山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

レポート(2)

2016-12-15 23:11:07 | 九州「劇」派2016
九州劇派くまもと
拝啓 唐十郎さま「少女都市からの呼び声」より

公演レポート(2)ビバ!くまもと。

熊本地震を体験して、この劇は早稲田に止まらず、熊本でも公演するべきだと気持ちが固まりました。これは参加者全員の固い意志でもあった。
演劇が限られた人々にしか見せられないLive(ナマモノ)は承知の上で、それにも関わらず、見られた方々からの記憶や想像力によって社会(この場合、地域と言うべきか?)に波紋は広がるものだと信じているからです。どんな波紋だろうか?良し悪しはどうでも良いのです。・・・一石を投じることからハジマル。
この劇を簡単に言ってしまえば、ある男の手術中に見た夢の世界だと言ってしまうことができるかも知れない。夢落ち?
違うのです。唐十郎氏の劇作法はそれでは片付かない。マジックであり、夢の世界からの叛乱があるとです。
これは自論に過ぎないが、肥後もっこすや火の国の女の正体に芯の強さを歴史的に感じていました。これはとても熱い!マグマだ。
その熱さが劇の中心にもなっており、熱さとは虚構のエネルギーだとも言い換えることができるのです。
個人差はありますが、苦難によって強くなる人々が生きているのです。それを熊本地震によって理解できたことも事実としてあります。ジッと我慢する人もいれば、裏返しに笑顔を絶やさない人もいる。こういう人たちがいたから、私たちは心の支えになったものだと思うようになりました。
「少女都市〜」に於いても、妄想やマボロシの満州へ流れ込む時、少女都市の「少女」はガラスの子宮であり、都市はガラスの国家のようにも思える。ガラスは割れる。割れないガラスもあるのか!
つまり、特権的とは壊れやすいものだと思うのです。その証拠に本筋は肉体から転落した人々ばかりが登場する。その象徴が雪子であったり、時空を超えた国家=満州に繋がる。だがしかし、これは堂々とした詭弁です。その本質は男女の淫乱をも思わせるから狂気や恐怖があります。そして、道徳的な悪、タブーを笑ってしまうところもあり!
熊本は老若男女問わず、キレイどころが多いと主観しています。それ故、ここに生きる人々は落ち着かなくなる。町を歩けばウキウキする。妄想する。まるで日本にいながらにして、ラテン系になってしまうのです。ラテン系は楽観でもあり、恋に陥り易いのです。
この劇は楽観と悲観が重なり合い、快楽と苦痛がべったりハマってしまいます。
地方都市=くまもと、今、まさにこの劇がそのもののように思えたから不思議です。
1982年?に上演された新宿梁山泊の金守珍さんが言われた「これは私の人生そのものです。」が強く心に響きます。
言い換えれば、この町そのものの!
拝啓 唐十郎さま、
ビバ!くまもと。劇はこのメッセージとして返礼するものでもありました。

次は(3)わが愛する登場人物論に続きます。
個人的見解や内部の人間関係が見え隠れするでしょう。どうやら、役者は細胞のように分裂と増殖を繰り返しながら生きているのです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿