評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
若者に「モーレツ社員」と「ごますり」の方法を教えるべきか?
ムン・ヒョンジン「サムスン式 仕事の流儀 ~5年で一流社員になる」(吉原育子訳、サンマーク出版)という本を読んでみた。
日本でいうと30年前に存在した「モーレツ社員」と「ごますり男」になるための具体的な方法とそれがいかにメリットのあることなのかが、具体的且つ論理的に臆面も無く書かれている。上司との付き合い方、役員のアテンド、顧客への贈り物、飲食のマナーにドレス・コード、書類の作り方、出張の準備など、たぶん、現在45歳以上の日本のビジネスパーソンには、おなじみのことばかりだ。率直にいって、当たり前すぎて参考にはならない。知ってはいるけれども、敢えてそうはしない、というようなことも多い。
期待する若手社員になら、「君はここに書いてあるサムスンの社員像よりも、ましな人物になってね!」といいたいところなのだが、一方で、ちょっと待てとも思う。
今の会社の上司や先輩社員は、この本に書いてあるような内容を、親切に、事細かに、後輩に教えることはないだろう(個人的には、わざわざそれをやらなければならないレベルの組織では働きたくないとも思う)。一つには先輩の側の照れもあるだろうし、もう一つには「ウチの会社は凄いのだ!」という高揚感がほとんどの会社にないからだ。ウチの会社で評価される人間になるには、こうしなさい、と後輩に教える先輩像が想像しにくい(或いは、そんな先輩は人間として面白くない人だろうとも思う)。
たとえば、「ごますり」にしても「モーレツ社員」にしても、その原理と基本を知っていて、そうしないのと、単に嫌いだからそうしないのとでは、行動に差が出来る。自分が与えるイメージや人間関係の作り方も含めてビジネスの能力であるという考え方は知っておいてもいい。これらについて、日本人が書いた本は妙に精神論的になる傾向があるが、この本は、直接的且つ論理的だ。
だから、申し訳ないけれども「つまらない」と思う一方で、この本は妙に捨てにくい。もしかしたら、これから社会に出る学生には貴重な「資料」であるのかも知れない。彼らにとっては、たぶん、一読の価値があるだろう。「モーレツ社員」と「ごますり」について能率良く理解するためなら、これはいい本だ。ただし、彼らには、会社に入ってからこの本を再読するような人にはなって欲しくない。一度読んだら、考え方だけ覚えて、捨てて欲しい。学生に紹介するなら、注釈付きで紹介すべきだろう。
さて、学生に紹介すべきだろうか。止めておくべきか。今の段階ではまだ迷っていて、この本を、捨てるか(自分のためなら躊躇なくそうする)、スキャンして保存するか(後で取り上げる可能性があればそうする)、本のまま保存するか(学生に紹介するなら本があった方がいい)、結論が出ていない。
日本でいうと30年前に存在した「モーレツ社員」と「ごますり男」になるための具体的な方法とそれがいかにメリットのあることなのかが、具体的且つ論理的に臆面も無く書かれている。上司との付き合い方、役員のアテンド、顧客への贈り物、飲食のマナーにドレス・コード、書類の作り方、出張の準備など、たぶん、現在45歳以上の日本のビジネスパーソンには、おなじみのことばかりだ。率直にいって、当たり前すぎて参考にはならない。知ってはいるけれども、敢えてそうはしない、というようなことも多い。
期待する若手社員になら、「君はここに書いてあるサムスンの社員像よりも、ましな人物になってね!」といいたいところなのだが、一方で、ちょっと待てとも思う。
今の会社の上司や先輩社員は、この本に書いてあるような内容を、親切に、事細かに、後輩に教えることはないだろう(個人的には、わざわざそれをやらなければならないレベルの組織では働きたくないとも思う)。一つには先輩の側の照れもあるだろうし、もう一つには「ウチの会社は凄いのだ!」という高揚感がほとんどの会社にないからだ。ウチの会社で評価される人間になるには、こうしなさい、と後輩に教える先輩像が想像しにくい(或いは、そんな先輩は人間として面白くない人だろうとも思う)。
たとえば、「ごますり」にしても「モーレツ社員」にしても、その原理と基本を知っていて、そうしないのと、単に嫌いだからそうしないのとでは、行動に差が出来る。自分が与えるイメージや人間関係の作り方も含めてビジネスの能力であるという考え方は知っておいてもいい。これらについて、日本人が書いた本は妙に精神論的になる傾向があるが、この本は、直接的且つ論理的だ。
だから、申し訳ないけれども「つまらない」と思う一方で、この本は妙に捨てにくい。もしかしたら、これから社会に出る学生には貴重な「資料」であるのかも知れない。彼らにとっては、たぶん、一読の価値があるだろう。「モーレツ社員」と「ごますり」について能率良く理解するためなら、これはいい本だ。ただし、彼らには、会社に入ってからこの本を再読するような人にはなって欲しくない。一度読んだら、考え方だけ覚えて、捨てて欲しい。学生に紹介するなら、注釈付きで紹介すべきだろう。
さて、学生に紹介すべきだろうか。止めておくべきか。今の段階ではまだ迷っていて、この本を、捨てるか(自分のためなら躊躇なくそうする)、スキャンして保存するか(後で取り上げる可能性があればそうする)、本のまま保存するか(学生に紹介するなら本があった方がいい)、結論が出ていない。
コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )
原田芳雄さんの粋の構造
先般亡くなった原田芳雄さんの遺作である「大鹿村騒動記」を観てきた。大変出来のいい映画だと思った。
第一に、脚本が良く、クライマックスの大鹿村の歌舞伎で原田芳雄さんが扮する景清が発する台詞「仇も、恨みも、これまで、これまで~ぇ」に流れるように無駄なく運ばれていく。
第二に、役者が良く、大根役者無しで撮る映画とは、こんなにいいものかと認識した。
概ね、上記のような感想をfacebookに書いたところ、同作品のパンフレットを作った大谷隆之さんというライターさんから次のようなコメントを貰った。
「本作に登場する大鹿歌舞伎(地芝居)の演目「六千両後日文章重忠館の段」は、平家の荒武者・景清のその後を描いた後日談。いわば“敗残のヒーロー”が大暴れする一大スペクタクル劇です。今年3月、原田さんにお話をうかがった際、景清を演じる魅力について「芸能ってのは本来、敗者のためのもの。勝者の側がつくる芸術なんてロクなもんじゃないんだ」という趣旨の話をしていただいたことが忘れられません」
原田芳雄さんが、「敗者の芸術」に対してこれほど明確な意見をお持ちだったことは初めて知った。しかし、確かに、過去の出演作を思い起こすと、原田さんからは、「何かが思うに任せない男」の気配が立ち上る。
これはどういうことなのかと考えると、九鬼周造の「『いき』の構造」に思い至った。
九鬼は、粋とは、媚態であり、同時に、意気地であり、諦めを伴う、つまり、理想化されていて現実には達成されない媚態だと説明している。
原田芳雄さんは、何とも男臭いむせかえるようなフェロモンをお持ちの方だった(男のセクシーも媚態の一種と分類するなら、天然の濃い媚態をお持ちの方だった)。彼は、そのような自分を「思うままにならない男」の位置に置くことによって、単なるセクシーではなく、粋な色気を身にまとうことが出来ることを感性的に把握していたのではないか。
その実感を芸術論として語ると、「敗者の美学」に至るということではなかろうか。
たぶん、原田芳雄さんは、あっけらかんと勝者の立場で作ったハリウッド映画などは、人間が平板で凡そイケていない「商業プロジェクト」に過ぎない、と思っておられたのではないだろうか。
それにしても、惜しい役者さんが亡くなった。残念、というしかない。
第一に、脚本が良く、クライマックスの大鹿村の歌舞伎で原田芳雄さんが扮する景清が発する台詞「仇も、恨みも、これまで、これまで~ぇ」に流れるように無駄なく運ばれていく。
第二に、役者が良く、大根役者無しで撮る映画とは、こんなにいいものかと認識した。
概ね、上記のような感想をfacebookに書いたところ、同作品のパンフレットを作った大谷隆之さんというライターさんから次のようなコメントを貰った。
「本作に登場する大鹿歌舞伎(地芝居)の演目「六千両後日文章重忠館の段」は、平家の荒武者・景清のその後を描いた後日談。いわば“敗残のヒーロー”が大暴れする一大スペクタクル劇です。今年3月、原田さんにお話をうかがった際、景清を演じる魅力について「芸能ってのは本来、敗者のためのもの。勝者の側がつくる芸術なんてロクなもんじゃないんだ」という趣旨の話をしていただいたことが忘れられません」
原田芳雄さんが、「敗者の芸術」に対してこれほど明確な意見をお持ちだったことは初めて知った。しかし、確かに、過去の出演作を思い起こすと、原田さんからは、「何かが思うに任せない男」の気配が立ち上る。
これはどういうことなのかと考えると、九鬼周造の「『いき』の構造」に思い至った。
九鬼は、粋とは、媚態であり、同時に、意気地であり、諦めを伴う、つまり、理想化されていて現実には達成されない媚態だと説明している。
原田芳雄さんは、何とも男臭いむせかえるようなフェロモンをお持ちの方だった(男のセクシーも媚態の一種と分類するなら、天然の濃い媚態をお持ちの方だった)。彼は、そのような自分を「思うままにならない男」の位置に置くことによって、単なるセクシーではなく、粋な色気を身にまとうことが出来ることを感性的に把握していたのではないか。
その実感を芸術論として語ると、「敗者の美学」に至るということではなかろうか。
たぶん、原田芳雄さんは、あっけらかんと勝者の立場で作ったハリウッド映画などは、人間が平板で凡そイケていない「商業プロジェクト」に過ぎない、と思っておられたのではないだろうか。
それにしても、惜しい役者さんが亡くなった。残念、というしかない。
コメント ( 43 ) | Trackback ( 0 )
震災雑感
東日本大震災が起こった時、私は自宅にいた。仕事の合間にたまたま戻っていた。拙宅はマンションの低層階(2階)なので、物的被害は、本棚に置いてあったモルト・グラスが一個割れただけだった。
揺れ(おそらくはタテ揺れ)を感じてから横揺れに移るまでの時間が長かったので、「震源は遠いな。まあ大丈夫だろう(東京の直下型ではないから)」と思っていたが、横揺れの時間が長いので、揺れの終盤は幾らか心配な気持ちにはなった。
割れたグラスを片付けて、急いで次の仕事に向かおうとした。しかし、近所の大通りには多くの人が歩いていて、タクシーに空車はなく、地下鉄もJRも動いていないので、自宅に戻った。結果的に、「帰宅難民」にならずに済んだ。
拙宅は、新宿区にあるので、目下、東京電力の「計画停電」の対象外だ(一方でありがたいが、他方で不公平なので申し訳なく思う)。
総合的にみて、私は、この震災に関して、東京都民としては恵まれた状況にあると思う。
●
震災発生の直前、石原慎太郎都知事は都知事選への不出馬を表明していた。しかし、その後に、大きな揺れが東京にも伝わった。
その後の津波の被害を見た石原知事が、これを日本人への「天罰」と語って問題になった。彼の人間性がよく表れた無神経な発言というしかないが、その後に陳謝して発言を撤回、さらに消防団員を激励に訪れるという一連の動きを見ると、石原氏といえども選挙を気にする普通の政治家に過ぎないことが分かる。
「政治家になるのは止めたほうがいい。選挙区に帰ったら犬にまで頭を下げるのだから」とよく私に言っていた母の言葉を思い出す。
石原発言に関しては、「『天罰』なんてない。ご本人があの年まで何もないのだから」とツイートしていた人がいて、これは気が利いていると感心した。
雑誌を読んでいたら、なぜか石原氏には甘い評論家の福田和也氏が、石原氏はオカルト的なものを信じる傾向があると語っていた。ご本人の世界の中では、彼の意に沿わない日本人に天罰が下った、というような実感がきっとあったのだろう。誰が言っても不適切な発言だったが、彼が政治家であったことが不都合だった。自由に発言できない不向きな職業を長々続ける巡り合わせは、ご本人にも、東京都民にも不幸だろう。
●
東京電力の福島第一原子力発電所の事故が収束しない。収束しないばかりか、まだまだ影響が拡大する可能性がある。
数日前の北風と雨に運ばれて、放射性物質は東京の水源までやって来た。飲料水汚染のニュースが出る一週間くらい前からメディア関係の知人の中には、出来れば子供は東京から離した方がいいと勧める人が出始めていた。子供を疎開させるかどうか、正直なところ毎日考えているが、今のところ子供の飲食物に気をつけながら東京で暮らす方針だ。
●
原発に関しては、さまざまな情報があって何を信じたらいいのか判断が難しい。東京電力や政府が積極的に嘘をついているとも思えないが、彼らが持っている情報を素直に出しているとも思えない。
「原発は大丈夫か」、「東京に居ても安全か」と東電や政府に訊くのは、「この投信は大丈夫ですか」と証券会社のセールスマン(この頃は銀行員でも同じ)に訊くようなものだろう。
では誰の情報なら信用できるか、というと判断が難しい。敢えて考えるなら、アメリカ大使館の職員が家族を変わらず東京に置いているのか、彼らがどんな水を使ってメシを作っているか、ということが知りたい。彼らの子供が東京を離れる時は「危ない」ということだろう。
●
東京電力という会社がどうなるのかは興味深い問題だ。
原発事故の今後、農業・漁業などの被害も含めた補償を要する被害額(土壌汚染を考えると莫大だろう)、東電の責任がどの程度あるかに関する法的判断、政府が東電をどうするか、という何れも不確定要素の大きな問題があって、簡単には結論が出ない。
企業体力の範囲内で一過性の事故なら、株価が下がった(正確には「下げすぎた」)ところで買っておくのが災害時の投資のセオリーだが、東電の場合は簡単ではない。
「コストが掛かっても、どうせ将来の電気料金で穴埋めできる」という判断から、「補償が巨額の場合、設備は残っても会社としてはいったん潰して再建するのがスジだろう」という考え方までいろいろな可能性がある。
電力政策を考えると、この際東電の発電部門と送電部門を分離して、発電に関してフェアな競争が行える形にして、安全でクリーンな発電業者を育成すると良さそうだ。既存の原発をどうするかは難しい問題だ。民間会社には無理だから政府の管理下に置け、とも言いたくなるが、よく考えてみると、これは一層の無責任と不透明をもたらす道のような気がする。事故を起こせば損が出てボーナスが減る人々を信用する方がましか。
東電の場合、株式もさることながら、東電債がどうなるかという問題もある。格付け会社の動きも含めて興味は尽きない。
ただし、東電は広告の大スポンサーなので、大手メディアから正確な情報や厳しい批判が出てくる見込みは薄いと考えるべきだろう。
●
先日名古屋に日帰りで行ってきたが、名古屋に較べて、東京は街も建物の中も暗い。日頃が明るすぎたのだという意見にも一理あるが、明るい方が消費を誘発できるから明るくしていたのだろうと考えると、誘蛾灯的な明かりといえども消えているのは経済的損失だ。
それにしても、計画停電の対象地域は生活にも生産にも不便だ。電気料金を上げると東電の収入になってしまうから、「電力利用税」でも新設して節電を促す一方、必要な人や会社はいつでも電力を利用できる形にするといいのではないか。もちろん、サマータイムなどのピーク電力の分散策も実施すべきだろう。私は早起きが苦手だが、生活が不規則なので、適応できるような気がする。
●
大問題の発生は、相対的に中小の問題の存在感を薄めるが、大中小それぞれの問題が消える訳ではない。解決しない限りそのまま残っている。
震災の陰に隠れた問題を挙げると、菅首相の政治資金問題、国会の予算審議、名古屋の市議選、リビアの内戦(と欧米の介入)、大相撲の八百長問題、みずほ銀行のシステムトラブルなど、震災と原発事故がなければ大きなニュースになっていたはずの問題がいくつもある。
菅首相は震災への対応でも精彩を欠く。原発問題にあっては東京電力を信じたためか、初動の対応を誤ったのではないかとの疑いもある。通常は、政治休戦が妥当だが、震災による人命救助最優先の時期が過ぎた今、彼が留任して、原発問題や被災地の復興を指揮するのは、国民にとって不幸なことではないかと私は思っている。
もちろん、そう思わない人がいても構わないが、「大災害だから、挙国一致で」というヒステリー状態は(もし、そういう人が居ればだが)早く脱する方がいい。原発問題も復興も時間の掛かる問題だ。皆さんは、本当に菅さんが首相でいいのだろうか。
●
停電、水汚染、それに自粛ムードが加わって、首都圏(ざっとGDPの4割)の経済活動が停滞する心配がある。現に停滞しているし、長引きそうだ。
もちろん、電力の問題もあるし、食料・飲料の安全性の問題もある。停電の可能性がある中、遠くで飲み食いするのは心配あるいは億劫だし、外食では何を食べさせられているか分からないという問題もある。消費の停滞にはそれなりの理由がある。
もちろん、行動は個人の勝手だが、経済活動の縮小は好ましくない。原発問題が流動的な中で新学期・新年度はきっかけにならないかも知れないが、ゴールデンウィークくらいまでにはムードを変える工夫が欲しい。
「自粛」は別段正義ではない。他人が楽しんだり、無駄遣いをしたりすることにケチを付けるのは愚かで有害だ。
他方、経済活性化が正義だと消費を勧めるのは押しつけがましいし、豪遊を誇るのは無粋だ。
「愚かで、有害」と「押しつけがましくて、無粋」はどちらも嫌いだが、より避けるべきは、たぶん前者だろう。
不格好でなく、気分良く消費に気持ちが向かうように、商売をされている方々や広告クリエーターの皆様方の手腕の発揮に期待したい。
●
震災からの復興に関しては、被災地域の基礎的なインフラへの投資と速やかな都市計画が必要だとして、それ以外は、被災者への現金給付(災害復興版のベーシックインカムか)、今後振興したい地域での特別減税による企業誘致、規制緩和を伴う大規模な「特区」の活用など、個人及び企業の自由な行動を優先する振興策を推進して貰いたい。
アイデアマンが官僚・政治家・関連業界を巻き込んで地域開発にカネを使うような形は望ましくない。マニフェストを破りまくっている民主党政権には、せめて震災復興では「コンクリートから人へ」の方針を思い出して欲しい。
●
原発問題は解決まで長く掛かりそうだ。
一日に何度かニュースを確認して、風向きや雨を気にする生活は気疲れするが、被災地のことを気に掛けつつも、消費や趣味も楽しみながら、幾らか余裕を残し気味のスケジュールを心掛けて生活しようと思っている。
揺れ(おそらくはタテ揺れ)を感じてから横揺れに移るまでの時間が長かったので、「震源は遠いな。まあ大丈夫だろう(東京の直下型ではないから)」と思っていたが、横揺れの時間が長いので、揺れの終盤は幾らか心配な気持ちにはなった。
割れたグラスを片付けて、急いで次の仕事に向かおうとした。しかし、近所の大通りには多くの人が歩いていて、タクシーに空車はなく、地下鉄もJRも動いていないので、自宅に戻った。結果的に、「帰宅難民」にならずに済んだ。
拙宅は、新宿区にあるので、目下、東京電力の「計画停電」の対象外だ(一方でありがたいが、他方で不公平なので申し訳なく思う)。
総合的にみて、私は、この震災に関して、東京都民としては恵まれた状況にあると思う。
●
震災発生の直前、石原慎太郎都知事は都知事選への不出馬を表明していた。しかし、その後に、大きな揺れが東京にも伝わった。
その後の津波の被害を見た石原知事が、これを日本人への「天罰」と語って問題になった。彼の人間性がよく表れた無神経な発言というしかないが、その後に陳謝して発言を撤回、さらに消防団員を激励に訪れるという一連の動きを見ると、石原氏といえども選挙を気にする普通の政治家に過ぎないことが分かる。
「政治家になるのは止めたほうがいい。選挙区に帰ったら犬にまで頭を下げるのだから」とよく私に言っていた母の言葉を思い出す。
石原発言に関しては、「『天罰』なんてない。ご本人があの年まで何もないのだから」とツイートしていた人がいて、これは気が利いていると感心した。
雑誌を読んでいたら、なぜか石原氏には甘い評論家の福田和也氏が、石原氏はオカルト的なものを信じる傾向があると語っていた。ご本人の世界の中では、彼の意に沿わない日本人に天罰が下った、というような実感がきっとあったのだろう。誰が言っても不適切な発言だったが、彼が政治家であったことが不都合だった。自由に発言できない不向きな職業を長々続ける巡り合わせは、ご本人にも、東京都民にも不幸だろう。
●
東京電力の福島第一原子力発電所の事故が収束しない。収束しないばかりか、まだまだ影響が拡大する可能性がある。
数日前の北風と雨に運ばれて、放射性物質は東京の水源までやって来た。飲料水汚染のニュースが出る一週間くらい前からメディア関係の知人の中には、出来れば子供は東京から離した方がいいと勧める人が出始めていた。子供を疎開させるかどうか、正直なところ毎日考えているが、今のところ子供の飲食物に気をつけながら東京で暮らす方針だ。
●
原発に関しては、さまざまな情報があって何を信じたらいいのか判断が難しい。東京電力や政府が積極的に嘘をついているとも思えないが、彼らが持っている情報を素直に出しているとも思えない。
「原発は大丈夫か」、「東京に居ても安全か」と東電や政府に訊くのは、「この投信は大丈夫ですか」と証券会社のセールスマン(この頃は銀行員でも同じ)に訊くようなものだろう。
では誰の情報なら信用できるか、というと判断が難しい。敢えて考えるなら、アメリカ大使館の職員が家族を変わらず東京に置いているのか、彼らがどんな水を使ってメシを作っているか、ということが知りたい。彼らの子供が東京を離れる時は「危ない」ということだろう。
●
東京電力という会社がどうなるのかは興味深い問題だ。
原発事故の今後、農業・漁業などの被害も含めた補償を要する被害額(土壌汚染を考えると莫大だろう)、東電の責任がどの程度あるかに関する法的判断、政府が東電をどうするか、という何れも不確定要素の大きな問題があって、簡単には結論が出ない。
企業体力の範囲内で一過性の事故なら、株価が下がった(正確には「下げすぎた」)ところで買っておくのが災害時の投資のセオリーだが、東電の場合は簡単ではない。
「コストが掛かっても、どうせ将来の電気料金で穴埋めできる」という判断から、「補償が巨額の場合、設備は残っても会社としてはいったん潰して再建するのがスジだろう」という考え方までいろいろな可能性がある。
電力政策を考えると、この際東電の発電部門と送電部門を分離して、発電に関してフェアな競争が行える形にして、安全でクリーンな発電業者を育成すると良さそうだ。既存の原発をどうするかは難しい問題だ。民間会社には無理だから政府の管理下に置け、とも言いたくなるが、よく考えてみると、これは一層の無責任と不透明をもたらす道のような気がする。事故を起こせば損が出てボーナスが減る人々を信用する方がましか。
東電の場合、株式もさることながら、東電債がどうなるかという問題もある。格付け会社の動きも含めて興味は尽きない。
ただし、東電は広告の大スポンサーなので、大手メディアから正確な情報や厳しい批判が出てくる見込みは薄いと考えるべきだろう。
●
先日名古屋に日帰りで行ってきたが、名古屋に較べて、東京は街も建物の中も暗い。日頃が明るすぎたのだという意見にも一理あるが、明るい方が消費を誘発できるから明るくしていたのだろうと考えると、誘蛾灯的な明かりといえども消えているのは経済的損失だ。
それにしても、計画停電の対象地域は生活にも生産にも不便だ。電気料金を上げると東電の収入になってしまうから、「電力利用税」でも新設して節電を促す一方、必要な人や会社はいつでも電力を利用できる形にするといいのではないか。もちろん、サマータイムなどのピーク電力の分散策も実施すべきだろう。私は早起きが苦手だが、生活が不規則なので、適応できるような気がする。
●
大問題の発生は、相対的に中小の問題の存在感を薄めるが、大中小それぞれの問題が消える訳ではない。解決しない限りそのまま残っている。
震災の陰に隠れた問題を挙げると、菅首相の政治資金問題、国会の予算審議、名古屋の市議選、リビアの内戦(と欧米の介入)、大相撲の八百長問題、みずほ銀行のシステムトラブルなど、震災と原発事故がなければ大きなニュースになっていたはずの問題がいくつもある。
菅首相は震災への対応でも精彩を欠く。原発問題にあっては東京電力を信じたためか、初動の対応を誤ったのではないかとの疑いもある。通常は、政治休戦が妥当だが、震災による人命救助最優先の時期が過ぎた今、彼が留任して、原発問題や被災地の復興を指揮するのは、国民にとって不幸なことではないかと私は思っている。
もちろん、そう思わない人がいても構わないが、「大災害だから、挙国一致で」というヒステリー状態は(もし、そういう人が居ればだが)早く脱する方がいい。原発問題も復興も時間の掛かる問題だ。皆さんは、本当に菅さんが首相でいいのだろうか。
●
停電、水汚染、それに自粛ムードが加わって、首都圏(ざっとGDPの4割)の経済活動が停滞する心配がある。現に停滞しているし、長引きそうだ。
もちろん、電力の問題もあるし、食料・飲料の安全性の問題もある。停電の可能性がある中、遠くで飲み食いするのは心配あるいは億劫だし、外食では何を食べさせられているか分からないという問題もある。消費の停滞にはそれなりの理由がある。
もちろん、行動は個人の勝手だが、経済活動の縮小は好ましくない。原発問題が流動的な中で新学期・新年度はきっかけにならないかも知れないが、ゴールデンウィークくらいまでにはムードを変える工夫が欲しい。
「自粛」は別段正義ではない。他人が楽しんだり、無駄遣いをしたりすることにケチを付けるのは愚かで有害だ。
他方、経済活性化が正義だと消費を勧めるのは押しつけがましいし、豪遊を誇るのは無粋だ。
「愚かで、有害」と「押しつけがましくて、無粋」はどちらも嫌いだが、より避けるべきは、たぶん前者だろう。
不格好でなく、気分良く消費に気持ちが向かうように、商売をされている方々や広告クリエーターの皆様方の手腕の発揮に期待したい。
●
震災からの復興に関しては、被災地域の基礎的なインフラへの投資と速やかな都市計画が必要だとして、それ以外は、被災者への現金給付(災害復興版のベーシックインカムか)、今後振興したい地域での特別減税による企業誘致、規制緩和を伴う大規模な「特区」の活用など、個人及び企業の自由な行動を優先する振興策を推進して貰いたい。
アイデアマンが官僚・政治家・関連業界を巻き込んで地域開発にカネを使うような形は望ましくない。マニフェストを破りまくっている民主党政権には、せめて震災復興では「コンクリートから人へ」の方針を思い出して欲しい。
●
原発問題は解決まで長く掛かりそうだ。
一日に何度かニュースを確認して、風向きや雨を気にする生活は気疲れするが、被災地のことを気に掛けつつも、消費や趣味も楽しみながら、幾らか余裕を残し気味のスケジュールを心掛けて生活しようと思っている。
コメント ( 107 ) | Trackback ( 0 )
「百姓!」という心の叫び
他人に対してネガティブな感情を持ったとき、読者は何と叫ぶだろうか。もちろん、良き社会人は、面と向かって他人を罵ったりしないだろうから、心の中で叫ぶ。その声を聞いてみて欲しい。
「バカ!」、「屑!」、「嘘つき!」、「畜生!」、「ブタ!」、「悪党!」、その他、いろいろな言葉があるが、人間は、褒めたり、喜んだり、する場合よりも、怒ったり、軽蔑したりする感情を抱いたときにこそ自分の価値観を正直に表すのではないか。
正直に言おう。筆者の場合は心の底で「百姓!」と叫んでいることが多い。頭の中だけで怒る時に「バカ」と罵っていることがよくあるが、「腹を立てて」感情が波立った時に心の中に湧いて出る単語は「百姓!」だ。意味としては「田舎者」を指して使っているように思う。もちろん、百回中99回は心の中に思い浮かべるだけで、実際に口に出したりはしない。
筆者自身は北海道の出身であり(生まれは旭川市、育ちは札幌市)、現在住んでいる東京にあっては、相対的には相当の「田舎者」だ。筆者自身もこの点は自覚している。
一方、価値観の上では、少なくとも表面的には、都会でなく田舎の出身であることを悪いこと、恥ずかしいことだとは思っていない。いわゆる「江戸っ子」を羨ましく思うことがないわけではないが(勇ましくて、さっぱりしているのはいいイメージだ)、道産子の、去る者は追わず、来る者は拒まない「しつこくない人懐っこさ」も誇るに値する美質だと思っている。自分のプロフィールに「北海道出身」と書く時には、毎回少し嬉しい気分になる。
また、農業に従事する人を他の職業人よりも低く見る考えは断じてない。侮蔑の言葉として「百姓!」が倫理的・社会的に不適切であることは十分分かっているつもりなのだが、筆者の意識の中に「百姓!」という言葉が悪口として埋め込まれている。しかし、説明の付く理由が見当たらない。
ところで、「三つ子の魂百までも」という諺があるが、筆者の「百姓!」の起源は三つ子以前に遡る。
一歳半の冬(注;筆者は5月生まれ)、筆者は旭川に居た。母方の曾祖父は、旭川市の開拓に貢献した人物で、同市で大規模に農業を営んでいた。名を善吉さんという。仕事はもう引退していたが、当時、この人物がまだ元気で、ひ孫である筆者を見に来てくれたことがある。
氷点下10度以下が珍しくない旭川の冬だ。筆者は、分厚いコートの中で母親の背に負われていた。善吉さんは、コートの襟をかき分けて赤ん坊である筆者の顔をのぞき込んだ。すると、筆者は善吉さんに向かって「どんびゃくしょう。どんびゃくしょう」と何度も繰り返したのだという。困ったことに、善吉さんは、間違いなくお百姓さんなのである。
人格円満な善吉さんなので、それで怒り出したわけではなかったのだが、「ほう、そんなこと言うんか」とずいぶん意外そうだったという。
困ったのは、筆者の両親で、赤ん坊にそのような言葉を教えた覚えもないし、なぜ息子が繰り返し「どんびゃくしょう」と言っているのか、理由が分からなくて、善吉さんに対して平身低頭して恐縮したという。一歳の赤ん坊だ。状況的には、親が教えて言わせていると解されてもおかしくない。
今の筆者にその時の記憶はないので、以上は、両親から(何度も)聞いたエピソードだ。
たぶん、その頃かその少し後には、水原弘の「黒い花びら」の歌詞をそらんじていたというから、筆者は、言葉の覚えは早い子供だった。しかし、なぜ「どんびゃくしょう」という悪い言葉を覚えて、しかもそれを実際のお百姓さんを見分けて使うことができたのかは全く不明である。
ともかく、筆者にとって「百姓」という言葉は、他の言葉よりも根源的な、印象の深い言葉であるらしい。
それでは、近時、どんな相手に対して「百姓!」と(心中で)呟いているか。
最も典型的なのは、無意味な権威を振りかざす人物に対してだろうか。
たとえば、日本には、外国(この頃は「欧米」だけにとどまらない)の権威に弱い人の一群がいる。「外国のエリートは進んでいるが、日本の大衆は全く遅れている。海外情勢に精通し、彼らと対等に付き合えるこのワタシが、日本の遅れた大衆に知識を授けてやろう」と言わんばかりの物言いをする評論家・コンサルタント・政治家などに出会うと、「この、どんびゃくしょう!」と叫びたい気持ちになる。
お金の運用の世界だと、欧米人は運用が上手いと真顔で言ったり、「欧米でやっているから」、プライベート・バンクに「特別にいい運用ノウハウ」があると本気で思っていたり、国家ファンドがいいものだと思っているような人物が、私から見ると、かなり深刻な「百姓」である。
尚、この種の思い込みに、手数料稼ぎなど、自分の商売が絡む人物は、「百姓+悪党」だ。このように百姓と悪党を使い分けたい気分を思うと、私は、「百姓」という言葉を「悪い人」という意味で使っているのではない。
その他、サラリーマンによくいる群れをなして他人を威圧する人物や、静かなバーで大声でしゃべる人物なども、しばしば「百姓」に分類される。
しかし、軽蔑していることは確かなのだが、彼らをなぜ他の言葉でなくて「百姓!」と罵りたいのかの理由は相変わらず謎のままだ。
敢えて、考えると、「田舎者(的)」の反対が「都会的」だとすると、筆者にあって「都会的」を構成する要素は、個人が独立していて、他の個人に対して押しつけがましくない、といったイメージだ。したがって、この逆に、物事に無理解な他人の押しつけがましさに遭遇すると、これに腹を立てて、「百姓!」という言葉が湧いてくるのか。
それとも、筆者は、自分が田舎者であることに対して、自分でも気付かないくらい深いコンプレックスがあるのだろうか?
何はともあれ、お百姓さん、ごめんなさい!
(※ 作業員さま、moto金田浩さま、及び、関係者の皆様 「よろしかったら、このエントリーのコメント欄にお引っ越しされませんか」)
「バカ!」、「屑!」、「嘘つき!」、「畜生!」、「ブタ!」、「悪党!」、その他、いろいろな言葉があるが、人間は、褒めたり、喜んだり、する場合よりも、怒ったり、軽蔑したりする感情を抱いたときにこそ自分の価値観を正直に表すのではないか。
正直に言おう。筆者の場合は心の底で「百姓!」と叫んでいることが多い。頭の中だけで怒る時に「バカ」と罵っていることがよくあるが、「腹を立てて」感情が波立った時に心の中に湧いて出る単語は「百姓!」だ。意味としては「田舎者」を指して使っているように思う。もちろん、百回中99回は心の中に思い浮かべるだけで、実際に口に出したりはしない。
筆者自身は北海道の出身であり(生まれは旭川市、育ちは札幌市)、現在住んでいる東京にあっては、相対的には相当の「田舎者」だ。筆者自身もこの点は自覚している。
一方、価値観の上では、少なくとも表面的には、都会でなく田舎の出身であることを悪いこと、恥ずかしいことだとは思っていない。いわゆる「江戸っ子」を羨ましく思うことがないわけではないが(勇ましくて、さっぱりしているのはいいイメージだ)、道産子の、去る者は追わず、来る者は拒まない「しつこくない人懐っこさ」も誇るに値する美質だと思っている。自分のプロフィールに「北海道出身」と書く時には、毎回少し嬉しい気分になる。
また、農業に従事する人を他の職業人よりも低く見る考えは断じてない。侮蔑の言葉として「百姓!」が倫理的・社会的に不適切であることは十分分かっているつもりなのだが、筆者の意識の中に「百姓!」という言葉が悪口として埋め込まれている。しかし、説明の付く理由が見当たらない。
ところで、「三つ子の魂百までも」という諺があるが、筆者の「百姓!」の起源は三つ子以前に遡る。
一歳半の冬(注;筆者は5月生まれ)、筆者は旭川に居た。母方の曾祖父は、旭川市の開拓に貢献した人物で、同市で大規模に農業を営んでいた。名を善吉さんという。仕事はもう引退していたが、当時、この人物がまだ元気で、ひ孫である筆者を見に来てくれたことがある。
氷点下10度以下が珍しくない旭川の冬だ。筆者は、分厚いコートの中で母親の背に負われていた。善吉さんは、コートの襟をかき分けて赤ん坊である筆者の顔をのぞき込んだ。すると、筆者は善吉さんに向かって「どんびゃくしょう。どんびゃくしょう」と何度も繰り返したのだという。困ったことに、善吉さんは、間違いなくお百姓さんなのである。
人格円満な善吉さんなので、それで怒り出したわけではなかったのだが、「ほう、そんなこと言うんか」とずいぶん意外そうだったという。
困ったのは、筆者の両親で、赤ん坊にそのような言葉を教えた覚えもないし、なぜ息子が繰り返し「どんびゃくしょう」と言っているのか、理由が分からなくて、善吉さんに対して平身低頭して恐縮したという。一歳の赤ん坊だ。状況的には、親が教えて言わせていると解されてもおかしくない。
今の筆者にその時の記憶はないので、以上は、両親から(何度も)聞いたエピソードだ。
たぶん、その頃かその少し後には、水原弘の「黒い花びら」の歌詞をそらんじていたというから、筆者は、言葉の覚えは早い子供だった。しかし、なぜ「どんびゃくしょう」という悪い言葉を覚えて、しかもそれを実際のお百姓さんを見分けて使うことができたのかは全く不明である。
ともかく、筆者にとって「百姓」という言葉は、他の言葉よりも根源的な、印象の深い言葉であるらしい。
それでは、近時、どんな相手に対して「百姓!」と(心中で)呟いているか。
最も典型的なのは、無意味な権威を振りかざす人物に対してだろうか。
たとえば、日本には、外国(この頃は「欧米」だけにとどまらない)の権威に弱い人の一群がいる。「外国のエリートは進んでいるが、日本の大衆は全く遅れている。海外情勢に精通し、彼らと対等に付き合えるこのワタシが、日本の遅れた大衆に知識を授けてやろう」と言わんばかりの物言いをする評論家・コンサルタント・政治家などに出会うと、「この、どんびゃくしょう!」と叫びたい気持ちになる。
お金の運用の世界だと、欧米人は運用が上手いと真顔で言ったり、「欧米でやっているから」、プライベート・バンクに「特別にいい運用ノウハウ」があると本気で思っていたり、国家ファンドがいいものだと思っているような人物が、私から見ると、かなり深刻な「百姓」である。
尚、この種の思い込みに、手数料稼ぎなど、自分の商売が絡む人物は、「百姓+悪党」だ。このように百姓と悪党を使い分けたい気分を思うと、私は、「百姓」という言葉を「悪い人」という意味で使っているのではない。
その他、サラリーマンによくいる群れをなして他人を威圧する人物や、静かなバーで大声でしゃべる人物なども、しばしば「百姓」に分類される。
しかし、軽蔑していることは確かなのだが、彼らをなぜ他の言葉でなくて「百姓!」と罵りたいのかの理由は相変わらず謎のままだ。
敢えて、考えると、「田舎者(的)」の反対が「都会的」だとすると、筆者にあって「都会的」を構成する要素は、個人が独立していて、他の個人に対して押しつけがましくない、といったイメージだ。したがって、この逆に、物事に無理解な他人の押しつけがましさに遭遇すると、これに腹を立てて、「百姓!」という言葉が湧いてくるのか。
それとも、筆者は、自分が田舎者であることに対して、自分でも気付かないくらい深いコンプレックスがあるのだろうか?
何はともあれ、お百姓さん、ごめんなさい!
(※ 作業員さま、moto金田浩さま、及び、関係者の皆様 「よろしかったら、このエントリーのコメント欄にお引っ越しされませんか」)
コメント ( 1391 ) | Trackback ( 0 )
我が、「減量」の試みについて
カタカナ名前の不動産屋が「我々が大家になりました」と現れたのは10月だった。11月にドタバタと自宅を引っ越した。
経緯の詳細は「週刊ダイヤモンド」や獨協大学の授業でも取り上げたが、この不動産屋は、中古マンションを買って、リフォームして再版するビジネスを手がける業者で、最初は「住んでいる人が買うと得だから、買わないか」と言ってきた。しかし、買うには価格が高過ぎることを指摘して断ると、「では、引っ越しに関わる費用を全額こちらが持つので、近隣の同等物件に引っ越しませんか」と持ちかけてきた。そこで、この話に乗ったのだった。
考えてみると、ここ4年ほど、転職も引っ越しもしていなかった。満足の行く候補物件が他の客にきまらないうちに引っ越しを決めたいと思ったので、せわしい引っ越しになったが、今や何とか落ち着いた。
ブログを更新したい、と思う余裕が生じた。
さて、この引っ越しに際して、自分の部屋が少し狭くなるので、自分が使う本棚を三つから一つに減らすことにした。そのため、本棚一つの三分の一程度の本をスキャンしてPDF化し、三分の二の本は捨てた。本を捨てるに際して、はじめはもったいないと思い、相当数を自分の会社に持って行こうかと思ったが、そもそも手元にあって読まないものを会社に置くのは無駄なのだと思い直して捨てることにした。
過去、古本屋に本を売ったこともあるし、「捨てる本がまとまったら、ブックオフを呼んで、持って行って貰うのが、一番手間が掛からなくていい」というアドバイスを同僚から貰ってもいたが、本を換金するのは、どうも気が進まなかった。そして、本を自分の手で本を捨ててみると、なぜか、少しいい気分になった。
世間では、「断捨離」がミニブームだ。これは、かつて「捨てる技術」が流行ったことに続く、「第二次“捨てる”ブーム」であるらしい。
なので、せっかくの機会だから、断捨離本を二冊ほど読んでみた。体言止め連発の、浮かれた新聞記者のような文体は(好きな人は、好きなのだろうが)、私にとっては苦痛だったが、書かれている内容は首肯できるものだった。真に使うモノを有効且つ大切に使うためには、使わないモノが占めている場所を空ける方がいい。
「モノを買うことは、自己表現の一形態でもあり、社会にとってもいいことだ」というかつての消費推奨的な思想は現在力を失いつつある。「デフレ消費」、「嫌消費」などという言葉もあり、「余計なモノを持たない方が、格好がいい」という気分を持つ消費者(というよりも生活者)が明らかに増えている。そして、これは悪いことではない。「マーケティング」とかいう小賢しい技術によって、我々は、これまで随分余計なものを買っていたのだ。
もっとも、他人よりも旺盛な私の物欲がすっかりしぼむとは思えないが、今回の引っ越しを機に、自分の周囲のモノを減らすことを継続的に試みようと思っている。
理想と現実が一致する見込みはほぼないが、私があこがれる「住まい」は、最小限の必要で好きなモノだけを置いたホテルのスイートルームのような部屋での暮らしだ(モノさえ減らせば、ファミリータイプのマンションはホテルのスイートに匹敵する空間があるのだが・・・)。大きな家や、庭などには、全く興味がない。最も好都合で面白いと思える場所に、スッキリと住むのが夢だ(たぶん、生涯達成できない夢だろうが)。
さて、モノの他に、現在もう一つ減らそうとしているのが「体重」だ。
私の体重は大学卒業以来、2年で1キロずつ一次関数的に単調増加してきたのだが、ここ一、二年、その傾きが急になりつつあって、自分で自分のことを少々重苦しいと思い始めていた。
そう思いながら、本棚を整理していたら、十年以上前に友人が使った「デンマーク式ダイエット」と題するダイエットのレシピのコピーが出てきた。
油と炭水化物を減らしてカロリーを落とすメニューが基本のようだが、これを参考にしながら自分流にアレンジ(アルコール・ゼロなんて無理だし・・・)して、ここ3ヶ月ほど、月に2キロ程度のペースを目処に体重を落としている。能書きによれば、パスタのどか食いや、夜中のラーメンのようなものが大変良くないらしい。
現在、ピークと比較すると7キロ程度体重が落ちた。
なにぶんもともとの体重の分母が大きいので、見かけ上、大きな変化はまだないが、いくらか体が軽くなったような気がする。あと5、6キロ落としたいと思っている。ただし、12月は忘年会シーズンなので「増えなければいい」と決めて小休止している。
10歳から20歳くらい上の人々の姿を見ると、加齢して痩せると、急に老けて且つ不景気な感じがする場合が多い。老境は、やや太りながら迎える方が「見かけ上は」いいように思う。
しかし、もともと太っているのでは、それ以上太る余裕が、健康上も、容姿上もない、ということになりかねないので、今のうちに一度体重を落として老境をむかえることにしようという「長期戦略」を持つことにした。
戦略が実行できるか否かは、もちろん、今後の自己コントロールに掛かっているが、順調であれば、来年の3月くらいに目標を達成する予定だ。
モノ減らしと体重減らしに加える課題は、理想的には、夜型の生活を改造することと、ちょうど良い分量に仕事を調整することだろう。
但し、これらはおそらく簡単ではない。
まあ、過剰なものがあったり、不足なものがあったりするのが人生なのだろうから、無理はするまい、と思っている(あきらめるわけではないのだが)。
経緯の詳細は「週刊ダイヤモンド」や獨協大学の授業でも取り上げたが、この不動産屋は、中古マンションを買って、リフォームして再版するビジネスを手がける業者で、最初は「住んでいる人が買うと得だから、買わないか」と言ってきた。しかし、買うには価格が高過ぎることを指摘して断ると、「では、引っ越しに関わる費用を全額こちらが持つので、近隣の同等物件に引っ越しませんか」と持ちかけてきた。そこで、この話に乗ったのだった。
考えてみると、ここ4年ほど、転職も引っ越しもしていなかった。満足の行く候補物件が他の客にきまらないうちに引っ越しを決めたいと思ったので、せわしい引っ越しになったが、今や何とか落ち着いた。
ブログを更新したい、と思う余裕が生じた。
さて、この引っ越しに際して、自分の部屋が少し狭くなるので、自分が使う本棚を三つから一つに減らすことにした。そのため、本棚一つの三分の一程度の本をスキャンしてPDF化し、三分の二の本は捨てた。本を捨てるに際して、はじめはもったいないと思い、相当数を自分の会社に持って行こうかと思ったが、そもそも手元にあって読まないものを会社に置くのは無駄なのだと思い直して捨てることにした。
過去、古本屋に本を売ったこともあるし、「捨てる本がまとまったら、ブックオフを呼んで、持って行って貰うのが、一番手間が掛からなくていい」というアドバイスを同僚から貰ってもいたが、本を換金するのは、どうも気が進まなかった。そして、本を自分の手で本を捨ててみると、なぜか、少しいい気分になった。
世間では、「断捨離」がミニブームだ。これは、かつて「捨てる技術」が流行ったことに続く、「第二次“捨てる”ブーム」であるらしい。
なので、せっかくの機会だから、断捨離本を二冊ほど読んでみた。体言止め連発の、浮かれた新聞記者のような文体は(好きな人は、好きなのだろうが)、私にとっては苦痛だったが、書かれている内容は首肯できるものだった。真に使うモノを有効且つ大切に使うためには、使わないモノが占めている場所を空ける方がいい。
「モノを買うことは、自己表現の一形態でもあり、社会にとってもいいことだ」というかつての消費推奨的な思想は現在力を失いつつある。「デフレ消費」、「嫌消費」などという言葉もあり、「余計なモノを持たない方が、格好がいい」という気分を持つ消費者(というよりも生活者)が明らかに増えている。そして、これは悪いことではない。「マーケティング」とかいう小賢しい技術によって、我々は、これまで随分余計なものを買っていたのだ。
もっとも、他人よりも旺盛な私の物欲がすっかりしぼむとは思えないが、今回の引っ越しを機に、自分の周囲のモノを減らすことを継続的に試みようと思っている。
理想と現実が一致する見込みはほぼないが、私があこがれる「住まい」は、最小限の必要で好きなモノだけを置いたホテルのスイートルームのような部屋での暮らしだ(モノさえ減らせば、ファミリータイプのマンションはホテルのスイートに匹敵する空間があるのだが・・・)。大きな家や、庭などには、全く興味がない。最も好都合で面白いと思える場所に、スッキリと住むのが夢だ(たぶん、生涯達成できない夢だろうが)。
さて、モノの他に、現在もう一つ減らそうとしているのが「体重」だ。
私の体重は大学卒業以来、2年で1キロずつ一次関数的に単調増加してきたのだが、ここ一、二年、その傾きが急になりつつあって、自分で自分のことを少々重苦しいと思い始めていた。
そう思いながら、本棚を整理していたら、十年以上前に友人が使った「デンマーク式ダイエット」と題するダイエットのレシピのコピーが出てきた。
油と炭水化物を減らしてカロリーを落とすメニューが基本のようだが、これを参考にしながら自分流にアレンジ(アルコール・ゼロなんて無理だし・・・)して、ここ3ヶ月ほど、月に2キロ程度のペースを目処に体重を落としている。能書きによれば、パスタのどか食いや、夜中のラーメンのようなものが大変良くないらしい。
現在、ピークと比較すると7キロ程度体重が落ちた。
なにぶんもともとの体重の分母が大きいので、見かけ上、大きな変化はまだないが、いくらか体が軽くなったような気がする。あと5、6キロ落としたいと思っている。ただし、12月は忘年会シーズンなので「増えなければいい」と決めて小休止している。
10歳から20歳くらい上の人々の姿を見ると、加齢して痩せると、急に老けて且つ不景気な感じがする場合が多い。老境は、やや太りながら迎える方が「見かけ上は」いいように思う。
しかし、もともと太っているのでは、それ以上太る余裕が、健康上も、容姿上もない、ということになりかねないので、今のうちに一度体重を落として老境をむかえることにしようという「長期戦略」を持つことにした。
戦略が実行できるか否かは、もちろん、今後の自己コントロールに掛かっているが、順調であれば、来年の3月くらいに目標を達成する予定だ。
モノ減らしと体重減らしに加える課題は、理想的には、夜型の生活を改造することと、ちょうど良い分量に仕事を調整することだろう。
但し、これらはおそらく簡単ではない。
まあ、過剰なものがあったり、不足なものがあったりするのが人生なのだろうから、無理はするまい、と思っている(あきらめるわけではないのだが)。
コメント ( 13 ) | Trackback ( 0 )
ALL-FREEの不自由
先日、アルコール・ゼロのビール風味飲料を何本か飲み比べて一番美味しいと思ったサントリーの「ALL-FREE」が、一部のコンビニに再入荷し始めた。想定外の人気で、生産が間に合わなかった時期があったようだが(よく売れそうな猛暑の時期に品切れだったから、売るための演出ではなく、本当に無かったのだろう)、品物が出回り始めたようだ。商品の担当者は、たぶん麦汁以上に絞られただろうから、この間の苦情は言うまい。これから頑張って売って下さい。
ALL-FREEが再び買えるようになったのはいいことなのだが、会社の近くのコンビニで数本買おうとして、レジに持っていったところ、合成音声が「年齢確認が必要です」と言う。しかも、POSを当てた時と、レジが動くときの2回も言う。アルコール・ゼロなのだが(0.00%と表示されている)、ビールに類似しているため、未成年には売らないということなのか。
しかし、アルコールがゼロのものはお酒ではないのだから、未成年に売っても構わないのではないか。個人的には、これで息子(5歳)とビール(風の飲み物)を一緒に飲めると思って楽しみにしていたのに、世間に水を差されたような気分だ。
私個人の体感としては、ALL-FREEよりもコーラの方が(どす黒い甘さだけでも)ずっと体に悪そうな感じがするし、不味い(注;個人の感じ方です。、そう感じない方もいるかも知れません。自分の感じ方を他人に強要するつもりはありません)。息子は今のところ、味覚がまあまあなので、ファストフードのコーラとハンバーガーで飲食が済んだと思うような人間には育てたくない、と私は勝手に思っている。ALL-FREEは完全にノンアルコールなのだから、誰が飲んでもいいではないか。
この過剰な規制(だと私は思う)は、いったい誰が決めたものなのだろうか? 警察や財務省のような監督当局の指導なのか、自治体のお節介なのか、或いは、コンビニエンス・ストアかメーカーの「自主規制」なのか。
しかし、監督当局が、法律では酒でないものの売り方を自分達の責任で規制することは想像しにくい。販売店が世間の批判の可能性を恐れて自主規制しているのだろうか。
あるいは、販売店やメーカーの立場からすると、販売対象は広くしたいはずだが、一方で、それで「ゼロ・ビール」を酒類のコーナーではなく、ソフトドリンクのコーナーに並べなければならないならツマラナイ(≒売れにくい)という判断があるのだろうか。
何れにせよ、レジで感じた規制のムードは「後味」がよろしくなかった。
ALL-FREEが再び買えるようになったのはいいことなのだが、会社の近くのコンビニで数本買おうとして、レジに持っていったところ、合成音声が「年齢確認が必要です」と言う。しかも、POSを当てた時と、レジが動くときの2回も言う。アルコール・ゼロなのだが(0.00%と表示されている)、ビールに類似しているため、未成年には売らないということなのか。
しかし、アルコールがゼロのものはお酒ではないのだから、未成年に売っても構わないのではないか。個人的には、これで息子(5歳)とビール(風の飲み物)を一緒に飲めると思って楽しみにしていたのに、世間に水を差されたような気分だ。
私個人の体感としては、ALL-FREEよりもコーラの方が(どす黒い甘さだけでも)ずっと体に悪そうな感じがするし、不味い(注;個人の感じ方です。、そう感じない方もいるかも知れません。自分の感じ方を他人に強要するつもりはありません)。息子は今のところ、味覚がまあまあなので、ファストフードのコーラとハンバーガーで飲食が済んだと思うような人間には育てたくない、と私は勝手に思っている。ALL-FREEは完全にノンアルコールなのだから、誰が飲んでもいいではないか。
この過剰な規制(だと私は思う)は、いったい誰が決めたものなのだろうか? 警察や財務省のような監督当局の指導なのか、自治体のお節介なのか、或いは、コンビニエンス・ストアかメーカーの「自主規制」なのか。
しかし、監督当局が、法律では酒でないものの売り方を自分達の責任で規制することは想像しにくい。販売店が世間の批判の可能性を恐れて自主規制しているのだろうか。
あるいは、販売店やメーカーの立場からすると、販売対象は広くしたいはずだが、一方で、それで「ゼロ・ビール」を酒類のコーナーではなく、ソフトドリンクのコーナーに並べなければならないならツマラナイ(≒売れにくい)という判断があるのだろうか。
何れにせよ、レジで感じた規制のムードは「後味」がよろしくなかった。
コメント ( 24 ) | Trackback ( 0 )
試験をやってみてのあれこれ
さる7月22日に、獨協大学で春学期に担当した「金融資産運用論」と「会社と社会の歩き方」の試験を行った。
形式は両科目とも同じで、問題は4題のうち1題を選択し800字~1000字くらいの記述式で回答して貰う試験にした。問題は事前の授業で公開し、持ち込みは全て自由とした。サラリーマンなら文章を書く時にネットを検索できるわけだから、試験中の携帯での検索もOKとした。
こちら側の趣旨は、相談抜きで自分の力で書けるベストの答案を見たい、ということだった。要は、私の話が理解されたかどうかを知りたかった。内容を理解しないで書くと、何を持ち込んで書いたとしても、記述式だとボロが出るので、答案から理解度を推測することが出来ると考えた(この狙いは、そう外れていなかった)。
もう一つには、試験をきっかけに何かを勉強してくれたら、それも良かろうとも思っていた。
こちらとしては、今年の秋学期以降の授業の参考データが欲しいということが主目的だから、正確に答えて貰えるならレポートでもアンケートでも良かったのだが、レポートは代筆が容易だし、1時間でも(獨協大学では授業が90分、試験は60分が基本のようだ)時間を決めて真剣に書いて貰う試験の形式の方が、一人一人の学力や理解が正確に現れるだろうと思った。
もっとも、この形式にも穴があり、他人に作って貰った回答を試験場に持ち込む手もあるし、携帯が使用可能なのだから、模範解答をクラウドに置いて参照したり、「やらないでね」とは言って置いたが、試験中に他人と通信して相談することも出来る。
何はともあれ、一斉試験に漕ぎ着けて、試験をしてみると、自分が作った問題に、それぞれ300人近い学生が向かう訳で、何とも言えない感慨があった。自分がやったこと(出題)に対して、多人数が影響を受けている状況を目の当たりにした新鮮な驚きだ。もっとも、新鮮だったのはこちらの経験ばかりでなく、授業では見たことのない顔と人数が試験会場にはいた。
「こんにちは、山崎元です。初めてお目に掛かる方もいらっしゃるようなので、その方々には『はじめまして』。読み甲斐のある答案を期待しています」と挨拶して、試験を始めた。
携帯の使用可、という条件には多少の問題があった。試験は、両科目とも、教室を二つ使って行われたが、試験監督で協力していただいたある先生から、「携帯を検索に使っているのか、通信に使っているのか、責任を持って監督することが難しい」とのご指摘を受けた。また、大学の一般的な試験注意事項の中に、「携帯電話の電源を切ること」が含まれており、これとの矛盾もあった。
今回は「携帯は通話に使用しなければOKです」という基準で通したが、次回以降は携帯の使用を不可にする方がいいのかも知れない。
1時間しかない試験時間の中で携帯を使うのは却って面倒ではないかとも思ったが、試験中に携帯を使っている学生は相当の数に上った。
一部には、ものを考える際に携帯をあれこれと使うことが一種の癖になっているのではないか、と思えるような学生もいた。また、学生はiPHONE比率が高かった(見渡すところ、ざっと半分くらい)。早くもiPHONE4を使っている学生がいて、これは、羨ましかった。
また、おそらく検索で調べたと覚しき共通の記述を含む答案が相当数あった。たとえば、投資教育について問う問題への回答で、授業では一切触れていないはずの英米、カナダなどの投資教育について述べた答案がたくさんあった。ネット検索を元に書かれたレポートが似た内容のものになりやすい、という現象の一端が確認できた。
携帯以外には、電子辞書の持ち込みがかなりあった。外国人の学生が相当数居るので、漢字などを確認するのに使っているのだろう。
尚、誤字は非常に多かったが(「債券」を正しく書く人よりも「債権」と書く人の方が多いくらいだった)、意味さえ誤解無く通じていれば誤字は減点対象にしていない。採点する側も、先日出たクイズ番組で気圧配置の「西高東低」の「低」がその場で書けなかった(何度も「底」と誤記した。なぜだろう?)くらいの阿呆であるから、「意味が通じるならいい」を原則とした。
●
選択式や計算問題の方が採点は楽だが、間違った答案は救済のしようがない。記述式にしたのは、少なくとも真面目に受験した学生には全員に単位を与えるという目的もあった。
このように書くと、我ながら、なかなかの善人だが、率直に言って、私は、獨協大学の学部生がどのくらいの知識と理解力を持っているのか、少なくとも事前には知らなかった訳なので、サービス業の立場としては、これが妥当だと思った。
決して、一般論として大学の授業と試験がかくあるべきだと思っているわけではない。学生のレベルに合わせた授業を行い、緊張感のある試験によって評価をフィードバックするやり方が出来れば、教育的にはそれこそが親切なのであり、理想的なのだろうと思う。
もっとも、採点では、私なりに差を付けた。
獨協大学の成績評価は、90点以上が「AA」、80点~89点が「A」、70点~79点が「B」、60点~69点が「C」で、60点未満は単位が与えられない。
今回の私の採点基準は、基本的に加点方式で、「まじめに試験を受けたこと」に対して60点を配した。問題のテーマに関連する記述で充実した記述が1つあれば10点、これに及ばないが正しい記述の場合に5点をそれぞれ加点し、問題毎に書くべきテーマが3~4あるので、よく書けていると90点、つまり「AA」を取ることが出来る、というようなものだった。
採点した評価の分布は以下の通りだ。
「金融資産運用論」で、AAが2.5%、Aが12.9%、Bが37.1%、Cが47.5%。
「会社と社会の歩き方」は、AAが3.1%、Aが25.9%、Bが40.4%、Cが30.6%である。
C評価の答案は、普通の採点基準で評価した場合「不可」だろう。また、B評価の学生は、通常の条件で試験を行った場合には、合格点に達しなかった可能性が大きいと思う(特に「金融資産運用論」で)。
以上の結果から自己反省すると、先ず、「金融資産運用論」は、授業の内容ないし、教え方に何らかの変更か工夫が必要なのではないかと思われる。
今回の採点基準を前提とすると、B以上が最低7割、できれば8割くらいになるようでないと授業としては成功と言い難い。厳しく見ると、内容に十分ついて来ることができたのはAとAAの15%強、人数にして43人だけということになる。
一般向けの投資教育のような(A)「役に立つ投資の知識」と、大学の授業であることを意識した(B)「投資理論の位置づけと応用」とを両方盛り込もうとしたのだが、内容が難しかったか、私の教え方が下手だったかということだろう。
次回以降、内容を修正する必要があるが、(A)に傾斜するのが多数の学生の将来の経済生活を思うと正しいのかも知れないが、一般向けではなくて大学の授業なので(B)を諦めるのも寂しい。内容の配分を変えずに、(B)の部分の教え方を工夫すべきなのか、悩ましい。
コースを二つに分けるか、半年単位でなく、通年でやるかなども含めて対応策を検討しようと思う。
「会社と社会の歩き方」は、授業内容が、キャリアプランニングに関わる話と、経済トピック中心の理屈っぽい世間話だ。話の理解そのものには大きな負荷は掛かっていないはずなのだ。こちらも、もう少し点数が伸びて欲しかった。
出題・採点者がそう立派な人ではないので、C、あるいはB評価の学生も、今回の結果だけで悲観するには及ばないが、問いの形をうけた回答が作文できていない、厳しい言い方をすると「コミュニケーション能力不全」の答案が相当数あった。
時間のある中で、文章でやりとりしてこうなるのだから、就職の面接などで、言葉のやりとりが正確に出来ていないのではないかと、非常に心配になる。
キャリア・プランニングの一般論として重要なポイントを三つ挙げよという問いに対して、「過去の自分の振り返り」「現在の自分の分析」「なりたい自分と現在の自分の対比(不足の検討)」といった趣旨の答案が相当数合ったのだが、このような「過剰な自分探し」(探したってたいしたものが出てこないのが普通だし、関心の向け方が不適切だ)はキャリア・プランニングの役にも立たないし、何よりも就職活動にとって逆効果だろう。
また、この設問は、一般論として重要なポイントを挙げた上で、回答者自身のキャリアプランについて記述せよ、という問題だった。ポイントは事前に解説しておいたので、実質的には、一般論とこれに対応した自分の考えをどう表現するかというテストなのだが、問いに合った構成の作文が出来ていない答案が多数あった(C評価答案の半分くらい)。
一般論と具体論の区別が付かない人(投資の話をするときには、よくいる)や、1000字程度の作文を破綻無く書けない人に対しては、話をすること自体が無駄なわけではないと強く思っているが、経験的に言って、「よく分かる人向け」の話とは別の内容や話し方にする必要がある。
本来、「就活のもう一歩先に考えるべきこと」を伝えたかった授業なのだが、「就活に役立つこと」も伝えられたら伝える方が良いだろうし、木曜日の5限(16:45~18:15)という貴重な時間を使って授業に出る学生(偉い!)に対して「何が一番役立つか」という観点から、内容の練り直しが必要だと考えている。
合計535枚の記述式答案の採点は、真に大作業だった。通常の「仕事日」換算で、丸4日は潰れた感じだ。原稿の〆切その他の仕事と並行して作業したので、採点が仕上がったのは成績評価〆切日の前日だった。途中で、突発的な仕事や用事が入ると危ないスケジューリングだった。
試験の形式も、もう一工夫必要かも知れない。
自分の反省材料を求めるためにやった試験とはいえ、反省材料の多い夏休みだ。
形式は両科目とも同じで、問題は4題のうち1題を選択し800字~1000字くらいの記述式で回答して貰う試験にした。問題は事前の授業で公開し、持ち込みは全て自由とした。サラリーマンなら文章を書く時にネットを検索できるわけだから、試験中の携帯での検索もOKとした。
こちら側の趣旨は、相談抜きで自分の力で書けるベストの答案を見たい、ということだった。要は、私の話が理解されたかどうかを知りたかった。内容を理解しないで書くと、何を持ち込んで書いたとしても、記述式だとボロが出るので、答案から理解度を推測することが出来ると考えた(この狙いは、そう外れていなかった)。
もう一つには、試験をきっかけに何かを勉強してくれたら、それも良かろうとも思っていた。
こちらとしては、今年の秋学期以降の授業の参考データが欲しいということが主目的だから、正確に答えて貰えるならレポートでもアンケートでも良かったのだが、レポートは代筆が容易だし、1時間でも(獨協大学では授業が90分、試験は60分が基本のようだ)時間を決めて真剣に書いて貰う試験の形式の方が、一人一人の学力や理解が正確に現れるだろうと思った。
もっとも、この形式にも穴があり、他人に作って貰った回答を試験場に持ち込む手もあるし、携帯が使用可能なのだから、模範解答をクラウドに置いて参照したり、「やらないでね」とは言って置いたが、試験中に他人と通信して相談することも出来る。
何はともあれ、一斉試験に漕ぎ着けて、試験をしてみると、自分が作った問題に、それぞれ300人近い学生が向かう訳で、何とも言えない感慨があった。自分がやったこと(出題)に対して、多人数が影響を受けている状況を目の当たりにした新鮮な驚きだ。もっとも、新鮮だったのはこちらの経験ばかりでなく、授業では見たことのない顔と人数が試験会場にはいた。
「こんにちは、山崎元です。初めてお目に掛かる方もいらっしゃるようなので、その方々には『はじめまして』。読み甲斐のある答案を期待しています」と挨拶して、試験を始めた。
携帯の使用可、という条件には多少の問題があった。試験は、両科目とも、教室を二つ使って行われたが、試験監督で協力していただいたある先生から、「携帯を検索に使っているのか、通信に使っているのか、責任を持って監督することが難しい」とのご指摘を受けた。また、大学の一般的な試験注意事項の中に、「携帯電話の電源を切ること」が含まれており、これとの矛盾もあった。
今回は「携帯は通話に使用しなければOKです」という基準で通したが、次回以降は携帯の使用を不可にする方がいいのかも知れない。
1時間しかない試験時間の中で携帯を使うのは却って面倒ではないかとも思ったが、試験中に携帯を使っている学生は相当の数に上った。
一部には、ものを考える際に携帯をあれこれと使うことが一種の癖になっているのではないか、と思えるような学生もいた。また、学生はiPHONE比率が高かった(見渡すところ、ざっと半分くらい)。早くもiPHONE4を使っている学生がいて、これは、羨ましかった。
また、おそらく検索で調べたと覚しき共通の記述を含む答案が相当数あった。たとえば、投資教育について問う問題への回答で、授業では一切触れていないはずの英米、カナダなどの投資教育について述べた答案がたくさんあった。ネット検索を元に書かれたレポートが似た内容のものになりやすい、という現象の一端が確認できた。
携帯以外には、電子辞書の持ち込みがかなりあった。外国人の学生が相当数居るので、漢字などを確認するのに使っているのだろう。
尚、誤字は非常に多かったが(「債券」を正しく書く人よりも「債権」と書く人の方が多いくらいだった)、意味さえ誤解無く通じていれば誤字は減点対象にしていない。採点する側も、先日出たクイズ番組で気圧配置の「西高東低」の「低」がその場で書けなかった(何度も「底」と誤記した。なぜだろう?)くらいの阿呆であるから、「意味が通じるならいい」を原則とした。
●
選択式や計算問題の方が採点は楽だが、間違った答案は救済のしようがない。記述式にしたのは、少なくとも真面目に受験した学生には全員に単位を与えるという目的もあった。
このように書くと、我ながら、なかなかの善人だが、率直に言って、私は、獨協大学の学部生がどのくらいの知識と理解力を持っているのか、少なくとも事前には知らなかった訳なので、サービス業の立場としては、これが妥当だと思った。
決して、一般論として大学の授業と試験がかくあるべきだと思っているわけではない。学生のレベルに合わせた授業を行い、緊張感のある試験によって評価をフィードバックするやり方が出来れば、教育的にはそれこそが親切なのであり、理想的なのだろうと思う。
もっとも、採点では、私なりに差を付けた。
獨協大学の成績評価は、90点以上が「AA」、80点~89点が「A」、70点~79点が「B」、60点~69点が「C」で、60点未満は単位が与えられない。
今回の私の採点基準は、基本的に加点方式で、「まじめに試験を受けたこと」に対して60点を配した。問題のテーマに関連する記述で充実した記述が1つあれば10点、これに及ばないが正しい記述の場合に5点をそれぞれ加点し、問題毎に書くべきテーマが3~4あるので、よく書けていると90点、つまり「AA」を取ることが出来る、というようなものだった。
採点した評価の分布は以下の通りだ。
「金融資産運用論」で、AAが2.5%、Aが12.9%、Bが37.1%、Cが47.5%。
「会社と社会の歩き方」は、AAが3.1%、Aが25.9%、Bが40.4%、Cが30.6%である。
C評価の答案は、普通の採点基準で評価した場合「不可」だろう。また、B評価の学生は、通常の条件で試験を行った場合には、合格点に達しなかった可能性が大きいと思う(特に「金融資産運用論」で)。
以上の結果から自己反省すると、先ず、「金融資産運用論」は、授業の内容ないし、教え方に何らかの変更か工夫が必要なのではないかと思われる。
今回の採点基準を前提とすると、B以上が最低7割、できれば8割くらいになるようでないと授業としては成功と言い難い。厳しく見ると、内容に十分ついて来ることができたのはAとAAの15%強、人数にして43人だけということになる。
一般向けの投資教育のような(A)「役に立つ投資の知識」と、大学の授業であることを意識した(B)「投資理論の位置づけと応用」とを両方盛り込もうとしたのだが、内容が難しかったか、私の教え方が下手だったかということだろう。
次回以降、内容を修正する必要があるが、(A)に傾斜するのが多数の学生の将来の経済生活を思うと正しいのかも知れないが、一般向けではなくて大学の授業なので(B)を諦めるのも寂しい。内容の配分を変えずに、(B)の部分の教え方を工夫すべきなのか、悩ましい。
コースを二つに分けるか、半年単位でなく、通年でやるかなども含めて対応策を検討しようと思う。
「会社と社会の歩き方」は、授業内容が、キャリアプランニングに関わる話と、経済トピック中心の理屈っぽい世間話だ。話の理解そのものには大きな負荷は掛かっていないはずなのだ。こちらも、もう少し点数が伸びて欲しかった。
出題・採点者がそう立派な人ではないので、C、あるいはB評価の学生も、今回の結果だけで悲観するには及ばないが、問いの形をうけた回答が作文できていない、厳しい言い方をすると「コミュニケーション能力不全」の答案が相当数あった。
時間のある中で、文章でやりとりしてこうなるのだから、就職の面接などで、言葉のやりとりが正確に出来ていないのではないかと、非常に心配になる。
キャリア・プランニングの一般論として重要なポイントを三つ挙げよという問いに対して、「過去の自分の振り返り」「現在の自分の分析」「なりたい自分と現在の自分の対比(不足の検討)」といった趣旨の答案が相当数合ったのだが、このような「過剰な自分探し」(探したってたいしたものが出てこないのが普通だし、関心の向け方が不適切だ)はキャリア・プランニングの役にも立たないし、何よりも就職活動にとって逆効果だろう。
また、この設問は、一般論として重要なポイントを挙げた上で、回答者自身のキャリアプランについて記述せよ、という問題だった。ポイントは事前に解説しておいたので、実質的には、一般論とこれに対応した自分の考えをどう表現するかというテストなのだが、問いに合った構成の作文が出来ていない答案が多数あった(C評価答案の半分くらい)。
一般論と具体論の区別が付かない人(投資の話をするときには、よくいる)や、1000字程度の作文を破綻無く書けない人に対しては、話をすること自体が無駄なわけではないと強く思っているが、経験的に言って、「よく分かる人向け」の話とは別の内容や話し方にする必要がある。
本来、「就活のもう一歩先に考えるべきこと」を伝えたかった授業なのだが、「就活に役立つこと」も伝えられたら伝える方が良いだろうし、木曜日の5限(16:45~18:15)という貴重な時間を使って授業に出る学生(偉い!)に対して「何が一番役立つか」という観点から、内容の練り直しが必要だと考えている。
合計535枚の記述式答案の採点は、真に大作業だった。通常の「仕事日」換算で、丸4日は潰れた感じだ。原稿の〆切その他の仕事と並行して作業したので、採点が仕上がったのは成績評価〆切日の前日だった。途中で、突発的な仕事や用事が入ると危ないスケジューリングだった。
試験の形式も、もう一工夫必要かも知れない。
自分の反省材料を求めるためにやった試験とはいえ、反省材料の多い夏休みだ。
コメント ( 18 ) | Trackback ( 0 )
たまには、友達のことを誇ってみよう!

●
勝手に「友達」と呼ばせて貰うが、山岡秀雄氏は、私が他人に自慢したいと思う数少ない友人の一人だ。
山岡氏の職業は、大手出版社の漫画雑誌の編集長であるらしい。しかし、私は彼が編集した雑誌を手に取ったことがないし、実のところ、雑誌の名前すら知らない。私が自慢したいのは「編集長の友達」ではない。
私が誇りに思うのは、特別な親近感を覚える知人が、類い希な感性の表現者であることだ。彼は、シングルモルトのテイスターなのだ。
味覚、嗅覚の表現は難しい。多くの場合味や香りのあるものを並べて「・・・・(のよう)」としか言い様がないが、複数の「・・・(のよう)」を組み合わせることによって、伝わる相手には何かが伝わるし、伝わらない相手には何も伝わらない。
味覚・嗅覚に較べると、恋愛やセックスの感覚などは、がさつな小説家でもこれを伝えて飯が食えるくらい表現が易しい。
山岡氏の著作から一つ引用させて貰おう。
==========================
Islay(Ardbeg) 1974 Kingsbury 26年、50度。(87点)
香り:ピート焚きした麦芽と、レザー、土、塩素、スモーキーだが穏やかな印象。蜂蜜、リンゴ、レザーのキュートなバランス。加水するとニッキ飴。徐々にピートが目立つようになってくる。
味:心地よい甘みとピート。燻製したキャラメル。スモーキーでスパイシーだが、バランスが取れている。加水するとややスパイシーさが目立つようになり、わずかに硫黄がでる。
2000年に、1973のアードベッグと同時に発売された。1973は、よりドライで、ピートの主張がはっきりしていた。どちらが好みかは意見が分かれるところだが、私は個人的には1974の方が好きだ。
(文 山岡秀雄、写真 渡辺裕之 「シングルモルトのある風景」 小学館、より)
==========================
納得するしかないテイスティング・ノートだが、ちなみに、「私は個人的には」1973の方が好きだ。
畏友の著作「シングルモルトのある風景」は、アイラ島の、風景写真と、蒸留所の解説と、テイスティング・ノートで構成されている。
テイスティングの対象は、ありがちなガイドブックのような現行品のオフィシャル・ボトルではない。特別なリリースやボトラー物を中心とする本当に旨い酒だ。全く同じ酒には出会えないかも知れないが、近い物を飲むことによって、モルトに対する理解が間違いなく深まる(私は、偉そうなことを言える身分ではないが、そう思う)。
手元に置いて、繰り返し読む価値のある書籍だ。
唯一残念なのは、アイラ島の現在稼働している蒸留所しか取り上げられていないことであり、つまり、ポートエレンに関する山岡氏の評価が無いことだ。
ちなみに、90点以上の評価を得た酒が10本ある。評価は単純ではないが、「Islay(Ardbeg) 1974 Kingsbury」で87点なのだ。想像をたくましくして、期待されたい。モルト好きなら、是非知りたいところだろう。
さて、私の側で、山岡氏に特別な親近感を持つ理由を説明しよう。
山岡氏とは、神保町の「モルトの師匠」のバー(食べログだとこちら。http://r.tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13011381/)でお会いした。師匠に、「ヤマザキさんと大学と年齢が多分同じです」と紹介された。
時々お会いして、モルトに関する蘊蓄を聞かせて貰いながら語ってみると、山岡氏は、小学生時代に、北海道は札幌にいたことがある、ということが分かった。そうか、あの頃、同じ空気を吸っていたのか。
小学校は、どこだったのだろうか。真駒内小学校であったらしい(札幌オリンピックの選手村があった辺りだ)。
担任の先生は誰だったのか。大滝という苗字の、何とも田舎臭いキャラクターのオバサンが3、4年の頃の先生だった。
何と、私は、あの山岡秀雄氏と同じクラスにいたのだった! 遠い記憶だが、ヤマオカ君という声の高い、青白い瓜系統の顔をした、東京から来た都会的な同級生が確かにいた。
今や、私もすっかりオッサンになった。付き合いの良いことに、山岡氏も神経質な瓜から、カボチャの貫禄に進化した。しかし、彼には、他人にない味覚・嗅覚のデリカシーと表現力がある!
それにしても、「シングルモルトのある風景」はいい本だ。モルト好きなら、私が、社長や大臣の知り合いよりも、山岡氏を知っていることの方を誇りたい理由を100%分かって貰えると思う。
●
<追伸> 作業員さま、moto金田浩さま、作業員さん一家の皆様
毎日おいで頂いている「貸し切り個室」的コメント覧を、こちらにご変更いただいてはいかがでしょうか。時には、大らかに自慢してみたりするのも悪くないように思います。
とはいえ、仕切りは作業員さんにお任せします。よろしくお願いいたします。
新参の方も歓迎します。一見コワいと思われるかも知れませんが、作業員さんは優しいので、安心してご来店下さい。
コメント ( 496 ) | Trackback ( 0 )
iPADの印象
先日、散歩のついでにiPADを買って来た。WiFiの16GBという最もロースペックなものだが、家の中で触って遊ぶにはこれで十分だと思った。それに、使いよいとなれば、家人用にもう一枚買うつもりだったので、ともかく入手を優先した。
入手してみた印象をいうと、「これは使える!」だ。拙宅では、もう一枚買おうということになった。
尚、私は、パソコンで長時間仕事をしているが、平凡なソフトと、検索エンジンやRSSリーダー、ブログなど、ネット上に世間が用意してくれたものを使うだけの、リテラシーの低いユーザーである(要は、少し機械好きなだけのオヤジだ)。こんなユーザーでも、iPADは簡単に使えて、直ぐに便利だと思った。
何よりもいいのは、ノートパソコンをスリープから復帰させるときに表示される、「ウィンドウズを再開しています」という表示に続く数十秒の待ち時間がないことだ。あの、画面との「再会」までの時間は間延びしていて耐えがたく長い。
たとえば、メールを立ち上げる場合も、瞬きと共にパッと立ち上がって、直ぐにメールのダウンロードを始める。
画面上のキーボードの使い勝手も悪くない。メールの返事を書くくらいなら、これで十分だ。雑誌の1ページくらいの原稿なら、仕事に使っても大丈夫だろう。何はともあれ、一本原稿を書いて、「モトを取った」気分を味わうことにしよう。
ブラウザもさっさと立ち上がるので、何かを調べたいときに役に立つ。紙の辞書よりも、電話帳よりも速く用が足りる。一家に、二、三枚置いておくと、便利だろう。
現在、もっぱらiPHONEのアプリを試しているだけなので、大きな感動はないが、画面サイズが大きいから使いやすい。「柿の木将棋」などは、磁石の将棋盤よりも指しやすい。見映えのするアプリとして、一つだけ「元素図鑑」を買ってみたが、画面がきれいで感心した。当然、YouTubeも見やすい。iPHONEとの比較で特に感じることだが、画面サイズの効果は大きい。
もっとも、小さいサイズの持ち運べる機械が好きな私としては、iPADは持ち運んでもいいと思うには、大きさ・重さが共に少しずつ過大だ。現在のiPHONEの二倍サイズの画面のiPAD-mini(?)が出たら、これも買いそうだ。
電子ブックリーダーとしても問題なく、快適だ。iPHONE用のアプリになった書籍を読むと縦横共に2倍になるので、これなら将来老眼になっても読めそうだ。
尚、本は、横書きのもの(たとえば、小飼弾「弾言」)の方が縦書きのもの(青空文庫)よりも読みやすい。
私は、もともとディスプレイで文章を読むことには抵抗感がない。テキスト・ファイルなら紙のプリントよりも、エディターに流し込んで読む方が速く読める。また、ある作家の長編小説(ワードの「文字カウント」で20万字くらい)をディスプレイで読んだことがあるが、問題なく読めた。iPADで本を読むのも、問題はあるまい。
紙の書籍をPDF化することを一部では「自炊」と呼ぶらしいが、鍋(スキャナー。富士通のもの)と皿(iPAD)が手に入ったので、1,2冊試してみて、調子が良いようなら、包丁(断裁機)も買おうかと思っている。
受け手がiPADのようなもの(iPAD以外の物でも構わない)をたくさん持つようになると、テキスト・写真と音声付き動画をまとめて配るような形式で情報を伝えると便利かも知れない。
音声付き動画で何でも伝えようとすると、通常は全編を見なければならないから視聴する側は時間を喰う。情報を速く正確に読み取るにはテキストが便利だ。しかし、急所の部分を説明して分かったつもりにさせて欲しいと思う場合もあるだろうし(たとえばテキスト・ブック)、音や動画がある方が圧倒的に伝わりやすい種類の情報もある(「エロ」物などは強力な商品になりそうだ)。
テキストに動画や音が埋め込まれていて、必要に応じて再生したり、飛ばしたり、できる形になっていると具合が良さそうだ。
技術的には現在十分にできていることなのだろうが、やり取りするデータのフォーマット、再生ソフト、データの受渡と決済の仕組みなどが標準化されて、取引の習慣がこなれてくると情報発信のやり方が変わる(当面は種類が「増える」)かも知れない。
そうなると、発信者の側では、テキスト、動画、音声をバランス良く伝える技術が必要になるのだろう。特に、ノンフィクションの分野では仕事の仕方が変わるかも知れないし、ビジネス本もそうかも知れない。もちろん、こうしたものが現れてきた場合、パソコンよりも、iPAD的な装置の方が情報に接触しやすいだろう。
iPADは途方もない新機能や特殊な芸を持っている訳ではないが、持ち主の指示にてきぱきと答える、愛想と見映えのいい、文房具兼遊具兼情報リーダーだ。値段的にも、一家に一枚あってもいい端末ではないだろうか。
入手してみた印象をいうと、「これは使える!」だ。拙宅では、もう一枚買おうということになった。
尚、私は、パソコンで長時間仕事をしているが、平凡なソフトと、検索エンジンやRSSリーダー、ブログなど、ネット上に世間が用意してくれたものを使うだけの、リテラシーの低いユーザーである(要は、少し機械好きなだけのオヤジだ)。こんなユーザーでも、iPADは簡単に使えて、直ぐに便利だと思った。
何よりもいいのは、ノートパソコンをスリープから復帰させるときに表示される、「ウィンドウズを再開しています」という表示に続く数十秒の待ち時間がないことだ。あの、画面との「再会」までの時間は間延びしていて耐えがたく長い。
たとえば、メールを立ち上げる場合も、瞬きと共にパッと立ち上がって、直ぐにメールのダウンロードを始める。
画面上のキーボードの使い勝手も悪くない。メールの返事を書くくらいなら、これで十分だ。雑誌の1ページくらいの原稿なら、仕事に使っても大丈夫だろう。何はともあれ、一本原稿を書いて、「モトを取った」気分を味わうことにしよう。
ブラウザもさっさと立ち上がるので、何かを調べたいときに役に立つ。紙の辞書よりも、電話帳よりも速く用が足りる。一家に、二、三枚置いておくと、便利だろう。
現在、もっぱらiPHONEのアプリを試しているだけなので、大きな感動はないが、画面サイズが大きいから使いやすい。「柿の木将棋」などは、磁石の将棋盤よりも指しやすい。見映えのするアプリとして、一つだけ「元素図鑑」を買ってみたが、画面がきれいで感心した。当然、YouTubeも見やすい。iPHONEとの比較で特に感じることだが、画面サイズの効果は大きい。
もっとも、小さいサイズの持ち運べる機械が好きな私としては、iPADは持ち運んでもいいと思うには、大きさ・重さが共に少しずつ過大だ。現在のiPHONEの二倍サイズの画面のiPAD-mini(?)が出たら、これも買いそうだ。
電子ブックリーダーとしても問題なく、快適だ。iPHONE用のアプリになった書籍を読むと縦横共に2倍になるので、これなら将来老眼になっても読めそうだ。
尚、本は、横書きのもの(たとえば、小飼弾「弾言」)の方が縦書きのもの(青空文庫)よりも読みやすい。
私は、もともとディスプレイで文章を読むことには抵抗感がない。テキスト・ファイルなら紙のプリントよりも、エディターに流し込んで読む方が速く読める。また、ある作家の長編小説(ワードの「文字カウント」で20万字くらい)をディスプレイで読んだことがあるが、問題なく読めた。iPADで本を読むのも、問題はあるまい。
紙の書籍をPDF化することを一部では「自炊」と呼ぶらしいが、鍋(スキャナー。富士通のもの)と皿(iPAD)が手に入ったので、1,2冊試してみて、調子が良いようなら、包丁(断裁機)も買おうかと思っている。
受け手がiPADのようなもの(iPAD以外の物でも構わない)をたくさん持つようになると、テキスト・写真と音声付き動画をまとめて配るような形式で情報を伝えると便利かも知れない。
音声付き動画で何でも伝えようとすると、通常は全編を見なければならないから視聴する側は時間を喰う。情報を速く正確に読み取るにはテキストが便利だ。しかし、急所の部分を説明して分かったつもりにさせて欲しいと思う場合もあるだろうし(たとえばテキスト・ブック)、音や動画がある方が圧倒的に伝わりやすい種類の情報もある(「エロ」物などは強力な商品になりそうだ)。
テキストに動画や音が埋め込まれていて、必要に応じて再生したり、飛ばしたり、できる形になっていると具合が良さそうだ。
技術的には現在十分にできていることなのだろうが、やり取りするデータのフォーマット、再生ソフト、データの受渡と決済の仕組みなどが標準化されて、取引の習慣がこなれてくると情報発信のやり方が変わる(当面は種類が「増える」)かも知れない。
そうなると、発信者の側では、テキスト、動画、音声をバランス良く伝える技術が必要になるのだろう。特に、ノンフィクションの分野では仕事の仕方が変わるかも知れないし、ビジネス本もそうかも知れない。もちろん、こうしたものが現れてきた場合、パソコンよりも、iPAD的な装置の方が情報に接触しやすいだろう。
iPADは途方もない新機能や特殊な芸を持っている訳ではないが、持ち主の指示にてきぱきと答える、愛想と見映えのいい、文房具兼遊具兼情報リーダーだ。値段的にも、一家に一枚あってもいい端末ではないだろうか。
コメント ( 25 ) | Trackback ( 0 )
会社員の7つの不自由
今週は、獨協大学の学生諸君と、主に「フリー」と呼ばれる立場との比較で、会社員の何が自由であり何が不自由かということについて考えてみたい。私は、十分とはいえないが、両方を経験しているので、実感を正直に書いてみたい(「お前は、どっちも中途半端ではないか」という批判は甘んじて受ける。私ごときを批判すること自体が全くアホらしいだろうけど・・・)。
フリー(独立自営業)は、まさにフリーと呼ばれるくらい自由なので、会社員の不自由な点を幾つか挙げてみよう。
(1)副業の不自由
本来、人は、何をして働いてもいいはずだし、仕事は一つでなくても構わない。
しかし、多くの会社が、就業規則に副業の禁止を謳う。判例的には、副業は原則自由なのだと教えて下さった先生がいらしたが、会社と裁判して勝っても、十中八九は不幸せだろうから、現実的には、「『副業の禁止』を原則禁止」しなければ意味がない。
会社の許可を取ればやってもいい場合があるだろうが、一々許可や報告が必要だということ自体が不自由だ。
この点、フリーであれば、職種・職業上の制限はあるかも知れないが、何をして働いたらいいか自分で判断して、決めることが出来る。評論家がバーテンダーでも構わないし、作家が通販会社を運営していても構わない。
副業、あるいは複業の自由は、現状では、フリーの身分の大きなメリットだが、これが会社員にもあって悪いことはない。会社は、他人の自由に嫉妬しないで、社員の副業を原則的に認める方向に変化すると世の中がより楽しくなるのではないか。
(2)意見発表の不自由
世間体を気にする企業に所属していると、意見を自分の名前で発表することが難しい場合が多い。個人名で意見を自由に言えないことは、重大な人権侵害だと思うのだが、就業規則に規定があったり、規定はないけれども事実上禁止されていたりする場合が多い。
たとえば、銀行に勤めていたら、金融行政に関する個人的な意見を雑誌に実名で投稿することは難しいだろうし、金融でなく、政治や社会一般に関する意見でも、実名で発表することが困難な場合が多い。証券会社でもそうだし、保険会社でもそうだし、商社でもそうだった。メーカーなど他の分野の事業会社でもそうだろうし、お役人さんもそのような場合が多そうだ。一見自由に見える外資系の会社でも、日系の会社よりも厳しい場合がしばしばある。
フリーの立場から見ると、会社員は社内に於ける評判を意識しすぎではないかと言いたい場合があるだろうが、名前を出すことの実害が存在する場合は頻繁にある。また、単に本人の気分だけの制約ではあっても、そう思わせる雰囲気が会社組織に存在する場合が多い。これも十分実害だ。
たとえば、証券会社の場合、証券会社の肩書きを持つ社員が発言したこと(たとえば相場に関する個人的見通し)が、所属会社の意見と混同される場合があり、これを避けるために、社員の個人的な発言を規制する場合があるが(もともと「コンプライアンス」は法令遵守よりも先にこの種の問題だった)、この場合、一つには発言の責任所在について誤解する情報の受け手側に問題があるし、混同が起こると拙いからといって、会社が社員個人の基本的な権利を制約して物事を片付けようとするのは安易だ。せめて、発言する際のルールを明確化するくらいに留めるべきではないだろうか。
貴重な情報や優れた意見を持っている人が多数居るはずの会社員や官僚が自由に発言できない状況は、社会的にも損失が大きいと思う。
(3)投資の不自由
これは大きな不自由ではないが、インサイダー取引に関する規制などを考えると、勤務先の株式(転換社債なども同様)を投資対象にしない方がいいし、取引先についても投資対象から外す方が無難であることが多い。
そもそも、勤務先の株式を持つということは、リスク分散の観点から好ましくないし、社内にいると会社のことがよく分かるかというと、投資に関しては案外そうでもない場合が多いので、自社株や取引先の株式に投資できないことは、実質的にそう大きなハンディキャップではないが、仕事の関わりで得た情報が貴重な投資情報に見える向きには、我慢することが苦しい種類の不自由かも知れない。
(4)購入商品の不自由
たとえば、キリンビールの社員は、同僚や先輩がいる場所で、アサヒのスーパードライを飲みにくいに違いない。また、三菱グループの会社の宴会で、乾杯のビールをスーパードライにすると、幹事さんは後で叱られるかも知れない(逆に、住友グループなら、スーパードライでなければならない)。
日立製作所の社員は東芝のダイナブックを使いにくいだろうし、東芝の社員は日立のフローラを買いにくいだろう。或いは、トヨタ自動車の勤務先に、日産の車で毎日自動車通勤する社員が居たら立派なものだ。
この種の不自由は会社にもよるだろうが、商品選択の幅が狭まるくらいのことはいいかも知れないが、生活上のこまかな好みに会社が関わるというのは気持ちのいいものではない。フリーの場合、この点の気遣いはない。
(5)人間関係の不自由
俗に「バカの下にも3年」という言葉がある。ムシの好かない上司でも、3年くらいすれば異動してしまうから我慢しよう、という意味だが、「人生に於いて、3年は長い」とフリーなら思うだろう。もちろん、上司の側が「バカの上にも3年」と思って我慢するケースもあるはずだ。
会社組織の場合には、人事は全員の希望するようにはならないので、気が合わない相手とも付き合わなければならない場合がある。特に、同じ会社で上司と部下、あるいは同僚として働く場合には、嫌な相手でも深い付き合いを余儀なくされる場合がある。
多くの場合、フリーの人間がフリーで良かったと思うのは「嫌な奴と無理に付き合わなくてもいい」という点であり、「嫌な奴」でイメージされる人物の多くは同じ会社の人間だ。
(6)時間の不自由
いわゆる「9 to 5」のシステムに組み込まれた会社員生活の大きな不自由は、時間の使い方にある。もちろん、多くの会社で9時-5時よりも長い時間拘束される。
会社員は、給料と引き替えに会社に時間を売っている関係にあるので、ウィーク・デイはたいした仕事が無くても、カラダを会社に置いて、位置エネルギーを換金しないといけない。位置エネルギーだけで商品になる点は、フリーから見て会社員の羨ましいところだが、人生全体の問題として考えると無駄が大きそうだ。
一方、フリーだと、たとえば平日の空いている時間帯にゆっくり映画を観ることも出来る。必ずしも経済的に恵まれていなくても、時間の自由を味わえるので、フリーの立場に満足する人は少なくない。また、いったんフリーをやってしまうと、この種の時間の自由が癖になって捨てがたくなる。
(7)仕事の不自由
会社員の多くは、自分で自分の仕事を選ぶことができない。たとえば、総合商社の入社式では、自分の意図しない部署に配属されて泣く新入社員がいる場合もある。
会社生活では、何度も人事異動があるのが普通だが、自分のやりたい仕事ばかりであるとは限らないし、不本意な仕事に就いている年数は、フリーから見ると「人生のムダ」だ。
●
さて、一方的に、会社員(あるいは、お役人)の側の不自由を書いてみたが、上で挙げたポイントにあっても、必ずしも「フリーの方が自由だ」と言い切れるものではない点に注意が必要だ。
フリーの場合、喰わなければならない、働く場を得なければならない、という問題がある(注;両者は重なり合うが、全く同じ、ではない)。フリーは、日本語で言い換えると、「自営業」だが、「自分で業を営む」という以外に、「自分という商品を、営業(セールス)しなければならない」という面がある。
従って、相手が嫌な人間であっても、取引相手だったり、自分にチャンスをくれる人間だったりした場合に、この相手と徹底的に付き合わなければならないケースはある。
また、フリーは仕事を選べる立場だが、率直に言って、仕事を断る際には勇気が要る。一度断ればその相手からは二度と依頼が無いかも知れないし(たとえば、放送、出版のような属人的仕事の場合、よくあることだ)、フリーは多くの場合経済的に不安定なので、出来るだけ多くの仕事を抱えておきたいと思う場合が多い。
フリーの場合、実質的な立場を考えると、「人間関係」や「仕事」はよほど実力と自信を蓄えないと「私は、自由だ」と言い切れるほどのものにならない筈だ。
また、時間の点でも、仕事を抱え込んだフリーは、仕事が完成するまで自分の時間を投入しなければならないので、全く自由時間が無くなるような状況に陥ることがある。元を辿ると自分の選択ではあっても、結果が不自由になることもある。
アイドルの追っかけ(熱心なファン)で多い職業は地方公務員だと聞いたことがあるが、勤務時間が一定で、収入が安定している立場の人だからこそ得られる自由もあるということだ。
●
学生は、会社員、或いは公務員とフリーの何れになりたいと思うのだろうか。彼らの反応が楽しみだ。
大人の皆さんは、どう思われるだろうか。面白い、あるいは参考になるコメントがあれば、随時学生に伝えます。
フリー(独立自営業)は、まさにフリーと呼ばれるくらい自由なので、会社員の不自由な点を幾つか挙げてみよう。
(1)副業の不自由
本来、人は、何をして働いてもいいはずだし、仕事は一つでなくても構わない。
しかし、多くの会社が、就業規則に副業の禁止を謳う。判例的には、副業は原則自由なのだと教えて下さった先生がいらしたが、会社と裁判して勝っても、十中八九は不幸せだろうから、現実的には、「『副業の禁止』を原則禁止」しなければ意味がない。
会社の許可を取ればやってもいい場合があるだろうが、一々許可や報告が必要だということ自体が不自由だ。
この点、フリーであれば、職種・職業上の制限はあるかも知れないが、何をして働いたらいいか自分で判断して、決めることが出来る。評論家がバーテンダーでも構わないし、作家が通販会社を運営していても構わない。
副業、あるいは複業の自由は、現状では、フリーの身分の大きなメリットだが、これが会社員にもあって悪いことはない。会社は、他人の自由に嫉妬しないで、社員の副業を原則的に認める方向に変化すると世の中がより楽しくなるのではないか。
(2)意見発表の不自由
世間体を気にする企業に所属していると、意見を自分の名前で発表することが難しい場合が多い。個人名で意見を自由に言えないことは、重大な人権侵害だと思うのだが、就業規則に規定があったり、規定はないけれども事実上禁止されていたりする場合が多い。
たとえば、銀行に勤めていたら、金融行政に関する個人的な意見を雑誌に実名で投稿することは難しいだろうし、金融でなく、政治や社会一般に関する意見でも、実名で発表することが困難な場合が多い。証券会社でもそうだし、保険会社でもそうだし、商社でもそうだった。メーカーなど他の分野の事業会社でもそうだろうし、お役人さんもそのような場合が多そうだ。一見自由に見える外資系の会社でも、日系の会社よりも厳しい場合がしばしばある。
フリーの立場から見ると、会社員は社内に於ける評判を意識しすぎではないかと言いたい場合があるだろうが、名前を出すことの実害が存在する場合は頻繁にある。また、単に本人の気分だけの制約ではあっても、そう思わせる雰囲気が会社組織に存在する場合が多い。これも十分実害だ。
たとえば、証券会社の場合、証券会社の肩書きを持つ社員が発言したこと(たとえば相場に関する個人的見通し)が、所属会社の意見と混同される場合があり、これを避けるために、社員の個人的な発言を規制する場合があるが(もともと「コンプライアンス」は法令遵守よりも先にこの種の問題だった)、この場合、一つには発言の責任所在について誤解する情報の受け手側に問題があるし、混同が起こると拙いからといって、会社が社員個人の基本的な権利を制約して物事を片付けようとするのは安易だ。せめて、発言する際のルールを明確化するくらいに留めるべきではないだろうか。
貴重な情報や優れた意見を持っている人が多数居るはずの会社員や官僚が自由に発言できない状況は、社会的にも損失が大きいと思う。
(3)投資の不自由
これは大きな不自由ではないが、インサイダー取引に関する規制などを考えると、勤務先の株式(転換社債なども同様)を投資対象にしない方がいいし、取引先についても投資対象から外す方が無難であることが多い。
そもそも、勤務先の株式を持つということは、リスク分散の観点から好ましくないし、社内にいると会社のことがよく分かるかというと、投資に関しては案外そうでもない場合が多いので、自社株や取引先の株式に投資できないことは、実質的にそう大きなハンディキャップではないが、仕事の関わりで得た情報が貴重な投資情報に見える向きには、我慢することが苦しい種類の不自由かも知れない。
(4)購入商品の不自由
たとえば、キリンビールの社員は、同僚や先輩がいる場所で、アサヒのスーパードライを飲みにくいに違いない。また、三菱グループの会社の宴会で、乾杯のビールをスーパードライにすると、幹事さんは後で叱られるかも知れない(逆に、住友グループなら、スーパードライでなければならない)。
日立製作所の社員は東芝のダイナブックを使いにくいだろうし、東芝の社員は日立のフローラを買いにくいだろう。或いは、トヨタ自動車の勤務先に、日産の車で毎日自動車通勤する社員が居たら立派なものだ。
この種の不自由は会社にもよるだろうが、商品選択の幅が狭まるくらいのことはいいかも知れないが、生活上のこまかな好みに会社が関わるというのは気持ちのいいものではない。フリーの場合、この点の気遣いはない。
(5)人間関係の不自由
俗に「バカの下にも3年」という言葉がある。ムシの好かない上司でも、3年くらいすれば異動してしまうから我慢しよう、という意味だが、「人生に於いて、3年は長い」とフリーなら思うだろう。もちろん、上司の側が「バカの上にも3年」と思って我慢するケースもあるはずだ。
会社組織の場合には、人事は全員の希望するようにはならないので、気が合わない相手とも付き合わなければならない場合がある。特に、同じ会社で上司と部下、あるいは同僚として働く場合には、嫌な相手でも深い付き合いを余儀なくされる場合がある。
多くの場合、フリーの人間がフリーで良かったと思うのは「嫌な奴と無理に付き合わなくてもいい」という点であり、「嫌な奴」でイメージされる人物の多くは同じ会社の人間だ。
(6)時間の不自由
いわゆる「9 to 5」のシステムに組み込まれた会社員生活の大きな不自由は、時間の使い方にある。もちろん、多くの会社で9時-5時よりも長い時間拘束される。
会社員は、給料と引き替えに会社に時間を売っている関係にあるので、ウィーク・デイはたいした仕事が無くても、カラダを会社に置いて、位置エネルギーを換金しないといけない。位置エネルギーだけで商品になる点は、フリーから見て会社員の羨ましいところだが、人生全体の問題として考えると無駄が大きそうだ。
一方、フリーだと、たとえば平日の空いている時間帯にゆっくり映画を観ることも出来る。必ずしも経済的に恵まれていなくても、時間の自由を味わえるので、フリーの立場に満足する人は少なくない。また、いったんフリーをやってしまうと、この種の時間の自由が癖になって捨てがたくなる。
(7)仕事の不自由
会社員の多くは、自分で自分の仕事を選ぶことができない。たとえば、総合商社の入社式では、自分の意図しない部署に配属されて泣く新入社員がいる場合もある。
会社生活では、何度も人事異動があるのが普通だが、自分のやりたい仕事ばかりであるとは限らないし、不本意な仕事に就いている年数は、フリーから見ると「人生のムダ」だ。
●
さて、一方的に、会社員(あるいは、お役人)の側の不自由を書いてみたが、上で挙げたポイントにあっても、必ずしも「フリーの方が自由だ」と言い切れるものではない点に注意が必要だ。
フリーの場合、喰わなければならない、働く場を得なければならない、という問題がある(注;両者は重なり合うが、全く同じ、ではない)。フリーは、日本語で言い換えると、「自営業」だが、「自分で業を営む」という以外に、「自分という商品を、営業(セールス)しなければならない」という面がある。
従って、相手が嫌な人間であっても、取引相手だったり、自分にチャンスをくれる人間だったりした場合に、この相手と徹底的に付き合わなければならないケースはある。
また、フリーは仕事を選べる立場だが、率直に言って、仕事を断る際には勇気が要る。一度断ればその相手からは二度と依頼が無いかも知れないし(たとえば、放送、出版のような属人的仕事の場合、よくあることだ)、フリーは多くの場合経済的に不安定なので、出来るだけ多くの仕事を抱えておきたいと思う場合が多い。
フリーの場合、実質的な立場を考えると、「人間関係」や「仕事」はよほど実力と自信を蓄えないと「私は、自由だ」と言い切れるほどのものにならない筈だ。
また、時間の点でも、仕事を抱え込んだフリーは、仕事が完成するまで自分の時間を投入しなければならないので、全く自由時間が無くなるような状況に陥ることがある。元を辿ると自分の選択ではあっても、結果が不自由になることもある。
アイドルの追っかけ(熱心なファン)で多い職業は地方公務員だと聞いたことがあるが、勤務時間が一定で、収入が安定している立場の人だからこそ得られる自由もあるということだ。
●
学生は、会社員、或いは公務員とフリーの何れになりたいと思うのだろうか。彼らの反応が楽しみだ。
大人の皆さんは、どう思われるだろうか。面白い、あるいは参考になるコメントがあれば、随時学生に伝えます。
コメント ( 36 ) | Trackback ( 0 )
Twitterをしばらくやってみて
Twitterのアカウント(yamagen_jp)を登録して一月半が経過した。始めた経緯は当ブログに書いたとおりだが、初日から数百人単位のフォロワーができたこともあって、ほぼ毎日読み書きするようになった。
今のところ、Twitterは、概ね面白いと思っている。
情報のやりとりが早いこと、字数制限がプラスに働いて気軽に投稿できること、ブログや掲示板よりも「荒れない」こと、などが長所だ。
情報のやりとりの早さは、発信したツイートに対する反応の早さで実感することが多いが、Twitterの最大の魅力だろう。書いて、送って、直ぐに反応がある、というのは張り合いがある。ブログ上のやりとりはFAXや文通に近い時間感覚だが、Twitterはちょっと時差のあるテレビ会議くらいのスピード感だ。
もっとも、反応=(精神的)報酬と考えると、頻繁に報酬があることが心地よい刺激になるという心理は、毎月分配型ファンドを有り難がる投資家と一緒だ(双曲割引!)。この点だけを喜んでいてはいけないのかも知れない。
140字の制限は、始める前に思ったほどの制約ではなかった。この文字数があれば、言いたいことはかなり言える。テーマを提示して文を一旦切って、その後、三文程度の構成でまとめると、140字は意外に使い出がある(受験生時代の字数制限付き国語問題を思い出して懐かしい)。長文を分割して投稿するような人はTwitter向きではないのだろう。
Twitterを積極的に使っている人は、Twitterを意見・情報の主な伝達手段にして、長いまとまった意見やデータの置き場所にブログを使うようなやり方をする場合が多い。雑誌でいうと、Twitterが新聞広告や電車の吊り広告で、ブログが雑誌本文に相当する感じだろうか。雑誌の多くがそうであるように、広告を見ると必要な情報の八割方は手に入る。
Twitterは実名での登録を推奨しているし、匿名の登録者も数多いが、アカウントと個人の紐付けがはっきりしているので、SNS的なつながりになるせいか、やりとりが「荒れにくい」点も気が楽だ。匿名ないし、ハンドルネーム無しで威張り散らすようなコメントが書き込まれるケースは少ない。ブログは管理者と訪問者の間に、お店とお客のような非対称性があるが、Twitterの場合、やり取りをするどうしがより対等な関係なのでマナーが常識的になるようだ。
ただ、ブログでも大半の来訪者は通常の対人マナーを心得ている。要は、媒体よりも人の問題なのだろうから、Twitterの普及がもっと進んで利用者が増えると、コミュニケーションのマナーが悪化する可能性はある。Twitterにも既に「なりすまし」や「荒らし」はあるようだし、しつこい相手に絡まれて、アツくなって連続投稿するようなケースを見かけることもある。
私は、情報収集のツールとしては、Twitterを積極的に使っていない。フォローの数も50に満たない。それでも、フォローしている人のツイートやリツイート(他人の投稿を転送して伝えること)の中から情報を拾うことがある。情報収集のツールとしての使い方には、工夫の余地がありそうだ。
Twitterは、いわゆる「口コミ」の伝達を強力にしたようなものだから、おそらくビジネスにも役立つのだろう。宣伝手段として、強力なものになる可能性はある。
もっとも、宣伝臭の強いツイートやリツイートは読んでみてあまり感じのいいものではない。たとえば、自著に対するポジティブな感想を受け取った著者が、それを広くリツイートする、というような行為を見ると「そこまでやらなくても」と思うことがある。
Twitterは、フォロワーが増えるとメールで通知が来る仕組みになっている(受取拒否もできるが)。この通知メールには、何人をフォローしていて、何人にフォローされている人かという数字が入っている。
興味をそそられるのは、フォローが少なくて被フォローの数が多いバランスの人と、フォローの数が少ない(30~40人程度まで)の人だ。前者については、情報の発信にウェイトのある人だろうから、誰なのだろう、どんな人なのだろうという興味が湧く。他方、後者に対しては、少ないフォローの中にどうして私を入れてくれたのか、ということが気になる。この人は、たぶん投資に興味があるのだなと推測できる人が3割くらいいらっしゃるが、半数くらいは、何故フォローしてくれたのか、想像が付かない。尚、フォロー、被フォロー共に多い人は活発にTwitterを使っている人なのだろうが、プロフィールやフォロー先を見ても分析がしにくい場合が多い。何れのフォロワーも、私にとってはありがたい方なのだが、そのようなことを考えながら、フォロワーのプロフィールをなるべく見るようにしている。
ツールとしてのTwitterはフォローしてくれる人の数が多い方が圧倒的に有利だ。数万人のフォロワーを持っている人は、人数的には雑誌媒体を一つ持っているようなものだし、問いかけに答えてくれる人も多いだろう。こうした人にとっては、Twitterは、通信社と電話と辞書とコンサルタント(時にはカウンセラーも)兼ねるような便利なツールだろうが、フォローしてくれる人が少ないユーザーにとっては全く別物だ。
この点については、Twitterは極端な格差がある世界だ。もちろん、過去の一般社会にも、「知名度のある人」や「人が敬意を払う肩書きのある人」といった、何かと「有利な人」とそうでない人の格差はあったが、ネット上のつながりをどれだけ持っているか、というようなことも個人間のある種の格差を形成している事が分かる。この格差自体は、意図的な企みによるものではなく結果論的な現実だし、別段悪いことだとは思わないが、フォロワーの数を見ると、今のところテレビや活字など別の媒体で名前と顔が売れている人が、その知名度をそのままTwitterの世界に持ち込んでいるケースが多いようだ。
Twitterをしばらく使ってみて思うのは、特に、私のような中年オヤジは、Twitterをやってみるといいのではないだろうかということだ。一投稿が短くて済むので負担が小さいし、短時間で情報が更新されるスピード感と馴染んでおくと、何かといいのではないだろうか。「俺も、一言言いたい」というタイプも、ブログで文章を書くよりも、Twitterの方が反応が早くて楽しいだろう。もちろん、老若男女誰でもいいのだが、我が同世代の人々は、「あれのどこが面白いのか分からない」と言いたがる傾向が強いので、敢えてお勧めしておきたい。
個人的には、今後、Twitterとブログのどちらにより注力するという方針があるわけではないが、短い文章で能率良く情報や意見を伝える技術をマスターしたいと思っている。
(そう思っている割には、だらだらと長く書いてしまった)
今のところ、Twitterは、概ね面白いと思っている。
情報のやりとりが早いこと、字数制限がプラスに働いて気軽に投稿できること、ブログや掲示板よりも「荒れない」こと、などが長所だ。
情報のやりとりの早さは、発信したツイートに対する反応の早さで実感することが多いが、Twitterの最大の魅力だろう。書いて、送って、直ぐに反応がある、というのは張り合いがある。ブログ上のやりとりはFAXや文通に近い時間感覚だが、Twitterはちょっと時差のあるテレビ会議くらいのスピード感だ。
もっとも、反応=(精神的)報酬と考えると、頻繁に報酬があることが心地よい刺激になるという心理は、毎月分配型ファンドを有り難がる投資家と一緒だ(双曲割引!)。この点だけを喜んでいてはいけないのかも知れない。
140字の制限は、始める前に思ったほどの制約ではなかった。この文字数があれば、言いたいことはかなり言える。テーマを提示して文を一旦切って、その後、三文程度の構成でまとめると、140字は意外に使い出がある(受験生時代の字数制限付き国語問題を思い出して懐かしい)。長文を分割して投稿するような人はTwitter向きではないのだろう。
Twitterを積極的に使っている人は、Twitterを意見・情報の主な伝達手段にして、長いまとまった意見やデータの置き場所にブログを使うようなやり方をする場合が多い。雑誌でいうと、Twitterが新聞広告や電車の吊り広告で、ブログが雑誌本文に相当する感じだろうか。雑誌の多くがそうであるように、広告を見ると必要な情報の八割方は手に入る。
Twitterは実名での登録を推奨しているし、匿名の登録者も数多いが、アカウントと個人の紐付けがはっきりしているので、SNS的なつながりになるせいか、やりとりが「荒れにくい」点も気が楽だ。匿名ないし、ハンドルネーム無しで威張り散らすようなコメントが書き込まれるケースは少ない。ブログは管理者と訪問者の間に、お店とお客のような非対称性があるが、Twitterの場合、やり取りをするどうしがより対等な関係なのでマナーが常識的になるようだ。
ただ、ブログでも大半の来訪者は通常の対人マナーを心得ている。要は、媒体よりも人の問題なのだろうから、Twitterの普及がもっと進んで利用者が増えると、コミュニケーションのマナーが悪化する可能性はある。Twitterにも既に「なりすまし」や「荒らし」はあるようだし、しつこい相手に絡まれて、アツくなって連続投稿するようなケースを見かけることもある。
私は、情報収集のツールとしては、Twitterを積極的に使っていない。フォローの数も50に満たない。それでも、フォローしている人のツイートやリツイート(他人の投稿を転送して伝えること)の中から情報を拾うことがある。情報収集のツールとしての使い方には、工夫の余地がありそうだ。
Twitterは、いわゆる「口コミ」の伝達を強力にしたようなものだから、おそらくビジネスにも役立つのだろう。宣伝手段として、強力なものになる可能性はある。
もっとも、宣伝臭の強いツイートやリツイートは読んでみてあまり感じのいいものではない。たとえば、自著に対するポジティブな感想を受け取った著者が、それを広くリツイートする、というような行為を見ると「そこまでやらなくても」と思うことがある。
Twitterは、フォロワーが増えるとメールで通知が来る仕組みになっている(受取拒否もできるが)。この通知メールには、何人をフォローしていて、何人にフォローされている人かという数字が入っている。
興味をそそられるのは、フォローが少なくて被フォローの数が多いバランスの人と、フォローの数が少ない(30~40人程度まで)の人だ。前者については、情報の発信にウェイトのある人だろうから、誰なのだろう、どんな人なのだろうという興味が湧く。他方、後者に対しては、少ないフォローの中にどうして私を入れてくれたのか、ということが気になる。この人は、たぶん投資に興味があるのだなと推測できる人が3割くらいいらっしゃるが、半数くらいは、何故フォローしてくれたのか、想像が付かない。尚、フォロー、被フォロー共に多い人は活発にTwitterを使っている人なのだろうが、プロフィールやフォロー先を見ても分析がしにくい場合が多い。何れのフォロワーも、私にとってはありがたい方なのだが、そのようなことを考えながら、フォロワーのプロフィールをなるべく見るようにしている。
ツールとしてのTwitterはフォローしてくれる人の数が多い方が圧倒的に有利だ。数万人のフォロワーを持っている人は、人数的には雑誌媒体を一つ持っているようなものだし、問いかけに答えてくれる人も多いだろう。こうした人にとっては、Twitterは、通信社と電話と辞書とコンサルタント(時にはカウンセラーも)兼ねるような便利なツールだろうが、フォローしてくれる人が少ないユーザーにとっては全く別物だ。
この点については、Twitterは極端な格差がある世界だ。もちろん、過去の一般社会にも、「知名度のある人」や「人が敬意を払う肩書きのある人」といった、何かと「有利な人」とそうでない人の格差はあったが、ネット上のつながりをどれだけ持っているか、というようなことも個人間のある種の格差を形成している事が分かる。この格差自体は、意図的な企みによるものではなく結果論的な現実だし、別段悪いことだとは思わないが、フォロワーの数を見ると、今のところテレビや活字など別の媒体で名前と顔が売れている人が、その知名度をそのままTwitterの世界に持ち込んでいるケースが多いようだ。
Twitterをしばらく使ってみて思うのは、特に、私のような中年オヤジは、Twitterをやってみるといいのではないだろうかということだ。一投稿が短くて済むので負担が小さいし、短時間で情報が更新されるスピード感と馴染んでおくと、何かといいのではないだろうか。「俺も、一言言いたい」というタイプも、ブログで文章を書くよりも、Twitterの方が反応が早くて楽しいだろう。もちろん、老若男女誰でもいいのだが、我が同世代の人々は、「あれのどこが面白いのか分からない」と言いたがる傾向が強いので、敢えてお勧めしておきたい。
個人的には、今後、Twitterとブログのどちらにより注力するという方針があるわけではないが、短い文章で能率良く情報や意見を伝える技術をマスターしたいと思っている。
(そう思っている割には、だらだらと長く書いてしまった)
コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )
新人教師雑感
ここのところ、当ブログにあまり手を掛けていなかった。
ツイッターを始めて、しばらくそちらに気を取られていたことなどもあるが、主な理由は、4月から獨協大学の経済学部で週に2コマ授業を持つようになり、この準備に手を取られたことだった。
週に二コマ新たに授業をする、ということは、週に2つ講演が入るような感じだから、特に1巡目は大変だ。基本的に2巡目になる今年の秋学期以降は少し楽になるのではないかと思うが、1巡目は授業のコンテンツを一から作らなければならないので、作業量が多い。
4月8日に初回の授業に行ってきた。
授業のタイトルは、一つは「金融資産運用論」、もう一つは「会社と社会の歩き方」だ。両方の授業の最初に、単位認定の上では「楽勝科目」であることを述べて、ガイダンスを行った。答案又はレポート(就活などで試験が受けられない場合の救済)の評価に差は付けるが、単位を取りたいという意思をマジメに表現している文面に対しては、ベーシックインカム的に(?)合格点を与えることを基本方針とする。
どちらの授業も、最終的には授業を受けた学生本人にとって役に立つかどうかが問題なので、私が「落とす」意味はないと判断した。評価を受ける必要があるのは、むしろ私の方だろう。本年度は「サービス業モード」で行く。
どのくらいの数の履修登録があるか分からないが、恐れていたほど多くはならない感じなので(せいぜい100人くらいだろうか)、学生の一人一人とある程度話が出来るかも知れない。
どちらの授業の後も質問に来る学生の主な興味は「就活」だった。一年生の頃から、たとえば、どのような資格を取り、勉強をすれば将来の就職に有利かを考えている学生もいた。熱心であるのはいいことだが、少し痛々しい感じもする。ただ、現在の就職事情を考えると、これが現実的なのかも知れない。
学生は想像していた以上に真面目で行儀がいい。先ずは、好印象であった。
何れの授業でも、テキストは指定していない。基本的に、教材となる素材はこちらで用意することにした。また、両授業用にそれぞれ一つずつブログを立ち上げて、そこで、教材や参考資料を流すと共に、授業の補足を行うことにした。
学生以外からの質問にお答えする余裕が当面ないのが申し訳ないが(当ブログのコメント欄への質問等はご遠慮下さい)、ご紹介しておく。
「金融資産運用論」:http://blog.goo.ne.jp/dokkyo_yamazaki
「会社と社会の歩き方」:http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_dokkyo
どちらの授業についても、将来、単行本を作る素材を積み上げることを意識している。「金融資産運用論」については、秋学期の授業をベースにテキストにも使えるような本を作ることを一応予定している。「会社と社会の歩き方」については、しばらく授業をやってみてから考える。
ツイッターを始めて、しばらくそちらに気を取られていたことなどもあるが、主な理由は、4月から獨協大学の経済学部で週に2コマ授業を持つようになり、この準備に手を取られたことだった。
週に二コマ新たに授業をする、ということは、週に2つ講演が入るような感じだから、特に1巡目は大変だ。基本的に2巡目になる今年の秋学期以降は少し楽になるのではないかと思うが、1巡目は授業のコンテンツを一から作らなければならないので、作業量が多い。
4月8日に初回の授業に行ってきた。
授業のタイトルは、一つは「金融資産運用論」、もう一つは「会社と社会の歩き方」だ。両方の授業の最初に、単位認定の上では「楽勝科目」であることを述べて、ガイダンスを行った。答案又はレポート(就活などで試験が受けられない場合の救済)の評価に差は付けるが、単位を取りたいという意思をマジメに表現している文面に対しては、ベーシックインカム的に(?)合格点を与えることを基本方針とする。
どちらの授業も、最終的には授業を受けた学生本人にとって役に立つかどうかが問題なので、私が「落とす」意味はないと判断した。評価を受ける必要があるのは、むしろ私の方だろう。本年度は「サービス業モード」で行く。
どのくらいの数の履修登録があるか分からないが、恐れていたほど多くはならない感じなので(せいぜい100人くらいだろうか)、学生の一人一人とある程度話が出来るかも知れない。
どちらの授業の後も質問に来る学生の主な興味は「就活」だった。一年生の頃から、たとえば、どのような資格を取り、勉強をすれば将来の就職に有利かを考えている学生もいた。熱心であるのはいいことだが、少し痛々しい感じもする。ただ、現在の就職事情を考えると、これが現実的なのかも知れない。
学生は想像していた以上に真面目で行儀がいい。先ずは、好印象であった。
何れの授業でも、テキストは指定していない。基本的に、教材となる素材はこちらで用意することにした。また、両授業用にそれぞれ一つずつブログを立ち上げて、そこで、教材や参考資料を流すと共に、授業の補足を行うことにした。
学生以外からの質問にお答えする余裕が当面ないのが申し訳ないが(当ブログのコメント欄への質問等はご遠慮下さい)、ご紹介しておく。
「金融資産運用論」:http://blog.goo.ne.jp/dokkyo_yamazaki
「会社と社会の歩き方」:http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_dokkyo
どちらの授業についても、将来、単行本を作る素材を積み上げることを意識している。「金融資産運用論」については、秋学期の授業をベースにテキストにも使えるような本を作ることを一応予定している。「会社と社会の歩き方」については、しばらく授業をやってみてから考える。
コメント ( 25 ) | Trackback ( 0 )
料理人の味見について
ブログよりもツイッター向きの小ネタかも知れないが、ここしばらく気になっていることを書いてみる。
外に飲み食いしに行った場合、カウンターの向こうが料理場であったり、オープンキッチンであったり、あるいは厨房の中が客席の中から見える場合に、料理人が味見をしている様子が見えることがある。
この場合に、自分が口をつけたスプーンをまた調理中の鍋やボウルに戻したり、あるいは、手で食材のかけらをつまんで口に入れて、その手で調理や盛りつけを続けるケースがある。要は、厳密に言えば唾液が混じる状況だ。
もともと外食の調理場というものが、完全に衛生的で行儀のいいものだとは思っていないのだが、見えるところでやられると、「いやなところを見てしまった」というネガティブな気づきと、「注意してやった方がいいのだろうか」という葛藤と、余計な感情を二つ抱え込むことになる。注意は、自分のためということもあるが、客の何%かはきっと気になるだろうから、店のために問題点を伝えたいという少しお節介な親切心が主な動機だ。
私の見るところ、外でしっかり修行したらしき料理人は、さすがに客から見える場所で行儀の悪い味見はしないが、そうでもなさそうなシェフやその弟子が、気楽に味見をしている場合を時々目撃することがある。
先日は、客席の一部から厨房の中が少し見える角度のある中華料理屋店で、たぶん客から見られていないと思っている料理人が、自分の指を舐めて味見をしていたのが見えた。この時は、支払いを済ませるときに、他の客に聞こえないようにレジの女性に「料理人に、後から、注意しておいてあげて下さい」と言えたので気分的にはスッキリした。
しかし、店の構造や客の入り具合、あるいは店と自分との関係によっては、なかなか注意する機会を得られずに、気になると思いながら、その店に通い続けている場合もある。
私が気にしすぎなのかも知れないと思う一方、最近はインフルエンザが話題になるなど、衛生面への関心が高まっている。味見の様子を気にする客はきっといるはずだ。
このブログを見た、料理人あるいは、飲食店の支配人、ウェイター、ウェイトレスのみなさん、味見をするときには、神経質なお客の目を意識して、丁寧にやって下さい。お願いします。
外に飲み食いしに行った場合、カウンターの向こうが料理場であったり、オープンキッチンであったり、あるいは厨房の中が客席の中から見える場合に、料理人が味見をしている様子が見えることがある。
この場合に、自分が口をつけたスプーンをまた調理中の鍋やボウルに戻したり、あるいは、手で食材のかけらをつまんで口に入れて、その手で調理や盛りつけを続けるケースがある。要は、厳密に言えば唾液が混じる状況だ。
もともと外食の調理場というものが、完全に衛生的で行儀のいいものだとは思っていないのだが、見えるところでやられると、「いやなところを見てしまった」というネガティブな気づきと、「注意してやった方がいいのだろうか」という葛藤と、余計な感情を二つ抱え込むことになる。注意は、自分のためということもあるが、客の何%かはきっと気になるだろうから、店のために問題点を伝えたいという少しお節介な親切心が主な動機だ。
私の見るところ、外でしっかり修行したらしき料理人は、さすがに客から見える場所で行儀の悪い味見はしないが、そうでもなさそうなシェフやその弟子が、気楽に味見をしている場合を時々目撃することがある。
先日は、客席の一部から厨房の中が少し見える角度のある中華料理屋店で、たぶん客から見られていないと思っている料理人が、自分の指を舐めて味見をしていたのが見えた。この時は、支払いを済ませるときに、他の客に聞こえないようにレジの女性に「料理人に、後から、注意しておいてあげて下さい」と言えたので気分的にはスッキリした。
しかし、店の構造や客の入り具合、あるいは店と自分との関係によっては、なかなか注意する機会を得られずに、気になると思いながら、その店に通い続けている場合もある。
私が気にしすぎなのかも知れないと思う一方、最近はインフルエンザが話題になるなど、衛生面への関心が高まっている。味見の様子を気にする客はきっといるはずだ。
このブログを見た、料理人あるいは、飲食店の支配人、ウェイター、ウェイトレスのみなさん、味見をするときには、神経質なお客の目を意識して、丁寧にやって下さい。お願いします。
コメント ( 58 ) | Trackback ( 0 )
Twitterを始めました
幾つかお問い合わせをいただいているので、簡単にご説明しておきます。
昨日Twitterのアカウントを作りました。yamagen_jpです。
前後の事情をご説明すると何とも間抜けな話なのですが、3月10日に出演した東海テレビの「ぴーかんTV」で、当初、Twitterを取り上げる予定でした。せめてアカウントぐらいは作ろうかと思って、アカウントを作りました。mixiで「やまげん」を使っているので「yamagen」を登録しようかと思ったのですが、どなたかが既に使用しているらしく、「_jp」をつけたところ、OKだったようで、アカウントが決定しました。その際に、取り急ぎ、堀江貴文さんと鳩山首相をフォローしました。
10日朝の名古屋行きの新幹線で、Twitterの解説本を読み、iPHONEから最初のメッセージを入れて、コメンテーターとしてはそれなりに準備をしたつもりだったのですが、オンエア10分前にスタジオに行ってみると、「今日は、J-WALKの中村サンの覚醒剤のネタが入ったので、Twitterの話は飛ばす」と聞いて、がっかりしました。最初のつぶやきは空振りです。
解説本を読んで作法を学び、ゆっくりフォローとフォロワーを増やしていこうと思っっていたのですが、昨日遅くまで、飲んで、歌って、今朝目覚めてみると、700人以上のフォロワーが来訪していて、メールの受信トレイがTwitterからの通知で溢れかえっていました。フォロワーの多い堀江さんをフォローしたから発見していただいたのか、あるいは、どなたかが検索して発見してくださったのか、事情が分からないのですが、たいへん有り難いことです。
とはいえ、にわかにフォロワー長者になって当惑しています。
昨日Twitterのアカウントを作りました。yamagen_jpです。
前後の事情をご説明すると何とも間抜けな話なのですが、3月10日に出演した東海テレビの「ぴーかんTV」で、当初、Twitterを取り上げる予定でした。せめてアカウントぐらいは作ろうかと思って、アカウントを作りました。mixiで「やまげん」を使っているので「yamagen」を登録しようかと思ったのですが、どなたかが既に使用しているらしく、「_jp」をつけたところ、OKだったようで、アカウントが決定しました。その際に、取り急ぎ、堀江貴文さんと鳩山首相をフォローしました。
10日朝の名古屋行きの新幹線で、Twitterの解説本を読み、iPHONEから最初のメッセージを入れて、コメンテーターとしてはそれなりに準備をしたつもりだったのですが、オンエア10分前にスタジオに行ってみると、「今日は、J-WALKの中村サンの覚醒剤のネタが入ったので、Twitterの話は飛ばす」と聞いて、がっかりしました。最初のつぶやきは空振りです。
解説本を読んで作法を学び、ゆっくりフォローとフォロワーを増やしていこうと思っっていたのですが、昨日遅くまで、飲んで、歌って、今朝目覚めてみると、700人以上のフォロワーが来訪していて、メールの受信トレイがTwitterからの通知で溢れかえっていました。フォロワーの多い堀江さんをフォローしたから発見していただいたのか、あるいは、どなたかが検索して発見してくださったのか、事情が分からないのですが、たいへん有り難いことです。
とはいえ、にわかにフォロワー長者になって当惑しています。
コメント ( 14 ) | Trackback ( 0 )
オフィスの珈琲は女性が淹れるものなのだろうか?

しかし、だからといって、私がそれなり以上の規模の企業のオフィスでいわゆる「お茶汲み」の仕事を得ることは難しいだろう。
たとえば、読者が、楽天の三木谷CEOを訪ねて楽天の応接室に通されたと想像して欲しい(以下、読者を「お客様」、三木谷CEOを「三木谷」と表記する)。以下は架空の会話だ。
<於、楽天応接室@品川シーサイド楽天タワー>
==================================
※お客様が先に入室。後から三木谷入室。
三木谷「はじめまして、三木谷です。本日は不便なところまでご足労頂いて恐縮でした」
お客様「はじめまして。ご多忙な三木谷さんにお時間を頂いて、こちらこそ恐縮です」
※名刺を交換する。部屋をノックする音。ドアが開いて、山崎が珈琲を持ってくる。
山崎 「失礼します。珈琲をお持ちしました。ミルクか砂糖はお使いでしょうか?」
お客様「いえ、結構です」
三木谷「僕もいいや。あ、山崎さん、今日のコーヒーの豆は何?」
(注;三木谷は年上には丁寧なので「さん」付けで呼びそうな気がする)
山崎 「グァテマラをお持ちしました」
三木谷「山崎さん、景気はどうかな?」
山崎 「あ、直ぐにお持ちします」
三木谷「いや、食べ物のケーキじゃなくて、『儲かりまっか』の景気の方だよ。せっかく気を遣って話を振ってあげたのに、気が利かないねえ。もう下がっていいよ」
山崎 「失礼しました。お茶汲みも、甘くありませんねぇ」
※山崎、気まずそうに退室。
==================================
状況を目に浮かべてみても、楽しい感じはしないと思う。私が大きな図体で珈琲を持って行くと、先ず、雰囲気が重苦しくなるに違いない。英国調の「執事」の着こなしは難しいので、スーツでサービスすることになるだろうが、どうもしっくり来ない。
三木谷CEOとしても、女性がお茶を持ってくる方が、多少お茶がまずくても、一万倍くらいいいだろう。尚、現実の楽天では、応接室に運ばれる飲み物は「いろはす」という商品名の250ccペットボトルの水であることが多い(少なくとも「平民」はそうだ)。
男女同権の原則が相当に浸透した企業のオフィスでも、お茶や珈琲は女性が顧客にサービスすることが多いのではないだろうか。顧客にとってもそれが自然だろうから、ビジネスとしては、それでいいと考えるべきなのだろう。
私は、価値観的にはかなり原理に忠実な男女同権論者だと思うのだが、感じ方のレベルでは、男女のちがいが完全に解消し切れているわけではない。上・下ではないが、適・不適を感じる。
なかなか難しい問題だ。
●
さて、写真は、神保町にある我が社(株式会社マイベンチマーク)の冷蔵庫の上にあるものを写したものだ。
電熱の湯沸かし器(非常に早く湯が湧く!)、コーヒー豆の保存器、コーヒーミル、紅茶(フォーションのダージリンが好きだ。金色の缶は同じくアップル・ティー)、コーヒーを淹れるためのペーパーなどが置かれている。ここには写っていないが、大小の珈琲ドリップ用のフィルター(紙用。北千住カフェ・バッハで購入した)やマグカップ、紅茶を淹れるためのティーポットなどがキッチンにある。昨年末に一度に買いそろえた。尚、茶漉し用の目の細かい網は、回転式のミルで出る微粉を除去するために使っているもので、今回の工夫だ。
これまで我がオフィスはこうした設備を持たず、ペットボトルのお茶を何種類か冷蔵庫に入れておき、自分たちもそれを飲み、来客の際には、「弊社はお茶をいれてくれるお姉さんがいないので、ペットボトルでお茶をお出ししています。どれがいいですか?」などと言ってペット・ボトル単位で選んで貰っていた。
お茶は、伊藤園のジャスミンティー、濃い緑茶、サントリーの伊右衛門、などをまとめ買いして常備していた。
しかし、オフィスでも、もっと美味しいお茶類を飲みたいものだとこれまで思ってきた。
珈琲・紅茶の道具一式を揃えようと思ったきっかけは、実は、同僚の服部さんが一日に何本か缶コーヒーを買って飲んでいたからだ。大変お節介な事ながら、私には、缶コーヒーが不味くて不健康なものに見えた。「もっとましな飲みのを飲んで欲しい」と思ったので、設備投資をする気になった。
服部さんは、私が淹れた珈琲をもちろん砂糖もミルクも使わずに飲んでくれるが、缶コーヒーも飲んでいる。「糖分補給」が目的で、珈琲とは別の種類の飲み物だと思って飲んでいる、とのことだ(少し残念だが、仕方があるまい。我が社は自由を重んじる社風だ)。 弊社の珈琲はペーパードリップで淹れているものの(本当はネルドリップの方が美味しいが妥協した)、たぶん、近隣のどの珈琲屋さんよりも美味しいだろう。
これは、淹れ方に特別なコツがある訳ではなく(微粉除去はまずまずプラスに貢献している感じだが)、単に、美味しい豆を買い置きしているからだ。
私の場合、珈琲を味を意識して飲み始めたのは中学3年生くらいの頃からだから、実は、珈琲歴の方がウィスキー歴よりも1年以上長い。珈琲については、語りたいことがいろいろあるのだが、またの機会にする。
珈琲がお好きな読者のために、豆の仕入れ元だけお知らせしておこう。
私は、銀座の「カフェ・ド・ランブル」の珈琲が好きだし(一番よく買うのはグァテマラ)、ここの豆は突出して美味いと思う。豆もいいのだろうし、関口一郎氏の焙煎もいいのだろう。買ってから日が経ってもお湯を注ぐとよく膨らむ「生きた豆」だ。
日本にもあちらこちらにあって、やや値段設定が高めの、某有名チェーン店のコーヒー豆などは、買ってきた日に自宅で淹れてみて、お湯を注いでもサッパリ膨らまないで、泡ばかりが出る。まるで珈琲豆の死体を洗っているような感じだし、現実に不味い。
嗜好品なので傾向別の好き嫌いはあるはずだが、まともな珈琲を味わった事のない方は、是非一度「カフェ・ド・ランブル」(http://www.h6.dion.ne.jp/~lambre/)の珈琲を試してみて欲しい。銀座でお会いしましょう!
コメント ( 38 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ | 次ページ » |