山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

少女◎制作ルポ(2)

2016-06-30 23:49:45 | 九州「劇」派2016
いつの頃からだろうか?ユニットを組んで演劇公演を行うことが多く見られるようになった。
1つの公演を実現させるための臨時劇団のようなものだ。公演ごとに出演者やスタッフを募集、又はオーディションを行い上演する。言い換えれば、プロデュース公演か。
この形式が目立つようになったのは1980年代半ば頃から1990年代にかけてか?同時に劇団では客演という現象も多く見られるようになった。
商業演劇ではその形式が当たり前のようにあった。国民的スターが舞台に立つと大きなカネが動くからである。役者 俳優に大きな商品価値があるから商業演劇は成り立ってきた。
小劇場界に於いても商業的な形式だけは普及してきた。新しい世代は演劇の商品化を目指しているのか。有料で公演することは商業-趣味を問わず結果、商品であることには間違いないのである。プロとアマの垣根が曖昧になってきていることも今の時代でもある。
おや?それにしても商品としての意味や価値観は違うぞ。そうは思うものの、まずは経済的な大きさが違う。イコール、それは数の問題でもある。数だけを問題にすれば小劇場は前提から商業に対して太刀打ちできないね。
ユニットを組むとは?当初は劇団自体の弱体化か、役者 俳優の自立化が進んできたのかとも思ったのだが、どうやら日本の経済事情にも大きく関係してきたようにも思う。日本のバブル経済がはじけたことに連動する現象だったように推測できる。役者 俳優が生活に追われるようになったのも事実。昔からそうであったのだろうが、生活に対する危機意識が高まってきたように思うのだ。
そう言った意味では唐十郎氏の「河原乞食」論を再考する価値がある。又、1960-70年代のアングラ劇=サブカルチャーとしての演劇や美術、音楽の登場は大きなエネルギーを感じるものがあった。世界を変える勢いがあった。つまり、既成概念をぶっ壊そうとするエネルギーが表現や文化にあったのだった。
今は商業や経済に飲み込まれているのではないだろうか?価値観の多様化と叫ばれつつも、詰まるところ、商業の大きな力が個々人の価値判断の中にどっぷりと浸かってしまったようにも思える。
商業化を真似ているのだが、そう簡単に演劇で儲けることや生活が安定することはない。とりわけ、小劇場は制作面に於いて模索することがつづく。これが現実だ。

今回、私たちは九州「劇」派という新しいユニットを作った。目的はspace早稲田演劇フェスティバル2016に参加するためだ。制作的にはゼロからのスタートを試みる。
否、ゼロではなく、マイナスからのスタートだと言っても良い。思いがけず、熊本震災が襲いかかった。

つづく。