
 結局、必要があればレポート用紙(格子状の線が入ったものが好みだ)に落書きのようにメモを書いて、その都度捨てている。敢えていえばマインドマップ風に真ん中にテーマを大書して、周りに落書きがあるメモが多い(それにしても、マインドマップとはノウハウというほど大げさなものなのか?)。
 雑誌などに書いた文章のPC内のファイルや、メールが記録になっていることがあるので、ノートが無くてもぎりぎり間に合っているとはいえる。しかし、忘れたことを他人に聞いたり、改めて調べ直すことは少なくない。

 脳科学的には紙に手で字を書くといった行為は記憶の定着にも思考にも好ましいことだろうし、急いで物事を記録するにはPCよりも紙に手書きが速い。また、私は、もともと記憶力が優れている方ではないので、効果的な記録のノウハウには大いに助けられるはずだ。それに、物としての筆記用具(万年筆もボールペンもシャープペンシルも)もノートも好きだ(単なる物欲だが)。
 私にも出来る、気持ちのいいノートの使い方があれば、是非身につけたいと思っている。簡単でいい方法があれば今までやっていないことが悔しいし、今の秀才君達が使っている方法が私には出来そうもないと思うとそれはそれでまた残念だが、とりあえず、東大生のノートの本を注文してみることにする。
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タクシー雑感

「居酒屋タクシー」が、目下話題になっている。私のように、東京暮らしで、且つ自分で車を保たない生活をしていると(しかも深夜・早朝帰宅が多いし)タクシーとの縁は深い。タクシーについて考えていることを幾つか書いてみよう。

(1)「居酒屋タクシー」問題の根本は、霞ヶ関の官僚諸氏が、本当に、あれほどタクシーを使わなければならないのかという点にある。
 彼らが、ビールや金券を受け取らなくなっても、同様の金額を今後もタクシーに使うのだとすると、国民にとって何らメリットがない。
 もちろん、職員の居酒屋タクシー利用に対する調査や処分が十分だったかどうかという問題は別に考えなければならない。また、実質上、各種のサービスがタクシー料金の個別割引に当たる点への考慮も必要だ。ただ、この辺りの問題の調査と処分が十分に行われても、公務員がタクシーから接待を受けるほどタクシーを使うのがいいのかの方が問題だ。

(2)上記にも関連していつも思うことだが、東京圏で地下鉄・JR・バスなどの公共交通を深夜も動かすことは出来ないものか。
 場合によっては深夜料金を設定してもいいだろうし、30分に一本でも電車があれば、たとえば公務員は原則として公共交通機関で通勤することにしておけば、タクシー利用は劇的に減る。東京圏くらいの規模があれば、自動車が公共交通に置き換わることは、環境にとっても、エネルギーの節約にとってもプラスだろう。(3)のような事情を考えるとタクシーの運転手さんには可哀想だが、全体としては、良いことだと思う。
 タクシーでゆったり帰ることが出来ないとなると、霞ヶ関の残業もかなり減るだろう。

(3)深夜に東京都内を走っていて思うのは、明らかにタクシーが余っているということだ。特に、銀座方面から周辺に向かって走ると、周辺から銀座に向かうタクシーが提灯行列のように赤い「空車」のランプを灯して走っているし、乗車規制区域外の地域(たとえばガードを越えて帝国ホテルに向かう辺り)では、客待ちのタクシーが一車線を完全に狭めるくらい停車して並んでいる。
 タクシーが多すぎる。つまり、需給の条件が悪いので、個々のタクシーの採算は厳しいようだ。
 これを過剰な規制緩和がタクシー運転手の生活を脅かしているとして、規制緩和の失敗例として批判する意見と、安いながらも多くのタクシー運転手が働く機会を得たのだし、利用客にとっては車が増えて便利になっているので、規制緩和の成功例だという意見の二通りの主張がある。私は、議論としてなら、概ね後者の意見に賛成するが、タクシーの運転手さんへの同情も感じる。

(4)タクシー代は、企業で処理するときには交通費だ。タクシーの運転手さんは「この頃は企業も不景気なので、交通費を減らしている」としばしば言うのだが、企業の交通費には、面白い点がある。
 交通費、交際費、広告費は「3K」とも呼ばれる代表的な経費だが、企業では、しばしば経費削減の的になる。しかし、これらの「3K」は、建前として、もともと商売を増やすため、あるいは商売の能率を上げるために使うべきものだ。この建前が有効なら、理屈上は、文字通り不況ならその時こそ、これを跳ね返すために積極的に投入すべきではないか。しかし、所詮建前なので、不況になると「3K」は圧迫を受ける。
 企業がタクシー利用に対して渋くなっているというのは、実感として正しい。かなり儲かっている会社の社員でも、タクシー券は持っていないことが多い。やはり、霞ヶ関の官僚さんは突出したいいお客さんなのだ。
 ところで、統計上は、前期まで多くの企業が連続増益で最高益を更新した会社がたくさんあったはずだ。もちろん、政府の発表上も「不況」ではなかった。しかし、この数年、タクシーの中で運転手さんに「不景気なので」と言われると、「なるほど」と簡単に相づちを打ってしまいたくなるような気分があった(私の場合、商売上、ちょっと問題ではあるが)。
 GDP(特に実質の)はさておき、時代の空気はずっと「不景気」のままだったのだろう。

(5)都会暮らしの場合、自家用車を持たずに、こまめにタクシーを使うという生活スタイルは、身軽で且つ経済的だと思う。自動車の代金に、ガソリン代、高速代、保険料、駐車場代金など、自家用車のコストは高い。地方の生活となると、自家用車を持たないと不便な場合が多かろうが、都市生活であれば、タクシー中心の移動が経済的だ。
 自動車を楽しみたいという強い動機があるのでなければ、都会暮らしの場合、自家用車を持つことに合理的理由は乏しい。私は買い物好きで物欲が旺盛な方なので、車に興味を持たなかったことは幸いだった。
 私は現在、地下鉄・JRの駅から8分程度の場所に住んでいるが、昼間は概ね20分以上時間が節約できてその時間が有効に使えると思うときにタクシーを使うことにしている。夜間はお酒を飲んでいることが多いので、電車が動いていてもトラブルに巻き込まれたくないからなるべくタクシーを使う。
 急に台数が増えたこともあり、道が分からない不慣れな運転手さんに当たることもままあるが、タクシーは便利であり、その存在には感謝している。
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同窓会二次会、三次会

 6月14日の土曜日に、高校の東京地区での同窓会があり、同期が30数人集まる二次会に出席した。私が卒業したのは北海道立札幌南高校だが、私の期は27期になるらしい。同窓会そのものには、正直なところ関心がないのだが、同期の人々は懐かしいし、現在どんな様子かに興味がある。週末は原稿書きが溜まっているのだが、会場として案内された居酒屋が拙宅から徒歩圏であることもあり、我慢せずに出席することにした。
 私は、今年の5月に50歳になった。職業上年齢はあまり関係ないし、年齢をサバ読みたい事情があるわけでもないのだが、新聞の広告などで、「50歳以上のシニア世代に向けた○○」というような記述を見ると、ハッとして、自分の年齢を意識することがある。同年代の様子は、いかがなものか。
 40代の後半くらいから、高校、大学共に、クラス会(主に忘年会)や、同窓会・同期会の案内が増えてきたように思う。高校は札幌の高校だから、東京地区で卒業生が集まることは少ないし、東京大学は霞ヶ関方面はともかく、民間にあっては、卒業生の団結が希薄だ。会社毎に卒業生が集まって「○○会」と名の付く学閥的組織を作ることがない(←これは、東大のいいところだと思っている)。それでも、いろいろな単位で卒業生の集まりがあって、出席者は増えている。一つには、年代的に、仕事の時間が自由になって(暇になっても、偉くなっても、時間の自由度が増す)集まりやすくなってきたのだろうし、色々な意味で同年代はどうしているのか気になる時期になってきたのだろう。
 さて、やや遅れて会場に着き、30数人を見回すと、顔と名前が一致するのは、半分弱というところだ(同クラスの出席者が自分を含めて7人いて、彼らの名前は分かる)。7、8人いる女性は、1人も名前が分からない。30年以上会っていない人が多いわけだから、こんなものだろうか。
 話を聞くうちに、徐々に名前と顔が一致する人数が増える。「ああ、案外変わらないものだな」、「それほど老け込んでいないな」と思う人が多かったが、これは、若かった昔のイメージが重なって見えることと、自分も一緒に老けているのである種の老け方を見慣れていることによるものだろう。
 しかし、実際は、「これなら40代前半で通用する」と思うオヤジを、世間一般の人が見ると、多くの場合、「たぶん、50歳前後でしょう」ということになるのだろう。振り返ると、新入社員の頃、40代、50代の先輩社員は、年齢相応あるいはそれ以上に老けて見えたものだった。いつの時代も、若者の眼は厳しいはずだ(それだから、どう、ということはないのだが)。
 40代から50歳くらいまでは、印象として、女性の経年変化の方が大きいように思うが、50代、60代と進むにつれて、女性の方が誤魔化しが効くようになるのだろう。その後は、さらに女性の生命力の強さが際立つようになる筈だ。
 写真の女性は、巨匠・荒木経惟氏のモデルさん、ということではなく、同クラスのメンバーと一緒に、三次会の新宿のスナックにお連れした、同期の女性だ。この方はきれいだ!思いがけず巨匠と会って、感激した(?)ところを記念撮影した。
 この後、巨匠は、同期会のオヤジ面を数個並べてコンパクトカメラで撮って、「おー、同窓会はいいねえ。こういう集まりはいいよ」、「アタシに撮られたら、どっかの写真集に載ることがあるから、覚悟しといてね。顔の目のところに線入れたりするの、俺嫌いだからサ」と仰って、賑やかに去っていった。
 同期生のカラオケ大会が始まりそうな気配を察して、思いっきり場を盛り上げた上で、場所を空けてくれた。
 その後は、久しぶりに、古い歌を歌い且つ聞いて、大いに楽しんだ。

(注:エントリーの文章を後から数行修正しました。8月2日)
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世界タイトルマッチ2戦

 幸運なことに6月12日の世界タイトルマッチ2戦のチケットが手に入った。WBAのスーパー・フェザー級、エドウィン・バレロ対嶋田雄大、WBCバンタム級の長谷川穂積対クリスチャン・ファシオの2カードだ。席は眼下にアリーナを見下ろす武道館的には1階席だが、感覚的には2階席の最前列だった。私のような素人には、リングサイドよりも試合の全体がよく見えて有り難い。
 目当ては、何と言ってもバレロ選手だった。試合前の時点で23戦全勝全KOの戦績だし、WOWOWで何度か見た試合も強かった。ねらい澄ましたクリーンヒットが当たって相手が倒れるというよりも、普通に当たるとそのうちに相手が傷んで倒れるというような、勝ち方をする怖い選手だ。今、生で試合を見たい選手として、間違いなく世界の上位5人に入る。
 10歳年上で世界初挑戦という嶋田雄大選手の試合は、これまで2度ほど見たことがあって(かなりの格下相手であまり参考にならなかったが)、上手い選手だとは思っていたが、今回は相手が悪い。私はバレロ選手を応援して(帝拳ジムは近所にあるから地元選手の応援でもある)見ていたのだが、同時に、嶋田選手に事故がないかを心配しながら観戦していた。
 バレロ選手はサウスポーだ。左を引いて斜めに立って構えるのだが、右足の先が相手に向いていて、左足はそれに対して90度左向きの独特の構えから、パンチを繰り出す。この構えのせいか、左のパンチが遠くまで届く。日頃は眼鏡をかけていて優しい顔をしているが、試合中の表情は人間というよりも、肉食の哺乳類が獲物を狙う顔だ。パンチは殆どがストレートだが、綺麗に真っ直ぐではなく、振り回すようなストレートで、軌道が何種類かあり、手がよく伸びて遠くに届く。そして、たぶん当てる時の手先の力が並はずれて強いのだろうが、パンチが異様に効く。
 嶋田選手はよく頑張ったと思う。バレロ選手のパンチを避けてから、軽くパンチを合わせて、直ぐに体を沈めてクリンチに行く作戦だったが、3Rくらいまで、バレロ選手の左をよくかわして、試合を作った。確か3Rだったが、右のパンチが当たってバレロ選手の顔が上を向いた。
 しかし、嶋田選手から攻撃できるような展開にはほど遠い。掌を相手側に向けて招き猫風に構えて必死でパンチをかわして、クリンチに行くのが精一杯に見えた。バレロ選手にパンチが当たっているように見えて会場が沸いた時が何度かあったが、そのうちの半分はパンチ自体はかわされていて、嶋田選手の腕がバレロ選手の首に交差しただけだ。バレロ選手はパンチの当て勘だけでなく、逃げ勘もなかなかいい。しかも、過去の試合で、フルラウンド戦えるスタミナがあることも分かっているので、嶋田選手側から見ると、楽しみが殆ど無い。
 5R以降、バレロ選手の攻撃が嶋田選手を捉え始める。徐々にクリンチがふりほどかれるようになった。8Rにパンチをまとめてダウンを奪い、そのままTKO勝ちした。終わってみると、嶋田選手の顔は左半分がつぶれるように歪んでいた。
 翌13日の新聞によると、バレロ選手は、減量苦を理由にライト級への転向を表明したようだ。スーパー・フェザー級にはWBCチャンピオンで今や大スターのマニー・パッキャオが居るので、統一選を見たかったところだが、仕方がない。1階級上で壁に当たるとは思えないので、次に誰とやってもバレロ選手が勝つだろうと予想しておく。
 長谷川選手の試合は、相手のファッシオ選手が不出来だったのかも知れない。1Rの様子見の後、2R目に左のショート・パンチが綺麗に入って、ファッシオ選手が右手を身体の下に折りたたむような奇妙な倒れ方をしたところで殆ど勝負がついた。その後も的確に詰めて(←新聞によると、「詰め」が進歩したらしい)、危なげなくTKO勝ちした。
 長谷川選手は、殆どパンチを食っていない。リングサイドに、奥様とお子さん二人が居て、心配そうに見ていたが、毎回今日のような試合ならいい。この強さ、上手さなら、アメリカでビッグ・マネー・ファイトが出来るのではないだろうか。
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写真家・荒木経惟氏に会った!

 通称アラーキーこと写真家の荒木経惟さんは、私が大好きな写真家だ。現在、特にヨーロッパを中心に評価が高く、オリジナル・プリントばかりでなく、過去の写真集や展覧会の図録などの古本も高騰中だ。今や、「巨匠」と呼んでいいだろう。
 さる6月2日、下北沢のLA CAMERAというギャラリーで「ベルリンの色壁」と題するポラロイド写真の展覧会(6月1日~10日)のオープニング・パーティーがあって、この会場で、巨匠・荒木経惟に会うことが出来た。
 オープニング・パーティーに行くことになったきっかけは、最近よく飲みに行く新宿のスナックが、巨匠が頻繁に訪れる店であることだ。巨匠と私は飲む時間帯が異なるので、この店で顔を合わせることは少ないが、「今、ちょっと前まで、荒木先生がいらっしゃたのですよ」という話を聞くことがしばしばある。ちなみに、この店の壁は、各種のポスターやおびただしい数のポラロイド写真など巨匠の作品で埋まっている。この店の母娘が、「今度、荒木先生が来るパーティーがあるので、よかったら行きましょう」と誘ってくれたのだ。
 「うまくいくと、サインが貰えるから、写真集でもあれば持って来るといい」とのことだったので、手元にあった2001年にイタリアで行われた「センチメンタル・ジャーニー展」の図録と、店のママさんを拝み倒して貰った、ベルリンの展覧会のパンフレット(厚紙で、綺麗な印刷のモノクロ写真が載っている)を持っていった。私は、テレビなどで有名人に会う機会があっても、原則としてサインは貰わないことにしているが、これは仕事ではないし、何といっても荒木経惟さんなので、是非サインが欲しいと思った。
 ポラロイド写真(購入することができる)が数十枚展示された小さなギャラリーに、食べ物(手作りのカレーを持ってきてくれた参加者が居て、これが美味しかった)とお酒が用意されていて、巨匠の知人や、編集者などが30人くらい集まった。ペーソスというグループ(http://www.pathos-oyaji.net/pathos.html)の歌も二曲ほど披露された。ほぼ毎月のペースで同様のパーティーが催されるようだが、いい雰囲気の集まりだ。
 巨匠は親切であった。
 編集者との打ち合わせや、写真のセレクトなどに忙しかったのだが、その合間に、めでたくサインを頂戴することが出来、その上、気さくに記念写真にも応じて下さった。
 パーティーの後は、新宿の件のスナックに行って、看板まで、荒木氏の写真集を眺めていた。幸せな一日だった。
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恋人に薦める生命保険とは何だ?

 ネット専業生命保険の第2号として、ライフネット生命が5月18日の日曜日に開業した。この会社については、ダイヤモンド・オンラインの連載で割合詳しく(且つ、好意的に)紹介した(http://diamond.jp/series/yamazaki/10031/)。拙稿の要点は、ネットを使って生命保険の流通コストを省こうというビジネス・プランは正攻法で筋がいいということと、この会社の商品の付加保険料の安さ(24日の「朝日新聞」土曜版beに載った岩瀬大輔副社長の言によると、15%が基準だという)は好ましいということの二点だった。何れも、わが国の生命保険会社の商品のバカ高い付加保険料を攻撃対象としている点で大いに共感できる。サクサク計算できる保険料見積もりのツールは楽しいし、ホームページの出来もいいので、お時間のある方は、是非、この会社のホームページを見てみて欲しい(http://www.lifenet-seimei.co.jp/plan/index.html)。

 今回は、この会社の「スター」の一人である、岩瀬大輔氏の発言をからかってみたい。ライフネット生命のホームページに経営陣からのメッセージと称するコーナーがあり、ここに副社長である岩瀬氏のコメントが載っている。「自分の恋人に、自信を持って薦められる生命保険を作る」というタイトルが付いている。
 伝説の秀才の顔が拝めることでもあり、是非直接見てみて欲しいが、主なメッセージを引用する。

<引用はじめ>======================
社長の出口と二人の間で合言葉にしてきたことがあります。

「自分の恋人や友人など、親しい人に、自信を持って薦められる保険しか作らない、売らない」

恋人にも保険を売るの?と、笑われてしまうかも知れませんが、せっかく新しい金融機関を立ち上げる機会に恵まれたのであるから、多くの方々に喜んでもらえる生命保険サービスとは何か、これまでの業界の常識にとらわれることなく、とことん追求してみよう。背後にあるのは、そんな想いです。
======================<引用おわり>

 「恋人にも保険を売るの?と、笑われてしまうかも」と、ご自分でもツッコミを入れておられるが、恋人に生命保険を薦めるというシチュエーションは、やはりおかしくないか。
 それは、保険を勧める以上、別れることが前提になってしまうからだ。
 ライフネット生命の商品は、死亡保障定期保険「かぞくへの保険」と終身の医療保険「じぶんへの保険」の二つだけだ。共に特約が一切付いていない爽やかな商品だ。同社によると、これに自分でする貯蓄を組み合わせると、リスクへの経済的備えは十分なのだという。
 死亡保障の「かぞくへの保険」を恋人に薦めるというということはどういうことか。一般的には、本人が経済的に養っている家族のために保険を掛けるのだろうから、これは、「キミの将来の配偶者と子供達のために、ボクは心からウチの会社の保険をお薦めします」というメッセージになるだろう。つまり、ボクとキミが結婚するなどして、それこそ「終身」で一緒にいるという状況は想定していないことになる。
 男女共稼ぎで、お互いがお互いを養うという家計も前提として想定できなくもないが、岩瀬氏ほど有能な人なら「ボクが稼いでキミを幸せにする」という文脈が自然だろうし、保険については「ボクは、キミを守るために生命保険に入るよ」という話になるだろう。
 終身の医療保険である「じぶんへの保険」を薦めるのならどうか。この場合、自然なメッセージは「人生は長いし、いろいろなことがあるから、自分のことは自分で面倒を見られるように、ウチの会社の医療保険に入っておくといいよ」ということになるだろう。まあ、親切に聞こえるかも知れないが、「キミの医療費は終生ボクが何とかするよ」という話ではないので、恋人を突き放した感じの冷たさがある。元恋人の側では、岩瀬氏と別れた後も、一生保険料を払い続けるのだ。まあ、本当に病気になって、感謝する事があるかも知れないが。

 上記のツッコミには、いろいろな反論が考えられるし、結論を争う気はないのだが、恋人に保険を売るという状況は、やっぱり妙だ、と私は思う。

 しかし、すました顔で写真に写り、「恋人に・・・」というタイトルをキャッチにすることが有効だと考えた岩瀬氏の世の人々(特に女性たち)に向けた自意識と、上記のツッコミが正しいとした場合の「恋人との関係は一時的だ」という人生行動原理が、その通り彼のものだとすると、ベンチャー・ウォッチ的には、ライフネット生命保険社の将来は明るい。
 良し悪しの問題ではなく、圧倒的な事実として、成功したベンチャーの経営者(男の場合)は、並はずれた女好きである。女性に対する支配欲と自己顕示欲が、会社を経営することや世間へのアピールと通底しているのかも知れないし、資本の増殖と子孫の繁栄が本能のレベルで近くにあるのかも知れない。或いは、ベンチャーで成功する過程で、もとから持っていた性欲が拡大・開花されるといった逆の因果関係なのかも知れないが、岩瀬氏が多忙な仕事と大切な家庭への献身をこなしつつ、それでも恋人を探し、相手に情熱を傾ける、というような人であり、それができるエネルギーを維持していくなら、この会社は大いに成長するに違いない。

 まあ、生命保険の経営者が、恐妻組合の会員では仕方がない。

<補足> 岩瀬大輔氏のこと

 岩瀬氏については、たとえば24日の「朝日新聞」朝刊のbe土曜版が2ページを割いた特集を組んでいるので、朝日新聞をお読みの方は読んでみていただきたい。彼には、「ハーバードMBA留学記」(日経BP社)という著書もある。
 私が最初に彼に会ったのは、マネックス証券(正確にはマネックス・ユニバーシティー)の内藤忍氏の紹介で、彼がネットの生命保険のビジネスプランについて話をしに訪ねてきた時だった。在学中に司法試験に受かり、ハーバードBSで日本人で4人目の上位5%成績獲得者という有名な若き秀才だけあって、話が速くて的確で実に気持ち良かったことを覚えている。こういう人とだけ話していると、こちらも少し賢くなれるよう気になる(錯覚だろうし、もう手遅れだろうが)。
 そういえば、ダイヤモンド・オンラインの拙稿では、ライフネット生命を随分褒めたが、同社の筆頭株主はマネックス・ビーンズ・ホールディングであった(但し、出資比率は18.54%であり大きくない。ライフネット生命は「独立系」である)。考えてみると、楽天証券でないのが残念だが、まあ、いいものはいいので、良しとしよう。
 雑誌「type」のキャリア・デザインセンターが選ぶ「キャリアデザイン大賞」の授賞式でも彼にお会いした。私は僭越にも審査員の一人で、選考会では彼を強く押したのだが、大賞にはならなかった。「能力のありすぎ」がたたって、大きなチャレンジが大きなものに見えにくく、また一般人にあてはまる「ロールモデル性」がやや乏しいという具合に、彼の「出来すぎ」が賞の選考に不利に働いた面があった(もっとも、今年は対抗馬の上位二名が大変強力でもあった)。「能力(差)」をもっと有利かつ安全に使おうとする人が多い中で、ベンチャーで失敗経験があったり、起業を試みたりする彼の生き方には、私は大いに感心するのだが、一般受けはしない面があるのかも知れない。
 キャリア・デザイン的には、彼は、「能力」の形で保険を持って、リスクに挑み、彼の価値の達成過程を楽しんでいると解釈できる。確かに、誰にでも出来るということではないが、お金や資産の形で余裕を蓄える人もいれば、人脈(家柄も込みで)をセーフティーネットにする人いるし、能力の形で余裕を持つというのも一つの方法だ。
 何れにせよ、何らかの「余裕」を持つ頃には、リスクを取ろうという気持ちがすっかり萎えている人が少なくないので、岩瀬氏のような人は応援したい。
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将棋名人戦の楽しみ

 森内名人に羽生二冠(現在)が挑戦する将棋の名人戦7番勝負が佳境を迎えている。ここまで3局を消化して、羽生挑戦者の2勝、森内名人の1勝だ。

 森内・羽生の両者は小学生時代からのライバルだが、羽生二冠が棋歴的に先行していたにも関わらず、森内名人が先に永世名人資格(名人通算5期で永世名人を名乗ることが出来る)を取ったため、今期名人奪取に成功した場合に永世名人資格を取る羽生の挑戦が注目されている。はっきり言うと、世間的には「羽生が永世名人でないのはおかしい」という気分から、羽生二冠の第19世名人を期待するムードが強く、森内名人はやりにくさを感じているかも知れない。また、羽生挑戦者は、名人挑戦者決定のリーグ戦であるA級順位戦を、素人目にも圧倒的な内容で勝ち抜き、今期は名人獲得に照準を絞って本気だ、というムードを醸し出している。

 ここまでの3局も、羽生挑戦者側の「動き」が目立つ。
 第1局は、後手番であるにも関わらず羽生挑戦者が優位に序中盤を進めたが、中盤戦で、無理に決めに行って(飛車切りが決定的に拙かったようだが、だとすると、その前の8六歩がおかしかった)、惜しい将棋を落とした。「将棋世界」6月号の先崎八段の解説によると「気が短くなって、えいっと魔が差したような手を指してしまう」類型的な悪手で「棋士としての継続年齢と共に多くなる事象」だそうだ。両対局者と同世代の先崎八段が、羽生挑戦者の年齢的衰えをはっきり指摘している。そうだと思ったが、やっぱりそうか。先崎八段はここのところすっかり解説がはまり役になってしまった観があるが、両対局者と同世代の一流棋士だけに、彼の解説には、さすがという説得力がある(ただし、「週刊文春」の連載エッセイは近年さっぱり面白くない。将棋指しか碁打ちがだらだらと酒を飲む話が多くネタ切れ気味だし、話の切れ味が落ちている)。だが、今期の名人戦は、羽生挑戦者がどのようなスタイルで戦うかが見所だ。
 第2局目は、羽生挑戦者が先手番で激しく動きながら、何とも複雑なねじり合いの将棋を制勝した。意外な攻め方をした(一手損してからの再度の3五歩の仕掛け)かと思うと、渋く受け(8七歩)、自陣に角を打って(1八角)から優勢を築いて、最終盤は2手連続の早逃げで自玉を絶対安全な状態にするなど、秘術を尽くして勝った。特に中盤は意外な手の連続で、ネットの中継を見ていて、さっぱり分からなかったが、どうやら複雑なねじり合いで、読み比べを続けるような、羽生二冠の若い頃の路線で勝負することにしたようだ。仮に、自分も読みのスピードや注意力が若い頃よりも落ちているとしても、相手も同じ年齢なのだから、局面を複雑化して、ここで勝負するのが有利だと考えたのだろうか。
 第3局目は、先手番の森内名人が素人目にも圧倒的な優勢を築いたが、これが終盤で大逆転した。深浦王位によると「50年に1度の大逆転」だそうだが、これは何度見返しても(パソコンの画面で数回見たのだが)どうして逆転したのか分からない。直接的には森内名人の見落とし(終盤の8六桂が開き王手になることの)ということだろうが、羽生挑戦者がそのしばらく前に指した4二角あたりから妖しい雰囲気が醸し出されている(なるほどこんな風に指すものかという手だが、真似はできそうにない)。相手の間違えを直接狙った訳ではないだろうが、どこで間違えやすいか、将棋の手と同時に相手の心理も読んでひっくり返すような羽生二冠の怖さが見える。劣勢の中盤戦での信じられないような辛抱(7二歩や4四銀など)も含めて、ネットの解説に「羽生四段の頃を思わせる」というような秀逸なコメントがあったが、執念で逆転した将棋だった。
 森内名人が桂得した時点では、駒落ちで言うと角落以上の差が付いていたはずだが、羽生二冠はこれをじっと耐えて勝負に持ち込んだ。実質的には、故升田幸三氏の「名人に香を引いて勝つ」以上の偉業かも知れない。優勢な側がいかに優勢とはいえ、将棋では(たぶん将棋に限らないと思うが)、勝ちを「決める」時が難しいので、間違えることがある。
 尚、細かい話だが、戦型的にはこの第三局の序盤戦に大きな興味を覚える。序盤の森内名人の「攻めてこい」と言う4五銀に対して、後手側から仕掛けが成立しないとすると、相懸かりの将棋はかなりの制約を受ける。私は、学生時代、後手側に近い構えから攻めるのが好きだったが、相手の下段に飛車が居て、飛車側の金が動かずにいる構え(飛車を目標に3九角と打てない)は、攻めてもなかなか上手く行かなかった印象がある。あれで後手側が上手く行かないとすると、封じ手の5三銀では6四歩だった(次は、6五歩と仕掛ける)のかも知れないが、それでもダメなら(攻めが軽いし、先手ががっちり受けているところなので、後手が優勢にするのは難しそうだ)、超序盤の4一玉が疑問手なのだろうか。もちろん私がいくら考えても結論が出るはずはないのだが、この将棋の序盤は、盤上に表れなかった変化を含めて興味がある(朝日、毎日の観戦記と「将棋世界」が待ち遠しい)。それにしても、この将棋の先手番の森内名人の構想は素晴らしかった。

 以前にもこのブログで書いたことがあるが、近年の羽生二冠は、「現代の将棋はいったん劣勢になると逆転は難しい(だから、私を相手に劣勢になったら、早く諦めなさい)」という暗示を、主に若手に向かって発する番外戦術を使っているように見える。経験値は劣っても、無心に読んで、手が見えて、しかも頭脳に体力があって、なかなか諦めない若手世代に脅威を感じて、彼らに(羽生二冠側に都合のいい)先入観を植え付けようとしているのではないか、というのが、私の推測だ。何といっても、先の手が見えるどうしの将棋は、どこかで、「相手に先に諦めさせて勝つ」ゲームになる。可能性があると思いながら考えるのと、これはダメなのだろうと思いながら考えるのとでは、戦力・結果に大差が付くはずだ。これは、羽生二冠が意識的にそうしているのではないとすると、失礼な推測なのだが、第三者的にはそうも見えるということで、アマチュアの将棋の楽しみ方の一つとして許して貰えると有り難い。
 かつて大山名人が、若手棋士にコンプレックスを与えるべく、盤上(たとえば優勢な将棋で「なぶり殺し」的な勝ち方をするとか)・番外(一五世名人を名乗って「大山名人」と呼ばせるなど)で、様々な心理的勝負術を繰り出していたことが指摘されているが、タイプは異なっても、羽生二冠が同質の戦術を使っていると思うのだ。この点は、「決断力」という羽生二冠の著書を引き合いに出して、米長将棋連盟会長に訊いてみたことがあるのだが、「羽生も引退したら、別の勝負論の本を書くでしょう」とはぐらかされてしまった(森下千里さんが一緒にいたので、それどころでは無かったのかも知れないが)。
 しかし、今期の名人戦では、近年のプロパガンダを自ら否定するような勝負術を羽生二冠が見せてくれている。だから、今年の名人戦は目が離せない。第4局は、5月20日、21日で羽生挑戦者が先手番だ。

 完全な余談だが、第三局の数日後にスティーブン・キング原作の「ミスト」という映画を観た。「敵」となる異生物の出来が今一つだが、人間の心理の面白くも怖いところをよく描いた傑作だ(因果応報のバランスも良くできている)。この映画のラストシーンは、原作と異なり、且つ原作を超えているらしいのだが、このラストでも、「諦めてはいけない」ことがよく表れている。こちらは、将棋ファン以外の方にもお勧めできる。
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勝負写真用の写真館

 コラムのライターが集まった、ある新聞社の会合で、私とほぼ同年代のさる分野のコンサルタントの女性が、顔写真入りの自己紹介のパンフレットを配った。20数人居合わせた出席者は、パンフレットの顔写真と実物の彼女を見較べて息を呑んだ。

 彼女はおもむろに話し出した。「みなさん、このパンフレットの顔写真と、実物の私を見て、似ても似つかないって、思っていらっしゃるんでしょう」。まさに図星だった。露骨に頷いた出席者が、二、三人いた。

「せっかくだから、いいことを教えて差し上げましょう。実は、千駄木に、いくらでも望むだけ綺麗に写真を撮ってくれる写真屋さんがあるのです。このパンフレットの写真はそこで撮って貰いました。みなさんも、どうしても出来のいい写真が必要だっていうときがおありでしょうから、その時のために、覚えて置いておかれるといいですよ」。中年女のいい意味での度胸と落ち着きが功を奏して、彼女に向かっていた出席者達の批判的な関心は、腕のいい写真屋さんを教えてくれる彼女への感謝へと、すっかりすり替わってしまった。

 その写真館の名前を「スタジオ・ディーバ」という(http://www.studio-diva.net/index2.html。TEL/FAX (03)3827-3584)。そのスタジオ・ディーバに、3月31日、なんと、この私が、写真を撮って貰いに行くことになったのだ(そうなった事情は後で書く)。

 私は、鞄にシャツとネクタイを3組ほど入れてスタジオに向かった。スタジオは、地下鉄千代田線の出口を忍ばず通りに沿って少々根津方面に向かって移動し、小路を右に入ったところにある一軒家だった。一階と二階の両方がスタジオになっているようだ。「ようだ」というのは、私は一階のスタジオでメーク、着替えから撮影まで全て済ませたので、上階を見ていないのだ。

 撮影は、服装も含めた全体を指示するスタイリストの女性とメークの女性、それにカメラマンの男性の3人体制で進められた。
 メークは、テレビ局のメークよりもかなり手間を掛けて(時間の印象で3、4倍)行われた。当日は月曜日で、寝不足気味(ここのところ週末から週初にかけて原稿の〆切が集中している)のせいもあり、冴えない顔色だったが、これで復活した。また、私は化粧をする習慣がないので、詳しいことは分からないが、色の塗り方で、幾らか顔が小さく写るようにしているようだった。
 服装は3パターンで撮影し、それぞれヘアスタイルを変え、メークも少しずつ修正している。シャツとネクタイの組み合わせ、ポケットチーフの色と形など、何パターンも試して、検討してくれる。ちなみに、私はポケットチーフなどという洒落たものを日頃使っていない(「使えていない」というのがより正しいが)ので、私をよく知る人が出来上がりの写真を見ると、第三者の助けを借りたことが明らかに分かる。
 所要時間は合計一時間半程度だった。せっかく撮りに行くなら、時間はたっぷり確保して行く方がいい。

 メークと着替えなど、準備には時間が掛かるが、カメラマンによる撮影自体は短時間で済み、非常に手際がいい。私のような素人の被写体は、表情を維持することが難しいし、表情を変えようとするとだんだん硬くなるので、これはありがたい。私は取材を受ける際にカメラマンに写真を撮られることが月に3、4回程度あるので、割合写真を撮られることに慣れている方だと思うが、それでも、ワンポーズを長々撮られるのは苦手だ。
 ライトボックスで柔らかくしたストロボ光を使っていて、目の前下方には白の自家製レフ板がかなり凝った角度で数枚配置されている。デジタル一眼レフで撮影するので、光の回り具合を液晶画面で確認している。
 撮影データを見ると(出来上がりはデジタル・ファイルで渡してくれる)、カメラはニコンのD80(その他の機種もごろごろあるがニコンが中心のようだ)で、レンズは28-70ミリF2.8のズームレンズ一本だった(撮影データには28-75ミリでF2.8と出るが、75ミリ迄というズームの製品は記憶がない)。レンズ交換が入らないので、テンポがいい。撮影に使う焦点距離は50ミリから70ミリの範囲を使っているようで、35ミリ・フルサイズの換算では75ミリから105ミリくらいのポートレート撮影でよく使われる焦点距離だ。何れも、ISOの設定は100、絞りがF11で、シャッタースピードは1/100だ。シャッターはカメラを三脚(クイック・セットのハスキーか)に載せて切っている。

 ポーズは、20度くらい右か左に身体を向けて、顔だけ正面を向く形が多い。こうすると、ウエストの部分が幾らか絞られた感じになり、真正面から撮るよりも幾分痩せて見える。出来上がりの写真を2、3枚見て、家人は「5キロ痩せて見える」と言って笑っていた。
 一つのポーズにつき、5カットくらいテンポ良く撮るが、最後の2、3枚は「口を大きく開けて笑って!」「そう、いいねぇ」「はい、口を軽く閉じて」というパターンで締めることが多かった。私個人は、口を開けて笑っている自分の顔があまり好きではないのだが、思い切って口を開けて笑った後に口を閉じると、なるほど柔らかい印象の表情が出来る。素人被写体は、「笑顔で」などと言われても、注文を聞いて表情を調整しているうちに、みるみる顔がこわばってくる。顔の筋肉を動かしてから、目的の表情に着地させる方がスムーズだ。この撮影パターンは、日常の写真撮影にも応用が利きそうだ。

 撮影結果は、CD-Rに焼いてその場で渡してくれる。私の手元には、数十枚の画像がある(JPEGファイルで一枚が700~800KBくらいのサイズだ)。料金や写真の使い方に関しては、スタジオ・ディーバに直接確認して欲しいが、写真使用の自由度は高いようだ(出版物などに使う場合は相談してほしいと言っていた。クレジットを入れることを求める場合があるらしいが、概ね自由に使えるようだ)。

 時間は掛かったが、撮影は終始快適だったし、出来上がりには大いに満足だ。冒頭に紹介した女性コンサルタントの場合ほどの差はないと思うが(事後的に修正はしていないし)、実物よりも明らかに感じがいいと、本人が思う(たぶん、他人はもっとそう思う)。読者も、何らかの目的で「勝負写真」が必要な場合には、この写真館を使ってみるといい。

 ただ、ポケットチーフも、ヘアスタイルも、目下のところ、自分では再現不可能なのが残念だ。「出張メークのサービス(有料)もありますよ」と言っていたが、私の場合、そこまで凝る必要性はない。

 さて、撮影の目的だが、実は、4月から株式会社オーケープロダクション(大橋巨泉さんの「O」と「K」だ。http://www.okpro.jp/)に講演、イベント、テレビ、ラジオなどの「出演もの」に関するマネジメントをお願いすることになり(著述、コンサルティングなどの活動は除く)、同社で使うパンフレット用の写真が必要になった。そのオーケープロダクションが連れて行ってくれたのが、スタジオ・ディーバだったのだ。
 「オーケープロダクション所属」という形になって、何がどう変わるのかは、まだよく分からないが、小倉智昭氏のマネジャーをしている宇野さんという方が声を掛けてくれたので、頼んでみることにした。小倉智昭氏(同社の取締役である)とは「とくダネ!」で何度もご一緒しているし、大橋巨泉氏(日本にはあまりいらっしゃらないが)にも何かと親近感があるが(将棋、競馬。政治的にハト派など)、若いマネジャーさんが私に興味を持って誘ってくれたことが、同社と契約することにした一番の理由だ。

 写真は、数十枚の中のベストカットではないと思うが、写されてている様子がよく分かるもので、「はい、口を開けて笑って」の次に写したものだ。
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一年で、たぶん一番嬉しい日

 昨日は将棋のC級2組順位戦の最終日だった。最近お会いする機会があって応援していた高野五段が昇級を決めた(決定したのは日が変わった3月5日だが)。
 C級2組は3人が昇級できるが、最終戦を前にした段階で、高野五段は、自ら勝って、且つ同星で順位が上位の横山五段が敗れた場合に昇級できる、棋士たちが「キャンセル待ち」と呼ぶ状況だった。単純な確率は4分の1だが、淡路九段に負かされて2敗目を喫した時点では、ほぼ絶望的な星勘定だっただけに、突然光が差すように希望が湧いてきたのだった(C級2組の対戦表はこちら。http://www.shogi.or.jp/kisenhyo/zyunni/2007/66c2/index.html)。

 朝10時の対局開始の時間から、ニフティーの名人戦棋譜速報(有料サービス、月額500円。http://www.meijinsen.jp/)で、高野五段-高田六段戦と横山五段-田村六段戦の2局をパソコンの画面に立ち上げて(棋譜は30秒ごとに自動更新される)、戦況を見ていた。順位戦は持ち時間が各6時間なので決着が着くのは零時前後になる。朝10時に、12時間と昼食、夕食休憩の計2時間をを足すと零時だ。1手1分の秒読みで延々続くことがあるので、熱戦になると決着は翌日だ。
 ところで、将棋の品質は重要だと思うが、順位戦の持ち時間は、ここまで長い必要があるのか。棋士が自分達で決めていることだから、目下の答えは「ある」なのだろうが、良くも悪くも何割かは体力勝負だろう。勝敗に直接関わる最終盤は、秒読みになることが多い。先が読めるどうしが対峙すると、幾ら時間があっても先を読むし、特に、不利な側は何かないかと時間を使う。持ち時間はいくらあっても、最後は秒読みになることが多いだろう。体力・集中力がある状況で終盤を迎えるようにする方が、むしろ品質を保てる面があると思うがどうなのだろうか。ちなみに、1局の手数が将棋の約2倍掛かる囲碁の世界戦・富士通杯でも持ち時間は1人3時間(秒読みは1分)だ。コンピューターに人間が勝てなくなると、一定の制約時間の中で人間同士がパフォーマンスを競うというフレームワークで最適化が図られるようになるのかもしれないし、テレビなり、直接観戦なりで、商品としての対局を観戦させることを考えると、普段の対局からもっとスピード感があってもいいのではないか、とも思う。
 だが、何はともあれ、今の順位戦(棋士間のランク付けと、将棋連盟からの給料に関わる)は、深夜決着が普通なのだ。

 昼時分には、両対局の戦型を見ていた。高野・高田戦は矢倉、横山・田村戦はゴキゲン中飛車の超急戦型だ。近年、「将棋世界」誌を読みサボることが多かったので、後者の戦型はサッパリ分からないものの一つだったが、勝又清和六段の「最新戦法の話」(浅川書房)という本を読んで、戦法の文脈が少し分かるようになった。これは、最近の将棋に疎い元将棋ファンが再びプロの将棋を楽しむために、極めて有用な本だ。しばらく将棋から遠ざかっている人には是非お勧めしたい。
 ともあれ、高野・高田戦は長引きそうな感じだが、横山・田村戦は、田村六段が早指しということもあって、早く終わる可能性が大きいと思った。後者の戦況を見つつ、夜に将棋連盟に行くかどうかを決めようと考えた。高野五段を紹介してくれた、某出版社の編集者H氏が将棋記者の元締めのようなS記者に話を通していて、記者の控え室に入れることになっていた。

 午後3時くらい2局の戦況は、素人目には、高野五段、田村六段がそれぞれ有望であるように思えた。
 高野五段の将棋は、先手の高田六段が急戦を仕掛けたが、高野五段は手厚く構えていて(飛車先の歩を進めていない分陣形整備が進んでいる)、反撃に移ろうとしているところだった(36手目3五歩の局面)。高田六段がこの日に採用した戦法は自分から攻勢を取るので私の好みなのだが、かつて将棋を指していた頃の記憶を辿ると、経験的にはこの戦法は「勝ち切りにくい」。そんなこともあって、高野五段が有望に思えた。
 一方、横山・田村戦は、途中まで先日のA級順位戦の羽生2冠・久保八段戦と途中まで同じに進んでいて、田村六段が勝った羽生2冠と同じ側を持っていた。途中で羽生・久保戦から離れたが、横山五段は歩切れが不自由そうで、田村六段側に攻め手が多いように見えた。
 この段階で今晩は将棋連盟に行こうと決めて、酒屋(「神田和泉屋」という日本酒の品揃えと保存状態のいい酒屋)に日本酒(「菊姫」の大吟醸)を買いに行った。箱に包装して、その上に「御祝」と書いたのし紙を巻いて貰った。店主に「応援している将棋指しがいて、今日指している将棋を勝つと昇級するのです」と言ったら、「是非そうなるといいですね」という言葉が返って来た(まあ、当然か)。
 夕方、やや早めにタクシーで帰宅し、「おつりは要らない」と言ってタクシーの運転手の気分を良くして、家では子供二人を風呂に入れ(今日の家事協力)、この日〆切の原稿を早々にメールで送り、要は、私なりに「いい心掛け」で、2局の戦況を見ていた。

 午後八時過ぎだっただろうか。横山・田村戦が田村六段の勝ちで終局し、高野五段は「キャンセル待ち」から「自力」になった。編集者H氏の携帯留守電にこの情報を入れて、午後10時に千駄ヶ谷の駅前で落ち合うことにした。
 高野五段の応援者としては喜ばしい展開になったのだが、「名人戦棋譜速報」の「応援掲示板」というページを見ると、「夕食休憩中も盤の前で考え続ける横山五段」という深刻な写真が載っていて、「自分は彼の負けを願っていたのか」と思うと、いたたまれない気分になった。

 午後10時半。将棋連盟の記者控え室に着いた。場所を変えてのPC観戦だ(対局室を見たいなどというワガママは言わないし、言える時間帯でもない)。
 局面はまだ中盤戦なのだが、先ほどまで高野五段が優勢に見えた将棋の形勢が明らかに接近していて、むしろ先手の高田六段が有利に見える局面になっていた。高田陣の駒が高野陣を圧迫するような形になっていて、私の目(「強くない」アマ四段くらい)には高田六段が優勢に見え始めた(棋譜を見られる方は75手目、4五歩の局面を見て下さい。本当は、棋譜を掲載したいところなのですが、著作権の関係に自信がないので、やめておきます)。アマ強豪のS記者も、高野五段側の模様が悪い、高野さんは硬くなっている、と言う。高野五段側から攻めるしかなさそうだが、手が続きそうな感じがしない。

 「攻めさせられる」というのは、悪い展開だ。だが、それでも攻めるしかない高野五段の攻撃が始まった。 頑張れ、高野! 暴れろ、高野!!

 彼は、本当に、「頑張って」、「暴れた」。
 高野五段が本格的に攻め始めてから、十数手くらい、観戦しながら高野五段側の手がよく当たったのだが、高田六段のどの手が悪かったのかは、私の棋力では判然としない。結果から見ると、高田六段が受けすぎたのかも知れないが、具体的にどうしたらいいのかは今見直しても分からない。だが、はじめは細く見えた攻めがつながって、最終盤には、素人目にも高野五段側に勝ちがあるように「見えた」。ただし、勝ちに「見える」ということと、現実に読みを伴って勝てるというのとの間には大きな差があって、決着がつくところまで「読めている」のでなければ、勝ちは確信できない。

 高野勝ちが決まるところまで、ああ指せば勝ちか、こう指せばいいのではないかと私はPC画面を見て熱くなっていたのだったが、記者控え室で一人の棋士が取材を受けていた。実は、この方は、遠山四段(梅田望夫さんの本に登場する若手棋士です)で、彼は、この日に一斉に行われたC級2組の最終局に勝っていて、その時のは、高野五段が負けると彼が昇級するという状況になっていた。だが、私はそのことに気付かず、後で、H編集者に遠山四段を紹介されて、彼が「キャンセル待ち」であることが分かった。彼は我々が高野五段の応援に来たことを直ぐに理解してくれて、「こう受けるようでは(高田六段側が)ダメです。高野さんが勝つでしょう」と、高野・高田戦の終盤を解説してくれた。申し訳ないことをしたと思うのだが、この状況で、冷静に解説してくれるとは、こちらとしては恐縮するよりない。来期は、彼の応援をする、と決めた。

 最後までドキドキさせられて(最後までドキドキする理由の半分はこちらが弱いせいだが)、結局、高野五段の勝ちが決まったのは零時半過ぎだった。それから、さらに局後の検討が1時間くらい続いた。音は聞こえないのだが、IPテレビで盤上で手が動く様子を見ていた。

 局後の検討が終わり、インタビューに答えて、高野五段が対局室から出てきた。ほっとした感じだが、対局中に紅潮した顔の赤みがまだ取れない。彼にとっては、間違いなく「特別に嬉しい日」の筈なのだが、嬉しさ爆発、という感じにはまだほど遠い静かな勝者の表情だった。彼の友人の弁護士(とても面白い人だった)と、H氏と、4人で連れ立って、将棋連盟の近くで、深夜までやっている高級居酒屋に行って祝杯を上げたが、店を出て別れた、午前4時の時点でも、高野さんは冷静だった。喜びが湧いてくるのは、これからか。

 考えてみると、自分のことで特別に「嬉しい!」というようなことは、当面起こりそうにない。心から応援する人が勝って成功してくれたこの日、3月5日は、今年1年を通じて私にとって一番嬉しい日なのかも知れない。自分の人生のためには、平坦で山場のない我が日常を反省すべきなのかも知れないが、他人の御蔭であっても嬉しいのだから、高野五段に感謝することにしよう。

「高野五段、ありがとう!」

(写真は銀座で歌う高野五段。今年の1月。歌は大江千里の歌で、椅子の上に立って歌っています)
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蕎麦屋のロジスティックス

 私は蕎麦が好きだ。現在東京に住んでいるし、生まれ育ちは北海道であり食生活的には関東文化圏(の田舎)なので、うどんを食べるよりも、蕎麦を食べることが圧倒的に多い(うどんも好きなのだが、満足の行く店が少ない)。
 自宅でも(干し蕎麦だが)気に入った蕎麦を取り寄せていろいろな食べ方をするし、外の蕎麦屋に行くことも多い。蕎麦屋は、何人でも入りやすいし、普通は時間を取られずに済むし、雰囲気が概ね気楽だし、殊に昼間からお酒を飲んでも不自然でないところがいい。
 しかし、最近、蕎麦屋で、完全には満足しない場合が多いことに気がついた。そして、どうやら、不満足の主な原因は蕎麦の味そのものではないことが多いようなのだ。
 蕎麦の味については、私のストライクゾーンはそう狭いわけではないし、だいたい入店する前に「ここでは、このくらいの味だろう」ということを予想して入っており、それで満足することにしている。特別に美味しくなくても、期待値通りの蕎麦が出てくるなら、不満は感じない。不満の原因の多くは、主として、注文してから、飲み物・食べ物が出てきて、会計を済ませるまでの一連の流れがスムーズでないことだ。ロジスティックスというほど大袈裟なものではないが、この完成度が低い店が意外に多いのだ。
 以下、個々の蕎麦屋の商売の邪魔をしたり、読者と個々の蕎麦屋について褒めたりけなしたりすることが目的ではないので、悪い例の具体的な店については、場所かイニシャルで嘘をつくことにして、幾つか例を挙げてみる。

 割合多いパターンの一つは、注文にあたって、客側が努力しなければならないケースだ。「西早稲団のA」という蕎麦屋は、一人でも家族でも利用しやすいまあまあの店だったが、客が居る場所に常に店員が居ないことが多い点が面倒だった。多くは、短い廊下の奥にある店の調理場の近くにいるウェイターなりウェイトレスなりを客の方が「すいません」と声掛けして呼ばなければならない。
 でかい声で呼ぶのは気恥ずかしい上に周囲の客に迷惑だし、声が小さくて(まわりには聞こえるけれども)店員が来ない場合の間抜けな感じは、惨めでさえある。それに、別段、客が偉いものだとは思っていないが、何度も「すいません」と言わされると、さすがに、自分が悪くないのになあ、と不満が募る。ある時、近所のよしみもあり、せめてブザーか呼び鈴を置いて欲しいとアドバイスしたのだが、実現しなかったので、足が遠のいた。
 同様の事例は、全くの大衆店(うどんも丼ものも一緒にメニューにあるような、大衆食堂的な店)よりも比較的高級・上質な蕎麦を出す蕎麦屋に多く、蕎麦それ自体は非常に満足度の高い「根津のS」などでも、そうした事が頻繁にあったのは残念だった。
 
 一方、過剰な干渉が邪魔な場合もある。「飯田橋のX」では、隙あらば客に追加の注文をさせようとする、営業熱心な生保のセールスレディーかホステスのようなウェイトレスがいて、客が気を抜けないような勧誘を行う。
 たとえば、麦焼酎の追加注文をした客に、その銘柄の在庫がないことを告げて、「芋(焼酎)の美味しいのがあります」と言って、値段を言わずにボトルを持って来る(実はかなり値段が高い焼酎である)。これは、フレンチ、イタリアンの飯屋でワインを頼む際に「残念ながら99年のものは切らしていますが、リストには載っていませんが、同じシャトーのもので、2000年のなかなか出来のいいのがあります」と言われて(実は2000年の方が倍くらい高い)、「では、それで」と言って敵の策に嵌るようなパターンだが、隣の客がこの手に引っ掛かるのを見て驚いた。
 ところが、その前には、自分達も同様の手口に引っ掛かった。件のウェイトレスが、「お刺身はマグロのいいところが入っていますよ」と言うので、赤身、中トロ、トロ、炙り、の何れにするか悩んでいたら、「盛り合わせて持ってきましょうか」という誘いを向けてきた。しかし、これに乗ったところ、会計後に計算すると二人分で7,8千円につく「盛り合わせ」を持ってきたことが判明した(分量的には最大でも2人前に見えた)。
 蕎麦屋にも高級店があるし、立地や客の入りによっては、無理をしてでも客単価を上げようとする場合がある。
 こうしたセールスへの警戒を脇に置くとしても、自分のペースで飲み食いできるところが蕎麦屋の長所なので、客にあまりに頻繁に声を掛ける蕎麦屋は居心地が良くない。

 飲み物・食べ物が出てくる順番や時間が不満なことも多い。通常、蕎麦味噌、板わさ(かまぼこ+わさび)、海苔のような酒のつまみのようなものは直ぐに出てくるし、ある程度加工の必要なつまみも、刺身のように火を使わなくてもいいものが早めに出て、天麩羅のようなものは後に出るだろうし、蕎麦は大体最後に出てくるだろう、という期待がある。
 しかし「水道橋のM」では、カツ煮の後に刺身が出てきたり、忘れた頃に葱焼きが出てきたりする。一品一品は時々美味しいのだが、おそらくかなりの年齢になってから蕎麦屋を始めたと推測される主人の要領が悪くて、注文の整理と製造工程が上手く設計されていないのだろうと思われる。また、ウェイター、ウェイトレスの採用にも失敗しているのではないか。ウェイトレスの一人は話し好きだが注意力が散漫だし、ウェイター君は六本木ヒルズのゲート付近の守衛並みに横柄で融通が利かず、根本的に接客業に不向きなのだろうと思う。あれだけ客嫌いなら、商売を変えた方がいいと思うのだが、余計なお世話なのだろうか(守衛には向いていそうなのだが)。
 しかし、この蕎麦屋は、客の入りが悪いときに、且つ注文の通し方が正確なウェイトレス(しかも場違いな美人である)を選んで注文すると、大いに満足度が高いこともあるので、完全には離れられずにいる。

 注文に際して目の前で細々と伝票に記入されるのも興ざめだ。「新橋のJ」はつまみと酒が豊富ないい蕎麦屋だが、天狗か和民かというような伝票処理は(椅子の背に引っかけてある)今一つだ。
 もっとも、先の「飯田橋のX」のような店では、手元の伝票に正確に記入して貰わないと会計の正確性が不安だ。だが、この店の例のウェイトレスは短期記憶に不自由があるのか、自分の手にボールペンでメモを取ることがあり、これはこれで妙な感じがする。
 この点、老舗の「かんだ藪蕎麦」や「まつや」などは、ウェイトレスが厨房と帳場の両方に的確に注文を通しており、その信頼感もあるので、会計まで含めてプロセスが気持ちよく流れる。過剰な人員を抱えているかもしれないが、完成されたロジスティックスを持っている。蕎麦そのものについてはいろいろな意見があろうが、見事なものだ。

 鮨屋では、威張るオヤジも趣のうちという場合があるが(単に不愉快なことも勿論あり、我慢できる場合があるという方が現実に近いが)、蕎麦屋でオヤジが偉そうにしているのは、単価のせいもあるのか、感じが良くない。「神楽坂のQ」は、自宅で食べる干し蕎麦よりも確実に美味しい程度の蕎麦を食べさせてくれるのだが、カウンター越しに立って作業をしているオヤジが他の客に偉そうに講釈をしていたり、予約の電話を掛けてきた客を選り好みしていたりする(好みの客か好都合な人数の場合に予約を受ける)様子が分かるのは感じが良くない。この店は、カウンター越しに作業が見えるので、弟子が水を切った蕎麦をそのままざるから皿に盛っていたり(いい蕎麦屋は食べやすさを考慮して、蕎麦が絡まないように、小分けないしは、蕎麦を手でほぐしながら笊か皿に盛っている)、水切りが不十分だったりするのが見えるので、オヤジの偉そうな様子に一層違和感を感じる。厨房と客席が近いのも良し悪しだ。
 威張る(偉そうな、態度の大きい)オバサンというケースもある。「神保町のN」は、ネットの書き込みでも非難が多いうるさ型の女将さん(たぶん先代の店主の娘さんだろう)がいる。彼女は、つまみの注文の仕方や、食べ方などにウルサイし、その割りにこの店も注文品をを持ってくるまでの時間が長い。これは、とんでもない店なのかと思ったが、ある時、彼女の発言は合理性と親切心に基づいていることが分かった。たとえば、注文からデリバリーまでに時間が掛かることを見越して、ビールを二本一度に頼んだのだが、彼女に「一本ずつ飲む方が、冷えたのを飲めていいんじゃないの」と怒られた(ご本人は"怒った"積もりはないだろうが、怒っているような口調なのだ)。内心「うるせーなあー」と思ったのだが、考えてみれば合理的なアドバイスだし、彼女にとっては、一本一本注文に応じる方が面倒なのだから、これは、親切心からのアドバイスだということが分かった。そう思い始めてみると、その店がそう嫌な店ではなくなった。

 また、蕎麦屋は食べたいときに、必ず且つ割合直ぐに蕎麦が食べられるところに良さがあるのだが、頻繁に品切れを起こす「売り切れ仕舞い」の多い蕎麦屋は使いにくい。私の勤務するオフィスの近所にも、東北の某地方の蕎麦を自称し、「もりそば」を「そば切り」と名乗る格好を付けた店があるのだが、「行ってもいいかな」と思うときに限って「売り切れ」であることが多い。蕎麦自体は、「そば切り」というよりも「そば切れ」と称すべき、ぶつぶつ切れた蕎麦が多い不完全なもので、総合的には拙宅で食べる蕎麦とどっちこっちなのだが、便利な場所にあるため、ふと食べに行きたくなる。しかし、この店では、「売り切れ」を自分達のこだわりの証しと解しているようであり、後悔・反省する様子が殆ど無い。さすがに、蕎麦に関しては(金融商品に関してと違って)面と向かって指摘するほど人が悪くないので、この店で食べると、食べ物が蕎麦なのに、消化が良くない感じがする。
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